ニーチェ


僕は、音楽を学んでいたので、本格的な哲学書に最初に触れたのは、「ツァラトゥストラかく語りき」になってしまいました。しかも、安易な気持ちでその本を手にしてしまいました。(基礎的な勉強もせずに・・・・・・)映画の「2001年宇宙の旅」で流れていた音楽を思い出していただければ、当時の僕の気軽さも納得いただけるかと思います。あの音楽は、ドイツのリヒャルト・シュトラウスという作曲家が作曲した交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」という音楽です。
僕は、ニーチェをこれから読もうと考えておられる方には、「ツァラトゥストラかく語りき」を最初に読むことをあまりお薦めできません。あまりにも強力な書物なので、読み手が負けてしまうと感じるからです。
芸術に興味をお持ちの方々へ僕がお薦めするのは、「悲劇の誕生」です。それでも、事前にプラトンやアリストテレス、ショーペンハウァー、ギリシア神話や中世騎士物語、シェークスピアやゲーテ等々を読んでおいてからの方が理解が深まると思います。
一般の方々(僕もそうだけど)が、彼の書物を読む時は、できるだけ客観的に読むこと(彼の意見に対して批判的に・・・・・・、夏目漱石もそうでした)が、大切だと思います。そうでないと、あたかも自分がニーチェ自身になったような気分になってしまいますからね。


「悲劇の誕生」(秋山英夫訳/岩波文庫)

『アポロ的文化の基底』から抜粋
 芸術において「素朴なもの」に出会った場合、われわれはそこのアポロ的文化の最高の作用を認めなければならない。アポロ的文化はいつでもまず巨人たちの国を転覆して怪物どもをころさねばならぬのであり、強力な妄想を写し出し、楽しいまぼろしを描き出すことによって、怖ろしい深淵をのぞく世界観と苦悩できるというきわめて敏感な能力とに打ち勝っていなければならぬのである。

『悲劇合唱団の起源』から抜粋
 認識は行動を殺す、行動するためには幻想のヴェールにつつまれていることが必要だ――これがハムレットの教えであって、多すぎる反省のために、いわば可能性の過剰から、行動するに至らない夢想家ハンスのあの安っぽい知恵ではないのだ。行動へかりたてるすべての動機を圧倒するのは、――反省なんかでは断じてない!――真の認識、身の毛のよだつ真実への洞察なのだ。ハムレットの場合も、ディオニュソス的人間の場合も。こうなるとどんな慰めももはや役には立たない。あこがれは世界を飛びこえ、神々さえも飛びこえて死に向かう。生存は、神々や不死の彼岸におけるその光まばゆい反映もろとも、否定される。ひとたび見ぬいた真実の意識のうちに、今や人間はあらゆる所に存在の恐怖あるいは不条理しか見ない。今や人間はオフェリアの運命にひそむ象徴的なものを理解し、森の神シレノスの知恵を認識するのだ。彼は嘔吐をもよおすのである。
 この時、意志のこの最大の危機にのぞんで、これを救い、治癒する魔法使いとして近づくのが“芸術”である。芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象に変えることができるのである。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御としての崇高なものと、不条理なものの嘔吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽なものとである。酒神賛歌を歌うサチュロス合唱団はギリシア芸術の救助行為である。ディオニュソス祭典のこの従者たちのつくる中間世界において、先に述べた厭世的な気持は吹きとんでしまったのである。

『楽天主義的オペラ文化と悲劇の再生』から抜粋
 芸術の最高の任務は、本当に厳粛だといわねばならない。夜の恐怖をみつめた目をその凝視から救い出してやること、仮象という治療の香油によって、主体を意志活動のけいれんから救うという任務を、芸術は持っているのである。このような任務も、寄生虫的オペラの牧歌的誘惑とアレクサンドリア的おべっか芸術のもとでは、空虚な、気晴らし的な娯楽の傾向に堕落するだろうということは、推測されるではないか?


「ツァラトストラかく語りき」(竹山道雄訳/新潮文庫)

   

第一部『ツァラトストラの序説』から

 ツァラトストラ齢三十の時、故郷と故郷の湖を去って、山に入った。ここに、彼はみずからの精神と孤独を享受して、十年にして倦むことを知らなかった。さあれ、ついに彼の心は一轉したのである。――ある朝、彼は曉の朱と共に起き、太陽の前に歩み出で、かく語りかけた。
 「なんじ大いなる天體よ! もしなんじにして照らすべきものなかりせば、なんじの幸福はそもいかに?
 なんじ、ここに十年間、わが洞穴をさして昇りきたつた。もしこのわれなかりせば、又わが鷲と蛇なかりせば、なんじはおのれの光に厭き、おのれの軌道に倦んだであつたろう。
 さあれ、われらはなんじを朝毎に待ちうけた。そうして、なんじの過剰を吸収し、之に酬いんとてなんじを祝福した。
 みよ! いまわれはわが智慧に飽満した。さながらに、かの蜜蜂があまりにも多くの蜜を集めたに似ている。いまは、これを乞わんとして差し延ぶる手がなくてはならぬ。
 われは贈りあたえ、頒ちあたえん、と念願する。かくて冀う、――人間の中の賢き者がふたたびその痴愚を喜び、貧しき者がいま一度その富を喜ぶにいたらんを。
 このために、われもまた底窮に降りゆかなくてはならぬ。さながらに、なんじが、いま一度下界に光を齎らさんとて、夕べ、海の彼方に沈みゆく時のごとくに――。おゝ、なんじあまりにも豊かなる星辰よ!
 われもまた、なんじの如くに降りゆかなくてはならぬ。これをしも、いまわれがその所へ降り行かんとする人々、名づけて没落と呼ぶ。
 なんじ安らかなる瞳よ、こよなく大いなる幸福をも妬みなく眺めうる眼よ、さらば、われを祝福せよ!
 いまや溢れんとするこの盞を祝福せよ。この水がその中より黄金に流れ出ずべく、はた、いたるところなんじの歓楽の反射をば映しゆくべく、この盞を祝福せよ!
 みよ! この盞はふたたび空しからんことを冀う。しかして、ツァラトストラはふたたび人間たらんことを冀う。』――
かくてツァラトストラの没落は始つた。


「ツァラトゥストラはこう言った」(氷上英廣訳/岩波文庫)

   

第一部『子どもと結婚』

 わが兄弟よ、あなたひとりにたずねてみたいことがある。わたしはこの質問測深鉛のように、あなたの魂のなかに投げ込む。それがどれほど深いのか、知りたいのだ。
 あなたは若い。そして子供を欲し、結婚を欲している。しかしわたしはあなたにたずねる。あなたは子供を望むことが許されている人間であろうか?
 あなたは勝利者、自己克服者、官能の命令者、自分のもろもろの美徳の支配者であろうか? こうわたしはあなたにたずねる。
 それともあなたの願望から、動物が声を発し、必要が声を発しているのではなかろうか? それとも孤独のさびしさが? それとも自己自身との不和が?
 わたしが願うのは、あなたの勝利と自由が、子供をあこがれ求めることだ。あなたはあなたの勝利と解放のために、生きた記念碑を築くべきなのだ。
 あなたは自分自身を超えて築かなければならない。とはいえ、まずあなた自身が、身体が、身体も魂もしっかり築かれていなければならない。
 たんに生みふやして行くのではなく、生み高めて行かねばならない。結婚の園をそのために役だたせるがいい!
 ひとつのより高い身体を、あなたは創造すべきである。第一運動を、自力で回転する車輪を。――創造者をこそ、あなたは創造しなければならない。
 結婚、とわたしが呼ぶのは、当の創造者よりもさらにまさる一つのものを創造しようとする二人がかりの意志である。そのような意志を意志する者として、相互に抱く畏敬の念を、わたしは結婚と呼ぶのだ。
 これをあなたの結婚の意味、結婚の真理としなさい。しかし、あのあまりにも多数の者、あの余計な人間たちが結婚と呼んでいるところのもの――ああ、わたしはそれを何と呼んだらいいか?
 ああ、この二人しての魂の貧困! ああ、この二人しての魂の不潔! ああ、この二人してのあわれむべき快適!
 こうしたすべてを、かれらは結婚と呼んでいる。そしてかれらは言う。自分たちの結婚は天の意志で結ばれたと。
 しかし、わたしはこの余計な人間たちの天国が好きでない。いや、わたしはこの天国の網にかかった動物どもが好きでない!
 自分が合わせたのでもない者を祝福するために、不承無承にかけつける神なども、ごめんを蒙りたい!
 これらの結婚を笑ってはならない! 子供たちはみな泣いているのだ。かれらには両親のために泣くだけの理由がある。
 ある男性はいかにも立派で、大地の意義を悟るちからもあるかと思われた。しかし、その妻を見たとき、わたしには、大地は気ちがいどもの住家かと疑われた。
 そうだ、一人の聖者が一羽の鵞鳥と連れ添うのを見たとき、わたしは大地も痙攣して震いおののけと思った。
 ある男性は真理を求めて、勇士のように出かけていったが、ついに手にいれてきたのは、可愛らしい、お化粧をした虚偽であった。かれはそれをわが結婚と呼ぶ。
 ある男性は人づきあいが気むずかしく、選り好みが強かった。だが、かれは一挙にそうした交友関係をすっかりぶちこわした。かれはそれをわが結婚と呼ぶ。
 ある男性は、もろもろの天使の徳をそなえた婢女を探し求めた。だが一挙にして、かれはその妻の婢女と化した。そのためいまはみずから天使と化する必要に迫られているらしい。
 わたしは誰もが慎重に調べて、物を買うのを見た。誰もが抜目のない目つきをしている。しかし妻を買うとなると、おそろしく抜目のない男も、袋入りのままで買う。
 短期間の多くの愚劣事――それがあなたがたのあいだでは、恋愛と呼ばれている。しかしあなたがたの結婚は、短期間の多くの愚劣事にけりをつける。唯一つの長期間の愚鈍がこれにかわる。
 あなたがた男性の女性への愛、また女性の男性への愛。ああ、それが悩める、まだ姿を見せない神々への同情であってくれたらいいのに! だが、たいていは二匹の動物の腹のさぐりあいにすぎない。
 あなたがたの最上の愛でさえ、狂喜した比喩であり、苦痛にみちた灼熱であるにすぎない。それはあなたがたを、より高い道へと照らす松明であるべきなのに。
 いつかはあなたがたはあなたがたを超えて愛さなければならない! だから、まず愛することを学びなさい! そのためにこそ、あなたがたはあなたがたの愛の苦い杯を飲まなければならないのだ。
 最上の愛の杯のなかにも、苦いものはある。だからこそ、それは超人へのあこがれを生みだすのだ。だからこそそれは、創造者であるあなたに渇きを与えるのだ。
 創造者に渇きを、超人への矢とあこがれを与えること。わが兄弟よ、言いなさい。これがあなたの結婚への意志となっているか?
 そのような意志、そのような結婚が、わたしにとっては聖なるものなのだ。
 ツァラトゥストラはこう言った。

 


R.シュトラウス作曲 交響詩「Also sprach Zarathustra」
(Lorin Maazel指揮/Wiener Philharmonike/Deutsche Grammophon)


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