「碇、計画の進捗はどうだ?」
向い合って碁を打っている冬月が訊ねた。
「順調だ。2パーセントも遅れてはいない。」
「しかし、準備期間が短すぎるぞ」
「ああ、しかし、自分でやる意識さえ身に付けば後は覚えていくだろう。問題ない。」
「何事も経験か・・・・・」

先を読んでゲンドウが話す。
「シンジは私がやってるのを見ていたんですよ。」
「ほう」
「ユイもなかなか忙しかったので私がせざるを得ない時もあった。それをシンジにも手伝わせたからな」
「なるほど・・・幼い頃に興味を持たせて、教育したということか」
「教育したなんてことはない。それは単なるきっかけに過ぎん・・・」



[碇アスカ育成計画5]

written by オサーン




「おはようございます!」
今日もアスカは5分前には到着して、すでにエプロンを装備していた。
「おはよう!アスカちゃん。今日はお洗濯からね」

持参の洗濯物を分けて洗濯機に入れていくアスカを見て、マヤはだいぶ様になって来たと思う。
洗濯機を回したアスカは掃除を始める。それほど汚れているという事はないけれど食器棚とかの拭き掃除もする。
(手際が良くなって来たのかな?)
マヤは感心して見ていた。

洗濯機からシンジの着たカッターを取り出すとそれをハンガーにかけながら
「そろそろアイロン掛けた方が良くない?」
とアスカが言う。
確かにアイロン掛けもやらなくてはいけないのだが、まずはカリキュラム通りに進めなくてはいけない。

「うん、今日は時間ができたら教えるから。今日はお昼の野菜炒めをほとんど一人で作ってもらいます。」

そう言って作り方を説明しようとするマヤだったがアスカがそれを止める。
「ねえ、昨日のやつ、やっぱりシンジが食べたの?」
マヤは口ごもりながら答える。
「そうだけど・・・・・な、何か言ってた?」
少しオドオドした逆質問になる。

「なんでもないわ」
ぶっきらぼうにアスカが答える。
複雑な感情を持つアスカにとってはこういう意思表示しかなかった。



まず、アスカの知らないままに黙ってシンジにそれを食させた事に対する不満。
次に不出来があったままそれを食べさせてしまった後悔。これは自分が研ぎ続けたご飯によるものだ。

さらに、自分が一人だけで作ったものではない事も不満だった。自分も手を汚して作ったのだが100パーセントではない。
自分のした事も全て的確な指示に基づくものなので「自分が作った」とは胸を張っては言えなかった。

これだけの感情であればアスカはマヤに対して怒声を浴びせたのだろうがそれだけではなかった。
それはシンジの「お・い・し・か・っ・た」の6文字が聞けたことだった。
その事によりシンジの中で、もし自分が作ったのだと知ったら身近な女性としてシンジの中で彼女の地位が上がるはずだ。
つまり、ある意味で「認められた」ということになる。
今まではそんな事をしたくてもできなかった。ようやくそのスタートが切ることができたのはうれしかった。
(これでアタシも認められる・・・)

あの言葉を聞いた後、アスカはお風呂に入り、のぼせる寸前まで、違う世界に「翔んで」いたのである。
あれは・・・自分がその手でしっかり味を馴染ませた、触れ続けていたものだった。
それに対して「お・い・し・か・っ・た」の6文字はしっかり彼女の精神を汚染していた。
(毎日あの言葉が聞きたいな・・・っていうことはアタシがお料理作ってぇ・・・そのあと寄り添ってテレビ見てぇ・・・)
(・・・で、おやすみって言うか、アタシもおいしく食べられちゃってぇ・・・キャっ♪)
お風呂で委員長のようにイヤンイヤンし続けていたのだ。

しかし、である。あの料理はやはり純粋に自分だけが作ったものではない。何割かは「マヤの手料理」なのだ。
当然、マヤはそんなことを考えるはずもないがアスカには少しの嫉妬が残る。
そう考えると、このマヤの前では手放しで喜べるものではない。

これだけの感情があの一言に凝縮されていたのだった。




作り方を聞くと彼女は作業にとりかかる。
(今日はアタシが完璧に作るわ!!)
しかし、今日の料理はシンジに食べさせると決まったわけでない。

「いたっ!!」
最初から悲鳴が聞こえる。左手の指を切ったらしい。
アスカの料理を監視しつつ自分の仕事のためノートPCに向かっていたマヤはアスカの方に向かった。
怪我は大したものではない。
絆創膏を貼り、野菜切りを続行する。しかし3分も経たないうちにまた指を切る。
また絆創膏が増える。あまり増えるのも考えものだ。
見かねてマヤが見ている前でやらせてみる。原因はすぐにわかった。

「アスカちゃん、左手の指、伸ばしたまま切ってるからよ。」

アスカはそんな事すら知らなかった。
昨日は大きい鶏肉をぶつ切りにしていた。しっかり押さえる必要もあり、力を込めて切る必要もあったのでマヤは何も言わなかった。
しかし、アスカはそんなことすら知らなかった。だから自分で料理のマネごとをしていた時によく指を切っていた。
それも彼女を料理から遠のかせていた理由の一つだ。

「普通はね。こうやって指を折って押えるのよ。」
実演してからやらせてみる。しかし、アスカには怖かった。
常に刃の横の部分が指に密着する。慣れない場所への刃の金属の感触は嫌だった。それにそこを切ってしまいそうな感覚を覚える。

この動作をすることに慣れていないアスカはおっかなびっくりだ。
マヤはアプローチの言葉を変える。

「お野菜は基本的にお肉を切る時ほど力を入れないの。だからお肉を切るときほど刃を動かす必要はないわ。」
「それと左手の指の角度を垂直より角度を付けるのよ。そうすれば、第二関節よりも刃を上に持って来なければ左手を切る事はないでしょ?」

このような理詰めのアプローチは実はマヤの得意分野だ。のほほんとしてそうで流石は赤木リツコの片腕なのである。
アスカもその説明には納得がいった。まだ手付きは危なっかしいがその指示通りに切ってみる。
どうやらキャベツとピーマンは切り終わった。

問題は人参だった。
キャベツとピーマンはもともと厚みがない。大きく切ってもすぐに火が通る。
人参はそうはいかない。塊なのでそれを薄く切らなければ簡単に火は通らない。しかし、どのようにしていいかわからない。
今日のマヤはそれも教えない。さっきアスカが渡してもらったテキストに「この大きさに」位しか書いていない。

とりあえず洗った人参を半分にした。その下半分を冷蔵庫にキャベツの残りと一緒に戻す。
上の葉っぱの付いてた部分を切り落として、目の前の人参と格闘を始める。

(切りにくい・・・・・)
人参の曲面がころころするため安定しない。しっかり押さえ付けてもその力をあざ笑うかのようにずれる。
アスカは根気よくそれを続け薄く切ろうとして何度も人参を転がす。

「さて、こういうものを薄く切る時にわね・・・・・」
マヤがやって来た。今日は何でもかんでもすぐに教えてくれるというわけではない。
失敗を繰り返してもそれに向かう根気も今日は訓練すること、今日の課題の一つである。

「初めに、半分にしたりして安定した面を作ってから切るのよ。」
アスカはすぐに教えてくれなかったのが不満でもあったがやってみると簡単にできそうな気がした。
その知恵に感心はしたがここからの道も険しい。
どんなに厚くても5ミリを超えられない。慣れない左手で必死に押さえつけ、ジリジリと左手をずらして包丁を当てる。

その作業はアスカの神経をすり減らす。
包丁は10秒に一回ほど、まな板に当たるだけ、そしてまな板に包丁が当たった途端に大きく息をする。
このような形でアスカには緊張の連続をその作業は強いていた。
かなりのストレスが溜まったようだった。
さすがに人参を切り終わると彼女は休憩を求め、冷蔵庫からオレンジジュースを出して一息ついた。

ちなみに人参の皮はむいていなかった・・・・・



一息ついたアスカは二回目の洗濯物を干しに向かった。
もう時間は11時に近くなっていたが野菜炒めの準備に手間取ってしまって洗濯機の中にまだ入っていたのである。
今日はもう一回は回さなくてはいけないからぎりぎりのタイムスケジュールになってはいる。
残りの洗濯物を放り込んで戻るとマヤからの注意事項がある。

「アスカちゃん、初めのうちは油は多めに入れること」
「なんで?」
カロリーを気にするアスカには抵抗がある言葉だ。
もっともカロリーを抑える事を考えるならポテチと甘いものを控えた方がいいのは言うまでもない。

「まず、炒め物はこの油が大事なのよ。油が足りないと焦げやすいわ。」
あえて、通販で売ってるような「焦げない」とか便利なものは使わせてない。基本を教えなくてはいけないからだ。

「ところで油は何で入れるの?」
「味付けとか香り付けじゃないのぉ?」
「それだけじゃなくて均等に熱を加えるという事もあるのよ。」
「ん?」
「つまり、油ってお野菜とかに絡みつくでしょ。その油は熱せられてるからお野菜とかに均等に熱を通すのよ。」
「それと油がお野菜とかお肉との間に被膜を作ってマイルドに熱を通すの。焦げにくくなるって事よ。」

「まだあるのよ。お肉とかの旨味って油にも含まれてるわね。例えば牛脂とか豚脂とか・・・」
「当然温めれば溶け出すけど、入れた油と混じってそれを野菜にも伝えるって働きもあるのよ。」


「もっとも多すぎるのはいけないけどそのマニュアルよりも多めに入れてみるといいわ。」
「あと、炒め物も目を離しちゃだめよ。焦げちゃうし食用油脂だって立派な第4類の危険物なんだから。」


なるほど・・・リツコの近くにいるとこのような事を言うようになるんですね・・・・・
ピンクのフリルのたくさんついたエプロンのマヤがこんな事を講義するのも少し場違いの気もする。
ただ、科学者の卵?であるアスカにはこういう説明の方が理解しやすいのは確かだ。


ともあれ、調理開始。
「アーレ・キュィズィーヌ!!」
アスカはアドバイス通りに少し多めの多めの油を入れて・・・野菜も肉も全部いっぺんに入れた。
まあ・・・いいでしょ・・・・・

塩で味付けをしながら、一生懸命にかき混ぜている。焦がさないためには必要なのだが少々やりすぎだと思えた。
ただ、それを注意したりはしない。丁寧にやることはいいことだからだ。しかし「薄味でいいのよ」の声は頻繁に飛ぶ。
それを受けてアスカは
「薄味でいい・・・薄味でいい・・・薄味でいい・・・」
と呟きながら料理をしている。

「もう、良さそうじゃない?」
アスカはうっすらと汗を滲ませてマヤに同意を求める。
マヤは確認して胡椒を振ってからそれを軽く馴染ませるように指示を出す。
[純粋手作りアスカ様謹製初料理]
その完成は近い。

完成を前にしてマヤは電話を掛けてアスカにこう言う。
「私、用事ができちゃったの。悪いけど食べててくれない。」
アスカは不満だった。失敗作ではないはずだ。でもせっかく教えてくれたマヤも一緒に食べてくれないのかな?
そう思うと少しさみしくなった。


エプロンを外して一人だけの昼食・・・・・
あ、今日はご飯も炊いてない・・・野菜炒めで夢中だったから忘れてた。


プシュー
ドアのロックが開いた。
「アスカ?いる?」
シンジだ。何で?
アスカは何となく恥ずかしくなって悪態をついてしまう。
「何でアンタなんかがここに来るのよ!!」
「いや、リツコさんがここでアスカが一人でお昼にしてるから食べて来いって言うんだ。」
平然とシンジが言う。
「あと、ご飯がないからこれ持って行ってって」
シンジはおにぎりを2パック持って来ていた。食堂のものだった。

アスカもご飯がなくて困っていたのだ。
(絶対、リツコとマヤの差し金だわ)
そう思いつつもご飯を受け取って彼を追い出すことはできなかった。
ここでご飯を食べて来いというリツコの指示と、目の前の野菜炒めは一人では明らかに多い。

「座んなさいよ」
アスカは横を向いて、少し赤くなりながらそう言って席を勧めた。
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