死ぬということ
自死を選択された遺族に捧げる
2013.12.12
身近な人が二人相次いで自死されました。
一人は幼少期から良く知っている遠縁の五十台の妻子ある働き盛りの男性。
もう一人は、結婚以来五十年一緒に仕事をしてきた妻をガンで亡くし、自失状態の七十代の男性。
この方は私の外来で五六年お世話をしてきたかたです。
いずれも、止めることができなかった。
こちらが説得、カウンセリングの時間もとれないうちに、
「自分の人生は自分で決める」という自己決定権を使われました。
遺された者は言葉を失い、残されたメッセージを懸命に探しましたが、納得のいくものは見つからず、
自分たちの無念・無力さのみが残り、自責の念も湧き上がってきて、途方に暮れることになりました。
これをどの様に解釈して、心を整理していったらよいのでしょうか。
私なりに色々考えてみました。
浮かんできた問題点は次の通りです。
1 何故 自死を選んだのだろうか
2 我々に出来ることはなかったのであろうか
3 その人の人生は「幸せ」であったのであろうか
4 その後「魂」はどうなるのであろうか
5 遺された者はどう受け止めればよいか
1 何故 自死を選んだのだろうか
この世に生まれた以上、生まれた瞬間から死へ向かって時間が動いています。
このことは隠せない事実です。生まれてすぐ死ぬ者もいれば、百歳まで生き延びる者もいます。
生きている間に、自分の与えられた「生き方」が何であるかを知ろうと必死で探し求めます。
何かしら見出して、どんどん進む人もいれば、
挫折して何がなんだか判らないうちに死を迎えることになる人もいます。
まさに人生色々です。これが一番いいというものはありません。
生まれたからには、必ず死を迎かえます。
死に方には、ガンなどの病死、偶然の事故死、他殺、処刑死、自死、食べなくなって老衰死がありますが、
医学的にはどれも価値は変わりません。魂が体から離れるだけです。
「終わり良ければすべてよし」という言葉がありますが、本当にそうでしょうか。
生まれ方、死に方が美しくなくても、立派な人生を送った人はたくさんいます。
この言葉は、周囲の人にとっての価値観であると思われます。
不満、嫌なことがあって我慢できなくなり、自分がコントロール不能となっても、
目先ベストと思われる方法を選択したと思われます。
本人の意志を最後は認めないと周囲の者は辛くなります。
2 我々に出来ることはなかったのであろうか
「求めよ、さらば与えられん」という言葉があります。
周りがあれこれ言っても自分が助言を求めなければうまくいかない。
頑としてうけつけない場合にはどうすることも出来ません。
何かヘルプのサインを出していなかったか、何かメッセージを遺していなかったか。
環境を変えてやることができなかったか、気になるところです。
細かいところは一緒に住んでいる者にしか判りません。
しかし、強制的に事を進めても反発されるだけで,反って事態が悪化するだけです。
救うことができるのは限られているのです。
病院なら救えるのかというと、方向付けと体力の温存しかできず、
最後は自分の力で治すしかありません。
私も30年間医者をやってきましたが、医者の関与できる余地は6割しかありません。
3 その人の人生は「幸せ」であったのであろうか
何故、自分はこの世に生まれてきたのだろうか。
勝手に親が生んだのだろうか。自分から親を選んで生まれてきたのか。
この問題は、自分の人生の生き方の根源に関わる問題です。
親、妻子、周囲の人達に感謝の念を残して逝っただろうか。
うまくいかない事を皆他人の所為にしていなかっただろうか。
自分が幸せかどうかは、結局「自分の思い」が決める。
4 その後「魂」はどうなるのであろうか
この地球は「魂の修行場所」であり、一つの目的を達成すると次の人生で違った目的を課せられる。
何百回もいろいろな人生をやり直し、修行することが無くなると、極楽へ成仏する。
だから、修行中の未熟な魂ばかりが地球上に溢れている。
という話を読み聞きしたことがあります。
この観点からすると、周囲に悲しみを残してしまったのでどこかで改心する必要あり、
いつかやり直しの人生をすると思われるので、励ましてあげたいと思う。
5 遺された者はどう受け止めればよいか
生まれた以上必ず遅かれ早かれ死ぬ。
「死」を意識する事は「生きることの意味」を考えることになる。
自分の気持ちが他人に影響をもたらすことはできても、その人の人生を変える事はできない。
最後は、自分の事は自分で決めるしかない。
その意味では、「自己決定権」は守られるべきだ。
自死をそのまま受け入れるしかないであろう。
遺された者は、自死した者の意志を尊重し、魂の再生を祈ってあげるのが弔いになると思う。