臨死と死生観
やさしさに包まれた旅立ちに生と死の尊さを感じる
納棺師を演じて 朝日新聞20080910 本木 雅弘
理想を現実にできる人は、なかなかいませんよね。
毎日はそれなりに楽しくても、おぼつかない気持ちはぬぐえない。私もそうです。
家庭を築き平穏に暮らしながらも、
四十歳を過ぎてもう少し肝がすわるかと思っていたらそうでもなく、
どこかで伸び悩んでいる。
遺族が見守るなか、遺族に肌が見えないようにご遺体を清め、仏衣を着せる。
髪を整え、化粧をし、手を組んで数珠をかける。
そんな一つの作法に意味があり、心が込められていました。
まるで、茶の所作を見るように美しかった。
納棺は、遺族が故人と最後の対話をする大切な時間。
極度の緊張感がありますが、それだけではなく、何か優しいものに包まれている感覚もあるんです。
それは、自分が立ち会い出産の時に感じた空気と似ている。
生まれてきてよかった、生きてきてよかったと感じさせるぬくもりがある。
人は人の手を借りて誕生し、人の手を借りて送り出される。
生と死は一つのものだと実感できた貴重な体験でした。
新たな世界に旅立つ前に体をきれいにすることは、赤ちゃんの産湯と同じ。
納棺には、もう一度生まれ直すという意味がある。
いつかは誰もが、大切な人を送り、送られるときがくる。
この映画が多くの人にとって、今この瞬間を生きていることの尊さに
気づくきっかけになればと思っています。
死に際で判断するな
佐々木 閑(花園大学教授) 朝日新聞 2007.12.22日々是修行より
私たちは、「立派な人は立派な死に方をする」と思いがちだが、それは危険なことであ
る。釈迦の死因をご存じか? ただの食中毒。年老いて80にもなり、粗末な生活の中、
暑いインドをテクテクと歩き回っていれば、誰だって食あたりになる。おなかをこわした
釈迦は、次第に体力を消耗し、そのまま亡くなった。仏教という、世界に類のない知層深
い宗教をつくった釈迦のような人物でも、死ぬときは普通に食中毒で死んだのである
死に際の良し悪しは運の問題だ。心根の悪い人や愚かな人でも、運がよければきれいな
死に方をする。誠実に生きても、運悪く痛みの激しい病にかかれば、泣いたりわめいたり
しなければならない。それは、その人の価値とはなんの関係もない、ただの偶然である。
最後の最後、つらい病に耐えかねて「痛い、苦しい、助けてくれ」と叫ぶのは、私自
身の、将来の姿かもしれないが、だからといってそれで、私の人生が「情けない人生であ
った」ことにはならない。苦しさのあまり、なにか怪しい神秘にすがりたいと思うかもし
れないが、ちっとも構わない。その思いが私の生き方のおおもとではないからだ。私の生
き方は、今ここにいる私の、この姿である。
死に際の姿で人を判断するなかれ。人生の意味は、その人生の全体にある。長く続く日
常の中で、毎日積み重ねていくわずかばかりの行いや思いが、少しずつ積もって、自分で
も気づかぬうちに人生を形づくっていく。たとえ最期が悲惨であったり、苦しいものであ
ったとしても、そんなことですべてが否定されるほど、人の一生は簿っペらではない。
死にゆく者も、送る者も、そのことを心に掛けておいてほしい。安らかに逝く人の姿は
素敵だが、それよりも、誇りをもって自分の正しい生き方を決めていく人の姿の方がもっ
と素晴らしい。なぜならそれは、運不運とは関係ない、その人の本質的な思いを映し出す
ものだからである。
臨死体験 Near Death
Experience
MB Sebom 1982
01.自分は死んだという感覚 subjective sense of
being dead
02.平穏と平和に満たされた情感 predoinant eotional
content of calm and peace
03.体よりの抜けだし感覚 sense of bodily
searation
04.物体や事件の中の自己の観察 observating of
phisical objects and events(autoscopy)
05.暗闇あるいは空虚 dark region and
voice
06.人生のフラッシュバック life review
07.光の存在者 the light
08.超越的な世界への踏み込み entering a
transcendental environment
09.肉親や知人との遭遇 encountering others
10.帰還 return
心のメカニズムに挑む
読売99.01.22 脳神経生理学教授 伊藤 正男
脳には情報を濃縮する能力があって、非常に複雑なことを一つの概念にまとめ上げて理解していくのです。それが最後は言語というものになる。概念を言語化していくと、どうしてもシンボリックなものになります。
そこで神様が出てくる。実地の経験を積み上げていくのは大変ですが、そこに神様をおいたら何でも簡単に説明が出来てしまいますからね。宗教とはそう言うものだと思います。
脳を刺激すると臨死体験と似たような経験をすることがわかっています。これから、死ぬ前の脳の異常な興奮ということで説明できるでしょう。
意識には覚醒しているというレベル、外界の刺激をまとめ上げているというレベルといったものがあり、だいぶ解明されてきました。大脳には外界から刺激に反応するのではなくて、神経回路網からひとりでに信号が出てくる。“創発”という過程がおこる可能性があります。これは一見自由意志に関係するもののようにも見えます。
しかし、“自意識”や“感動する心”といった感情に関わるメカニズムは良くわかっていないのです。
でも、心は脳内の化学的、物理的なメカニズムから解明できるという脳科学のスタンスは変わっていない。心が脳科学で理解できるようになった時、確かにこれまでの人間の作ってきた文化や概念は崩れてしまうでしょう。
しかし、それで心自体がなくなる訳じゃないし、むしろそこには解明されたことに新しい意義づけをしていく哲学の出番があると思います。
話し合っておこう、生と死
作家 高 史明
癌を夫人に告知しないで、傍らで看病を続けて、それは美しいけれど、実は死を眺めているだけなのでしょう。生の立場から死を対象化してみていたのです。
江藤淳さんは一貫して、「日常的な時間」に生きていて、死は「どうしたら安らかに死ねるか」という問題でしかなかった。その視点がまた、死を自分のものとして受け止めていない近代人の生者中心なんですね。
「日常的な時間」から、ぬっと現れる「死の時間」と向き合うわけですが、それでは否応なしに引き返せない局面に行き着いてしまいます。人生はいつも死と一緒です。それが忘れられている。生と死がともにある「生死の時間」が彼にはほとんどなかったようです。
夫婦は元気なときから、いや、人間は子供の時から、生死について話し合い、そもそも自分がどこからきたのか、考えておきたいですね。
うちの子供が死んだ後で、よその子の元気な姿を見て、「あのが生きているのにうちの子だけがなぜ?」と思ったことがある。これも私の姿には違いないが、次第に「うちの子の分も生きてほしい」と思えるようになりました。息子の命は私だけのものではない。私物化してはいけないと気がつきました。
死の時間と人間の尊厳
太田友章 日野市無職
私は今年の二月に肺ガンの告知を受けて手術をした。合併症が重なり、治療が長引いた。体のあちこちに管をつながれ、絶食状態で約一ヶ月も体の自由を奪われていると、いつの間にか、江藤淳さんのいう「死の時間」に浸っている。生きる気力はもちろん、死ぬ気力もわいてこない。他人任せの安らかな状態である。
しかし、生かされて「死の時間」を脱すると、身体的自由や健全性とともに生きる気力が芽生えてくる。愛する妻や家族の支えや、また何かの希望があると加速されてくる。
ただ、そうした希望や支えがない時、あるいは突然失われた時、芽生えたはずの生きる気力は、逆に死ぬ気力と化することもあると思う。
病気や老いで治癒が望めず、精神的支えや希望も失っている人に「病は気から」などと励ますのは酷である。
死と向かい合っているときの「決断」について第三者がとやかく言うべきでなく、本人の選択を尊重することが大事で、ひいてはそれが「人間の尊厳」につながると思う。
告知してこそ信頼が生まれる
医師 種村 健二朗
癌の告知は、「早期の患者さんは積極的に治療に協力し、末期の患者さんは残された人生を有意義に生きる」という理由で進められてきたと思う。これは医者側の都合で作られた論理である。
告知は本来、真実を伝えることである。末期の患者さんが真実を話されずに、しかし温かく看病され、安らかに亡くなったとしても、うそをついた一人が末期癌になったら、その人はもはや他人の言葉を信ずることはできない。
真実を話すことは、苦しみをともにすることである。が、ともに苦しむことが人と人との信頼をはぐくんでもゆく。亡くなった後も、その信頼で家族は癒され、悲しみを受け入れる原動力となってきたことを、多くの患者さんと家族が教えてくれた。
江藤淳さんは、妻に告知しなかった。誤りとはいわない。末期の患者さんに告知することは、苦しみを取り除くことではないからである。しかし、真実を伝え合うことは、死ぬことを通じて私たちがともに成長し合う機会でもあることを知ってほしい。
彼の自殺には、信じることのできなくなった悲しみが見えてならない。
「人はひとりである」知り他者慈しむ
読売新聞00.09.30 国際仏教大教授 鎌田 茂雄
「人はひとりである」ということは、十五年前に家内を亡くしてからますます感じるようになってきました。一遍上人もこう言っている。
「生きぜしもひとりなり。死するも独なり。されば人とともに住するも独なり。」でも、「人間はひとり」ということをじっと見つめると、かえって人に対する慈しみとか愛情とかが生まれてくるんじゃないかな。
自分とは何か。今ではこんな風に考えています。命というものは、大昔の原始生物から遺伝子を通じてタテにつながっている。一方で、社会はヨコのつながりで成り立っている。タテの系列とヨコのつながりがあって、その中で「いま」「ここに」自分が生かされている。
こうも言えます。大海の水をお椀にすくうでしょ。これが人の一生。七十年八十年たってこれを大海に戻す。それが「死」。その水はなくなっていくわけではなくて、大きな命に帰っていくだけです。命をすくい上げてくれた、その「誰か」は仏と呼んでもいいし、神様といってもいい、人間を越えた力と言ってもいいわけです。
最近、若い人がすぐに人を殺してしまうような事件があるけれど、どんな命でもこうして与えられたものだと思えば、考え方も違ってくると思うんです。私もあまり先がないと思うから、今では酒はやめて執筆に専念しています。それが、「いま」を大事に生きることではないか、と思っているんです。
宗教の中の人生
浄土宗広度院住職 峰島 旭雄
遍歴したいずれの思想家にも、最後のところは哲学から宗教へ、倫理から宗教へという問題意識を投げかける何かがあった。その場合、「宗教」とは成立宗教つまり仏教、キリスト教、その何々派というのではなくそれらの宗教の根底に共通する「宗教的なもの」といってよい。
成立宗教との出会いは「人生の中での宗教」との出会いであった。「宗教的なもの」との出会いでは「宗教の中の人生」、人生が宗教的なものに包まれている。そもそも、人の一生が生と死に画されている有限的な生命である限り、そして生死を問題にするのが宗教である限り、ひとは「宗教的なもの」の中で人生を過ごさざるを得ない。
私の結論は、『人は成立宗教としての宗教に安住してはならない。真摯な探求によってひとたび「宗教的なもの」に触れなければならない。
しかし、そこでつかんだものは、必ずや何らかの仕方で「宗教」を通じてその表出を得る。』ということである。
そして、「一、掃除、二、勤行、三、学問」という仏教本来の行もこれまでよりも素直に受け入れられるようになった。一頁でもよけいに読書するのをやめて以前にもまして、墓参りに見えたお年寄りのお相手をして話を良く聞くようになった。学問と人生とは乖離しているのではないと言う確信も得ることができた。
東洋思想に「温かさ」を求めて
東京大学名誉教授 中村 元
そもそも宗教というのは、言葉で表せない究極の心理を意味する「宗」の部分と、それを人に伝える「教」の部分に分かれる。私は、その間をうろうろしてきただけです。西洋哲学をまず勉強してみたが、鋭さはあっても温かみがない。それで東洋思想にしたのです。
輪廻転生は古代インドの一般的な考えであって、仏教の本質ではありません。と言って、釈尊は当時の民衆の思いをあえて否定しなかった。霊魂についても信じたい人は信じなさい、というおおらかな態度でした。
この世には、いかに正しく生きるか、というもっと大事なことがある。と考えたのです。人間だれしも自分を大切に思っており、だからこそ他人を傷つけてはいけない、と釈尊は教えた。この慈悲の考えが、ギリシャの哲人らに影響を与えたことは間違いない。仏教で言う「大悲」とキリスト教の「アガペー愛」は根本でつながっていると思います。
親鸞の教えには温かさを感じます。我々人間は、理想とは別に、五濁悪世の中で生きていかざるを得ない。五戒に背くような人間の現実をまともに受け止め、自分のこととして考えてますね。
我が家にも仏壇があり、たまに手を合わせます。行というのではなく感謝の気持ちです。もちろん家族に強要はしていません。残された人に迷惑をかけないことが老人の最後の務めです。わざわざ来ていただかないよう、お知らせしないことを家族には話しています。葬式は宗教の本質でないし、あとは適当で構いません。
東洋的キリスト教
98年アジアの司教集会より
§1,アジア
現代の物質文明は、アジア人の魂ともいえる『命の分かちあい』を脅かしている。
キリスト教は従来、天国と地獄などと世界を二元的.対立的に考えてきた。
しかし、東アジアの人は汎神論的で白黒をはっきり分けない。欧米人には父性的な特徴があるが、東アジアは母性的だ。父性は区別して切り離すが、母性はすべてを包み込む。
イエス自身はアジア人だったのに、教えが欧州を経て広まったために父性的な面が強調された。教理や宣教にもっと母性的な表現があれば、より受け入れやすいだろう。
世界の大宗教が生まれたアジアでは、深い霊性や瞑想や修行が育ってきた。しかし、私たちの使っている典礼は欧州のもので、アジアの文化を考慮したものとはいえない。
アジアでは、深い霊性に基づく宣教こそが実りをもたらす。単純さ、許し、連帯、共感などを通じて、イエスを示すべきである。
アジアでは、諸宗教との対話がいっそう必要。
§2,道
東洋人にとって
、「道」は単なる信仰へのプロセスではない。神の愛と知恵に包まれた、それ自体に価値のあるものなのです。
§3,アジアの諸宗教から学べること。
イスラム教--祈り、断食、喜捨
ヒンズー教--黙想
仏教 --物質的欲望からの解放、生命の尊重
儒教 --親や年長者への敬意
道教 --簡素と卑下
アニミズム--自然への畏敬と収穫への感謝
§4,インカルチュレーション
イエスの教えと土着文化との出会いを指す。
従来は宣教される側の変化ばかり求められていた。「ローマ」も変わるべきです。
信ずるものはなぜ救われないのか?
霊魂とは煩脳が生む妄念妄想に過ぎない。
その作用は
・自分自身が原因なのに霊に責任転嫁する。
・未知への不安を霊に託して安心する。
・脅迫や報復の手段として悪用する。
釈尊は古代インドの輪廻転生観や霊魂存在説を否定したが、その後さまざまにねじ曲げられた。
仏陀とは目覚めた人の意味であり、本来の仏教はそうした妄想からの自由をめざしている。
疑似宗教の実態
・来世や前世の話で不安をあおって入信に導く
・伝統宗教の言葉を巧みに取り入れる
・終末論などの破滅の教えを説く
ブッダの言葉
人として生まれ、
また死ぬべきであるなら、
多くの善いことをなせ
人間の価値は生まれでなく行いによって決まる。
マザーテレサのことば
何人救おうとか、どう改善しようとか、そういう効率は求めなかった。
冗談を言っては自分で大笑いをしていた。
そして、貧しい人や死にゆく人を、ただひたすら抱きしめた。
「人間のことを中心に考えて下さい。宗教のことは考えないで。」
「金持ちはいつもちやほやされています。私たちの修道会ぐらい、貧しい人を甘やかせてもいいではありませんか」
「最も不幸なことは、貧しいことそれ自体ではなく、誰からも必要とされていないと感じる孤独感にあるのです。」