苦難は人に喜びを与える―――教会に響け、よろこびのうねりを
2004.11.07
他人との出会いは不思議なものです。特に、ケガの治療を仕事としている私の処には、いろいろな仕事の人が、いろいろな事情で思い通りに動けなくなって、不安といらだちを持って入院してきます。「痛み」で苦しみ、「入院する」という辛いことになり、さらに「手術しなければならない」と言うことになれば、最悪です。事態を受け入れられずに、「何でこんな目に遭うのか」と怒っている人もいれば、「もう私はだめじゃないか」と絶望的な顔をしている人もいます。
初対面のそんな人たちの心情を察し、何が一番困ってしまうかなどの事情を伺いながらゴールを設定し、正確に何処がどの様に壊れていて、どうすれば一番早く機能回復しうるかを考えるのが私の仕事です。痛み止めの処置をし、少し気分が落ち着いたところで、お話しということになります。そこでは、その人の暮らしがすぐには見えてきません。手術も終わり、リハビリの段階ぐらいまでくると、その人の枕元には、その人の生活の一部がちらっと顔を出します。家族の写真を飾っている人もいれば、孫の描いた絵を大事に飾っている人もいます。
ある時、白髪のおばあちゃんの枕元に一枚のポスターが貼ってあるのに気付きました。「何でこんな処にチェンバロのコンサートのポスターがあるのだろう」私は不思議に思いました。さらによく見ると、台の上には一枚のCDが置いてあり、その写真はポスターの女性と同じで、さらになんと患者さんと同じ名字なのです。「どなたかコンサートなさるのですか?」と尋ねると、「自分の娘で、海外で活動している」と答えたので、「じゃあ、是非とも聞きに行けるようにリハビリ頑張りましょう」と言ってその場を離れた。
このコンサートは残念ながら聞きに行けませんでしたが、患者さんが退院してからしばらくして、娘さんが「付き添い」として外来で会う機会がありました。想像していたとおり、日本人離れした感性がとぎすまされている方でした。
「ちょっと相談があるんですが、実は私、OOと言われたんだけれど何処で手術した方がいいかしら」と何の躊躇いもなく聞いてきた。「それはたくさんやっている所の方が診断も早いし、正確だ。それに難しいものの場合はそれなりにすぐに対応が出来る」と答えると、「やはりそうね。すぐ仕事の都合つけたら手術するわ」と言って去っていった。
3か月もしたときには、娘の手術は順調に終わって、手術をした先生も「もう弾いても大丈夫だ」と言われていても、娘はすっかり気落ちし、手術の傷跡と薬の副作用のためもあって全くチェンバロに向かえないらしい。さらに「昔のように弾けないのでとても怖い」と言っている。どうしたらよいだろうとおろおろしている母親。本人も「これ一筋にやってきたのでどうしたらよいか分からない」と言っているようである。
「同じように弾こうとするからつらいんだよ。生まれ変わった、新しい自分の弾き方でいけばいいんだ。早く弾けなければ、テンポを落とし噛みしめるように情感を込めてすればいい。きっと違う自分の良さを発見できるよ。遠ざかって逃げちゃだめだよ。離れれば離れるほど戻れなくなってしまう。人生、塞翁が馬さ」と何かわかったようなことを答えてしまった。
次の母親の受診の時、「うちの娘は決して弾こうとしなかったのに、先生の言葉を伝えたらやっと弾きだした」という。さらに、「なんとか次のリサイタルにむけて頑張る」と言っていたという。あーよかった。元気なときには何のことなく出来ていたことでも、人はつらいときにはちょっとしたことでも突っ掛かってしまって、乗り越えられなくなってしまうものです。
無事、海外で復帰のリサイタルをし、一ヶ月後に日本で復帰後初めてのリサイタルをすることになった。招待状が届いたのでどんなものだろうと聴きに行った。
石造りの教会の中はうす暗くヒンヤリとしていて、演奏者の登場する足音が天井に響いた。拍手が静まって一瞬の沈黙の後、黒い鍵盤の上に白い手が動き始めた。じっと抑えた調子で弦が弾きだされた。
以前聴いたような、自信に満ちあふれ勝ち誇ったような自分をだしてくるような感じは消え失せ、「これでいいのかな」というような手探りの感じがした。
曲が進んでくると、「これでいいんじゃないかなあ」というような「弾けることの楽しみ」が前に前にとでてくるようになった。「思いどおりに出していけないでじっとこらえる辛さ」より、楽しみながら「現在の自分を肯定していく姿」が弾く呼吸の合間にみられ、教会の天井高くに喜びの響きが広がっていくのを感じた。一回り味がでてきたようで、うれしくなり、じーんときた。
我慢するのではなく、苦難を自分への薬として取り入れることにより、
人に喜びを与えることが出来るのではなかろうか。