平凡な日々。
それがいかに何物にも代え難いか。
たった一七年でそれを知ってしまった僕にとって、
今という時はとても大切で、
反面、とても脆い物でもあった。
「碇君・・・ちょっといい?」
「・・・」
「ど、どうしたの?」
「いや・・・洞木さんとこうやって話すのも、アスカが帰ってきてからずいぶん増えたな、って、思ってさ」
だるい授業の合間、四つほどクラスの離れている洞木さんが話しかけてきた。
寝るには不都合な廊下前側のこの席だけど、こういうとき、つまりほかのクラスや下級生なんかが訪ねてくるときは比較的便利だ。最近は人数はともかく回数だけはやたらと増えてしまっているのでさらに、である。
とにかく僕はクラスメートに極力気づかれないよう、廊下に出た。
「で? 話って? またトウジが何かやったの?」
「す、鈴原は関係ないのよ。ただ、その・・・」
おや? と思う。
今まで、そう、アスカが帰ってくる前、洞木さんからなにか話しかけられると言えばその大半がトウジがらみの、・・・まあ言ってみれば度の過ぎたのろけ話だった。
むろん、僕がそう考えようとするのにも訳があるが。
なにか言いにくそうな表情のする彼女を、僕はじっと見ていた。
「その、アスカが・・・なんて言ったらいいのかな、少し雰囲気が違うような気がして・・・」
一回だけ、少し長めに目をつむり、自分の気を落ち着かせてから、僕は答えた。
「違って当然だよ。何せもうあれから三年も経ってるんだよ?」
「そうなんだけど・・・」
「僕だって、洞木さんだって、あのトウジでさえ変わるんだ。アスカが変わったところで別に不思議はないよ。もっともアスカにとってはこうやって高校生活を送って、また洞木さんと友達になってることの方が不思議なんだけどね」
・・・どうも何かを隠そうかと思うと、言葉が増えるのは僕の悪い癖かもしれない。今のところそれを知っているのはマナぐらいなものだろうけど。
「・・・」
「時々遊びに行ってすごく楽しんできてるみたいじゃないか。それで十分だと思うよ。・・・特にアスカはそういうことを知らないで今まで過ごしてきたからね」
「・・・ほんとに、大丈夫かな」
「洞木さんさえ気にしなければね。アスカって時々鋭いから、見破られちゃうかもよ?」
僕は出来るだけおちゃらけた。その場を軽くしようと思って。
だが、それは僕がやるまでもなかった。
「あぁ! シンジ浮気してるぅ!」
もはやため息すら出てこない。
「ち、違うのよ、霧島さん・・・」
「しかもその相手はかの洞木さんだぁ!」
「ち、ち、ち、違うって・・・」
いい加減洞木さんも慣れたらいいのにねぇ。
マナがこうやってからかってくるのは今に始まったことじゃないんだし。
マナもマナだよなぁ。こんなに真っ赤っかになるまでからかわなくても・・・
「何が違うのぉ? どう見ても密会の現場か、あるいはその密会の打ち合わせにしか見えないわよぉ?」
「はいはい。こんな廊下のど真ん中なんだから、馬鹿言ってないで」
「なによぉ」
「なによぉ、じゃないよ。洞木さん困ってるじゃないか」
「ふんっだ。この似非フェミニストめ」
「うーん。そうかもねぇ」
「嘘つき。シンちゃんがフェミニストになれるのはアスカちゃんだけの癖して」
・・・?
違和感。
そう。マナの顔は笑っている。でも、目がどうも笑ってない。
「あの、その、碇君、そういうことだから・・・」
「うん。まあ気にすること無いよ。トウジにもよろしく言っておいて」
「じゃ」
僕が一言余分に言ったから洞木さんは照れながら去っていき、マナはからかうチャンスを逃して少し悔しい想いをしているようだった。
「ねえシンジ」
「なに?」
「ちらっと聞いちゃってさ・・・、私もそう思うんだけど・・・」
「・・・今は何も言えない」
「な、なんで?」
「もうすぐチャイムが鳴るから」
きーんこーんかーんこーん
視界の隅にあった時計の通り、全校にチャイムが鳴り響く。
「・・・いつか絶対聞いてやるからね」
「はいはい」
マナは自分のクラスに帰っていく。
僕は、そのまま階段に足を向けた。
・・・こんな時は屋上で考えをまとめるに限るからね。
単位なんてどうにでもなるだろうし、落としてしまってアスカと同じ学年になるのも一興だろう。もちろん彼女が何を言い出すかなんて、目に見えているが。マナとつきあう少し前、僕は煙草を覚えた。
最初は単なる興味とストレスの発散だった。でもそれは思わぬところで効果を発揮している。
何かあると考えすぎてしまう僕の脳味噌の働きを、幾分鈍くしてくれるのだった。科学的に考えればそれは当然のことなんだけど、それが僕にとっては何より ありがたかった。以来こうやって普段の僕では対処しきれないような考え事があるたびにポケットから出てくる。むせそうになるのをこらえて僕は一気に煙を吸 い込んで、真っ青な空に一つだけ雲を作る。
「しかし、さすが女の子だよね。気が付いちゃうんだもんなぁ。トウジもケンスケも気が付かないのに」
僕はたぶん、苦笑いを浮かべつつ、彼女のことを思い出す。
「ねぇ! シンジッ! シンジッ! シンジッ!」
「そんなに何回も呼ばなくても聞こえてるよ、アスカ」
「むぅー」
「それよりどうしたの? そんなに慌てて」
長く一人暮らしをしてきたせいか、僕はすっかりお弁当を作ることが無くなった。NERV時代の給料は天文学的とまでは言わないけど、それでも僕が成人に なるまで贅沢したところでどうってこと無いほどの金額でもあった。もちろん、お金の出どこのことを考えると少し気が滅入る。自分の命の代金だと思えばまあ 安いもんだと、割り切るには多少の時間がかかったのも確かだ。
甘えもあるかもしれないが、手を抜けるところはどんどん手を抜いていった。お昼の弁当はその最たるものだった。
そんな、とある昼休み。
下手をすると僕が昼ご飯すらとらないことを知ったアスカは何日か後にこうやって現れた。
「あっ、あのっ、あのねっ」
だが、どうやら機を逃したらしい。どもなる彼女を見て僕はかわいいと思った。
思うことにした。
「おっ、おべんと・・・作ってきたの・・・」
「ほんと? ありがとう」
「そ、そんな、その、お礼、言われるほどじゃないんだけど・・・」
髪の毛ほど顔を赤くして彼女はそういう。
「・・・じゃ、中庭にでも行こうか」
「う、うんっ!」
ほかに何か言いたかったのだけど、後ろから感じられる強烈なプレッシャーで僕はそれを口に出すことが出来ず、別の言葉が出てきてしまった。廊下に出た僕の背中に呪詛が投げかけられる。
「くっそー、碇の奴あんなかわいい子を・・・」
「霧島さんに振られてざまあみろと思ってたのに・・・」
ここにあの頃の生徒がいれば、もしかしたら違和感を感じたかもしれない。だが、そこにはマナも洞木さんもいなかった。
中庭の、あまり手入れのされていない芝生の上で僕らは昼食をとる。かわいいお弁当箱のその中には、さらにかわいく飾られたお弁当。彼女の好みがあの頃と それほど変わっていないのが、僕をまた複雑にさせる。卵焼きにミートボール、レタスとプチトマト。僕が作っていたお弁当はお世辞にもバリエーションに富ん でいるとはいえなかった。ただ桜でんぶをハート形にしたことはなかったが。
「・・・でね、クラスの子が言うのよ・・・」
おかずを口いっぱいにほおばって、今日あったことを一生懸命に話す。あの頃とさほど変わらない背丈容姿。これはわかる。つきあい始めた後でわかったのだけど、アスカはドイツでほとんど寝たっきりだったらしい。その分成長が遅れているそうだ。
本人から聞いてないだけに、それは信憑性を持っている。
「・・・で? その・・・どうだった?」
お弁当箱の蓋を閉じた僕に彼女は上目遣いで聞いてくる。
そんなことは中身を綺麗に全部食べた僕に聞くことじゃないと思う。もちろんあの頃の僕なら無理して全部食べたかもしれない。が、いまではどうだろうか。
僕は彼女の目を見た。
何かを、そう、僕から伝えられるその一言を待っている目だ。
「うん。おいしかったよ。また作ってほしいな」
その期待以上の言葉を耳にして彼女は、嬉しそうに顔を赤くしてうつむき、弁当箱を包んできたその布巾をくしゃしゃにし始める。とてもかわいいしぐさである反面、あのアスカが?という気がした。一七歳としても幼く感じる表情に仕草に、出来れば気づきたくなかった。
心と体、知識と記憶。彼女はそのすべてにおいてバランスがとれていない。彼女の自我を支えてきたはずの英才教育は、今それを壊しかけているのではないだろうか。
僕はそれが考えすぎであるように、祈るしかなかった。あるいは、壊れる前にバランスを取り戻してほしいと。
僕は一瞬だけ、彼女の保護者を本気で恨んだ。だけどそれは子供の感情だ。
この世の中には、認めたくないけれどもそういう人間はいくらでもいる。僕の親もそうだったのだから。
・・・自分の子供に愛情を注ぐことの出来ない親・・・
その反動が今、僕に向けられている。
それはきっと間違いじゃ、ない。
しかし、僕に彼女の重たい人生を背負いきれるとは夢にも思っていない。「あっ。いたいた」
やがて全部吸ってはないにしろ一本を吸い終わり、屋上を覆う柵の一本に煙草をすりつけて消したとき、そんな声がした。
「何だよマナ」
「何怒ってる・・振りしてるの?」
「・・・」
「聞くまでもないわね」
「だったら聞くなよな」
僕は彼女を無視するように二本目を取り出す。明らかに自分を隠す行動だと、自分でもわかっている。とはいえ無意識のうちにしたことだった。
「だぁから、一人になりたいからって、そういうポーズはやめなさいって」
だがやはり、それは全部見抜かれてるようだ。むなしい抵抗だとわかっていながらやってしまうのだから、僕も結構追いつめられているのかもしれない。いつもなら考えすぎてしまう脳味噌も、いまはゆるくなっている。
「ねえ、マナ」
「なに?」
「何しにきたの?」
「アスカちゃん、探してたわよ。シンジも罪作りよねぇ。あんなかわいい子泣かすなんて」
「で、嫉妬に狂ったマナは僕の居場所を教えずに、僕がいるところにきた、と」
「狂ったかどうかはおいといてね。そんな柔な女じゃないから」
思わず鼻で笑ってしまう。
本気で笑い出しそうになったのを止めたらそうなっただけなのだが、それはそれで彼女を逆なでしそうだった。もちろん今まででもそうだっただろう。だがこの時だけは違った。
「ねえシンジ」
「ん?」
「・・・このままでいいの?」
首を傾げて彼女が聞いてくる。その仕草はまだつきあっていた頃と、全く同じだ。
彼女は気づいている。自分のその考えに相当自信があるようだ。
「・・・シンジじゃなきゃ言わない。シンジだからこそ言わせてもらうわ。本当にこのままでいいと思ってる?」
僕は答えを提示しない。
これは僕が答えるべき質問ではないだろうし。なによりその答えが正しいかどうかも、まだ僕はきっと完全にはわかっていない。
「マナって、以外とお節介なんだね。付き合ってるときは気が付かなかった」
「・・・シンジって、やっぱりにぶちんなのね」
「それこそ知ってただろ?」
僕らは笑う。
それ以外にこの重たい雰囲気を壊すことは出来なかったから。
「早く行ってあげなさいよ?」
「うん」
僕は彼女の脇を通り抜け、そのまま屋上の出入り口に向かう。
扉を開けて室内に入ろうとしたそのとき、ふと思い立って僕はマナに問いかけた。
「ところでさ、マナは何でアスカのことがそんなに気になるの?」
「・・・あたしが気になるのはシンジ唯一人よ」
僕は返事もせずに立ち去った。
おそらく、あそこで僕は返事をするべきじゃなかったし、マナの方にもそのつもりはなかっただろう。
風に吹かれて閉まる扉の音は、だが彼女の心の扉を閉めることはない。
僕は漠然とそう思った。「あっ! シンジっ!」
階段を下りて四階へ、つまり一年生の教室が並ぶ階へと降りるとちょうど彼女がいた。寂しいような怒っているような、そんな表情で僕に向かってくる。
「やあアスカ」
「やあ、じゃない! どこ行ってたのよっ!」
表面上は怒っている。おそらくそこにいるほとんどの人がそう思っている。そしてかつての僕はこういっただろう。「どこだっていいだろ」と。アスカのこと で悩み、答えが出せずにいらいらしているのと、マナに会っているという後ろ暗さがそうさせていたはずだ。でも今の僕は、そう考えることの出来る自分の脳味 噌に嫌気を差しつつ、割合平気な顔をしている。或いは、傲慢かもしれないけど、アスカの心の底にある寂しさに気が付いてほっとしている。
「どこだと思う?」
「それがわからないから聞いてるんでしょっ!」
「ふっ。男の子はミステリアスなぐらいが丁度いいんだよ。アスカもそう思うでしょ?」
「むぅ〜」
我ながら気障で卑怯な言い回しだと思う。
「ところで・・・どうしたの?そんなに慌てて」
「そっ、それは・・・その、今日もおべんと作ってきたから・・・」
「そっか。じゃ、いつものところで」
「うん、待ってる」
・・・そう。
アスカはいつだって待っていた。マグマの中へ落ちていった時も、僕が初号機に取り込まれた時も、使徒に精神汚染食らった時も、失踪した時も・・・最後の戦いで量産機にやられた時も・・・
激しい気性の裏に隠されたその思い。
僕がそれに気が付いたのは、すべてが、サードインパクトが終わった後だった。
生きて、自我を取り戻せた人達が戻ってくる少し前、僕と心を病んでいたアスカはいち早く戻ってきていた。
あるいは二人だけの終わった世界にいた。
アスカはずっと待っていた。
それはきっと誰でも良かったのかもしれない。
誰か一人。
たった一人。
彼女を真っ正面から受け入れられる、誰か。
僕はそんな彼女のすぐそばにいながら、ずっと手を差し伸べることをしなかった。
そう。
いまならわかる。
出来なかったなんていうのは言い訳だ。
あのときまでの僕は、薄々それに気が付いていながら、何もしなかったのだ。
愚図でのろまな僕がようやく手を差し伸べたとき、すでに手遅れに近かった。
「・・・殺して。あんたがあたしを好きなら、あたしを一人にさせないっていうなら・・・、あたしがあたしであるうちに・・・あたしを殺して」
後で知った。彼女は分裂症だった。
自分の心を複数の人格に分裂させることで、それを守る・・・らしい。
唯一絶対の惣流アスカラングレーは僕を拒絶することなく、最初で最後の願い事をした。そして僕は約束した。
「君のことが好きだから・・・君が君であるうちに、君を愛して、殺してあげる」と。
まだ最後の約束は果たされていない。
アスカは、まだアスカだから。
そう、信じているから。
「どうしたの? シンジ」
「ちょっと、考え事」
「どんな?」
「どうやってアスカに・・・喜んでもらおうかな、って」
「ば、ばかっ・・・」
彼女の白い肌が瞬く間に赤く染まる。
いったい何を想像したらそうなるんだろうか。
口をとがらせて上目遣いで僕を半ばにらみつけるような彼女を見て、思わず唇を重ねたくなるような欲求に駆られつつ、何とかそれを抑えて僕は彼女の頭をなでて、言った。
「楽しみにしてるよ、お弁当」
「うっ、うん・・・」
去っていく僕の視界の隅っこに、マナの姿があったような気がしたが、僕はそれを無視した。
午後の授業はやはりさぼった。
よく自分の神経が焼き切れないなぁ、と思う。
学校は勉学のためにあるという先生達の事が僕にはさっぱりわからない。学校には、勉強よりも遙かに難解で頭を悩まし神経をすり減らす事が、両手で抱えき れない程ある。先生達は一体どうやってこの学生時代を乗り切ったのだろうか。だが悲しいかなそれは誰も教えてはくれない。
現実逃避なのはわかっている。しかしこんな重たい悩みを抱えたまま授業を受けたって、無駄だ。教える先生も僕の周りの他の生徒も迷惑である。それは高校生活をしている間に身につけた結論だった。
僕は講堂にある古びたピアノの前に座った。
このピアノは、いや、ピアノに限らない。この講堂や校庭は今までにきっと僕のような生徒を見守ってきたはずだ。なにが不安でなにが落ち着かないのか、それすらもわからない僕の悩みに答えられるほど、彼らは見てきたに違いない。
蓋を開けて鍵盤に触れてみる。何年もほったらかしにされているからか、すっかりチューニングの甘くなってしまっているピアノ。それでも年季を感じさせるだけの音が鳴る。
「あれ? 先輩?」
僕が調子に乗って、あるいは例え一時でも悩みに触れないようにして、たどたどしく鍵盤の上に指を滑らせていると、いきなりそんな声がした。先輩という単語がなかったら飛び上がってしまうほどびっくりしたに違いない。
「・・・鷹取さんか」
「・・・それはなんかひどくないですか?」
ホッとしたような、呆れ返ったような、そんな僕の表情と物言いに彼女はぷくっと頬を膨らます。
「でも、どうしたの? まだ授業中でしょ?」
「それ、先輩には言われたくないですね」
「それもそうだ。でも、今からさぼり癖がつくと大変だよ?」
「経験者は語る、ですか?」
「まだ未熟者だけどね」
お互いに笑ってしまう。
僕は再び鍵盤の上に指を走らせる。たどたどしいと言っていいだろう、僕の演奏を彼女は黙って聞きながらなぜか英語の教科書とノートを開いていた。
どれぐらい経ってからだろうか、彼女は教科書を閉じて僕に聞いてくる。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「惣流さんと付き合ってるんですよね」
「まあ」
「どうやって口説いたんですか?」
「・・・どうって・・・どうだったかな」
「覚えてないんですか? ついこの間じゃないですか」
「・・・そっか。そう見えるんだ」
「・・・違うんですか?」
「いや・・・実際のところどうなのかなぁ」
確かに、彼女の言っていることの方が当然である。
あの頃を知らない人々、そしてそれは大多数なんだけど、その人達から見れば、アスカを僕がかっさらったように見えるだろう。もしかしたら僕がマナを事後応談で振ったと思っている人もいるに違いない。
「前からお互いよく知っててね。あの頃のアスカが僕をどう思っていたか、正直わからないんだけど、僕は好きだったな」
「・・・でも、この間まで霧島先輩と付き合ってたんですよね」
「うん。高校に入るずっと前、アスカは引っ越しちゃったからね」
「で、帰ってきたら惣流さんと?先輩って以外と非道い人なんですね」
「あははは。でも、マナと別れたのはアスカが帰ってくる前だし、それも僕は振られちゃったんだよね」
「えっ?! 碇先輩を・・・振っちゃったんですか?」
「そ、振られちゃったのよ、僕は」
お茶らけている僕を彼女は不思議そうな、信じられないような目で見ている。
「もったいない・・・」
真剣な顔してそんなことを言う彼女に僕は、
「あはははははは」
冗談とも本音ともつかない笑いを浮かべた。
がちゃ。
割と重ための音を立てて扉が開く。
何とか一日を終えて自分の住むマンションに帰ってきた。
鞄を文字通り投げ出し、そのままの格好でソファに倒れ込む。体は疲れ切っているが、頭はさえている。
ここ数日で感じていることが、よほど気にかかっているのだろう。
目を閉じても、瞼の裏にうつるのはアスカのいろいろな、そして最後は何故か少し寂しげな表情だった。
まだ彼女の両親が親権を持っていること、僕には保護者はいるものの実際にはここに一人で住んでいることなどが重なって、お互い一人暮らしなのだが、それ がかえっていい具合に距離を置いている気がする。あの頃のように同じ家に住んでいたら、僕はもう爆発していたかもしれない。それはきっと彼女にも当てはま る。四六時中一緒にいられるほど僕たちはまだ精神的に大人になり切れていない。
それに一人でこうしてても、何をいわれるまでもない。それが今の僕には非常にありがたかった。
ソファーで寝っ転がっていると、じわっと体の疲れが出ていく気がする。たぶん、柔らかいベットの上でも同じことだろう。すでに部屋に戻って布団を敷いて寝ようという意志はない。
「・・・ふぅ」
まるでため息のような深呼吸。
それを数回繰り返していくうちに、頭も体も睡眠状態に入り込んでいく。
「・・・もう、寝るか」
現実からの逃避と未来へのエネルギー確保。
まるで堕ちていくかのごとく、僕は夢の世界へと旅立ったに違いない。
「バカシンジ!」
「あたしがリーダー。意義ないわね?」
「こんちくしょー!」
はっと目が覚めたとき、僕はびっしょと汗をかいていた。全部着替えて布団も変えたいほど、身の回りは湿っている。時計を見ると四時。外はまだ暗い。街灯の明かりがほんの少しカーテン越しに差し込んでくる。
僕は寝っ転がったまま大きなため息をついた。
夢で見たのはあのころのアスカ。それも元気が有り余っていて、攻撃的で、そして多分そのころから惹かれていたかもしれない、強気なアスカ。今はもう時々しかそんな雰囲気は受けない。もちろん僕のアスカに対する気持ちは変わらない。
とはいえ、過去をなかったことにして今の状況を受け入れることはできない。そんなことはとうにわかっている。
そろそろ僕の中の限界が近づいてきているのだろう。
夜中に寝汗で起きるようなことになるのだから。
ベッドの上で体育座りをしながら僕はそのまま夜が明けるのを待った。
単に眠れなかっただけだった。
でも、そんなことは今までもあった。
違うのは、本当の意味で他人事じゃないだけだ。
僕が変えてやろうとは思わない。思うだけ無駄だ。所詮人は人の影響にだけ左右されることはない。人が変わるのはその人が変わろうと思ったときだけだ。
僕にできるのは彼女が変わるきっかけを与えること。それになにより、僕自身が変わることだ。
やや眠い頭で過ごした一日の帰り。僕は久しぶりに全部の授業を受け、いつも通りアスカのお弁当を食べ、そして一緒に帰る。そんな当たり前の日が終わろうとしていた。
しかしそれは表向きの行動。僕の頭の中では全然違う全然違う会話が繰り広げられていた。彼女にこの気持ち、考えをどう伝えるべきか。なにより、これから僕はどうしていきたいのか。
そんな僕の葛藤は、やはり彼女によってつぶされる。良い意味でも、悪い意味でも。
「ねえシンジ?」
「ん?」
「今度の休み・・・どっか行きたいな」
帰り際によった、彼女のマンション近くの公園。ある木陰にあるベンチに、二人で腰掛けていたときだった。背の高さが違うせいもあるだろう、彼女は上目遣いで、まっすぐ僕の目を見ながら行った。そう、僕に決心させるきっかけは、この仕草により加速されていく。
「だめ・・・かなぁ?」
ぶつりと、僕の中で何かが切れた。
目の前が白くなって頭が痛くなる。
彼女を見る目が焦点を失い、やがて頭を支えきれなくなる。「アタシがアタシであるうちに・・・」
約束の時は近いのか?
その時僕は約束を守れるのか?
約束を守っても僕は生きていけるのか?
それでも飄々と生きている自分を想像して、僕は激しく吐き気がした。
「シンジ・・・?」
あのときのアスカの言葉は、今も有効なのか?
「ねえシンジ・・・何か言って?」
僕は彼女の肩をつかんだ。それも激しく。
「痛い、痛いよ、シンジ・・・」
「アスカ」
そのまま僕は彼女を押し倒す。
「・・・」
「アスカ」
いつもとは全く違う状況をわかっているのだろう。彼女はおびえた目で、それでもまっすぐ僕を見る。こんな目を僕は知らない。知らない彼女を見て、ほんの少しだけ冷静になった。
「ねえ、アスカ?」
「・・・」
「君は本当にあの『アスカ』なの?」
多分一度しか許されない質問。本当なら一度たりとも許されない質問。
目は離さない。彼女の肩をつかむ力も緩めない。
僕はこれまで、今まで生きてきてずっと自分のことですら他人事にして生きてきた。だから逃げ出したりしたんだと思う。でも、今度ばかりはそうはいかない。
「僕はきっと、アスカはアスカのままだと信じてる」
「・・・?」
「でも、今の君は・・・」
「・・・なによ!」
「?!」
激しい、記憶の奔流。でもそれに騙されてはいけない。
「今のアタシがなんだって言うのよ?!」
彼女が激しく身を揺さぶる。僕の拘束から抜け出そうとする。
「だって、全然違うじゃないか。あのころのアスカと、今のアスカは・・・」
「全然違わないわよ! アンタ、アタシのこと、何にもわかってないっ!」
飛び起きて逃げ出そうとした彼女の手をぐっと捕まえる。ここで彼女を逃がすわけには、なんとしてもいかないからだ。
「はなしてよ!」
「はなさない!」
「そんなにアタシを疑うなら、もう良いじゃない!」
「そう、僕は馬鹿だからアスカのこと、わかってるつもりで、わかってないのかもしれない」
「そうよっ・・・」
「だからっ!」
今しかない、そう思いこんで、なおもしつこく逃げようとする彼女を、僕は全力で止める。強い言葉と強い力、一瞬おびえる彼女を真っ正面から見つめる。
「だから、教えてほしい。アスカのこと」
逃げないことですべては解決されない。逆にこちらから追いかけなくちゃいけない。向こう岸の存在だとはいえ、それでも僕はそこに行かなくちゃいけない。
僕は、彼女のことが好きだから。
それは紛れもない、僕の心だから。
「ね」
ほんの少し力が抜けた彼女を僕はぐっと引き寄せる。
彼女は僕の腕の中で、小さく、だがしっかりと話し始めた。
「アタシはね、アンタやみんなが思ってるほど柔な女じゃないのよ」
しかし彼女は僕の方を見ない。彼女の中で急にふくれあがった僕への不信感が伝わってくる。それはもう仕方ない。さっきまでの僕の行動はそう感じさせるには十分すぎた。それでも彼女は僕に答えてくれる。
「でもね、あたしは知らないの。人に甘えたり、恋に恋をしてみたり、そこら辺にいる一七才が知っていることは何一つ・・・知らなっ・・・」
僕は有無をいわさず彼女のあごに手を添えて、少し不満げな唇を奪う。
びっくりした彼女は少しだけ僕から逃げ出そうとしたが、それでも離さない僕に観念したのか、それとも少し気持ちよくなったのか、最後は僕に躰を預けてきた。いつものように。
「これで一つ、知ったね。他は?」
「お弁当、作ったり・・・」
「うん」
「どこかにお出かけしたり・・・」
「うん」
彼女は、じっと僕を見ている。さっきまでの不信感は、そこにはない。
「ほかには?」
「・・・好きな人に抱かれること」
「・・・まだ足りない?」
「全然足りな・・・」
華奢な彼女の躰をぎゅっと抱きしめ、そして首筋に唇を這わした後、耳元で囁く。
「僕だけでいいの?」
「シンジ一人だけでいいわ。だからいっぱい愛して。溺れる程・・・どんなに藻掻いても浮かび上がれない程・・・」
「どうして僕なの?」
「約束してくれたもの。あたしがあたしである限り、シンジはあたしを愛してくれるんでしょ? だから此処に来たの。あたしを愛してくれないパパとママを捨てて・・・」
僕がゆっくりと頭を撫でると、彼女は安心したように体重を預けてくる。
それは僕にとってもとても気持ちいいものだった。
僕は、きっと思い違いをしていたのだろう。
目の前にいる彼女がアスカじゃないわけがない。あのころの不安定なアスカでもない。
僕や、みんなが思っているほど、アスカは弱い女の子じゃない。
本当に、ようやく普通の女の子になったのだ、彼女は。
だから、僕は理解しなきゃいけないし、強くならなくちゃいけない。「ねえ、わかってる?」
「ん?」
「アンタが今、何を言ったか」
「・・・」
ふと、悪戯心が吹き出てくる。
「さぁ?」
「ばかっ!」
ニヤリと思わせぶりな笑みを浮かべた僕の顔を見て、嬉しそうな悔しそうな複雑な表情をするアスカ。
僕はそんな彼女の手を引いて立ち上がる。
結局のところ今までと何ら変わらない彼女を見て、昔を知る人は怪訝な顔をするだろうが、僕が知ったことではない。
僕らはこれから、変わり続けるのだから。
あとがき。
というわけで初めましての方、初めまして。お久しぶりの方、ご無沙汰してます。まっきぃです。
ずいぶん長い間何にもしてなかったのですが、今年に入ってまた何かを始めてしまいました。はい。
なんだかずいぶんオーソドックスというか、どこにでもあるネタかもしれませんが、私が書くとこんな感じになります。お楽しみいただけたらなら幸いです。
これだけ読んだ方、もしかしたら背景がわからないかもしれませんので、前作、前々作も合わせてお読みいただくと吉です。いちおうEOEその後ものです。
次回・・・はまだ考えてません(苦笑)というか続くかどうかもわかりません(滅)
疲れたときに読めるほのぼの(ちょっぴりシリアス)学園小説は時々書きたくなると思うので、それまで待っていただければ幸いです。
それではまた〜