NO.7



くるみ

シュウト



第十四話:ゲンドウ猫





 コンフォート17。
 少し久しぶりの我が家(仮)に僕は絶望しか抱いていなかった。
 一番初めに言ったように、サードインパクトはミサトさんをちっとも変えなかったんだ。
 むしろ改悪されたと言ってもいいくらいだ。
 だから僕は絶望している。
 こんなシチュエーションは今までなかったから、本当のことを言えば、分からない。
 もしかしたらミサトさんは、僕たちの前ではダメな保護者を装っていて、実際はとんでもなく真面目でしっかりしている人なのかもしれない。
 だから僕たちがいなくったって、掃除の一つや二つ……いや、百歩譲って掃除はしていなくても、ビールの空き缶や雑誌を散らかしておいたりなんかしないのかもしれない。
 洗濯物は洗濯機を回してちゃんと干してあって、さらに几帳面に畳んであるのかもしれない。
 インスタント料理なんか食べず、自分で食材を買ってきて自分で料理して、自分で食べ終わった後には食器も洗ってあるのかもしれない。
 でも、そんなものはただの幻想だ。
 想像できてしまう。ミサトさんの部屋と同じくらいのおぞましい部屋が。
 僕が初めてあの家に入ったときなんか比べ物にならないくらいの散らかっているリビング、食卓、キッチン、その他……。
 あのときミサトさんは「ちょっち散らかっている」と言っていたけど、もしもミサトさんが本気で「ちょっち」と言ったならば、「ちょっち」じゃなかったらどうなのか。
 しかも、あのときは引っ越してきたばかりで色々なものが段ボール箱の中に入っていたのだ!
 おそらく確かに「ちょっち散らかっていた」のだ。
 そして、「ちょっち」じゃない世界は、僕たちの目の前にある。
 鍵もすでに解除した。
 僕が鍵を解除して、一歩下がってしまったのは無意識の行動だ。
 そのままそこに突っ立っていればセンサーが僕を見つけて扉を開いてしまう。
 そう。あと一歩進めば、センサーが反応し電気の力で自動的にその世界への扉は開かれる状態に僕たちはいるんだ。
 僕にその一歩を進む勇気はない。
 帰りの電車の中で「使徒戦の前にもこの電車に乗ったなぁ」なんて感慨に浸っていた僕の耳にアスカがこの地獄の可能性を囁いたときからくるみ荘に帰りたくて仕方ない。
 アスカも僕と同じ気持ちらしく、さっきからため息が絶えない。

「は、早く行きなさいよ。どうせ掃除するんだから早く始めて、ちゃっちゃと終わらせた方が良いじゃない?」

 そうは言うけど、自分から行こうとはしない。
 こういうときばっか僕を頼るんだから困ってしまう。
 僕は大きな溜め息をついて息を吐ききった。そして、鼻だけで深呼吸。
 す〜っとお腹に空気が入ってくる。
 意を決して一歩前に進んだ。
 センサーが僕を認識し、自動ドアが開く。
 僕たちを待ち受けていたのは大量のゴミではなかった。

「久しぶりだな、シンジ。」

 父さんだった。

「お前たちはどこに行っていたんだ?どこを探しても見当たらなかったが。」

 父さんは相変わらず無表情で僕たちを見下ろし、言ってくる。
 いつもの黒い服に、黒いズボン。サングラスに手袋。
 なにも変わっていない。
 でも、印象は先生から話を聞いたせいで大きく変わった。
 きっと、使徒と戦っていたときずっと知りたかった父さんのことを知ることができたたからだろう。
 まさか先生からそれを教わるとは思わなかったけどね。
 「父さんってどんな人ですか」と加持さんに訊いたり、マヤさんに訊いたり、日向さんに訊いたり、青葉さんに訊いたり、リツコさんに訊いたりした。
 でも、満足する答えは教えてくれなかった。
 加持さんにはテレビ版18話みたいに曖昧にされてしまった。
 はっ、18話ってなんのことだ?テレビ版って何?誰かにとり憑かれていたみたいだ。
 で、他の人からは、リツコさん以外みんな「よく分からないけど怖い人」っていう言葉をいただいた。
 リツコさんとは―――

「そうね、猫みたいな人ね」

「猫……あの猫ですか?」

「シンジ君が想像している猫できっと間違いないわ」

「……僕にはどうしても父さんが猫には見えません」

「そうね、それが当たり前なのよ。人は自分の中にたくさんの自分を持っている。シンジ君もレイと接するときと、アスカと接するときと、司令と接するときの3パターンでどれも同じ態度をしないでしょ」

「はい」

「あなたにとってはお父さんでも、私からしたらあの人は猫なの」

「どういうところが猫に見えるんですか?」

「簡単に懐いて、簡単に裏切るところかしらね……。懐くっていうのは変な言い回しかもしれないけど、似たようなものよ。分かりにくいかしら?」

「……まだよく分かりません」

「そうね、体も心も弱った野良猫にシンジ君がエサをあげたとするわ。すると、その猫はシンジ君に懐いた。懐かれたシンジ君も、まんざらでもない様子。懐かれて嬉しいのね。他人、たとえ猫であろうと必要とされているという実感が湧いて、嬉しいのよ。でも、猫っていうのはずる賢い生き物だから表面上は懐いているように見えても、心の奥底では違うことを考えているかもしれないわ。たとえば、『こんな人間に懐いたフリをするなんて不本意だけれど、生きるためだからしょうがない』とか、『生きるためにコイツが必要だから懐いたフリをしてやるか』と思っているかもしれない。シンジ君はそんなのは分からない。あなたはその猫じゃないから。そして猫はそのうちシンジ君よりも高級で、美味しいエサを与えてくれる人が現れたら、絶対にそっちへ行くわ。簡単にあなたを裏切るのよ。……切り捨てるのよ」

「父さんは……リツコさんを裏切ったんですか?」

「あらやだ。これから実験があるんだったわ。ごめんなさい、シンジ君」

「い、いえ」

―――こんな会話をしたっけ。
 あのときの僕の質問をリツコさんは無視した。
 父さんがリツコさんに何をしたのか、僕は知らない。
 サードインパクトのときでも、それを見ることはできなかった。
 リツコさんは父さんを猫と呼んだ。
 この目の前の、恐ろしい男を。

「ねぇ、父さん?」

「なんだ。」

「ニャーって言ってみて?」

☆彡



 その後、僕は世の中のどんな人も味わったことのないであろうほどの恐怖を味わった。
 詳細は、言わない。
 思い出すのも嫌だ。
 そんな一悶着があってから僕たちは家に入ったんだけど、驚いてしまった。
 なんと、さっきまでの僕たちの憂鬱が無駄骨だったんだ!つまり、どの部屋もきれいだったんだ!
 これが奇跡!?
 いや、ミサトさんも結婚するんだからダメなところを直そうとしているんだな。
 やっぱりミサトさんはすごいよ。

「それで、お前たちはどこへ行っていたのだ。」

「先生のところだよ」

 僕が言うと、父さんの顔に少し動揺らしきものが浮かんだ。

「そ、そうか。アイツのところへ行ってたのか……。」

「先生から父さんの話をたくさんしてもらったんだ」

「アイツの話をするな。俺はアイツの忌々しい顔を思い出すだけで虫唾が走る。」

 父さんが僕を睨んで言った。
 そうか。そういえば先生が父さんを嫌うのと同じに父さんも先生を嫌っていたな。
 その理由はきっと母さんが絡んでいると思う。
 なんとなく、だけどね。
 そのとき僕は父さんが少し透明度が増して、薄くなったように見えた。
 目をこすってもう一度父さんを見る。
 薄くなって……ない?
 僕の勘違い……?

☆彡



 僕が父さんと話している内に、アスカがペンペンにご飯をあげていた。
 ペンペンはずっと冷蔵庫の中で眠っていたらしく、クアァァァ…とあくびした。
 アスカが冷蔵庫から出した生の魚を一口で飲み込み、ストローを使ってビールを飲み干す。
 アスカはペンペンの頭をずっと撫でていた。
 ペンペンは少しビールが飲みにくそうだったけど、アスカがそんなことするのが珍しいからか我慢して静かに飲んでいた。
 ふと、ペンペンが僕たちの方を向いた。
 いや、正確には僕の方か。ペンペンに父さんは見えないんだし。
 しかしペンペンは僕ではなく、違うものを見ているようだ。
 彼の視線を追っていくと、父さんがいた。
 まさか、と僕は思ったけどさっきも言った通りペンペンには父さんは見えないはずなので、父さんの向こう側の何かを見ているんだろうな、と思った。
 でも、その先は白い壁で他に何もなかった。
 壁からペンペンに視線を戻すと、ペンペンはいつの間にか父さんの目の前にいて、父さんを見上げてクアックアッと鳴いた。

「ペンペン、あんた司令が見えるの?」

 アスカの問いに、ペンペンはクアッ!と答えた。
 どういうことだ?父さんが見えるのは僕とアスカだけじゃないのか?
 だとしたら先生の考えた案は間違いだったことになる……。
 僕は不安になった。
 どうしてかというと、先生の案が間違いだったとすれば、僕とアスカがつきあう(義理だけど)理由はなくなる。
 僕はアスカが好きだ。
 なら義理でつきあっているというこの状況はよろこんで壊すべきなのかもしれない。
 でも、臆病な僕にはそれができない。
 たとえ義理でもいいからアスカと恋人同士でいたい。
 義理ではなく、「本気」で僕が告白したときにアスカがオーケーしてくれるとは限らないし、もし、ふ、フラれたら一緒に住むなんてできない。
 だから、僕はアスカが僕にとってとても恐ろしい言葉を言う前にこの状況をどうにかする必要がある。
 僕はペンペンに自分の部屋にすっこんでもらうことを考えたけど、次にどうやってすっこませるかを考えた。
 それを考えているうちに、ペンペンはいつの間にかアスカの部屋の前に移動していた。
 そして、さっきまでと同じように上を見上げクエックエッと鳴いた。
 でも、そこにはもちろん父さんはいない。

「ちょっ、ちょっと!離れなさいよ、れい、冷蔵庫の中に入ってなさいよ!ペンペン!」

 そう言ってアスカは暴れるペンペンを冷蔵庫の中に押しやった。
 冷蔵庫のカギを外からロックする。
 閉じ込められたペンペンは、バンバンと扉を叩いて暴れている。
 なんであんなに慌てているんだろうアスカは。
 試しに僕は訊いてみた。

「どうしたの?アスカ」

 彼女の背中は、僕の言葉にビクッと反応した。
 そして首だけこちらに向けて「な、何でもないわよ?」と言った。
 何でもなくないじゃないか!
 明らかに嘘だってわかるよ!僕にでも!
 気になる。
 アスカは明らかに部屋の中に何かを隠している。
 女の子が、部屋の中を男に覗かれることは恥ずかしいことだろう。
 多分、アスカにもその気持ちはあると思う。
 なぜかっていうと、僕はアスカの部屋に入ったこともないし、部屋の中もアスカが引っ越してきたときに手伝ったとき以来見ていない。
 部屋を男たち(幽霊含む)に見られるのが恥ずかしい。
 これも今の反応の理由にあるのだと思う。
 でも、それだけでないように感じる。

「ねぇ、アスカったら」

「何でもないって言ってるでしょ!何でもないったら何でもないの!」

 これまでの僕だったらアスカにそのセリフを吐かれたら引き下がっていただろう。
 でも、今の僕はそう簡単に引き下がらない。
 絶対に何か隠してる。

「私も気になる。なんだかさっきから妙な感じがしている。見てきてやろう。」

 そう言って、僕の隣にいた父さんがアスカの部屋に向かって水平移動を始めた。
 ナイス父さん!
 ダダダッと走ってきて父さんの前でアスカは腕を大きく広げて通せんぼした。
 きっと、ピンチだったから父さんが幽霊だってことを忘れているんだろう。
 そう、幽霊は人だって、壁だって通り抜けられるんだ!

「ちょっ、ちょっと待ってください司令!言います!言いますから!」

 父さんがアスカの目前に迫ったとき、彼女は言った。
 父さんは平行移動をやめ、アスカを見下ろしている。
 それは彼女に嘘をつかせないために十分すぎる行為だった。

「じ、実はシンジやミサトや、その他のこの家に来た人があたしの部屋に入らないように罠が張ってあるの……あるんです」

「罠?」

「そう。特別な扉の開け方をしない限り発動する罠。詳しく言うと、弁慶の泣き所に強烈な痛みを与えるの」

 なんだ、そんなことか。
 そっか、人間の弁慶の泣き所に強烈な痛みを与えるってことは、ペンペンに罠が発動したら顔とかその辺りに当たって危ないから慌ててたのか。
 そして、隠そうとしていたのは罠だから、気づかれては意味がないから。
 なるほど。
 謎は全て解けた、だね。
 でも、僕に教えちゃっていいのかな?
 別に教えてもらったからといって変なことするつもりはこれっぽっちもないけど。本当だよ!
 僕は隣に戻ってきた父さんを見上げた。
 父さんはなんだか納得のいかない顔をしていた。

「そういえば、司令。思い出せましたか?シンジのお母さんとの約束は」

 アスカが思い出したように言った。
 よく見ると、彼女の頬は赤くなっていた。

「いや。全く思い出せん。」

「あ、あの!」

 彼女は僕の隣にやってきて、僕と腕を組み、手を握ってくる。
 そうか、と僕は思った。アスカはここで言うつもりなのか。
 そうなると顔が熱くなった。きっと僕も顔が赤くなっているだろう。
 彼女は、肘で僕の脇腹をコツンコツンと叩いた。
 顔を見ると、どうやら僕が言えっていうことらしい。
 そうだよね。こういうことは男がやらなくちゃいけないよね。
 顔を上げ、父さんを見る。
 僕たちの様子を見ても無表情のままだ。
 ふと、これで父さんは成仏するかもしれないという考えが脳裏に浮かんだ。
 もう二度と会えないと思っていた父さん。
 でも、幽霊となって父さんは僕の前に現れた。
 僕はこれで本当に良いのだろうか?
 これで二度と会えなくなるのかもしれない。
 良いのか?
 頭の中で、僕の声が「良いのか?良いのか?良いのか?・・・」とこだまする。
 でも、せっかくアスカが言う機会を作ってくれたんだ。ここで言わなきゃいつ言うんだ!
 結局僕は、父さんよりもアスカを優先した。それは、残酷なことだった。

「父さん。僕たち、付き合い始めたんだ!」



くるみ 第十四話 ――― 終 ―――




20140927 シュウト.