一辺10mを越すであろう部屋。
 その一面は全てガラス張りで作られているにもかかわらず、その窓から差し込む午後の強い日差しでさえ一部の床を照らすだけ留まる。
 床に反射した光でさえも部屋の天井の一部、わずか片隅に見えぬ程度を照らすだけに留まり、中央にすら届くことはない。
 それだけに床の中央付近に淡い光を放つ異様な文様はその暗さを際立たせており、さらには置かれた巨大な机も、影と共に主の力の強さを表している様にさえ感じる。
 この場に在る空気は常人には耐えられぬ程の重さを感じさせ、心を圧し潰す。
 机に片肘を突き、片手で口元を隠しながら威圧的に佇む男。
 空いた手に握られた一綴りの書類に目だけを流し字を追う。
 机を挟み男・ゲンドウに対峙するリツコも冷静を装いながらも、それに記された内容を思い出したかのように僅かに震える。

 ――サードチルドレンの深層心理に関する報告書――

 だが、それに記載された事実さえもゲンドウはただ淡々と目を通すだけ。
 無意識下でのサードチルドレンの保護欲求の増大。
 そして、母性に対する認識の変化。
 保護欲求の増大というのは、アスカとの交際関係から生まれたものかもしれない。
 異性と交際し始めた少年が、父性に似たものを内面に新たに抱えることは珍しいことではない。
 だが、母性の認識変化…これが指す意味は大きい。
 母の記憶がないシンジが認識を改めたとすれば…それは、リツコが最も恐れていた結論に繋がる。
 初号機に眠るシンジの母からのシンジの意識への干渉があったという仮説が浮かんでしまう。
 内容に気付かないはずのゲンドウではないのだが、その面には僅かな動きさえも見えない。
 そればかりか、書類を下らぬ物とばかりに机の上に投げ捨てる。
 片手では隠しきれない口元の歪みが、その手から覗く。

「葛城三佐がなにか、気付いたようです…」

 僅かな呼気さえも聴こえぬほどの静寂のなかで紡ぎ出された言葉。
 心の中の揺れが、リツコが装う普段の冷徹な響きを伴う声に波を与えている。
 リツコはあえてそれを出したのかもしれない。
 聞き届けてもらえぬ願いと知りながらも、その不安を向かい合う男に取り除いてもらいたいが為に。

「もし、レイやシンジ君の耳に届いたら、私達は許してもらえないではな…」

「ダミープラグの開発状況はどうなのだ」

 だが、ゲンドウはそんな願いを受け入れるわけも…気付くことさえなく遮り、リツコに計画の進行状況のみを求める。
 その視線は「そんなことは聞いていない」と…
〜そうよね、分っていたはずなのに。この人は…、〜
 傍目にはその様子は理解できぬであろう落胆を僅かに出し、心の内で溜息をそっと吐く。

「既に試作品は出来上がっております。但し…」

 理性では想い人が助けてくれることなど無いことは既に理解していたにも拘らず、心のの何処か…感情でそれを期待していた弱い自分に、
 自身の女の心に対し、嘲る。

「あくまでフェイク、魂のデジタル化には至りませんでした。」

「かまわん。エヴァが動きさえすればいい」

コトノハノカミ〜スギルオモイ

書イタ人:しふぉん

 背後から感じる視線に、テレビに映る流行のドラマもアスカの頭に入らない。
 例えそこに、お気に入りの俳優と女優が舞台の最高潮を演じて涙を映し出していたとしても、それは今の彼女には作り話の出来事。
 今、ここで過ぎ去って行く時の流れと比べられるわけもない。
 視線の元である少年は彼女の後ろにあるテーブルで端末を開き、課題をこなしているはずなのだが…それを感じるときには、端末が奏でるリズムがぴたりと止んでしまっている。
 その視線の意味を探るべくシンジに振り向く意思を見せようすると、僅かに動いてしまった体にその視線は止んでしまう。
 さらに続くように聞こえてくる、端末を叩く音にその想いを封じられる。
 そして、暫くすると音は止み…アスカの背に視線が刺さる。
 繰り返されるそれに、アスカの心が次第に苛立ちを大きくしていく。
 だが、甘い予感がその苛立ちを押し留める。
 もしかしたら、シンジが何かを強請ってくるのではないか?
 それはキスかもしれないし、抱きしめてくれるのかもしれない。
 先ほどまでその目に映っていた俳優達の顔がシンジとアスカの顔にすり変えられ、アスカの頭の中で流れ出すが…
 少女漫画の主人公が語る恋物語よろしく、ありがちな程に奥手なシンジの行動がその想像を真っ向から否定してしまい、アスカの思考にその意見を全面否定をさせてしまう。
 ふと思い出してみても、自分から強請ったことこそあれ、シンジから積極的にその行為に至ったことがないのも要因。
 願望が彼女自身の正常な判断力を奪っている今、シンジから流れでる雰囲気・視線の意味など感じ取れずに、想像は膨らんでゆく。
〜もしかしたら、それ以上も…なぁんて、シンジだもんねぇ…〜
 男と女が一つ部屋で、辿り着く『行為』。
 それを一瞬だけ、思い浮かべながらもシンジの性格を考えると、その懸念は即座に霧散する。
〜ありえないわね…にしても、こんなことをアタシが考えるなんて…〜
 胸の中で小さく溜息をつきながらも、想像を途切れさせることができない。
 次々と思い浮かべては、否定し、別の状況を想像して、さらにそれを否定する。
 苛立ちを感じながらも止め処なく流れるそれは、心を弾ませ…さらに想像は膨らんでいく。
 だが、想像がその『行為』そのものに辿り着かない。
 幸せの中に浸りきったその心には、その理由など思い浮かぶはずもない。


 一方、見つめるシンジは不安に心を縛られ、アスカの変化に気付きもしない。
 訊き、確かめたい事があるにも拘らず、問うことが彼女を苦しめる事になるのではないかと…
 安易な推測からくる思い込みが観察力を低下させる。
〜訊かなければ…でも、訊いたら…〜
 ループ上に陥りつつある考えに出口を見出すべく、アスカを見つめていたのだが…
 思い浮かんだ意見を否定する材料を見つけ出すことが出来ない。
 生み出された不安は、その大きさを無秩序に拡げてゆき…口を開くことができない。
 それゆえに、アスカを知ろうとする真摯な思いを込めて、その背中を見つめる。
 見るだけで人を知ることができないのは理解していても。
 しかし、口にできないその矛盾に、心は答えを導き出すことはできない。
 シンジにしてみれば、予想外の出来事から始まったアスカの関係。
 そして、それから始まったアスカの変化。
 強く凛々しい少女から、普通の少女…年頃よりも幼く感じさせる少女へと。
 時折見せる滲んだ瞳は、それまでのアスカの評価を一変させて、何度もシンジに鼓動を激しくさせた。
 反面、笑顔をより無邪気なものに変化させ、心に安らぎを与えた。
 そして、一度だけ見せた涙。
 思い起こす度に、内に沸き起こる得体の知れぬ感情に苦しむ。
 それを見たくないと…
 だが、シンジが問おうとしてることは、それに繋がる気がしてならない。
 矛盾は迷いを生むだけでしかない。
 他の解決方法を模索しても、それは何事も無かったかのように演じ続けるだけでしかない。
 それを続けられる自信もシンジには無い。


 ドラマはエンディングを終え、すでに間を埋める旅番組へと変わっている。
 しかし、シンジもアスカもそれに気づくことはない。
 ただ演じ、興味のないテレビを見つめ、既に終えているはずの宿題に励む。
 普段ならば耐えられぬ沈黙さえも気付かぬまま。
 CMの大きな音に一瞬だがシンジが我に返ると、いつもならドラマの感想を文句をつけながらも楽しげに語るアスカが、興味も持たぬメッセージを眺めている。
 そして、シンジを伺うようにその神経を背中に集中させている。
 自分の視線を察しながらも、声をかけられないもどかしさに彼女が悩んでいるように見えてしまった。
〜訊いても、訊かなくても…結局、僕は…だめなんだね〜
 自分が悩むことにが彼女を苦しめてしまうという愚かさを再認識する。
 見せ掛けの宿題を放棄することに決め、ゆっくりと深く吸い、息をとめ決断を下す。
 そしてゆっくりと息を吐き、躊躇する心を胸の内から追い出していく。
 決意に小さく頷き、その視線をアスカへと向けなおす。

「あのさっ!」

 勢いを乗せ過ぎ、大きすぎた声がアスカだけではなく彼自身も驚かせる。
 失敗に気づいたときには振り向いたアスカの丸くなった目を向けられていることに戸惑ってしまう。
 空想に浸っていた所で急に大声で呼びかけられれば、驚くのも当然。
 それも、らしくないとアスカ自身が思う事を想像していたのだから、彼女の心臓が悲鳴を上げていたとしても不思議はない。

「な、なによ!いきなり!?」

 目尻を吊り上げ、頬を赤く染めながら以前の様に怒る姿に、シンジは反射的に勢いを失い、俯いかされてしまう。
 アスカも少し不機嫌を装いながら返事ができたことで、妄想を知られずに済んだと安堵し、頬を崩していたりするのだが…シンジはそれに気付きもしない。
 シンジの頭の中では言い訳を考える部分が大きく育ちはじめており、本来の目的を片隅に追いやっていっている。
 だがそれは、シンジが口に出す前にアスカが溜息とともに優しげな声で溶かされた。

「怒ってないわよ、急にあんな声出すから驚いただけ…。っで?」

 シンジは問いに決意をもう一度固めると、ゆっくりと頷く。
 ようやく苛立ちが解消されると…アスカも微笑を浮かべ、テレビを消すとともにシンジに向かい合うように座りなおす。

「先に言っておくね…辛かったり嫌だったら答えないでいいからさ、」

 アスカは、シンジが足元に視線を移しながらの言葉に身を硬くする。
 先ほどまでの想像の様なことではない。
 シンジの表情がそれを暗に語ってる。

「アスカの…」

 言い淀み、短く切られる言葉に…アスカは無意識に表情を曇らせていた。


 ジオフロントを公園にでもしようとしてたのかしら?
 そう思ったとしてもまったく不思議じゃない。
 利用者が誰もいないのに存在する遊歩道。
 そして、点在するベンチと自動販売機。
 本部から少し離れたその一つを加持君が立ち止まり、座るように促してくる。
 多分、この場所が安全である証。
 姿を遠くから見られることはあっても、音は拾われないのだろう。
 それを肯定するように、加持君は自販機で私の好きな缶コーヒーと、自分の分を取り出すと予告も無く放り投げてくる。
 加持君が昔と変わってない証拠みたいなもの。
 私の都合なんかお構いなしで、自分の事しか考えてない証拠…
 そして、それを苦もなく受け止める私も一緒と言うことの証。
 今の私達は…互いに利用しあうだけの関係。
 例え、奥底に本気が見え隠れしていても…

「悪いわね、忙しいのに」

 まさに口先だけの謝辞に、加持君は思わず苦笑いを浮かべる。
 忙しくないってことは無い。
 そんなことは承知の上。
 きっと否定したくても、さっきの事で否定できるだけの説得力がないって、そう思ってるのよね。
 エスカレータですれ違った私は、加持君を追いかけるために、再び逆方向のエスカレーターに乗ったんだけど…
 ものの2分もしないうちに、さらにすれ違ってしまってた。
 お互い携帯に連絡を取ればいいだけなんだけど、それを躊躇っちゃて、二度もすれ違い。
 時間の無駄遣い。
 そっか、私も暇人ってことか…
 いつの間にか、隣に堂々と腰掛けている。
 なおかつ、恋人よろしく密着状態で、肩に腕を回してたり。
 馴れ馴れしいわね…なんて一瞬思いながらも、それに甘える心が勝っちゃったり。
 寄りかかると感じる温もりが、そんな一瞬の迷いも忘れさせてくれる。
 本題なんか、どっかに放り投げちゃって、このまま…なんて、少し思っちゃうけど…

「っで、教えてくれるんでしょ?」

 突然の、脈絡の無い、それでいて何を問うているか分からないような質問にゆっくりと頷いてくれる。
 思ったとおり…それにしても、この男にはすべての情報が筒抜けになってるんじゃないのかと疑いたくなる。
 まさか、私の服に盗聴器が付いてるんじゃないでしょうね…

「さっきのりっちゃんの言葉…」

「リツコの?」

 言葉をとぎると、両掌を上に向け、さも呆れた様に溜息を吐く。
 多分、こう言いたいのよね、『あれは出鱈目…嘘』って。
 って…ちょ、ちょっと待ちなさいよ?
 我ながら反応が鈍かったにもかかわらず、加持君の唇が私の耳を優しく啄ばんでくる。

「やっ…」

 その刺激に背筋を寒気とは違う刺激が駆け上がってくる。
 僅かに出した私の抗議なんか無視して、悪戯を止めない。

「マルドゥック機関は存在しない…」

 言葉とともに押し出された空気が、更に耳元からうなじへと流れて全身がその刺激に震えを…
 こんなことをされたら、私は堪えられなくなる。
 肩に置かれていた手が、ゆっくりと下るように撫ぜて行く。
 今は駄目…そう思う気持ちがあっさりと追いやられ、拒むことも出来ない。
 仕事なんか全て放り投げちゃってもいいわよね…このまま、この腕に抱かれながら…

「Nervそのものだ…」

 快感と言葉の衝撃的な事実の温度差で理性の天秤がグラグラと揺れて、言葉が出せない。
 この身体は間違いなく…今、加持君を求めてる。
 そして、僅かに残る理性と思考は、その事実の大きさが無ければ吹き飛ばされていたはず。

「は…んっ、」

 声を漏らしてしまうと、我慢と言う言葉は意味を持たなくなる。
 ここ最近、加持君のこの手段で弄られ続けて、体が欲求不満を訴えてる。
 解消しようにも、暇がなかったし…
 第一、この身体を弄る権利をあげてるのは加持君だけ。
 そして多分、私よりもこの身体を知ってる奴。

「コード707を調べてみるといい…」

 不満解消にその天秤が傾ききる前に唇の戯れが止み、その手は肩に戻ってしまう。
 昂ぶった身体と燻った欲求が、その遠まわしな言い方に激しく抗議する。
 同時に冷静に思考する頭を取り返すことに成功してたりするけど、納得できない。
 707…シンジ君の学校に関する機密。
 それだけでは訳が分からない…
 こんなんじゃ、事と場合によっては帰すなんて出来ない。 

「なによ、シンジ君の学校が…なんだってのよ?」

 不機嫌を載せきれないほど載せてぶつけた問いに、加持君の頬が少し引き攣ってる。
 演技の為に…なのかも知れないけど、そんなことは私の知ったことじゃない。

「そ、それくらいは自分で…」

 言いかけた何かを視線で殺す。
 我慢も、度を過ぎれば毒って分かってる?
 同時に、缶コーヒーを放り投げて、その手でうなじをそっと撫で、引き寄せる。
 これだけすれば、伝わらないわけがない。
 そして、ゆっくりと加持君の唇を味わう。
 キスが甘いって知ったのは何時だったかな…
 本当は心が甘くなるってだけで、舌にははタバコの苦さが伝わって痺れてるだけ。
 シンちゃんだったら…そんなこと無いかもしれないけど。
 ちょっとアスカが羨ましいかな、
 無精髭だって無いから、こうしててくすぐったいなんて無いだろうし、
 でも、私が知ってるのは加持君のだけ…
 だからこれじゃなきゃきっと満足できないんじゃないかな…
 その前にあの子たちにはこんなキスは早すぎるわね…
 ほんの僅かに下がった溜飲に、唇を離す。
 だけど、まだ本題が残ってる。

「続きは何処でしてくれるの?」

「本部内でか?」

「ついでに、本題のほうも詳しく教えなさいよ」

 そういうことも出来て、話せるなんて場所…本部内にあるのかな?
 だけど、加持君が頷くって事は、間違いなくあるんだと思う。
 倉庫とか言われたら、ちょっち嫌かも…
 だけど、私の我慢も限界に近いし。
 ムードなんて、今更…
 肩にあった手が腰に回り引き上げようとする動きに逆らえない。
 こんなことを本部内でするなんてねぇ…堕落した女よね。
 本部にもう一泊延びちゃうかな?
 そう思いながらも、私の手は彼のジャケットを握り締めて離さない。
 これからのことに期待してるから。


「アスカのお母さんって…どんな人“だった”の?」

 シンジのその問いに他意などあるはずは無かった。
 あったとすれば、それは彼自身の中にある仮説と、アスカに対する認識。
 自分と違い、既に親離れしている…その認識が選ばせた言葉。

「え? …ママ?」

 平静を装いつつ、シンジに問い返す。
 それにシンジも頷いて答えると、アスカはその答えに戸惑ってしまう。
 アスカの母親…養母は取り立てて、何か特別なことはない。
 それどころか、一緒に暮らした年月は僅かなもの。

「…普通の人、」

 そう答えながらも、脳裏に浮かぶのは生みの親…キョウコの姿。
 柔らかく微笑みながら、彼女を見つめる顔。
 自分の冷たくなった手を包んでくれる、暖かな手。

「とりたてて何か凄い事を出来るわけでもないし…主婦って感じよ」

 苦笑いを浮かべながら養母のことを語っているのに、母親の姿しか浮かばない。
 それに危機感を感じてしまう。
 無理矢理に養母の姿を思い出すが、アスカの彼女の間には記憶に焼きつく程の何かがあるわけでもない。
 それが、更に僅かにしか残らないキョウコの姿を映し出していく。

「…そうなんだ」

 シンジがとる相槌に回想が切られ、安堵する。
〜いや、もう…これ以上、思い出したくない。〜
 悪寒が背筋を駆け上がり、首筋に何かが触れている錯覚が巻き起こる。
 それを必死に押し隠し、さも話しづらい事の様に溜息をつき、誤魔化す。

「血筋とか遺伝っていうのなら、きっとアンタの方が凄いわよ?」

「そうなの?」

 どうしてそうなるのか…と、言わんばかりに不思議に思うシンジの顔に、アスカの気が緩む。
 反動も手伝い、心が急激に軽くなる。

「アンタねぇ…Nervなんて組織のTOPになんでもない奴がなれるわけないでしょぉが!」

 だが、軽くなったからといって、その心の傷から滲み出したものが拭き取られているわけではない。
 今は、その血の跡に気付いてないだけ。

「そう…だよね、」

 なおも不思議というのも隠しもせずに、形だけの同意が返す。
 シンジが父親である司令の姿を見てもその答えに辿り着けないのは、アスカも先日の一件以来、理解している。
〜…父親ってもね、確かに…パパも、〜
 司令と彼女自身の父親の姿に、世に言う父親像を重ねても重ならない。
 そして、何をしているのか全く不明と言う点では、司令は想像の遥か彼方に居る。
 僅かな記憶にある姿は、殆ど後姿。
 小さなアスカにとって、その背は大きく見えた事しか…
〜パパ、か…パパもそんなに記憶にないんだ、アタシ、声も…ろくに覚えてないかも〜
 思い出が、傷口の傍にあることさえも気付かずに、記憶を掘り出そうとする。
『責任を感じているのでしょう…、毎日研究ばかりで、娘をかまってやる余裕もありませんでした』
 明らかに母の姿に侮蔑したような声。
 その責任が自分にはないと…
 全ては妻の愚かさだと…
 言葉には、男が自身の妻を責める意思がのっていた。
〜パパとママって…好きだから結婚したんじゃないの?〜
『しかし、あれでは人形の親子だ。いや、人形と人間の差など紙一重なのかもしれません』
 続く言葉には、更に呆れを含ませている。
〜なんで…そんな風に、好きな人の事を言えるのよ…〜
『近代医学の担い手とは思えない言葉ですね』
 そして、会話の相手とおぼしき女医に向けた言葉には…優しさがあった。
〜なんでっ! その女にはそんな声を出すのっ!?〜
 アスカの目に映る世界が急速に色褪せ、白と黒だけで著され…時が凍りついた。

「アスカ?」

 シンジの目の前で、その表情が次第に凍り付いていく。
 いつもなら、くるくると変わるその顔が…
 シンジに焦りが浮かぶ。

「どうしたの、ねぇ?」

 アスカの瞳に油が流し込まれたかのように、輝きが翳りに変わっていく。
 シンジに焦りが増す。
 それまで考えていた事が、現実として起こっているということに。
 直前まで、そんな様子が全く無かったにもかかわらず…

「…」

 シンジの呼びかけに答えたかの様に呟く。
 だが、その言葉は問いに応えたのではなく…心の中に居る誰かに向けて呼びかけたもの。
 応えるはずも無い白い部屋の中の母親に『ママ』と。
 幼き日々の彼女が記憶の片隅から、呼びかける。
 色彩のない部屋に浮かぶ唯一の色は、母の彼女と似た赤みがかった髪の色。
 そして、その母の手に抱かれるアスカという名の人形。
〜アタシは人形じゃない…〜

「…違う」

「アスカっ!」

 シンジの呼びかけがアスカの耳に届くが、頭の中で流れる映像と音に掻き消される。
 それを理解したシンジが、アスカの肩に手をかけ、揺さぶる。
 だが、アスカはその激しい揺れにも、抗うことなく髪を躍らせながるだけ。
 『アスカちゃんは良い子ねぇ』
 人形を自らの娘と認識し、娘である少女を他人と呼ぶ母親の姿。
〜違うっ!アタシはここにいるのっ!〜
 幼き日々のアスカが、白に塗りつぶされた部屋の入り口で叫ぶ。
 それを今のアスカが冷静に見つめている。

「…無駄よ」

 自らの失策を気付くには十分すぎる反応だった。
 何を間違えた?とシンジが自問自答するが、その猶予など無い。
 アスカの表情は、能面の様に凍りついている。
 無表情ではなく、嘲笑しているのか、泣いているのか、怒っているのか判別がつかない…見る角度次第で移り変わる様に。
 ただ、能面と違いがあるとするならば、遠くを見るように中空に向け、虚ろな瞳を潤ませていること。

「アスカっ! どうしたの! ねぇっ!」

 声を荒げ、揺する手にも力を込め呼びかけるが変化は僅かに起こるだけ…その潤んだ目から、零れ落ちる涙。
 焦りを加速させるにはそれは十分過ぎる力を発揮し…汗が浮かび、体温を一瞬にして奪う。

「いくら呼んだって…ママは見てくれないのよ」

 そして、シンジの僅かにしか感じれぬ体臭がアスカの無意識に届いた…
 『あ…はぁ…』
 それは別の記憶を呼び覚ます。
 幼いアスカが振り返り一点を凝視したまま、動かなくなる。

「ねぇってばっ! 謝るから、返事してよっ!」

 そこには獣の如き声を上げながら顔の無い女と抱き合う父の後姿。
 抱き合う父の顔がぼやけて行く。
 顔の無い女に輪郭が浮かんでくる。
 それを幼いアスカはじっと見つめている。
 再び、父の顔が輪郭を取り戻したとき…
 そこにあったのは、シンジの顔。
 そして、顔の無い女には、アスカの顔が浮かんでいた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 絶叫だけを残して、アスカはその意識を閉じる。
 本能と言う名の安全装置に、強制的に流れる過去を封じられて。


 朝なのかどうかも分からない場所で目を覚ましたのに、今が朝だってなんとなく判るのはどうしてなのかな?
 寝ぼけた頭に、なんでかそんな事が過ぎる。
 寝覚めとしては、かなり悪くない。
 ちょっと空調が効き過ぎたここでなら尚更、毛布なんかじゃこの暖かさがくれる心地良さには敵わないしねぇ。
 その証拠に、私の体はさらにその暖かさを求めてしがみつく。
 実際、起き上がりたくても起き上がれないけど…
 痺れてる訳でもないのに、腰や足に力が入らない。
 ん〜…ちょっち、頑張りすぎた?
 閉じ続けようとする瞼を無理やり開けて、周りを眺める。
 第参使徒襲来時に痛んでしまい、廃棄された居住区画。
 本来なら危険ということで、一般職員はおろか、歩哨さえも立ち入ることを禁止されてる。
 中規模程度の地震に襲われれば、間違いなく圧壊するって聞いてた。
 もちろん、そんな場所だからライフラインに限らず、すべての回線は断絶されてた筈なのに…
 ベットはもちろん、電気・水道も使えて、シャワーまで浴びれる。
 その上、安全は保障するとまで…
 一度、目を閉じてからうっすらと開けて、私を暖めてる奴を見る。
 疲れて…ないわけないか…
 それを証明するように、加持君は珍しくグッスリと寝てる。
 疲れてたところに、さらに疲れることをさせられた訳だし…
 まぁ、この辺はコイツの自業自得でもあるわけだし、私が満足できたんだからいっか。
 寝物語の最中に大事な事を話すなんてことしなければ、もっと早く休めたでしょうに。
 だけどそれが一番安全だったことは、理解ってる。

『声をあげても大丈夫だ…』

 なぁんて言われて、私も調子に乗ってたのかもしれない。
 喉がちょっち痛んでて、苦しい。
 そんなことより、今のうちに与えられた情報を整理しないといけない。
 寝ぼけた頭が急激に覚醒してくる。
 同時に、寝る前のことを思い出しちゃって、体が疼いてくる。
 うっ…まだ満足してなかったって、どういうことよ…
 加持君の胸からいまだに離れられないっていうのが、その証拠なんだけど。
 我ながら…情けないやら、なんとやらで複雑な気分。
 ま、それは加持君が起きてからでもいっか。
 頭を完全に切り替え、整理する。
 マルドゥック機関は存在しない。
 Nerv…いや、補完委員会そのものだということ。
 だとしたら、シンジ君達や適格者候補の子供達は…どうやって選別された?

「つまりは、シンクロ可能な子供達の選別基準は司令・副司令とリツコが隠している…」

「もしくは…」

 思わず口に出てしまったことに、いつの間にか起きていた加持君が応えた。
 肩に回された手に架かる力は変わっていない。
 寝たふりだったの?と恨みがましく覗いてみるけど、視線は私ではない虚空に向けられている。
 恋人との久しぶりの情事の後だっていうのに、ムードの欠片もないし…
 だけど、そんな脱線しかかった私の思考は次の言葉に掻き消された…

「選定基準は始めからから存在しない。」

「なっ!?」

 私の想像を超える仮定に驚きを隠せない。
 だが、その意見を否定できない私もいる。

「子供を基準に、Evaを合わせている…その可能性もあると言うことさ、」

「なっ、それじゃあ… シンジ君達が選ばれたんじゃなくて…」

 その可能性を否定する材料を、必死に思い浮かべる。
 …相互互換実験。
 だけど、あれはアスカと弐号機を避けていた。
 レイとシンジ君が…特別なだけ?
 どちらにせよ、あの実験は加持の仮定を否定するのに十分過ぎる材料。

「葛城は…機体相互互換実験が引っかかるんだろ?」

 ディベートのお手本みたいに、私の反対意見を先読みしてる。
 その反対意見を説き伏せる材料があるのなら…
 無言の問いに、加持の目が伏せられると、溜息を大きく吐き出す。

「俺もな、そこが引っかかちゃってなぁ…」

 途端に凛々しさの欠片もないような、いつもの顔で惚けちゃって…
 体中から力が抜けていくと、いまさらながらに、強く抱きついていたことに気付く。
 確信を何か掴んでいるのかと、期待した自分が馬鹿らしい。
 だけど、驚きに値する仮定だったことは確か。

「なによ、仮説を立てるなら、論拠を出しなさいよ…っとに、」

 期待を裏切られた形になるだけに、無性に腹がたつ。
 半ば呆れもあるだけに、許せないって程じゃない。
 そして、更に私の恨みがましい視線さえ、気にも留めずに飄々としてる。
 加持君がこんな風に人に話すからには、何らかの自信がある時。
 私が答えを導き出せたのを見計らうように、再び表情が引き締まる。

「だがな、シンジ君とアスカ…選ばれた二人には共通点がある。」

 その表情に誘われて、真面目に記憶を巡らせる。
 二人の共通点を…。
 共に、二人は14歳…これにはレイも当て嵌まる。
 他には…

「共に母親が実験に参加し…碇ユイ博士は実験中に死亡。」

「あっ!」

「そして惣流・キョウコ・ツェッペリン博士も、実験による精神汚染の為…な、」

「それだとレイが当て嵌まらないじゃな…っ!?」

 言いかけてその根拠を否定する材料に足らないことに気付いた…
 レイの身上書には…ゼロが並んでいる項目が多数ある。

「そうだ、秘密が多すぎる」

 ゼロが並んだそのデータは、該当項目に記載事項がない証。
 その生まれも、何もかもが不明。
 司令の親族の子供というのが分かっているにも拘らず…

「それも、Nervの機密に直結してるな、」

 Nervの機密…謎が多い子とはいえ…
 ふと、先日のアスカに叱られた時の会話が蘇る。
 『紙に記されているものだけじゃないって事が…』
 ならば、それは禁忌ともいえる部分に…

「それは、碇司令の秘密…ってことよね」

「非公開組織の司令とはいえ、秘密が多すぎる。空白の時間とかな…」

 そう、あの時にも思ったけど…
 国連直属の組織にも拘らず、その司令の全てが考査された筈。
 だが、シンジ君の顔はそれ以外の何かがあると語っていた。

「葛城にも思い当たる節があるか…」

「エヴァってなんだろ… 使徒のコピーって…」

「それだけじゃないだろうな、」

 それが何かって、訊いてもこないけど…何かあるというのは気付いてるようだし。
 片手で私を抱き支えながら、もう片手で煙草を取り出して火を付けるその仕草は…昔、良く見た。
 何か考え事をしてるときは、その視線が煙草の先から離れてるから。
 普段は火が点いたのをしっかり確認するくせに。
 本人はまったく気付いてない。
 目の前でこんなにイイ女が裸で抱きついてやってるってぇのに…
 やきもち…そんなにこの男を集中させる何かに、嫉妬してる。
 見てほしい…そんな気持からだろう。
 煙草をそっとつまみ、奪い取る。
 最近、全く吸ってなかったけど…そう思いながら、咥えた煙草は少し甘く感じた。

「…煙草、吸うんだな」

「こんな時だけよ?」

 悪戯っぽく微笑んであげると、何を勘違いしたのか目つきが鋭くなる。
 もしかして、妬いてくれてる?
 別に私を責めてる感じじゃない。
 多分、私を通して誰かの影を見ようとしてる。
 そして、そいつを…自分以外に、この身体を堪能した奴がいるのが許せないとばかりに。
 もうすぐ30になる独身女が、たった一人にだけなんて…普通はありえない。
 だから、私を責められない。
 代わりに、肩を押さえる手に力が篭ってる。

「悔しい?」

「あぁ、悔しいな… 葛城にはずっと弄ばれてるからな、」

 弄んでるなんて、失礼しちゃうわね。
 でも、言うとおりかも…告白して、振って、告白して。
 傍から見れば悪賢(ずる)くて、嫌な女。
 そんなことは、加持君だって百も承知のはずでよね…?
 だから、その分…良い思いを少しはさせてあげる。
 足を絡めて腰を押し付けるようにゆっくりと動いて、その意思を伝える。
 ちょっと吃驚しながらも、嫉妬なんかどこへやらって顔で…

「おいおい、良いのか?」

「あら?あの程度で私が満足したって?」

 口では良いのか?なんて言いながらも、手が胸に回りこんでくる。
 タバコが私の口から奪い返されて、灰皿の上に横たえられる。
 そして、唇が触れ…

「…またか、」

 …なかった。
 私のジャケットから叫びを上げてる単調な電子音は、見事にムードを消し去ってくれたわけで…
 突き刺さる加持の視線が痛いのは、きっと気のせいじゃないわね…

「…ごめんちょ、今日は一応メモを残してきたんだけど…連絡しないようにって」

 自分でもわざとらしいと思えるほど、いじけた顔をして上目遣いで覗き込みながらも、シーツを奪ってベットから離れる。
 別に寒いからとか、恥ずかしいからとかではなくて…名残惜しいからってだけ。
 この姿に盛大なため息と呆れ顔を見せながらも、それを止めたりしない。
 それに甘えて、ジャケットから形態を取り出す。

「ミサトっ!! 貴女! なんで廃棄居住区画なんかにいるのっ!」

 ディスプレイに写る発信者を確認しないで、無造作に着信したのは良かったのか悪かったのか…
 耳にあてがうよりも早く響いてきたリツコの怒声。
 加持君には知られるのは時間の問題だし、耳を痛めつけられなかっただけ良し。

「…りっちゃんか」

 ぼそりと呟く声は非難に満ちていて、笑って誤魔化せそうにない。

「だから、電源を切れって言ってるんだがなぁ…これで、この隠れ家は使えなくなったか、」

「ミサトっ! 返事しなさいっ!!」

 いつの間にか新しい煙草に火をつけて恨みがましく睨む加持君と、携帯から聞こえるリツコの怒鳴り声に居た堪れなくなる。
 同時に折角の時間を邪魔された事で、無性に腹が立つ。

「リツコ? あんた、馬に蹴殺されたい?」

 携帯の向こうで、リツコが震えるのが簡単に想像できるほど、怒鳴り声が一瞬で止まる。

「…ごめんなさいね。加持君とお楽しみだったわけね」

「分かったなら、用件を早く言って…」

 リツコの妬みなのか、一瞬の間の後に悪びれもせず、いつもどおりに話しはじめたのを斬り捨てるように返す。
 正直言えば、加持の隠れ家が見つかってしまったなんて、私にはどうでもいい事だし。
 それに、電話が終わったら…
 なんて考えは、リツコの次の言葉で粉砕された。

『フォースチルドレン、決まったわよ』

「もうっ!?」

『えぇ、さっきね…詳しくは私の所にきて頂戴』

 私の声に加持君の目に鋭さが浮かぶ。
 前回もそうだけど…彼との時間の終わりには、必ず何かが起こるらしい。
 目で問いかけようとする加持君を制し、リツコに向かう旨を伝えて、一方的に通話を切る。

「フォースチルドレンが選出されたって」

「…そうか」

 思い当たる人物でもがいるのか…
 そう思えるかのように、焦点の合わない目で床を見つめる。

「何よ…思いあたる…」

「嫌な予感がする、それだけだ」


〜あれ? アタシいつの間に寝ちゃってた?〜
 突然、景色が変わった様にしか思えず、アスカは目覚めると同時に起き上がり、辺りを見回してしまう。
 カーテンの隙間から差し込む光は、空から跳ね返された青い光を見せていて、今がまだ夜明け前ということを教えてくれる。

「こんな時間に起きるなんて…あれ? 寝たの何時…」

 呟きながら、記憶の糸を手繰り寄せていくと…それは直ぐに引き出された。
 忌まわしい記憶に弄ばれ、気を失ったのだと。
 最後に見たシンジとアスカの姿は、彼女自身の願望が反映されただけというのも、冷静な頭なら理解できる。
〜…そっか前は、子供なんかいらないって、思ってたもんね〜
 彼女が初潮を迎えたその時から、抱えていた想い。
 今の自分には当てはまらないが故に、その頃とのギャップに思わず笑みがこぼれる。
 そして自身が今、幸せなのだと理解できる。
 だが、同時に…心の醜さにも目が向いてしまう。
〜何で…アタシは言えなかったの?〜
 シンジに問われたとき…生みの親の話を言い出せなかった。
 嘘をついたわけではない。
 だが養母の話で茶を濁し、司令の話にすり替えて、誤魔化した。
〜たかが!知れたことじゃない!〜
 そう叫ぶ自分と、
〜思い出したくないっ! 忘れたいのっ! 言わなくったっていいじゃない!〜
 それを否定する自分。
 二人の自分が言う意見は、どちらも心に響く。
 シンジを全面的に信じてる筈の自分ならば、話すことが正解だったことは容易に結びつく。
 だが、問いに応え、語れば…その過去は封じてきた心の底から、表面に大きく浮き出してくる。
 それは心を掻き乱し、心の平衡を失ってしまう。
 間違いなく、心の全てが感情に支配される。
 それが怖かった。

『アスカのお母さんって、どんな人だったの?』

 問われた瞬間にその脳裏に浮かんだ姿は…優しい姿。
 だが同時に、アスカを傷付けようとした時のものも浮かんできた。
 それを思い出したくなかったのだと。
 冷静に考えているだけにも拘わらず、背筋に寒気が奔り、首筋にありもしない熱を感じる。
 アスカ自身、なぜ?と理解できない。
 普段、思い浮かべるその姿は…幼い自分を抱きかかえ、微笑を向けてくれる。
 だが、自身の不安が結び付けたその姿は、物言わぬ人型を娘と呼びかける姿。
 それがアスカの心を即座に蝕む。

「イヤなのっ、思い出したくないのっ!」

 自らを抱きしめ、耐えようと全身に力を込め…震えを無理矢理封じ込める。

「…助けて、シンジ、助けてよ!」

 無意識に叫んだ呼びかけに応えて、救いは即座に現れた。

「アスカ?」

 シンジが枕元に、寝ぼけた目を擦りながらも…座っていた。
 震えるアスカの前に。


 空気を搾り出す音と共に、光が差し込む。
 入室許可を得ようとせずに、いきなり扉を開けて現れる人物など少なすぎて、数えることすら馬鹿らしい。
 ましてや、情事の邪魔をして呼び出したのならば、いつもと雰囲気が違っていたとしても、間違えるはずが無い。
 現にその女は入ってくると同時に、部屋の主に向け…恨めしいとその全身で騙っている。

「あによ、リツコ… 挨拶くらいしてくれたって」

「そういうのは普通、入った側の人がするもんじゃない?」

「んじゃ、コーヒーくらい出すのがそっちの務めじゃないの?」

「貴女にそんな気遣いするだけ馬鹿らしいわ。いつも勝手に飲んでるくせに」

 挨拶代わりとばかりに、厭みと妬みを込めた軽口の応酬はリツコに軍配が上がる。
 それに歯噛みしながらも、敗北の傷口をこれ以上拡げられるのは不利と、ミサトは自らコーヒーメーカーに歩み寄る。

「本部内でする為に隠れ家を用意するなんて、リョウちゃんは一体何人の女子職員に手を出しているんでしょうね」

 その物言いにミサトはカップへと伸ばしかけた手を止め、非難に満ちた視線を向ける。

「…自分に相手が居ないから、そういう言い方をするの?」

 リツコは、いつもなら「あいつが何をしようと、あいつの勝手でしょっ!」と返す筈の親友の言葉が変化していたことに驚くと同時に、やり過ぎたと気付く。
 その証拠に、ミサトからは先ほどまでの不機嫌で済まされていた空気が、色を変え、怒りを隠しもしない。
 同時に、僅かなこの期間でこの親友をこうも変えてしまう男の手管にも感心してしまう。

「ごめんなさい、言い過ぎたわ」

 振り向きもせず、流れる文字を見つめたままの謝辞であっても、その言葉に乗せられた誠意をミサトは捉えることが出来る。
 長年付き合ってきた友人が謝り下手であることなど、とうに理解しているのだから。
 僅かに窄められた肩と、さらにほんの僅かに俯けられた顔が気落ちしてしまっていることを証明してくれている。
 そして、それを見るとミサトも責め句を失ってしまう。
 この親友は周りから受ける印象を損なわないように…
 天才の娘は完璧でなくてはならないという…
 外からの評価を損なわない為に、謝り方一つさえも演じてきたことに憐れみを感じずにはいられない。

「いいわよ。後飲用を分けてくれれば」

 取って代わった感情に、かける言葉を見失い、ミサトもまた止めていた手を伸ばし、二つのカップへと注いでいく。
〜かける言葉がないからって、茶化して…私も慰め下手よね〜
 と、自嘲し、この場を誤魔化すことにしてしまう。

「っで? 本題のほうは?」

 なみなみと注がれたマグカップをリツコの傍らに置きながら、目当ての情報をその流れる文字から読み取ろうと目を凝らす。
 その要求に、事細かく書かれている報告の文字の流れを見やすい形で大型モニターへと変え、こちらを見ろと視線を移す。
 写真と、暗号化された情報が映し出され、ミサトの息を呑む音だけが響く。
 短く刈られ、無造作に跳ね上がっている髪の毛。
 僅かに下がり気味の目尻さえ擦れてしまいそうな意志の強そうな目。
 そして、ミサトの記憶と異なる…その少年・鈴原トウジの引き締められた表情。
 実年齢よりも一つ二つ読み違えてしまいそうな印象がそこにはあった。

「…よりにもよって、この子なの!?」

 何故?という疑問に、ミサトは言葉を失う。
 適格者候補生だけを集められたクラスということは、保安上の理由から一部の上級職員たちには知られている。
 ミサトも幹部である以上、知らないわけではなかった。
 アスカ・レイはそのクラスが編成される以前からの選抜。
 ならば、次は其処から…と思われていたのに、選ばれたのは全く無関係のシンジ。

「マルドゥックからの正式な報告書は午後にも届く筈よ」

 リツコの事務的な声に普段ならば嫌気を感じることさえ忘れ、生返事だけを返す。
 そして、無意識なのであろう呟きを僅かに零す。
 シンジ君・・・と。
 リツコはその呟きから親友の心の葛藤を推察できた。
 シンジは親友が乗るということに、賛成などするはずもないと。
 だが、戦力の増強を止める訳にはいかない。
 でも、実質のエースパイロットであるシンジを苦しめてまでなのか?
 それがもたらす戦力低下と、エヴァ一体を補強することのどちらが上なのか?
 さらに、アスカ。
 エースに次ぐ能力を持ち、エヴァに乗ることにプライドを持っている少女。
 その少女のプライドを傷つけるのは間違いない。
 新しく選出されたこの少年は運動能力や学力の差等ありはすれども、シンジと同等かそれ以上に平凡なのだから。
 優秀な者しか選ばれるはずの無い称号の価値を、引き下げるには十分過ぎる。
 それは、少女の精神状態を不安定にするに足る条件。
 これもまた戦力低下にしか過ぎない。
 二人とも人類の未来の為と、割り切ることも出来るかもしれない。
 しかし、その保証は何処にも無い。

「可能性の問題よ」

 その言葉に、ミサトはリツコへとその視線を移す。

「貴女の考えてることは解るわ。
 この子が選ばれて起こりえる、戦力低下とエヴァ一体の補充。
 どちらが正しいのか…」

 ミサトはコクリと頷き、その意見を肯定し、親友の察しの良さに感謝する。
 答えを導き出す為の材料を示してくれるのだから。
 リツコは親友が自分の言葉に耳を傾ける準備が出来たことを態度から読み取り、コーヒーを啜り、タバコに火を灯す。
 間を置いてタバコを味わい、ゆっくりと話の続きへと戻る。

「長期的に見れば、戦力増強は間違いないわよ。
 この子が、シンジ君やアスカを抜くほどの成果を見せるようにもなるかもしれないという可能性。
 そして、二人もまた…割り切れるようになるという可能性。
 時間と共にね…
 あの年頃の子達の成長は、私達の安愚な杞憂なんかあっさりと越えて行くものよ。」

「…要は、感傷を捨てろって事ね」

 肯定もせず、否定もせず…再びモニターに映る文字に再び目を戻すだけ。
 ふと、ミサトにある時の事件が持ち上がる。
 この少年が、もう一人の友人と共に初号機に乗り込んだ事が…
〜もしかして、あの時に計測されたノイズが、この子の選出に?… だとしたら、〜
 その後のシンジの命令違反があったとしても、あの時の選択は間違いじゃなかったと言える。
 戦う意味を見つけられないシンジに、友人を守るため…という意識を持たせたかった。
 人類などと言われて、即座に納得なんか出来るわけが無いならば、目の前の…そういった打算も含まれていた。
 そしてそれは確かにシンジの中に影響を与えた。
〜もし、アレが今回の要因だったら…、私はシンちゃんに嫌われるかもね…〜

「私達は未来の為に、悪役にならなければならないのよ…ミサト、」

 僅かに込められた優しい響きが、彼女なりの慰めだと解る。
 それに頷き、コーヒーを一口含む。
 苦さがその切なさを染み入らせ、心を弱くする。
 同時にコレが親友の謝罪なのかもしれないと…

「…秘密だけはやめてね、リツコ」

 弱々しいミサトの呟きに、リツコもまた弱さゆえに沈黙で応える。
 二人は気付くことが無い。
 子供は割り切れないが故に子供なのだと。
 そしてまた、自分たちも割り切れていない事があることに…
 一人は復讐と言う行為に徹しきれない事に。
 一人はその思慕が叶わぬものと知りながらも、諦めきれぬ事に。


 瞼を通して見える朝日が時の流れを教えてくれるのだが、どれほどの時が過ぎたのか、アスカに知る術はない。

「落ち着いた? アスカ?」

 シンジの声を聞き、そして首筋を濡らす何かが、アスカの世界が復元していく。

「ゴメン…訊いちゃいけない事だったんだよね」

 目の前で男らしくなく大粒の涙を、絶やすことなく溢すシンジによって。
 冷たくも暖かいその雫が自身を取り戻させてくれたことを。
 抱きかかえ、自身を心配そうに覗き込むその瞳に。

「ごめん、ごめんね、」

 必死に謝る声だけが、シンジらしいと…アスカの平穏を取り戻させ、
 いやらしさの無い…ただ案じるが故の抱擁は、優しさをくれる。

「心配すんじゃないわよ」

 不安が、少しずつ癒されていく。
〜こんなに安らげるって知ってたら、子供なんかいらないなんて言わなかったわね〜
 子供がひとつ成長する時、知らなかったモノを知らなかったと認め、知った時の喜びを理解する。
 一足飛びに大人などに成れない。
 こうして小さな階段を一段、一段踏みしめていくのだと。

「もう大丈夫、だから泣くんじゃないわよ…」

 シンジの肩に手を沿え、促すように引き離す。
 そこにはアスカの言葉に微笑み、頷きながらも、その涙を止めない姿があった。
 心苦しさに胸が締め付けられる。
〜でも…アタシは結局、何も話してなかった。隠してしまった〜
 思い返しても、アスカは自身が逃げてしまった事を認めるしかなかった。

「昨日…なんで急にあんなこと訊いてきたのよ?」

 裏切ってしまったという葛藤を隠し、シンジに微笑む。
 だが、微笑を向けられても、シンジは自らの迂闊さを呪うだけしかできない。
 アスカが思い出したくないことに触れてしまったということに気付かされたのだから。
 もし、訊いた本当の理由を言えば、更にその傷口を拡げるだけだということに。

「別にたいした理由があるわけじゃなかったんだ。ただ…」

 とっさの演技とは思えぬほど、シンジの言い淀む姿は堂に入っていた。
 アスカも隠し事をしている罪悪感から、洞察力を鈍らせ、僅かな違いに気付けない。

「ただ? なによ?」

「あの影の中で母さんの夢を見たんだ…」

 苦るしげな微笑みを隠すことなく晒して語る姿に、アスカは先日の一件を思い出す。
 泣き叫び、自分の胸に縋り付くシンジの姿を。

「でも、周りの風景なんかはしっかり見えるのに…顔だけがぼやけてて、見れなかったんだ、」

 だが、シンジが浮かべる苦笑いは、自分が嘘をついてるから。
 好意を向ける相手に、嘘をつくということに。
 それが心を締めつけている。
 だが、アスカが浮かべる沈んだ表情に、シンジの心はその嘘を肯定してしまう。
 自分の行動の矛盾が更に広がる。

「…そうなんだ」

「…うん」

 互いに掛ける言葉を失い、ただ沈黙だけが二人を包んでいく。
 だが、それを二人が望んでいるわけではなく、お互いに想いを表す言葉を捜しているだけ。
 嘘は嘘を生み出し、取り繕うことで、別の綻びを取り繕ってなければいけなくなる。
 それを恐れるシンジは言葉が思いつかない。
 アスカも迷ってしまっている。
 過去をここで打ち明けてしまうべきか、否か。
 話すのには良い機会だが、まったくそんな心の準備などしていなかった。
 言って慰めてもらいたいのか?と…漠然と考えていただけ。
 いざ問題提起をされてみると、何も考えていなかったと言うことに気づかされた。
 訊いてきたシンジに真摯に応えたい気持ちと、話したくない気持ち。
 隠し通す気もない。
 いつかは自分の口から言わなければならなかったことは確か。
 だが、勢いだけで語るには彼女にとって重すぎる過去。
 なのに、シンジの苦しげな顔が憐れみを呼び起こしてしまい、話してしまおうとする自分がいる。
 僅かな温もりの記憶さえ持たないことに。
 ふと、考えの中に衝動が浮かんでくる。

「もしかして…」

 アスカはシンジに聞こえるか聞こえないかの微妙な呟きとともに膝立ちのまま、その背へと回り込んでゆく。
 シンジも突然のことに何も分からぬまま、その姿を首だけで追い、彼女の両手が自分の頭をそっと包んでいくのを眺めているだけ。
 そして、そっと抱き寄せられる。

「え…?」

 頬に感じる柔らかさは衣服を通しても、僅かたりとも損なわずにありのままに伝えてくる。
 目に入るのは、彼女のシャツだけ。
 それが何であるか…シンジの頭はその答えを即座に導き出す。
 鼓動が激しくなっていくのを感じながらも、動揺する心が身を封じてしまう。

「あ…わっ! ちょっ、あっアスカっ!」

「じっとしなさいよっ!」

 その状況を完全に理解すると、留まりたいと心の片隅では思いながらも、その下心で嫌われてしまうという意識が体を動かす。
 だが、一喝と共に込められた力の強さは、アスカの心を伝えていく。

「いいから、このまま…」

 ゆっくりと紡ぎ出される言葉は、シンジの心を落ち着かせ、動きを緩やかに封じていく。
 だからといってその動揺が収まるわけではなく、鼓動は更に増していく。

「アンタのママにはなれないけど…」

 勘違いかもしれないと思いながらもアスカは更に力を強めていく。
 証明するものが無いのだから、仮定にしがみつく。
 それが間違いであったとしても…

「アンタ、また人恋しかったんでしょ?」

 問いがシンジに、アスカの気持ちに気付かせる。
 彼女が勘違いをしていることを理解しながらも、それに安堵してしまう自分に嫌気が差す。
 嘘を信じてもらえたことで。
 まるで罪が罪でなくなったかのように。
〜アスカに嘘をつくの? それで良いの? 卑怯者じゃないの…それって?〜

「人の温もりが欲しい時って、アタシもあるから…」

 だが、シンジはそれを表に出せなくなる。
 彼女の仮定も完全に間違いと否定できない為に。
 夢が、自分に与えた影響ではないかと。

「そう…かも知れない」

 ゆっくりとシンジの体から力が抜けていく。
 自分の胸の中でそれを感じとると、考えが正しかったことに僅かに安堵するも、別の自分が責める。
〜いつか、きっと自分を納得させるから。話せるようになるまで…待ってなさいよ〜
 針で胸を刺されるような痛みを伴いながらも、その言い訳に逃げ込んでしまう。

「このままだと、遅刻するかも」

「たまには良いわよ、休んだって」


「なんでウチの孫なんやっ!」

「ですから、鈴原さんもお分かりのことと思いますが…」

「そんなんっわかっとるわっ! 納得できんいうてんのやっ!」

 病院の中に不釣合いな男の怒声と、それに答える冷静な女の声。
 患者と女医の喧嘩とも取れなくは無いが、そんな声がするはずの無い部屋から湧き上がってることを除けば…
 その室内の調度品は高級感がありはすれども、VIPルームと呼ばれる病室でもない。
 重厚な樫の机が中央にあり、その主は席を外しているのか見当たらない。
 そして、その前に皮の光沢を放つソファーが数脚。
 老人と少年が一人、その向かいに白衣の女性が腰掛けている。
 老いたとは思えぬほどの鋭い視線で、女を睨みつけ、それを傍らに座る少年が諌めている。
 リツコは院長室を機密に関する話と、借り、その主さえもその場から遠ざけた。
 この街でNervに関係していないものは居ない。
 そう言われるのも当然の事。
 危険があると解っていながら住む人間など、余程の物好きでもありえない。
 報道に勤める者なら、それを使命に置き換えて留まろうと考えるかもしれないが。
 生憎と、この地の情報は権力によって統制、規制されている。
 使徒襲来前に定年退職したとはいえ、老人・トウジの祖父も事務系とはいえ元職員の一人。
 それだけに、形式だけとはいえ交渉に赴いたリツコには、この老人の激昂は予想外であった。

「落ち付きぃや、じいちゃん」

「お前はだまっとれっ!」

 トウジにしても、祖父がこれほど激しい感情を表に出しながら話す姿など見たことが無い。
 関西弁特有の勢いというのは、他の地域に住む人にとっては怖がられることが多い。
 多聞に漏れず、この地に於いても聞き慣れぬ者達が多く、越して来た当初など受け入れられなかった…筈なのだが、この老人の周囲には人が絶えることがない。
 音が優しい―言葉にするなら、こう形容するのが合うのかもしれない。『好々爺』という言葉そのままに。
 それがここまで荒く話すのだから、トウジにも祖父が取り乱していると理解る。
 リツコにしても、その表情こそ変わらぬが困っている。
 人とは経験によって成長していく。
 生きた年月はリツコの倍をゆうに越える。
 そして、その経験がこの老人の意見に繋がっているのだから、説得が難しい。
〜説得なんて形だけなのにね…。なのに、必死になってる私は…〜
 思わず自嘲の笑みが浮かびそうになるのを堪え、真摯に目を向ける。
 余計な言葉などを選ぶより、態度で表すこと。
 その態度が通じたかのように、老人の視線が下がる。

「赤木技術部長…、私かて解っとるんですわ」

 気落ちしたように肩を窄めて俯くその姿には、それまでの勢いなどない。
 本当は理解もしてるし、拒否できぬことも…言葉には出さぬがそうその姿は語っている。
 握り締められた手だけが、『それでも…』と言いたげに震えて。

「ワシが言うのもなんやけど、コイツは馬鹿や。
 腕っ節以外、取り柄なんかない…
 ドイツのセカンドっちゅう女の子みたいなんが、選ばれる言うならわかるんですわ。
 なのに、なんで…
 それにな、孫を戦争に赴かせるなんぞしよったら、死んだかみさんや嫁に申し訳がたたんのや」

 言葉に詰まったのか、そのまま視線だけではなく顔そのものを俯かせる。
 その姿にリツコも言葉に詰まる。
 自分が話す言葉は、未来という名の言い訳だと…
 口に出さずとも伝わる想い。
 それは面識の無かったリツコにさえ、染み込んでいく。

「こんなん言うたって、しゃぁないもんはしゃぁないのになぁ…」

「申し訳ありません」

 過去とはいえ、中にいたからこそ力を知る老人は天井を仰ぎ…きつく目を閉じる。
 やるせなさをその身体一杯から滲み出させる姿に、リツコも頭を下げるしかない。
 沈黙だけが時の流れを示すように流れていく。
 そんな中に一人、トウジだけは何かを考え込んでいた。
 祖父が自分を思いやってくれている。
 正面に座る女性もまた…言い辛かったのだと。
 そして、今も眠り続ける妹・ナツミの姿と友人・シンジの姿が頭の中で現れては消える。
 妹も泣きながら反対するであろうと、
 友人も必死に止めろと言うだろうと、
 だが、その姿を想像することが出来ない。
 自分に似て勝気な妹が泣く姿を、
 温和な友人が目を吊り上げながらも、悲しそうに叫ぶ姿を、
〜なんや、ワシ…乗りたいんか?〜
 そう考える自分がいることに気付く。
 理由が思い浮かばないが、乗りたいのだと…動機があれば乗るのだと、気付くのに然したる時間はかからなかった。
 反対されても…
 どんなに心配をかけても…
〜そや、シンジに借りあったんやったな。 それに、ナツミかてここより…〜
 一つの過去と今過ぎ行く現実が、免罪符としてトウジの前に舞い降りくる。
 貸し借りなしと言って固めさせた拳の一撃では、自分の犯した借りには足らなかったと…トウジはあれ以来ずっと思ってきた。
 喧嘩をするような、ましてや、命を懸けて戦うなどと言うことからは程遠い少年。
 自身は命がけの戦いなど知らなかったにも拘らず、その行いを否定した。
 非難するならば自身がその舞台に立ちもせずに。
 今、その機会が目の前にある。
 宝物とも言うべき、妹の命を救うことにもなる。
〜もう一度、ナツミの走り回る姿を…、〜
 それは、決意を生み出すには十分過ぎた。

「気にせんでえぇ、じいちゃん。わし…やるわ。赤木はんも頭上げてください」

 突然の言葉に慌てた二人の視線が集中する。
 そこには、真剣な表情のトウジがリツコを見つめていた。

「えぇのか? 命なくすかも知れへんのやで?」

 トウジは祖父の問いかけに、視線を外さぬまま小さく頷く。
 それは、リツコの目で問われる「良いの?」という無言の言葉にも答えていた。
 目の端に映る老人は「なんでや」と何度も呟き、目頭を押さえて涙を堪えているが、それに振り向きもせずただトウジは真っ直ぐにリツコを見つめる。

「一つ、お願いがあるんけど…ええですか?」

「えぇ」

「ワシの妹、ナツミいいますが…」

 トウジはそこまでで言葉を切り、リツコの反応を待つ。
 そんなことが条件として通るのだろうかと、言い出しておきながら疑問が沸き起こったからである。
 言っていいのだろうか?と…、
 それまで向けられていた視線が伏せられ、僅かに躊躇する様にリツコが気付かぬはずも無い。

「Nervの方に転院させてほしいというのね?」

 リツコにとってこの展開はナツミの名前が出た時点で予想できていた。
 その問いが受け入れても良いと言ってるのか解らないトウジは、半信半疑な状態ながらもそれを肯定するように頷く。
 ただ一人、何を言い出すのかとじっとトウジを見つめていた老人は、顔を驚きに脱力させていた。

「シンジや惣流から聞かされとります。
 Nervは最新の医療技術を持ってるって。きっと此処よりもええんちゃうのか思って…
 それに、ウチは貧乏なんで…」

「研究機関である以前に、多数の職員を相手にするのだから優秀さは保障します。それに、お金の心配ならいらないわ」

 微笑み、頷くリツコを見てトウジは受け入れてもらえると確信する。
 そして、ここまであえて無視してきた祖父に対して視線をようやく向けると、苦笑いを浮かべる。
 老人が言いたい事も、そして現在の経済状況も解っているのだと。
 今度は老人も涙を堪えることなど出来なかった。
 孫の成長を今こうして見ることが出来た幸せに。

「直ぐに移れるよう、急ぎ手配させますのでご安心ください。」

 二人は腰掛けたままその額をテーブルに付かんばかりに頭を下げる。

「こちらこそ…ご協力、感謝します」

 リツコもまたそれに応えるべく、深く頭を下げた。


 肌が悲鳴をあげるほど日差しの中、屋上に上がる者などいる物好きは少ない。
 それを理解しているのか、ここに来るものは内緒話や告白など、人に見られることを恐れた少年少女達だけが利用しない。
 シンジは相談がある…そう話す友人・ケンスケに連れられてきた。
 だが、いかに重要な話であろうと、暑さの前には霞んでしまう。
 必然的に二人もまた、この屋上の中で涼感を得られる場所を選んでいた。
 手すりの外側に腰掛け、宙に足を投げ出し背から足元へと流れていく風を感じ、なおかつ柵の僅かな温度差をその背に受けるように寄りかかる。
 なんで好き好んで危ない所に行こうとするんだと、理解できないシンジにはその涼感を味わうことは出来ない。
 ケンスケとの差をを埋めるべく、柵にもたれかかりながらも立って、僅かな風を受けようとしていた。
 最初は相談事を隠すかのように、今日の遅刻の理由から始まった会話。
 何気ない話題にも拘らず、ちらりと見えたシンジの動揺に、ケンスケも悪戯心が沸き起こり、追及の手が伸びてしまった。
 それに困ってしまったのは言うまでも無い。
 もしも、抱きしめてもらっていたから」等とは言えない。
 結局、昨夜の訓練(テスト)が長引き深夜になってしまったこと、それが理由で二人とも寝坊してしまったこと。
 そして、面倒だから休もうと言ったアスカを説得するのに時間がかかってしまったと…
 嘘八割、真実二割。
 『嘘ってのはね、僅かに真実を混ぜた方が本当っぽく聞こえるもんなのっ』と、
 通学途中で言い訳を悩むシンジにアスカが言った台詞にそのままに、架空の半日を作り上げたのだ。
 これに納得したのだろうケンスケもそれ以上の追求はせず「惣流らしい」と笑い出すだけだった。
 実際、シンジとアスカは長い時間、その温もりを感じていたのだが…
 アスカが休む心算でいたのに対して、シンジは遅刻しても登校するつもりだった。
 二人が互いにその意見を主張していたのだが、シンジが…
 『僕はこれ以上休んじゃうと、勉強についていけなくなっちゃうよ…』
 という泣き言の前にアスカも折れずにはいられなく…渋々ながらも学校に来たのだった。

「アスカは頭がいいから、学校なんかこなくても良いんだろうけど、僕はね」

 苦笑いのままシンジがそう語るのは、続く言葉が途切れてしまっていることでケンスケにもわかる。
 本来なら、成績はそこそこ良いのだろう事は想像が付く。
 授業態度、飲み込みの早さ、応用力。
 特に応用力などは、ケンスケも舌を巻くほどであるのに、シンジ自身は自覚など欠片もない。
 身近に大学など片手間にこなしてしまった天才と呼ぶに相応しい少女がいるのだから、気付かないのもおかしくはない。
 だが、自分がこの少年に劣ってしまっているというのを自覚させられてしまい、悔しさが持ち上がる。
 自分と比べて大した差も無い程度の人間が、何故パイロットになれるかと。
 この年頃の少年よりは洞察力が高いケンスケにしても、目に見えるものに惑わされ、固執しててしまうのは当然であった。

「…なぁ、」

「ん?なに?」

 空をただ眺めていた、それまでの和やかな空気を一変させ、ケンスケの顔が引き締まる。

「エヴァ参号機が日本に送られてくるんだろ?」

「エヴァ参号機ぃ!?」

 シンジの驚きの声に、ケンスケは勢いを殺がれてしまいそうになる。
 思わず振り向き、その顔を確認しても嘘である様には見えない。

「知らないのか? アメリカで建造中だったやつ。完成したんだろ?」

 問い直してみても返ってきたのは、驚きながら首を横に振るシンジの姿だけ。
 そんなわけが無いだろうと、さらに噂で得た情報を広げ確かめようとする。

「松代の第二実験場で起動試験をやるって噂も知らないのか?」

「知らないよ…聞いてないし、」

 視線を屋上から見える街並みに向けたまま、歯切れも悪く答えるシンジに、不信感が起こる。
 守秘義務…それに抵触しているから隠しているんだと、ケンスケもまた勝手に思い込む。

「隠さなきゃいけない事情もわかるけどさ…、なっ、教えてくれよ」

 友達なんだから秘密は無しに…そう言いた気に更に続けるが、シンジは答えない。
 ただ先日以来、その頭にこびりついて離れない疑問に、何かが繋がった気がしたのだ。
 それが何であるかはわからないのだが、何かが…

「パイロット、まだ決まってないんだろ?」

「わからないよ、」

「俺にやらせてくれないかなぁ、ミサトさん…」

 ケンスケがシンジ顔を僅かでも観察する事が出来れば気付けたのかもしれないが、彼もまた自分の願いにそれを忘れていた。
 答えなければ、答えなくても良い。
 自分が得た噂は真実に近い。
 幼いと言われようが『英雄(ヒーロー)』という名の称号は、ケンスケにとって夢であった。
 それを手に入れるチャンスが僅かでもあるのなら、それを手に入れる為に何でも利用してみせようと。

「なぁ!シンジからも頼んでくれよ! 乗りたんだよエヴァに!」

「ホントに知らないんだよ…」

 少しだけ顔を向けて答えはするものの、それが素っ気無く見えてしまう。
 ケンスケはそれによって、さらに知っていながら教えてくれないと、思い込む。
 口元が尖り、拗ねてしまったのが分かると、シンジもケンスケが何を勘違いしているのか気付く。
 だが、その言い訳を考えるうちに、ケンスケは街並みへと視線を戻してしまう。

「じゃあ、四号機が欠番になったって言う話は?」

「なに、それ…」

「アメリカ第二支部ごと、四号機は吹っ飛んだって…」

 息を呑む音と、少し青ざめたシンジの顔が答えずとも全てを語っていた。
 それが事実であることを証明するために、ケンスケはシンジが呆然とする中、一人語り続けている。
 話から察するに、ケンスケの父親もその余波に巻き込まれ、帰れない日々が続いている。
 ニュースソースの確かさは、それらが表している様に疑いの余地が無い。
 状況さえも、その事実を認めている。
 シンジの中で繋がりながらも霞のように見えなかった何かが、急に形を見せはじめる。
 自分の保護者である人物の姿。
〜ミサトさんは知ってるはずなんだ… 〜
 シンジの身元など知らないはずが無い事は分っていたはず。
 家族構成は司令の息子だけと明記されてるわけではない。
 母親の死についても、明記されている。
 それを知らないわけが無いと思い至るには当然だった。

「ミサトさん、何も教えてくれない…」

 悔しげに呟く声は、消え逝く間際にケンスケの耳に届いた。


「日向二尉、入ります」

 ホント…堅いわよねぇ、日向君って。
 来る前には必ず連絡があるし、入退出時には必ず敬礼まで。
 内密の話をしなければいけないってのは解ってるはずなのに、なんでこうなんだか。
 そう思いながらも、上司らしく鷹揚に頷く私が原因なのかとも思う。

「…先程の件ですが、」

 防犯と監視を兼ねたカメラを背負う立ち位置に、さりげなく移動して目だけでそれに関しての忠告を私に訴える。
 傍目には、その報告に対して頷いてるようにしか見えないように、私もそれに応える。

「一応、此方に纏めておきました。『後程』ご確認ください」

 同時に差し出されたメディアと書類。
 僅かに強く吐き出された『後程』という単語。
 そして、ここに配置されている端末以外でも見れるように、一般向きメディア。
 つまりは…ここで見るな。
 ネットワークから隔絶された端末を使えという事。
 幾ら、加持君が調べろっていったって、たかがシンジ君の学校でそんなに危険な情報が…?
 その顔の引き締まり方は、何か危険を知らせようとしている。
 驚きに、私の顔もそれを表そうとして…、堪えた。
 多分、日向君の突き刺すような目がなければ、そのまま驚きを声にまで出していたのかも知れない。

「ありがとう、日向君」

 こんな迂闊な私を心配そうに見つめてくる。
 慕ってくれてる。
 だからかもしれないわね、危険を承知で手伝ってくれるなんて。
 その気持ちを知って利用してるのよね。
 無茶なお願いをしておいて、こんなこと考える私も私だけど。
 日向君に、私と加持君の関係がバレたらどうなるんだろう…。
 もしかしたら、暴露…なんて、そんなこと考えたらだめね。
 そんな人じゃないって分ってるのに。

「忙しいのに面倒をさせてごめん。今度お礼するから…」

「良いですよ、気にしないでください。それが仕事ですから」

 最後まで言わせまいと、笑顔で遮る。
 無理をさせているのは、分ってるからなのに。
 自分の仕事はちゃんとこなしてる。
 普段なら、その余った時間を少ない休憩時間の足しにしてる事も。
 裏切ってる…のかな、私。
 いつかは、正直に話さないといけない…
 なのに、私は利用するために…期待を持たせておくために、それらしく振舞う。
 歳から考えれば似合わないのに、わざと唇を少し尖らせて…あたかも、気があるかのように。
 拗ねるように、うつむき加減で…好意を得るチャンスをちらつかせて。
 私のお礼が受け取れないの?と…お礼の種類はいくつもあるのよ?なんて嘘を。

「どうしてもと言うなら、缶コーヒーでもご馳走してもらえれば…」

 臆病なのね…日向君も。
 でも、彼を利用しなければ…私が得られる情報なんて限られてくる。
 正直、MAGIに関しては、私が日向君に勝てるところなんか全くない。
 今回の調査にしても、間違いなく辿り着けない。
 単独でやるとしたら、氷点下に保たれた通信ケーブルダクトに潜り込まなきゃ出来そうにないし。
 そんな所に、何度も出入りしてたら、間違いなく疑われる。
 頼るしかないのよね…

「自分は葛城さんにご馳走してもらえるなら、なんでも幸せですから」

 それでかまわないの?と、少し眉を顰めてみるけど、それで手を打ちませんかとばかりに笑顔を向けてくる。
 日向君は貸しを作ろうとしてるのかもしれない…
 私は彼の気持ちに気付かないフリをしたまま、その借りを直ぐに返したいだけなのかもしれない。
 やっぱし、ずるい女よね。
 それでも立ち止まるわけにはいかないから、その程度で返したことにしようとして、納得しようとしてる。

「ありがと、ホントに。んじゃ、ちょっち休憩がてら夕焼けでもみますか」

 意図が伝わったのか、頷く日向君を確認すると同時に、メディアと端末それを隠すための書類の一部を手に取り、彼を促した。


 窓を開けると、校舎の中を風が通り抜ける。
 それを確認するように、指先を軽く湿らせ流れを確かめる。
 黒板消しを叩き、粉を払おうとしているだけなのだが…
 それを行おうとしている少女・アスカにとっては飛び出る石灰の粉末を頭に被るわけにはいかない。
 元々、痛みやすい髪質の上、さらに訓練によって度々濡らされては痛んでしまう。
 その髪を手間暇かけて労わってきたのだから、瑣末なことでそれを台無しにしたくもない。
 僅かにでも風が自分の方から流れるのであれば、それを行うのに問題は無い。
 もっと本当にそれを気遣うのであれば、数階下のクリーナーが設置されている場所まで移動すれば良いだけなのだが…面倒になっただけだったりもする。
 本来は彼女がすべき事でもないのも不精に拍車をかけている。
 そして、それを行うべき男はここ数日姿を見せていない。
 さらに代行する役割がある彼女の友人が彼女に相談したいことがあると言われては、手伝うのも相談に答える事の一部とするのもやぶさかではない。
 用具入れから友人に隠れるように持ち出した箒の柄を使い、黒板けしを軽く叩く。
 白い粉が舞い上がり、僅かな風に流されながら下へと降って行き、消えていく。
〜ん、こっちには流れてこないわね〜
 風の流れが彼女にとって安全を与えてくれているのを確認すると、更に強く何度も叩く。
 一つ目の黒板消しから粉が出てこなくなった頃、消えていく粉塵の向こうにシンジの姿をみつける。
〜とろいわねぇ?まだ着いてなかったってのぉ?〜
 何をしてたのだと勘ぐりながら、ゴミ箱を抱え焼却炉に向かうその姿を目で追ってしまう。
 焼却炉の蓋を無造作に開け、その中にゴミ箱をひっくり返し捨て…その動きがピタリと止まる。
〜何を遊んでんのよ!っとにっ!〜
 彼女自身の手も止まっているのだが、それに気付くわけも無く心の中で悪態をつきながら、シンジを見つめる。
 ゴミの中に何かを見つけたらしく、それを手に取り…眺め、そして破り捨て焼却炉の奥へと投げ込む。

「あれって…昼にアタシが捨てたアレよねぇ…」

 沸き起こる嬉しさに、声に出してることさえ気付かぬまま、顔が綻んでしまう。
 シンジが破き捨てたのは、アスカの机の中に入れられていたラブレター。
 下駄箱にあったのなら、そのまま無視するのだが…机の中に入れられては無視も出来ない。
 その場に捨てて無視しても、親友がゴミ箱に捨ててしまうのは当然だったこともあり、アスカ自身が捨てた物。
〜やきもちなんて…〜
 シンジの拗ねた顔はきっと幼くて嫌な感じと想像していたのだが、実際は眉間にしわを寄せ、僅かに不機嫌といった感じがする。
 そして、きっと見ても嬉しくないと思っていた彼女自身の心が嬉しくなっていることに、幸せを感じる。

「似合わないわよ…馬鹿シンジの癖に、」

「ふ〜ん、クリーナーの所まで行かない理由は、そこで碇君をみたかったからかぁ」

 突然の声に驚きと共に振り向くと、ヒカリが両手を腰に沿え非難の目をアスカに向けている。
 アスカは何かを言い返そうと、言い訳じみた理屈を口に出そうとするが、どう考えても言い負けてしまう結論しか思い浮かばない。
 そんなアスカにふと柔らかな微笑を見せると、窓の向こうへと目を向けシンジを見る。

「偶然見えただけなんでしょ?」

「そ、そうよ!それだけなんだからねっ!」

 からかう様なヒカリの言い方に僅かに機嫌を傾けるが、それ以上に主導権を取り返せそうなチャンスを逃すまいと、いつも通りの強気な態度を取り戻す。
 アスカも胸を張り、自分だけがこのポーズをしてもよいとばかりに、腰に手を当てる。
 だが、親友を名乗るヒカリはこの少女の動揺を見逃してるわけが無い。

「でも、アスカが昼休みに捨てた手紙を碇君が見つけて…やきもちを妬いてる姿を見ちゃって、嬉しくてボーッとしちゃったんでしょ?」

「なんでアタシが嬉しくならなくちゃならないのよ!」

 アスカは、この時点で問題が摩り替えられている事にも気付かないまま、意地になって反論してしまう。
 ヒカリもここまでアスカが意地を張ると思ってもいなかったのか、僅かに驚き、そして少し悲しげに微笑む。
 なぜ、この少女は素直に認められないのかと。
 ヒカリはデートの仲介に断られた時から、その変化に気付いていた。
 口では彼を貶しながらも、それを聞かれてなかっただろうかと伺い。
 彼が何処かへ向かおうとしたならば、それを問い詰め。
 さらに他愛の無い用事ならば、その後を追いかける。
 そして今も、必死に隠そうとしている赤く染まった頬。
 こうして証拠が出揃っていながらも、否定してしまう。
 それがヒカリには、自分が本当に親友なのだろうかと思うには足りただけだった。
 アスカも隠し事をしているという後ろめたさが無いわけではない。
 ただ、恥ずかしさがそれよりも上回っているだけで、それを証明するように、以前ならば飛び出すはずの台詞『わかったんなら、良いわよ』さえも出さぬまま俯いてしまい、言葉を繋げられなかった。
 沈黙がヒカリに言い過ぎたと思わせてしまい、無意識に助けを求めたのかもしれない。
 視線を彷徨わせ…そして、止まった。

「鈴原!」

 突然のヒカリの声にそれまでの不機嫌さも忘れて、アスカも振り向いてしまう。

「なんや、いいんちょかい。どないした?」

 だが、声をかけられたトウジは惚けた様に、力なく返事をするだけ。
 足取りも力なく、よく見れば目の下に隈が出来ている。

「どうしたも無いでしょ!ずっと休んで連絡も付かないし、週番の仕事だって…」

 ヒカリも最初こそ責めるように叫んでいたが、その様子に勢いを殺がれ、最後には呟きと変わらなくなる。
 逆に責めてしまったことに対して、罪悪感を感じずにはいられなかった。
 トウジの姿を見たことで、はしゃいでしまった自分の単純さが悔しい。

「あぁ、すまん。相方はおらんの?」

 トウジの気の抜けた話し方に、返事が返せなくなる。
 見かねたアスカがトウジに気付かれぬように、そっと背に手を添える。

「ファーストよ」

「そか、そりゃ無理やな」

 悪いと右手を顔前に立て、笑いながら謝るような姿であるにもかかわらず、アスカでさえその態度を責められない。
 それほどにトウジの覇気は感じれない。
 さらに、アスカにもその手にもつ物を見て悟ったのだろう、感謝を告げ軽く頭を下げる。
 ヒカリは謝らなければならないのは自分だと思いながらも、それを行えば逆にトウジも真剣に謝り直すのだろう姿が容易に想像がつくだけに、言葉を失い…ただ俯いて悔いるばかり。
 一時の感情で、冷静に考えれば―この少年は余程のことがなければ…―理解ることを忘れていたのだから。

「どうして休んでたのよ?」

「いや、妹の…ナツミいうんやけどな、」

 その状況の停滞に終止符を打つべくアスカが動いたのだが、『妹』の名が出ると同時に眉を顰めてしまう。
 トウジからすれば、話さなくてはならない事とわかっているだけに、言い辛くとも隠すことはできない。
 それが言葉を詰まらせた。
 訊ねた側からすれば、その疲れ具合からしても、間違いだったのではと思わせる詰まり方であった。

「…具合、悪いっての?」

 トウジの言葉を継ぐようにアスカが再び訊ねる。
 表面上、普段を演じようとする彼女の言葉は無礼にも感じるが、言い淀み区切られる声にそれは感じられない。
 トウジもそれを分っている。
 天井に視線を移し、仕方がないと口にする。

「ん〜まぁ、そういうこっちゃ」

「今は?」

「ん、大丈夫や…と、思うわ」

「そっか、」

 『んっ』と、言葉にならない返事とともに天井を見上げたまま頷く。
 それは裏腹の事実を暗に語っっている。
 本当は危険な状態が続いているのだと、そう言っているのだ。
 ただ、心配をかけたくないと。
 そう二人は受け取った。
 訊くべき事は代わりに聞いたと、アスカがヒカリの背を再びそっと叩く。

「明日からは…、来れるの?」

「明日はええけど…その先は無理やろな、」

 妹さんの容態は本当に大丈夫なのかと確認したい気持ちと、ヒカリの中にあるもう一つの気持ちがそれを問わせた。
 もしかしてではなく、確証が欲しかった。
 そして返ってきた答えは、望まぬ物だった。
 トウジはいまだ天井を見上げたまま。
 ただその姿を見るだけでも…無事なのを、確認していたいと思う気持ちを、その事実は不可能にさせる。
 望まぬ別れを繰り返し見せられる街。
 いつ、それが自分とトウジに降りかかるのか、わからない。
 ここ数日は、それを嫌と言うほど思い知らさせた。
 逢いたいと言えれば良いのだが、事実はそれを許さない。
 言えるほどの関係でもなければ、自分を見て欲しいと言えるズルイ女にもなれない。
 いまだ少女なのだから。
 それが三度、言葉を失わせる。
 アスカもその失意が分るのか、何もできない。
 沈黙は時の流れを錯覚させる。

「トウジ!」

 突然、廊下の奥から聞こえてきた声にトウジは振り向く。
 シンジが戻ってきたのだ。
 両手に空になったゴミ箱を提げ、走りにくいのだろうか、早足で近寄ってきた。

「おう、シンジ」

「どうしてたんだよ!」

 挨拶もそこそこに駆け寄ってきたシンジの問いに、トウジの顔が曇っていく。

「ん、まぁ…ちと、色々あってなぁ…」

 言葉を濁し再び天井を仰ぐトウジをシンジは不思議そうに見つめる。
 アスカも先ほどは辛そうにしていながらも、話していたことを秘密にするトウジの様子に違和感を感じる。
 ただ一人、ヒカリだけがその様子に気付けた。
 なにかを言い出そうとしている。
 だけど言い出せない。
 シンジの転入当初の事が頭を巡り、即座にその答えに辿り着いた。

「鈴原!」

「なんや!?…って、近くにおるんやから、そないに大声出さんでも…」

「ちょっと待ってなさい!」

 ヒカリは二人の会話を遮るように叫ぶと、突然足音も大きく駆け出し、教室へと飛び込んでいく。
 唖然とする三人が息を取り戻すよりも早く、再び飛び出し、舞い戻ってきたヒカリが手に持っていた紙束をトウジに向けて差し出す。

「残りの週番の仕事はやっておくから!これだけ…お願いしていい?」

「なんや、コレ?」

「鈴原と綾波さんの休んでいた間の物よ。綾波さんずっと来てないから、溜まってて…」

「そか、届けとけばええんやな?」

「う…うん、」

 トウジは妹のことをシンジには言えない。
 言いたくないのだとヒカリは思ったのだ。
 トウジも逢いたくないから、放課も過ぎたこの時間に来たのだろうと。
 本当はヒカリが頼まれた仕事なのだが、この場を納めるには、と気を利かせた。
 トウジは頼まれれば断らないだろう事も想像が付く。
 ここで一時的に引き離して、シンジに対して警告を与えるだけの時間は得られるはず。
 そしてまたトウジにも心を整理させる時間を与えられると。

「しゃぁないな。シンジ、付きおうてもろてええか?」

 だが、ヒカリの思惑は見事に破られた。

「いっ!碇く…「ん〜いいよ。これからNervだからそんなに時間はないけど」

 シンジには別の用がと言いかけて、それさえもシンジに遮られる。
 すでに、ヒカリの思惑は破綻し、さらにヒカリは最悪の事態を思い浮かべてしまう。
 だが、蒼褪めていくヒカリとは裏腹に、少年達の口調は軽い。

「そか、すまんなセンセ。忙しいんに」

「いいよ、気にしないでよ…って、ちょっと待てる?」

 それまで、トウジに向けていた視線がアスカの手元を指すと、シンジは溜息を隠しもせずアスカの手から黒板消しを奪い取り、トウジの返答も待たずに来た方に戻っていく。

「っとに…」

 あきれた様に残した一言に、アスカが飛びつかないわけがない。
 目尻を吊り上げ、シンジの後を追いかけていく。

「ア、アンタじゃないんだから!サボってなんかいないわよ!」

「誰もサボったなんていってないだろ!」

 騒ぎ立てながら階段を下っていく二人をトウジもまた呆れ顔で見ていた。

「ホンマ、夫婦喧嘩が好きなやっちゃ」

 微笑ましいといえば、嘘にはならないが…羨ましくもあり、騒がしくもあり、そして…妬ましい。
 妹の怪我の一端を為した少年が、幸せに見える。
 それを責めたくはないが、妹の事を考えるとそうもいかない。
 疲れが浮かんだ顔に、それがさらに陰を落とす。

「鈴原は…まだ…」

 蒼褪めた顔のまま尋ねてくるヒカリの言葉に、トウジも一瞬迷う。
 しかし、その窺う視線に内心を読まれていたと理解したのか、小さく頷く。

「恨んでるわけやない。
 やけど、納得しきってもおらんかった」

 ヒカリの不安と同じ答えに、最悪の事態が確定してしまったと蒼い顔をさらに蒼くさせていく。
 アスカの立場からすれば、シンジを擁護するのは分っている。
 人類の命運という重責の前には人一人の命など軽い。
 だが、トウジはそれに納得できないと言っている。
 その気持ちはヒカリにも十分理解できた。
 そして、自分はトウジを擁護してしまうことも。
 自分の妹がと置き換えれば、トウジの気持ちを無碍にすることはヒカリには出来ない。
 なぜ、この街で戦わなければならないのか、人的被害を考えるなら、ありえないはずなのに。
 だがそれは、Nerv本体への不満。
 シンジとアスカという『兵士』に言うべきことではない。
 しかし、ヒカリはそれを親友に向けて言ってしまうであろう自分がいることを知っている。
 そして、アスカとの関係が壊れてしまうことを…

「心配すな、大丈夫や…」

 ヒカリが、いつの間にかに俯いてしまった顔を上げると、すまなさ気に苦笑いを浮かべている。
 何を大丈夫だと言うのか?
 考えていることが分っているのか?
 勝手に勘違いしているだけじゃないのか?
 そんな気持ちが、目に厳しさを与えていく。

「んな怖い顔せんかて…ワシがシンジをドツクんやないか?って思ってたんやろ?」

 今は…という言葉を呑み込んだまま。
 ヒカリは、不安を払ってくれたトウジに驚きを見せる。
 何故?と。
 答えは分っているのだ、この少年は優しいと。
 人が悲しむようなことには直ぐに気付く。
 疲れながらも、人への気遣いは忘れない。
 そんなトウジだからこそ…
 見上げるヒカリの瞳が潤んでしまう。
 そんな姿を見せられては、トウジの方が困ってしまう。
 誤魔化す様にシンジが置いていったゴミ箱を抱え教室に一人向かい、ヒカリもまたついていく。
 教室の片隅にゴミ箱を置くと席に着き、眺める。
 ヒカリは教室の戸を過ぎた所でなんとなく立ち止まってしまっていた。

「鈴原…」

「ん?今度はなんや?」

「え? あ、その…ご飯ちゃんと食べてるのかな…って、」

 懐かしむ様に見る姿を見て、自然に出てきてしまった呟き。
 それを聞き取られて問われたとしても、何も答えられるはずがない。
 苦し紛れに思いついた話題で濁そうと考えたのだが、あぁと力なく返ってくる答えに気付いてしまう。
 嘘だと。

「鈴原って、結構食べるでしょ?
 忙しいんじゃ、ちゃんと食べてないんじゃないかと思って…」

「少しくらい食わんかて、死にゃせん…」

「だめよっ!」

「そか…ダメか…」

 食欲もないのだろうことは、ヒカリにも直ぐに解かった。
 だからと言って食べないというのは良いとは思えない。
 なんとかしないと…

「あのね、私、こう見えても…
 料理、上手かったりするんだ。
 でね…」

「で?」

 トウジの瞳は変わらず教室に向けられたまま。
 それがヒカリの胸を締め付ける。

「もしよければ、明日…お弁当、作ってくるから。食べない?」

「いいんちょにそこまでしてもらうわけにはいかんで」

「いいの!
 元々、材料も作ったおかずも余るときも多くて、それを夕飯にってするんだけど、
 昼と夜に同じもの食べるのも…」

 ふと、トウジの頬が緩み、目尻が下がる。
 視線こそ向けられないが、それは自分に向けて微笑んでくれたのだとヒカリにも解かった。

「そりゃ、イヤやな。ありがとさん、甘えさせてもらうで」

「うんっ!」

 トウジの答えに満足できただけではない何か…
 オレンジ色の光の中、なんとなく感じられる甘い空気に触れていると、嬉しさがの心の中を満たしていく。
 嵐のような二人が戻るまでの間、ヒカリはそんな幸せを満喫していた。


 ホントなら、夕焼けの中のビールといきたいもんよねぇ…
 なぁんてシミジミ思っても、無理なものは無理。
 夕焼けに似合う飲み物ってたら、ビールしかないのに、缶コーヒーとはねぇ…
 それに…
 彼も悪いってわけじゃないけど…良いってわけでもないし。

「はぁ…」

 思わず溜息を漏らしてしまったけど…
 日向君は気付いてない。
 下手に『自分とじゃ面白くないですよね』なぁんて言われたら、どうフォローして良いか分らないのもあるのよねぇ…
 昨日と同じ場所。
 何故か設置されている自動販売機傍のベンチ。

「ここなら大丈夫よ。とある人物のお墨付き」

 こんな場所にMAGIの監視の穴があるとは思ってなかった。
 驚く顔は間違いなくそういってる。
 まだまだ青いわね。

「心配なら戻ってからこの場所を見てみるってことで」

 と、かく言う私も自分で確かめたわけじゃないから、なんとも言えないんだけど。
 加持君がそんなミスを犯すとは思えないし、
 この本部内で、MAGIの目を盗んで動ける人間がどれだけ居ると言えるのか…

「そこまで言うなら…」

 言うやいなや、慣れた手つきで私の端末の裏を無造作に空け、ネットワークカードを抜き去ってしまう。

「な、なれてるのね…」

「こんなこと、本部の男ならだれでもやってますよ」

 その言い方にある裏の意味がなんとなく…じゃなくて、やっぱりソレしかないか。
 苦笑いを浮かべてる顔が、見事に語ってくれてるって気付いてるのかしら?
 なんていうか…やっぱり大人しそうに見えてても、男なのよねぇ。
 蓋を閉じて、メディアをセット。
 そのまま必要なデータを呼び出してから私に手渡してくれる。

「まずは、このデータだけ見てください」

 頷き見れば、グラフと表。
 シンジ君のクラスの父兄生存率。
 セカンドインパクト直後生まれの世代だから、何かの事件に巻き込まれて片親というのは珍しくない。
 あの混乱期なんだから、まぁ当然ね。
 逆にセカンドインパクト前の生まれなら、両親ともに…というのも少なくないし。
 それが示すとおりのデータにしか過ぎない。

「そして、これです…」

 脇から手だけを伸ばして端末を操作してもらい、表されたグラフ。
 これには気付けた。
 母親だけの生存率が異様に低い。

「見て判る通り、片親ではなく…母親限定なんですよ」

 そして、さらに個人データを読み出し、一人一人を説明し始める。

「この子はインパクト後の騒乱期に、母親が交通事故死。
 この子は行方不明。
 この子もですね…」

 次々に挙げられる情報には確実に偏りがある…
 それを訊こうとする前に、また別のグラフを表示する。

「左上が学校全体の両親の生存率。
 右上がシンジ君のクラスの両親の比率。
 左下がその死亡原因の…
 そして、右下が…」

「シンジ君のクラスの母親の死亡原因ってとこかしら」

 えぇ、と頷く。

「自殺、行方不明、事故死、その事故死といっても事故後数日経過してからの死亡率が異様に高いわね」

「そうなんですよ、シンジ君のクラスメイトの過半数。男子だけを見れば、およそ八割近くも」

 それが何を意味するのか…
 ふと、何かと関係があるような気がしたけど、なにが何だか…

「自殺の場合は、生活苦からのノイローゼ…となってますが、当時のゲヒルン職員の給与水準がそんなに低いとも思えません」

 え?ゲヒルン職員?
 そんな私の驚きを察知したのか、新たなデータを呼び出して見せる。

「自殺した女性のご主人は、ほぼ半数がゲヒルン職員です」

 なぜ?
 偶然にしては…確率が高すぎる。
 何かがある。

「この程度の情報なのに…秘匿情報扱いなのも気になります」

「個人情報保護というだけじゃないわね」

 勘がそこを調べろって言ってるけど、これ以上はこの問題を掘り進んでも出てこない気がする。
 でも、何かが引っかかってる。

「例のフォースですが…」

「彼がどうしたの?」

「彼の母親も事故死でその直接死因を調べたのですが、」

「不明ってことね?」

 何ゆえこの程度の情報を隠さなければいけないのか…
 この組織の秘匿性に吐き気がしてくる。
 地下のアダム、都合の良いフォースチルドレンの選出劇、そして委員会のあの発言。

「えぇ、搬送先の病院の情報から、事故の状況まで…全てが不明でした。
 多分、現地に赴いて調べれば…ですが、」

 尻尾を捕まれる、と最後までは言えずに、申し訳なさ気に頭を垂れてしまっている。
 この子はどこまでも誠実なんだから。
 そこまで無理しろなんて言ってないのに。

「いいわよ。気にしないで」

 私の言葉に、頭を上げて苦笑いを浮かべてくれる。
 それを見て、私も苦笑いを浮かべながら温くなった缶コーヒーを口に含む。

「それにしても…不審過ぎますね、委員会とNervは」

 返す言葉がない。
 自分の所属する組織とその上位組織。
 調べろと言っておきながら、その組織にいる私を信じろと…
 口に出して言わないけど、その意図は伝わってる。
 じゃなければ、危険を冒して調べてはくれないだろうし。
 不審さが募るのに、人類の未来の為に戦え。
 必要悪では済まされないわね。
 考え込む私の隣で日向君は黙々と端末の後始末に精を出してる。
 さっきのデータがフォースチルドレン選出にどう繋がるのか…
 加持君の意図も分らない。
 多分、あいつは既にフォースの母親の件については調べがついてるのよね。
 私たちの技能ではここが限界に近い。
 あいつは私達の限界を知ってていってんのかしら?
 なんか…気付いてないきがしてくるわね…
 結局、加持君頼みか。
 来た時よりも更に夕日で赤く染まった空が、なんか心を落ち着けてくれて、さっきまでの不快さが少しずつ和らいでくる。
 こうなってくると、仕事なんかしたくなくなっちゃうのよね。
 何もかも忘れて…そんなことできる訳ないのに。
 それにしても、ビールが欲しいわねぇ。


 蝉の声と、再開発地区らしい瓦礫の崩す解体音と新築基礎工事の音が入り混じる。
 巨大な集合住宅が然程広くない道路の片側に並ぶ姿は、都会に住む者でも圧迫感を感じるほどに。
 そして夕方にも拘らず、暑さのせいか奥に見える建物は揺らぎ一瞬ごとにその姿を変える。
 その中の一棟の一室。
 402号室と小さく書かれ、綾波と銘打たれた表札の前に辿り着いたトウジは思わず呆れに似た溜息をこぼす。
 規模の大きさに似合わず、団地には人の気配がない。
 こんな場所で中学生が一人暮らしをしているなど、想像がつかない。
 階段を上る時から、いや、この団地に着いたときから二人の間には会話がない。
 その場所が間違いないと一応の確認を済ませたように、シンジが押鈴へと指を伸ばし、二度ほど軽く押す。
 だが、その音がなっている気配がない。
 人によって音を絞り、僅かにしか聞こえぬようにする者もいるが、押鈴ついた埃がそうではないと語っている。
 それを、さも当たり前のようにシンジが見ていることも、トウジにしてみれば不思議でしか仕方がない。

「綾波、入るよ」

 無造作に言い放つシンジに、トウジは環境の違いを改めて認識する。
 年頃の少女の部屋に入ると言うのは男として、興味もあるが同様に怖くもある。
 そういう事を無造作に出来るのは無邪気といわれる歳までであると。
 デリカシーのない奴などと言われては、この先、自分には負の評価が付きまとうことになる。
 まして硬派を謳ったトウジであるから、それに対して更に抵抗があるのは当然であった。
 だがシンジは既に『美』と冠詞のつく少女と同居生活をしているのだ。
 トウジも妹などと生活していたのだから…などということはない。
 年頃でもなければ、そういう性的対象にはならない『妹』なのだから話が違う。

「女の部屋に黙って入るんは、良うない思うで?」

「しょうがないよ、ここに入れても見ないだけだし」

 そんなトウジの言い分にさえ、あっさりと視線を郵便受けにやり、無理でしょと暗に語る。
 トウジもダイレクトメールや、チラシなどが溢れ返っているところを見ては反論がしづらいのは事実。
 シンジにしてみれば、プリントという物の重要性がさしてあるとは思えないのだが、それに対する意義は捨てられない。
 一足先に大人達に混じって生活している分、シンジのほうが書類による連絡という物の重要性を理解させられている。
 それに慣れさせるために、学生時代のプリントというのが存在しているように思えてきている。
 トウジがそれをまだ理解できていないだろう事もシンジには解かっている。
 そのままドアノブを捻り、僅かに戸を開けて中を覗きこむ。
 シンジもここにきて、以前の失態を思い出してしまったのだが、そこはなんとか表に出さずに隠し通して窺う。
 続くようにトウジもシンジの逆側に身体を滑り込ませ、覗き込む。
 以前の失態を繰り返すまいと気配を読み、水音や物音がしないことを確認すると、安心したのか何事もなかったかのように中へと進んでいく。
 トウジもそれに続こうと、靴を脱ぎ…そこで改めて少女の部屋に入ることに躊躇し、一瞬足が止まる。
 だが、玄関先で取り残されるのも気が引けたのか、迷いを振り払うようにシンジに続き…
 部屋の様子に呆然としてしまう。

「なんやぁ、これが女の部屋かいな? 無愛想やなぁ」

 トウジの無愛想との一言がその部屋を見事に語っていた。
 何もない部屋。
 少女らしくヌイグルミがあるわけでも、可愛い色合いのカーテンが引かれているわけでもない。
 確かに、年頃の少女の部屋でも実用性を重視した部屋というものがあるが、そこに少女らしさを感じることが出来る。
 そういうものを感じさせない部屋。
 端が解れ破けてしまってなお使われている、日差しを全く通さない黒いカーテン。
 散らかった紙くず。
 パイプベットと、それに付けられたアーム式のデスクライト。
 チェストと冷蔵庫と椅子。
 そして壁紙もなく、剥き出しにされたコンクリート。

「ホンマ…エヴァのパイロットってのは、変わり者ばっかりやな」

 ドラマなどで一昔前の青年などが好んで使っていたという設定などはあるが、現実に見るなどこれが初めて。
 そう、男の部屋と…思ってしまったのだ。
 校内では美少女と噂される少女の私生活がこれほどまでに、寒いものとは思っていなかったのだろう。
 ただ、それを眺めることに気を奪われてしまっていた。
 そんな中、トウジがその様子に唖然としてる間にシンジはプリントを目に付くように枕元に置くと、適当なゴミ袋に紙くずを放り込んでいく。

「なんや、お前、勝手に弄って…叱られるで?」

 トウジとて、これが男の部屋ならばそんなことは言わないであろうが、どんなにその様相がそれに近くとも、ここは年頃の少女の部屋なのである。
 『ウチかて女の子なんやっ!女の子の部屋を勝手に弄ったらあかんっゆぅてん!』
 ナツミの声がふと蘇る。

「片付けてるだけだよ」

 手を休めることなく、黙々とそれを続けながら答えているシンジには、トウジのような罪悪感はない。
 ミサトのような癖のある女性と同居していれば、自然と身についてしまう考えなのだが…

「ワシは手伝わんで! 男のすることやないっ!」

「うん」

 腕を組み、シンジの行動を完全に否定してしまうトウジに、シンジはそれも当然とあっさり応える。
 シンジにしても、ミサトと暮らすようになるまでは、そういう事に対して抵抗があったのも事実。
 そして、女性というものに対して、幻想を抱いてさえいた。
 それを現実に引き戻した功績は高いのだが…なにぶん、その水準が違うだけに功績と呼んで良いものかも疑問がある。

「でも、ミサトさんに嫌われるよ? そういうの…」

 普段から、ミサト、ミサトと叫ぶトウジとケンスケにはこの意味は伝わらないであろう。
 男といえども家事はするべき、男女の立場の均等化と受け取っているに違いないだろうとシンジは予測している。

「くぅ〜っ、かまへんっ! ワシの信念やからな」

 多分に洩れず、トウジもそういう意味で受け取っている。
 それが、想像の外側にあるなど、気付きもしていない。
 ―男子厨房に入るべからず―と同じ意味とトウジは言っているのだと、シンジにも気付けた。
 シンジもそのトウジの言い様に笑みが零れる。
〜夢を壊すこともないか…〜

「ま、いいんじゃないかな…そういうのも」

 忠告はしたんだよ、とばかりの言い方にトウジも引き下がる。
 それを見て、シンジは再びゴミを集めはじめ、また紙の軽い音が鳴り出す。
 こうなると、暇になってしまうのはトウジの方。
 ただ立ち尽くして待つのも面倒だと近くの椅子に腰掛け、そのまま紙くずを集めていくシンジを眺めるしかなかった。
〜何のためにしてんやろ…やっぱ綾波の為いうんやろな〜
 それ以外の目的が何かあるのか…と思い浮かべるが、トウジに分るはずもない。
 少女の気を引くための『点数稼ぎ』をシンジが行うとも彼には思えない。
 純粋に善意でそれをしてしまう。
 だが、出会った当時のシンジと今のシンジの姿が重ならない。
 何が違うのか…
〜ワシが気付かんだけやったんかの…〜
 実際、今シンジがゴミ拾いをしているのは、なんとなく。
 なにか意義や目的があってしてるわけでもない。
 普段からレイが見せる無頓着さに呆れたのかもしれないし、保護欲のような物が働いたのかもしれない。

「ホンマ…変わったなぁ…」

「何が?」

 トウジの言葉の意味がわからないシンジは手を止め、振り返る。

「シンジやぁ」

 さらに意味が分らないとばかりに、眉を上げ、口を僅かに開けるシンジに、トウジはシンジの本質に触れた気がした。
 シンジは自分の行動に理由を付けて動いてるわけじゃない。
 しようと思えばする。
 単純と言えば、単純なのかもしれない。
 考えるに囚われて動けないと言うことはないのだろう。

「初めて会うた時は、正直いけ好かん奴っちゃ思うとったけど…、人のために何かやる奴とも思えんかったし」

 考えて動いていたなら、その人の為という部分にトウジとて気付けないわけではない。
 人の為ということは、打算などの下心が見え隠れするものであるし、失敗という成果が出た時は責任という問題が浮き上がる。
 それに人は葛藤し、リスクを計算した上で行動する。
 人によってはリスクを計算にいれず、それが正しいからと信念を持って動く者もいるが、シンジには当てはまらない。

「要するに、余裕なんやろな…そないなことは」

 自分の心に余裕がなかったから気付けなかったと、自嘲を込めて。
 そして、シンジも突然変化した環境に余裕などなく、今の様に何かを行動に移す余地などなかったと。

「違うよ…」

 トウジの言葉はシンジを好意的に捕らえてくれている。
 それはシンジにとってはトウジが自身を責めているようにしか見えなかった。
 罪があるなら自分だとシンジは思う。
 それを示すように眉間に皺がより、視線が何もない床に向けらる。

「きっと、トウジから見たら間違いなくそうだったんだと思う。それに…」

 見えるものが全てではないが、見せられなかった自分が悪いと…
 自己主張というものは無縁だった。
 悔いるように呟くシンジの姿に口を挟むことは出来ない。
 トウジはそれを静かに聞くしかなかった。

「あの時にも言ったけど、僕は卑怯者だった…間違いなく。」

 シンジの話すことに一瞬だけトウジは思い出せず戸惑うが、駅での一件であると思い出す。
 同時にトウジは、あの時からシンジが自分が責めて続けている事に気付く。

「何の為にここにいるのかって…戦っているのかって、理由が何もなかったんだ」

 ただ命じられたから…言葉にこそならなかったが、意味は十分に伝わる。
 責任という物の存在を知りながら、それを放棄していたんだと。
 そして、恨まれるのも当然とその口調が語っていた。

「いや、ちゃうな」

 真面目というより不機嫌に近い声にシンジの目が再びトウジを捉える。

「せやったら、何で自分は片付けなんかしてんのや?」

 息が詰まるほど鋭い目と眉間に寄せられた溝が遠目にも映り、その厳しさを伝えてくる。
〜それが自分の、シンジの本質やろが…ちゃうのか?〜
 続く言葉を呑み込み、シンジを見据える。
 だが、シンジに分るはずがない。
 自分の本質が何であるかなどと、この年頃の少年が考えるはずもない。
 考えていたとして、それを理解するにはまだ若い。
 まして、自身を完全に理解するには時間が足りない。
 感情が先立ち、続く理屈が歪んでしまう。
 シンジが自身が自分がどう考え、どう動いたか…それを問われているのだが、
 問われている行動、無意識の善意には理屈がない。
 例えそれが偽善と呼ばれてても。

「…ん、なんと…なく、かな」

 シンジも気付いてはいるのだ。
 この善意が偽善と呼ばれるものかもしれないと。
 見返りを求めているのか?と問われれば、それを否定できない。
 何か分らないモノを自身が求めていることに気付いている。
 そして、偽善は汚いものという意識が、答えを出すことを否定させていたからである。

「自分、無意識でそないに、人の為にってしてるんや」

 トウジの確信を得たかのような言い方に、シンジは自分を見透かされた様な気になり、戸惑う。
 だが偽善ではないかと疑う部分がそれを否定する。
 今尚、卑怯者であったなら、自分がこれまでこの街で暮らしてきて得た物はなんであったのかと。
 成長してないと思われたくない。
 そんな虚栄心が生み出したモノだとしても、シンジには自分の友人と自分自身との心の成長の差を感じて認められなかった。

「違う、と思う…」

 トウジはそのシンジの言い様に、考えが伝わってないことを知ると溜息が出そうになるのを堪え、自分の言葉が稚拙だと理解する。

「せやから、あの頃の自分はそういうんを見せる余裕がなかったんやろ…ワシが素のシンジのいうのに、気付けんだけやったんや」

 偽善だろうと、好意は好意。善意は善意。
 無意識なら、それは偽善ではない。
 そして、そういうシンジの考え方を知らずに居た自分が悪いと。
 トウジの言葉はそう語っていた。
 それをなんとなくながらもシンジも理解し、納得まではいかずとも頷いて応える。
 だが、受け入れるまでには時間が必要なのは当然で、シンジもまた自分の心を見つめてしまっていた。
 トウジもその沈黙を当然と、黙ってその姿を見つめ…
 さらに本題を言い出す為の間を計る。

「あのな、シンジ…」

 数分の間の後、いつにない歯切れの悪さでトウジが声をかける。
 ここ数日の不登校の件もあり、シンジもその言い出しにトウジを窺う。
 頭を垂れ、俯くその姿が似合わない。

「自分、ド…」

 どうしたのと、シンジが声を掛けるより僅かに早くトウジも口を開くが、それはさらに軽い金属音に邪魔をされてしまった。
 闖入者といえばそうなのかもしれないが、今二人が居るのはその闖入者の部屋であるのだから、自分たちは不法侵入者。
 そんな二人の発想に固まったまま帰ってきた少女を見つめさせる。
 二人の存在を扉を開けた時に理解しながらも、普段どおりに歩き、二人の目の前に

「…なに?」

 不在時に部屋に侵入されたにも拘わらず、レイの声に抑揚はない。
 ここでもし、非難めいた口調ならば、二人があわてる姿を見れたのかもしれないが、その冷静さに二人は硬直を解くことに成功する。

「…あ、あぁ、お邪魔しとるで、アレが溜まってたプリントや」

「…そう」

 トウジが枕もとのプリントを親指で指し、それをレイの目が追う。
 それが目的だったと言うことに、二人が部屋に居る理由を察するが、ふと視線が動き…止まる。
 別にレイには侵入されたという事に、なんの問題もなかった。
 居たら居た。
 それだけでしかなかったのだが…
 シンジがその視線の意味に気付く。

「ゴメン、勝手に片付けたよ。ゴミ以外は触ってない」

 シンジがゴミ袋を持ち上げ見せると、急にレイの顔は驚き、そして赤く染まる。
 それが女性らしくなくて恥ずかしいと言うわけで、赤くなったわけではないのだが、男子二人にはそう見えた。
〜せやから、やめとけ言うたんに…〜と、トウジは目を塞ぎ、
〜あれ? 綾波? 照れてる?〜と、微笑み見つめる。
 レイ自身は何故、赤くなっているのかも理解できてない。

「あ…ありがと…」

 反射的に言ってしまったのであろう言葉であっても、それだけで二人には十分であった。
 トウジは、シンジが責められなかったことで、叫ばれる心配が無くなった事に。
 シンジはその言葉を言うのが照れくさかったのだろう事に。
 二人が二人、勝手に思い込んでいるだけなのだが、問題にはならない。

「ほな、ワシらも帰るよって。じゃ、」

「そうだね、また後で」

 逃げるように去って行くトウジを追い、シンジもまたその場を後にしていく。

「ありがとう…感謝の言葉…あの人にも言ったことがない」

 立ち去った二人に残されるように漏らしたレイの言葉は、奇しくもトウジの言葉を証明していた。

...be continues to the next part of story

しふぉんさんからコトノハノカミ第6話「スギルオモイ」いただきました〜。
「過ぎる想い」なのでしょうか。
今回もらぶらぶな雰囲気かなーと思ってたら、なんともシリアスに行きましたね。
一方ネルフの人達の間でも状況は進行中の模様。
これはほぼ原作通りの展開なんですが…今後どういうふうに変わっていくのが実に注意をそそられますね。
そしてレイ登場。こちらも原作通りですが、今後しふぉんさん流の面白い展開が期待されます。三角関係?それはないですね(笑
素敵なお話を送ってくださったしふぉんさんにぜひ感想メールをお願いします。
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