世界 social 4.

人は見た目が9割

-----ミラビアンの法則(73855) -----         劇作家・演出家 竹内 一郎  新潮新書714

 

矛盾した情報に接した時、言語・聴覚・視覚のうち何を優先するかを調べた実験。アメリカの心理学者、アルバート・メラビアン博士自身が、これは限られた場面についてだけについて適応としているものである。

 人が他人から受け取る情報の割合のうち、「話す言葉の内容」はわずか7パーセント。残りは、「見た目・身だしなみ・仕草・表情」が55パーセント、「声の質(高低)、大きさ、テンポ」が38パーセントであった。

という内容である。

 「人は見た目が9割」と言われると、なるほどと納得するしかない。         

 この世の中にテレビがなかったら、小泉が首相であり続けることは無かったであろう。だって、言っていることがハチャメチャだもの。「人生イロイロ、会社イロイロ」「大量破壊兵器が見つからないから、無かったとはいえない」「弾が飛んでこないところが、非戦闘地域だ」なんて答弁していたっけ。でも、見た目が、「なんか世の中を変えてくれそう。」だったら、とりあえずOKということか。

 ちなみに、演出家として配役を考える時、「見た目」で決める。顔の形によって法則があり、例えば丸顔は明るく、角顔は意志が強く、逆三角形は学者タイプ。これは、「多くの人がそういう風に見ている」という先入観に基づいているという。その先入観は、映画やテレビを通じて、「事実」として学習されている。メディアが「見た目」の先入観を拡大再生産しているわけだ。

だから、言葉以外で伝える技術や力も磨きましょう。

--この本が売れているのも、「言語情報」である書名がもつインパクトによるものではないか。--

 


 

世界で輝く----頭脳・技・スピードが武器

コピーライター 石田 衣良 朝日新聞2005.03.30 be

 

 日本のアスリートが、世界のステージで活躍するのを見るのは、もう珍しいことではなくなった。誇らしい思いに変わりはないけれど、僕たちはすでに、日本人にも世界のスポーツの最高峰の舞台で戦えるとわかっているのだ。もう体格やパワーでエキスキューズする必要などないのである。

 多くの選手が世界に挑み、成果を積み上げてきた結果、見えてきたことがあると、僕は思っている。それは、成功した日本人アスリートの最大公約数のイメージなのだ。

 ここ一番の圧倒的なパワーやスピードでは、日本人選手は海外の一流どころにはまだかなわない。ではどこが優れているのか。ゲームの流れを巧みに読み、技術とスピードで圧倒的なフィジカルパワーを持つ相手を攪乱する戦術に長けたスマートなプレーヤー。これが成功した日本人選手のモデルケースではないだろうか。

 日本人アスリートの最大の武器は、この賢さと肉体と戦術両者のスピードなのである。残念なのは、このスピードがまだスポーツの世界だけのものにとどまっていることだ。日本を取り巻く状況は厳しい。政治や経済など、最もスピードが求められる分野で、この国から速度感が失われて久しい。海外で活躍するアスリートに学ぶべきことは、まだまだ多いのである。

 



素早く見切ってあがり小さく・ 新春対談 
                            高橋源一郎・森巣博  2003-01-05朝日新聞

日本は、今危機だといわれ、閉塞感や停滞感におおわれているとも言えます。しかし、た
だ本当に危機感があるのかどうか。自分だけは助かると誰もが思っている気がする。ギャ
ンブルをやっていた人が抱きがちな根拠のない希望、というか願望でしょう。負けたのに、
やめない。
 ギャンブルの世界で生き残るために必要なのは見切りです。早逃げです。素早く見切っ
てあがり小さく。勝っていたときの方法でそのまま続けるのが一番良くない。

 明治国家はひたすら上を目指し近代日本を築こうとした。この近代の「上昇物語」が死
んじゃつたということなのでしょう。国家、国民、文明といった概念は18世紀後半に作ら
れた。そうした近代の概念がことごとく失効してしまった。国家や民族という概念の自明
性が崩壊し始めた、そのことが分かってきたからこそ統合を強めようとする。それが今の
ナショナリズムでしょう。しかし、実際に声高にナショナリズムを語っているのは、昔の
人たちです。いわゆる戦後的なものが自壊し、今度は自分の番だと思って古い歌を歌って
いるにすぎない。日本固有の文化、伝統を守れというが、普遍の文化なんてあるわけがな
い。残るものなら、ことさら守れと言われなくとも歴史の試練に耐えて必ず残る。明治の
人たちは、日本固有の文化がなかったので自分で作らなければならなかった。

 若い人の間に、フリーターが増えている。上昇しようという夢もないし、自分は何者な
のか、どこに帰属しているかなどと考えることもない。日本人という意識すらない。そん
な「喪失の世代」が登場している。あるのは身近な欲望だけ。動物のようです。でもこれ
が近代の終わった後の人間の最終形態かもしれません。これ、世界最先端の現象ですよ。
なにもないと言うことは、希望しかないと言うことですからね。

 一方、近代も終わろうという今になって初めて長生きした老人たちが「層」として存在
し始めた。画期的なことです。老人は、日々能力を失っていくので、それを補わないと生
きていけない。だから、創造的に根源的にものを考える。また、戦争も貧困も経験し、身
の程にあった生活の実践が出来るのである。「夢はでっかく、あがりは小さく」がいいの
です。社会も全体として老化すればいいのです。

9.11は世界を1つにした ー世界・地球の矛盾一望にー
                                                   02.09.11朝日新聞・ 加藤 典洋    文芸評論家


 去年の同時多発テロから一年がたつが、ようやく課題が見えてきたように思
う。二十世紀型の世界が終わり、二十一世紀型の考え方が必要とされる時代とな
ったが、そこでのポイントは何か、ということである。
 九・一一は何を変えたか、と訊かれれば、世界を一つにしたと答える。インタ
ーネット、経済の世界化などでもう世界は一つになっていたのだが、そうなると
どうなるかということを、誰の目にも教えたのである。

 「仕切り」消え、格差露わに

つい20−30年前までは、まだ世界というワンフロアが
いくつもの部屋に分かれていた。区域ごとに中を満たす水の水位は違っていた
が、そのことが誰の目にも明らかというのではなかった。そのため、世界のあり
方への洞察は、そのままでは思い込み、幻想と一緒だった。世界が一つになると
は、その仕切りが透明になり、世界の水位の格差がそのまま誰の目にも見えるよ
うになること、というより、その仕切りが、なくなることである。そうなると、
現実は幻想に「追いつく」。その姿を、一年前、わたし達はテレビ画面に見たの
である。

 北の「水位」いかに下げるか

 あの後、『世界がもし100人の村だ、ったら』という本が人々の心を捕らえたJ
のは、そこで明らかになったことの意味の一端を告げている。世界の見晴らしがよくなり、そこでの矛盾
が許容できないところまできたこと、また地球自体がもう限界にきていること、
その二つが、一挙に、一対の問題として露わになった。二十世紀型の世界の終わ
りと二十一世紀型の考え方の原型との対比が、そこには、鮮やかに示されてい
る。
 今後、アメリカはつねにこの種のテロの脅威の中に裸のままでおかれるだろ
う。南北間の格差が少なくなる方向に世界が動かなければ、この間題は
解決しない。
 では、そのためのカギは何だろう。これまでは南を北に近づけることがめざさ
れた。しかし、南の水位をあげることに加え、新たに、北の水位をさげること、とりわ
け高成長、大量消費のアメリカ型モデルを別のモデルに切り替えることが、問題
になる。ここにきてようやくわたし達は二十一世紀の課題に出会う。
 二十世紀は、人類全体の幸福と平等の実現という高い理想のためなら、一時的
に少しだけ、自由と私的な幸福の追求を制限してもよいと考え、失敗した。
 したがって、その代替モデルは自由への希求と私的
なステキさ(幸福)の追求とをいずれも否定しないも
の、となる。わたし達は今後、高成長、資源浪費型で
ない経済と産業の構造をめざすが、それは、自由の欲求とステキな生活への憧
れとをともに否定しないものでなければならない。私的なステキさの追求が少し
も否定されないまま、現在のアメリカ的生活に範を取る高成長、資源浪費型のス
テキな生活の像だけが、わたし達の中で別の範型に取って代えられる。これ
が二十一世紀の課題の「核心」である。

一度近代のはじまりに戻る

 国民国家と資本主義という世界のしくみを否定しようとした二十世紀の試みの
果てに、九・一一は起こつた。この現行のしくみを前提に、どう「それを使って
それを変える」かと考えること。権力は悪だと考えるのではなく、どのような権
力なら正当化されうるかと考えてみること。一度近代のはじまりに戻る、それが
「二十一世紀的な考え方の流儀である


「感動・癒し」も終わり、「意志」の時代へ
 朝日新聞01.11.23 文芸評論家 斉藤 美奈子

 「感動することは、大事だ。自分にもパワーがみなぎってくる。常に感動できる心を持って、みなさんに感動を与えられるようなそんな政治をしていきたい。」

 このような文面を、就任早々のメールマガジンで臆面もなくばらまいた首相は、自分が感動するだけでは飽きたらずに、人を感動させたいと強烈に思っているらしい。
 こうした「感動の押し売り」は昨日今日突然始まった現象でもない。ファッションと同じで人の心の動きにも流行がある。ここ十年というものは、そもそもが感動の時代だったのだ。

「感動」は90年代のキーワードなんだ。
 90年代の感動したいさせたい症候群は、80年代の揺り戻しではないか、と私は考えることがある。感動を強要する90年代を仮に「情の時代」とするならば、何もかも「おもしろがる」ことが求められた80年代は、いわば「知の時代」だった。漫才ブームに始まる「ひょうきん族」の台頭。ナンセンスな広告コピーに代表される言葉遊び。真面目さはネクラと呼ばれて排他の対象となり、知の遊戯かが新しい知の意匠としてもてはやされた。景気のよかった分、財布にも気持ちにも笑うゆとりがあったのかもしれない。

 そして90年代。バブルの崩壊で笑うことの余裕をなくし、「おもしろがる」ことにも疲れた人々が求めたのは、まず癒し、ついで感動である。癒しが心の平穏なら、感動は心の刺激である。よって癒しと感動はワンセット。メディアは「笑い」ならぬ「泣き」を提供しようともう汗だくである。スポーツ中継は絶叫調、お笑い芸人はネタを作る代わりに過酷な旅やマラソンに挑戦し、貧乏脱出からお見合いツァーまで素人さんも感動のだしに使われる。
 とはいえ、情の時代にもそろそろ終わりが見えてきた。

首相の感動したとの叫びは、末期症状で、それ自体流行の終結の宣言に近い。
 では、「知」「情」の次には何がくるのか。

人間の心の動きには、俗に知情意の3つがあるとされている。だとしたら、知・情・意・知・情・意とほぼ10年の周期で流行を繰り返すのではないか。
 この半世紀を振り返っても、戦争・敗戦・占領を含む40年代は「意志の時代」。テレビ放送や週刊誌創刊ブームが起こった50年代は大衆化した「知の時代」。高度成長にバラ色の夢を見て東京オリンピックに素直に感動できた60年代は「情の時代」。日本列島が改造論に沸き、石油ショックで始まった70年代は「意志の時代」。だったような気がする。

 その順番でいくと、知・情・を経由して、現在はもう意志の時代に突入していることになる。
 警戒すべきは、「感動した」より、同じ首相が連呼する「痛みに耐えて」の部分かも知れない。

欲しがりません勝つまではということでしょう。
 
 

 


求められる目覚めた知者
国際ギリシャ哲学協会会長 Constantinus I. budris
01.01.16朝日新聞

1.何故、古代の哲学なのか
 技術の進歩で、現代人は、大量の情報に囲まれている。それなのに、明日何が起こるか分からない不安の中にいる。それは、科学や技術の知には限界があるからなのです。たとえば、生命科学がどんなに進歩しても、知ることが出来るのは、人間の一部分にすぎない。 私とは何か、美や正義とは何なのか。そうした人間の本質に関わる問題を知るためには、古代ギリシャ人が哲学と名付け、他の民族が英知と呼んだ、科学とは別の「知」が必要なのです。
 環境問題でも、人類の破滅を避けるためには、自然との調和や中庸に価値を置いた古代の哲学者に学ぶ必要がある。

2.「現代文明の危機」の意味
 文明の危機は、いつの時代にもある。文明の発展と衰退、交代は必ずやってくる。何も変化がなければ文明は停滞してしまうからです。ただ今起きている変化は,それと違う。
 情報技術の進歩が、逆に人間の危機をもたらしているからです。テレビのようなマスメディアが流すイメージの力が圧倒的なために、人間はゆっくり考える力を失っている。
新しい商品や生活スタイルが次々に登場し、変化の速度が速いために、個人が時間をかけて考え、選択する決定権を奪われている。
 それが人々に不安感を与えている。

3.グローバル化と「文明の破壊」
 通信網が広がり、モノや人が交流するようになる。そうしたグローバル化は、二千年以上も昔のアレクサンドロス大王の時代にもあった。ギリシャ、ペルシャ、エジプト、インドなどの様々な文化を持つ国々を統一し、共通の貨幣や法律、政治制度のもとにまとめ上げた。
 だが彼は、ほかの民族にギリシャ文化を強制はしなかった。それぞれの民族が固有の価値や生活様式を保つことが出来た最初の国家だったのです。
 重要なのは、アレクサンドルスが哲学者アリストテレスの弟子で、自らも目覚めた人だったということです。それぞれの世界が、それぞれ望むところをなすべきだというのが彼の哲学で、文化まで均一化するのは意に反することだった。
 今世界の人々に不安感が広がっているのは、グローバル化が富の偏りを招くだけでなく、伝統的な価値観や文化を破壊してしまう心配があるからなのです。商品を買うことによっ、生活スタイルや文化を変えることも強制される。
 それぞれの民族の文化や価値を均一にしてしまうグローバル化が問題なのです。

4.他者との関わりの中に自己を探す
ギリシャの哲学は、人間とは何かという問いから始まった。その「汝自身を知る」のは大変に困難なことなのです。だから、ギリシャの知者は、自分を知ることは社会の中でしかできないと言う考えにたどり着いた。
 一人で閉じこもって、瞑想するのではなく、家族や地域社会や国家などの他者との関わり合いの中に、自己を探さなければならない。
 これも現代に通じる「知恵」だと思います。


イデオロギー欠乏の時代
00.12.20読売新聞 京都大学名誉教授 野田 宣雄


 20世紀は間違いなく「イデオロギーの世紀」であった。マルクス主義、西欧民主主義、ファシズム、ナチズムなどのイデオロギーが相次いで登場し、相互に激しい競争・対立を繰り広げた。20世紀のもっとも深刻で長期にわたったイデオロギーの対立は、言うまでもなくソ連の率いる共産主義陣営と、アメリカの代表する西欧民主主義陣営とのそれであった。


 「ベルリンの壁」の崩壊やソビエト連邦の解体が象徴するように冷戦という名の東西イデオロギー対決は、西側陣営の勝利のうちに決着を見た。しかし、冷戦の終わった当初に西側陣営で見られた勝利の陶酔気分は長続きしなかった。それは、世紀末に近づくとともに、世界秩序の基礎単位であるはずの民族国家の枠組みそのものが、大きく揺らぎ始めていたからである。


 いまから振り返ってみれば、日本を含む西欧陣営の人々が国家という枠組みのもとでもっとも安定した豊かな生活を享受し得たのは、1970年代あたりであった。ところが、世紀末が近づくにしたがい、情報通信分野をはじめとする技術の異常な発達、それに伴う経済のグローバル化の急速な進展などによって、国家と経済が乖離し、国家が経済をコントロールすることが極度に難しくなった。


 先端分野の技術開発がたちまちのうちに経済構造を変化させたり、国境を無視した資本の移動や企業合併がますます活発化するので、それに見合う包括的な世界秩序の構想を編み出すことは、決して容易なことではない。


 現に到来しつつある「イデオロギーの欠乏」の時代は、全く別の意味で、個々人にとって決して生きやすい時代ではない。それは、多くの人々が共有できる価値体系や歴史の目的が存在せず、各人が自らの人生設計を立てる座標軸が容易に見いだせない時代だからである。そこから生まれる人生のよりどころに対する人々の渇望がどのようにして癒されるのかが21世紀の性格を大きく決めることになるだろう。


       経済危機と毒物事件
     日本中毒情報センター  本間 光夫


 不特定多数を対象にした祭りやスーパーマーケットを介した無差別殺害というおぞましい事件が続発している。これらの事件は、経済危機、社会不安、将来への閉塞感と無関係だろうか?


 「貧すれば鈍する。」という諺がある。貧乏すると世俗的な苦労が多いので才知が鈍ったり、品性が下落する(大辞林)。今の世相を端的に示している言葉だ。日本の経済不安は、日本人の経済構造に大変なかげりをおとしている。


 阿川弘之は「亡国の予感」の中で次のように言っている。貧しい人々にとって道徳や倫理は腹の足しにならない。今日生きるために彼らには盗む権利さえありそうに見える。

また、今は他人のことだが、人間は人並みに堕落するのも早い。日本も経済の根本がゆらげば、すぐに泥棒国家になるであろう。いざとなっても最後の最後まで礼節を守る努力が欲しい。

 日本人の矜持を踏みにじる倫理観の欠如ほど情けないことは避けたいものである。

 狭い専門教育にあんまりにも偏重しすぎる昨今の教育の考え方に問題はないであろうか。

一般教養の重要性を再認識し、ゆとりを持って幅広い人間を育てることが、改革に最も近道な気がする。


       21世紀は日米と西欧競争の時代
 ニューヨーク州立大学教授 イマニュエル・ウーラーステイン

 二十世紀は間違いなく近代世界システムと資本主義経済が全盛を迎えた。
 二十世紀はアメリカの世紀であった。


「反システム運動」と呼ぶ動きがあった。第三世界では民族運動が独立を勝ち取り、70年代前後には、共産主義国家が世界の三分の一を占めた。不信とひどい破壊の世紀だった。単に多くの人が殺され、建物が壊されただけではなく、ナチズムやスターリズム、原爆投下のように以前とは違う「質的な破壊」があった。

 我々は五百年にわたって資本主義経済の中にいた。それは世界の片隅で始まり、全世界に広がった。

しかし、それは様々な理由から終わろうとしている。この歴史手はシステムはその内部矛盾が激しくなり、平衡が保てず、修繕できなくなったときに終わりを迎える。そのとき訪れるのは無秩序(カオス)だ。この秩序崩壊の時代は30から50年続くであろう。


 この時代は生きるには大変だが、極めて創造的な時代でもある。覇権争いや南北問題の拡大など、分け前をめぐる大きな政治的闘争が繰り広げられるのは確実である。


 日本は八年間景気が後退しているというが、明治時代以来百年以上も経済発展を続けてきて事を思い起こすべきだ。今後三十年間は少なくとも生きていくにはあまりにも快適でなく安全でなく、不確実であろう。

しかし、一方で、世界をあるべき方向に変えていく努力は、過去の五百年のどの時代と比べても、より意義深く、効率的であろう。だから我々は極めて良い時代に生きているのだ。


 日本人は今後三十年間何をすべきだろうか。私は、他のすべての人が目指しているのと同じ事をすべきだと考える。すなわち、世界システムをより理性的で民主的で平等なものに再構築することだ。我々は世界システムの危機を意識し、日本だけでなく、全世界のために、目前にある歴史的な選択をしなければならない。

 今後の日本、西欧、アメリカの関係は、500年続いた古いシステムにおける覇権国家のあり方と深く関係している。17世紀にはオランダ、19世紀中頃にはイギリス、20世紀にはアメリカが覇権国家となった。だが、覇権を維持することは難しくいつも衰退するものだ。

私はアメリカの覇権は衰えていると見ている。アメリカは経済的には、1945年の時点では欧州や日本より進んでいたが、70年にはほぼ同じになった。また、冷戦終結により、冷戦を理由に西欧や日本を従わせることが出来なくなり、政治的な優位性を失った。文化的優位性も失うであろう。


 今競い合っているのは、西欧と日本だ。両者は今後二十年間、経済的にも政治的にも軍事的にも自己主張していくだろう。三者の競争は常に二者の競争となる。このため、アメリカと日本が連携を組むと見ている。

 アメリカには、日本にない2つのことを提供できる。一つは、膨大な科学・学術分野の調査・研究の成果である。もう一つは、世界最強の軍事力(しかし軍事力をなかなか行使できない)である。日米両国には文化的な相違があるがこれらはプラスに働くであろう。


 西欧とアメリカの間の最大の問題は、文化的基盤を共有するアメリカが45年以降文化的に優位に立ち、西欧がこれに反発し、政治的にも経済的にもアメリカから距離を置こうとしたことにある。今年、欧州はユーロというドルに匹敵する単一通貨を持った。これはドルの覇権に終わりをもたらす。


 21世紀の最初の二十年間は、日米両国の関係はより密となり、両者と西欧との争いは拡大するであろう。いわゆるアジアの危機は実在しないと考えている。

世界経済は70年頃から約30年間、コンドラチェフの波の下降局面にある。この間日本は相当良くやってきた。そして今、最後の10年間が悪いだけだ。

下降局面があと数年で終われば、世界経済は新たな成長を示し、日本も良くなるであろう。


   人間は平等だというアメリカに学んだ間違い
        早稲田大学教授 吉村 作治


 世の中にやってはならないものはないと教えるから、「じゃあやってみよう」となる。それで、「だめだ」と言うと、「なんで、もっと創造性豊かな人間に成れって言ったじゃないか。典型的な人間には成るなって言ったじゃないか。」とくる。

それは少なくとも義務教育の中でやっていいことと、やってはいけないことをピシッと教わった上で、教わったものを一度壊して新しいものをつくれと言う意味なんです。今の子供たちは何にも作らないで壊しているだけだから学級崩壊などとなってしまう。


 もう一つの問題は、先生がちょっとでも手を挙げたり怒鳴ったりすると、すぐ休職でしょ。だから先生が臆病になってなんにもできない。「先生は怖いんだ、正しいんだ。」という感覚が崩れてしまった。価値観を多様化しすぎてしまったんです。


 多様化というのは本来、一本の筋があっていろいろなものができると言うこと。今は教育がむちゃくちゃ。ここで作り直さなければならないんです。それにはまず大きな枠組みで、「日本って何だろう」「日本人って何だろう」と我々のアイデンティティを考え直すのです。


 戦後民主主義のいちばん悪いところは、生まれつき平等だという事から始まっていること。生まれつきみんな平等ではない、そこに矛盾があるのだけれども、無理矢理に平等にしてしまっている。先生も生徒も平等。劇をやっても、主役と脇役があってはいけないとか、勝ち負けはいけないとか、一等賞はいけないとかになってしまうから、何を目標に生きていいか解らなくなっている。

ヨーロッパは階級社会です。その階級が「特権」だと思っていたのが中世でした。近世の階級は「責任」です。上に行くほど責任は重い。責任を持つのが嫌ならば上の階級にいかなければよい。しかし、基本的に人間というのは、「責任」を持たされると「快感」を感じるんです。だからみんながそこへ行きたがって競争が起こる。その競争が良くなんじぁなくて、フェアであればよい。


 何事も良い面と悪い面があるのに、それをひっくるめて、「階級は悪い」とか、「知識人は悪い」とか、「金持ちは悪い」とか言う人がいますけど、持っているのは悪くない、どういう風にして持ったかが問題。金持ちでも死ぬまでに自分の財産を社会に還元するという人もいる。

日本人はこんな風に考えられるフェアでニュートラルな観点を失ってしまった。

これはもう戦後五十年の教育の最大の欠点です。


市場原理主義の残酷
   アメリカヘッジファンド ジョージソロス


 二十世紀は共産主義国家が誕生し、それが崩壊したイデオロギーの世紀であった。資本主義は共産主義に勝利したといわれる。しかし、本当に資本主義が経済体制として唯一生き残ったといえるのか。


 資本主義はそれ自体、独自のイデオロギーを内在させている。私はこれを「市場原理主義」と呼んでいる。現在では非常に影響力を持っているが、市場原理主義だけが生き残ったわけではない。多くの人たちがこれに非常に不愉快な思いを抱いている。市場原理主義は多くの点で非人道的な、残酷なシステムを内包しているからだ。


 「市場」とはある個人が他人と物などを交換することを単に映しているに過ぎない。市場は「人類が持つすべての価値観」を現しているわけではない。市場は環境とか平和の維持といったような人類共通の価値観を代表するものでも、内包するものでもない。そうした環境とか平和の維持といった事項は、市場価値の外におかれているが、こうした価値観は人類にとって不可欠であり、「市場は不完全である」といわざるを得ない。

 資本主義社会には社会的正義が欠如している。私もこの点を懸念している。また行き過ぎた市場原理主義は国家の主権さえ侵害しかねない。二十一世紀はイデオロギーが終末を迎える時代では決してない。多くのイデオロギーの対立が起きるはずだ。


 現在の競争を勝ち抜く原理は「市場化」とされる。これに合わないものは一国の伝統、文化、習慣、社会システムさえ崩壊させかねない。市場と国家との関係はどうあるべきなのか。

人間が作ったすべての制度は欠陥を持っているし、完全なものを永久に作り出すことはできない。

市場と国家とのあるべき関係も完璧なものにはなり得ないとの前提で、政府による規制と自由な市場の双方の改革を繰り返し続けていくことで解決を見いだせるのではないか