第10回講話
幸せの基準 02.03.06
今、不景気だ、不況だと騒いでいるが果たしてそうなんであろうか? 元々がゆっくりと動いていた時代に戻っただけではないのか。 今の状態が普通なのではないか。 将来に対する不安が強すぎるために、 異常に防衛的になってしまって怯えきっているだけではないか。
いつこのことに気づくのであろうか。 今までが異常に景気が良かったからであり、 やっと普通に戻っただけでないのかと思うと気が楽になる。
しかし、仕事がある人と無い人にハッキリと別れてしまって、 仕事のある人は、自分の時間を削って、忙しく働いても働いても終わらない人生を送っている。 仕事の無い人は、ますますしなくなって時間を浪費することになる。 持てる者は益々富み、持てない者は何も無くなっていく。 世界は二極化へ進んでいる。
また、みんなでやれば怖くないというみんなと同一志向・中流志向は崩れ去り、 自分の生き方のスタイルを探すことになるであろう。 探し得ない人は置いてきぼりを食らうことになる。自分で考えなければ行けないのである。
そこで、「何を持って自分の幸せとするか」という基準が自分に求められることになる。 周りの人に振り回されない自分の価値観を持てばよいわけである。
しかし、そもそも幸せを感じるのは、1つに自己のやりたいことの達成した時と、 2つに人から認められた時と、3つに周囲との比較で自分が優位に感じた時とである。 この3番目のは大変やっかいである。
自分が幸せになることが、比較の問題となり、 「周りの人たちを自分より悪くすることで可能」だからである。 極端に言えば、人の不幸を知ることで自分が幸せになっているのである。 「ああ、自分にあんなことが起きなくて良かった。自分は幸せだなあ。」というわけである。
これが端的に現れているのが、女性週刊誌である。 美味しいケーキ・お弁当の記事、おしゃれな洋服、怖い話、とならんでかならず「不幸な人の話」 たとえば、離婚した人・浮気がばれた人・いじめられて死んだ人・奇形児・呪われいる人・失敗した人・・ が必ずでている。また、これらが同じレベルで記事が扱われているのには驚いた。
病院においても同じことが言える。 隣のベットの患者が様態が悪くなり、自分は良くなったときに自分がとても幸せに思えてしまうのである。 また、たとえ自分が脊髄損傷して両足が動かなくなっても、脳卒中の患者ばかりいる部屋にいて、 みな片麻痺で左手が使えないかしゃべれないかのハンディキャップを持っていると、 意外に自分はこのくらいで良かったと思い始め、両足が不自由にもかかわらず幸せな感じがするのである。
先天性奇形児は自分が生まれてきたときから障害を持っていたので、人のことをうらやましく思うことはあっても、 外から見ているより自分が不幸だと思っていないので、余計な同情は禁忌である。
交通事故で、ぶつけられて怪我して痛い思いし、イライラしながら、 希望もしない救急車に乗せられてきた人への対応でも同じことがおこる。 「とんでもないことになって大変でしたねえ。でも、骨が折れていなくて良かったよ。手術必要なところだったからねえ。このくらいで済んで良かったよ。」 というと、今までイライラしていた人がほっとした顔してにこにこして帰っていくのを何度も見ている。ものは考えようである。
結局、幸せとは絶対的に存在するものではなく、時間の流れおよび空間の流れの中で、相対的な価値観で決まるものであり、「永遠の幸せ」や「永遠の幸福」というものは存在しないのである。逆に、「今自分が幸せだと思える」人だけが幸せになれるのかもしれない。