PANICのコントロール
パニック時の行動パターン
・同調現象 ---皆と同じ事をしようとする
・左回り現象 ---右足のほうが力が強い
・判断力の低下--苦しさのあまりよく考えれば判ることも分からなくなる
・知覚異常 ---自分に都合の良い解釈する
・硬直現象 ---動けなくなる
・反発的行動 ---ダメと分かっても抵抗しようとする
パニック時のポイント
・一瞬の判断がものを言う
・落ちつけ
・確かめよ
・すばやく動け
海難事故で生き延びる方法
・人生に対して楽観的であること
・詳細にこだわらぬ事
・不屈の体力
災害への備え--3日生き抜く発想を 財団法人市民防災研究所事務局長 岡島 醇
何が足りない、何を準備していないという減点主義ではなく、
防災対策は、「増点主義」の方が気楽です。
寝室を安全にしようと、タンスを固定したり、別の家具でブロックするように配置
換えをする工夫をすればプラスになります。
まずは自分の命を守るための工夫が必要です。 大規模な地震や風水害では電気や水道、ガスといったライフラインが
一時止まることがあります。被災現場を見て回った経験から、
行政の支援体制が機能し、救援物資が行き渡るには、3日程度の時間が必要だと
感じました。このころまでにはライフラインも復旧するでしょう。 コンロは普段から使い慣れたカセットコンロやキャンプ用コンロがよい。 食料は、家庭に普段からストックしているもので米、乾麺、レトルト食品など
10-20日分もあるようです。蓄えはあるんです。 水は、冷蔵庫の他に水洗トイレのタンクの中に10リットル前後入っていて、
沸かして濾せば飲料水になります
それに、行政は真っ先に給水車を出動させるものです。 避難所は、家屋に被害がなく避難命令がでていなければ行くのはかえって
ストレスとなります。家にいれば延焼も防げます。
連絡は、普段から家族の安否を確認する方法を決めておくこと。
遠方の親戚が情報基地となって情報を中継するのがよいでしょう。
被災地から遠方へはつながりやすいものです。
リラックスの基本
メンタルヘルス研究所 久保田 浩也
「人生こうあらねば」、「働かなければ」とがんばる訓練ばかりしてきた現代人にとってくつろぐということが難しくなっている。頑張らなくてもよいときにまで緊張し続けると、心がしなやかさを失う。いろいろな刺激に対応できずに、人前で上がったり小さな事に腹を立てたりして終いには心の病気や肩こり、胃潰瘍などの体の不調を起こすようになる。
しかし、ほとんどの人は、自分がリラックスの必要性に気がついていない。
仕事も人間関係も嫌なことが必ずある。ストレスの原因をなくすことは無理だから、しなやかに状況を受け止めることが大切である。しなやかに刺激を受け止めることがリラックスにつながる。
「何かをしなければ、と思わないこと。無理に意識せず、雑念は放っておく。」
仕事や家事などの日常を離れて自分が主人公でいられる時間を持つ(趣味に打ち込み)。
1.筋肉をゆるめる。
股を大きく開いて椅子に背筋を伸ばして深く座り、上肢の力を抜く。口と目とは半開き顔をゆるめ首を倒して背中を丸める。
2.呼吸を整える。
ゆっくりと腹式呼吸。おなかの当たりをぼんやりと意識して暖かくなるようにイメージする。
3.ゆるんだ筋肉を元に戻す。
首を前後左右回転させる。拳を前後にスライドさせる。背伸びして体幹の側屈をする。
ストレスを感じたときに、自然に避ける行動が気分転換。気分転換を上手にすることがリラックスにつながる。うまく気分転換できないときにリラクゼーション法を用いる。しかし、気を取られ過ぎるとかえってストレスになる。
キュプラー・ロスの臨死患者の心的危機、悲哀の過程
1.ショック(無感動、無感覚、感情麻痺)
2.怒り、助けを求める。否認し奇跡を願う。
3.取引を試みる。
4.絶望し気力を失い抑鬱。
5.受容と和解。
何で私が−不条理と秩序
評論家 吉田 秀和
「人間は不条理の世界に投げ込まれた存在である。」(サルトル)と言う言葉、いつともなく忘れていたが、最近しきりと思い出される。
ある日、少年が思い立って人を殺す。ある日、別の少年がバスを乗っ取り、乗客を刃物で脅した上、傷つけて殺したりする。行動に及ぶまでのいきさつや動機などにみんなの関心が集まるのは不思議でない。
しかし、私としてはそのために生命を失ったり傷ついたりした人、その周りの親しい人達のことをいたたましく思わずにいられない。その人たちは、何故他の誰でもない自分が、また自分の大切な人がこういう目にあったのか、それを問い、答えの見つからないのに深く悩むのではないか。
加害者の責任の特定できない場合だって同じことだ。それまで何100回も普通に電車が走っていた軌道で、ある時突然電車が脱線する。そこに別の列車が正規の時刻表どおりは走ってきて乗り合わせた乗客の生命が奪われたり、負傷したりする。そうなるまでの経過がどんなに細かく説明され、今度は二度と起こしませんと言われたところで、被害者にとって受け入れがたい不条理でしかないのに変わりない。
何故、そのとき、自分はその電車のその場所にいたのか?
あるいは病気。身体の不調で病院に行ったら、不治の病と診断され、あいにく場所が悪いので手術できないと言われる。死に至る病を身内に抱えどれほどの余命か、誰一人予断できないまま、生死の間を刻一刻と過ごす。
こういう事態に直面した人は、誰だって何故こういう事が他ならない自分に起きたのか、何故、その位置に病気が巣くったのか絶えず尋ねる。でも、答えはない。
反対に、何らかの理由でそのバスや電車に乗り合わせなかった人、乗っても違う車両に乗り合わせた人また少し違う場所にガンができた人にとっては事態は全く違い、いつもと変わらぬ日常の支配する世界で呼吸している。
してみると、不条理は普通の世界にどこかにぽっかりあいた穴のようにも見える。
それも理屈に合わない。それよりむしろ、私たちは死、病、苦しみと言ったものに出会って初めて不条理に気づくのだが、実は私達の生、健康、喜び、幸せ、と言ったものも、理由があってのことではないのではないか。
死や不幸といった「マイナス」だけが不条理なのではなく、その逆の私たちが願い、それを楽しんでいる「プラス」の状態だって、自分はそれに値するなにをしたかと考えるとき、そこに条理が見いだされるのだろうか?
私は愛する親しい人たちと一緒に幸せに生きていた頃は、それを当然のように受け入れていたけれどもそれがなぜ条理なのか??事故にあったのが不条理なら、たまたまその電車に乗らなかったのがなぜ条理なのか。両者は同じものの裏表であり、条理の上では区別できない。不条理の刃物に倒れるのが受け入れがたいと言うなら、その逆も本来根拠がなかったのだ。
なんと空しいことであろう!!。
この考えに取り憑かれ、心は閉ざされ、何十年もの楽しみにしてきた音楽を聴くための窓を開ける気力もないまま、時を過ごしていた。
私は、バッハの「平均律クラビィア曲集」全二巻を聴き出したら心が静まり、世界には何も無いのかもしれないが、その空虚の中で空虚のままに一つの「宇宙的秩序」とでも言うべきものが存在しているのかもしれないという気がしてきた。しかし、聴いたあとは、不条理、無意味の苦い思いは消えずにまた帰ってくる。
バッハのこの音楽の意義は、「秩序の存在」を感じさすところにある。これを聴いていると、たとえ世界は混沌の渦巻く無意味でうつろな穴だとしても、その中で何かが起こり、何かが起こらなかったのはそれなりの条理があったのではないかと考えさせられてくる。
人間はもちろんあらゆる生物をしに追いやるのは、私達を生かし、花を咲かせ実をならせるのと同じ力なのだ。そこにどんな条理があるかどうかはわからない。たぶん何にも無いのではないか。
でも、人間はお互いに殺したり、傷つけたりするだけではなくこういう芸術を作り出す創造的想像力を働かせることもできたのだ。
不条理の中で生きるとは、どういうことなのか、年とともにますますわからなくなった。