母から教わった事
ー最終回ー 桜に寄せて 2005.04.16
今年は暖冬のせいか桜が一気に咲いて、見頃が3日間ぐらいしかないせわしい年でした。しかし、その咲き方のすごさ力強さには圧巻されました。桜が咲くと、次々にチューリップも咲き出し、街は花一色に包まれました。
毎年のことなんだけれども、今年ほど桜を待ちこがれることはありませんでした。
二年前の闘病生活の始まった時も、伊豆の桜は満開でした。毎年桜を見ることをを目標に家族で支えてきました。そして、今回も「何とか桜の頃には退院して花見をしようね」と母と約束していたからです。
しかし、桜の蕾がふくらんでも、何も食べられない状況が続きました。今までの経過からすると食欲が回復してくると時期に退院可能になるのが常なのに、今回はちょっと違っていました。退院のことは本人も口にしなくなりました。大好きな桜の花の蕾を見せると、口数少なく、「もうこんなになったのね」とすっかり忘れていた様子でした。私も、自分のパワーが下がっていて何も元気づける言葉を失っていました。
何とか桜から力を吸収して母に力を渡したいと思い、高尾の林野植物試験場に見に行きました。山桜は、空に向かって白い小さな花びらを擁して端麗な姿をしていました。人に媚びることなく、淡々としていました。やっと元気の良いピンクの大きな蕾をたくさんつけている桜を見つけました。大地から冬の間しっかり力を吸い取って、さあ出番がきたこの時とばかりに我が物顔をしているそんな感じでした。
私のなかの母は、何事にも決してあきらめない強い人でした。物事を悪いように考えずに、嫌なこと辛いことがあっても、それをテコにして自分の原動力にしてしまう人でした。ピンクの桜の蕾そのイメージでした。今は、派手さがなくなり、山桜のようになって物静かに横たえています。
ピンクの桜の蕾の写真を見せると、「とても綺麗ね、元気がいいわ」と一言いいました。
そしてこれが最後の言葉になりました。
母桜は散ってしまいましたが、私の心の中にはいつまでも咲き続けています。
桜のよいところは、「パーと咲いてパーと散るところ」ではなく、
「じっと耐えて、力を内に蓄えて毎年きちんと咲くところ」ではないでしょうか。
ーその7ー 「愛する」ということ 2005.03
大好きな親の事だから面倒見ていられると思っていたが、入院を何回も繰り返してくると、母もなかなか回復しないのにいらいらしてきた為もあったのかもしれないが、ときにきつい言葉が出てきて、肝にさわったりするようになった。
「これだけやっているのに」、とか「何のためにやっているのかねえ」などとつい愚痴がでそうになった。
愛した分だけ愛されることを望むのが人間です。ただこれでは、真剣に「愛してあげたのだから」という考え方は、いつか必ず傷つくことになる。「相手がそれに十分に答えてくれない、また誠意を示してくれない。裏切られた。」などと私達は勝手に傷つくのです。
愛することは、自分の勝手から出たことだと繰り返し自分に言い聞かせていれば、たとえそれが報われなくとも腹を立てずにすむかも知れません。愛は、強すぎるとお互いに相手を「溶かしてなくなしてしまう」そういうものなのです。
親の介護はボランティアと同じなのです
無理せず、楽しみながら、末永く
ーその6ー 「治る」ということ 2004.07
ある日、「早く良くなりたいけれども、ほんとうに治るの」と質問された。
この時は、「そうねえ、年を取っているから治りが遅いし、お手入れすれば長持ちするよ。」と答えた。
「そんなら治療続けるか。でも、おばあさんになったから仕方ないかねえ」
「治る」といえば、辞書を引くと、「病気やけがが良くなって,元の健康な状態に戻ること」とある。
「元通りになる」、「元気になる」、と「治る」はどこか違うように思える。一度傷ついたものは、一見元に戻ったように見えても元の状態ではない。
ましてや、年をとってからの回復はなかなかである。たとえ不愉快でも、勇気を出して「治らぬ部分がある」と自己の老化を受け入れてあきらめることも必要である。死についても同じことで、人は遅かれ早かれ死を迎える。そのことを素直に明るく正面から受け止めてはどうであろうか。
人間は、「治らぬ部分を抱えた存在である」ことを認めることで、道が一つ開けるのではないでしょうか。
医療でできるのは、悪くならないような「方向付け」だけである。
ーその5ー 同じ釜の飯 2004.01.11
「同じ釜の飯」というと、同じ苦労を共にしたという意味で使われることが多いが、「年をとってからの釜」は違う意味を持っているようだ。食べること、排泄すること、寝ることは基本的な本能の行為であり。それにコミニュケイションの欲求が加わると人間らしくなってくる。このうちの食べることは、体に染みついたことで、特に厨房をあずかる女性にとっては、自分の場所であり、独壇場なのである。
食べ物を作る釜については、このごろは電気炊飯器がふつうとなり、スイッチさえ入れればうまく炊けるようになってきている。いい時代になったものだと思っていた。
我が家は五人家族で、食い盛りの頃は「飯はまだか」と急かされることが多く、なるべくならたくさん炊いてあれば安心であり、少ないと不安になるようであった。しかし、一升炊きの釜ではどう見ても炊きすぎてしまい、黄色く変色した飯ばかり食わせられるのはご免なので、家族も二人、三人と減ってきたので、一回り小さい五合炊きの圧力式電気釜を買ってあげました。
試運転では、三合炊いたら三十分でふっくらと仕上がり、「やっぱり新型の器械はすごいね」と皆で驚いていました。「明日から五合でなく三合ずつ炊くといつもおいしいご飯が食べられるね」と念を押しておきました。
翌日、炊飯器の蓋を開けてびっくりしました。釜の蓋のところまでご飯がくっついて隙間がありません。「何合炊いたの」と尋ねると、「覚えていない」と言う。「いつも通りだと思うけど」「三合で良かったんだよ。これはどう見ても六合炊いてしまったようだよ」私は、しまったと思いました。母は、いつもの通り無意識に米を量り、何も不思議に思わずに目分量で水を入れ、ご飯を炊いてしまったのです。おかげで、三日間も同じ釜の飯を食べることになりました。
やはり、年をとると同じ飯の釜でないとだめです。
-その4- 介護の時間が無くなり、ついに転職へ 20003.08.08
長年、こういう風に医者をやっていると、良くもまあこんなに人の世話が焼けるものだと自分でも思うことがある。特に、高齢者の多い整形外科ではまさに「じじばば」のお世話の毎日である。
自分の親のつもりで、親身になって話を聞いて色々物事を整理整頓して、何とか自信を取り戻せるように毎日毎日診療を黙々と続けてきた。
母が入院する前まではそれで良かった。
母が入院して、余命を知らされ、待ったなしの毎日が始まってみると、救急病院で「突然訪れた知らない人達」に偉そうなこと言っている自分に疑問が湧いてきた。
「何で自分の母にしてあげられないことをそこまで他人にするのか」と。このままでは親の死に目にも立ち会えない。もうこうなっては、この仕事は続けられない。救急の仕事はもう辞めよう。迷うことなくそう決心した。
一ヶ月間の休養の時間を取ってから、心身に合併症を持った障害者の治療をしている病院に転職して一人一人時間をたっぷりかけてじっくり見ようと思っている。これが母への最高のプレゼントであろう。
仕事がうまくいっているのに何で辞めるのかわからないという人がいるが、私にとって大事なのは、いちに「家族」であり、仕事は「自分の考えを実現化するための手段」に過ぎないのである。自分の家族をキチンと見れない人が、何で他の人にああしろこうしろと言えるのであろうか。
まず足元を固めよう
ーその3ー ぎっくり胸?? 狭心症か心臓神経症か 2003.04.30
ある日、腰痛の予防にコルセットをつけて庭仕事をした後、夕方ビールを飲んでうたた寝
をしようとしたとき、左の胸に激痛がおそった。丁度乳首の外下2センチの所にさわると
激痛を生ずるところがあり、心臓の鼓動と同時にズンズンと痛んだ。大きく息が吸えず、
仰向けになるだけでも息が詰まるようにいたくなった。椅子に座っているのが一番楽で、
横に寝るのが一番つらかった。でも以外に、立って歩くのは出来た。
狭心症かと思った。でも痛い場所が限局しすぎている。それに歩けるではないか。脈を
測ってみたが、90で不整はなく血圧も120/80と安定していた。 これはナンジャイと思
って、同じ職場の循環器の先生に自宅へ電話してみた。どうも狭心痛の様ではないようだ。
でも気になる。気になればなるほど今晩寝られるかが心配になってきた。心電図と胸の
レントゲン写真を撮ってみればすべて納得がいくであろう。結局、夜9時頃、妻に自動車
を運転させて自分の勤める病院迄行き、心電図とレントゲンを撮ることにした。
首を傾げる当直の内科の先生から聴診を受け、心電図を撮ってみたが特に異常を認めな
かった。自然気胸でもなく、肋骨も正常であった。少し恥ずかしい気がした。
ほっとしたが。「何だったんだろう。」と思った。妻は「よかったね、これで安心して
今晩寝られるね。あなたが倒れてしまったら大変だもの。」と言った。何か救われた気が
した。帰りの道からどんどん痛みは軽くなっていった。
痛みは3日は続いて深呼吸するとズキッときた。でも5日もすると嘘のようにいたくな
くなった。寝違えやぎっくり腰は3から4日かかることは知られているから、やはり、「ぎ
っくり胸」だったのだろうか。それとも、介護疲れしているのに誰も私の体のことを労っ
てくれないので「無意識に演技をしてしまった」のか。「ヒステリー」ないし、「心臓神
経症」だったのか真相は闇である。
でも、私の体のことを妻が心配してくれて「病院へ行こう」と言ってくれたのは本当に
うれしかった。 いつも、職業上他人の体の心配ばかりしているのに、自分のことを心配
している時間がなくなっているのは事実である。「自分も普通の人間なんだ。」と自己主
張してみたかったのかもしれない。
病は気から。
まずは自分の健康管理から。
ーその2ー 呆けは生きる知恵 2003.01.26
退院した翌日、「今日の昼頃行くからね。」と母に電話しておいて、午後に訪ねてみた。「あら、来てくれたのね」と母は喜んだ。「少し遅れちゃったけど。」と言い訳を言うと、「あらそんなこと言ったかしらねえ、今日来るなんてこと言ってたっけ、良く覚えていない。」「なんだかこの世だか、あの世だか良くわかんないの。七色に見えるからこの世のようだけど、全然実感がないの。まるで浦島太郎の気分。」「近所の川のような処を渡ろうとしたら、川底の石についた藻でぬるぬるして足が進まず、そのうちに何無阿弥陀仏と書いた白いたすきが流れてきて足に絡まって全然進めなくなった。きっと三途の川だったのね。いい事したから救われたのね。」と勝手なことを言いだした。
昔の、体験に基づく記憶と宗教上のことが自分の頭の中で自分に都合のいいようにブレンドされ、あたかも事実のように思い込でいる。一種の自己防衛反応かもしれない。
一ヶ月半も入院していたのに、「そうねえ、一週間ぐらいだったかしら。」と言う。辛いことは、早く忘れてしまおうと言うことらしい。
「早く呆けた方が勝ち」とは良くいったものである。呆けてしまえば自分はいたって幸せである。人間は、辛いこといやだったことをしっかり覚えていて、それを糧に成長していくものである。しかし、成長が止まったとたん、辛いことはすぐ忘れるようにして過剰の情報をブロックしているのではないか。
呆けは「高齢者の生きる知恵」なのである。
ーその1ー 「神頼み」は自分を強くする 2003.01.12
親の老いる姿を見るのは辛いものだ。歩くと息切れし、階段は膝に手を当てて上がるようになる。「明日また来るからね」と言っても、五分とたたない内に「今度いつ来るの」と聞き返す。少し呆けたかなと思っていたら、「財布をとられた」と言い出した。「なくすと困るから預かるよ」と目の前で確認しても次の日にはその有様である。
息切れに続いて疲れやすくなり、風邪がなかなか治らなくなった。そのうち鼻血がいつまでもぐずぐずと止まらなくなった。ここで、これはちょっと普通ではないことに気が付いた。確かに結膜は真っ白で貧血のあることは確かだ。「血小板が足りないのではないか。」と思い、病院の内科で採血をしてみた。すると、赤色素が6.4と正常の半分。白血球が700と正常の10%、血小板は3万と正常の十分の一しか無いではないか。これにはさすがに驚いた。呆けではなく貧血それも全部の血球が減少していたのだ。
医者の診断では、急性白血病という血液の癌であった。多少とも辛い化学療法して延命をはかるか、辛いことせずにただ血液を補充するか、それとも何もせずにホスピスを選択するかと言われた。いつかは死ぬ日がやってくるとは分かっていても、現実の選択肢の中に「ホスピス」という言葉がでてきたのにはこたえた。
本人は気が強く頑張るというので、低量化学療法が始まった。日ごとに、どんどん白血球が落ちていってついに200までになった。母は下痢し、熱がでて、だるくて座っていられなかった。ビニールで仕切られたスペースの中に上半身を入れ空気を洗浄していた。トイレに立っても間に合わず、何枚も便の付いた下着を持って帰らなければならなかった。点滴が一週間続き、毎日毎日弱っていった。食事も摂れなくなり、偽膜性腸炎となり絶食となった。中心静脈栄養のはずが気胸をおこして片側の肺がつぶれてしまった。いよいよ肺炎でもおこしたらいっかんの終わりだと覚悟を決めた。母を見るのが辛かった。「もう少しの辛抱」としか言いよう無かった。「こんな事ならやらなければ良かった」と何度思いそうになったことか。
そんな時、ふと死んだ父の顔が脳裏をよぎった。「そうだ、お母さんには死んだお父さんがついて守っている」。何か急に救われる感じがした。父のお墓参りに行こう。そうすれば何か力がでてきそうな気がした。行く前に「お母さん、お父さんの墓参りに行くんだけれど何かメッセージある?」と聞いてみた。「そうね、私を助けてちょうだいと言っておいて」と私にすがった。「わらをも掴む思い」とはこういう心境の時に言うものだと思った。
父の墓の前で、合掌して「何とど力を貸して下さい、私にはこれ以上のことは出来ないので助けてください」とお願いした。なにか「分かっているよ、そのようにしていればいいんだ」と言うような声が聞こえてきた。病院で母に「お父さんは、力を貸すから頑張れって言っていたよ」と伝えると、にこっとした。この表情を見て「治る」ことを私は確信した。生命力の強さを感じたからである。
実際、この一週間後より驚異的な回復力が出てきて何とか危機を脱した。
「神頼み」というと何か自分は何もしないような印象を与えるが、実は「自分の力を信じて何も迷わずに進むこと」なのかもしれない。「信ずるものは救われる」とはまさしくこの事だったのである。