「トリスタンとイゾルデ」
このページの末尾に、神話の解読法を簡略化し記述しましたので、そちらの方も是非ご覧下さい。
ライオネスの王リヴァリンは忠実な執事のリュア・リ・フワトナンに国政をたくし、海をわたってコーンウォールのマルク王を訪問しました。そしてティンタジェル城で、マルク王の妹ブランシュフルール姫をひとめ見て恋におちました。ブランシュフルールのほうでも、リヴァリンが好きになります。姫は王に身をまかせ、姫の胎内には子が宿りました。しばらくしてリヴァリンは自分の国が他国の兵の侵入をうけたという報をうけとりましたので、ブランシュフルールをともなって帰国しました。王は姫と正式に結婚し、戦いに出てゆきました。しかし王は戦死し、心優しい王妃は悲しみのために急に産気づきました。そして男の子が生まれましたが、弱っていた王妃はお産の苦しみのために亡くなってしまします。そしてリヴァリンとブランシュフルールは一緒に葬られました。忠実な家来であるリュアルの手に残された赤子はトリスタン(「悲しみの子」の意)と名づけられました。誕生にまつわる悲しいできごとのためです。
トリスタンは神の恵み深く、才能あふれる若者となりました。色白でたくましくかつ優美な体格をしていて、学問にすぐれ、また多くの国の言葉を楽に話せました。宮廷のたしなみにもすぐれ、狩や槍試合に始まって、ダンスやチェスにいたるまで、なんでも上手にこなすことができます。しかしとりわけ秀でていたのは、ハープの演奏と歌をうたうことでした。
ある日トリスタンはノルウェイの商人から、船の上で買物をしていました。商人たちはトリスタンをさらって奴隷に売ろうともくろんでおります。これほど美しく才能がある若者なら高い値をつけられるからです。彼らはそっと港から船を出しましたが、何が起きたかトリスタンが発見するやいなや、猛烈な嵐がおそってきて、まる一昼夜船をぐいぐい押していって、コーンウォールの岸辺に打ち上げました。トリスタンの容貌、才能、雅びなふるまいが人の目を引き、まもなく若者はティンタジェルの王宮につれてゆかれました。マルク王はハンサムな若者がすっかり気に入ってしまい、若者がみずからの甥だとはつゆしらず、宮廷の一員にとりたてます。
いっぽうのリュアルは若者をさがすため、徒歩で旅に出ます。三年ものあいだヨーロッパ中を経めぐり、ついにコーンウォールにやってきました。そしてトリスタンの風体にぴったりの若者がティンタジェルのマルク王のもとにいると聞きましたので、さっそくティンタジェルに行き、すっかり王のお気に入りとなったこの若者が、王の妹の息子であることを明かします。そこでトリスタンは騎士の身分に取り立てられたので、騎士としての高い名声を得たいものだと考えるようになりました。
マルク王がまだ幼かったころに、コーンウォールはアイルランドのアングイシュ王に征服されました。それ以後は五年ごとにアングイシュ王の義理の弟であるモロルドが王の名代としてコーンウォールにやってきて、貢ぎものを要求しました。三十人の貴族の若者を、農奴としてよこせというのです。これがいやならモロルドと一騎討ちを果たさなければならない。ところがこの男は見るも恐ろしいほどの武士だったので、誰ひとりとして名乗り出るものはおりませんでした。さて、貢ぎの時が近づいてきます。トリスタンはモロルドに挑戦しました。若く経験もない、トリスタンがです。
一騎討ちは沿岸沿いの小さな島で行われることになりました。敵味方の二騎はそれぞれ自分の船をこいで島に渡ります。島に着くとモロルドは船を島につなぎとめました。しかし、トリスタンの方は船を海に流します。
「なぜそのようなことをするのじゃ」とモロルドは訊きます。
「この島から生きて帰るのは、おまえか私のどちらかひとりだ」とトリスタンは答えました。モロルドはただカカカと笑いました。モロルドにとってトリスタンなど尻の青いヒヨッコ、敵として恐れるに足りません。闘いがはじまるとすぐに、モロルドはトリスタンの膝の上部に傷を負わせました。
「これでお前も一巻の終わりだ」とモロルドが言います。「わしの剣の刃には医者も知らない毒がぬってある。お前を救えるのは、わしの姉イゾルデ妃だけだ。降参するなら姉のところにつれていってやるぞ」
「降参などするものか」とトリスタンが答えました。「死が最後に待っているかもしれないが、まだ闘い終わっていない」こう言ってトリスタンはもう一度モロルドにかかってゆきます。
頭上に撃ち下ろした渾身の一撃が、モロルドの甲を割り、剣は頭蓋骨に食い込みました。トリスタンがこねるようにして剣を引き抜くと、剣は折れて、大きな破片が骨の中に残りました。これがモロルドの致命傷となります。モロルドは地面にどうと倒れ、トリスタンは首を切り落としました。家来たちは嘆きながら、大将のなきがらを抱えて国に帰りました。モロルドの姉のイゾルデ妃は、頭蓋骨に食い込んだ鋼のかけらを見つけ、それを取り除き、小箱にしまいました。
一方のトリスタン、膝の傷が膿んで腐りはじめ、悪臭は耐えがたいほどになりました。イゾルデ妃のみがそれを癒すことができることはわかっていましたが、同時に、妃は自分が死んでもトリスタンを殺したいほど憎んでいることも承知しております。しかしついにトリスタンは、ハープだけをたずさえて、アイルランドにむけて船出しました。ダブリンにやってくると、不潔な襤褸に身をやつし、ハープでえもいわれぬ曲を奏でましたので、たちまちトリスタンのまわりには人だかりができました。トリスタンは自分のことをタントリスという名の音楽家であると紹介し、海賊におそわれて負傷したのだと説明しました。タントリスはたちまちたいへんな評判となり、やがて王妃の命令で、宮廷にお呼びがかかります。王妃はタントリスの演奏に感銘をうけ、傷を直してやろうといいました。ただし条件があります。娘のイゾルデ姫に音楽を教えること、というのです。
姫は心を奪われるほど美しく、また呑みこみが早く、トリスタンが教えることは何でもたちまち覚えました。こうしてふたりがお互いに楽しく過ごすうちに、時間は飛ぶように去ってゆきました。傷が完全に癒えるとトリスタンはコーンウォールに帰ります。マルク王が大喜びしたことは言うまでもありません。トリスタンはダブリンのこと、王妃がいかに傷を治療してくれたか話しましたが、それにもまして、美しいイゾルデ姫のことを熱心に話しました。
さてトリスタンは篤く遇されたので、貴族たちの中には嫉妬心をいだく者が現れはじめました。またマルク王はトリスタンを後継者にするつもりだという噂が流れましたので、これらの奸臣たちはマルク王に、結婚してご自身の子どもをつくるようにと、夜となく昼となくしつこくせめたてました。
「よろしい」とついにマルク王が答えます。「誰と結婚しろというのだ」
「アイルランドのイゾルデ姫がよろしゅうございます」と貴族たちが勧めました。こうすれば、二国のあいだに永遠に和平がおとずれるであろうという理屈です。また、姫をもらいうけに行くのはトリスタンが適任だと言いました。トリスタンがモロルドの仇うちに遭って殺されることを、心の中で願ってのことです。
「絶対にならぬ。トリスタンは死にそうな目に遭いながら、お前たちの息子を奴隷の運命から救った恩人ではないか」
しかしトリスタンはみずから買って使者の役目をひきうけると言い出します。マルク王でもトリスタンの意思をひるがえさせることはできませんでした。トリスタンは百人の伴をつれ、商人に化けてウェクスフォードへと出発しました。到着してそこで商いをしているうちに、トリスタンは、魔性の竜が近くの谷を荒らしており、これを殺すことができる男に、王が自分の娘を褒美として与えるつもりであるという噂を耳にしました。次の朝早く、トリスタンは武具を身につけ、竜を求めて出かけます。トリスタンはまもなくこれを見つけ、最初の一撃で、あんぐりと開いた口の中に、えいとばかりに槍を突き刺しました。
そしてズズズと突っ込んでゆくと、槍は竜の心臓のほんの手前まで届いた。トリスタンも馬もあまりに激しく竜にぶつかったので、馬はそのまま死んでしまい、トリスタンは危ういところで難を逃れた。竜は馬を攻撃し、炎の下でそれをなめてから丸呑みにする。馬の前半身が鞍のあたりまで消えたとき、槍による苦痛が耐えがたくなり、竜は馬を捨て、岩場をめざして進みはじめた。トリスタンはすぐあとを追ってゆく。トリスタンはすぐあとを追ってゆく。トリスタンは竜を攻撃しましたが、竜が熱い炎と猛毒の煙をはき散らしましたので、ほとんど圧倒されそうになりました。しかし闘いをつづけるうちに、傷ついた竜がついに疲れ果てて地面にくずおれたところを、トリスタンは剣で心臓を一突きにします。竜が出した瀕死の喘ぎは、この地方全体を揺るがしました。
竜が死んだのを見て、トリスタンは力を込めて口をこじあけ、その舌を可能なかぎり長く剣で切りとり、それを鎧の胸板の中に押しこめた。トリスタンが手を離すと竜の口は音をたてて閉まった。ついでトリスタンは荒れ野に入ってゆく。力を回復するために、日中は人目を避けて休み、夜の帳が下りてから仲間のところに戻るつもりであった。ところが奮闘してみずから発した熱と竜の炎の熱のおかげで疲労衰弱し、そのためにほとんど息が絶えそうになった。と、そのとき、トリスタンは岩から大きな池に注いでいる清水の冷たいきらめきに気がついた。トリスタンは鎧をつけたまま流れに転がり込み、底まで沈んで、口だけを水面から出す。そのような状態でトリスタンはまるまる一昼夜過ごした。切りとって身につけてきた竜の魔の舌のせいでトリスタンは五感を失っていた。それから出る瘴気がトリスタンの力と精気を奪ってしまったのだ。
さて、王国の執事は長いあいだイゾルデ姫に思いをかけていて、結婚することを夢見ていました。竜の断末魔の咆哮が聞こえたとき、この執事はごく近くにおりました。トリスタンが池に姿を没したまさにその時に、執事は殺戮の場面に到着します。半分食いちぎられた馬と竜の死骸はありますが、勝利をおさめた騎士の姿がどこにも見えません。そこでこの男は竜を退治した報償を自分が要求してやろうともくろみました。男はさんざん苦労して竜の頭を切りとり、これを宮廷に持ち帰りました。自分が殺った証拠としてです。
イゾルデ姫はこれを見てぞっとしました。というのも姫は執事が大嫌いだったからです。しかし母の妃がイゾルデをなぐさめます。「竜を殺したのは絶対に執事ではありませんよ。そんなことができるほどの勇気はとてもありません。竜の巣窟にいって、真相はどうだったのか、見てまいりましょう」と妃が言いました。そこでふたりが小さな谷間に行きますと、そこには頭のない竜の死骸とトリスタンの馬の後ろ半分がありましたが、馬がつけているのはイギリス風の鞍と飾りつけでした。これで、そこには執事以外の誰かがいたことがわかりましたので、まわりを探してみたところ、水の中に甲がキラキラと輝いているではありませんか。ふたりは優しく騎士を池から引き上げてそこに寝かせ、その弱々しい脈に触れました。
「この男はきっと竜の毒がまわったのです」と妃が言います。「今ならかろうじて助けられるでしょう。鎧をゆるくして、新鮮な空気を吸わせてあげましょう」。胸板をとる段になって、ふたりはその後ろにくるりと丸まった竜の舌があるのに気づきました。ふたりの喜んだこと。これで執事の嘘がはっきりしたのです。顔に色が戻り、トリスタンは意識を取り戻しました。するとふたりは、これが愛する吟遊詩人のタントリスであることに気づきました。王妃は大喜びし、以後はずっと擁護し助けてやろうと誓いました。
ある日のこと、トリスタンが風呂に入っておりました。イゾルデはトリスタンの甲冑と武器をすべて磨き、修理するよう、従僕に指示を与え、自身はなにげなく剣を手にとって眺めてみました。イゾルデはそのとき初めて、刃の一部が欠けていることに気がつき、その形をじっくりと調べました。震える手で姫は母の小箱を取りにゆきました。その中には叔父モロルドの頭の刃創から取り出した鋼の破片が、大切に保管されているのです。破片合わせてみて、姫は愕然としました。ぴったり合ったのです。姫は、母と自分がまんまと騙されていたことに、強い怒りと憎しみをおぼえました。姫は剣をつかみ、風呂にすわっているトリスタンを見下ろした。
「トリスタン! あなたは実はトリスタンなのですね」
「いいえ、お姫さま、タントリスです」
「わたしにはすっかりわかっていますよ。あなたはタントリスとトリスタンの両方なのですね。でも、どちらも死なねばなりません。タントリスはトリスタンが私をだました罪で、トリスタンは叔父を殺した科で」
「おやめください、優しい姫さま。何をなさるのです。あなたの清いお名前のことをお考えになって、わたしをお助け下さい。あなたは女性、それも貴婦人です。もし、あなたが殺たなどという噂がたてば、イゾルデの名は永遠に汚れてしまいますよ・・・・・・」
ちょうどこのとき、妃である母親が戸口のところに入ってきた。「まあ。いったいどうなってるの。イゾルデ、それで何をしようというの。そんなこと女性のすることですか」
「ああ、お母さま、本当にひどい。わたしたちふたりとも騙されていたのです。この人はトリスタン、お母さまの弟を殺した敵です。今こそ、この剣でぐさりと復讐をとげるよい機会、これほどの機会はまたとありません」
「これがトリスタン? どうしてわかるの?」
「間違いありません、トリスタンだってこと。それがこの人の剣です。さあ、これと、その横の破片をよく見て下さい・・・・・・たった今、その破片を欠けているところに入れてみたの。ぴったりとひとつになりますわよ。ああ」
「イゾルデ、こんなことになるのなら、ああ、生まれてこなければよかった。これが本当にトリスタンなら、なぜ騙されたりしたのだろう」
イゾルデはもう一度トリスタンのところにかけよる。するとトリスタンがふたたび叫ぶ。
「おお、美しいお姫さま、ご慈悲を」
イゾルデの心の中では、怒りと、女の優しい本性という、ふたつのあい矛盾する感情が激しくしのぎを削っていた。イゾルデの怒りは敵を殺したいと思う。すると優しい女が「いいえ、そんなことしないで」とそっと囁く。という具合で、イゾルデの心はまっぷたつに割れている。同じ心が同時に酷くも優しくもある。美しい乙女は剣を投げ捨てたかと思うと、つぎの瞬間にはそれをふたたび拾いあげていた。悪をえらぶか善をえらぶか、頭で考えてもわからなかった。それを望みもすれば、望んでもいなかった。行動を起こしたくもあれば、抑えたくもあった。疑いがイゾルデの心を一方に傾ければ、また他方にも傾ける。が、ついに、優しい女が怒りに対して勝利をおさめ、憎い敵が生きのび、叔父の復讐はとりやめとなった。
イゾルデは剣を投げ捨てて泣き崩れた。「ああ、こんな悲しい日に生きてお目にかかるとは」
「愛しい娘よ」と賢明な王妃がなぐさめます。「悲しみはひとつでたくさん。弟の死は悲しいけれど、あなたが執事に嫁ぐことを思うと、怨みつらみは忘れなければ。トリスタンが死んでしまったら、きっとそうなってしまうのですよ」
「お妃さま、はっきりと申し上げておきましょう」とトリスタンが言う。「たとえ過去にあなたを害したとしても、今わたしの心にあるのは、お妃さまの名誉と幸せのみです。わたしの命を助けてくださいましたら、今の事態をこのうえなく幸せな結末に導く案をお話ししましょう」
と、トリスタンは、自分の目的が叔父のマルク王との結婚をイゾルデ姫に承諾してもらうことで、アイルランドとコーンウォールの敵対関係をすべて解消することであると、王妃に説明しました。王妃はことのほか喜び、王の賛成を得るよう努力しようと言いました。
翌日は、執事の竜退治の問題に決着をつける日です。
「皆々さま」と執事は宮廷中の人の前で述べました。「わたくしが今日ここに参りましたのは、わたくしの権利を主張するためであります。王さまは、竜を殺した者をイゾルデ姫と結婚させるとお約束されました。竜はわたくしが殺しました。この竜の頭がその証拠です」「王さま」とトリスタンが椅子から立ち上がりながら言います。「その頭をお調べ下さい。その中には舌はありますか?」
竜の顎が広げられ、舌が切り取られていることは、誰の目にも明らかとなった。トリスタンは舌を取り出し、卑怯な執事が行ったことを説明してみせました。執事は公の面前で恥をかかされ、名誉を失って退散しました。
このあとで、イゾルデとマルク王の婚儀に関する合意が、アングイシュ王とトリスタンのあいだで正式にとりかわされました。これには誰もが大喜びで賛成しました。トリスタンは貢ものとしてアイルランドに送られていたコーンウォールの男をできるかぎり探しだし、すべて船に乗せました。そうしてトリスタンは、イゾルデ姫をともなって自分の船に戻る準備をはじめます。
トリスタンと仲間たちが準備におおわらわになっているときのこと。イゾルデの母親である賢明なる王妃は、ガラス容器に愛の妙薬を準備した。これは巧みに調合された薬で、もしも男と女がそれをいっしょに飲めば、男のほうでは否が応でも、ほかの誰よりもその女を愛さずにはいられなくなり、また女のほうもその男しか愛せなくなるという、たいへんな作用をもった薬であった。これを飲めば、ふたりは喜びも悲しみもともに分かち、ひとつの生を生き、ひとつの死を死ぬことになる。
賢明な妃はこの薬を手にもって、ブランゲィンに内密に話した。「可愛い姪よ・・・・・・あなたには娘と一緒に行っていただかなくてはなりません。この薬が入った瓶をお持ちなさい。いつも身近のところに置き、持ち物の中で一番大切に保管してちょうだい。必ず、誰にもその存在を知らせぬこと。また、誰にものませないようとくに注意を払ってね。そして、これがあなたの特別の使命ですよ。イゾルデとマルク王の婚礼の儀がすんだら、この飲物をワインだといってふたりに注ぎ、全部飲ませるようにはからってくださいね。ほかの誰も一緒に飲ませてはいけないし、あなた自身も一緒に飲んではいけませんよ。これは愛の妙薬なのです。
「愛するお妃さま。お妃さまとお姫さまのおふたりがわたしの同行をお望みなのですから、喜んで参ります。そして力のおよぶかぎり、姫の名誉を守り、お世話申し上げましょう」とブランゲィンが答えた。
こうしてトリスタン、イゾルデ、そして待女たちが船にのって、コーンウォールをめざして港を出ました。あるときトリスタンがイゾルデの船室を訪いました。イゾルデのそばに座ってあれやこれやと話すうち、喉が渇いたので、飲物を持ってくるように命じた。
さて、部屋には姫のほか、数人の年歯のゆかぬ待女しかいなかった。「ほら、この小さな瓶にワインが入っているわ」とひとりが言った。いや、よく似てはいたが、それはワインではなかった。それはふたりの永遠の悲しみ、ふたりの永遠の魂の渇仰――その液体の中からふたりの死が生み出されてくるのだ。しかし待女はそのようなことは全く知らなかった。待女は瓶をトリスタンに渡し、トリスタンはそれをイゾルデに手渡す。しばらくしてからイゾルデは気乗りうすにそれを飲み、トリスタンに返した。そして今度はトリスタンが飲んだ。ふたりともそれがワインだと信じて疑わなかった。ちょうどその時、ブランゲィンが入ってきた。瓶を見て、ブランゲィンはただちに何が起きたか知った。大きなショックに慄然として、ブランゲィンの体からはふうっと力が抜け、死人のように真っ青になった。重い心をひきずりながら、ブランゲィンはその悲しい呪いの瓶をひったくり、部屋を出て、荒れ狂う海の中に投げ捨てた。
「おお、おお」とブランゲィンが嘆く。「この世に生まれてこなければよかった。わたしはお約束を守れなかった。名誉を失ってしまった。神さま、このような旅に出てしまったわたしを、とこしえにお憐れみください。この運命の旅路にイゾルデのお伴をせよといわれたときに、死がわたしを襲ってくれればよかった。おお、トリスタンとイゾルデよ、この飲物はあなたがたおふたりの死なのです。」
無邪気に毒を飲んでしまったとはつゆ知らず、トリスタンとイゾルデは強い愛の衝動を覚えはじめました。互いに互いを見つめ合い、ため息をつき、耐えがたいほどの希求を感じないのではいられないのです。旅路が果てる前に、ふたりは互いの気持ちを打ち明けあい、そしてそれに忠実に行動しました。するとふたりはすっかり優しい感情の虜になってしまったのです。
ブランゲィンだけが、何が起きたのかわかっていました。そして自分にも責任を感じていたので、できるかぎり恋人たちの手助けをしました。婚礼の日が近づいてくるにつれて、イゾルデはその夜のことが心配になってきました。イゾルデはもはや生娘ではなかったからです。そこで当夜はブランゲィンが、イゾルデの恥を隠すため、主人になりかわってマルク王の床に入り、自分自身の乙女を捧げたのでした。
何年ものあいだ、トリスタンとイゾルデは忠実なブランゲィンに助けられながら、自分たちの愛をかくすことに成功しました。しかしこのようなことが永遠に可能なはずがありません。ふたりを憎む者たちが噂を流しはじめ、そして王にまで直言するものが現れたのです。人を欺くことが大好きな、底意地の悪い侏儒のメロットが、トリスタンとイゾルデがときどき夜の逢瀬を果樹園で楽しんでいるのを見つけました。そこでメロットとマルク王は、小川の上に張り出している、古い巨大な林檎の木の枝のあいだに身をひそめました。トリスタンとイゾルデは、水面に映った王と侏儒の姿が見えたので、巧みにも、お互い全く愛しあってなどいないという素振りで、王の敵意をふたりに向けようとする邪な金棒引きたちにどう対抗すればよいかなどと話し合っているふりをしました。マルク王はこれで安心し、疑ったことを後悔しました。しかしほど経たずして、メロットはもう一度王を説得して、罠をかけさせました。トリスタンとブランゲィンを、王とイゾルデの部屋に呼び寄せます。そのあとで、王だけが早祷のために部屋を出るというものです。王はその通り行動しました。王が行ってしまうとすぐに、メロットは床の上、トリスタンの寝台とイゾルデの寝台のあいだに小麦を撒きました。トリスタンはこれを見て、罠が仕掛けられたことがわかりましたが、イゾルデを求める気持ちにはゆずれず、ふたつの寝台のあいだを一跳びでとび移りました。しかし不運なことにその日の午後に瀉血を受けていましたので、トリスタンの血管がひらき、シーツを血まみれにしてしまいます。事が終わるとトリスタンは自分の寝台にふたたび跳び移り、こちらのシーツも血だらけとなりました。戻ってきたマルク王は自分とトリスタンの両方の寝台の血を目にします。イゾルデは自分の血だと言いましたが、ふたりが自分を騙しているのだという王の確信はいっそう強くなりました。そこで王は、正式にイゾルデを試練にかけて、神意による裁判で決着をはかることにしました。
イゾルデの試練に立ち会うために、アーサー王と百人の身分の高い騎士たちがカメロットからやってきました。マルク王ならびに宮廷の人々も全員集まります。その中にはデノウラン、ゲィンロン、ゴドウィンという、イゾルデを告発した三人の者も含まれております。トリスタンはイゾルデの指示どおり癩病人に変装して、言いつけられた場所、すなわちマルパスという名で知られている沼地のわきで待機しております。この沼を渡らなければ、試練が行なわれる場所に行けないのです。
イゾルデ妃が到着しました。妃は小型馬から降りて、馬を先にやって、沼を渡らせました。妃は板の橋のところまでゆき、癩病人に話かけた。「ちょっとお願いがあります・・・・・・服を汚したくないので、わたしのロバになって、優しく板の上を渡して欲しいのです」
「いいえ、高貴な王妃さま」と男が答える。「そんなこと、わたしに頼まないでくださいまし。わたしときたら、癩病で、せむしで、片輪なのですから」
「ぐずぐずしないで」と王妃が言う。「さあ構えて、病気がうつるとでもお思い? 心配ご無用、うつりやしないわ」
「おやおや」と男が心の中で思う。「いったいどうするつもりだろう・・・・・・」この間、男はずっと松葉杖によりかかって立っていた。
「まあ、あなた、ずいぶん肥ってるわね。ほら、顔はあちらに向けて、背はこちらよ。殿方のように乗りますわよ」
癩病人はひとりニヤッと笑い、背中を妃に向けると、妃はそこに乗った。王たちも宮廷の人々も、皆がこの光景に注目している。男は杖を支えに立ち上がり、片方の脚を持ち上げ、他方で地面を踏みしめた。たびたび今にも転びそうな仕草をし、また苦悶の表情をしてみせた。美しいイゾルデは、またを開いて男の背に乗っている・・・・・・下僕たちが男をむかえようと走り寄ってきた。アーサー王も席をけり、他の者もそれに続いた。渡りおえると、男が顔を下にむけ、イゾルデは地面にすべり降りた。
さて準備がととのうと、火がたかれ、鉄の棒がその中で焼かれ、白く輝き出すまで熱せられました。
濃い鼠色の絹布が王のテントの前に置かれ、緑の草の上に大きく広げられた。その上には、さまざまな動物の姿が細かく刺繍されている。これはニケヤから買ってきたものであった。コーンウォールのありとあらゆる聖遺物が――宝物蔵、厨子などから――集められ・・・・・・この布の上にきちんと並べられた。
公正な決定を下したいと願っている王たちが、片側に寄った。いつもいきいきと演説するアーサー王がまず話した。「・・・・・・気高く清いイゾルデは一瞬の猶予も望んではいない。妃の試練を見にきたわかものたちにぜひご承知おきいただきたい。この裁判ののちも、羨望の気持ちから愚にもつかない告発を繰り返す者は、わたしが処すとな。そのような連中には死刑が相当じゃ。さていいかな、マルク王よ、どちらに罪があるのかわからぬが、貴賎を問わずすべての者に見えるよう、まず王妃に前に進んでいただこう。そしてこれら聖遺物の上に右手をかざし、天の王にむかって、あなたの甥に対して邪悪で恥ずべき愛をいだいておらぬと誓うのだ・・・・・・」
わが主アーサー王さま、わたしはどうすればよいのでしょう・・・・・・この草地で妃が汚名をはらしたのち、妃の名をふたたび汚すようなことを口にした者は、そのつぐないをさせるのですね・・・・・・」
そこで全員が位の順番どおり並んで座った。ただしふたりの王はイゾルデをはさんで立ち、それぞれイゾルデの手を握っている。ガウェインは聖遺物のそばに立ち、有名なアーサー王の宮廷の人々が絹布をとりまいて座った。
イゾルデに一番近い位置を占めていたアーサーが話し始めた。「よいかな、美しいイゾルデよ、そなたがどんな告発を受けているかわかっているな。トリスタンが伯父の妃を愛するのは当然だが、なにか不穏当な愛、恥ずべき愛をそなたに向けてはいないと誓いなさい」
「皆さまがた、今わたしの目の前には神聖な遺物がございます。これからわたしが誓うことをお聴きください。これによって王さまがご安心なさいますよう。神さま、聖ヒラリウスさま、わたしをお助けください。この神聖な場所にある聖遺物に誓って、また世界中の聖遺物に誓って、申し上げます。わたしの膝のあいだに割って入ったことがあるのは、わたしをこちらまで背負ってきたあの癩病の男と、わが夫マルク王のみでございます・・・・・・これで充分でなければ、おっしゃる通りいかようにも別の言いかたで誓いましょう」
「奥方よ」とアーサー王が答えて言った。「わたしの見るかぎりそれで充分だ。さあ、この鉄を手の中に持ちなさい。今そなたがお誓いになったことに、神様のご支持がありますよう」
「アーメン」と美しいイゾルデが祈る。神の御名において、イゾルデは鉄の棒をつかみ、そして握りしめたが、手は焼けなかった。こうして、全能のキリストは風に吹かれる袖のような存在であることが、公然と示され、世界中の人の知るところとなったのである。キリストは、どのような場所に置かれてもすみやかに形を変えて、ぴったりとそこにはまりこむ。真実のためであれ、虚偽のためであれ、誰の言うことも聞くのである。
こうしてマルク王の疑いは晴れましたが、王はトリスタンに他国の宮廷を訪問するよう言いました。トリスタンはこれに従います。数ヶ月たって、マルク王はトリスタンをコーンウォールに呼び戻しました。再開すると、トリスタンとイゾルデの目は輝き、青白く陰鬱にとざされていた頬と唇がもとのいきいきとした色に戻りました。そしてふたりの目はおたがい釘づけになってしまったのです。マルク王はこれでふたりが恋していることを知り、ふたりを自分の宮廷および国から公に追放しました。
トリスタンはイゾルデの手をとり、ハープ、剣、狩猟用の角笛と弓、お気に入りのフーディンという名の犬だけをたずさえて、宮廷を去りました。ふたりは森の中で簡素な生活を送りました。昼間は一日中外にいて、夜になると洞窟の中で丸くなって寝るのです。ふたりはこのうえもなく幸せでした。ある日マルク王が森で狩をしていて、ふたりが日の当たる場所で眠っているのを見つけました。幸運なことに、ふたりは離れて寝ており、トリスタンの抜き身の剣がふたりのあいだにありました。この光景を見たマルク王はいたく感動しました。王はふたりが潔く生きていて、王を裏切ったりしてはいないと思ったからです。木漏れ日がイゾルデの顔をさすのを見て、王は片方の手袋をぬぎ、顔にひがあたらぬよう、それの指を枝にからめました。そうしてトリスタンの剣を取り、かわりに自分の剣をそこにおいて、そっと立ち去りました。
マルク王は、トリスタンとイゾルデの無垢を確信したのでふたりを呼び戻したいと、家臣たちに告げました。王はふたりをたいそうな礼をもって迎えました。が、マルク王はイゾルデに対して愛情ふかくふるまいましたが、たえずイゾルデを監視させたので、ふたりは慎重に行動しなければなりませんでした。森の中の自由な生活とは大違いで、ふたりはみじめな気持ちになりました。監視され、離ればなれにされればされるほど、お互いをもとめる気持ちが強くなります。ついにふたりは大きな危険をものともせず、夜に逢うことにしました。ところが無念にもマルク王が突然やってきて、ふたりが床を共にしているのを見つけました。マルク王は家来や家臣を呼びに行きます。ふたりを断罪して牢に入れるためです。トリスタンは王が戻って行くのを見て、ふたりの命を救う唯一の道は、自分が国を去ることだと悟りました。ふたりは涙にくれながら濃やかに別れを告げ、お互いの指輪を交換しました。こうしてトリスタンはフランスにむけて旅立ちます。
悲しみを紛らすために、トリスタンは遍歴を始めました。ヨーロッパ中の宮廷をまわり、さまざまな挑戦や難題をひきうけるのです。アーサー王のところに行き、円卓の騎士ともなりました。トリスタンの武勲をものがたる、数多くの話が伝えられています。
最後にやってきたのがブルターニュでした。敵の侵入になやんでいる、そこの公爵を助けるためです。仕事がすんだあとも、トリスタンは宮廷にいつづけました。公爵の息子カヘルディンとの友情のためです。この若者には白い手のイゾルデという名の妹がおりましたが、娘はまもなくトリスタンを恋いこがれるようになりました。しかしトリスタンのほうでは、この娘はあくまでも友人の妹です。ある日のことトリスタンがひとり寂しく座って、ハープを弾きながら、イゾルデを思う悲しい歌を歌っていたところ、カヘルディンがこれを耳にしました。カヘルディンはついにトリスタンの悲しみの原因をつきとめたと思い、妹の妹のイゾルデをトリスタンと結婚させるよう、父を説得しました。最初はトリスタンも断るつもりでしたが、そうすると、相手の気持ちを傷つけてしまうし、それがいやなら、秘密にしていた、伯父の奥方との不倫をうちあけねばならなくなるので、やむなく同意しました。イゾルデは嫌どころではなく、すみやかに婚礼の儀とあいなりました。しかし、妻の横に寝てみて、トリスタンは自分がアイルランドのイゾルデしか抱くことができないのだと悟りました。そいうわけで、その夜、婚礼は完成にいたりませんでした。その後の夜も同様です。花嫁のプライドから、白い手のイゾルデは冷淡なトリスタンへの不満をけっして口にしませんでしたし、また自分がまだ処女だと誰にうちあけることもしませんでした。しかし、自分の美がこんなにまでも無視されたと、イゾルデはしだいに苦い気持ちをいだくようになりました。
ある日、イゾルデとカヘルディンが一緒に馬にのって散歩していたときのことです。突然イゾルデの馬が何かに驚いて、彼女をのせたまま大きな川の中に入ってゆきました。水しぶきがまいあがり、イゾルデの腿のあいだにも飛びました。イゾルデは笑って言います。
「この水は誰よりも大胆だわね。」カヘルディンがすぐ後ろにいて、この言葉を聞きつけました。ショックを受けたカヘルディンは説明するよう妹にせまり、イゾルデもついに結婚生活がどういう状態か、白状してしまったのです。妹がないがしろにされ、傷ついていることを怒ったカヘルディンは、ただちに城にかえり、トリスタンに問いただしました。
トリスタンは友人がこんなにまで腹を立てているのを悲しく思いました。そして、麗しのイゾルデのことを語り、たとえ妻であっても、こちらのイゾルデへの熱い気持ちを裏切ることはできないと話しました。カヘルディンは絶世の美女をこの目で見たいものだと言い出しました。そこでふたりは巡礼に身をやつして、コーンウォールへと向かいます。トリスタンはなんとかイゾルデに手紙を送り、ふたりは森の中で一夜をともにしました。昔ながらの愛の交歓を楽しんだことは言うまでもありません。しかしイゾルデへの監視はきびしく、また、コーンウォールにいつづけるのは危険でもありました。そこでふたりの友人はブルターニュに戻ります。白い手のイゾルデは兄が自分の味方をしてくれないのを見て、無言のうちに怒りをつのらせます。
たまたまそのころ、トリスタンは邪な騎士エストゥルト・ロルギルスと一騎討をしました。敵はやっつけましたが、その前に相手の毒をぬった槍の穂先がトリスタンの膝に深くつき刺さりました。トリスタンは苦痛にあえぎながら引き返してきました。毒は血管をめぐって全身にまわり、体中がふくれあがりました。ブルターニュ屈指の腕利きの医者がよばれましたが、なすすべはありません。トリスタンは以前に負傷したとき、アイルランドのイゾルデ妃になおしてもらったことを思い出しました。その技術は妃から娘のイゾルデへと受け継がれています。そこでトリスタンは、自分の指輪を持ってふたたびコーンウォールへと渡り、イゾルデに来るよう頼んでほしいと、カヘルディンに言いました。そして、首尾よくイゾルデをともなって帰ってきたら白い帆を、さもなくば黒い帆を船に上げるよう頼みました。白い手のイゾルデがふたりの話を盗み聞きしていました。イゾルデの心は怒りと嫉妬でいっぱいになります。しかしそれは表にださず、なにくわぬ顔をしながら、夫を優しく介抱するのでした。
カヘルディンはイゾルデ妃と謁見することができました。カヘルディンはさっそく王妃にトリスタンからの伝言をつたえ、指輪をわたしました。どうすべきか、心は決まっています。ただちにイゾルデは薬を調合し、カヘルディンと旅立つ準備をはじめました。その夜にはもう船に乗り、ブルターニュの岩だらけの海岸をめざしたのです。湾に入ろうかという時になって、一向は凪にあってしまいました。こうなるともう全く進むことができません。
トリスタンはきわめて惨めであった。イゾルデに会いたいと、ひきりなしにうめいたりため息をついたりした。目からは涙が雨とふりそそぎ、体は展転反側、かなわない望みに息も絶えだえであった。トリスタンがこのような苦痛と苦悩の中にいるときに、妻のイゾルデが目の前に立った。嘘を心に抱きながら妻が言う。「愛しい人、カヘルディンがもう戻って参りますよ。海の上に船が見えました。進むのにずいぶん苦労しているようです。でも、カヘルディンの船だってことははっきりとわかりますわよ。あなたの心にあたらしい力が湧いてくるような、よい報らせを運んできてくれますよう」
これを聞いてトリスタンは震えながら身を起こし、イゾルデに言った。「カヘルディンの船だということは確かだろうね。教えておくれ。どんな帆が上がっている?」
これにイゾルデが答える。「確かですわ。帆は真っ黒、風が弱いので高く上げていますわ」
この報らせを聞いたトリスタンの苦悶ははかりしれなかった。これほどの心のいたみは、今まで経験したこともなければ、これからもありそうになかった。顔を壁にむけて、トリスタンが話す。「神よ、イゾルデとわたしをお救いください。あなたはわたしのところに来ることを望まなかった。わたしはあなたへの愛のために死にます。もう力が尽きました。これ以上、生にしがみついていられません。イゾルデよ、愛しい人よ、わたしはあなたのために死ぬのです」。これにつづいて、三度「イゾルデ、愛しいひとよ」と繰り返したが、四度めに息が絶えてしまった。
王宮のいたるところで、騎士たち、友人たちが泣いた。彼らは号泣してなげき悲しんだ。騎士たちと家来たちが立ち上がって、寝台から遺骸を持ち上げた。遺骸は金襴織りの布の上に安置され、縞模様の屍衣がかけられた。
やがて海の上では風が立って帆がふくらみ、船を陸まではこんできた。イゾルデが船からおりると、通りで嘆く大勢の人々の声と、教会や礼拝堂の鐘の音が聞こえてきた。イゾルデは、何が起きたのか、誰のために鐘が鳴っているのかとたずねる。ある老人が答えて言う。「美しいお姫さま、ああどうしてよいことやら、こんな悲しいできごとは初めてです。高貴なトリスタンが、勇敢なトリスタンが、亡くなったのです。この地方でこれほど残念なことが起きたことはいまだかつてありません」
この知らせを聞いた瞬間、イゾルデは悲しみで口がふさがってしまった。あまりにも大きなショックに、イゾルデは被りものもわすれて、人の先頭に立って王宮へと急いだ・・・・・・イゾルデはトリスタンの遺骸が安置されているところにやってきた。イゾルデは東のほうをむいて、悲しい調子でトリスタンのために祈りをあげる。「トリスタン、わたしが愛したのはあなただけ。あなたが亡くなっておしまいになったからには、わたしには生きる理由はもうありません。あなたはわたしを愛したので死にました。愛しい人、わたしは無念の気持ちで世を去ります。あなたの傷をなおしてあげることができなかったから。愛しい人よ、愛しい人よ、あなたが亡くなった悲しみはけっして癒されることはないでしょう・・・・・・」
イゾルデはトリスタンを抱擁し、寝台の上の遺骸に添い伏した。唇と顔に口づけし、トリスタンを両腕の中にしっかりと抱きしめ、体と体、口と口をぴったりと合わせた。その瞬間にイゾルデの息は絶えた。愛する人の横で、愛する人を失った悲しみから死んでしまったのである。
さまざまの物語の伝えるところでは、その後、ふたりの遺骸はコーンウォールに運ばれ、マルク王の手によって、ティンタジェルにならんで葬られたということです。ふたりの遺骸からは葡萄のつたと薔薇が生えました。二本の木は枝をたがいにしっかりとからみ合わせたので、二本を分けることは誰にもできなかったといいます。
● 神話の解読法 ●
神話を理解するのには、ある程度の能力(技術)を必要とします。神話は比喩的表現を多用します。あるいは、全部が比喩だと言っても過言ではありません。その比喩的表現をどの様に解釈するかが、読む人にとって重要な“鍵”になります。本当に大切な“鍵”です。この時点でひと度間違ってしまえば、読んだその人にとって神話は単なる寓話に過ぎなくなってしまいますし、あるいはそれとは逆に、神話を信じ込む余り、神話に登場する主人公や他の登場人物と全く同じ行動様式、全く同じ心的形式を採ろうとしてしまいます。これらは危険な方向です。いいでしょうか? これは物語なのです。さて、比喩的表現に関してですが、例えば、上記「トリスタンとイゾルデ」中に、『王が竜を退治した者に、自分の娘イゾルデを褒美として与える』といったくだりがあります。現代では、竜は存在はしませんが、それでは、中世には存在したのでしょうか? 存在する訳がありません。存在したのならば、自然史博物館に展示されているはずです。(笑) それでは、竜とは一体何でしょうか? 端的に申し上げます。一般的にヨーロッパにおける“竜”とは、自我を意味します。(アジア圏においては、異なります。) つまり、アングイシュ王は、『自我を退治した者にだけ、結婚が許されるのだ。』と言っているのです。どうでしょうか? ある意味それは真実だと言いえます。それから前述に関して、一点だけご忠告申し上げなければならないことがあります。“自我を退治する”ということで、自身の自我を本気で殺そうとすることには、僕は絶対に反対です。『自分の自我を殺す』のではなく、『自分の今ある自我の状態をつかみコントロールしようと努力する』程度のもので良いと思っています。極端な行動に出れば、その先には精神的にも肉体的にも破滅が必ず待機しているからです。自我を殺すことができる人というのは、本当に特別な人間なのです。何せ僕らはごく平凡な人間なのですから、自我を意識する程度で十分人生を全うできると思います。
神話を理解する上で、役立つのは哲学や心理学はもちろんのこと、他の学問も役に立つとは思いますが、それにも増して役立つのは、個人個人の柔軟なイマジネーションだと思います。
“トリスタンとイゾルデ”をテキストに、簡単な例をあげましょう。これは、僕の個人的見解なので、反論はあると思いますが、ひとつのサンプルとして受け止めてみてください。――トリスタンとイゾルデは、“愛の妙薬”によって愛し合ったが、果たして“愛の妙薬”は二人にとって本当に必要だったのだろうか? それ以前にすでに二人は愛し合っていたではないか? “愛の妙薬”など無くてもいずれ二人は深く愛し合うことは誰の目から見ても明白だ。だとすると、“愛の妙薬”とは・・・・・・?、この物語において“愛の妙薬”の存在が最もその効力を発揮するのは・・・・・・?、そうか! 最後にトリスタンが死んだ後に、イゾルデが彼の後を追って死んでしまう。そのイゾルデの死に対する理由付けではないか? つまり、“愛の妙薬”の効力とは、“愛し合う者同士の人生を共に最後まで共有し合う”という効力と、そして、“様々な概念に邪魔されて当人同士がまだ気付いていない無意識の中にある相手に対する愛そのものを意識化させる”という効力なのだ! そして、しかもその“愛の妙薬”とはひとつの象徴に過ぎない。本物の“愛の妙薬”とは、勇気と誠実さそののものなのだ!――と、こう考えるだけでも至極楽しいものです。楽しく考えて自分なりの実践方法を自分なりに創造し、実行に移してこそ初めて神話は生きた物語となります。
神話(本)と個人(読者)との対話において、単なる空想は荒唐無稽な幻想を生むだけですが、自由かつ柔軟な創造的イマジネーションを膨らませれば、自身を含め人々の生活は実に意味深いものだと感じるはずです。
世の中には、「竜? 愛の妙薬? そんな物この世に存在しません。」などと短絡的に平然とやらかす人間は、以外や以外たくさんいるのも事実です。僕から見れば、そういう人たちは、自己の創造性の欠如に気付かずに、さらにそれが故に(実はこの問題は、教育の問題だと考えております)消極的(ネガティブ)になって、自身の人生を無意味なものにさせてしまっていると思えます。例えば、「自分はこれまで人と較べると大したお金を得なかった。子供たちにも大した財産を残せなかった。だから自分のこれまでの人生は、全く無意味なものだった。」なーんてネっ! そんなこと全然ないのに! そういったネガティブな人々に限って、精神的な物事に対する恥じらいからなのか? あえて拒絶しながらも、いつもいつも無意識下で精神的枯渇に喘ぎ、夜空の星々を眺める代わりに、自宅の床の傷を異常なほどまでに気にかけている人たちなんです。あるいは、自分の持つ自動車の傷などを・・・・・・、実はそんな心労はこの世の中で、善い方向へと向おうとするのには、何の役にも立ちません。
さて、最後に。世界中の神話あるいは世界中の神話的なものが芸術や文化からその姿を消してしまったら・・・・・・、それこそ、芸術や文化は無味乾燥なものになってしまったでしょう。想像してみてください。例えば建築物において、ロマネスク様式やゴシック様式や各種宮殿の建築様式、あるいは各種庭園の様式など全く存在せず、世界の全ての建築物がただ高いだけののっぺりとしたメタリックで無機質な物ばかりになってしまったら・・・・・・、また、その中で我々人間が生活するとしたら・・・・・・、恐らく精神病患者が多量に発生してしまうでしょう。事実、計画的に都市を再生させようとした、日本のとある都市では、これまでには僕らが考えられようもない犯罪が多発しています。僕たちは、もう一度広義の意において本当の“自然”というものを真剣に考えてみる時期に差し掛かったのではないでしょうか?
尚、「トリスタンとイゾルデ」物語は、作者によって内容が多少変化しております。例えばワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」もまた、上記の物語とは多少趣が異なりますので、どうかこの点をご注意のうえ、お楽しみいただけますようお願い申し上げます。