夕焼けの海辺、彼は黙って海を見ていた。
夏の終りの夕凪の海は、心地よい潮風とあまり眩しくない残光で過ごしやすく、物思いに浸るには最高の場所だった。
彼はテトラポットに腰掛け、海を見ていた。
ポケットから缶コーヒーを取り出しプルタブを開けて口に運んだ。そのコーヒーは少し温くなってしまっていたようだったが構わなかった。

そして、もう片方のポケットからラッキーストライクを取り出し、ジッポで火を付ける。
ゆっくりと煙を吸い込み目を閉じた。

この海は相模湾、第三新東京市から車で1時間ほど離れた所だ。彼はその場所が好きだった。
人通りがほとんどなく、波もそれほど高くはない。車も楽に止められる場所もあった。
それに腰掛けやすいテトラポットがちょうどあった。
そこは東側に向いているので夕焼けと言ってもその方向は夕日ではなく、赤から紫、そして濃い青の美しい空と夕陽の照り返しがある海だった。





「海の日の夕暮れ」
(One more chance)

written by オサーン






(そう言えば、彼女と初めて会った時も海の上だったっけ)
そう思うと彼はさみしそうに笑った。

彼女と一緒に過ごした長い夏を回想した。
暑い夏だった・・・ただ暑かったのではない。熱かった・・・そして色々な事がありすぎた長い夏だった。
そして彼女に恋をしていた・・・と思う。

そう思いながら彼はコーヒーを口に運んだ。ブラックではあったがいつもよりほろ苦い気がした。
その苦味をゆっくりと噛みしめて飲み、残りがなくなると短くなった煙草をそのまま入れた。
煙草はジュッという心地よい音を残して消えた。



彼女は外国から来た少女だった。日本に来て彼と共に戦い、文字通り生死を共にした仲だった。
ある意味の極限状態で共に暮らし任務を遂行していった。
もし、それが同性だったとしたら、彼らの友情は不変のものとなり一生付き合っていけるものだっただろうが、彼女は異性だった。
彼にとっては初めての身近な存在の、恋愛対象になり得る女性だった。
お互いに好意こそ抱いていたとは思うがそれを恋と認識するには、平穏な時間が短すぎたと思う。
もっとも、平穏な時間だけを過ごしていたのでは彼女との心の距離は近くはならなかっただろう。
ただ・・・すれ違ったまま時間が過ぎて行った・・・・・



彼はそんなことを思いながら、もう一本煙草を取り出して火を点けた。辺りはまだ十分な明るさを残していた。
そして夕凪の中、聞こえてくるのは緩やかな潮騒だけだった。
緩やかな潮騒に耳を澄ますと彼を呼ぶような声が聞こえてきた気がした。
当然、気のせいだと彼は認識して海を見つめる。事実、自分の周囲には人の気配は全くない。

(彼女に続く海、か・・・)

事実、太平洋を隔てて彼女が住んでいるアメリカがある。
もちろんアメリカは見えないがそう思うと彼女との距離が少し近くなった気がした。



その彼女との決定的な事象、最も激しい戦いの後、彼らは心の中でお互いの想いをぶつけ合った。その中で彼女は
「アンタが全部、私のものにならないんだったら・・・アタシ、もう何もいらない」
と言ったのだった。
彼はそれに対して、自分の全てを受け入れてくれるよう伝えたのだが、結果はすれ違いのままだった。
彼女は彼の全てを受け入れることを拒否した・・・

戦いの後、浜辺には彼ら二人だった。
彼は隣に横たわっている傷ついた彼女を見つけると馬乗りになって、その細い首を絞めた。ふざけているのではなかった。
本気で殺してもいいと思っていた。自分を全て受け入れないものは排除するしかないと思っていた。
しかし、朦朧とした意識の中、彼女が差し出した右手・・・その右手はゆっくりと彼の頬をなでた。
その温かさに触れた時、彼はその手を緩めて泣きだした。




自分でもその時の事を思い返すと思わずおかしくなってしまった。
(まあ、あの時はまともな行動なんてとれなかったよな・・・・・)
彼はフッと軽く笑って、煙を吸い込んだ。その煙をゆっくりと溜めてから吐き出すと少しいがらっぽい気がした。
そして、ジッポを取り出し、開けたり閉めたりを繰り返し、その感触を楽しむ。
装飾のあまりない、質素なデザインのものだった。


今、使っているライターは自分で買ったものではない。もらったものだった。
元の持ち主はもうこの世にはいない。それは形見みたいなもので、保護者はまだ高校生になったばかりの頃にそれをくれた。
初めて使ってみようと思ってオイルを入れた時に、手にオイルがかかっているのに気付かず火を点けてしまい軽い火傷をしたのは御愛嬌だ。
でも、このジッポに触れ、手入れをしていると持主だった彼の事を思い出す。
大人として僕に言ってくれたことをおぼろげながら思い出す時間も嫌いじゃない。そして同性ながら憧れたことも思い出す。
その彼女にとっては初恋の人だった事も思い出すと口に入れている煙草やコーヒーの苦みが増した気がした。

煙草を覚えたのは高校を卒業してからだったからそれまでは机の引出しの片隅に置いてあったままだった。
鈍く光るその銀色のライターには少し傷が付いていた。
多分、元の持ち主が愛用していたという証拠だった。
今の自分はその彼に少しでも近づいていたらいいな、そう思ってジッポをポケットにしまった。





彼女は負傷の治療が終わり、リハビリが一段落すると、国籍のあるアメリカに渡った。
入院中も彼の来訪をあまり歓迎していない様子だったし、その後の同居中も彼に対しては拒絶の態度をとっているように見えた。
あの浜辺でのことに話題が及びそうになると「やめて」と会話を拒否した。
やがて・・・彼女は自分の部屋の荷物をまとめ始めた。
彼はそれについて問いたださなかった。いや、声を掛けられなかった。
彼女が何を考え、今の彼に対してどういう思いなのかを知る事が怖かったから、それに対して踏み込めなかった。
そうこうしているうちに、彼女は荷造りを終え日本を後にした。



(今頃、どうしてるのかな?まあ、今は向こうは夜中だから・・・寝てるかも知れないな・・・)
彼はそう思って、煙草を空き缶の中に入れた。そしてそれを持ち一度テトラポットを離れ、車に向かった。
そして空き缶を車内の袋に入れるともう一本のコーヒーを取り出して再び海の方へ足を向ける。また、先ほどまで座っていた場所に戻った。





彼女とは冷たい感じではあったがケンカ別れというわけでもなかったのでお互いの連絡先は知ってはいた。
儀礼的にだと思うが彼女からはクリスマスカードが届いたし、彼も暑中見舞いや年賀状を通して繋がりはあった。
そしてそれとは別にだが、手紙のやりとりもしていた。
電話は時差のこともあり、よほどのことがない限りすることがなかった。

メールは彼女が嫌がった。
「多分ないとは思うけど、誰かが代わりに書くかも知れないし気持ちがこもってないと思う」

やりとりする手紙の内容は当たり障りのないものだった。
近況の報告・・・例えば同居人が再びビールを飲み出してしまったとか、部屋に置いてあるままの彼女の荷物、それらをどうしようかとかそんなことだった。
彼女からの返信も当たり障りのない内容だった。



いや、正直に言うと彼女との別れの朝には、すこし気色ばんだやりとりはあった。

「本当に行っちゃうんだね・・・・・」

荷作りが終わり、生活感がなくなった部屋に立ち、寂しそうに彼が言う。

「アンタは・・・私の気持ちを知ってたのに・・・抱き締めてもくれなかった・・・」

「・・・僕を拒否したんじゃないか・・・」
「だって、僕を受け入れてくれなかったんじゃないか!!何にも言ってくれない!わかるわけないじゃないかっ!!」

「・・・アンタがほんとに私を求めてるんだったら・・・どうして今までアンタから踏み込んでこなかったの?
・・・・どうして・・・今も・・・力ずくでも止めないの?・・・何で黙って見てるの?」

「・・・・・・・・・・・」

少しの沈黙があった。

「そう・・・素直になれないのは私もおんなじ・・・私たちは・・・子供なのよ・・・」

「きっと・・・大人になった時に・・・答えを見つけられるんじゃないかって思うの。
だから、私は出て行くの・・・答えが出るかも知れないし・・・
もしかしたら・・・別の答えがあるのかも知れない・・・でも、今のままじゃ答えは出せない・・・から・・・」


彼女が言葉に詰まった時、その瞳からは涙があふれ出していた。
その片方の瞳は少し濁ったブルーだった。視力は回復したが光彩が濁ってしまったのだった。
それも彼の残した罪の一つだと改めて気付いて彼は目を逸らした。

彼女は無理をして言葉を続けた。

「だから・・・・・大人になってから・・・・・いつになるかはわからないけど・・・・・」

その先は、彼女は言葉に詰まって言えなかった。
そして、その住み慣れた部屋を彼女は去って行った。
彼はその言葉を黙って聞き、俯きながら彼女を見送った。





(大人・・・か・・・)
煙草は大人の象徴だと思う。大人にだけ許されている嗜好の一つだ。
別に今はそんな事を考えながら吸っているわけではない。単なる習慣だ。別になくたって問題はないと思う。
彼はヘビースモーカーではない。せいぜい2日で1箱程度だ。手持ち無沙汰な時、考え事をしている時に手が伸びる程度だ。
自分で呟いた大人と言う言葉に自ら反応し、取りかけた煙草を再びしまった。そしてコーヒーを開け、口をつけた。




彼女との手紙のやり取りは、それでも律儀に定期的に続いていた。
あまり変化のない日常の中で書く事には困ってはいたが、何かを見つけ出してそれは続いていた。
彼女もそれに対して、きちんと返事をくれた。彼女からの内容も結構どうでもいいことだった。
日本食に慣れてしまうとこちらの食べ物がおいしくない、とかそんなことだった。彼女も特に書きたいことはないのかも知れなかった。
それでも彼女との手紙のやりとりは続いていた。


最近になって、彼女との手紙のやりとりの中で、自分が書くとき、便箋の行間が空く事が多くなったと思う。
本当は書きたいことを、書こうとして・・・書けなくて、考え直して別の事を書く。






(あなたは大人になったかな?
僕は少し大人になったと思う。時間が経った今だから、やっとあの頃の気持ちを知らせる事に怖くなくなったんだ。
でも、もう遅いかも知れない。もし迷惑だったら謝ります。

あの時も、そして今もあなたの事を愛しています。
あなたさえ良ければずっとそばにいさせてください。

遅すぎた告白でごめんなさい。
もし不愉快ならこの手紙は捨てて、僕の事を忘れてください。
お返事をお待ちしています。)




祈るような気持ちと、伝えるべき事を伝えたという満足感、そして少年としての自分からの卒業と自覚。
色んな思いがこもった「告白」だった。

彼は一歩を踏み出す勇気を持つことができた。結果よりも・・・今は意思を伝えることをせずにはいられなかった。


こんな文面の便箋を、普段の当たり障りのない近況報告とは別に彼女のもとに送ったのは一か月位前だった。
封筒に入れて封をした時、その封筒を投函した時の祈るような気持ちは忘れられない。
きっとこれからも忘れることはないと思う。





外はいつの間にかかなり暗くなっていた。彼はテトラポットを降りて乗ってきた車に向かった。
イグニッションを回すと、命が吹き込まれたようにエンジンが音をたて、回り始めた。
もうこの時間ならエアコンは必要ないだろう。窓を開け、車に潮風を取り入れる。
(この潮風ってやっぱり彼女を思い出すのかな・・・)
そう思いながら車のライトを点ける。そろそろ月が輝き始めていた。
この分だと今夜は星空もきれいだし明日もよく晴れるんだろうと彼は思って家路に就く。




彼の机の引き出しには彼女からの手紙が大切に取ってある。
何を書こうか迷ったのか、不自然に行が空いていたりする手紙もある。

その宝物のような手紙を引き出して、たまに彼は眺めている。
彼はその手紙の不自然な行間には気が付いていた。
ただ、最近の手紙にこそ、そのような行間が多くなった事にまでは気が付いていなかった。


彼女からの返事を待ち続けて、普段の返信のペースからはもう2週間も遅れている。
当初は明日は来るかな、とかどのような返事なのかが気になって眠れない夜が続いたが最近は少し落ち着いてきた。





彼が夕暮れの海を見に行った数日後、留学ビザの手続やら、こちらの大学への編入の手続やら、めんどくさいとブツブツ文句を言いながらも済ませた
「タイフーン」が夜半に成田空港に上陸して、翌朝には急いで西に向かっていたからだった。
アメリカのハリケーンのように愛称を付けるとして、その台風の名前は「ASUKA]と名付けるのが適当だろうか。


チャイムも鳴らさずにドアを開けて
「ハロー!」
とドイツなまりのある挨拶を聞くとシンジは玄関に向かって飛び出した。

信じられなかった・・・目の前にアスカがいる・・・・・

そして、数秒間の間をおいていきなり彼女をしっかりと抱きしめた。
シンジは胸が一杯で彼女の名前を連呼し、少し落ち着くと今は少し低い位置になったアスカの耳元に口を近づけた。
近くにも関わらず、彼は大きい声ではなかったがはっきりと言った。

「アスカ、もう一度言わせて・・・・・アスカじゃなきゃだめなんだ。そばにいて欲しいんだ・・・アスカ・・・」

その言葉を聞いたアスカはその顔を少し下げて少し逞しくなったシンジの胸に顔をうずめた。
彼女も言葉を発することはできず、返事の代わりに手を彼の後ろに回してしっかりと彼を抱く。
その頬には温かいものが流れていたが、彼女は笑みを浮かべていた。

以前の同居の時と、少しだけ関係が変わった生活がまた始まった。
そして、彼らの保護者はまだ知らないが、二人で一緒に、住み慣れたこの家を巣立つ準備を始めたところだ。


















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