私は私を取り巻く環境を考察する。
リツコおばさま(こう呼ばないと怒る)が言うには、
「おしなべて標準と呼ばれているものは、雑多なモデルケースの中から重複する部分を抽出し羅列しているだけに過ぎないわ。
あらゆる事象はマクロ的に解釈すればよく類似して見えるもので、反対にミクロ的な考察を重ねるほど相違点が見えてくる。
突き詰めれば、この世に完璧に一致するものなど何もないのかもね」
ということらしい。
話し終わってから、あら、何の話してたんだっけ? などと小首を傾げたのは非常にオバさまらしい。
以上の言を鑑みて、私は私を取り巻く環境を考察する。
結果、かなりマクロに観察しても、標準でないことに気づいた中学二年生の夏。
夫婦絶唱外伝
加持家長女の考察
朝6時半。
目覚ましが鳴ると同時に私は目を覚ました。
上体を起こし伸びをして、突き上げた右手でカーテンを引く。
眩しい日射しを受けて、身体全部が覚醒していく感じ。
勢いをつけてベッドから降り、制服着替え一式を抱えて部屋を出る。
シャワーを浴びる時間は10分。
洗い髪にタオルを巻いてキッチンへ向かい、フライパンを火をかけた。
冷蔵庫の中味を物色する。
卵が結構多くある。ベーコンも数枚残っている。
しょうがない、ベーコンエッグくらい作ってやるか。
我が家の朝食は、基本的に各自が作って勝手に食べるスタイル。
別に親子三人仲が悪いわけじゃない。
そのほうが合理的というかなんというか。
あえて説明が必要な時点で、普通の家庭とはいえないのかも知れない。
てなことを考えるには、目玉焼きが焼き上がる時間では短すぎた。
ベーコンは柔らかいほうが好きなので、急いでお皿に盛りつける。
目玉焼きを四つ使った特大ベーコンエッグの大皿を食卓の上に置き、冷蔵庫からカフェ・オレの紙パックを取り出す。
マグカップにカフェ・オレを移し替え電子レンジへ。それと食パン二枚をトースターに。
小皿にフォーク、塩こしょうの瓶を食卓に並べ、ついでにTVのリモコンのボタンを押した。
まだ生乾きの頭を拭きながらTV画面を見れば7時ジャストの天気予報。今日も快晴、雨の確率0パーセント。
電子レンジの終了音と、トースターがパンを吐き出す音を背中に、あたしは母さんたちの寝室のドアを蹴飛ばす。
今日は髪を拭いて両手がふさがっているからだ。ドアの下のほうが歪んでいるのは関係ない。念のため。
「母さん、起きる? ご飯あるわよ?」
返事も待たず私はダイニングキッチンへとって返し椅子に着く。
「おう、サトミ。おはよう」
首にタオルを巻いたスエット姿で父さんがリビングの縁側からやってきた。今日も朝早くから家庭菜園の世話をしていたのだろう。
「おはよ、父さん。いつものお願い」
「あいよ」
キッチンの流しで手を洗った父さんは、一緒に洗ったらしいトマトとキュウリと抱えて持ってきてくれた。
受け取った私は瑞々しいそれに歯を立てる。やっぱり取れたては丸かじりが一番美味しい。
一枚目のパンを片づけ、レンジから出したマグカップに口を付けていると、もっそりとした人影がキッチンへ入ってきた。
「ふわぁ〜…。おはよ、サトミ…」
ザンバラ髪を振り乱し、シャツの隙間に手を突っ込んでお腹をポリポリ掻いている艶姿を私はジト目で眺める。
なんとも情けないがこれが私の母親の朝の姿だ。当年とって4X歳。
見てくれだけなら若いのに、行動様式は壊滅的にオバサンだ。
「ふわぁああああ…。サトミ、眠気覚ましちょーだい…」
器用に皿と皿の間に頭を突っ伏して、母さんはだるそうな声を出す。
パンをくわえたまま、あわてず騒がず私は冷蔵庫に向かう。
「はい」
冷蔵庫の手前の棚からそれを取り出し、母さんの目前に置いた。
「さんきゅ…」
プキュッとプルタブを開ける音がして、間もなくごきゅごきゅ喉が鳴る音が聞こえて来た。
「…ぷはぁああああああああっ!! やっぱ朝はビールよねぇぇぇっ!!」
この社会道徳の敵のような発言をする人物が、やはり私の母親なのだ。
アルコール中毒じゃないのがせめてもの救いか。
感動のためか涙目になっている母さんの横顔を眺め、私は呟く。
こんな生活しているのに、お腹がでないなんてサギだ。
それ以上不良中年に関わっている暇はない。
パンの最後の一欠片をマグカップの残りで流し込み、私は洗面所に向かう。
歯を磨き、鏡とにらめっこして、ショートカットをブロウする。
櫛で綺麗に撫でつけて、これで出かける準備は万端。
お気に入りの腕時計を見れば7時40分。
これから最寄りの中学まで20分弱。
理想的な登校時間。
キッチンへ戻り、カバンに先日作っておいたお弁当を放り込む。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃ〜い…」
三本目のビールを飲んでとろけている母さんは無視。
父さんは玄関まで見送りに来てくれた。
出がけに、
「明日は休日だな」
ぽつりと父さんは言う。
「…また?」
「いやか?」
「イヤじゃないけど…」
顎を撫でながら父さんは苦笑する。
「アイツの唯一の道楽みたいなもんだからな。ま、遊んでやってくれ」
曖昧にうなずいて私は家を出る。
『遊んでやってくれ』か。『遊びに行く』のほうが正しいだろうに。
既に熱を増してきた日射しを避けながら、私は通学路を進む。
10分も歩いていると、先の十字路の左手から問題人物が飛び出してきた。
さきほど父さんと交わした会話に関係のある人物。平素の行動も行動だから、問題人物と形容してもあながち間違いではない。
「おっす、おはよーさん」
屈託もなく挨拶するソイツの名前は碇アスマ。
どういうわけか私と同じ誕生日の、完全無欠の幼なじみだ。
「今日もあっちーな〜。体育、ダルいな〜…」
当然のように私の隣に並んで歩き出す。
不機嫌な顔で見上げると、Tシャツの襟が曲がっているのが目に入った。
「ほら、動かないで」
「あんだよ」
避けようとするのを無理矢理耳を掴んで引き寄せる。
と、襟の後ろにピンクのルージュの跡を発見した。
大して珍しいことじゃなかったりする。
「また、アスカさん…?」
「ああ、出がけに捕まって、お出かけのチューをされそうになった」
しみじみと呟くアスマの横顔に、なんとも哀愁が漂っていた。
コイツのとてつもなく若い母親と、当然私も知り合いだ。
いや、知り合いなんて形容は語弊があるくらい親密な関係といえるだろう。
金髪碧眼の悪戯っぽい笑顔を思い出す。
『人は見かけで判断しちゃいけない。美しくて綺麗なものが正義だと思うな。あれは悪魔だ』息子:談
私も概ね賛同できる意見だ。
なんか、こう、行動といい思考法といい、日本人離れしているのだあの人は。
だからといって嫌っているわけではない。
あれほど一緒にいて楽しい人はそうそういないと思う。
襟を折り返し、ルージュ跡を見えなくしてやる。
「サンキュ」
私は思わず目を細めた。彼の笑顔が妙に眩しい。
まったく、中学校に入ったとたんスルスルと背が伸びて。
小学校の頃までは、私のほうが背が高かったのに。
そのまま他愛もない話をしながら歩いていると、他の登校する生徒の姿が目に付き出す。
「おはよっ、サトミ!!」
友人が二人近寄ってきた。
「おはよう」
私も挨拶を返すと、友人の片割れが硬直する。
視線は私の隣にバッチリ固定。
それに笑顔で応じているバカ。
おまけにそのバカは、自分の友人を見つけたらしい。挨拶もそこそこ長目の髪を振り乱し校門めがけて走っていってしまった。
「おーい、エミ?」
仕方ないので友人を揺さぶって正気に戻す。
え、なに? という風に、周囲を見回したエミの驚き顔はまたも崩れた。
ふにゃらんとした表情で転がるような声を出す。
「朝から碇くんに会えちゃった、らっき〜」
その背中をニヤケながら押しているのがもう一人の友人、カズミ。
「エミは碇くんのファンだからね〜」
「あんなヤツが?」
10メートルほど先で男子生徒とじゃれ合っているアスマの背中に視線を送る。
「周りをもっとよく見てみなさい」
私の隣に来たカズミが囁いた。
「周りを?」
というわけで、周囲に視線を放てば、歩きながらアイツの背中に視線を送っている女生徒が結構いる。
「ファン多いんだよ、彼?」
クスクス笑うカズミに私は呆れた。
「まったく世の中物好きが多いわよね、ほんと」
「あんた、本気でいってんの?」
見れば、カズミは私に負けず劣らず呆れ顔。
エミに至っては頬を膨らませ怒っている様子。
「何いってんの、あんたたち?」
私はさっさと歩き出す。
まったく、みんな何を勘違いしているんだか。
アイツは、あの金髪碧眼の悪魔の息子なのよ?
第二ラウンドはお昼休みだった。
「サトミは、ほんとぉ〜に碇くんのこと何とも思ってないの?」
エミからいきなりフォークを突きつけられた。どうやら朝の発言を根に持っている様子。
「何ともって…。アスマのヤツは幼なじみよ?」
「あー、碇くんのこと名前で呼んだぁ!!」
ぶんぶんフォークを振り回すエミ。
「ちょっ…やめてよ!!」
危なくてしょうがない。
「はい、どうどう」
ようやくカズミが凶器を取り押さえてくれた。
「まったく、サトミも意外とニブチンなんだからさー」
安心してパクつこうとしていた私の手から、サンドイッチがこぼれ落ちる。
「そーそー、サトミちゃんは鈍感星人なのだあ」
こぼれたサンドイッチをフォークでキャッチ、それを囓りながらエミ。
「な、なによ、それ。鈍感だとかなんだとか」
感情を出さないように努めて、失敗する。
「あんたねぇ…」
前髪をかきあげて、椅子に座り直すカズミ。
「幼なじみで、美形で、これ以上何を望むのよ、あんたは?」
と見つめられても困ってしまう。
確かに、アスマのことを美形と認めるにはやぶさかではない。
元となる両親自体が、特に母親が美形なのだ。
母さんに言わせると、両親のいいとこ取りがアスマらしい。
確かに性格も明朗活発で、裏表がなく人なつっこい。運動神経も人の三倍でラッキーカラーは赤だとか自称している。
これで勉強嫌いなくせに成績はトップクラス。一歩間違えば、ただ嫌味なだけの変態だ。
幼稚園でも小学校でも可愛がられまくっていたアイツは、中学生になって急速に男っぽくなった。
これでモテないわけはない…ハズだ。
だけど、みんな知らない。
幼なじみゆえ、私がどれだけ苦労して来たのかを。
「これであんたが普通のルックスなら、みんな遠慮しないんだけどねー」
カズミの言葉に回想から立ち戻る。
「え? 何? なんていったのいま?」
呆れ顔を見合わせる友人二人。
「だから鈍感だっていってるの!!」
これまた見事に声がハモった。
きょとんとしていると、エミが椅子に寄りかかり頭の後ろに手を組んだ。
「あ〜あ、碇くんとデートしたいなあ〜」
「そんなにしたいんなら仲介してあげるわよ」
紙パックのコーヒー牛乳をすすりながら私。
「アイツは、タダで遊べるならなんでもいいんだから」
「だから困るのよねー。一日中ヘトヘトになるまで遊んで、はいさよなら、じゃ」
エミの代わりとばかりに意味深なため息をつくカズミ。私は首をひねる。
一緒に遊び回るのがデートというものではないんだろうか?
「ま、サトミちゃんには少女漫画は必要ないってことね」
エミがあたしのサンドイッチに手を伸ばしながら言う。
それを牽制しながら私は訊ねざるを得ない。
「どういうことよ?」
返答は短いものだった。
「だって、リアルで少女漫画してるんだもん」
放課後に第三ラウンドがやって来た。
部活があるという友人二人と別れ、私は一人帰路に着く。
一応私も部活に所属しているが、部員数三人の中国茶同好会など活動してないに等しい。
「おーい、サトミ」
背後からの声。無視して歩いていると、たちまち背後に駆け寄ってくる気配。
「無視すんなよ、一緒に帰ろうぜ」
「別に無視してないわよ」
ため息混じりに振り向いた私の視界に、睨むようにこっちを見ている女生徒の姿があった。しかも複数。
今日に限って気づいたのは、朝とお昼の友人たちの会話が頭の片隅に残っていたからだろう。
「どしたん?」
不思議そうな表情の幼なじみに再度背を向けた。
「なんでもないわよ」
全く、コイツは異性の好意にはとことん鈍感なのだ。
ちなみに同性からの好意に過剰に反応、アクロバティックな回避行動をとるのは健全と評価していいものだろうか。
背中に刺さってくる視線の痛みをこらえながら、わざと胸を張って歩く。
で、場の雰囲気を解さない我が幼なじみ殿は、性懲りもなく付いてくる。
「なんで付いてくるのよ?」
隣まで来た彼を小声で罵る。
「だって、オレん家もこっちだもん」
「……」
ま、まあそれじゃ仕方ないわよね…。
「それに、明日休みだろ? オバサンたちも来るんじゃないの?」
水晶みたいに涼しい顔で言う。正直憎らしい。
「なによ、も、ってのは?」
まるで蟷螂の斧を振りかぶるみたいに弱々しい反論を繰り出す。
「あれ? おまえは来ないの?」
「…誰が行かないって言ったのよ」
「どっちだよ、おまえ…。言ってること矛盾してるぞ?」
「ふん」
「なに拗ねてんだよー」
不思議そうな声を振り切り歩き出す。
言葉尻をとらえて、なにを抗弁しているのだろう私は。くだらない。自己嫌悪だ。
どうにも、コイツの前だと自分のペースが維持できない。
黙ってずんずん歩いていると、アスマもずんずん付いてくる。
曲がり角を曲がった途端、背後の気配が消失した。
「…?」
不思議に思い路地を戻ると、誰も通行人の姿がない。
どこいったんだろう、あのバカは。
キョロキョロしていると、なんと頭上から声が降ってきた。
「おーい、サトミ」
「…あんた、なにやってんのよ?」
長い手足を電柱に巻き付け、アスマは言った。
「セミ」
無言で私は電柱を蹴飛ばす。
「うわっと」
ぐらりと学生服が揺れたかと思うと、電柱の足場に逆さまにぶら下がり、頭だけ私の前に降ってきた。
「こら、危ねーじゃないか」
全然危なっかしくない声で言わないで欲しい。
「あんたね…。中二にもなって、ガキみたいなことしないでよ」
ぶらんぶらんと上半身を揺らしながら、アスマは破顔した。
「だって、これをすると、いつもおまえ機嫌なおしてくれたろ?」
「……」
時間にして、3秒くらい硬直していたと思う。
「な、何年まえのことを言ってるのよ…!」
馬鹿みたいに無邪気な顔から視線を逸らした。声が上擦る。
まぶたに浮かぶのは夕暮れの公園。
まだ幼かった私が砂場で泣いている。いじめっ子に壊された着せ替え人形を抱いて。
いじめっ子たちを蹴散らしたアスマが慰めてくれるんだけど、私はどうにも泣きやまない。
困り果てたアスマは、いきなりジャングルジムに登った。
「みーん、みーん」
なんて大声で叫ぶから思わず私がそちらを向くと、彼はジャングルジムの先端で背中を向けながらこう言ったのだ。
「セミ」
きょとんとする私の目前で、小さな身体がゆっくりと後ろに倒れ込む。
慌てて駆け寄るが、彼の身体は地面に叩きつけれられることはなかった。
両足を鉄棒に引っかけ、逆さまに宙づりになった顔がケロリと笑う。
さすがにこれには私も噴き出していた。泣いたカラスがいま笑った、というヤツだろう。
あの光景は一生忘れない。
直後、頭から地面に落っこちて脳天をかち割った彼の惨劇も忘れない。
前にも増して大泣きしながら、私は助けを呼びに走ったものだ。
幸い命に別状はなかったが、アスマの脳天付近にはその時の傷跡が残っている。
ために髪を伸ばしているのを知ったのは、ずっと後のこと。
そしてもう一つ傷があるとすれば、病室で作られたトラウマだろう。
救急車で搬送され、出血の割に傷は浅い、念のための脳波測定CTスキャンも異常なし、との診断が下された。
それでも大事をとって病院に一泊、病室へ寝かされた直後、真っ青な顔をした彼の両親が飛び込んで来たのだ。
両親、それもアスカさんが凄い剣幕だった。
バカ、バカ、死んだらどうするの、アンタが死んだらどうすればいいの、だから危ないことしちゃいけないっていったじゃない!!
およそありきたりな発言が尽きると、6歳児には酷と思われるほどの怒りの言葉がぶつけられた。
傍らで、その断片を聞いていた私も鬱になったくらいだから、相当なものだろう。
お説教が終わったあと、アスマは出血多量かと思うほど蒼白な顔してたっけ。
それでも最後は涙を浮かべながらぎゅーっと息子を抱きしめるアスカさん。
でも無事で良かった。あんたが生きていて良かった。
しおらしいお言葉と裏腹に、息子のほうは悶絶、ついでに傷跡も開いたそうな。
――――――素直に昔の感情に身を任せるには、私は少しばかり成長しすぎてしまったらしい。
「バカ」
オデコをデコピンで弾いてやろうとしたら不意に頭が消失する。
「よっ」
軽いかけ声とともに、アスマはくるくると宙で回転、見事に着地。
本当に運動神経だけは発達している。各運動部が熾烈な獲得戦を繰り広げた生きた伝説だ。
結局、どこにも属さない、ということで事態は収束。結果、彼は帰宅部となる。
その影で、どれだけ私が被害を被ったかを知っている人間は極めて少ない。
この人当たりの良い幼なじみは、類い希な行動力、機知に富む頭脳、鋼鉄の神経を持っている。
反面、どこか根本的に抜けているところがあるのだ。それも致命的な。
私が慌ててフォローしないと、とんでもないことになった出来事は、小学校の頃からそれこそ数限りなくある。
たまに私のフォローが間に合わないこともあるんだけど、それも持ち前の悪運で切り抜けてしまうのだからタチが悪い。
全て終わってから、ありゃ、ここはまずかったかな、でも上手くいったからいいか、はっはっはー、なんて言われた日には、私も怒りを通り越し脱力するしかない。
部活動対抗争奪戦のときもそうだ。
あのバカ、ふらふらと各部の主将たちにご飯やらなにやら奢ってもらっておいて、全部好意からのプレゼントだと思いこんだのだ。
全然事態を理解してないバカの耳をひっつかんで各部を謝罪行脚。
それでも足りず、もらった品物を返して廻ったのは専ら私だ。
思い出すたびに、つくづく自分のお人好し加減さに涙が出る。
じゃあ碇の代わりにマネジャーになれ、なんて迫ってきた男子空手部のお誘いを反平和的にお断りしたときなど、本気で腹が立った。
全く、私は、なんでこんなヤツの世話をしているんだろう? と自問自答する度に、出てくる答えは『幼なじみだから』。
…つい昨日までは、そう胸を張って言えたんだろうけどな…。
横目で脳天気な顔を眺める。男のくせに肌は白く、鼻梁は羨ましいくらい整い過ぎている。
私もそれほど自分の容姿を過小評価していないのだが、一つだけ気に入らない部分があった。
父さん譲りのやや垂れ目。母さんは吊り目気味だから、足して2で割られれば丁度良かったのに。
先天的なものだから愚痴っても仕方ない。でも、私たちを造形する存在があるとすれば、アスマを贔屓しすぎだと思う。
寄りによって幼なじみに二物も三物も与えなくてもいいものの。
人間、せめて外見的な欠点が一つくらいあったほうが可愛げがあるという物だ。
「おい、どこまで行くんだ。着いたぜ?」
足を止めて、アスマが顎でしゃくるほうを見れば立派な豪邸。
ここが件の碇家だ。
平凡な住宅街の一角に存在するハリウッドもかくやと思わせるこのお屋敷、実は第三新東京市ではちょっとした有名どころだったりする。
見物人の目当ては、時折姿を見せる金髪の超美人のほうが九割を占めるのだけれど。
通い慣れた道。それなのに気づかず通過してしまうなんて、全く今日はどうかしている。
「やっぱ、どっか具合でも悪いのか?」
心配そうな顔をしながらもアスマは玄関のドアを開けてくれた。
答えず私は勝手に室内へ上がり込む。
呆れ顔で二階の自室へ引き上げていく彼の後ろ姿をチラリと眺め、私はリビングへと向かった。
観音開きの豪華なドアを開ければ、内装はそれに輪をかけた豪華さを誇る。
高い天井に壁の一面が全て窓で、光が燦々と降り注いでいる。
本革張りのソファーセットに、テーブルの上にはフルーツバスケットがごく自然に置かれていた。
十人は並んで座れそうなイタリア製のテーブルセットは顔が映るくらいピカピカだ。
そのアングルだけで絵になりそうな光景。
軽く視線を逸らせば畳敷きのスペースもある。まったく違和感を感じさせず融和する和風空間には、すでに先客がいた。
「あ、サトミおねーちゃんだ。こんにちわ」
「あら、ミコトちゃん、こんにちわ」
にぱっと笑う少女に挨拶を返す。
碇ミコトちゃん。碇家の末っ子で、今年で小学五年生。
私情を交えず断言するけど、とんでもない美少女だ。
小ぶりの顔に大きな瞳。
顔の造形は母親のものをそっくり受け継ぎ、更にそれを磨き上げたよう。
瞳と髪の色は父親譲りの真っ黒だ。しかもただの黒じゃない。日本人のものより光沢があるというか艶があるというか。
その二つの要素が見事なまでに共存、調和している。
僅か11歳でこの容色なのである。彼女の将来に羨望と驚嘆を禁じえない。
ソファーにカバンを放り出し、お座敷へと近づく。
「なにやってるの?」
「えーと、マンガ読んでるんだ。友達に貸してもらったの」
そういってミコトちゃんが掲げてみせてくれたのは、少女漫画の月刊誌。
肩越しに覗き込んだ私は話しかける。
「あ、そのマンガ、単行本持ってるよ。貸したげようか?」
「ほんと? わお。お願い、貸して〜」
「うん、今度持ってくるね」
「ありがとう、サトミおねーちゃん!」
にっこり微笑むミコトちゃんは本当に可愛い。
どさくさ紛れにぎゅーっと抱きしめてしまった。
「…おまえ、そーゆー趣味があったのか?」
不意の声の方を向けば、シャツの袖をまくり上げながらその兄が立っていた。
「た、単なるコミュニケーションよ、コミュニケーション」
私は明言するが、サトミちゃんは腰にまとわりついたままだ。
「コミュニケーションね…」
訝しげな視線を投げてよこしておいて、アスマはリビングの片隅のホームバーへと向かう。
「なんか飲むか?」
「昼間からお酒なんか飲むと、うちの母さんみたいになるわよ?」
「ばーか、酒なんか飲まねーよ」
カウンターの向こうにしゃがみ込んでいるのは、そこにある備え付けの冷蔵庫を漁っているからだろう。
「それより、美味しいお茶の葉があるんだけど、どうだい?」
開け放しのキッチンから聞こえてきた声に、私たちは視線を集中させる。
「あ、父さん、ただいま」
「お邪魔してます」
アスマとミコトちゃんの父親、碇シンジさんが立っていた。
黒髪の一見線の細い男性だ。
年齢は32歳だそうだが、どうやっても20代にしか見えない。
実年齢に比しても中学二年生を頭にした三人の子持ちとしては若いだろう。
私が素直におじさんと呼べずシンジさんと呼ぶ所以だ。
若すぎる父親は、
「じゃあ、準備するからちょっと待ってね」
そそくさとエプロンを身につけ、間もなくお盆を持って戻ってくる。
お盆の上にはティーセット。それとシフォンケーキらしい。
鮮やかすぎる手つきでお茶を出し、ケーキと一緒に振る舞ってくれた。
そこいらの喫茶店なんかでは到底太刀打ちできない味に舌鼓を打つ。
「それで、今日の夜は加持さんの他に誰がくるの?」
ケーキを半ラウンドも平らげておいてアスマは訊ねた。
「そうだね、カヲルくんたちも来るって言ってたかな?」
ポットを片づけながらのシンジさんの返事に、アスマの顔色がハッキリと変わる。
共感できるけどいい気味だ。
世に天敵がいるとすれば、多分例の母親と、カヲルくんこと渚のおじさんだろう。
社交的で紳士的な人だし、世間的に見れば名士かもしれないが、一皮剥けば…。
いや、よそう。
一つだけ言えるとすれば、クラスメートたちが耽美だなんだと騒ぐ理由が分るような気がする。それだけだ。
「さて、と。夕飯の仕込みでも始めますか。サトミちゃんも手伝ってくれるかい?」
「あ、はい。喜んで」
ソファーから立ち上がりキッチンまで行ってエプロンを着ける。
私は料理をするのは好きな方だ。
母親が全く料理を作れないことに対する反発もあるんだけど、同年代の女の子に比べたらレパートリーは広いほうだと自負している。
その恩師は目前にいるシンジさんだ。
最初はおままごとの延長だったんだけど、気が付いたら一人前に包丁を扱えるようになっていた。
「最近、エスニックに凝っていてね…」
またレパートリーを増やしたらしい。
驚く私の前で、シンジさんは小瓶の蓋を開けた。
「今日はいいコリアンダーを買ってきたんだ」
思わず顔をしかめる私をシンジさんは笑顔で見やる。
「まあ、日本人は慣れないときつく感じるみたいだしね。そんなに匂いがきつくないように作るよ」
小瓶を締めて、シンジさんは別の大瓶を手に取る。
なんか見たこともない文字で何かラベルが貼ってあるんだけど…?
「これはナンプラーだよ」
ああ、それは知っていた。いわゆる魚醤だ。文字通り、魚を発酵させて作った醤油。
タイとかで使われている調味料だと知識にある。
「これもなかなかの上級品なんだ」
にっこり笑うシンジさんを見上げ、この人は本当に料理が好きなんだなあと思う。
次はその鶏肉をさばく手つきに見とれた。
プロ裸足の手練にスピード。
一体どこでこんな腕を身につけたのだろう。
奥さんと一緒に第三新東京大学を卒業しているのは、ウチの両親の証言からも明らかなのに。
そこいらへんを子供たちに訊ねるんだけど、どうにも判然としない。
ミコトちゃん曰く、
「パパはね、料理人の学校にいったんだよ?」
「いや、大学いって栄養学を学んだって…」
これは、次男坊であるリュウジくん。
「実はな、父さんは伝説の料理人の弟子だったんだよ。その料理人は一回料理を作るたびにギャラが500万円という…」
最後のタワゴトを発したバカのことは今さら表記しない。
ズバリ本人にも質問したんだけど、
「料理は中学生の頃から始めたんだよ。それで、アスカの注文に応えていたらどんどん上達しちゃって…」
と、どうにもはぐらかしているとしか思えない答えが返ってくるわけで。
今度は牛肉を切り分け始めた横顔に視線を注ぐ。
並の男の人よりは繊細な容姿をしていると思う。
目の色とか、ややクセのある髪はそっくりアスマに受け継がれている。
やっぱり似てるんだわね…。
「? どうかした?」
「え、え? いいえ、なんでも」
なんで幼なじみの父親に見とれているのだろう。
私は視線を逸らし、野菜を切り分けサラダ作りに専念することにする。
「お邪魔〜。そして差し入れよ〜♪」
野菜を切り分けていると、脳天気な声がキッチンへと入ってきた。
ビールケースを抱えたその姿は、間違えようもない私の母さんだ。
いつも差し入れなんていってるけど、ほとんど一人で飲んでしまうくせに。正確にいえば補充しにきたが正しい。
それくらい母さんは碇家に入り浸っている。
唯一の道楽、なんて父さんが形容していたけど、私にいわせれば、母さんにとっての最大最高の道楽だろう。
なにせ料理は絶品だし、高級酒も飲み放題だ。
かくいう私も父さんも便乗気味にお邪魔している。
子供のころはさして不思議に思わなかったのだが、自分の家より他人の家にいる時間が長いというのはどうだろう。
家主であるシンジさんは、全然気にしてないよ、みんな家族みたいなもんじゃないか、とはいってくれてるけど。
どちらにしろ私たち一家は、世間的には図々しいといわれても仕方がないかもしれない。
「わお、今夜はエスニックね」
ビールを冷蔵庫に格納したらしい母さんが、ズケズケと流しのほうまで歩いてくる。
私はそんな母さんを身体ごとブロック。
「こっちはいいから、母さんはリビングへでも行ってて!!」
「なによー、手伝わせてくれてもいいじゃない」
ブーブー文句を垂れる母さん。
…これほど自分の料理の腕を自覚してない人も珍しい。
くわえて本人の味覚も、お世辞でいっても大雑把としか形容できないものなのだから、どだい料理自体が向いてないのかも知れない。
そんな母さんに料理を手伝わせさせたらどうなるか。
画竜点睛を欠くどころではない。蟻の一穴となる可能性のほうがはるかに高い。
「シンジくん。今朝、家で採れた野菜だ。使ってくれ」
母さんの背後からぬっと出てきたのは父さんだ。
「うわあ、ありがとうございます、加持さん」
なんてシンジさんは喜んでいるけれど、私としては母さんの首筋とひっつかまえてリビングへ連れていってくれたことのほうがありがたい。
キッチンを出て行く時、軽くウインクしてくれる髪を後ろでまとめたその姿。
昔のヒーロー映画のアンソニー・ホプキンスとアントニオ・バンデラスを足して2で割って垂れ目にしたようで、結構カッコイイ。
と、今度は本場のハリウッドスター顔負けの人が入れ替わりでキッチンへ突入してきた。
「ただいま〜。お腹空いた〜」
スタイル抜群の近所でも評判な美人奥さん。しかしてその実態は、子供たちにとって金髪のドミネーター。
「ああ、お帰りアスカ」
迎えるシンジさんは満面の笑顔。
この二人がとんでもなく仲の良い夫婦であることを何よりも証明している。
アスカさんはとびっきりの笑顔をシンジさんに向けておいて、
「あら、サトミちゃん、いらっしゃい」
と、父さんの持ってきたトマトへ白い歯を立てた。
「お邪魔してます」
私が軽く上体を曲げると、その頭を撫でられた。
「少し背ぇ伸びたんじゃない?」
もぐもぐごきゅんと咀嚼しておいて指を舐めながら笑う。
下品というよりお転婆な印象を受けるのは、やはり見た目が若々しすぎるからだ。
シンジさんと同い年のはずなんだけど、こちらは更に若く見える。
『このあいだセーラー服着て高校の文化祭いったら、ミスコンにエントリーされるところだったわ』
なんて笑いながら話していたけど、あながち冗談に思えないのが怖い。
常識破りのバイタリティーも若く見える一因だと思う。
「とにかく、今日はお腹空いたから、早めにご飯!! よろしくね」
私とシンジさんが顔を見合わせるなか、異議を申し立てたのはキッチンへやってきたアスマだった。
「え〜? オレら、さっきケーキ喰ったばかりだぜ?」
次の瞬間、額を押さえたアスマが床にうずくまっていた。
素人目には分からないだろうが、アスカさんが神速のデコピンが炸裂させたのだ。
その威力たるや、空手でいうところの貫手突きに匹敵するだろう。
「あたしが食べたいときが食事どきなの。どゅーゆーあんだすたん?」
「…ってーな!! あにすんだよ、おふくろ!?」
あらら、額がバッチリ赤くなっている。お気の毒。しかも、もっと最悪な言葉を口にしてしまっている。
「…あんた、今、なんていった?」
「……!!」
アスマが慌てて口を押さえるが遅すぎた。
逃走態勢に移行するのに僅か0.5秒。しかしアスカさんのほうがもっと速い。
結果、床に打ち据えられてキャメルクラッチを喰らわせられるアスマ。
息子をギリギリと締め上げながらアスカさんは怒鳴る。
「このぉっ!! 美しいぃっ!! あたしがっ!! いうに事欠いて、おふくろですってぇ!?」
バンバンアスマは床を叩くが、さすがに私も助けに入れない。ただ合掌しながら眺めるだけだ。
とか観戦している間に、今度はドラゴンスリーパーに移行してしまっている。
「…いいんですか?」
慣れているとはいえ、さすがに悶絶するアスマが不憫になってきた。傍らのシンジさんに訊ねる。
「アスマは丈夫だから…」
苦笑いしながら、なんかズレた返事が降ってきた。
シンジさんが止めないなら、私にはどうすることも出来ない。
もともとはタブーを破ったアスマが悪いんだし。
碇家は実に不文律が多い。
いちいち羅列するのも避けるが、非常にお母さん、アスカさんに関する禁止事項が多いとだけ言明しておこう。
「…こんばんは」
床に伸びているアスマをリビングのソファーに寝かせていると、また顔見知りの人が入ってきた。
赤い瞳に信じられないほど白い肌。
渚レイさん。シンジさんの妹だと聞いている。
肩口まで髪を伸ばしていて、碇ユイさん、つまりシンジさんたちのお母さんとそっくり。
あまり表情の変化がなく一見無愛想だけど、とても優しい人だ。
問題は、この人の旦那さん。
つまり、血縁上は、アスマたちにとって叔父さんにあたる人物なのだが…。
「こんばんは、遊びに来たよ、シンジくん」
目も眩むようなスマイルをばらまいて入ってきたこの人は渚カヲル。
年齢不詳の美少年フェイスにスレンダーなスタイル。
甘い声に典雅な物腰で、街を歩けば道行く女性に騒がれるのだが、どういうわけか私は生理的に受け付けない。
顔を見るのも嫌、とかいうわけではないのだが、この人が近くにいるとどうしても心が落ち着かなくなるのだ。
「…ただいま」
なんとも疲れた声は、渚のおじさんの近くから聞こえてきた。
碇家次男のリュウジくん。
災難なことに帰り道で遭遇してしまったのだろう。よっぽど『可愛がられて』きたらしい。
おじさんに肩をポンポンと叩かれるその姿は、思いっきり疲弊して見える。
「お邪魔いたします…」
なんとも礼儀正しい動作で後ろから現れたのは、渚家一人娘のミレイちゃん。
透明感のある表情に清楚な仕草と、現代の若者に似つかわしくないほど古風で奥ゆかしい性格。
母親であるレイさんの指導の賜物かと思いきや、教育担当は父親のほうだというから世の中分からない。
「ご無沙汰してます、サトミお姉さま」
ゆっくり微笑むその姿は、玲瓏というかなんというか。
私も曖昧に挨拶を返し、キッチンに戻ることにした。
優雅さの勝負では分が悪すぎるし、どうもこの空気に馴染んでしまうと手伝いが出来なくなりそう。
シンジさんは十分すぎるほどそれを心得ていたらしい。
せっせともう料理の仕上げに入っている。
私もシンジさんが準備しておいてくれた牛肉を使ってサラダを仕上げる。
私が一品仕上げる間に、三品もテーブルに乗せてしまうシンジさんはさすがというべきか。
食器と出来上がった料理をリビングへ運ぶ間に、更に料理が三品上がってくる。しかも量もタップリだ。
六品プラス私の一品で、リビングの長いテーブルはたちまちいっぱいになった。
スパイスの効いた匂いに引かれ、客たちはフラフラとテーブルに歩みよってくる。
つまみ食いしようとしたアスマを蹴飛ばし、皿を運ぶのを手伝わせる。
グラスを適当にお盆に乗せて運び、並べた。
これで夕食の準備は完了。
エプロンを外してから、改めて湯気の立つ料理を見る。食欲をそそる匂いを発したそれは、本当にどれも美味しそう。
思い思いにみんな席につくが、誰も箸を付けようとはしない。
あの人が来なければ始まらない、始められない。幼い頃は当たり前だと思っていた不思議な慣習。
「お待たせ〜」
元気よくリビングへ入ってきたのはアスカさん。
黒とオレンジのコントラストが目にも鮮やかなパーティドレスを着たランドレディは高らかに宣言する。
「さ、始めましょ!!」
一斉に箸が動き始める。
先ほどケーキを食べたばかり、とブーたれたアスマも食べること食べること。
鶏の炭火焼きを一枚平らげ、ココナツミルク入りの茶碗蒸しを盛大に啜りこむ。
これで太らない体質なのだから羨ましい。
サラダにパクついてるので、さりげなく訊いてみた。
「ねえ、そのサラダ、美味しい?」
「ああ、さすが父さんの作る料理だよなー」
幸せそうな表情で箸を動かすアスマに対し、私の内心は複雑だ。
このサラダが今回唯一私が作った料理。牛肉入りのサラダ、ヤム・ヌアだ。
シンジさんの作った料理と間違われるほど上達してるのは嬉しいが、本当は誰が作ったのか気づかれないのも寂しい。
諦めて、私も料理をつまむ。
海老のすり身揚げ。たしかトート・マン・クンとかいったっけ? 蜂蜜のタレを付けて口に放り込んだ。
うん、美味しい。
「サトミは何を飲む?」
気が付くと、斜め後ろに父さんが立っていた。
「あ、ウーロン茶お願い」
うなずいてホームバーへ向かった父さんは、グラスにウーロン茶を自分の分のウイスキーを持って戻ってくる。
私にグラスを手渡そうとして、父さんの右腕は宙で止まった。
気がつけば、父さんだけではない。リビングにいるみんなが制止している。
そして、その視線は私の背後へと集中していた。
「…?」
振り向いた私の視界には。
黒い服に黒いサングラス。
頭髪に白いものが混じっているものの、背筋はピンと伸びてかなりの長身。
思わず後ずさりをする私の頭上で、白い手袋がサングラスをつと上げる。
「…邪魔をする」
重々しい声。
碇ゲンドウさん。つまり、アスマたちにとっての祖父だ。私は大オジサマと呼んでいる。
更に背後から二つの影が出てきた。
一人は銀髪の品の良いオジサマ。
もう一人はいわずもがなリツコオバサマだ。
一番最初に我に返ったのはシンジさんだった。
「いらっしゃい、父さん!!」
本当に嬉しそうな声を上げる。
次に歓声を上げたのは、その子供たちだ。
「うわっ、おじいちゃん!!」
「いらっしゃい、おじいちゃん!!」
「うわ〜い、おじいちゃんだ!!」
声をかけられた方はというと。
「うむ」とか「ああ」ともつかぬ声をあげ、うつむき加減でさっさとリビングを横切りお座敷へといってしまう。
「お義父さんも来るなら来るって連絡くれればいいのに」
呆れたように腰に手を当てるのはアスカさん。
ちなみに、『お義父さん』の発音を表記すれば『おとーさん』になる。
「ごめんなさいね」
代わりに手を合わせたのはリツコオバサマ。
シンジさんの義母にして、私の母さんの同級生というなんとも奇妙な縁で結ばれている。
「碇のヤツめ、すでに連絡済みだといってたくせに…」
などとブツブツいって、それでも嬉しそうなのが銀髪の老紳士冬月さん。
この人とは直接的な親戚関係はないものの、シンジさんの実母であるユイさんの学生時代の恩師だとか。
以上、私が大人たちの会話の断片から組み上げた相関図だ。
正確性に全く保証はないうえに、まだまだ謎も多いけど。
「父さんも料理食べるでしょう? なんなら、和風のものでも作ってこようか?」
慌ただしくエプロンを着け始めるシンジさんを、大オジサマは片手で制する。
「…急に来たのは私のほうだからな。料理の方も、これで問題ない」
お座敷にどっかりあぐらをかき、ちゃぶ台に両肘をついて、目前で指を組み合わせるいつものポーズ。
ずっと子供のころ、アスマと執務室へ遊びに行くたび、その格好をしていた。
「あなた、そのポーズはやめてください」
リツコオバサマがいさめるが、それより速くミコトちゃんがアクションを起こしていた。
「おじぃいちゃ〜ん」
小柄な身体が大きな祖父の身体へと飛び込んで行く。
たちまち相好を崩す大オジサマ。
サングラスの目元に笑い皺が刻まれ、口元が大きくたわむ。
全く、この表情の変化は、いつ見ても見物だと思う。
大オジサマが勤めているネルフという研究所では、三回見ると願い事が叶う、といわれているくらいレアなものなのだ。
一気に和んだ雰囲気の中、母さんが更なるアルコールを投入したらしい。
リビングは右肩上がり的な盛り上がりを見せる。
イマイチ乗り切れない私は、もっぱら空いたお皿やグラスを片づける役目。本当に損な性分だ。
「サトミ〜、ろんれるほ〜?」
「きゃっ!?」
肩口にまとわりついてくる影を突き飛ばせばアスマだった。
どうやらお酒を飲まされたらしい。いや、飲んだのかもしれない。
もはやグデングデンで意識もモウロウとしているらしい身体を揺すっていると、渚のおじさんが隣までやってきた。
「う〜ん。これはいけないね、すぐに布団に寝かせたほうがいいね」
そういって、ひょいとアスマを抱え上げるおじさん。
向かった先は、いつのまにかリビングの隅っこに用意されている敷き布団。
鮮やかな手つきで布団をめくり、アスマを横たえると、当然のように自分も隣に潜り込む。
「それじゃ、おやすみ〜」
「……」
私は無言で近づき、布団を引っぺがす。
ついでに二人の男どもを蹴り出してやった。
「乱暴だなあ、サトミちゃん」
全く悪びれた様子もなく、おまけに爽やかに渚のおじさんは笑った。
「あのですね、添い寝する必然性がないでしょう?」
とりあえず一般論を振りかざす私。
「ははは、そんなに目くじらを立てないでくれよ。単に、布団の中で互いの友情を確かめあってただけさ」
「叔父と甥の関係で、そんなみょーちくりんな友情を成立させないでください!!」
私がうがーとばかりに唸っていると、疾風のように動く影があった。
影は渚のおじさんだけをまた布団に放り込むと、それをゴロゴロと転がし、かつロープをかけて簀巻きにする。
「迷惑をかけたわね。アスマくんを連れていきなさい」
息も乱さずケロリといったのは、渚夫人のレイさんだった。
よくよく見れば血が透けるように頬が紅潮している。ひょっとして酔っているのだろうか?
とにかく逆らっても益はない。だらけたままのアスマに肩を貸して立たせリビングから待避することにする。
廊下へ出る前に賑やかな声が名残り惜しげに追いかけてきたが、仕方がない。
「わーい、おじいちゃん、だ〜いすき!!」
「むう…」
「はっはっは、碇もミコトちゃんにかかっては形無しだな?」
「この人はとことん孫には甘いのですよ? ふふ」
「お義父さんっ、だからといって小切手でお小遣いなんか上げないでください!!」
アスマを二階の自室へ放り投げて来た私は、長い廊下を歩いて浴室へと向かう。
広い脱衣所の前に『男子禁制』のプレートをぶら下げ、更に広い浴室へと足を踏み入れた。
まったく、碇家に来たときの楽しみといえば、シンジさんの料理とお風呂に尽きる。
天井も高く、ひたすら大きな浴槽。
夏にはプールとして利用されることもあるこの一般家庭には不釣り合いな大浴場は、私にとって馴染み深いものである。
昔あれだけあった滑り台やら浮き袋やらの遊び道具が姿を消しているのが少し寂しかった。
子供たちはみんなお風呂で遊ぶような年齢ではなくなったからだろう。
よく身体と髪を洗い、私は浴槽へ浸かる。
相変らず丁度いい温度。それが24時間入れるというのだからとんでもなく贅沢な話だ。
浴槽の縁に頭を載せて手足を伸ばす。
身体全部が浮き上がる感触。これだけ伸び伸びすると、本当に気持ちいい。
不意に脱衣所に繋がる扉が開く。
反射的に身構えてしまう私。
さすがに男性陣は入ってこないと思うけど誰だろう?
もしかして母さんかしら?
湯気をかき分け現れたのは、なんとアスカさんだった。
「あ、やっぱりサトミちゃん? 一緒にさせてね?」
「え? あ、はい」
ニコニコ笑いながらアスカさんはたちまち身体を洗い終え、浴槽へと入ってきた。
私は半分硬直しながらその光景を眺める。
アスカさんの完璧なプロポーション。
とても子供を三人も産んだようには思えない。
私の体型も年齢相応、いや、一般よりいい線をいっているとは思うけど、次元が違う。
なんていうか、同性として羨ましいというより絶望してしまいたくなるような綺麗な身体だ。
「どうかした?」
私の視線に気づいたのだろうか。
「な、何でもありません!!」
赤面し、慌てて浴槽を出ようとしたら、むんずと腕を掴まれた。
「逃げないでよ。お話しましょ?」
私に拒否権などあるはずもない。
ゆっくりと浴槽の中へ再度肩を沈めた。
にへ〜と笑いながら私を見つめるアスカさん。もしかしたら酔っぱらっているんだろうか?
次に飛び出したのは、私の推測を裏付けるかのような質問。
「ねえ、サトミちゃん。あなた、アスマのこと好きでしょう?」
「……!!」
反射的に訂正しようとして、出来なかった。
私を見つめるアスカさんの端正な顔。浮かんでいる微笑み。
これは疑問じゃなくて確認だ。
そう理解したとき私は嘘をつくという選択肢すら忘れていた。
結局言葉を飲み込み、顔半分までお湯の中へ入れ、ぶくぶくと泡を立てる。
今ならメフィストフェレスと対峙したファウスト博士の気持ちが分かるような気がする。
「良かった」
ますますニッコリと笑うアスカさんは、浴槽にもたれかかり胸を反らした。
否定をしなければ肯定と見なす。
前向きというよりはデッドオアアライブ的なアスカさん流思考。
「…なにが良かったんですか?」
ボソボソと抗弁するように訊ねる私。
「ディズニーアニメの、あれ、知ってる?
なにもない空中をスタスタ歩いて、その途中で気づいて目が飛び出して、ものすごいスピードで落ちていくってヤツ」
「はあ…」
全然脈絡のない話に、私は首をひねる。
「アスマはね、親であるあたしがいうのもなんだけど、顔も頭もいいでしょ?
でも、そういうところがあるのよ。とんでもなく危ない場面に遭遇して、それでも気づかないってことが」
ようやく先ほどの喩えが頭に入ってくる。
納得できる。いい得て妙だ。確かにアスマにはそういうところがある。さすがに親だ。
でも…。
「アスマの事だから、指摘しないと気づかないまま宙を歩き続けて対岸に着いちゃう可能性が…」
「………あ、ありうるわね」
浴槽内へ半分ずり落ちながらアスカさんも賛同してくれた。
「と、とにかく、アスマのことよろしくね、サトミちゃん」
「…っていわれても…」
私は胸の前で指をモジモジさせる。
「私は、そ、その、アスマは幼なじみで…」
はっきりと言葉にするには抵抗があった。でもこれは紛れもない事実。
「仮にアスマが好きだとしても、彼のどこが好きなのか、分からないです…」
「全部じゃない?」
え?
私が目を見張っていると、アスカさんは破顔した。
「じゃあ、嫌いなところがあるの?」
「あうう…」
俯いて浴槽に顔を沈める私を、アスカさんがニヤニヤと笑いながら見ている。
確かに、なにかと欠点が多いヤツなんだけど、好きとか嫌いとか別問題だ。
迷惑を被ってはいたけど、半分私が無理矢理首を突っ込んでいるみたいなもので、アスマもそれを拒否するわけでもなくて…。
「羨ましいなぁ」
天井を見上げて、アスカさんは歌うようにいう。
「何がですか…?」
混乱が収束しない頭で、どうにか私は訊ねる。
「好きだから、どうでもいいのよね、他のこと」
「……」
「好きになっちゃたから、他のことはどうでもよくなる、とは違うわよね?」
…違うのだろうか? よく分からない。
「あたしの旦那の場合、昔はそりゃあ情けないヤツだったわよ…」
懐かしそうに目を細め天井を見上げ、アスカさんは続けた。
「内罰的で消極的で主体性なんか全然なくてさー」
なんかヒドイいわれよう。今のお料理超人のシンジさんからは想像もつかない。
「外見だってナヨナヨしててさ。いっつも人の顔色伺うような目でこっちを見てたっけ…」
顔の前で指と指を付き合わせ、アスカさんは微笑む。
「だけど、好きになっちゃたら、そんな欠点でどうでも良くなったのよ。容姿なんか、見た目なんか関係なくなったわ。
それ以前にシンジも初めてあったころと全然変わったしね…」
気づけば、蒼い瞳が私を見てる。
大きな瞳に私が映っている。
「サトミちゃんは違うでしょ? ずっと、そう、産まれたときからアスマのこと好きでいてくれたんじゃない?」
思わず私は湯面へ視線をそらしてしまう。いけない、益々顔に血が上ってきた。
「一番一緒にいた時間は、実の親であるあたしたちよりサトミちゃんのほうが長いし。一番理解してくれているのも…。
って、ごめん、気を悪くした? ちょっと冗談が過ぎたかな。そうあって欲しいなー、っていう親の願望だから」
黙り込んだ私をどう見たのか、アスカさんは一転謝罪にも似た声をかけてくる。
「いえ…。たぶんそうだと思います…」
私のか細い返事は、湯気に紛れてしまっても分からないほど小さな声だった。
ところが、アスカさんの耳にはしっかり届いていたらしい。
「母さんの耳は文字通り地獄耳なんだぜ?」なんてアスマがいっていたのを思い出す。
「そりゃあ結構♪」
にっこり笑い湯面に散らばった金髪を束ねている。
仕草全てが色っぽくて、それでも健康的で――――――。
私と18歳しか違わないのに。
私も18年後に、アスカさんみたいになれるだろうか。
それでなくても、4年後、結婚して子供を産んでいるんだろうか。
だとすると、相手は。
なにか、頭の中心からグラグラしてきた。身体がこれ以上この話題を追及することに対する拒否反応を起こしているよう。
どのみち未来の話だ。まだ考えるのは早すぎる。
いそいで頭を切り換えると、ふと年齢のことが引っかかった。
アスカさんシンジさんと私の母さんの年齢差。15歳。
脳裏に浮かぶのは、何かの本で読んだ一文。
『5歳離れていれば兄弟。25歳離れていれば親子。15歳という年齢差が一番曖昧』
友人関係に年齢差は関係ないだろう。
だけど、どうも母さんたちのつき合いは、私たちが産まれる前からあったらしいのだ。
高校生と三十路を過ぎていたであろう母さんたちの間になにがあったのだろう。
唯一分かっているのは、シンジさんたちは母さんたちに恩義を感じているということ。
その証拠は、二人の子供たちの名前。
ミコトちゃんは母さんの名前であるミサトをもじって、リュウジくんも父さんのリョウジをもじったもの。
子供たちは恩人の名前を貰った、というのがシンジさんの弁。
ちなみに私の名前の由来を母さんに尋ねたら、平然とこういわれた。
「ミサトって十回いってみて」
冗談であって欲しいと切に願う。
せっかくの機会だから、母さんとシンジさんたちの馴れ初めを聞こうと思ったら、アスカさんが浴槽を出るところだった。
「さーて、髪でも洗いますか」
背中まである綺麗な髪だ。洗うのはさぞ時間がかかるだろう。
かくいう私も長湯が過ぎたらしい。のぼせる寸前だ。
「先に上がらせて貰います」
浴槽を出るとき、ちょっとだけ足がふらついた。
肩越しに声だけかけて浴室を出る。
碇家に常備してある替えのパーカーとハーフパンツだけをはいて二階へ上がる。
L字型の、これまた広いベランダへ出て夜風を浴びた。
夜空には星が瞬き、火照った身体に気持ちいい。
これで飲み物でもあれば完璧だ。階下にいって取ってこようかしら。
そんなことを考えてると、先客が声をかけてきた。
「よ」
ひょっこりベランダの向こうに上げられた顔はアスマだった。
「…そんなとこでなにやってんのよ?」
驚きを顔に出さないよう返事をする。
「酔い覚ましで涼んでるんだ。おまえもこいよ」
拒否するまもなく腕を掴まれ引っ張られた。
柵を越えた向こうの屋根にはご丁寧にシートが引いてあり、ビニール製の簡易枕まである。
「乱暴にしないでよ…」
私の悪態を無視したアスマは仰向けに寝っ転がる。そして傍らにあったスポーツドリンクをボトルからラッパ飲みした。
「おまえも飲む?」
「うん」
喉が渇いていたから丁度いい。
でも、これって間接キスよね、なんて気づいたのは、グビグビ大量に飲んだあと。
…今さら気にしてどうする?
幼い頃から回し飲みどころか回し食いなんて当たり前だったじゃない。
今日に限ってどうして心臓がいうことをきかないんだろう。
チラチラと隣を見てしまうんだろう。
夏の香りをはらんだ夜の風が首筋を吹き抜ける。
階下から聞こえてくる微かな喧噪が、世界が満ちているあかし。
なにか、とてつもなく大切なものの中にいる気がした。
言葉にできない。形容する術がない。
ただ月光に照らされた舞台と空気が、涙が出るほど暖かく心を満たして。
ほろりと、涙がこぼれおちた。
こんな日がずっとずっと続けばいいのに。
「なに泣いてるんだよ…」
隣から、おどおどした不安そうな声。
「なんでもないわよ」
突き放すようにいって涙を拭う。
まさかアンタのせいよ、なんて言えない。
スクッと立ち上がったアスマは、クルクルと屋根の上でトンボを切った。
私が突然の行動にビックリしていると、抜群の運動神経を見せたアスマは、右腕を胸に、左腕を背中につけてこちらに一礼してみせた。
「真夏の夜の道化芝居。お代は見てのお帰りで」
思わず私は噴き出す。
「なにそれ? あんた妖精パックのつもり?」
「見えない?」
両手を上げておどけてみせるアスマ。
長目の髪にバランスの良い長い手足。思わず、見える、といいそうになるのをどうにか押しとどめる。
代わりにペットボトルを軽くあげ、肩をすくめてみせると、アスマはチェッと舌打ちした。
またもや鮮やかなバク転を披露して、両足をついて見事に着地する。息が切れてないのはさすがだ。
「ではみなさまには、ごきげんよう、おやすみなさい」
慇懃に頭を下げて、最後にもう一回バク転をしようとして―――――。
ペットボトルを放り出し駆けだした私は、どうにか瀬戸際でアスマのシャツの袖口をキャッチすることに成功する。
背後にはもう屋根がないのに宙返りしようなんて。
「まったく、あんたは私がいないとダメなのよね」
「さ、さんきゅ…」
顔を引きつらせ片足のつま先だけを屋根の縁に乗せながら、アスマはそれでも不敵に笑った。
確かにこの程度の高さから落ちても、どうってことはないだろう。
私も笑顔を返してアスマの身体を引き上げようとしたとき。
掴んだ手の中のシャツがびりっと音を立てた。
驚きに歪むアスマの顔がスローモーションでハッキリ見えて。
あ。
直後、階下から聞こえてきた声。
「…なんでアスマが上から降ってくるんだい?」
「ふっ、アスマくんに踏まれて死ねるなら本望さ…」
「屋根の上で遊ぶなっていったでしょ、このバカ息子ぉっ!!」
おしまい