〜今、私の手元には4通の封書がある。
 本来なら、4通のこれらの封書は、大きな封筒に封印されて私の手元にあるはずのもの。
 『もしも』の時の為に書いたものなのだから、
 『もしも』がなければ、宛先もわからないようにしてあるはずの物。
 やはり、書かせるべきでは無かったのでは?
 『彼も男だったんだよ』
 加持はそう言ったけど…
 死ぬことを許容できるの?
 男だからってなんなのよ…〜





コトノハノカミ〜恋と少年と男
書イタ人:しふぉん





 足元から照らし出される光のみが巨大な室内を浮かび上がらせる。
 光が描くのはジオフロントの景色。
 そこに響く声は明るくも暗くも無い、酷く事務的な音。
 ミサトは、その心中を隠していた。
 自分の発する声が暗く重ければ、それは目の前の少年達に不安だけを与えてしまうと。
 明るく軽くすれば、それは緊張感を削いでしまう。
 故に毀れ出した声は、ただ伝えようとする音。
 酷く簡潔な内容。
 落下してくる使徒をその手で受け止めろと…

「勝算は?」

 隠しても隠し切れない不安を纏わせたシンジの問いかけ。

「神のみぞ知る…っと言ったところかしら?」

 返ってきた内容は予想された答えとは異なる。
 楽観的な声とは明らかに違い、不可であると言っている様なもの。

「これでうまくいったら、正に奇跡ね…」

 無謀な作戦に対するアスカの正直な答えだった。
 暗に死んで来いと言われているに等しい。

「奇跡ってのは、起こしてこそ初めて価値が出るものよ?」

 ミサトの言うとおり、奇跡とは確かに起こらなければ奇跡ではない。
 何事もやらなければ、結果はでない。
 ただそう言ってるだけなのだ。

「つまり…何とかして見せろって事?」

「すまないけど、ほかに方法が無いのこの作戦は「作戦っていえるの!?これが!!!」

 作戦とは言い難い作戦。
 不満がそのまま声質に憤りを乗せた。
 簡潔な内容で、まして成功率が奇跡といわれて作戦と呼ばれて納得できるものはいない。
 過去の大戦における『神風』と同義である。
 いや、むしろこちらの方が作戦としての精密さは高いといえる。
 成功させる為の援護等は緻密に計算されていたのだから。

「ほんと、作戦って言えないわね…だから、嫌なら辞退できるわ、」

 だが、ミサトの心に辞退させる気など無い。
 たった一つの方法。
 自らの願いを叶えさせるための。
 少年達にしても、その気は無い。
 人類の命運という重荷を強制的に背負わされ、それを拒否することもできない。
 望んで背負った部分もある。
 それが、自分たちの生きる道だと…

「みんな…いいのね」

 沈黙を同意と受け取ったミサト。

「一応、規則だと遺書を書くことになってるんだけど、どうする?」

 この時、シンジの中に何かが生まれた。
 心の奥底に淀んでいる感じがする。
 その癖、それが発する存在感はやけに大きい。
 ミサトは書いて欲しくなかった。
 命を賭けた作戦を提案しておきながら、身勝手ともいえるが…
〜生きて帰ってきて、貴方達は死ぬにはまだ早すぎる…〜
 それはミサトの女として保護者としての偽らざる気持ちであった。

「別にいいわ、そんな心算ないもの、」

 アスカは自らの未来の為、死を連想させるものを嫌っただけ。
 如何なる状況であっても、絶対に死なないという誓いとも言える。

「私もいい、必要ないもの…」

 レイにとって遺書は意味を成さないもの。
 例え書くとして、誰に宛てて書けばよいのか知らない。

「僕も…いえ、僕は、」

 二人の様子を横目で覗っていたシンジは、流されるように返答しようとした。
『僕もいいです、』
 そう言おうとした。
 心の中の何かが言わせなかった。

「…僕は書きたいです。 駄目ですか?」

 何かを…それが何であるか分からないが、
 ただ、何かを遺せ…
 そう訴えていた。
 ちらりと、アスカを見ては俯き、ミサトを見ては俯く。

「ア、アンタ… 本気で言ってんの?」

 前半は驚きに、そして数瞬の沈黙とそれに続く怒気を孕んだアスカの声。
 その視線に含まれる怒気も、恐怖に慣れない人ならば耐えられるものではない。

「なんでよ…死にたいの?アンタ?」

 遺書とは、死に逝く者が書く物。
 年老いた者ならば、先を案じてというのもあるだろう。
 だが、若くして書くのは、死ぬつもりであると公言しているだけ…
 そう認識しているのだ。
 だが、其々に於いて、認識というのは違う。
 シンジにとっての遺書とは、女性達が考えるモノとは異なっていた。

「いや、ちがうんだ… 死にたくないし、死ぬつもりも… だけど、書いておいたほうが良い気がするんだ。」

 アスカの雰囲気に怯えながらも、自分の意思を何とか言葉にできた。
 書きたいと言った時に、心の中の淀みは形を成してきた。
 まだ明確ではないが、ぼんやりとだが認識できる。

 常において波風を立てぬように、逆らうことなく賛同しかしなかったシンジが、怯えながらもそれを拒絶した。
 ミサトも常ならば気付いたこと。
 アスカもその違和感を常ならば問うこともできた。
 常ならば…
 だが、この二人にはそれに気付くことはなかった。

「勝手にしなさいよっ! あんたが死にたがってても、アタシには関係ないけどねっ!」

 言うが早いか、アスカは足音も激しくその場を去ろうとする。

「アスカ、後で詳細を説明するから、作戦開始3時間前には発令所にくるように、レイもね」

「了〜解っ!」

 ミサトの言葉に頷き、レイも席を立つ。

「…あなたは死なないわ …私が守るから」

 その言葉には多くの意味が含まれるのだが、それを解る者はいない…

「シンジ君は残って、話があるわ…」







 アスカにしてみれば納得がいくものではなかった。
 自販機に向けその拳を叩きつけ、憤りを発散させようとする。
 発散することができない鬱積を物に当たところで、収まるわけじゃない。

「シンジの癖にっ! 生意気よ!」

 解ってはいるが、抑えることも出来ない。
 そんな矛盾が、また憤りを加速させる。
 自分の心の中に住む少年が、遺書を残す。
〜シンジは死ぬつもり? 死んでもいいって思ってるの?〜
 いつから住みはじめたのか、理解らない。
 住み着かれたことさえ自覚してない。
 だが、確実にシンジはアスカの心の中に居ついてる。
 そのシンジがいなくなってしまうかもしれない。
 それを考えた時に湧き上がる蟠りと、何とも言いがたい苦しさ。
 不安… 端的に言ってしまえば、そうなのだが、何故自分が不安にならなければいけないのかが分かっていない。
 その原因が、恋愛感情であると。
 それゆえ、不安を不安として肯定していない。
 また同時に、未経験の感情を簡単に理解できるわけがない。
 加持という保護者を好きと、いっていたアスカではあるが、人として『好き』か、異性として『好き』か、区別がついていない。
 自分を一個の存在として見てくれる人物に憧れた。
 つまり、人として好きであるということ。
 だがこの『好き』と、恋愛の『好き』は別のものであると認識するのには、まだアスカは若い。
 人は経験をもって、成長していくのだ。
 アスカがそれを悟るのはまだ先の事。
 今はただ、その不安を認識できずにいるだけ。
 その不安の原因となったシンジの言葉に…
 自分の思うとおりにならないシンジの行動に…







 ミサトさんの表情は、さっきまでとは違ってた。
 どう考えても、怒ってるとしかいえない。

「シンジ君? ひとつだけ聞きたいの…
 シンジ君は死ぬつもり? もしくは、死んでもいいとか思ってる?」

 そんなつもりは、全くない。
 ただ、なにか自分でも言い表せない感情が…僕の中で渦巻いてる。
 今までだって、死ぬかもしれないって解ってたつもりだった。
 だけど…今回は何かが違う。
 僕はアスカみたいに、成功を信じきることは出来ない。

「さっきアスカにも言ったとおり…死ぬつもりはないんです。
 でも、何かそうしなきゃいけない気がするんです…」

 言い表せない感情を、どう表現していいか…
 何か、遺したい言葉がある。
 それが、何かわからない…
 僕の中の何かが…
 ミサトさんは、上手く説明できない僕の顔を厳しい視線のまま見ている。
 重圧が、僕にミサトさんの言うとおりにしろって、僕の心を挫けさせようとする。
 だけど…その何かは、僕の心の中を挫けさせてくれなかった。

「シンジ君、貴方を今回の作戦から外します」

 なっ!?

「何でですかっ!?「これは命令です。シェルターで二人の活躍をしっかり見ていることね」

 反論さえも認めてくれなかった。
 僕の中の何かが、命令を拒否しろって大声で叫んでた。
 根拠はある。

「…規則なんですよね?」

 だけど、返ってきたのは…
 さらに厳しい視線だけだった。
 僕の中でこの理不尽に、憤りが毀れだしてくる。
 初めてかもしれない…
 ミサトさんに、こんなに厳しい視線を返したのは、
 それが、事態を悪化させてるって気付いても止める事が出来なかった。

「シェルターより、独房の方が良いみたいね?」

 命令だって、聞けないものがある。
 規則を破れなんて、命令おかし過ぎるよ…
 僕の口はそれを紡ぐ事は出来なかった。
 聞く耳を持たないミサトさんは、すでに部屋を立ち去ろうとしてる。
 そして、入れ替わりに入ってきたのは、黒服に身を包んだ保安部員の人。

「よいかな? サードチルドレン、君を作戦本部長命令により拘束します」

 よいかな、なんて訊いてきてても、どうせ拒否は認められない。
 促されるまま、僕は発令所を後にすることしか出来なかった。



 このままじゃいけない…
 心はそう訴えてくるけど、どうしようもない…
 このまま拘束されて良いのか?
 それで、アスカ達が死んでもいいっていうのか?
 3人でも成功確率が低いのに、二人でそれが出来るの?
 だけど、保安部員に前後を挟まれ連行される僕には何も出来ない。
 手錠こそ掛けられていないものの…屈強な大人二人から逃げ遂せる事は出来ない。
 何か…手はないのかな…
 そう思ったとき、ふと目の前の光景を見ろと、自分の中のもう一人の自分が語りだした。
 目の前には、右に喫煙所を兼ねた休憩室と、そして左には7番ケージへと直通で抜ける待機室の扉。
 初号機が待ってる待機室だ…
 どうせ、命令違反で捕らえられるなら…
 そこからの僕は、僕じゃなかった…
 僕の中の何かに、全てを委ねた。
 ポケットの中のIDカードを握り締め、待機室の10m手前で急に立ち止まる。
 俯き、視線を保安部員の目から隠す。
 僕を連行する彼らから教わった、脱出術。

『人というのはな、打撃に対しては即座に防衛することが出来るが、敵意の無いような攻撃には反応できない事が多いんだ。』

 教官の声が、頭の中で繰り返される。
『まずは、立ち止まるんだ。 先へ歩けと、促されるだろうが俯いて無視するんだ。』

「どうした? サード?」
 後ろの保安部員から、声がかかるが無視する。

『そのうちに、相手の方が顔を覗き込む為に、姿勢を低くして視界の範囲内に入ってくる。』
 言葉のとおり、前の保安部員が僕の前で屈む様に、僕の顔を覗き込んでくる。

『手足が自由なら、その時に肩を掴むんだ、そして軽く、勢いをつけないように体重を掛けて押す。』
 僕の手が覗き込んできた保安部員の肩を掴み、ゆっくりとそして、体重をしっかりと乗せて押す。

『こういう行動をとられると、余程の達人でもない限り、体制が崩れる。』
 何百回と練習してきた動きを僕の体は寸分違わず繰り返す。
 僕の意思ではなく、僕の中のもう一つの意思に従って。
 ゆっくりと押されていく力に、男の体勢が崩れていく。

『崩れきった時を見計らって、体全てを使って突き飛ばすんだ。』
 一歩踏み出し、その踏み出した力を乗せて相手を強く押す。
 男が目の前で尻餅をつく様にその場に座り込む。
 繰り返された訓練の結果が目の前にあった。
 次の瞬間には、僕の体は駆け出していた。
 待機室の扉へと向かって。

「何をしてるんだっ! 追えっ!」

 僕の後ろから、叫びにも似た声が響いてくる。
 14歳の僕に良いように逃げられたのだから、彼らは失態どころじゃない。
 僕に抵抗されると思ってなかったのだろうから、上手くいっただけ。
 普段なら、そんなことはありえない。
 僕にこの方法を教えた張本人なのだから。
 そして、二度と成功することは無い。
 たった一度のチャンスを生かすべく、僕は体が訴える限界を無視して駆ける。
 後2歩…
 僕の必死は、逃げていった…
 休憩室から、草臥れた黒服を纏った男に見事に捕えられると共に。

「いかんなぁ…シンジ君、保安部員から逃げるなんて、厳罰ものだぞ?」

 僕の意識は、この言葉と共に凍りついた。
 着る人が変われば、ここまで黒服も変わるのかというほど着崩した男。
 元アスカの専属ガード、加持さんだった。
 無造作に、休憩室から伸ばされた手で、武術か魔法かいかなる術を使ったのか、
 全力で走る僕をあっさりと止めてしまう。
 咄嗟の事とはいえ、僕には出来過ぎた行動だった。

「やっぱり、だめなのか…このままじゃ、アスカが…」

 僕の呟きは騒ぎに消されていった。







 シンジの一言は、加持の耳に届いていた。
『…このままじゃ、アスカが…』
 確かに、そう聞こえたのだ…
〜ん? 様子が変だな…〜
 作戦前であるにもかかわらず、シンジを拘束しようとする。
 詳細こそ確認してないが、D−17並びにR警報とD級勤務者退避命令まで出てる程である。
 それほど危険な作戦でありながら、何故であるか加持も不審に思った。
 保安部員に厳重に拘束をされつつ、連行されようとしている。
 分からないことは、聞けばいい。
 その場合、ここで最も事情を分かる人間はシンジである。

「シンジ君は監察部が預かる、問題ないよな?」

 如何にシンジを捕えてくれた人物とはいえ、素性も分からぬ人間に引き渡すわけにはいかない。
 加持の服装を見ても、諜報部という程度としかわからない。
 シンジはその一言に、加持への救いを求めた。
 その視線は明らかに『助けてくださいっ!』と語っているのだ。

「あなたは?」

「特殊監察部・加持リョウジ一尉」

 無造作にIDカードを取り出し、保安部員に向けて放り投げる。
 受け取ったそれを端末で照会しながら身元の確認を行う。
 小さなディスプレイに、加持の顔が写り文字が流れていく。

「失礼しました、加持一尉。 サードを監査の対象としてということでしょうか?」

「まぁ、そうなるかな?」

 互いに目を合わせ、保安部員達は頷く。

「了解しました、サードチルドレンを監察部にお引き渡します、」

 彼らとて、不審に思っていたのだ。
 D−17が発令されるような作戦であるにも拘らず、サードチルドレンの拘束の理由が。
 それも、独房へ入れろと…
 監察部であり、噂では子供達の相談役であるとも聞く。
 ならば、名目だけでもそろっているのならば何とかしてくれるのでは…
 そういう期待が込められていた。

「それでは、我らはこれで失礼します。 よろしくお願いします、加持一尉」

 保安部員達は、足音も高らかに敬礼をし、その場を後にする。

「さてシンジ君、どういうことか聞かせてもらえるかな?」

 促されるまま、シンジは事の顛末を話し始めた。







 レイが更衣室へと向かうと隣接した休憩室にアスカの姿を見た。
 だがそのアスカの様子は、普段のものとは違っていた。
 普段なら、厚顔不遜を絵に描いたような人物が、休憩所の片隅で小さく腰掛けているのである。
 レイは声をかけるのを、一瞬戸惑うほど…

「…弐号機パイロット?」

 アスカは声をかけられても一切の反応を示さない。
 足音さえも感じられぬ程、静かにアスカのそばに近寄り声をかけたのだから、反応もあるわけがない。
 それと同時にアスカも、ただ心の海に深く沈みこんでいるのだ。
〜なんで?自分がシンジの事をこれほど気にしなきゃなんないのよ…〜
 その答えが見つけ出せずに、無限回廊を彷徨ってる。
 レイはアスカの様子を伺うことにした。
 小さく何かを呟きながら自己の世界に溺れていた。

「どうしてシンジは… 死にたいの? それをどうしてアタシは納得できないの?」

 レイは理解した、アスカが何を悩んでいるのかということを…
 自分がシンジを『好き』なのだと理解しているから。
 『好き』な人は大事な人、大事な人は守らなければならない人。
 だが、レイはそれ以上を知らない。
 自分の感情が『好き』という言葉で表されることを知らない。
 そして、告白という手段も知らない。
 さらに、好きだから何らかの行動を起こそうという衝動さえない。
 感情の表現…表情という手段においても、その気持ちを伝えることがない。
 アスカが自分と同様であると理解し、それが自分にとって競争相手であることさえも解らない。
 如何に鋭い人でも、これで察するのは無理である。
 故に、誰にも知られることがなかっただけ。
 そして今、どうすれば解決するかを理解していても伝えることが出来ない。

「大丈夫、碇君は死なないわ…」
〜私が守るから〜

 心の内の言葉が毀れなかったのが幸いしたのか、アスカの反応はない。
 この言葉が出ていれば、アスカは自分を理解できたかもしれなかった…
 だが、それはかなわぬ事実として残っただけ。
 レイは自分の世界に閉じこもったアスカを、ただ眺めるだけ。
 それもしばらくすると、踵を返し部屋を後にする。
 アスカを残して。







「なるほどな…そういうことか、」

 加持が一通りの経緯を聞き終えた感想であった。
 ミサトの性格を理解しているならば、分からなくは無かった。
 ミサトにとって、規則は礼儀。
 礼儀を欠かしてはいけない人にだけ、それを行う。
 部下であるシンジに礼儀をとらないように、規則など関係ない。
 つまり、自分より優位に居る人にだけしか規則を守らない。
 故に規則であっても、シンジに適用されないだけなのだ。
 それ以上に自分に従わないシンジに対して罰を与えようとしたのだ。

「まぁ、ミサトにはシンジ君の気持ちはわからんだろうな、」

「そうなんですか?」

「そういうもんさ、女って生き物はな… っで、シンジ君は自分の中の理由って言うのはわかるのかい?」

 男とは時に自分の命よりも大切にしたいモノが生まれる。
 それは若い時にこそ顕著である。
 そして、自らの命を軽んじる。
 ましてシンジは自分の存在を卑下する。
 自分の命は最も軽いものだと…
 加持にはそれが理解できた。
 理由も自分の経験上よくわかるものといえた。
 ましてや、それを実行中の身なのだから。
 多分、シンジの心の訴えは加持の推察どうりである。
 良くも悪くも、男という生き物は自己犠牲は美徳であると、
 それがどんな悲しみを遺そうとも…

「わからないんです…まだ。 なんていうか、死にたくないけど、もしもって思ったら…」

 少年が男へと変わろうとしている。
 ならば、それを止めてはいけない。
 過去に措いて、加持にも経験があった。
 青春の最中に措いて、加持はそれにたどり着くまでに多くの時間を有した。
 生きるために…心の成長を無視し、ただ生き延びることだけを考え続けた時代。
 心がそこまでの成熟に至ったころには、既に大人の仲間入りを果たしていた。
 故に、シンジの成長が羨ましかった、自分はこの歳では辿り着けなかった場所。
 だが、この少年が背負っているものは、世界の運命。
 僅かの想いが、心を軽く出来るなら。

「何かを守りたいって思ったんだろ? 違うかい、シンジ君?」

 それまで俯いていたシンジが急に面を上げ、驚きに満ちた表情で加持を見つめる。
 何かを守りたい、これまでそういう気持ちでシンジはEVAに乗っていたわけではなかった。
 ただ流され、命令されるまま。
 加持の言葉は心の蟠りを明確に形にしてくれた。
〜あの時も、夢中だったけど…そっか…〜
 形をとった想いは、明確な気持ちへと変化する。
 暫し呆然と考え込んでいたシンジの顔にいつにない凛々しさが溢れる。
 そして、ゆっくりと加持に頷く。

「いいだろうシンジ君、俺の権限で許してあげよう、書いてごらん」

「良いんですか? ありがとうございますっ!」

「シンジ君の気持ちは分かるからな、
 葛城には俺から『規則違反』だっていっておくから、
 ここじゃなんだし…
 俺の執務室を貸すよ、道具もな、」

 加持はシンジを伴い休憩室を後にする。
 この時、一階層下にアスカが悩んでることを気づかず…







『俺がいたら書きにくいだろ? 隣室で待ってるから、終わったら内線で呼び出してくれ』
 こう言って、僕を一人にしてくれた。
 残された時間は、そんなにないことは解ってる。
 多分、一時間も残されていない。
 でも、書きたいことはもう分かってる。
 多分、ずっと前から…
 ただ、自覚してなかっただけ。
 自分が死ぬかもしれない、そう思ったとき初めて理解した。
 そして、僕はこの想いを言葉に残すことは出来ても…
 口にすることはきっと出来ない。
 僕自身すごく臆病だなと思うけど、
 この想いを今、口に出すのは卑怯だと思う。
 失敗しても、成功してもことは終わってからでなければ…
 僕にも遺せる言葉があったんだ…
 そう思ったとき、少しだけだけど晴れやかな気分になれた。
 死にたくはないけど、やりたいことが見つかった。
 EVAに乗る意味を…見つけた。
 加持さんにも感謝しないといけないな、あの一言がなければ…
 僕は永久に自分の心が分からなかった。
 自分がこんなに前向きになれるんだ…それだけの物を心に抱えることが出来た。
 うれしいんだな、きっと…
 五つの封筒と、書き終えた便箋。
 それぞれに宛名を書き込みながら、封入していく。
 ミサトさんが僕を出撃させたくない気持ちも解った。
 姉として、女として…僕を死なせたくなかったって…
 やっぱり加持さんだな、アスカが好きだって気持ちが解るよ、
 僕のこの想いは無駄になっても良い。
 ただ、もう戦いが怖いとは言わない、それが僕の望みにつながるから。
 最後の封書を完成させたとき、僕の心は生まれ変わっていた。
 たった一つの言葉を胸に。

 手元のインターホンに手を伸ばして、内線を呼び出す。
 暫くして現れた加持さんと一緒に僕は発令所へと向かった。







 メインディスプレイに大きく『LOST』の文字が浮かび上がる。

「使徒による電波撹乱の為、目標喪失」

 マヤの事務的な声が発令所の広い空間に響き渡る。
 LOSTの文字と入れ替わり、第三東京市の全域が表示される。
 そして、そのほぼ全域を埋め尽くすように赤く塗りつぶされる。
 最終的には、赤は市外にまで達してる。

「正確な位置の測定が出来ないけど…
 LOST直前までのデーターから、マギが算出した落下予想地点が…これよ、」

 楽観をさせようと、ミサトの話す声は明るい。
 まるで成功を疑ってないかのように。

「こんなに範囲が広いのぉっ!?」

 アスカの驚愕の声は、明らかにミサトへの非難が込められている。
 発令所に現れたときに聞かされたのは、シンジが作戦に不参加であること。
 いかにミサトが現在に措いて最高責任者たる司令代行といえど、成功率の低い作戦を更に低くする権限はない。
 だが、ミサトは強権を発動して、それを押し切った。
 僅かにだが、安堵もある。
 先程までの悩みの原因たるシンジがいないのだ。
 つまりシンジは死なないですむ…
 アスカはその答えを未だに見つけられていない。
 それを解決させる方法も気づかず…

「これだけ広いのに…たった2機だけ…」

 アスカの声は怒りから絶望へと変化する。
 たった二機でフォローするには範囲が広すぎるのだ。
 最大半径4kmに達する巨大な円。
 最も遠い直径なら、ゆうに8kmはオーバーする。

「目標のATフィールドを持ってすれば…、そのどこに落ちても本部を根こそぎ抉る事が出来るわ、
 やはり、シンジ君を拘束したのは間違いだったようね、ミサト?」

 親友であるリツコさえ、シンジに拘束には絶対反対の立場をとった。
 だが、司令代行の肩書きを持つ以上、形式的にも逆らうことは認められない。

「ですから、何処に落ちても良い様に、エヴァを二箇所に配置、其処から…」

 ミサトは、リツコの言葉など耳に入ってない。
 一度決定したことだけに、覆すつもりなどないのだ。
 例えそれが、自らが犯した規則違反だとしても。

「…この配置の根拠は?」

 レイでさえ、その根拠を理解できなかった。
 二機で全域をカバーするなら、間違いなく中心部を選ぶ。
 双方に遠い地点が落下点となった場合、間に合わない可能性が極端に高くなるのだ。

「勘よ…女の勘」

 発令所全体に唖然とした空気が流れる。
 誰一人として、その空気に逆らうことが出来ない。

「奇跡って、正に奇跡になるじゃない…」

「ちょっと待ってくれ、葛城の勘は当ったことがないだろ? クジ運の悪さは一級品だからな、」

 声と共に、加持の姿が暗がりから浮かぶ。
 突如出現したその姿に、空気が入れ替わる。
 驚きに満たされた空気に、
 いつの間に発令所内に侵入してきたのか、誰一人として察知することは出来なかったのだ。

「なっ!? そこまで言うからには、あんたにはもっといい案があるんでしょうね!」

「あるさ、」

 その答えに今まで傍観を決めていた者達さえ、振り向き期待の視線を向ける。
 全員の視線が集中したところで、もったいぶる様に周りを見渡し、ゴホッと咳払いをひとつ。
 演出であろう。

「簡単だよ、駒を増やせば良いのさ、」

 言葉と共にもうひとつの影が暗がりから浮かぶ。
 加持より二まわりは小さな姿、そして青く彩られ、体に密着した服。
 発令所に居た人間達は、更なる驚きを隠しきれなかった。
 拘束されて独房に居るはずの人物が、プラグスーツを着用してこの場に居るのだ。
 驚くなというほうが、無理である。

「葛城…規則違反をしろって命令は、おかしいぞ?
 シンジ君の考えも理解してやらないと、な?」

 そう言って、背中越しにミサトに4通の封書を手渡す。
 シンジが書いた遺書である事はその筆跡ですぐに理解できた。
 そしてその一番上に置かれていたのは、ミサト宛のもの。

「規則違反の命令を拒否したから独房行きというのはやり過ぎです、葛城司令代行。
 作戦上、サードチルドレンは必要不可欠であります。
 そして観察部として、司令代行の命令は不当であると判断し撤回を要求します。」

 普段とは雰囲気の変わる、形式的な敬礼と進言。
 一部のものは、声を押し殺して笑っている。
 普段の加持を知るものなら、あからさまにからかっていると解る。

「観察部の指摘が入っては、司令代行といえど従わないとね、ミサト?」

 唖然とするミサトを他所にリツコは手際良く三機を用いた配置をメインモニターに写し出す。
 EVAの移動距離を算出した理想的な配置。
 例え二機に最も遠い所に落ちたとして、フォローまでの時間は僅かである。

「こんなところでいかがかしら? 加持一尉?」

「流石ですね、赤木博士」

 完璧な配置を見てしまってはミサトも、反論の余地はなかった。
 ため息と共に、密かに渡された4通の封書を懐へと仕舞う。
 加持の言葉は尤もであった。
 反論の余地も元からない。
 したところで、言いがかりに過ぎない。
 既に、ミサトの頭の中でも三機に対応した作戦を詰める方向で、切り替わってしまっているのだから。

「シンジ君、もう一度だけ訊くわね? 死んでもいいと思ってる?」

 今までにない強い意思を込めたシンジの瞳がミサトを見つめる。
 流され続けてきた、少年の眼ではない。
 たった一つのきっかけが、数段の階段を一足飛びに登らせる。
 自分の過去に重ね合わせても思いつかない。
 そして、それが遺書を書くという行為と結びつくとはミサトには想像の範疇にはない。
 自らの経験が重いが故に、経験にないことを理解することが出来なかった。
 だが、受け入れざるを得ない。

「もちろん、死にたくはないですよ、でも…」

 現実にミサトの目の前に居るシンジは数時間前と同一人物とは思えないほど凛々しい。

「いいわ、その先は…ね、」

 ミサトは即座に思考を切り替え、初期配置位置を検討する。
 発令所内に希望という名の活気が甦った。
 シンジが戻ったところで、成功率が低いという事実は変わらないのにもかかわらず。
 ただ、この高揚した空気の中で一人沈み込む姿があった。
 アスカである。
 待機状態を休憩室で過ごし、心の中の不安という感情に振り回されていた。
 発令所に入り作戦の詳細を聞こうとも、先程の蟠りが拭えない。
 登場時に見た、シンジのやけに清々しいその横顔を見たときに、それはより一層大きいものとなっていた。
〜死ぬのが怖くない?〜
 無論、シンジがそんなことを悟ったわけでもない。
 ただ、惰性で生きてきた人生に終わりを告げ、生きることの意味を手に入れただけ。
 死の覚悟…パイロットに従事してる限りそれを避けては通れない。
 アスカ自身も、死を受け入れそうになったことは一度ある。
 灼熱の中、『ここまでなの?』そう思った瞬間に、自分を支えたあの手…。
 自分が死ぬのは、自分の力量不足だと納得できる。
 戦う者として覚悟ができたのならば、むしろ喜ばしいはず。
 だが、それが納得できない。
 何故?ときかれても、それに答えられない。
〜あれ?シンジは…何でEVAに乗るの? アタシは…EVAじゃなきゃ…ダメ?何で?〜
 人類の未来の為に、そう言われ続けてきた。
 自身も、その為に生きてきたつもりだ。
 人類の救世主として認められる。
 それを目標としてきた。
 だが、死んではそれはできない。
 そして今、一度はシンジが死なないで済むという事実に安堵した直後、再び死ぬかもしれないという事実に塗り替えられた。
 心が穏やかにならない。
 シンジが出撃しないということは、自らの死の確立も格段に上がるというのに…
 シンジが出撃するということは自らの命だけじゃなく、全人類の死の確立が格段に下がるというのに、
 そして、シンジの清々しい顔が更に不安を増大させた。
 答えは見つからない。

「シンジ君は右下のエリアに、アスカは左下、レイは上のエリアに配置します」

 それぞれに頷き答える3人。
 だがアスカだけは力なく頷く。

「その配置の根拠も勘か…葛城?」

「そうだけど?」

「どこに配置しても大差はないわ、ミサトの案を受け入れましょ?」

「だな、」

 大差がないといってしまえば無いのであるが、これが後に大きな問題となることは誰にも予想がつかなかった。

「三人とも、所定の位置へ移動して頂戴」

「はいっ!」「…了解」
 シンジはいつもより覇気のあふれる声で、レイは変わらず。
 アスカは先ほどと同様に力なく頷くだけ。
 だが、その変化を誰一人として大人たちは認識していなかった。
 既に、シンジの登場による戦勝気分さえある。
 それほどまでにシンジの変化が劇的だったともいえるのだが…







 直通エレベータの薄明かりの中のせいもあるのかも知れないけど、
 さっきからずっと、アスカは俯きっぱなしだ…
 いつもなら、うるさいくらいにミサトさんを貶すくせに、ずっと黙ったまま。
 アスカがこうだと、僕も穏やかじゃいれない。

「ねぇ、アスカ?」

 意を決して、アスカに声をかけても返事は無い。
 俯いたその表情を覗き見ようとしたとき、アスカがボツリとつぶやいた。

「シンジは、なんでEVAに乗るの?」

 以前ならわからない、って答えた。
 だけど、今なら分かる。

「僕は…僕には守りたいものがあるから乗るんだ… って言っても、さっき気づいたばっかりなんだけどね、」

「そっか、今頃になって気づくなんて、アンタってホントに馬鹿ね…」

 そう、守りたいものがあったから。
 それに今までずっと気づかなかっただけ。
 きっと、僕が守りたいものを言葉に出したら…
 嫌われるだろうから、今はいえない。
 影でもいい、ただ守りたいだけ。

「アスカはどうなの?」

「アタシは、アタシの才能を世に知らしめる為…って思ってたんだ、だけど急に分からなくなっちゃった…」

 俯いたまま話すアスカの表情は見えない。
 アスカがアスカじゃない感じがする。
 こういう時に沈黙は良くないって分かってるけど…
 僕にはかける言葉が見つけられなかった、
 焦るばかりで時間は過ぎていって、
 次の瞬間にはケージから差し込む強烈な光の眩しさに、僕は何も話せなくなってた。







 規則的に響く機械音、何かがせり上がるような機械音、交わされる報告と指令。
 ありとあらゆる音の中、ミサトは受け取った封書を見つめていた。

「加持君…良かったのかな…シンジ君が死に急ぐことに…」

「葛城、少年が男になるには幾つかの経験を踏むだけだ。
 それが何時であるか分からないが…、」

 加持は懐から禁煙パイプを取り出し唇で弄ぶと、モニターに映し出されるシンジに向け軽くパイプの先端をむけた。

「彼も男だってことだよ、
 シンジ君達は、俺達の少年時代より遥かに厳しいモノを背負って生きているんだ。
 それなら、階段を駆け足で登ってもしかたないだろ?」

 ミサトをしっかりと見据え、その意見に反論はできない事を確認させる。
 そして、大きく溜息をつきながら、ただ暗い天井を見上げた。

「そうさせているのは、大人…俺達なんだ、」

 男だから…ミサトは理解できない。
 女であるが故に。







 三機とも初期位置には然程の時間はかからなかった、
 予想落下時間までは、後10分程度の余裕がある。
 アスカはいまだ無限回廊ともいえる思考の迷路に嵌っていた。
 どこをどう考えても理解ができない。
 男と女の違い、そこを理解できれば僅かにだが開けたかもしれない。
 だが、そんなことは大学であろうと学ぶことは無い。
 生きた経験で学ぶものだ。
 もやもやした感情に思考回路が振り回される。
 不快感が全身を包む。
 次第にこみ上げてくる嘔吐感に支配されそうな時、
 レイとシンジの通信が耳に入ってきた。

 「…何故? 遺書を書いたの?」

 「別に、これって言うほどのことじゃないんだけどね。」

 「…なら、なぜ?」

 「さっきも言ったんだけど…守りたいもの、残したい…伝えたい言葉、みんなあると思うんだ。
 人類の未来を賭けてなんてさ、大それたことは言わないよ。
 ただ僕にも…あったんだってさ、自分の命を賭けてもっていうのがね。」

〜守りたいもの? アイツのって?
 思い浮かぶのは、鈴原・相田の2馬鹿…あとは、ヒカリ?
 それ以外で、アイツと仲の良い奴は少ない。
 ミサト… 慕っているって言うのは、良く分かる。
 でも、それだけって感じもする。
 リツコ? ん〜 守ってるっていうか、弄られてるって感じだわ…。
 司令? あの二人の間に… 違うわね…。〜

 ふと、ここまで考えた時に先程まで納得できなかったところが浮かんでくる。

〜覚悟をきめた…にもかかわらず、アタシはそれが不満?どうして?〜

「…私を信じて、
   碇君は私が守るから。」

 レイもまた、自身の不甲斐なさ嘆いた。
 シンジは、自分が守ると言ったにも関わらず、遺書を残した。
 それは、シンジに対して、自分が信用を得てないということに繋がる。
 まだ、信用に足る人物として、見られていない。
 想いとは裏腹に、その関係が希薄なことが心に重くのしかかる。

 「大丈夫だよ、綾波。
 別に、命を賭けてっていっても、死ぬつもりはないんだ。
 守りたいものがあるから、伝えたい言葉があるから、
 生きて帰るよ、絶対にね。」

 言い終えたシンジはケージで見た清々しい、今までの彼とは違う笑顔。

 「そう…」

 レイもまた、そっけない返事とは裏腹の固い決意を胸に秘めた。
 アスカだけが、その蟠りを払拭できずに、燻っている。


 不安は数値となって、発令所に伝えられている。
 一名を除き、その数値に大人達はあせりを隠せない。
 アスカのシンクロ率を示す値が、常時より格段に低い。

 リツコとマヤが、状態を何とかしようと声を掛けるが、
 「集中してるの、邪魔しないで」の一言に、一蹴されている。

 ミサトの口から、作戦の細部について指示が出ていても、
 アスカの耳には届いてない。

 集中している。という言葉を言い訳に、ただひたすら終わりのない思考を繰り返していく。

 気づいた時には使徒が最大望遠で捉えられていた。
〜今は目の前に集中しないと〜
 動揺が、奔る。

「いくよ…」

 シンジは己を鼓舞させる為に、だが静かに二人へと問う。
 レイがその決意を確認するかのように頷く。
 アスカは声に流されるように、ただ首を縦に振るだけ、
 その表情に最早、生気はない。
 アスカの目に空の一部が赤く燃えているのが見え、
 その巨大さに忘れていた、いや…故意に忘れさせていた絶対的な死への恐怖が甦る。
 灼熱の世界での出来事でなく、もっと古い深層心理に眠る記憶。
 暖かな、自分の髪を梳いてくれた優しい手が、首筋にかかる…。
 そう、幼い自分が死を覚悟したあの一瞬が。

「スタートっ!!!」

 外部電源がパージされ、シンジの掛け声が響き渡る。
 アスカは無意識のうちに走りだす。
 訓練の賜物であるといえる。
 だが、その動きには精細がない。
 自分の意思など関係なく、ただ流されるままに走り出しただけ。
 すでに、意識は過去と現在を往復しているだけだった。
 呼び覚まされた記憶と恐怖が、隙間無くアスカの心を侵食し、シンクロ率という数字を低下させる。
 その結果は、さらに最悪の結果を呼び出し、更なる低下を呼び起こす。

「落下予測地点は弐号機方面のエリア北部に… 弐号機到達マイナスです!」

 マヤが読み上げる報告にも悲鳴に近いものが混じっている。
 落下予想地点は、アスカが一番近い。
 にもかかわらず、落下点にたどり着けない。
 次に近い零号機さえ落下予測時間より更に2秒後。
 大人達は、諦めで心を満たし、終わった… そう、全てが思った瞬間だった。 

「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 シンジの叫び声が響き渡った。
 瞳の色が違う様にさえ見える、その視線。
 怒ってるわけでもなく、泣いている訳でもない。
 ただ、その興奮した感情が溢れ出たもの。
〜このままじゃ…ぼくはっ!〜
 大人達の記憶に、たった一度だけある、少年の叫び。
 自らの腹部を貫かれる痛みに耐え、使徒を滅ぼしたあの時以来、叫ぶことなどなかった。
 そこには、呆然とする大人達。
 沈黙を破ったのは、地震だった。
 微細な振動が、地下施設を揺らしはじめ、マヤが最初に我を取り戻した。
 地震だと最初は間違いなく、誰もが思ったのだろう。
 モニターを確認した、彼女のつぶやきは、それを否定した。

「初号機… 音速を突破してます… 落下位置到達プラスに反転… 
 シンクロ率も90%をオーバー、さらに上昇しています。」

 感情のこもらない、棒読みの報告。
 大気の薄い、高々度での音速突破は容易いことである。
 戦闘機でも大気の濃い、地表で音速突破は機体そのものに支障が出ることがある。
 そして、戦闘機のように空力を計算されてEVAは建造されていない、
 空気の壁は、想像を絶する抵抗を初号機に与え、それを力で払いのける。
 その払いのけられた壁の破片は地表を奔り、建造物を薙ぎ払い大地に亀裂を残す。
 地下を襲う振動も、初号機が生み出した衝撃波によるものだと、理解するのに間はなかった。
 その力を振り絞るシンジの叫びに大人達の誰もが唖然とし、ただ見守るしかできない。

〜シンジが!? アイツからは一番遠いじゃないの!〜

 アスカには信じられないとしか言いようがない。
 気弱、自己主張なし、内罰的が悪いとは言わないが、行き過ぎ。
 その性格を表す全てがマイナス方向の形容詞を与えられるシンジ。
 唯一、優しいとだけしか、評価されない。
 その、シンジが計算を覆すほどの力を搾り出している。

〜シンジになんかっ 負けていられない!〜

 プライドから呼び覚まされた対抗心が、僅かに心の平衡を取り戻させる。

「零号機、到達マイナス5 弐号機到達、マイナス4 です…」

 だが、進んでしまった時を、戻すことができない。

 初号機はその力の限りを尽くし落下前にたどり着く。
 空の一部だった炎は、すでに視界を埋め尽くすほど巨大なものに変化している。
 その炎の下に、たった一機だけ。
 そう、三機で人が起こしうる最大の奇跡の確立が、一機では神の奇蹟を通り越す。
 それを許す神であれば、使いなど遣すはずがない。

〜碇君…ダメ…このままでは…〜

 レイも既に自己の記録を塗り替えるシンクロ率をだしながら、追いすがる。
 当初、落下予測地点が、初号機から離れていることに安堵した。
 だが、一番早くたどり着いたのはシンジの駆る初号機。
 シンジより近かったはずの、自分より早く到達する。

〜アイツ一人で支えきれるわけが無いっ!〜

 シンジだけがただ一人、遺書を残した。

「フィールド全開っ!」

 そう、未来を知っていたかのように。

 巨大な使徒を支える腕の装甲版に亀裂が入り、大量の体液が噴出していく。
 それは腕に限らず、体の至る所からも噴出す。

 アスカの中にさっきまで埋め尽くしていた、死への恐怖が薄れ、過去の記憶も、一瞬にしてかすんで消えた。

〜ヤダ…アイツが…シンジが…「イヤッ! シンジが死んじゃう!!!
                        シンジを殺さないで!!!」

 火球にしか見えない使徒の直下にただ一人、
 生きててほしい、死んでほしくない…。
 傍にいてほしい、いなくならないでほしい…。
 失いたくない、手に入れたい…。
 その気持ちが、心の何処から出てくるのか分からない。
 ただ、その願いが口から飛び出ただけ。
 誰にもその願いは叶えることはできない筈だった。
 その気持ちを汲み取るものが、ただ一人。
 弐号機の動きが、その瞬間に変わった。
 その変化が時の流れを変えた。
 僅かな差でしかなかったのかもしれない。
 ただ、その差は見事に確定していると思われた未来を変更するに十分な値を示した。

 流れ行くはずの数秒の時間が、静寂に支配され停止する。
 再び時が流れ出したとき…
 火球はその炎を空へと舞い上げていった。

 奇跡の確立を、少年はその意思によって、引き寄せた。
 いや、捻じ伏せたと言う方が正しいのかもしれない。

 シンジは到着の瞬間、自分が死ぬであろうことに気付いていた。
 そして、最後の瞬間くらいと、繋ぎっぱなしだった通信モニターに写るアスカの顔を見たとき…
 アスカが泣いている顔が見えた。
 理由は分からない、叫んでいたような気もする。
 大好きな子の泣き顔を見たい男はいない。
 その心が更なる力を少年の愛機に与えた。
 そして、耐え切れぬはずの重圧を押し返し、守壁さえも霧散させる。
 そこに現れた、泣き顔の女神はその御使いに止めを刺した。
〜守りたかったものが、守れた。〜
 その満足感と共に、最後に自分を奮い立たせてくれたアスカに、ただ一言。

「ありがと、アスカ…」

 笑顔と共に彼女に伝え終えると、計ったかのように内臓電源が切れた。

 僅かの差こそあるものの、ほぼ同時に弐号機の電源も落ちる。
 直前に聞けた声、そこに写っていたシンジの笑顔。
 自分がそれを欲しているということに、気付くには十分な材料である。
 理由なんかはどうでも良いとさえ思えた。
 今はただ喜びだけ。

 理由に気付くのは、1時間ほど後。
 それも、思いもよらなかった方法で知ることとなる。







 アスカが控室のロッカーを開けると、一通の封書が置かれていた。
 白地にNervのロゴマークが入った封筒。
 給料日であれば、形だけの明細がこれに入れられて配られる。
 だが、それがロッカーの中に置かれていたことはない。
 ミサトからの手渡しが通例である。
〜あれ? 先月の忘れてたかな?〜
 そんなことがある訳がないのだが…アスカにはそれ以外に該当するものはない。
 着替えるのもそこそこに、封書を手に取る。
 アスカ宛の宛名書きの字はどこかで見覚えがあるもの。
 お世辞にも綺麗な字とはいえないが、綺麗に書こうと努力したものであることは安易に想像がつく。
 疑問に思いながらも、開封し中身を確認すれば便箋が一枚だけ。
〜ラブレターかしら? ここでも? やだな…プライバシーってものが無いじゃない…〜
 だが、ひとつだけ忘れていることがある。
 この封書がロッカーの中にあったということ。
 基本的にロッカーはIDカードが無ければ開けることは不可能。
 それを開けることが出来るのは保護者であり上司であるミサト、またはそれに匹敵する権限を有する者だけである。
〜まぁ、なんかの連絡かもしれないし…〜
 そう思いながら、便箋を開いた。
 そこ書かれていた文字はアスカの想像とは大幅に異なる。

もし、これをアスカが読んでいるとしたら…
僕はもう居ないってことだよね。
僕としては…こんな人生なんて、望んでないんだけどね。
僕の最低ラインの望みは叶えられてるって事だから、
悪い選択じゃなかったと思う。


〜これって、シンジの遺書?よね…〜

死んでから、言うなんて卑怯だと思うけど、
せめて死んだ後くらいは、後悔したくないから、
この言葉を書くのにもかなりの勇気が居るんだけど…
僕、碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーのことが好きです。


〜えっ? シンジが…アタシを好き? えぇっ!?〜

だから、僕はアスカだけは守りたかった。
アスカだけは死んでほしくないんだ、例え僕の命と引き換えにってなってもね。


〜死んでほしくない…アタシもシンジに死んでほしくない…〜

もっとも、役立たずのままいきなり死んでるかもしれないけど、
もし、アスカの役に立てて玉砕できたなら、本望だよ。


〜そんなことないっ! シンジはさっきも一人で…支えきったじゃないっ!〜

こんな卑怯なことをしておいて、ずるいけど…
アスカの幸せを祈ってます。
さよなら、
碇シンジ


 死んでほしくない…その言葉は、あの時アスカ自身が叫んだ言葉。
 アスカの脳裏にあの時自分が思い描いた言葉が繰り返される。
『生きててほしい、死んでほしくない…
 傍にいてほしい、いなくならないでほしい…
 失いたくない、手に入れたい…』

〜そっか、アタシってば…認めたくないけど、シンジの事…〜

 ふぅと大きな溜息と共に便箋を封筒に戻し、鞄の中から厚手の雑誌を取り出し、その間に挟む。
 そして、それを大事そうに鞄の中にしまう。
 アスカにとって生涯の宝物となるモノ。
 それが折れたり、汚れたりするのを嫌っただけ。
 うっすらと浮かんだ笑顔には、心の中の蟠りなど一切無くなっていた。







 作戦後、僕らは一人ずつミサトさんに呼ばれた。
 アスカは作戦中の失敗を責められたみたいだけど、その原因が僕の一言にあったらしい。
 それについてミサトさんから責められる事は無かった。
 帰りのバスの中でアスカに謝っても、

「後で話があるわ」

 だけだった。
 その時のアスカの顔は、悪戯をする前の…なんていうか僕的には非常に危険な表情だったんだけど、
 大人しく従うことにした。

 夕食を終えて、後片付けも終えたとき、アスカに急に呼び出された。

「そこに座りなさいっ!」

 返事もそこそこに促されるまま、リビングの床に腰掛ける。
 すごく嫌な予感と、期待しろって心の声が訳も分からず渦巻いてる。

「これから幾つか質問するけど、正直に答えなさいよっ!」

 声こそ、いつも通りだけど…
 顔はうっすらと微笑んでたりして…
 思わず、返事を忘れそうになる。
 だけど、ここで忘れたら後が怖いから即座に何度も頷く。
 僕のこの姿を、アカベコみたいだとケンスケに言われたことがあるけど、否定できない。

「じゃぁ訊くわね、アンタは死んでもいいって思ってる?」

 死にたくはないから、僕は首を大きく横に振る。
 怖いからってわけじゃないけど、なんだか…
 言葉が出てこない。

「ホントに?」

 そういうわけじゃないんだ、ただ…
 僕は核心を隠して答える。

「状況によるけど、最後の選択がそれなら…守りたいものを守れずに生き延びるなんて…嫌だから、」

 ふぅ〜んっていつもみたいに僕を横目で覗く。
 こういう時って、必ず何かがある…経験上、危険ななにかが。

「じゃあ、約束して?」

 なんだか分からないけど、頷く事が危険を回避する一番の道。

「アタシより先に死なないって、っでずっとアタシを守るって…傍に居るって…、約束できる?」

 この時にアスカの頬に赤みがさしてたなんて気づくわけも無くって、
 ただ、条件反射でカクカクと頷く。

「よろしい。 んじゃ、アタシは先に寝るわね。 おやすみ、シンジ」

 部屋を去るアスカは正に上機嫌で、足取りも軽やかなんてもんじゃないくらい嬉しそうだった。
 昼間のあの蒼白に染まった顔なんか、見たくないし。
 何よりも、いつも通りに戻ってくれたのが嬉しかった。

 僕が約束の意味に気づいたのは…
 アスカの部屋のふすまが閉まる音を聞いた後。
 近所迷惑も顧みず、深夜に大声を出して叫んだ。
 なんで、アスカに僕の気持ちがばれたのかって考えなんかあるわけが無くって。
 この日から1週間はその事なんか考えも及ばなかった。

「約束してくれたでしょ? だからもういいのよっ!」

 僕自身がある程度、落ち着いた頃に訊いてみたらそう答えられた。
 そう、もう僕はアスカを残して先に死んだりはしない。
 世界で一番大事な約束だから。





しふぉんさんからシンジのなかなかかっこいいんじゃないのかな、小説をいただきました。

ミサトが感情的なような気がするのは気のせいでしょうか。女は向う岸の存在ということなのですね。加持さん。

でも、シンジとアスカの川幅は、飛び越せるほどにずっと狭くなったような感じでいいですね(笑

素敵なお話をくださったしふぉんさんにぜひ感想メールをお願いします。