「碇!やる気がないなら出ていけ!」
一週間ぶりに出た一限目の授業でそう言われた僕は、周りの目を多少気にしながらも鞄を持って教室を後にした。廊下に出てしばらく歩くと、さっき出ていけと言った教師、もう名前すら覚えてない、彼がなにやら悪口を言ってるようだったが、まるで気にすることなく校舎の裏手に向かって歩いていった。
そこには僕の所属するクラブの使っている古びた小さな講堂がある。勝手しったるなんとやらで、この一週間活動していなかったのだろうか、その少し埃っぽい講堂に入っていった。
擦り切れて所々穴の開いているカーテンを開け、鉄拵えの窓をがたがたと音を立てて開け、空気を入れ換える。いや、そのつもりになる。どういう訳かこの講堂の空気だけはいつの間にか独特な、いわゆるノスタルジックな空気が立ちこめてしまうのだ。もちろん僕はそれを好んで、ここを活動拠点にしているクラブに入ったのだが。
構成員十数人の管弦楽団、それがクラブの実体だ。学校から認められたわけでもないので、多大な部費をもらって活動している吹奏楽部とは雲泥の差がある。だが、そんな小さなクラブだからこそ、やりたいときにだけ活動するし、僕のような、授業をさぼって部室に来ている者がいたところで誰も咎める人間もいない。おそらく部員以外の誰も気がついてもいないだろう。
ひんやりした木の床に寝そべって、僕は一週間前のことを思い出した。
「ねえ、シンジ。話が、あるの…」
学校の帰り道、僕はマナにそう言われて小高い丘にある公園に行った。
悪い予感はしていたんだ。
あの明るくて、迷惑なこともあるけどおそらく僕にはそうされることが必要なのだろう、一歩前に踏み込んでくるような彼女が、何処か一線引いたような態度を取り始めていたからだ。良くも悪くも僕の、人の顔色をうかがう力は衰えを一切見せてないようで、この時ばかりはそんな自分を恨めしくも思った。
僕達は思い出深い、つきあい始めたこの丘を、言葉少なげに歩いていく。蚊に刺されて大騒ぎしたり、花火をしては騒いだり、時にはお互いの気持ちを確認したり、反対に喧嘩したり、相談事をしたり…
こうやって歩くだけでも、いろんな事を思い出す。
それは彼女も同じ事かもしれない。自分でもゆっくりだと思っているのに、彼女もそんな僕の隣にいるのだから。もしかしたら時間が進まないことを望んでいるかもしれない。むろんそれは、僕だけの感傷かもしれないけど。「ここ、覚えてる?」
彼女がそう言ったのはとあるベンチの前だった。そこに座っているとトンネルを抜けてくるリニアが一瞬だけ見える、そんな場所だ。
「覚えてるよ。ここでリニアが来るの、待ってたよね。」
「そうよ。気がつけば1時間もね。」
「最初はまだかまだかってじっと見てたけど、後はずっとうつらうつらしてたね。」
「シンジに膝枕してあげたのって、あれが初めてだよね。」
「そうだね。」そう言ってマナはベンチに腰掛けた。少し突然で、でもそれはなんだかいつもと同じようで、僕は少しだけ安易に笑みを浮かべてしまう。
「シンジッ、となりとなり!」
隣の空いた場所をぱんぱんと叩きながら彼女は言った。
いつもと変わらないその仕草に僕は苦笑いを浮かべ、そしてその隣に座った。
すると彼女は僕の頭に手を回し、自分の膝へと押し付ける。「なにびっくりしてるのよ。」
「いや、こう来るとは思ってなかったから…」僕は彼女の膝の上から、その顔を見上げるように見る。
うっすらと笑みを浮かべた顔に木の葉の陰が落ちていて、透き通った青空も悔しそうにその向こうでたたずんでいる。
確かあの時もこんな感じで、でも、今よりも優しく、暖かかったような、そんな身勝手なことを考えたりもする。「あぁ…」
「どうしたの?シンジ。」
「あの時さ、このまんま、夕日が落ちるまでこうしてなかったっけ。」
「そうね。あの時の夕日は綺麗だったわね。」
「うん。」
「でも、…あの頃はつきあい始めたばかりで、何でも綺麗に見えただけかもしれない。」
かさかさと、木の葉が風に揺られてささやかながらに音を立てる。「じゃあ今は?」
「…あの夕日の気持ちも、わかるかもしれない。」彼女の笑みが陰りを帯びる。
「私は出会ったときから、そして今も、シンジのこと好きよ。大好きなの。」
「…」
「でも、シンジとは、…シンジへの気持ちとはお別れしなきゃいけない。」彼女の瞳から涙が一滴。
「…なんでさ。」
「それはシンジの方がわかってるんじゃない?」
「わかってるかもしれない…、でも、わかってないかもしれない。」
「…だから、かもしれない。…だって、シンジは私を見てくれない、見続けてくれないから…」そんなこと無い、と言いきれない自分が恨めしかった。
確かにマナのことは好きだ。でも、心から彼女だけがいてくれたら、とは思ってなかったかもしれない。彼女もまた僕の元から離れていくかもしれない、その思いが何処かブレーキになっている。「シンジは、私のこと好きなの?
そう思っただけでもう駄目なの。考えちゃいけなかった。考えなければ、私は盲目的にシンジのことが好きでいられた。
でも、考えちゃった。そしたらもう駄目だった。私は好きでいられるかもしれない。でも、私が好きなシンジは、私のことを好きでいてくれるか、幸せな気持ちでいてくれるか、全然わからなくなった…」僕は彼女の膝に頭を預けたままという、何とも不思議な気持ちでその話を聞いていた。
彼女の膝はいつも通りとても柔らかくて、暖かかったから。「私といても幸せになれないの、シンジは。
そう気がついたから。…違う?」
「…幸せって、どんな形をしていて、そんな風にやってくるのか、どんな風にとらえたらいいのか、僕は知らないから…」
「…可哀想なシンジ。でも駄目なの。このままじゃ絶対…。だって…、だから…」彼女の思いは言葉にならない。
その時の僕にとってそれは良かったのかもしれない。普通なら暴れ出しそうな状況なのに、何故か彼女の言葉を聞いているうち、僕の頭はずいぶんと冷めてしまったから。
僕のそんなところが、彼女に別れを告げられてしまう理由の一つなのかもしれない。リニアが警笛を鳴らしながらトンネルを抜けていく。
「私じゃ、駄目なの…」
轟音を響かせて抜けていく。
「だってシンジは、誰を見ているのか、たぶん自分でもわかってないから…」
駆け抜けていくリニア。
落ちていく夕日。
昇っていく朝日。それらは皆、一瞬の出来事で、だからこそ心を奪われるのだろう。
僕と彼女との恋も。そう。それは確かに恋だった。
マナのことを好きになって、彼女を見て、その時の気持ちは本当だと思うから。じゃなければ校門での待ち合わせで胸をどきどきさせたのも、
膝枕をしてもらってやすらいだのも、
目が覚めた時、隣に誰かいることに安心したのも、その時の温もりも、全部嘘だと言うことになるから…
でもそんなことはないから。
あれは全部本当のことだから…だから…
「ありがとう…、こんな僕を好きになってくれて…」
「…シンジ?」
「僕もマナのことが好きだよ。」たとえその曖昧さが彼女のことを傷つけたとしても…
「君を好きだと思えて、本当によかったと思ってる。」
僕は体を起こして、そして彼女を正面から抱きしめた。
「…ごめんね、我が侭で…」
「知ってたよ、そんなこと…」
「…そっか。そうだよね。
…だったら最後の我が侭も聞いて…、…想い出を、頂戴…」そしてその翌朝から一週間、僕は失踪した。
失恋の痛手、とは自分でも思えなかった。ただどこか遠くへ、行きたかっただけだった。
手持ちのお金を使い果たして僕は昨日の夜帰ってきた。
誰もいないマンションへと。
命を賭けて戦って、結局得られたのは辛い想い出とこのマンションだけだった。最近ようやく死ななかっただけでもましだと思えるようになったけど、生きているということと死んでいないと言うことの区別も付いてしまっては、それも空虚なモノに感じられる。
別に今に始まったことではない。マナと楽しく付き合っていた頃は忘れていたそれが再びやってきただけのことだった。
何処か遠くから聞こえてくるような、体育の授業での騒ぎを子守歌にして、僕は講堂でうつらうつらし始めた。
失踪している間、それほど寝る機会に恵まれていなかったのと、今はそれ以外にすることがほとんどなかったから。腐っても授業中だからチェロを引っぱり出して弾くわけにもいかないだろう。
心地よい風と香りが、ひんやりとした床に寝そべっている僕を包む…香り?
おかしい。そんなはずはない。
ここには僕しかいないはずだし、それにこの講堂でそんな、匂いがするわけがない。
こんな、何処かで嗅いだことのあるような、甘い匂いが…ゆっくりと体を起こし、辺りを見回す。
僕が閉めたままの扉。風が通る様にだけ少し開けた窓。揺らめくカーテン。
誰かが入ってきたような雰囲気はない。と言うことは僕がくる前から居るということなのだろうか。
僕の視線は舞台の方に移動していく。胸をちくりと刺す甘く切ないその匂いにつられて。
そこはすでに違う世界だった。
そこに彼女はいたのだ。
この学校の制服を纏い、紅い髪と… 蒼い目をした…
そこにいてはいけない、そこにいるはずのない彼女が…「…アスカ?」
僕はここ数年、口にすることさえしなかったその名前を呼んだ。
自分でもバカな事だとわかっている。
だって彼女は、もう居ないのだから…
彼女はあの時、彼女でなくなったのだから…だが、頭では理解しているはずなのに、僕の体と、何より心は彼女を求めてやまない。
僕は駆け寄る。
その子の居る壇上へと。
縺れそうになる足と、激しく鼓動を打つ心臓がこの時ほど邪魔に感じられたことはなかった。何処かアンニュイな瞳と、薄く引き延ばしたような笑み。
制服のブラウスからすっとのびた、白く、だが生命力の感じられる腕。スカートから見える太股。
寝そべっているために大きく広がった紅い髪。僕はそんな彼女の傍らに座り込む。
床のひんやりした感触と、近くなっていっそう強く感じられる彼女の匂い。僕の手をくすぐる風に揺られる髪の毛と、真っ正面から僕を見つめる蒼い瞳。「き、…君は一体…」
「女が誘ってるのに、そんな野暮なこと聞かないの。」彼女はそのほっそりとした腕を伸ばし、僕の頬に手を当てる。
確かにあの甘い匂いは、この子を中心にしているようだ。
そう。僕はもうとっくにこの子の匂いに、おぼれていたのだ。記憶の底に封印していたはずの想い。記憶。
そういった物が堰を切ってあふれ出し、僕を過去に立ち返らせる。
すべてが終わり、そしてすべてを忘れた彼女を、愛おしさのあまりこの手で殺そうかとしたあの時までさかのぼると、僕はこの子の顔を撫でていたその手をその首に押し当てた。
通り抜ける一陣の風
それに巻き上げられるあでやかな紅い髪
やせ衰えてなお発せられる彼女特有の香り
そして、一瞬だけ見せた力強い蒼い瞳
「あたしを好きなら、あたしを殺して。 あたしがあたしであるうちに… あたしが一番綺麗な今…」
あの時僕は確かに、殺そうとしたのだ。
アスカを。「何躊躇ってるの? 約束を果たさなくても、いいの?」
今僕の目の前にいる女の子はそう言う。
それはとても不思議なことで、それでいてごく当たり前のことに思えた。
今僕の目の前にいる彼女は、まるであの子のようだから。「約束は、果たすよ。」
僕は両手で彼女の顔を挟み込み、まっすぐに視線を絡ませてそういう。
「僕が君を好きならば、僕は君を愛して、君が君であるうちに殺してあげる。」
彼女の瞼に、頬に、そして唇に、僕は口付けをした。
そして躰を抱きしめる。折れてしまいそうな華奢な躰。そんな体に似合わない力強く生命力に溢れた彼女を思いだして、僕は涙をこぼす。「泣いているの?」
「…後悔、だよ。」そう、後悔。
僕は結局あの時何もできなかった。彼女の唯一の望みすら、僕はこの手で断ってしまった。彼女を愛することも、そして殺すこともできなかった。「あの時こうしてれば、そう思うと涙がね。」
彼女は何も言わず僕に口付けをする。
僕はその細く華奢な体を、壊れるほど抱きしめた。
彼女が僕の背中に爪を立てる。
僕にはそれすらも心地よく思えた。
気がつくと舞台の上で一人寝ていた。
まだ日は照っているようだが外はどうも騒がしい。その騒がしさに起こされたようだ。おそらく放課後になったかならないかといったところか。
僕は気怠い体に鞭を打って体を起こす。
そこには誰もいなかった。
さっきまでのことは僕が見た夢か幻か。そう思えても無理はなかった。
だがそれでもそこまでだった。
次第に頭がしゃっきりしてくると、彼女の残り香に、手に絡みつく紅い髪の毛に、気がつく。
「夢じゃ、なかった?」
だがどうにも信じられない。
彼女は、アスカはずっと前に心を壊して日本を去っている。よしんば自分を取り戻したとしても再びこの地に戻ってくることなどないだろう。あの組織は解体され、僕は自由を得た替わりにそのほかのすべてを失ったのだから。
頭の中で、さっきのことはすべて夢だったと決めつけ始めたその時、僕はそれに気がついた。
赤い鮮血と生徒手帳。
一瞬僕は寝ている間に怪我でもしたのかと思ったが、何処にもそんな様子はなかった。生徒手帳も僕のより数段綺麗に使われている。
僕は認めたくなかったからか、その血の方を見向きもせず、生徒手帳を手に取った。
そこには、僕が驚愕し、凍らせてなお余りある名前が記されていた。
『1−A:惣流アスカ・ラングレー』と。
「あれ?碇先輩。」
呆然としている僕に声がかけられる。
我に返った僕は慌ててハンカチを取り出し、目の前にある鮮血をふき取った。
「どうしたんですか?ずいぶん早いですね。 …もしかして、また授業さぼったんですか?」
「もしかしなくても、だよ。じゃなきゃこんな早く来れるはずないじゃないか。」
僕のその言葉を聞いてため息を一つついたのは、クラブの後輩である鷹取サヤ。ファーストバイオリンを担当する彼女は学業の方は知らないが、何故かこのクラブ活動には真面目に取り組んでいるように思える。いつぞやもこうやってさぼっている時に、一番はじめにやってきては簡単に掃除したりしていた。
そして今日も同じように、掃除を始めた。
「そういえば先輩。一週間も何処に行ってたんですか?」
「何処に、って?」
「もうっ。ごまかしても駄目です。この一週間学校にも来てなかったんでしょ?」
一つ下の女の子のすごまれてしまうっていうのは、何とも僕らしい。
ただ、中学を卒業してまだ間もない鷹取さんだと、無駄に背丈がのびてしまった僕を見上げるようになってしまい、何となく、怒られているような気はしない。むしろ世話焼きな妹のような感じだ。
そう、さっきのあの子のように…
僕の頭の中で何かが引っかかる。
「不思議そうな顔してごまかしても駄目ですよ。このクラブでチェロを弾けるのは先輩だけなんですから、もっとしっかりして下さい。」
「ごめんごめん。ま、気を付けるようにするよ。」
「全然誠意が感じられませんね。」
やけににこやかにそう言う彼女を後目に、僕は頭の中に巣くった違和感と格闘し始めていた。
考えが進むに連れて、冷や汗の量が増える。
あの子がアスカだとして、じゃあなんで背格好があの頃と同じなんだ?
僕の目の間を掃除する鷹取さん。彼女はあの頃のアスカとよく似た背格好をしている。もちろん髪の色も皮膚の色も瞳の色も違うからまるっきり別人ではあるのだけど…
僕がさっき抱いた女の子は、どう考えてもこの子ぐらいの背格好しかない。寝そべっていたからあの時は気がつかなかったけれど…
「先輩?」
はっと、意識を取り戻す。
すぐ目の前に、胡散臭そうな顔をしている彼女がいた。
「どうしたんですか?何かに取り憑かれたみたいな顔して。」
「…言い得て妙かもしれないね、それは。」
僕はその言葉を一笑に伏し、チェロを取り出して和音のアルペジオを適当に並べ始める。そしてそれはやがて、一つの曲へと変わっていった。
ニュルンベルグのマイスタージンガー
なんの前触れも繋がりもなく、無節操なまでに明るく賑やかな曲をチェロ一本で弾き始めるという無謀さは、今の僕にとってぴったりのことだった。
「・・・?」
何かを忘れようとするかの如く一心不乱に引き続ける僕を見て、彼女はバイオリンを取り出し、僕と同じように弾き始めた。
一曲丸丸を弾き終えて、彼女は開口一番言った。
「どうしたんですか?いつもはもっと静かな曲を弾く先輩が…」
「ま、たまにはこういうのもありだよ。」
それにしても、このクラブには二人しかいないのだろうか。
そんなくだらないことを思いついたとき、入り口の方で拍手が聞こえた。
「碇君。次の課題曲はそれにするの?」
3年生の先輩以下、数人の部員だった。
だいたいこれで出そろったのかな。
「そうなんですよね。碇先輩は一週間もこの曲練習したんですから。」
鷹取さんが含みのある台詞を吐くのに、僕はただただ苦笑するしかなかった。
部長がネットに潜り込んでスコアを探している間、僕と鷹取さんも含めてチューニングが始まり、そしていつも弾いている曲で全員の調子を確認する。やはり僕がいなかった一週間はまともな活動をしていなかったようなのだが、それでも好きで演奏し集まっている連中である。やがてその音は綺麗に一つにまとまった。
いろんな音が混じり合い一つになって、複雑な旋律を奏でるという、例えようのない心地よさに僕は酔いしれる。
「仲間、か。」
「どうしたんですか?先輩。」
「いや、仲間って言うのはいいものだな、ってね。」
「なんか先輩、年寄りくさいです。」
「…そうやっていってくれる相手が居るっていうのが、いいんだよ。」
僕は一週間ぶりに、チェロの箱鳴りを体で感じながら、みんなの顔を見た。
実に高校生らしいその姿に、あの時戦った成果があった。
それだけでも良しとしよう。
初めてこのクラブに入った一年前に思ったことを再確認して、僕は再び楽曲の骨になる低音部分を担当するチェロに弓を走らせる。
アスカはこの気持ちを知っているのだろうか。
知ることが出来るのだろうか。
「おい、碇。一年ですっげーかわいい転校生がいるんだってよ。見にいかねえか。」
「遠慮しておくよ。…か、彼女に悪いし…」
「あれ?お前ら別れたって聞いたけど?」
「誰に?」
「本人に。」
翌日、無事に一限目を過ごした僕の元に、クラスの友人の一人がやって来てそう言った。僕にとってその言葉は二重に重かったりするのだけど、そんなことは僕以外にわかるわけもない。
彼が頭を向けた先にはマナがいた。
隣のクラスにいる彼女は、何故かこの休み時間、僕のクラスの廊下にいて…
…あろう事か僕を見ていた。
「一週間ぶり。」
「そだね。マナはちゃんと学校に来てたの?」
「当然じゃない。どこかの不良学生とは違うわよ。」
「不良学生じゃなきゃ、なんで隣のクラスで教科書なんて借りてるんだよ。」
「よい学生でもないのよ。」
飄々と言い放つ彼女のその姿に僕は少しだけ安心する。
僕らが別れたのは、客観的に見れば僕の方が原因かもしれないからだ。例え言い出したのが彼女であっても、その原因を作ったのは僕であるのは間違いない。
恋人ではなく友人、その辺の区切りをつけられる、割り切ることの出来る彼女の態度は、やはり見習うべきものがあるかもしれない。
いつになっても女性から教わることは多いようだ。
「で、シンジはどうするの?」
「なにを。」
「なにを、じゃないでしょ。噂の転校生、見に行くの?」
「…どっちにしてももう時間がないよね。」
僕がそう言うとチャイムが鳴った。
「ちっ。時間切れか。」
「残念だったね。」
「次の時間、逃げるなよ。」
「それはどうかなぁ。」
僕はそこまで言うと、はたとあることに気がつき、自分のクラスに戻ろうとしたマナを呼び止めた。
「マナ。一つ聞きたいんだけど?」
「なに?」
「その、転校生のこと、何か知ってる?」
「ふぅ〜ん。シンジも興味あるんだぁ。」
「ま、そう言うことにしといてよ。」
「…つまんない反応ねぇ。ま、いいわ。私も詳しくは知らないのよ。クラスの男共が一昨日辺りから騒いでるぐらいで。」
「そーなんだ。」
「じゃ、またね。」
やけに快活な笑みを浮かべて彼女は風神のように去っていく。
自覚しているんだろうか。その笑みがクラスの男どもを陥落させていることに。
かろうじて陥落を免れた彼もまた、別れたばかりのはずの僕に、軽い嫉妬の視線を送りながらいった。
「なんだ。お前ら仲いいじゃん。」
「ま、学校の中だしね。絶交切った、って言うわけでもないし。」
「いいよなぁ、そういうの。俺なんか別れたらそれっきりだぜ。」
「そりゃぁ、おまえが浮気したからだろう。」
「いってくれるよ…」
彼が、とほほと演技をしながら自分の席に戻っていく。
僕はその姿を見ながら気持ちを引き締めた。
もしかしたら。
そんな思いに潰されないように。
「碇先輩、どうしたんですか?」
「あれ。鷹取さん…」
「はっはーん。先輩も例の転校生ねらいですかぁ?」
一年A組。
そこはクラブの後輩である鷹取さんのクラスでもあり、そして僕が連れてこられた転校生がいる、というクラスでもあった。
「いや。僕は付き添いで…」
関係ないよ、と言えなかった。
教室と廊下を隔てる窓の向こう。
そこに、出来たばかりのわずかな友人と歓談する彼女がいた。
やや小柄なその体では見上げるばかりなのに、あの頃よりもさらに大きく見えるのは、僕の目の錯覚なんだろうか。
「先輩ッ。なに呆けてるんですか?」
「おいおい。興味ないようなこといっといてそれはないんじゃないか?碇。」
「ん?」
僕はろくな反応が出来ない。
だって、そこにいる彼女は、紛れもなく昨日抱いた…
…そして、あの頃の…
未だ鮮烈に覚えてる。
飛行甲板に降り立ったときに見た、燃え上がるような紅い髪とすべてを見透かすような蒼い瞳。仁王立ちになって自分を誇示するその姿。いつも自信満々で我が侭で、僕を困らせて楽しんで、それでもどこか寂しかった彼女。
呆然とする僕に気がついた彼女は、まっすぐこちらにやってくる。
「惣流さん?」
「ごめんなさいね。ちょっと野暮用があって。」
声がだんだん近づいてきて…
「あんたがサードチルドレン?」
記憶の奔流にめまいを起こしそうになる。
「ふぅーん。冴えないわね…」
あの時の彼女は僕より少し背が高かった。
今は僕を見上げるように、だが確かに冴えない、と言った。
「碇が?」
「先輩が、冴えない?」
「とーぜんよ。バカみたいに身長だけ伸びちゃってさ。」
「それはないんじゃないかなぁ。」
その、不気味なまでにあの頃そっくりの口調は僕の緊張を解きほぐす。
頭のいい彼女のことだ。そこまで計算し尽くしているのかもしれない。
「じゃあ気の利いた台詞の一つでも言ってみなさいよ。」
「おかえり、アスカ。」
「ただいま、バカシンジ。」
僕をそう呼ぶのは世界でたった一人。
惣流アスカ・ラングレー。僕の数少ない約束を果たすことなく去っていった彼女は、今僕の目の前にいた。
「それだけで気を利かせたつもりじゃ…」
僕は彼女に最後まで喋らせず、思いっきり抱きしめた。
果たされなかった約束。その積もり積もった想いは自他共に認める控えめな僕を突き動かす。
「ちょっ!ばかっ!なにすん…」
「僕は、ずっとこうしたかったんだけど。アスカはそうじゃなかったの?」
僕の腕の中と、僕達の周りが凄く騒がしい。
ま、当然と言えば当然かもしれない。
昨日かいだ甘く切ない香りと、今腕の中にある彼女のぬくもりを前に、沸騰しそうになる頭を、必死で冷やす。
「か、かっこつけてんじゃ、ないわよ…」
泣いているのか怒ってるのか笑ってるのか。
実に彼女らしい複雑な表情を見て、僕は笑った。
「な、なに笑ってるのよっ!」
「そんなアスカが大好きだよ。」
チャイムが鳴り響くと、僕は彼女を抱いていた手を離して、
「ば、ばかっ!なにこんなとこで、こんなに人がいるのに…。
あ、あたしだってねぇっ!」
「続きは後で二人っきりになってから聞くよっ!」
騒然としているクラスと廊下を後目に駆け始めた。
真っ赤になりながらも、僕を見送っているアスカに手を振って。
僕の中にある止まってしまった時計は、今ようやく音を立て始めた。
ちくたく、
ちくたく、と。
まっきぃことYoshitake Makiishiさんから頂き物をもらいました。
冒頭ではダルい感じのシンジ君、マナともお別れしていよいよサッドマック(謎)かと見えましたが‥。
興奮幸運の女神との素晴らしいひとときのおかげで、溌溂と復活ですね。
後腐れなくマナと関係できて(爆)、アスカも手に入れることができたシンジ君。
誰もがハッピィエンドと認めることでしょう。
みなさんの感動をぜひカタチ(=メール)にしませう。