あるところに、少年と少女がいました。
彼らは、
尋常でない出会いをして、
尋常でない生活を経て、
尋常でない戦いを勝ち抜き、
無事結ばれました。
そんな彼らには、若くして三人の子供がいました。
三人とも、両親の美徳を受け継いで、大きな愛情のもとすくすくと育ちます。
でも、子供のときは、なぜか親に逆らいたくなる時期があるもので。
とくに女の子は色々と大変なのです。
というわけで、今回は碇家末っ子、ミコトちゃんのお話です。
夫婦絶唱・思い出ボロボロ其の参
ファザコンに至る経緯。そして・・・
小学校の放課後。
どこか遠くから微かに流れてくるピアノの音。
閑散としている空気を切り裂くように、廊下にパタパタと足音が響く。
女の子に手を引かれたスーツ姿の成人男性。
この男、どうにも教師ではない。
かといって、父親にしては若すぎるように見える。
が、正真正銘、この二人は親子であった。
碇シンジ33歳。
その娘である碇ミコト12歳。
父親の手を引いたまま、娘は人気のない校舎裏まで来てようやく立ち止まる。
「どうして、今日、パパがきたのよ!?」
振り向きざまに叱責の声。
平均身長より低い娘から、はるか下方から睨みつけられて、シンジはポリポリと頬を掻いた。
「そんなこと言ったって、アスカは今日、どうしても外せない用事があるって、昨日話したろ?」
娘が口篭もるのが判る。その内部で怒りが渦巻いているのが見て取れた。
普段、猫の皮を十二枚は被りこんでいる子だ。
今は、その本質が剥き出しになっている。
「まったく、あのセクハラ教師、今日こそ罷免できると思ったのに・・・」
娘が憤慨している理由は、シンジも把握していた。
体育教師が、女生徒に対しいやらしい視線、はては行為に及んだという。
その内容、犯罪性自体は疑う余地もないが、娘は父親が先ほどの保護者会でそれを声高に糾弾してくれなかったのが不満らしい。
「そんなこといったって、僕たち保護者には直接あの先生をどうこうできる権利はないよ。
それに、校長先生も大変遺憾だ、善処するって、約束してくれたし・・・・」
穏便派の急先鋒とでもいうべきシンジである。
彼は、誰にでも間違いや誤解がある、と信じているし、出来れば平等にやり直しのチャンスを与えたいと考えている。
父親の内心などさっぱり斟酌せず、娘は更に噛み付いてくる。
「そんなの官僚答弁にきまってるじゃない!! 謹慎処分とか訓戒処分ですんだらどうするの!?
完全に命脈を断つまで安心できないわ!!」
「・・・・・・・・・・・」
「まったく、ママが来てくれてたら、即座に懲戒免職だったはずなのに・・・」
シンジは隠れて小さな溜め息一つ。
女親と娘の繋がりというか、女性同士の連帯というか、シンジには理解しかねるものだ。
ミコトはカッと顔を上げ、右拳を握る。
「ほら、ママもよくいってるでしょ!『力なき正義は悪なり!!』って!!」
「それをいうなら『正義なき力は悪なり』だよ・・・・」
ああ、この子は、僕の娘というよりアスカの娘なんだなあ。
シンジはしみじみと強烈に意識する。
「む〜・・・・・」
上目遣いでなお睨んでくる娘を見下ろす。
不意に、その小柄な姿は翻り、駆け出していた。
「ちょ、ちょっと、ミコト!!」
慌てて後を追いかけるシンジであるが、すばしっこい影は既に校門を出るところだった。
第三新東京市のとある喫茶店。
その窓辺の席で、鈴原ヒカリは腕時計に視線を落とす。
ちょっと早く着きすぎたかな・・・・。
約束の時間まで15分ほどあった。
予定より早く研修が終了したのは良かったが、時間を持て余してしまっていた。
暇なら、街でも歩けばいいものだが、懐かしむべき光景の数々は、殆んど姿を変えてしまっている。
それは、あの最後の戦いが苛烈を極めたことを意味すると同時に、彼女の胸に微かな痛みをももたらす。
愛する人の・・・今の夫の片足を奪った忌むべき記憶。
克服こそしていたが、積極的に想起したいわけではない。
そのようなわけで、研修終了後、ヒカリは待ち合わせの喫茶店に直行し、いささかボーッとしながら紅茶なんぞを啜っているのだった。
二杯目の紅茶を飲み終えようとした時。
喫茶店の入り口に吊るされたベルが鳴る。
何気なく視線を転じ、ヒカリは絶句した。
彼女はいうに及ばず、喫茶店じゅうの客の視線が集中する。
「あ、ヒカリー!!」
視線を一人占めにした張本人は、悠々と店内を横切り、ヒカリの前の席に腰を降ろす。
ややもすれば呆然とした表情で注文を取りに来たウエイトレスに、チョコパフェとメロンソーダを注文する。
そうしてから、改めてヒカリに向き直った。
「お久しぶり。元気そうね、ヒカリ?」
ヒカリは目を丸くしたまま応じる。
「あああああ、アスカ、その格好・・・?」
「え? 似合うっしょ?」
アスカは頭を傾けつつ、微笑む。
赤いゴムで止められた金色のツインテールが横に流れる。
更にヒカリの目を見張らせるのが、彼女のファッションだった。
ジーンズの上下に丈の短いタンクトップ。
とても三人も子供を産んだようには見えない細い腰には、小さなおへそが覗いている。
しかも抜群に似合っているのだ。
見た目の実年齢からマイナスすること10歳は軽い。
いま、私たちは、どんな風に他の人に見られてるんだろう?
ヒカリの脳裏に恐ろしい疑問が浮かぶ。
まさか、女生徒を呼びつける教師に見られてるんじゃ・・・・?
自分は教師だから致しかたないとしても、そうだとしたら悲しすぎる。
私とアスカは同い年なのに・・・・・。
「ほんと久しぶりね、アスカ」
それでも気を落ち着け、ヒカリは親友へと微笑んだ。
「うん。あんたがこっちに来るのは・・・最後は妊娠する前だったわよね? だとすると二年ぶりくらいかな?」
アスカはテーブルに両肘をついて言う。
「そうね。たしか」
「じゃあ、メグミちゃん、もう一歳かあ・・・。残してきて大丈夫なの?」
「ああ、それは、旦那が育児休暇とっているから」
「へえ?」
アスカの興味津々な視線に、ヒカリは説明を始めた。
「あの人ったら、また上とイザコザ起こしてね・・・。で、停職処分にかこつけて、無理やり育児休暇とってるの」
「また? 懲りないわねぇ」
ころころとアスカが笑う。
妻とくらべて甚だ不器用、かつ熱血教師鈴原トウジは、地元ではちょっとした有名人であった。
アナログを絵に描いたような彼は、体罰禁止だとか平等評価などというものを鼻にもかけない。
鉄拳制裁、怒声など日常茶飯事だ。
PTAと揉めるのももはや定例であったし、訓戒処分など数え切れぬ。
それでもなお定職をまっとうできるのは、生徒たちから絶大な信頼を寄せられてるからに他ならない。
なんせ、殴られた生徒本人が、処分軽減の嘆願書の署名を集めるくらいだ。
「それでも、今回はちょっと大ごとだったのよ」
ヒカリは苦笑して続ける。
「生徒が街のチンピラ賭博でものすごい借金背負わされて・・・。最初は話し合いしたんだけど、埒があかなくて。
あの人ったら、滅茶苦茶怒って、ダンプカーで、元締めの事務所に突っ込んじゃったのよね」
と上品に笑う。
「・・・・・けっこう、そっちもバイオレンスなことしてんのね」
今度はアスカが言葉を失う番だった。
それからも一通り昔話に華が咲く。
でも、結局、話が近況の、それも家族の話に落ち着くのは、二人とも家庭に入った証左だろうか。
「今日は、旦那さんは、どうしてるの?」
「ん〜」
アスカはパフェのスプーンをくわえたまま、
「たしか、小学校で保護者会だったかな? 娘がなにか問題おこしたんだっけ?」
「そんな適当な・・・」
「だって、あたしの娘だもの。不正はしないわよ。信頼はしてるわ」
アスカの自画自賛ともとれる発言に、ヒカリは苦笑を浮かべたまま紅茶をスプーンでかき回し、コメントを控えた。
「ほんと、あの子ったら、ソトヅラが良くて、如才なくて・・・・。昔のあたしそっくりね」
「ふーん、そんなにそっくりなんだ」
「・・・ときどき、むしょうに殴り倒したくなるわ」
思わずヒカリは紅茶を噴き出す。
慌ててテーブルをお手拭で拭く親友に気づかないのか、アスカは憤然と続けた。
「だって、昔のあたしはあんな風に振舞ってたってことでしょ? 今見ると、寒気がするわ。
あんないい子ぶりっ子してたんて思うと、恥ずかしくて死にそう・・・・」
・・・自分の思い出との間に大きな齟齬があるようだが、あえてヒカリは黙る。
「おまけに、多分、好みまで一緒よ。困ったもんだわ」
「そ、そういうものかしら・・・。でも、好みが一緒でなんで困るの?」
ようやくヒカリも口を挟む。
アスカはメロンソーダの残りを盛大に啜り上げてから答えた。
「ようはマセてるってことよ。同年代の子とかじゃ全然食い足りないでしょうね。
かといって、ちょっと年上の男の子ってのも、兄弟を見なれてるから、なまじの器量じゃ受け付けない。
となると、もう少し年上・・・・。あたしの若い頃は加持さんがいたからなあ」
・・・・あなたが『若い頃』なんて形容するのは嫌味も過ぎるわよ。
と、ヒカリは苦笑とともに顔に刻んでみせたが、アスカは気づかない。
さきほどの自分の発言に触発されたのか、一人で考え込んでしまっている。
「・・・ちょっとまって? するってーと、シンジが・・・。ヤバイかな?」
「・・・・?」
碇ミコトは、黄昏の街を歩いていた。
どうにも腹の虫がおさまらない。
母に比べて父の優柔不断ぶりは目に余る。
最近とみにカンに触るのだ。
なんでだろう?
・・・その疑問はとりあえず棚上げしておいて。
グレてやる!!
と彼女は考えていた。
成績優秀、頭脳明晰なこの少女にしては、どうにも思考がアナログである。
まあ、一般論的にこの年頃の少女の性格を分析すると以下のようになる。
突飛な行動を取るのは、得てして対象となる人物の関心を引くためだし、結果、その対応のされ方如何によって、
自身のフラストレーションの発散や認識の溝を埋めるという社会的、精神的成長に他ならない。
それを自覚するのは、むろん12歳の少女にかなうものではない。
とにかく、自分ではどうにもしがたい衝動に突き動かされ、ミコトは夕暮れの繁華街を闊歩する。
鋭い視線が上げられ、その先には高級ブティックの看板が。
少女の姿が、躊躇なくその店内へと消える。
・・・・・・30分後。
ブランド品に身を包んだ少女の姿が現れた。
颯爽と夜の街へと繰り出せば、殆んどの道行く男性が振り返る。
やや低い身長も、高いピンヒールでカバー。
メイクも大人っぽいものにしており、完璧だ。
とても年齢相応には見えない。
母親にさんざんオモチャにされた甲斐がある、というものだ。
たいてい、この年頃の女の子は、女親から色々化粧されたりして遊ばれるものである。
ちなみにこれらはすべて一括払いである。
これは、両親が子供に法外な小遣いを与えているわけでは決してない。
もともとこの少女自体無駄使いをするたちではないのだが、原因はお髭のおじいちゃんである。
謎の秘密組織の司令官とかいうよく判らない経歴の持ち主である祖父、碇ゲンドウ。彼は孫にはすこぶる甘い。
孫であるミコトもそれを十分心得てるわけで、お小遣いがたりなくなるとよく無心に行く。
ちょっと抱きついて、その髭に軽く頬擦りでもすれば、6桁のお小遣いは固い。
軍資金も時間も十分にある。
夜の街は刺激に満ち満ちているように見えた。
戸惑いと不安がないわけではない。
逆にここまでしてしまった為か、彼女自身ひっこみがつかなくなっている。
自身を追い込んで選択肢を潰してしまう、というのは、彼女の母親譲りの悪癖の一つでもあった。
ええーい、なんとかなる!!
微妙に当初の目的とずれ始めたことも気づかず、少女は人波に飛び込んだ。
何軒目のクラブだったろう。
勧められてコーラをのんでから、気分が一層ふわふわしていた。
薄暗い店内では、誰もが自分が小学生とは気づかない。
外見年齢相応に扱ってくれるし、男たちの恭しい接し方が彼女のプライドをくすぐってくれた。
それ以前にこの少女の度胸もたいしたものだ。
脅えることなく、街の夜の顔を楽しんでいる。
しかし、やはり少女の思惑より、夜の闇はなお深かったのである。
月明かりの下、華奢な影が路地裏へとまろび出る。
その足元が覚束ない。
ああ、ヒールなんか履かなきゃ良かった。
歩きにくいったらありゃしない・・・・・。
火照った頭でぼんやりと考える。
普段からはありえない思考が続いているのに、彼女は気づいていない。
背後から複数の気配が近づいてきても、ぼんやりとしたままだ。
それが、いかにも柄の悪そうな若者の4人組でも、なお少女はボーッとしたまま。
黒い瞳は、熱に浮かされたように潤んでいる。
「・・・・どうする、もういいか・・・?」
「大丈夫だろ・・・」
「じゃあ・・・・」
「・・・・・ああ・・・」
ボソボソとしゃべっている男たち。
うるさいなあ、もう。
ミコトは耳を貸さず、路地裏をどんどん進む。
足がなおもつれ、壁に幾度か身体がぶつかる。
「ねえ、きみぃ?」
背後から、慣れ慣れしい、まとわりつくような声。
無視してると肩に手をかけられた。
振り払おうとした瞬間。
少女の華奢な身体は組み敷かれていた。
「・・・・・・・・・・・・・!!」
叫ぼうとした口が塞がれる。
油臭い手。
そして、闇を圧倒するかのように狂気を湛えた4対の瞳が、少女の背中に氷塊を滑り込ませた。
封じられた口の中に悲鳴が渦を巻く。
恐怖が思考を氷つかせる。
更に幾つもの手が伸びてきて、少女のブラウスとスカートにかけられた時――――――。
「ミコトっ!!」
組み伏せられた少女が、必死で視線を上げて声をした方を向く。
「ふぁふぁ!!(パパ!!)」
路地の向こうから、肩で息をする男のシルエット。
上弦の月を背負い、碇シンジがそこにいた。
「ああん? おっさん、誰よ?」
チンピラの一人がドスの聞いた声を出す。
「よかった、探したよ、ミコト・・・」
場の雰囲気が読めないか、シンジは安堵した声を出す。
チンピラたちは一瞬怯んだように見えたが、即座に吠え立てる。
「ひっこんでろ、てめえ!!」
「・・・・ぶっ殺すぞ、こらぁっ!?」
そこで、ようやくシンジはチンピラたちに気づいたような素振りを見せる。
「ああ、すみません。そこにいる子は、僕の娘なんです。離してもらえませんか?」
呆気に取られるチンピラ。
次にシンジの口から出てきた言葉は、娘を心底幻滅させるものだった。
「お金だったら、いくらでも上げます。警察に届けたりもしません。だから、どうか娘だけは・・・」
次の瞬間、シンジの頭は盛大に殴り飛ばされ、壁に激突する。
チンピラの一人が、落ちていた角材を振るったのだ。
さらに他の連中は、よってたかって蹴りつける、殴りつける。
なお一人に組み伏せられたまま、ミコトはこの暴虐に目を見張っていた。
塞がれていた口は解放されていたのに、悲鳴をあげるのさえ忘れていた。
目前で父親が血ダルマにされていることはもちろんだが、それに先立つ発言が、彼女の心に深く突き刺さっている。
いくら普段頼りなさそうにしていても。
口で、平和主義だけを唱えていたとしても。
いざとなったら、身体を張って自分を守ってくれると思ったのに・・・・・。
黒い大きな瞳から、大粒の涙が幾つもこぼれ落ちる。
そう信じていた父親は、いま、ぼろ布のようにされて路地裏に転がっている。
一方的な暴力にようやく飽きたらしい若者たちは、次の目標を少女に定めた。
少女のもがく両手両足が押さえつけられる。
ブラウスが引き裂かれた。
この少女、小柄なれど均整にのとれた体躯のそこかしこは十分に成長している。
逆に、未成熟ゆえのアンバランスさが嗜虐心を刺激した。
くぐもった悲鳴が闇に呑みこまれそうになった刹那。
「・・・・娘には手を出さないでくれ、っていったろ?」
若者の一人が不意に体を上げた。
否。無理やり立ち上がらせられている。
音もなくシンジはチンピラの一人に近づき、無造作に片手でその頭を掴み上げていたのである。
低い声にはぞっとするような響きがある。
「あああああ、があああああああああああっっ・・・・・」
シンジに掴み上げられた男の口から苦痛の声が漏れる。
メキメキと頭蓋が悲鳴をあげているようだ。
他のチンピラも唖然とし、変貌した先刻までの被害者を見上げてる。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」
シンジの腕が振り払われると、掴まれていた男の側頭部が路地裏のコンクリートの壁面と派手にキスした。
そのまま数メートル宙を飛び、青いポリバケツの中にジャックポット。
むろん、バケツに納まったその身体は微動だにしない。
「・・・・・ば、化け物っっ・・・・・・・・!!!」
他の三人は少女を放り出し遁走する。
路地裏から、大通りへ。
更なる不幸が待ち受けるのも知らずに。
あんなのは、悪夢だデタラメだ!!
人間離れした芸当に、非現実的な光景。
凄まじい殺気に、身体は本人の意思を裏切り逃走を開始していた。
もうすぐ路地裏を抜ける。
その寸前。
三人の逃亡者の前に同数の影が立ちふさがった。
うら若い(ように見える)美女。
そのほか二つは、どうみても十代の少年たちだ。
チンピラたちは知らなかったが、この夜、第三新東京市でもっとも危険なトリオであった。
唐突な出現に、思わず足を止める若者たちに美女が告げた。
「あたしの旦那をぼこぼこにしておいて、ただで帰れると思ってるんじゃないでしょうねえ・・・・?」
先ほどものに負けず劣らず背筋のすくみ上がるような声を響かせているのは、碇夫人、アスカその人である。
事態を把握しかねている先頭のチンピラに、彼女はツカツカと歩み寄ると、その完璧な脚線美を一閃させた。
股間を蹴り上げられ、両膝を突いて悶絶するチンピラA。
間髪置かず、アスカは相手の膝を踏み台にして飛び上がり、その顔面に強烈無比な膝蹴りをお見舞いする。
「うひゃあ、ありゃ、しばらく固形物は食えないな・・・」
そう冷静に批評したのは、少年の片割れ、両親の美徳と業を全て受け継いだ薄倖の美少年(自称)碇家長男、碇アスマだった。
彼自身、いま、別のチンピラをフロントチョークスリーパーで締め上げた挙句、その顔面に蹴りをかまして昏倒させたところである。
そして、もう一人の少年、碇家次男、碇リュウジはというと。
この、父親の容貌を色濃く受け継いだ少年に組みしかれているチンピラは、三人のうちでもっとも不幸だったかもしれない。
一見、柔和そうに見えるこの少年の攻撃が、もっともえげつなく、タチが悪かった。
相手に馬乗りになると、その顔面をひたすら殴打。
血が噴き、顔面が変形してもただ殴りつづけている。
「おーい、リュウジ、OK,OK、もうやめろって」
兄に止められ引き剥がされるが、まだ目は座ったままだ。
「・・・・・・・・・・・・・ここで僕が戦わなきゃ、みんな死んじゃうんだよっ!!!!」
「こらこら、なにトリップしてんだ、おまえは・・・」
一度キレると歯止めがきかない。色濃い容姿とともに受け継いだ不可思議なものの一つである。
アスマは仕方なく弟を殴りつけて正気に戻す。
するとリュウジ少年は、きょとんとした表情で殴られた頬を押さえる。
みるみるうちに、黒い瞳に涙の粒が盛り上がった。そして震える声でいう。
「・・・父さん、僕はいらない子なの?」
「誰が父さんだ、誰が」
呆れる長男を押しのけて、アスカは次男の頭を掻き抱いた。
「はいはい、あんたはちゃんと必要とされてるわよ」
胸の中でむせび泣く次男坊の頭を撫でながら、アスカは路地裏の奥へと視線を注いだ。
そこには、夫と娘がいるはずである。
なぜか厳しく眉根を寄せると、アスカは踵を返し、声高に命じた。
「撤収!!」
「撤収っていわれても・・・・」
ぼやいたのは碇家長男坊。彼は、悶絶、気絶、昏倒した三人の襟首をひっぱりまわしている最中だ。
「いいからとっとあっちの交番まで運びなさい!!」
「一人で!? んな無茶な・・・」
交番までかなりの距離がある。
おまけに、まだゴミバケツの中の一人も回収し終わってない。
碇アスマは本気で泣きたくなった。
母に命令されると拒めないという父のDNAがこれほど疎ましかったことはない。
それでも、とあることに気づき、彼は母親へと問い掛ける。
「あの・・・・お母さま?」
「なに?」
「交番には、なんて説明しとけばいいんでしょ?」
「そんなもん、謎の美少女が退治した、とでもいっときなさい」
碇アスマは本気で泣いた。
「・・・ミコト、大丈夫? 怪我はない?」
シンジにそう問われても、少女は言葉が出なかった。
ただ、嗚咽をこらえるように唇を噛み締めている。その頬は涙でぐちゃぐちゃだ。
ひくっひくっとしゃくりあげながら、一生懸命に父の血塗れの顔を拭う。
もはや大人びた化粧は落ち、歳相応の幼い顔が覗いている。いや、いつもより幼くすら見えた。
「ほら、そんなに泣かないで・・・」
父の傷だらけの手が頭にのせられた。
「・・・・・なさい」
俯いた少女の唇が、初めて嗚咽以外の言葉を洩らす。
「ごめんなさい・・・!!!」
「何を謝るんだい?」
シンジは微笑む。
ミコトは爆発した。
地べたにへたり込む父の胸に飛び込むと、激しい声で泣き出す。
「お父さんお父さんお父さん・・・・・・・・!!!」
シンジは黙って娘の頭を撫でつづける。
嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか、ミコトは判断できなかった。
自分でも制御できない感情が渦を巻いている。
それが涙となって体内から流れていくようだった。
どれくらい時間がたったろうか。
娘が落ち着くのを確認すると、ようやくシンジは立ち上がった。
おそらく賞賛に値することだろうが、全身に大小の怪我を負っているにも関わらず、苦痛のうめきすら上げない。
「・・・いたっ!」
かわりに娘が小さな悲鳴をあげる。
押し倒されたとき、足首を捻ってしまったらしい。なれないピンヒールのせいもあるだろう。
「ほら」
シンジはかがむと、娘の千切れたブラウスの前をより合わせてから、ボロボロになった自分の背中を差し出した。
相手を気遣うような表情を少女は見せたが、再度父から促されると、その背中に身を預けた。
父の背中からは、汗の匂いと血の匂い。
汗の匂いは、自分を探し回って街を駆け回ってくれたからだろうし、血の匂いは自分を守ってくれた証だ。
見かけと違い、意外と逞しい父の背中。
ボロボロのワイシャツ越しの温もりが、心地よい。
ああ、あたしは守られてる・・・・。
どうして、忘れていたんだろう。
なによりも身近な、大好きな父の匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。
例えようもない幸福感が、今、碇ミコトという少女の中にある。
温かい幸福の源泉の奥底から、更に熱い想いが込み上げてくる。
なんだろう、この気持ち・・・・?
狂おしい。それでいて切なく、例えようもなく甘い。
同年代の子にも、先生にも感じたことはない気持ち。
なんらかに対する憧憬とももちろん違う。
そう、彼女は恋をした。
そして、この少女は恋をしたことがなかった。
ずば抜けて高い知能にプライドは、同年代の男の子を対象とすら選択せず(要は、みんな馬鹿に見える)、
年上の学生やアイドルなど、なまじ美形の兄弟がいるせいで、殆んどが印象に残ることはない。
環境的な要因(極めて母親の影響が多いと思われる)もあり、恋愛というごくあたりまえの感情制御が起動すらしてなかったのだ。
初めて全身を浸す波動に、少女は身を任せた。
父の首に回す手に力を込めて。
その想いが明確な輪郭を取り、その身のうちに激しい炎の竜を育むまで、まだしばしの月日が必要だった。
そして二年後。
実の父親であるシンジをめぐり、実の母であるアスカを相手取って、娘である彼女は熾烈な戦いの幕を開くことになる。
三只さんから夫婦絶唱・子供たち編のお話をいただきました。
今回はミコトちゃんですね。
主役はミコトちゃんですが、碇ファミリーは全員それらしい感じを出しています。シンジの遺伝子もアスカの遺伝子に負けていませんね。それにしても・・・・
それにしても、シンジの娘がファザコンというのはデフォルトなのでしょうか
アスカの遺伝子がシンジを求めさせているということなのでしょう(無理あり)
素敵なお話を書いてくださった三只さんに是非感想メールをお願いします。