夫婦絶唱外伝
渚さんちの若奥さん
レイは目を覚ます。
彼女は血圧が決して高くない。
しかし、目覚めが悪いわけでもない。
非常に正しい寝相のまま、そのままスッと目を開く。
まるで死者が蘇るみたい、と寝起きを形容されたことがあったが、さて、誰に言われたものだったろうか。
上体を起こし、周囲を見回す。
・・・・どうして、隣に、もう一つベッドがあるのだろう。
そこまで考え、思考が発展しかけた途端、意識上に鋼鉄のシャッターが下りた。
そこで思考停止できる。
もはや自動的な防衛作用。
年々、シャッターの下りる速度が速くなってきている。良い傾向だ。
なかば、これも自動的に着替えを済ますと、レイはキッチンへと向かった。
「やあ、レイ、おはよう♪」
明るい、白い壁紙のキッチンでは、夫であるカヲルが包丁を刻んでいた。
夫・・・・?
どうして、私は、この男を夫と呼ぶのか。
即座にまたシャッターが降って来た。
・・・・・・・・・・。
頭を振り思考を切り替える。
きっと、自分にとって、些細なことか致命的なことかのどっちかだろう。
ぼんやりと、ブーメランパンツとエプロンだけの後ろ姿を眺めながらキッチンのテーブルに座る。
これほどブーメランパンツの似合う男を彼女は知らない。
もっとも、比較対象も知らないけど。
「とーさま、かーさま、おはようございます・・・・」
か細いが、可愛らしい声。
娘である渚ミレイだ。
今年で幼稚園年長組であるが、礼儀正しいうえにしっかり者のことこの上ない。
しずしずとキッチンに入ってくる姿は、完璧に幼稚園行きの支度が整えてある。
夫の『大和撫子計画』とやらの見事な成果である。
娘を眺めるレイの視線はとても優しい。が、本人はそのことに気づいてないことがままある。
「おはよう、ミレイ。今日も可愛いね♪」
カヲルは妖しい魅惑のステップで娘に近づくと、頭のリボンの角度をちょっと直してやる。
情操教育的に今の彼の格好は問題ではなかろうか、とレイは思ったが、結局黙って椅子に腰を降ろしたままだった。
「よし、今日もいい天気だ!! ご飯にしよう!!」
なにが嬉しいのか、喜色満面の笑顔でカヲルは宣言する。
彼はいつも、いつでもテンションが高い。
それを揶揄されると、彼は決まってこういった。
『レイと足して2で割れば、丁度よくなるのさ―――』
ともかく、食卓にはご飯と箸、それと小鉢が並べられた。
その中央には、どんと大きな鍋が鎮座する。
鍋の中身は湯豆腐である。
渚家の朝食は湯豆腐なのだ。
これは365日変わりない。元旦だって湯豆腐である。
朝っぱらから湯豆腐。
どこぞの新聞社員が、『普段夜食べる湯豆腐も、朝から食べると豊かな気持ちになれる』と評したこともあるメニューだが、渚家では少々見解が異なる。
レイの姓がまだ綾波だったころ。
彼女は菜食主義で通っていたが、妊娠を期に体力をつける必要性が生じた。
動物性たんぱく質をなかなか受け付けないレイに対し、夫となる寸前のカヲルと、親友の碇シンジが必死で考案、開発したメニュー。
それが、ダシ、タレ、具材の全てを吟味し尽くした、究極の湯豆腐だったのである。
栄養十分の料理を食べることによって、彼女は無事初産を済ませることが出来た。
以来、渚家の朝食の組み込まれ、習慣化している。
黙々と箸を動かすレイ。
カヲルは終始笑顔を絶やさぬまま、ホスト役を務めた。
娘のミレイもおちょぼ口で上品に食べる。
さてさて朝食が終了すると、極自然に後片付けが分担される。
娘は食器を洗い場まで運び、カヲルはそれを食器洗い機に放り込む。
レイはテーブルを拭くと、燃えるゴミの袋をまとめた。
数分後、渚家の玄関に家族一同整列する。
バイオレットのスーツを来たカヲルは仕事へ。
娘のミレイは幼稚園へ。
レイは娘を送りがてらゴミ捨てに。
「じゃあ、行って来るね」
マウンテンバイクにまたがりカヲルはご出勤。
見送ったあと、反対方向の幼稚園バスの待ち合わせ場所に、レイは娘を連れて歩く。
途中のゴミ捨て場にゴミを捨てていると、ご近所の奥さん方もやってきた。
「おはようございます・・・」
礼儀正しく頭を下げる娘に対して、母親は軽く頭を下げるだけだ。
それなのに、奥さん方は気分を悪くしたような雰囲気はない。
愛想よく微笑み、挨拶を返してくる。
実のところ、五年前、ここに越して来たばかりの頃のレイは、薄気味悪い無愛想な娘、としか認識されてなかった。
もともと必要性がないことを積極的にしない彼女である。とうぜん、ご近所付き合いなどという感覚と知識がない。
ところが、いまや、クールビューティーというか、ミステリアスビューティーとでも言うべき評価を受けている。
これも、しっかりもので礼儀正しい娘の存在と、今の彼女の肩書きに寄る。
子供さえ礼儀正しく可愛ければ、親への評価は自然に高まるものであり、おまけにこう見えても、渚レイは立派な社長夫人なのだ。
だいたい、金持ちに対し、妬みはあれど、正面切って無愛想な態度をとる人間が少ないことは、今も昔も変わりない。
娘を送った帰り、レイは我が家を見上げる。
三年前に完成した総二階建ての瀟洒な洋館。
6LDKの間取りは、親子三人で持て余すほど広い。
家の中に入ったレイはさっそく掃除を始める。
広いだけに大変な作業なのだが、彼女は掃除が嫌いではない。
これは、ひとえに中学時代に同級生の男の子から言われた一言に起因する。
あの時、彼は『お母さんみたいだ』と言ってくれたが、実際になってしまった今となっては、逆にそれも感慨深い。
思い出が多分に美化されることを差し引いたとしても。
そんな彼女でも、浴室の掃除だけにはやや辟易した。
渚家のお風呂は広い。
ちょっとした大衆浴場ほどの巨大な浴槽が中央に鎮座ましましている。
その掃除を彼女の細腕でこなすのはなかなかに骨が折れたが、ゆめゆめ疎かにはできなかった。
なにせ、この場所は、夫であるカヲルにとってのもう一つの仕事場とでも言うべきものなのだから。
レイとの結婚を期に、カヲルは精力的に仕事を求めた。
当時、20歳未満の青二才で、かつ、特殊な誕生と履歴をもつ彼が、一般社会で職に就くということさえ、容易に困難さを想起させる。
それでも彼はめげなかった。
どうにも、普段の飄々とした印象から考えられないことだが、彼なりに何かしらのポリシーがあったらしい。
それは、男としての責任の取り方、もしくは突発的な家庭愛の発露だろうか。
とにかく、彼は周囲も驚くような行動力を発揮した。
レイの妊娠が発覚した三日後には市内に一戸建ての中古家屋を購入。
そこに半ば強制的にレイと同居を始めると同時に、駅前の貸しビルの一角と事務所を構えた。
カヲルがどのような手管を使いこれらを調達したのか、ネルフの諜報部でも把握できなかったと言われている。
当然というか、それとも規格外ゆえというか、一般企業に就職できなかったカヲルは事業を始めたのだ。
当時の彼に経営能力があったのかは疑問に残る。
しかしながら、彼は人材を発掘、統制、優遇する手腕に長けていた。
これぞ、という人材を見つけると、カヲルは必ず家に招待する。
そして、二人きりで浴室に篭もるのである。
浴室から出てきた人材はというと、例外なく奥さんであるところのレイに握手を求めた。
『奥さんッッ!! ぼかぁもう、一生旦那さんについて行きますよっっ!!!』
陶酔の表情で熱弁を奮う彼らに、レイも、
『そう。好きにすれば』
とぐらいしかいえないわけで。
そのような、社員というより信者とでも形容したほうがいいような人材を抱えて、<ナギサ・カルチャースクール>はスタートした。
これは、初期こそエアロビクス教室だけというものだったが、口コミで異常な人気を呼び、たちまちワンフロアーの教室から、借りていたビル全体を買い上げ、各階で様々な教室を開催する総合カルチャースクールへと変貌した。
馬鹿ウケした理由は、社長みずから各教室のインストラクターをこなしたのが原因らしい。
幸いにも彼のスカウトした人材はみな優秀で、経営は軌道にのり、渚家は地元ではちょっとした顔になったのである。
・・・・・掃除が一通り済むと、はやお昼になっていた。
レイは軽い昼食を終えると、リビングでゆっくりお茶を飲む。
今の彼女に、義務的にしなければならないことは殆んどない。
夫のカヲルは、妻が外へ出て働くことをよしとしない。
妻子を養えなければ男ではない、と考えているフシがある。
これは、彼の価値観の基底に、多分に古い日本人の気質がある――――わけではない。
むしろその逆で、彼が古い日本人の伝統を参考にした結果らしい。
女性の権利うんぬんを主張する女性団体が聞いたら激怒しそうな話だが、レイは素直に受け入れている。
正直、人付き合いは苦手だし、なにより周囲の数少ない知人も揃ってそれを勧めたからである。
というわけで、午後になると、レイは庭先のポーチの椅子に腰掛け、本を読みながら過ごすことが多い。
心地良い風が頬を撫でる。
娘が帰ってくる夕方までの、約三時間ほどのこのゆっくりとした静かな時間が、彼女は好きだった。
まるで小川のせせらぎのような、ささやかな幸せな時間を享受していると、リビングから無粋な機械音が鳴り響いた。
ほとんど表情を動かすことなく、レイは受話器を手に取った。
とたんに響いてくる、聞きなれた声。
『あ、良かった、いたのねー!! レイ、あんたもいいかげん携帯の一つくらい持ちなさいよ!!』
色々な意味で忘れたくても忘れられない、碇夫人アスカの声であった。
ひょっとして、わたし、今怒られている・・・? などとレイが思案していると、受話器越しに更に声がかぶさってきた。
『今日ねー、あたしは旦那と出かけるのよー。とゆーわけでさー、あんた、家に来て子供たちの面倒みてくんない?
え? なんで出かけるのかって? うふ、デートよ、デート♪
いいレストランで食事して、映画みるのよ。ウラヤマシーでしょ?』
「・・・・・・・・」
『ああ、それと、幼稚園のお迎えバスにはミレイちゃんもウチで降ろすように連絡してあるから。
あと、サトミちゃんも来るからね。
じゃあ、よろしく〜』
口を挟む間もあらば、矢継ぎ早に用件だけを告げると通話はそこで切れてしまった。
空しい不通音が響くなか、レイはしばし立ち尽くす。
時計を見る。
二時を少し廻ったあたり。
碇家までは、徒歩で20分強という道程であるが、途中で買い物のことも考えると、そろそろ出かけなければ間に合わない。
頼まれ方はいささか気に障るが、碇家に行くのは嫌いではない。
ゆるゆると支度を整えると、レイは家を出た。
優雅に日傘をさしていくあたり、さすが社長夫人というか奇妙な上品さを醸しだしている。
むろん本人にはさっぱり自覚はないことなのだが。
ハリウッドの高級住宅をそっくり移してきたような碇家。
そのだだっ広い玄関にレイは立つ。
静まり返った雰囲気からして、家主はとうに出かけたらしい。
結構な頻度で使う合鍵をドアに差し込む。
暇を持余し気味のレイが碇家を訪ねることは結構多い。
勝手知ったるなんとやらで、広い広い邸内を進み、庭の見えるキッチンで買い物袋を置く。
ついで冷蔵庫を開けて見た。
『晩御飯はこれを焼いてください』
と書かれた紙の張り付いた皿がある。
そこに盛られた数個の固まりは、どうやら家主手製の豆腐ハンバーグ。
ここの家主はその妻に比べて、全く気配りが行き届いている。
一息入れると、レイはおやつを作り始める。
早くしないと、そろそろ幼稚園のバスが来る時間だ。
碇家の子供に加持家の娘、それに自分の娘を加えた総勢5人分の器を用意していると、おもてにバスの停まった音。
エプロンで手を拭いて、迎えに行こうとしたレイだったが、その前に玄関の開く音がして、ドタドタと子供たちがキッチンへ雪崩れ込んできた。
先頭は、ランドセルを背おった碇家長男坊である。
その背後に園児姿の子供たちが続いているところを見ると、どうやら家の前で丁度帰りが一緒になったらしい。
レイの姿を認めると、子供たちは次々に挨拶をした。
「あ、レイおばさん、こんにちわ!!」
「レイおばさん、こんにちわ」
「レイおばさん、こんにちわー」
「こんにちわ、レイおばさん」
果たして、硬直して立ち尽くすレイである。
「・・・・・誰が、『おばさん』って言えといったの?」
「え? 母さんが、そういえばレイおばさんが喜ぶって・・・」
代表して碇家長男が答えた。
「・・・・・・・・・」
レイは顔を伏せた。
確かに子供らにとっては血縁上おばさんかも知れないが、この歳でそう呼ばれるのは悲しすぎる。
この年、まだ彼女は25歳であった。
その思いが表情になって出たのだろう。
次に彼女が顔を上げたとき、子供たちはみな一様に震え、おびえていた。
「こ、こんどから、レイおばさんじゃなくて、レイお母さんと呼ぶことにしよう!! なっ、みんな!!」
震える声で碇家長男が宣言すると、子供たちが一斉に首を縦に振った。
すると、レイの頬がかすかに動く。どうやら嬉しいらしい。
その他人には窺えない表情の下で、彼女はうんうんとばかりに頷いている。
素直ないい子供たちだ。
きちんと全員の手を洗わせたうえでキッチンのテーブルに座らせ、おやつを分ける。
本日のおやつはフルーチェである。
特に記しておくが、彼女が手の込んだんだおやつを作れないというわけではない。
ただ、今日は時間がなかっただけだ。
もちろん、子供らにとって異存があるわけはない。仔細かまわず、みな綺麗に平らげる。
躾が行き届いているせいか、子供たちは使った食器とスプーンを流し台へと運んでから、三々五々庭へと飛び出していく。
碇家長男次男は加持家の長女と、広い広い庭でサッカーを始めた。
自分の娘は碇家長女とママゴト遊びだ。
それらの微笑ましい様子を見届けると、レイは夕食の準備を開始する。
メインディッシュこそシンジは作っていってくれたが、副採くらいは作らねばならない。レイ自身も作る気は満々だ。
人参、大根を細切りにして、玉ねぎをスライスし、スープの具材とする。
ご飯も炊飯器に仕込まれてはいたが、あえてグリーンピースなんぞを足してみた。
合間にデザートの豆乳プリンを作り冷蔵庫にしまい込む。
これらの仕込みを終えるころには、日は傾き、そろそろ辺りは薄暗くなりつつあった。
キッチンの電気を点けながらレイは庭の子供たちに声をかける。
「みんな、そろそろ家に上がりなさい」
その時である。
誓って偶然であったろうが、碇家長男の蹴り損なったサッカーボールが、丁度窓を開けたレイの頭を直撃した。
少なくとも、子供たちには直撃したかに見えた。
時間が凍りつく。
その被害者たるレイは、表面的には全然表情を動かさず、内心で激しく動揺していた。
また、使ってしまった。
不可視の物理障壁、ATフィールド。
どういうわけか、いまだ身に危険が及ぶと、咄嗟にでてしまうことがある。
首を動かさず、横目で、サッカーボールの行き先へ視線を送る。
彼女を直撃する寸前にATフィールドで弾き返されたボールは、更なる加速を経て碇家の電話機を直撃、破壊ののち、キッチンとリビングの間に転がっていた。
真っ青な顔をして駆けつけてくる子供たち。
たぶんフィールドを展開されたところを見られてはいないだろうが、一応フォローも入れてみる。
レイは、おでこの辺りに手をやると、つぶやくように言った。
「痛い・・・」
途端に、碇家長男は平身低頭謝罪を始めた。
「ああっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜!!」
あまりにも必死の様子なので、さすがにレイも可愛そうに思い、救いの手を差し伸べてやる。
「大丈夫よ・・・。掠っただけだから・・・・」
「すみません、ごめんなさい、もうしません!! ・・・・だから、母ちゃんにだけは言わないで〜!!」
「・・・・・・・・」
麒麟児として名高い碇家長男坊も、母親には頭が上がらない。
そもそもこの少年自体、母親の男の子版を彷彿させるのである。
それを此処まで卑屈にさせるとは、オリジナル恐るべし。
「・・・大丈夫だから、みんなお風呂に入ってきなさい」
子供たちを風呂場へと追いやると、レイは廊下に屈んで、受話器の残骸を摘み上げた。
素人目に見ても修復は不可能だ。
修理屋さん呼ばなきゃ・・・などと考えてレイは自身の考えに憮然としてしまう。
碇家の電話はこの親機が一台だけだし、彼女は携帯電話を持っていない。
とりあえず邪魔にならないよう片付け、レイは夕飯のハンバーグを焼き始める。
自分の分の豆腐ステーキも含めて6人分焼き上げるが、子供たちはまだお風呂から上がってくる気配がない。
料理は冷めたら味が落ちるし、子供の誰かがのぼせていないかどうかも心配だ。
長い長い廊下を渡り浴室を目指すレイ。
だだっ広い竹張りの床の脱衣所には、綺麗に畳まれた服、脱ぎ散らかされた服が思い思いの場所に置かれている。
浴室の方を窺えば、磨りガラスの向こうでは子供たちがはしゃいでいる気配。
溜め息を一つつき、次いで伸びをして下っ腹に力を込める。
大きな声を出すにも念入りな下準備がいるのが、彼女の彼女たる所以か。
勢いよくガラス戸を開け大声を出すために息を吸い込んだレイだったが、その顔を本日二度目の偶然が襲った。
違うのは、今度は物体でなく液体であったこと。
またぞろ時間の凍りついた浴室では、巨大な水鉄砲を抱えた碇家兄弟の二人が、ずぶ濡れになった渚夫人を真っ青な顔で見上げている。
「・・・ふう」
ただただ広い碇家の浴槽に肩までつかり、レイは視線を漂わせる。
ものすごい湯気のせいもあろうが、天井が高く見通せない。
碇家の浴場は、渚家よりさらに数倍の規模を誇っている。
レイの白い肩に何かがぶつかる。
湯気の中、しげしげと眺めれば、それは巨大な浮き輪である。
その傍らを、オモチャのアヒルの一個師団がパタパタと足を動かしていた。
「・・・・みんな、ちゃんと身体を洗いなさい」
「はーい!!」
子供たちは泡だらけのまま元気に返事をした。
レイの監督のもと一列にならんで背中の流しっこなんぞをしている最中である。
案の定子供たちは風呂場でも、今の今まで遊び呆けていたわけで。
盛大にお湯の掛け合いっこを済ませ、子供たちはぞくぞくと浴槽に駆けつける。
しかし、すぐには入ろうとしない。
「見て見て、レイお母さん!!」
目前で、子供たちは浴槽のふちに背を向けて腰をかける。
「・・・・?」
レイが疑問符を頭に浮かべていると、
「じゃいあんと・すとろーく・えんとりー!!」
碇家長男の号令一過、子供たちは浴槽に次々と転がり込んでくる。
「・・・・・・」
レイがお湯の飛沫を浴びた前髪を直していると、子供たちが泳ぐように近づいて来た。
その中の一人を見つけると、レイはその胸に彼を掻き抱く。
碇家次男、碇リュウジ。
写真で見せてもらったシンジの子供のころと良く似ている。
「レイお母さん・・?」
子供らが不可思議な表情を浮かべるのも意に介さず抱きつづける。
・・・正直、男の子が欲しかった。
レイは思う。
もともと、『使徒』として生を受けた綾波レイと渚カヲル。
互いに生殖は可能なのだろうか?
まさしくそれは命題だった。『人』として生きていく上での。
だから、「試して」みたのは、双方合意の上でも、いささかあの時の自分はおかしかったのではないか、とレイは思う。
結果、見事に彼女は「妊娠」したのだった。
その朗報(?)に、旧姓赤木・現碇リツコ博士は首を捻った。
それはもう首の骨が折れんばかりに捻りまくったあげく、
「これはもう『奇蹟』ね」
という短いコメントを発した。
色々な意味の驚きで目を瞬かせる未来の渚夫妻に、リツコは補足する。
「だって、『無』から『有』が生じたのよ? それ以外のコメントはないわよ」
厳然たる事実を記せば、綾波レイ、渚カヲルの両名の間に子供が発生する確率は0なのである。
初めての形容できない感情の奔流に戸惑うレイの目前で、リツコ博士の興味は既にその子供にスライドを開始していた。
使徒の間に生まれた奇跡の子。あるいは、それは人類にとってなんらかの可能性を秘めているのではないか?
しかしその数ヶ月後、リツコの期待は見事に裏切られる。
生まれてきた女児は、100%混じりッけのない人間だったのだ。
・・・・子供に罪はないのだろうけど、渚カヲルはとにかく男の子が欲しかったらしい。
レイも男の子も欲しいと思った。
更なる合意の上、共同作業を試みたが、再度レイは妊娠することはなかった。
まるで、奇蹟は一度限りだから価値がある、とでもいうように・・・・・・・・。
「レイお母さん!!」
子供たちの声でレイは我に帰った。
「・・・みんな温まった?」
などと冷静に子供たちを眺めつつ、自らの胸元に視線を落としてレイは絶句した。
白く細い腕の中で、碇家次男坊が半ば茹であがり、悶絶していた。
浴室から引き上げ、水分補給を十分に済ませた碇家次男坊の介抱を子供たちに任せると、レイは着替えを物色に向かった。
下着は幸いここにくる前の買い物で購入してある。
しかし上着はどうしようもない。乾燥機を使っても、乾くまで裸でいるわけにもいかないだろう。
タオル一枚を巻いただけの格好で、レイは碇夫妻の主寝室へと向かった。
邸内の奥深く、20畳もあろうかという寝室には、キングサイズのベッドが中央にどんと設えてある。
その奥に連なるウォーク・イン・クローゼットは、更に呆れるほど広い。
ずらっと並べられた服の波は、誇張抜きで溺れそうだ。
一瞥しただけで、レイは目まいを覚えた。
とにかく派手な服ばかり。金銀ラメはいうに及ばず、デザインもとんでもなく奇抜だ。
比較的おとなしめのドレスかと思い手にとって見れば、背面はお尻のすぐ上まで大胆に開いてたりする。
それでもどうにかシンプルなデザインのクリーム色のワンピースを見つけ出す。
さっそく着てみる。腰周りはピッタリだったが、胸が余るのにはちょっとムカついた。
キッチンへ戻ると、すでに食卓に全員が着席している。
加持家の娘が、たどたどしい手つきでみんなのご飯をよそっているのが微笑ましい。
豆腐ハンバーグを温め直し、いざ夕飯の開始である。
思えばここに漕ぎ着けるまで、ずいぶんと時間がかかったものだ。
教育が行き届いてるせいか、みなこぼさずに上手に食べる。
最年少の碇家長女ミコトも、まだ4歳というのに、下手をすれば上の二人の兄よりも行儀が良い。
お腹が膨れれば眠くなる。
ほんの子供なら、なおさらの現象だ。
食器を片付け終わると、長湯もあったせいか眠そうな表情になる年少組三人。
小学生二人組をリビングへ残すと、レイはそんな三人を洗面所に誘導する。
キチンと歯磨きをするように言い含めておいて、レイはリビングの隣の和室に取って返し、布団を引く。
部屋数が余り余っている現碇邸においても、小学校に上がるまでは個室は与えられず、この和室が子供たちの寝室に当てられていた。
ちゃんと口元をタオルで拭ってやり、寝室へと子供たちを誘導する。
不思議なことに、布団に横にした途端目を爛々と光らせ、子供たちは絵本を読んでくれるよう要求する。
「それじゃあ」
レイは和室の壁を完全に塞いでいる巨大な本棚に視線を走らた。
「『耳なし芳一』でも・・・」
即座に首を振る子供たち。
「どうして?」
「だって、レイお母さんのこわい話、ほんとにこわいんだもん」
「・・・・・・・・・・・・・・」
しかたがないので他の本を物色することにする。
どの家に限らずたいてい子供に甘いものだが、碇家もその点においては抜かりない。
この部屋の巨大な本棚の全てが絵本なのである。
古今東西の膨大な量が集められているので、レイも知らないタイトルも多い。
結局無難に『浦島太郎』なんぞをセレクトする。
「むかしむかし、ある村に浦島太郎という若者がいました・・・・」
淡々と読み上げるレイ。
確かにこの調子で怪談話など読み上げられては、怖いことこの上ないだろう。
それだけに、よく知られた話などを読み上げると、催眠効果は抜群である。
「鯛や平目の舞い踊り・・・」
まで読み上げた時には、子供たちは揃って夢の中。
苦笑を一つ、子供たちの布団をかけなおし、レイは和室を出た。
まだ騒がしいリビングへ向かえば、小学生二人は音楽番組に夢中だ。
大きいテーブルを60インチのTVの横に持ってきて、それを即席の舞台にしてる。
「あたしの彼はかかろっと〜♪ あいにーでゅー・あいらーびゅー・あいきるゆー♪」
加持家長女、加持サトミ嬢が、陶酔の表情で意味不明の歌詞を口ずさみながら、舞台の上でくるくる回ってる。
どうやら手に持っているシャモジはマイクのつもりらしい。
そして、碇家長男、碇アスマはというと、紙テープがわりのトイレットペーパーをばら撒きながら盛大にはやし立てている。
「いえーい、いえーい!! ですとろーいぃぃ!!!」
もうなにが何だか。
最近の小学校ではこういうものが流行っているのだろうか?
とにかく、もう遅い。
片付けを指示し、寝るよう促そうとしたとき、騒がしい音がリビングへ迫ってきた。
リビングの扉が開けられ、目に痛いような赤いドレスを纏った人影が現れる。
「ただいま〜」
上機嫌で頬を薄紅色に染めた、碇夫人アスカであった。
「あ〜、レイ、ありがとね〜」
酔っているのだろう。千鳥足でレイの目前に来ると、彼女の手をとって盛大にぶんぶんと振って見せる。
そして、とろんとした目でレイの全身をジロジロとながめる。
「あの・・服濡れちゃったから、この服借りた・・・」
レイがおずおずと言うと、アスカは破顔した。
「うん、似合ってるじゃないの!! それあげるわ、もって帰りなさい!!」
とケラケラと笑う。
その背後から、碇家当主、碇シンジが顔を出す。
「あ、ありがとう、綾波・・・」
こちらもタキシード姿の正装だ。ただし上着は脱いで肩にかけている。
レイは何故か頬を押さえる。碇シンジにしか許していない呼び方―――旧姓で呼ばれると、どうして頬が火照るのだろう。
「ははは、散らかしてるわねえ、こいぅ!!」
そんな彼女の後方では、アスカが息子を締め上げていた。
口調と裏腹に完璧に決まったチョークスリーパーは、息子の顔を紫に染め上げている。
「ああ、アスカ、ダメだよ!! 死んじゃうって・・・・」
レイと視線をあわせたのも束の間、シンジの視線は自分の妻と息子へ移ってしまっている。
慌てて割って入るシンジに、アスカはしな垂れかかった。
「んんん〜・・・・シンジだっこ♪」
足元に半死半生の息子をほっぽりだしてシンジの首っ玉に齧りつく。
アスカ本人にその気はなかったのだろうが、居合わせたレイを居たたまれない気分にさせるには十分だった。
「碇くんたちも帰ってきたし、わたしも家に帰るわ」
そう言い残すや否や、レイは和室にとって返すと、自分の娘を抱き上げるように起こす。
「・・・ん・・? 母さま・・・?」
「帰るわよ」
できるだけそっけなくならないように告げる。
なお眠そうに目を擦る娘の手を引いて、レイは足早に玄関へと向かう。
「待ってよ、綾波!! ミレイちゃんも眠そうだし、泊まっていったらいいじゃないか」
シンジが後を追いかけて来る。その背中越しに、バツの悪そうな顔をしたアスカの姿もあった。
「その・・・せめてタクシーでも呼ぶから待ちなさいよ」
「・・・ううん、いらない」
レイは短く応えるとと、玄関で娘が靴を履くのを手伝ってやる。
トタトタと軽い足音がして、
「あ、ミレイちゃん、ばいば〜い・・・」
眠そうな目をしながら子供たちまで見送りに来ると、大人たちは大人気のない事を言い合うわけにもいかなくなった。
「それじゃ・・・」
「・・・・うん、気をつけてね」
釈然としないながらも、シンジたちは笑顔でレイとその娘を送り出す。
「・・・大丈夫?」
碇家を出て、一つ目の交差点の陸橋を渡りながらレイは娘に訊ねた。
「うん、だいじょぶです!!」
元気いっぱいの返事。
寝ていたところを起こして可愛そうにと思っていたが、どうやら眠気は飛んでしまったらしい。
繋ぐ手に力を込めて、レイはゆっくりと娘の歩く歩調にあわせた。
・・・・別にシンジにに対して恋慕の情が断ち切れないわけではない。
ただ呆れただけなのだ。
あんな、人前でベタベタできるのは・・・。
そこまで考えて、レイは自身の考えに愕然とした。
あたしもベタベタしたいというの・・・?
いや、そんなことはありえない。
なにより、わたしは夫に対し隔意を抱いている。
それは苦い事実だった。
しかも、その感情は、年々強くなっていってくような気がする。
どうにも形容しがたい感情なのだが確かに自己主張しているのだ。
それが夫婦生活に終止符を打つとかとは別問題だろうが、釈然としないのである。
いや、むしろ、これは、婚姻関係とかに根ざした感情ではないのではないだろうか・・・・?
レイがそこまで考えたとき。
娘の歓声で我にかえった。
「お月さまがとってもきれい・・・」
思わず娘の指差す方を見ると、大きな一本道の向こうに、丸い月が望めた。
閑静な住宅街の路地である。他に人影や遮蔽物もなく、絶好のポイントといえた。
「そうね、とっても綺麗だわ・・」
レイも我知らず相づちを打つ。
と、その月を背後に、脇道から一本道へ人影が踊り出た。
「・・・・あれ・・?」
道路いっぱいに伸びた長い影は、こちらに向かって縮んでくる。
つまり、その人物はこちらに向かって来ているということだ。
なおよくよく目を凝らしてみれば、その人物に見覚えがあった。
なんと、くだんの夫、渚カヲルではないか。
息を急き切らせながら、カヲルは妻と娘の目前まで全力で走ってくる。
そして二人のもとまで来ると、レイの訝しげな視線に対し、盛大な安堵の息をついてみせた。
「よかった〜・・・・・」
殆んど涙目だったりする。
「・・・・どうしたの?」
おずおずとレイは訊ねる。こんな取り乱した夫はいままで見たことがない。
なおゼイゼイいいながら、カヲルは盛大に嘆いて見せた。
「どうもこうもないよ。心配したんだよ? 帰ってみれば家は真っ暗で誰もいないし、書置きもないし、連絡はもとから無いし、シンジくんのうちに電話はつながらないし、ついでにシンジくんの携帯にも繋がらないし・・・・」
レイははたと気づく。
そういえば、碇家の電話は粉砕されたままだ。それに、碇夫人は子守りを頼みに電話してきたときこういっていた。
旦那と一緒に映画見て、食事する―――と。
カヲルが電話したとき、携帯の電源が切られていたのは十分考えられる。
「・・・まったく、とうとう僕に愛想をつかして、二人とも実家に帰ったのかと思ったよ・・・」
大真面目で告白するカヲル。ちなみに今の彼の格好は、素肌にワイシャツを引っ掛けだけの格好でおまけに裸足である。さすがにスラックスは履いているけど。
警官にでも見つかったら、問答無用で強制連行間違いなしだ。
逆に、それだけ取り乱していたともいえる。まあ、最後の台詞は冗談だとしても。
その光景に、さしものレイの頬も綻ぶ。
「母さまの笑顔、とってもキレイです・・・」
傍らの娘がこちらを見上げて微笑んでいる。
思わずレイは自らの片頬を押さえていた。
残念ながら、自分自身で表情の変化はわからない。
そしてその時、レイは唐突に理解していた。
このもやもやとした感情。
夫への隔意のもととなっている、その感情の呼び名を。
劣等感。
では、なんに対する劣等感か?
それは、年々『人間』らしくなっていく夫に対するものだった。
いまだ不器用で、ご近所付き合いも満足できない自分に比べ、会社を経営し、社会に馴染みまくってる彼。
世界で二人きりの異質な存在。
それなのに自分だけが取り残されていくような。
『人間らしい』表情を娘に指摘されたことによる、天啓にも似た理解だった。
「・・・・どうしたんだい、レイ?」
カヲルが娘を抱き上げながらこちらを見る。
「別に」
いつもの彼女なら、素っ気無くそう応えたことだろう。
しかし、今の彼女はちょっと違う。
不意に疑問が浮かび、素直にぶつけてみた。それが、より人間らしい行為とは知らず。そして不思議に恥ずかしさもない。
「・・・あなたは、わたしのことを愛してるの?」
「そりゃあ、もちろん」
真顔で即答するカヲル。
レイは黙って背を向けた。そのまま家路を歩み出す。
カヲルも慌てて娘を抱えたまま追いかける。
「どうしたんだい? 気にさわったのかい?」
レイは、今度は文句のつけようがない素っ気なさで応じた。
「別に、信用しないことにするから」
「・・・? なんだい、それは?」
ぼやきつつ、胸に抱いた娘をあやすカヲルである。
その時、彼は気づかなかった。妻の頬がかすかに綻んでいることを―――。
静かに家路を急ぐ三人。
月だけが見下ろす帰り道。
ただ淡い青い光が、世にも不思議な夫婦を包んでいた。
〜終わり
三只さんからの待望の『夫婦絶唱』外伝であります
今回はレイとカヲルの話のようですね。それもまだまだ結婚して間もない時のようで。
アスカやシンジの愛愛に比べるとおとなしい感じがしますが(特にレイが)愛のある家族であるようで何よりです。
なかなか素敵なお話をいただきました。皆様も是非読後に三只さんへの感想メールを出しましょう。