ジェイムズ・ジョイス(James Joyce) 1882-1941
イギリスの小説家。アイルランド生まれ。内的独白を用い、個人の意識の流れを描く心理主義文学の推進者。(広辞苑から)
代表作「ユリシーズ」「フィネガンズ・ウェイク」「タブリン市民」「若い芸術家の肖像」
「若い芸術家の肖像」(丸谷才一訳/新潮文庫)から抜粋
二人は煙草に火をつけて、右へまわった。ちょっと立ち止まると、スティーヴンがしゃべりはじめた。
―――アリストテレスは憐憫と恐怖を定義しなかった。ぼくはしたんだ。ぼくに言わせれば・・・・・・
リンチは立ち止まると,ぶっきらぼうに言った。
―――よせよ。聞きたくないから。気分が悪いんだ。おれはゆうべホーランやゴギンズと出かけて、黄いろくなるほどよっぱらってしまった。
スティーヴンはつづけた。
―――憐憫というのは人間の苦しみのなかで、厳粛なものや変らないものにぶつかったとき、精神を引きとどめておき、それを苦しむ人間に結びつける感情なのだ。恐怖というのは人間の苦しみのなかで、厳粛なものや変らないものにぶつかったとき、精神を引きとどめておき、それをひそかな原因に結びつける感情なのだ。
<中略>
―――悲劇的な感情は、事実、二つの方向を向いている顔なのだ。恐怖と憐憫との二つがその相なんだね。君はぼくが「引きとどめる」という言葉を使ったことで判ると思うが、悲劇的な感情は静的という意味なのだ。と言うよりも、劇的な感情が、と言った方がいいかも知れない。よくない芸術によってかきたてられる感情は、欲望や嫌悪のような動的なものだ。欲望はぼくたちに所有させようとしたり、何かに赴くように駆りたてる。嫌悪はぼくたちに何かを捨てさせたり、何かから離れるように駆りたてる。そういう欲求や嫌悪をうながすような芸術は、従って、猥褻なものにせよ、教訓的なものにせよ、よくない芸術だ。審美的な感情は(ぼくは一般的な用語を使ったんだけど)、従って静的なものだ。精神に引きとめられ、高められて、欲望や嫌悪を超越する。
<中略>
―――だが、ぼくたちはいま、精神の世界を論じている、とスティーヴンはつづけた。よくない審美的手段によって惹きおこされた欲望だの、嫌悪だのが、ほんとうに審美的な感情と言えないのは、その性質が動的だというだけでなく、肉体的にすぎないというせいなのだ。ぼくたちの肉体が嫌悪するものから尻ごみしたり、望ましいものの刺戟に応じたりするのは、神経組織の、純粋に反射的な作用によるんだ。蝿が眼に飛びこんでくる前に、瞼はとじるだろう。
―――いつもそうとは言えない、とリンチが批判がましく言った。
―――同様に、とスティーヴンは言った。君の肉体は裸の像の刺戟に反応を示した。けれど、それはたん神経の反射作用にすぎないだろうね。芸術家によって表現された美は、ぼくたちに動的な感情や、純粋に肉体的な感情を呼びおこすべきもの、誘発する、と言うか、誘発すべきもの、それは審美的な静止なんだ。理想的な憐憫、理想的な恐怖の状態なんだ。僕が美のリズムと呼ぶものによって呼びおこされ、引き延ばされ、ついに解消される静止なんだ。
―――正確に言って、それは何だい? とリンチは訊ねた。
―――リズムとは、とスティーヴンは言った。ある審美的な全体がある場合、そのなかでの部分と部分との形式的・審美的な関係の最も重要なものだし、または、審美的な全体とその一部分ないしいくつかの部分との形式的・審美的な関係、あるいは、ある審美的な全体の一部分とその全体との形式的・審美的な関係の最も重要なものなのだ。
―――もしそれがリズムなら、とリンチが言った。君が美と呼ぶものについて聞かせてもらおう。それに、覚えておいてもらいたいが、なるほどぼくは牛の糞は食ったが、ぼくが讃美するのはただ美だけなんだからね。
スティーヴンは帽子をあげて会釈するような様子をした。それからやや顔をあからめて、リンチの厚いツイードの袖に手をかけた。
―――ぼくたちが正しいんだ、と彼は言った。そして他の人たちが間違っている。これらのものについて語り、その本質を理解しようと努めること、そして、それを理解してしまえば、粗大な大地や、それを生み出すものから、あるいはぼくたちの魂の監獄の門である音や形や色から、ぼくたちが理解するようになった美の映像をゆっくりと、つつましく、たえず表現し、表現しつくすこと―――それが芸術だ。
<中略>
―――芸術は、とスティーヴンが言った。感覚的ないし知的な事柄を審美的目的のために処理することなのだ。君は豚のことは覚えていて、そっちのほうは忘れている。君とクランリーは、まったくいらいらさせる好一対だぜ。
リンチはひんやりした灰いろの空に向かって顔をしかめ、こう言った。
―――君の審美哲学を拝聴しなくちゃならないなら、せめてもう一本煙草をくれ。ぼくは一向かまわない。女だってどうでもいい。君でも、誰でもみんな糞くらえだ。ぼくは一年五百ポンドの仕事がほしい。君に頼んでも無理だろうがね。
スティーヴンは煙草の箱を渡した。リンチは残りの一本を取ると、こう言った。
―――つづけたまえ。
―――アクイナスは、とスティーヴンは言った。認識して快いものは美だ、と言っている。
リンチはうなずいた。
―――覚えているよ、と彼は言った。「見て快いものは美である。(プルクラ・スント・クアエ・ウイサ・プラセント)」
―――彼は「見て(ウイサ)」という言葉を使っているが、とスティーヴンが言った。視覚を通してであろうと、聴覚を通してであろうと、あるいはどんな認識器官を通じてであろうと、あらゆる種類の認識を含めているんだ。この言葉は曖昧だが、欲望や嫌悪をかきたてる善や悪をじゅうぶん明晰に排除している。これはたしかに静止状態であって、動的状態ではない。真についてはどうか? これもまた、精神の静止状態をつくりだす。君だって直角三角形の斜辺に鉛筆で名前を書いたりしないだろう。
―――そうとも、とリンチが言った。プラクシテレスのヴィーナスの斜辺なら別だが。
―――だから静的なのさ、とスティーヴンが言った。プラトンがたしか、美は真理の輝きと言ったと思う。その意味は、真と美とは密接な関係があると言っているにすぎない。真理は、理智によって把握されるものの、最も満足を与える関係によって和らげられた知性によって眺められるし、美は、感覚されうるものの、最も満足を与える関係によって和らげられた想像力によって眺められる。真理の方向に向かっての第一歩は知性自体の構造と範囲を理解すること、つまり、思惟作用そのものを把握することだ。アリストテレス哲学の全体系は彼の心理学の本によっているが、それは、ぼくが考えるには、同じ属性は同時に、同じ関係で、同じ主体に属していながら、属さない、などということはありえないという彼の説によっている。美の方向への第一歩は想像力の構造と範囲を理解すること、審美的認識作用そのものを把握することなんだ。これではっきりしたかね?
―――けれど、美とは何なのだ、とリンチがじれったそうに訊ねた。もう一つ定義をしてくれ。ぼくたちが見ることができて、好きになれるものがいい。アクイナスや君はその程度しかできないのかい。
―――女を例にとろうか、とスティーヴンが言った。
―――うん、例にとろう、とリンチが熱を帯びた口調で言った。
―――ギリシア人、トルコ人、中国人、コプト人、ホッテントット、とスティーヴンが言った。それぞれがみんな違った型の女性美を讃美している。これは、ぼくたちが逃げ出せない迷路のように思える。けれど、出口は二つあると思う。一つはこういう仮説なんだ。つまり男が讃美する女の肉体的特質は種族繁殖のための女性のさまざまな機能と直接の関係がある。多分そうかもしれない。どうやら、世界は君が想像するよりももっと憂鬱なところらしいぜ、リンチ。ぼくとしては、この出口は好きじゃない。この道のゆきつくさきは美学じゃなくて優生学なのさ。迷路からは抜け出せるかもしれないが、新しくて、けばけばしい講義室に通じている。マカンが片手を『種の起源』の上に置き、片手を新約聖書の上において講義するだろう。君がヴィーナスの豊かな脇腹を讃美したのは、彼女が君のためにたくましい子孫を生んでくれるからだし、豊かな乳房を讃美したのは、彼女が君と君の子供たちにたっぷり乳を出してくれるからだ、とね。
―――じゃあマカンは硫黄みたいに黄いろい大嘘つきだ、とリンチが力をこめて言った。
―――まだもう一つ出口が残っている、とスティーヴンが笑いながら言った。
―――すなわち? とリンチが言った。
―――こういう仮説さ、とスティーヴンがはじめた。
古鉄材を積んだ長い荷馬車がサー・パトリック・ダン病院の角を曲ってやって来て、スティーヴンの話しの終わりの部分を、鳴り響く耳ざわりな騒音で消してしまった。リンチは耳を蔽い、荷馬車が通り過ぎてしまうまで、くりかえし、くりかえし罵った。それから荒ら荒らしく踵を返した。スティーヴンもくるりと向き直って、相手の鬱憤が晴れてしまうまでしばらく待っていた。
―――もう一つの出口はこういう仮説さ、とスティーヴンがくりかえした。つまり、同じ物体があらゆる人々に美しく見えるようなことはないだろうが、美しい物体を讃美する人々はすべて、そのなかにあらゆる審美的な認識のいろいろな段階を満足させ、合致するある関係を見出いす、というわけだ。君にはある形で見え、僕には別の形で見える。感覚されうるもののこういう関係は、従って美には必要な特質にちがいない。さて、ほんのちょっぴりお智慧を拝借するために、わが旧友聖トマスを引用してもいいね。
リンチは笑った。
―――まったく笑わせるよ、と彼は言った。君が何べんも、愉快な肥った坊さんみたいに、聖トマスを引用するのを聞くのは。君もかげではこっそり笑っているんだろう?
―――マカリスターなら、とスティーヴンは答えた。ぼくの審美的理論を応用アクイナス学と呼ぶところだろう。審美哲学のこの面についていえば、アクイナスは僕の議論をうまく運んでくれる。ぼくたちが芸術的受胎や芸術的懐胎や芸術的生殖という現象を論じるとなれば、新しい用語や、新しい個人的体験が必要になってくるけどね。
<中略>
―――美についてぼくが言っていっていたことを片づけるとするとだね、スティーヴンは言った。したがって、感覚によってとらえられるものの、最も満足すべき関係は、芸術的認識の必要な諸相に応じるにちがいない。それらのものを見つければ、普遍的な美の特質が見つかるわけさ。アクイナスはこう言っている。「アド・プルクリトゥディネム・トゥリア・レクイルントール・インテグリタス・コンソナンティア・クラリタス」翻訳すれば、「三つのものが美には必要である。全体性、調和、そして光輝」となる。これらのものは、認識の諸相に応じるだろうか? ここまではいいね?
―――もちろん、おれには判るさ、とリンチは言った。おれの頭が糞あたまだと思うんなら、ドノヴァンを追っかけてって、頼むから話しを聞いてくれとお願いするんだな。
スティーヴンは、肉屋の小僧がさかさにして頭にかぶっている籠を指さした。
―――あの籠を見ろよ、と彼は言った。
―――うん、見てる、とリンチが言う。
―――あの籠を見るためには、とスティーヴンは言った。まず、君の心が、見ることのできる宇宙の、籠ではないほかの部分からあの籠を切り離すわけだ。認識の第一の相は、認識されるもののまわりに引かれる境界線なんだよ。審美的映像は、空間あるいは時間において、われわれに提出される。聴覚でとらえられるものは時間において、視覚でとらえられるものは空間において、提出されるんだ。ところが、時間的であろうと空間的であろうと、審美的な映像は最初、それとは異なる時間ないし空間の尨大な背景に対立する、自分の境界を持ち自分の内容を持つものとして、鮮やかに認識される。君はそれを「一つの」ものとして認識した。そして今度はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ。これが全体性(インテグリタス)なのさ。
―――お見事! と笑いながらリンチが言った。つづけてくれ。
―――それから、とスティーヴンは言った。君はそれの形の線に導かれて、点から点へと眼を移してゆく。君はそれを、その限界内で均斉のとれている部分部分として認識する。その構造のリズムを感じるわけだ。言いかえるならば、直接的な知覚の綜合につづいて認識の分析がおこなわれる。まず「一つの」ものであると感じてから、今度はそれが「もの」だと感じるわけさ。君はそれを複雑な、多様な、分ち得る、切り離し得る、いくつかの部分から成り立っているものとして認識する。そういういくつかの部分の結果と総体とを調和的だと認識するわけだが、これが調和(コンソナンテイア)なのさ。
―――またもやお見事! とリンチは、気のきいた口調でいった。今度は光輝(クラリタス)とは何なのか説明してくれたら、葉巻を一本やるぜ。
―――この言葉の内包はかなり曖昧だ、とスティーヴンは言った。アクイナスの用語は不正確だと思うな。ぼくはずいぶん長いあいだ迷ったよ。彼はシンボリズムとかアイディアリズムとかを念頭においてたんだと信じたくなるだろう。美の至高の特質は、どこか別の世界から来る光、つまり観念とか実体とかで、物質は観念の影にすぎず、実体の象徴にすぎない、なんて考えたくなる。「クラリタス」というのは、何かの事物における神意の芸術的発見と再現で、つまり審美的イメージを普遍的なものにし、それを本来の状態以上に光らせる普遍化の力ということを意味していたんじゃないかと考えた。ところがあれは文学的表現なんですよ。ぼくはそう理解しているね。君があの籠を一つのものとして認識し、それからその形に従って分析し、それをものとして認識したとき、君は論理的にも審美的にも許容し得る唯一の綜合をおこなっているんだ。君はあの籠がまさにそのものであって、ほかの何ものでもないということを知ったわけだ。彼がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであるもの」という言葉で言っているのが光輝なのさ。この至高の徳性は、審美的映像が芸術家の創造力に宿ったとたん、芸術家によって感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリーは燃えつきる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美のこういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝しくて静寂な状態だよね。これはイタリアの生物学者ルイジ・ガルヴァーニが、シェリーのものに負けず劣らず美しい言葉で心の魅惑と呼んだ心臓の状態に、非常に近い霊的状態なんだけれど。
スティーヴンは言葉を切った。そして相手は何も言わないけれども、自分の言葉が二人のまわりに、思索によって魅惑された静寂を呼び起こしたということを感じた。
―――ぼくがいま言ったことは、と彼はまたはじめた。言葉の広い意味での美を指している。つまり、この言葉が文学的伝統のなかで持っている意味。世間では別の意味があるけどね。言葉の第二の意味で美について語るときは、われわれの判断はまず芸術それ自体によって、それからその芸術の形式によって、影響を受ける。映像は芸術家じしんの心、あるいは感覚と、他人の心あるいは感覚のあいだに置かれなくちゃならない。これは明らかな話しだ。このことを念頭にとめておけば、芸術は必然的に、次々に進んでゆく三つの形式に別れる、ということが判ってくる。その三つの形式というのはこうです。情緒的形式。これは芸術家が自分の映像を自分との直接的な関係で提示する形式。叙事的形式。これは芸術家が自分のイメージを、自分および他人に対する間接的関係において提示する形式。劇的形式。これは芸術家が自分の映像を、他人に対する直接的な関係において提示する形式。
―――そいつはこのあいだの晩、聞かせてもらった、とリンチが言った。それでおれたち、すげえ議論をはじめたじゃないか。
―――うちに帰ればノートがあるけどね、とスティーヴンが言った。それには君が言った問題よりも面白いのが書きとめられてあるんだ。その問題の答えを見つけようとしているうちに、ぼくは美学理論を考え出したのさ。そいつをいま説明しているわけだけれど。ぼくが自分に出した問題はこういうものなんだよ。「綺麗に作られた椅子は悲劇的か、喜劇的か? ぼくがそれを見たいと思うなら、モナ・リザの肖像は優れているのか? サー・フィリップ・クラムトン(訳注:十九世紀のタブリンの名医)の胸像は抒情的か、叙事的か、劇的か? もしそうでなければ、なぜか?」
―――なぜなんだい? まったくの話し、と笑いながらリンチが言う。
―――「もし誰かが腹を立てて木の塊をめちゃめちゃに切り刻み」、とスティーヴンはつづけた。「牛の像をこしらえたなら、その像は芸術品なのか? もしそうでないならなぜか?」
―――こいつはおもしろいや、とまた笑いながらリンチが言った。正真正銘のスコラの匂いがするぜ。
―――レッシングは、群像を材料にとって(注訳:『ラオコーン』を指す)書くべきじゃなかったんだ、とスティーヴンは言った。彫刻は程度の低い芸術だから、ぼくの言った形式を一つ一つはっきり区別して提示してはいない。いちばん高級でいちばん精神的な芸術である文学でも、形式はしょちゅういりまじっている。抒情的形式というのは、事実、一瞬の情緒に着せる、最も単純な言葉の衣服なんだ。遠い昔、オールを漕いだり坂道で石を引っ張りあげたりする人を励ました、リズミカルな叫びがそうなのさ。それを叫んでいる人間は、情緒を感じている自分よりも、むしろその一瞬の情緒のほうをずっと多く意識しているんだ。いちばん単純な叙事形式というのは、芸術家が叙事的事件の中心としての自分を延長し、そういう自分について考えるときに、叙情文学から現れてくるものだ。そしてこの形式は進展して、ついには、情緒の重力の中心が芸術家じしんからと他人からと同距離になるんだよ。叙述というのはもう純粋に個人的なものではない。芸術家の個性は叙述そのものになって、いろいろな個人と行為のまわりを、活気にあふれた海のようにながれるわけさ。こういう発展の仕方は、あの古いイギリスのバラッド『英雄ターピン』に容易に見てとれるものだ。この詩は一人称ではじまって三人称で終わってるんだよ。劇的形式に到達するのは、それぞれの人物のまわりを流れ渦巻いていた生命力が、あらゆる人物に活気を与え、その結果、彼ないし彼女が固有の、そして触知しがたい、審美的生命を身につけるようになったときの話しだ。芸術家の個性というのは、最初は叫びとか韻律とか気分なんで、それがやがて流動的で優しく輝く叙述になり、ついには洗練の極、存在しなくなり、いわば没個性的なものになる。劇的形式における審美的映像というのは、人間の想像力のなかで洗練され、人間の想像力からふたたび投影された生命なんだ。美の神秘というのは、宇宙創造のそれみたいにして成就される。芸術家は、宇宙創造の神と同じように、自分の細工物の内部か、後ろか、彼方か、それとも上にいて、姿は見えないし、洗練の極、存在をなくしているし、無関心になってるし、まあ、爪でも切っているんだな。
―――爪も洗練させて、存在しなくしようってわけか、とリンチが言った。
ヴェールをかけたような空から細かな雨が降り出したので、彼らは驟雨にならないうち国立図書館へたどり着こうとして、デュークス・ローンのほうへ曲った。
いかがだったでしょうか? 僕は美を思うとき、同時に他のことも考えてしまいます。それは、愛であったり、人生であったり、希望であったり、社会全体であったり・・・、どうでしょうか? 例えば、ジョイスの言う「美とは静的なものなのだ」という一節を借りて、「愛とは静的なものなのだ」と考えてみるのも楽しいことではないでしょうか?