恐ろしいのは、あれが夢ではないという事である。

その場所は確かに存在し、若い2人を恐怖と戦慄に陥れた。








「それにしても久しぶりよね、ミサトのとこに行くの」





振り向くのに合わせて、ふわりと長い髪が揺れ、日の光に透けて金色になった。

小さな白い顔の中の、煌くサファイヤの瞳が印象的である。

きびきびとした動作や弾むような歩き方が、少女を活発に見せている。

道行く人も振り返る、美少女率100%の彼女、名を惣流・アスカ・ラングレーという。





「加持さんの『新婚なのに単身赴任決定ちくしょー会』やった時以来だから

……半年ぶりかな」





一歩前で光を弾く蜂蜜色の髪に目を細めている少年、彼は碇シンジ。

黒い瞳が溶けそうな優しさを乗せて、彼女の後ろ姿を映している。

すらりとした長身に清潔感に溢れた顔立ちは、かっこいい率78%という所だが

ネーミングセンスは持ち合わせてないらしい……「ちくしょー会」ってなあ。








常夏の空の下を歩く2人は呑気そのものだった、そりゃそうだろう。


この後に「身の毛もよだつ体験」が待ち受けている事など

彼等が知るわきゃないのだから……




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常夏の怖い話



by むぎさん


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「結婚半年で、旦那様が単身赴任なんてねえ…」

「でも、『助けて』だなんて何なんだろうね、ミサトさん」





1年前まで一緒に暮らしていた三十路の保護者の顔を思い浮かべて

二人して「うーん?」と首を傾げる。

電話での救援要請なんて、普通なら、事は急を要するのであろうが

要請した相手があの姉貴分だけに、イマイチ深刻さに欠ける。





「自分で作った料理でも食べちゃったんじゃないの?」

「……アスカ…ミサトさんの料理は確かにまずいけど、助けを呼ぶほどじゃ」





シンジがそこまで言った瞬間、アスカが立ち止まってクルリと振り向いた。

蒼いお目々がキッ!と音を立てそうだ。両手を腰に当てているのがお約束である。





「あれは充分レスキューを呼んでもいいレベルよ!口に入れた途端に細胞レベルで、

摂取を拒否してしまうくらい食べ物をまずく出来るってのも一種の才能よね。

N2爆弾なんかよりミサトの手料理を使徒にぶっかけてやってたら、使徒もあんなに

しつこく第3新東京市に来ようなんて思わなかったんじゃないかしら?」


「そうかもしれないけど・・・少しは『容赦』って言葉を覚えようよ、アスカ・・・」





あまりのこき下ろしっぷりにシンジが溜め息交じりに笑っているが

そう言うシンジの返事だってなかなかどうして………





「まあ、このくそ暑い中呼び出したんだから、大した事じゃ無かったら

今度こそフランス料理のフルコースね!」


アスカがホクホク顔になった。大した事じゃ無いと決め付けてるようだな。


「フランス料理〜?日本料理がいいなあ、懐石とか、寿司とか……」


奢ってもらう事はこいつらの中では決定事項らしい。





「日本料理はあんたが作ったのが一番美味しいわよ」

「え?…そ、そう?あ…でもさ、僕のはお惣菜って感じだし・・」

「そんな事無いわ。魚の煮付けとか天ぷらとか絶品だもの!」

「そ、そうかな?」

「酢の物だって、おひたしだって・・こないだのユバの奴もすっごい美味しかった!」

「湯葉?中にエビとか椎茸とか竹の子とか色々いれて春巻き風にした奴?」

「そう!それ」

「へえ、気に入ったんだ。じゃあ、また作るよ」

「わーい!やぁっぱ男は料理よね♪」





どっかで聞いたようなフレーズだが……


こんな聞いてる方が馬鹿馬鹿しくなるような会話を繰り広げつつ

2人はマンションに到着したのである。


それが、恐怖と戦慄への入り口だったのだ。




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ピンポーン





「はーい。開いてるわよん!」


中から聞こえた声に2人は顔を見合わせた。

SOSを発信した人物にしては元気そうだ。




「これはフルコース決定ね」


アスカのにんまりした顔に、シンジも苦笑する。





プシュ……

空気の抜ける音と共にドアが開き……2人はその場に立ち竦んだ。

立ち竦まざるを得なかったのだ。










「……家を間違えたらしいわね……」


先に声を出したのはアスカだった。


「いや……間違いなくミサトさんの家だよ……」


シンジが重い重い、おっも――い溜め息をついた。





『あの時は「引っ越してきたばっかり」だから、あの程度だったんだなあ……

あの程度でも凄かったけどなあ…グレードが上がっちゃってるよ……』


これはシンジの心の声。








彼等の目の前にはゴミが散らかっていた。と言うか、ゴミで埋もれていた。

いや、ゴミ集積所の方がマシな状態だった。いやいや、部屋がゴミで構成されていた。

いやいやいや……ああ!もう何と表現していいのか判らない!!

そこには常人の想像を遥かに越えた光景が広がっていたのである。





よーく目を凝らせば、玄関先だけに靴やらスリッパやらも確認できるのだが

ここまで散らかって(と言う言葉すら当てはまるんだかどうだか…)いると

ゴミにしか見えなくなってくる。心なしか、異臭も漂っているような……





「唖然」「呆然」と、絵に描いたように立ち尽くす2人の耳に

ガサゴソと何かをかき分けて、誰かがやってくる音が聞こえた。

この場合の「何か」とは十中八九「ゴミ」であろう。





つまりは、狭くもないこの家の中は、全てこの有り様に近い…と言う事か……?





その考えに思い至った時、2人の全身にほぼ同時に鳥肌が立った。

そりゃそうだろう。このくそ暑い日々の中、紙ゴミだけならともかく

この家にだって台所と言うものがあるのだ!……いかに無用の長物であろうとも。








「逃げよう、アスカ」

「そ、そうね」


逃げちゃ駄目だ…を、座右の銘にしている少年の躊躇の無い言葉に

敵前逃亡…を、何より嫌う少女も今回ばかりは素直に肯く。





だが、その判断は少し遅かったようだ。回れ右をした2人の襟首は

ガシッと何者かの手に掴まれていた。

2人の顔が見事なほどに青ざめる。青ざめたくもなるだろう。


「逃がさないわよん♪」


手の先には、にーっこりと微笑むミサトが居た。





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「逃げようなんて酷いじゃない、お2人さん。まあ、入って入って」


軽い口調で言い放つミサトに、蒼い目を凍らせてアスカが返す。


「入って…って…何処によ?……」

「いやあねえ、アスカったら冗談言って!」





ペン!とアスカの肩を叩く仕種もわざとらしい。

シンジは………ああ、声も出ないほど、がっくりとうな垂れていらっしゃる。


2人とも逃げる意志は無いようだが、脱力感は拭い去れないのだろう。

この先の展開は嫌と言うほどわかりきっている。つまり、ミサトのSOSとは

このゴミの山を、人間の住処にしろ…と、そういうことなのだ。





うんざり………この時のシンジの表情である。

げんなり………この時のアスカの表情である。





「もう!2人揃ってそんな顔しなくってもいいじゃなーい!」


一人ミサトだけが異様に明るい。100ワットの笑顔だ。

頼みごとをする時は愛想良く…という、彼女なりの処世術かも知れないが、

この場合、腹立たしい事この上ない。





「とにかく入ってよ」

「「いや(です)!!」」

「…ユニゾンで言わなくても…」


2人のあまりの剣幕にミサトが1歩引いた・・・・・ゴミ踏んでるよ・・

シンジが重い溜め息と共に口を開いた。





「ミサトさん…僕もミサトさんと2年近く一緒に暮らしてましたから

ミサトさんの事は嫌って程わかってます……いかにガサツでズボラで

だらしないかって事くらい……そりゃもう、口にするのも馬鹿馬鹿しいほど

わかってます……」

「そこまで言わなくても…」


ミサトが両手の人差し指をくっつけた。イジイジと言う効果音が似合いそうだ。





「いいえ!今日と言う今日は言わせて頂きます!いいですか?

ミサトさんのズボラさは百も承知ですが、人を家に呼ぶ時くらい、

せめて足の踏み場を確保しておいてください!!」


シンジが怒りもあらわにミサトに詰め寄る。ミサトの額にタラリと汗が流れた。





「か、確保はしてあるわよ……」

「ミサトさんの目にだけわかる足の踏み場じゃなくて

人類なら必ず判る足の踏み場なんでしょうね………?」

「う……」


明後日の方角に目を泳がせるミサト……これで答えは言わずもがなである。

黙って聞いていたアスカも、溜め息をつきつつ腰に手を当てた。





「何にしたって、この部屋に入るのはごめんだわ。せめて

人が踏み込める状態にしておきなさいよ。話はそれからよ」

「そうですね、今日は帰らせてもらいます」


キッパリ、ハッキリと言い切った2人にミサトが泣き付く。





「待って!お願い!帰らないでええ!!今日中に何とかしなきゃ……!」


ミサトのセリフに帰りかけた2人が立ち止まった。何か耳を疑う言葉があったような…





「今日中…?」

「今日中って言ったの?ミサト…?」


コクコクとうなづくミサト、その目にはせっぱ詰まった光と零れ落ちそうな涙が…





「明日、加持が帰ってくるのよ……だから……」

「「…………………………………………………………明日?」」


長い沈黙の後に、そうつぶやいてゆっくりと振り向く……ご丁寧にユニゾンで。








振り向いた2人の目に入るのは、想像を絶した散らかりっぷりの部屋である。


現在時刻…13時22分








「明日って……何時頃なんですか…?」


恐る恐る…シンジが口を開いた。





「日本には10時35分着の予定で、その後本部で報告やら何やらしたら

帰ってくるから……遅ければ15時くらいになるだろうけど…」

「……早ければ?」

「13時くらいには……」


とうとうミサトはエグエグと泣き出した。





「つまり……24時間無いって事ね………」


アスカは天を仰いだ。シンジは地に視線を落とした。


数瞬の沈黙が流れる………

天と地に向けていた視線を、ゆっくりと目の前のベソかきミサトに戻した2人。







「「どーしてもっと早く言わない(のよ!!)んですか!!」」


本日ユニゾン3回目……ピャ〜〜っとミサトが泣き出した。





「だって…だって自分でやろうと思ったんだもの。半年ぶりに帰ってきた我が家が

あまりにも汚かったら加持が可哀想だし、綺麗な部屋に美味しい手料理で迎えてあ

げたいと思ってこれでも努力はしたのよ?でも・・でもね!!やればやるほど収拾

がつかなくなっちゃうのよおお!!」


ミサトが泣きながら、そこまで一息に言った。見上げた心構えと肺活量だが・・





「ねえ……今『美味しい手料理』って聞こえたんだけど、あたしの空耳?」


こそこそとアスカがシンジに耳打ちした。心なしか青ざめている。


「空耳じゃないけど……今の問題はそこじゃないよ、アスカ…」


ひそひそとシンジがアスカに返す。そうだね、君の意見は正しい。





今の問題は、

「この壊滅的な部屋を24時間以内にまともな状態に仕立て上げなければならない」

ってことだ。





エグエグ、グシュグシュと泣き伏すミサト。

シンジとアスカは顔を見合わせてから、力なく笑った。

人間どうしようもない時って、つい笑っちゃうよね、うんうん。





2人は諦観の笑みと共に、人外魔郷へ足を踏み入れる決意をしたのである。





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「…………………………………………………………………………」

「…………………………………………………………………………」


人外魔郷へ足を踏み入れた2人のリアクションがこれだ。

足を踏み入れた途端に、決意が砂の城のようにサラサラと崩れていく。





ゴミ袋がいくつも転がっている玄関。

廊下にはドサドサと新聞や雑誌が積まれている…埃と共に。

おそらく、これがミサトが自分で掃除をしようとした名残なのだろう。


リビングには、大量の服とビールの空き缶と、コンビニ弁当の容器やら

スナック菓子の袋やらダイレクトメールに、雑誌に、新聞、ちらしに

レシートや明細書、何やらかんやら………足の踏み場がない。





「ミサトさん…どこに足の踏み場があるんですか…?」

「え?そこの雑誌の横とか、ビールの缶の横とか…」


と、ミサトが指差した先に転がっていたのは……ブラジャー……

扇情的なカップに、扇情的な形…なんだろうけど、埃で色がくすんでしまっている。





「きゃ、いやん。シンちゃんが見るには刺激が強かった?ごめんねー」


ふざけた口調だが、慌てて拾い上げた所を見ると照れ隠しだろう。


「そんな埃にまみれた『乳当て』見たって、何の刺激にもなりませんよ」


シンジは頭痛に耐えるようにこめかみに指を当てた。「乳当て」って、あーた…





そんな2人の会話の横で、呆れ果て過ぎて、無反応になっているアスカが

何気なく、そこに転がっている弁当の容器を拾い上げた。





フワ……と、飛び上がる小蝿




ゾワワワ……と、蜂蜜色の髪が震えた。

その震えが移ったかのように、握った手もフルフル震えている。

えーと……これは…





「確か・・・日本には『物には限度』って言葉があるはずよね・・・?」


やはりご立腹でいらっしゃる・・・まあ、とっても低い声。





次の瞬間、アスカがミサトの胸座を掴み上げる、目にも止まらぬスピードだ!

続いて、言葉の速射砲。


「あんた、気持ち悪くないの!?こんな部屋によく住んでられたわね!!どうやったら

ここまで壊滅的に散らかせるのよ!!半年前まではこんなに汚くなかったじゃない!!

確かにズボラでガサツってのは知ってたけど、ここまで酷いとは思ってなかったわ!!

どっかおかしいと思われても仕方ないわよ!何よりも先に病院に行きなさい!この部屋

に平気で暮らしてられる時点で精神的に何かおかしいとしか思えないもの!この部屋は

異常よ!異常なのよ!?掃除するったってどこから手をつければいいのか判らない部屋

なんて見た事も無いわよ!!独り身だったら埃やゴミにまみれて朽ち果てるのも勝手だ

わ!それだって理解に苦しむけど、勝手にすればいいわよ!!でもね!あんた一応、人

妻でしょ!今は旦那様が単身赴任とはいえ、共同で生活を営む人がいるんでしょ?!だ

ったら最低限、人としての生活が出来る状態をキープしなさいよ!人がこの部屋を見た

ら、あんただけじゃなく加持さんまでおかしいと思われるのよ!!それでもいいの!?

いい年して恥ずかしいと思いなさい!!」





すっげ……容赦なーし…





「あ……あうあうあう……」


さすがのミサトも、アスカのあまりの剣幕に返す言葉もない。





「まあ、ミサトさんも汚いって事は自覚してるんだよ…だから僕たちを呼んだんだし…」


宥めるようにアスカの肩に手を置いて、シンジが一応フォローする。





「それに、ミサトさんは病気じゃなくて、果てしなくズボラなだけだから」


うわ――…サラッと落とすなあ。優しい口調だけに、こーれはクリティカルだ。





がっくりと肩を落とし、滝の涙を流すミサト。目標、完全に沈黙……自業自得である。








フー…フー…と、怒りのために乱れた息を整えて、アスカが改めて室内を見回す。


「…通常装備じゃ、とても太刀打ちできないわ……ミサト!!」

「は!はい!!」


こてんぱんに怒られたミサトがビクンと直立不動になった。





「髪ゴムある?あとヘアピン」

「あ…あるけど?」

「貸して。髪を下ろしたままじゃ邪魔になるから」


先ほどまでの脱力状態が嘘のように、やる気モードになっているのは、

やはり怒りのパワーだろうか。





「この部屋…きっちり人の住処に戻してやるわ…」

「ほんとに戦い好きなんだから……」


アスカが髪をまとめながら不敵な笑いを浮かべる。

それを見て苦笑を浮かべるシンジの目は溶けそうに優しい。

…わかったわかった、そんな所も好きなのね、はいはい。








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「さ!やるわよ!」


その一言で、戦闘は開始された。





髪を一つにまとめたアスカが、まずは転がってる大量の服を拾い上げる。

シンジはゴミ袋にゴミを集め始めた。テキパキ、シャキシャキと擬音がつきそうだ。





「ミサト!ぼーーっとしてないで、ゴミを外に出して!」

「そ、外?でも今日はゴミの日じゃないし……」


ぼんやり立ち尽くしていたミサトが、アスカの急な指示にワタワタする。





「今日はゴミの日ですよ。収集車が行っちゃっただけで・・」


空缶を拾い上げるたびに、飛び上がる小蝿にシンジが溜め息をついた。

・・・・・小蝿のせいだけじゃ無いかもしれないが。





「とにかくゴミを外に出さない事には、部屋の中がゴミで埋まるだけですよ。

次のゴミの収集は明後日ですから、明日はゴミの山と共に加持さんを出迎える

事になりますね」


事実を事実として言い切っただけのシンジの口調。





「それは嫌・・・」


ミサトが情けない声を出した。

そうだろうね、それが嫌だから恥を忍んで助けを呼んだんだもんね。





「だったら、このゴミを外に出しましょう。清掃局に連絡して、掃除が終る頃に

引き取りに来てもらうしかありませんね。ご近所にはちょっと申し訳ないけど」


さすがである。伊達に兼業主婦をやっていなかったらしい。





「でも、集収日じゃないのに取りに来てくれるものなの?」


ミサトがゴミを両手に玄関に向かいつつ、首を傾げた。


「手数料は取られるでしょうけど、大丈夫だと思います」


シンジが新しいゴミ袋を引っ張り出す。


「もし駄目だって言われたらー?」


ドサ…とゴミを玄関先に置きながら、部屋の中にそう声をかける。


「その時は大人の知恵で何とかしてください!無茶を通すのはお得意でしょう?

あの頃の作戦指揮の要領でやりゃいいんです!」


部屋の中から返ってきた声がこれだ……自然体で容赦の無い奴だな。





玄関先でミサトがうずくまってシクシク泣いてるし……

やっぱりなあ…さっきグサグサって音がしたもん。








「ミサト!何サボってるのよ!ちゃんと動きなさい!」


洗濯物を抱えたアスカがしっかりとどめを差すところが、まったく似合いのカップルだ。





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サクサクと掃除は進んでいく。


次々に家の中から運び出されるゴミ袋。

ハタハタと揺れる洗濯物、やっと「乳当て」が「ブラジャー」に昇格しそうである。





「そういや、ゴキブリはいないね…まあ、リビングだからかな」

「ここまで汚れてたら、ゴキブリだって裸足で逃げ出すわよ」


掃除機のスイッチを切って、フゥと息をついたシンジに

アスカが棚を拭いた雑巾を絞りながら言いきった。

そうすると、脱ぎ捨てられたゴキブリの靴が点在する事になりそうでやだなあ…





「わあ、久しぶりにカーペットが見えたわ。カーペットって柔らかい物だったのねえ」


トイレ、風呂の掃除を終えたミサトが、リビングに戻るなり、しみじみと足踏みをした。

……………何も言うまい………





完璧主義のアスカと、家事万能のシンジがタッグを組んだら

どんな場所でもあっという間に片付きそうだが、さすがにここは人外魔郷だった。


午後7時…掃除を始めて約5時間半経過した現在で

やっとリビング、バストイレが終った程度である。


こうなると常夏の太陽がありがたい。

乾燥機並みのスピードで、洗濯物も次々と乾くし

日もまだ落ちきっていないから、窓を全開にして埃と小蝿を追い出せる。








「ちょっち一休みしない?お腹も空いたし」

「そうね。洗濯物はほとんど片付いたし、リビングもやっと座れるようになったしね」


ミサトの提案に、アスカは異存無しのようだ、が……


「でも台所は壊滅状態のままだから、何も作れないよ…?」


シンジは横目で台所を見やって大きく溜め息をついた。最大の難関が手付かずだ。





「外に食べに行きましょうよ。もっちろん奢るわよん♪」

「外に出るのは嫌よ!埃まみれだし汗だくだし」


機嫌良く言ったミサトにアスカがかみつく。





「取りあえず何か買ってくるよ…それでいい?」

「それしかないわね……当然ミサトの財布から出るのよね?」

「はいはい。これで済むなら安い物だわ」


ミサトが財布からお札を出しながらにんまりした。





「ああ、今回のお礼は、正装じゃないと行けないお店のフランス料理のフルコースね」

「僕は値札が『時価』って書いてあるようなお寿司やさんで食べ放題って事で」


ミサトの手からハラリ…とお札が落ちた。情け容赦がないな……いや、妥当なのか?





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「残るは2部屋と台所ね・・先は長いわ・・」


食後に缶ジュースを飲みながら、アスカが溜め息交じりに確認した。


「順番にやっつけていくしかないね、そう言えば清掃局に連絡しました?」

「ええ、明日の午前中に取りに来てくれるって」


シンジがコンビニ弁当の空容器をゴミ袋に入れながら、ミサトに視線を向けた時

彼女は常人には踏み込むのにも勇気がいりそうな台所に平然と足を踏み入れ

冷蔵庫を開けるところだった。……って、何をするつもりなのかな?


当たり前の顔をして、取り出したのはエビチュである。


勢い良くプルタブを開けようとしていたミサトの指が止まった。

ひんやりとした気配に気がついた所はさすがに作戦部長だ。


ゆっくりと視線を冷たい気配の方へ動かす作戦部長……おお、見事なフリーズ。





アスカの蒼い瞳が、怒りの炎で赤く染まりそうだ。

反対にシンジの黒い瞳は、絶対零度である。「冷たき事 宇宙空間の如し」

これじゃ、凍りつくってもんだ。





「あ…あはは……いや、ちょっと、息 抜こうかと…駄目?」


ミサトが、鏡を見せられたガマの様に、たらたらと汗を流す。





「……帰ろうか、アスカ」

「……そうね」

「待ってえ!!ごめんなさい!見捨てないでえぇ!!」





立ち上がりかける2人に、エビチュを放り出してすがり付くミサト。

年上の尊厳とか、大人の威厳っつーものも、エビチュと共に放り出したか。

……最初から無かったかな?そんなもん。








何はともあれ、お掃除再開である。


書斎兼PC部屋になっている、元ミサトの部屋。

寝室になっている、元アスカの部屋。


この2部屋は、リビングに比べれば随分マシな状態であったため、

さほど時間をかけずに掃除が終了した。





ほんの4時間である。





1部屋当たり2時間だ・・リビングに比べれば少なくとも2倍はマシな状態だ。

なんせ、リビングはバス、トイレ、洗濯物も含めてだけど5時間半かかったからね。


この時点で時刻は0時を回っている。


ここまででも充分、(あまりの汚さに)身を震わせるほどの戦慄を

覚えていた2人だが、真の恐怖はこの先にあったのである。





そう……「台所」と言う名のトワイライトゾーンが……





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「ここまで来たら一気にやっちゃった方がいいわね…」

さすがに疲れた様子のアスカ嬢だが、ついた勢いは止まらない。


「そうだね、何とか終りが見えてきた事だし……見えてるだけだけど……」

シンジが特大の溜め息をついた。一体何度目の溜め息なんだか……


溜め息の一つもつきたくなるだろう。

台所の惨状は、これから先の数時間の死闘を暗示…いや、予告していた。





シンクから溢れかえりそうな皿。

ガスレンジの周りは不思議なものが飛び散っている。

テーブルの上は、今にも雪崩を起こしそうだし

床にいたっちゃ、スリッパ無しで歩いたら危険だ。

何気に小蝿も飛び交っている。





よくぞここまで………………


と、言う気力さえ失せるような散らかりようである。





「……始めようか…」

「……そうね、あたしはテーブルの上を何とかするわ。」

「……じゃあ、僕は皿を洗うよ」


時間と体力のロスを省くために、必要最小限の言葉しか発しなくなってるなあ。


「あのー……私は何をすればいい?」

にこりん♪と、ミサトが可愛く笑って見せるが、冷たい視線が返事だ。


「ゆ……床のゴミと酒ビン片づけるわね」

そうそう、まずは目に付く所から始めるのだよ。








「……このジュースの空き缶、どれくらいここに放置してあったのよ……

テーブルにくっついちゃってるじゃない……」


「……この皿、いつ使ったんですか?なんか干からびた物が取れないんですけど……」


「……拭いても拭いても、布巾が真っ黒になるんだけど……」


「……ああ、このお皿、無地だったんですね。模様に見えたのは埃か……」


「……このマーガリンの容器…中身入ってるんだけど、不思議な事になってるわ…

黄色い液体の上に赤とか緑とか青とか白とか……カビ?カビなの?」


「……カビならまだいいよ…こっちは藻が生えてる……」





うあ―――……聞いてるだけで鳥肌が立ちそうだ。

家人であるミサトは、ひたすら身を縮めている。今にも消えて無くなりそうである。





ここまで書いといて今さらなのだが、ミサトも別に掃除が出来ないわけではない。


一応弁護するが、何と言うか、その、あれだ……

見る人がいないと徹底的に手と気を抜いてしまう主義の人なのだ。


「旦那が帰ってくるわけじゃないし…ま、いっか。明日やろ」

仕事で疲れていれば、なおさらそうなっても仕方あるまい。そういう物なのだ。

その手抜きが積み重なって、人外魔郷が形成されちまった……と。





教訓「塵も積もれば山となる」





さて、こんな話をしている間にも、着々と事は進んでいる。


テーブルの上は、アスカの奮闘でやっと「普通」の状態になった。

シンジは洗って拭いた皿を、次々と綺麗になったテーブルに重ねていく。

重ねられた皿を、これまた次々とミサトが食器棚へ収納した。


「それにしても……なんだってこんなに蝿が飛んでるのよ……」


冷蔵庫に止まっている小蝿をテイッシュでやっつけながら、アスカがぼやいた。

最初のうちは鳥肌を立てていたが、慣れてきてしまったようだ。


「まさか冷蔵庫の中から出てくるわけがないし…」


アスカが冷蔵庫を開けて、歓声を上げた。


「凄い!!この家の中にも綺麗なところがあったわ!!」

「え!?冷蔵庫が最難関だと思ってたのに!?」


焦げ付いた鍋と格闘していたシンジも、冷蔵庫を覗き込んで目を丸くした。


「ほんとだ!これなら食材さえ入ってればOKだね!!」


食材さえ入ってればOKって…?ああ、なるほど。

冷蔵庫の中は綺麗だった。エビチュが10本ほどと、卵、マヨネーズやソースなどが

入っているだけである。





ちなみにこの状況は、加持の「単身赴任決定ちくしょー会」をやった後の

冷蔵庫の状態に酷似している…半年間、エビチュの出し入れに終始したのか?

……だとしたら、あの皿の山は何だ?


「あ、冷蔵庫の中はシンちゃん達が来る前にやったのよ」


得意げなミサトの手を、ガシ!!とアスカが取った。





「ミサト・・・・あたしは感動したわ。ミサトだって、やれば出来るんじゃない・・」

「女としては、それくらいはね」


蒼い瞳をウルウルさせるアスカに、ミサトが手を取られたまま胸を張って見せた。

威張れないぞぉ?つーか、そこまで感動されてしまうってのもいかがなものかね。






「まあ、駄目になっちゃってたものを処分しただけだけど」


てへへ……と、ミサトが空いている片手で頬を掻いた。

それを言わなきゃ、少しは株が上がっただろうに……1銭くらいだろうけど。





「……感動して損したわ…つまり、ほとんど全部、期限切れだったって事ね…

じゃあ、この卵は最近買ったの?」

「卵?いつだったっけなあ…?でも卵は割らなきゃ腐らないでしょ?」





それを聞いて、ミサトの手を取ったまま、がっくりとうな垂れるアスカ。

その2人を見て、これ以上の苦笑はない…ってな苦笑を浮かべるシンジ。

そのシンジの苦笑に、自分がどうやら巨大な間違いトークをしたことに気づくミサト。


見事な三つ巴である……嫌な三つ巴だな。三すくみの方が正しいのかな。








一瞬、「黙」が通り過ぎた。(「しじま」と読んでね)







「え?腐るの?割らなくても?・・・」

「腐るに決まってるでしょう!ほんっとに感動して損したわ!!」


キョトンと首を傾げているミサトの手を、アスカがぶん投げた。





「でもそうすると、この蝿は何処から涌いて出てくるのよ・・?

ゴミは外に出しちゃったし、テーブルの上も片づけたし、洗い物も終ってるのに?」


アスカが、真犯人を推理する名探偵のように首をひねる。

鍋との死闘に勝利したシンジが、それを横目に見ながらシンク下にある

収納の扉を開けた。











その時まで、その扉を開ける機会に恵まれなかったというのは、幸運だったのだろう。

しかし、避けては通れぬ道があるように

開けなければならない扉と言うものも存在するのだ・・・・

そして今、その扉は開かれてしまった。シンジの手によって・・・





その瞬間、碇シンジは「知らない匂いをかいだ」・・と、後に語った。

冷蔵庫の前で首を傾げていたアスカも、異臭に思わずシンジに視線を向けた。

家人であるミサトでさえ「何?何の匂い?」と、鼻をつまんだくらいだ。





シンジは眉をしかめて、その場所を覗き込んだ。

鍋が積み重なっている・・・そこまではごく当然の光景だ。

一番手前のシチュー鍋の蓋が少しずれて、そこからお玉が覗いていた。

異臭は、どうやらその鍋から発しているようだ。

シンジは、その鍋から感じる違和感に、目を凝らした。








「???・・・・・・っっ!!!!」





それは無言の悲鳴だった。バタンと慌てて扉を閉めたシンジの額に大量の汗が湧いた。


「・・?何?どうしたの?」


シンジのただならない様子にアスカが眉をひそめる。


「・・・・・ミサトさん・・・・」

「な、何でしょう?」


アスカの問いに答えないまま、これまた低い声を出したシンジに

ミサトが、ビビリながらもにっこりと笑って見せた。

だから、そういう態度は逆効果だって・・・・・





「・・・・このシチュー鍋は、いつから此処に入ってるんですか・・・・・」


「?シチュー鍋くらい入ってるでしょ?そこにはめったに使わない鍋とか収納

してあるんだから」


アスカが、そう言って首を傾げる。

だが、ミサトは何か思い当たったのか、一息飲み込んで、みるみるうちに青ざめた。





「・・・・僕の記憶が確かなら、『ちくしょー会』の時に、この鍋でビーフシチューを作った覚えがあるんですが・・・・」

「美味しかったわよねえ、あれ」


アスカが至福の味を思い出したのかうっとりするが、シンジの顔には縦線が降りてるぞ。


「作りすぎて残っちゃったのが・・って、まさか・・」


さすがは天才アスカちゃん…半年前でも記憶は鮮明らしい、洞察力もピカ一。

そのさすがの記憶力洞察力で、うっかり真実を察してしまったアスカ嬢。

恐ろしいものを見る目つきで、収納扉を見つめた。


半年前のビーフシチュー・・しかも常夏の第3新東京市で常温保存だ。

確かに恐ろしいものに成り果てているだろう。

それだけではない。密閉容器だったらそのまま処分で済むだろうが

物はシチュー鍋である。異臭と小蝿の原因がよ―――くわかった。











「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうしてこんなとこにシチューが・・・・?」





長い沈黙の後、アスカの唇から発せられたのは、力無いその一言だけだった。





その力の無さは、ミサトをして「怒られ、怒鳴り飛ばされた方が千倍マシ」と思わせた。

それほどに彼女の口調や姿勢、表情からは、彼女を彼女足らしめている

「眩ゆいばかりの生気」と言うものが抜け落ちていた。

日頃、何かと文句を付けてはいても、アスカにとってミサトは

慕うべき姉であり敬うべき上司であったのだ。

だが、ズボラと言う言葉で済まされないほどの醜態に、その信頼は揺らいだ。

アスカの中に湧き起こった感情は、呆れや諦めを通り越し、悲しみに近いものだった。

あまりに悄然とうな垂れるアスカ嬢の姿に、思わず文体も固くなるというものである。








「あ、あの……シチューね……すぐに食べようとは思ってたのよ…

現に明くる日の朝食で加持と食べたの…でも全部は食べきれなくて…」


ミサトの声が途切れ途切れだ。

半年前の記憶を掘り起こしているから…だけじゃないんだろうな。








「残りは私が、夜ご飯に食べようと思ってたのよ……

で、冷蔵庫にしまおうとしたんだけど、まだ温かかったから冷めてから冷蔵庫に

入れようと思って……加持を空港まで送って帰って来てからでも大丈夫かな…って…」


「それがどうしてここに?」


シンジの声に、ミサトが口篭もった。

どうやら「呆れ返られる事間違いなし」・・な理由らしい。

それを察してか、シンジの声が氷点下の凄みを帯びる。


「……ミサトさん?」





「蒸散式殺虫剤が悪いのよ!!」


唐突なミサトのセリフに、シンジとアスカが顔を見合わせた。

なってないって、説明に……





「ここって年中夏じゃない?!掃除してたって小蝿とか飛ぶじゃない!?」

「掃除してたんですか・・?」

「してたのよ!半年前までは!」

「……加持さんが?」

「ええ、そうよ!!旦那が掃除してたのよ!!悪かったわね!!」





まあ、共働きだし、夫婦の家事の分担はいろいろだろうから、別に悪かないけど……

何故、逆ギレだ?ミサト……って、シンジが下手に突っ込みいれるもんだから

話しがずれてるな。誰か修正してくれ。





「で?小蝿がどうしたのよ……?」


おお、さすがはアスカ嬢。いつまでもドツボに落ち込んでない!

溜め息交じりでも、話の軌道を修正してくれるとは、偉いぞ!





「そうよ!小蝿よ!それがあんまり飛ぶから、蒸散式の殺虫剤を焚こうって

ことになったのよ!」

「それと、シチュー鍋をシンク下に収納する事と、どう関係が?」

「だから!冷めてないから冷蔵庫にはまだ入れられないし、でも加持を送りに行く間に

蒸散式の殺虫剤を焚いちゃえば効率が良いじゃない…それで鍋にラップして……」





勢い込んで話していたミサトの声が、穴の開いた風船のようにしぼんだ。

呆れ返ったシンジとアスカの顔が、風船に穴を開けた針だろう。




「ラップして…シンクの下に入れて?」

「そこなら殺虫剤焚いても大丈夫かな…って思って…」

「そのまま忘れたのね」

「たった数時間で忘れるかなあ……」





完全に呆れ返った2人の様子に、ミサトが反論する。

このままではあまりに自分が可哀想すぎると思ったのだろう…が。





「ただ忘れたわけじゃないわよ!帰り道でネルフから連絡が入ったんだもの!

休日出勤で働いたのよ!で、帰り際にリツコが『お疲れ様、加持君もいないんだし、

どう?たまには飲んでいかない?』…って…言うから…」








「…さ、これを何とかしなきゃ」

「そうね」

「あああ!ごめんなさいぃ!ノーリアクションだけは勘弁して!」





話を無視して恐怖の鍋が収納されている扉に目を向ける2人に

ミサトが哀願した。哀願の内容が情けない事この上ない。

ノーリアクションって…ボケを無視されたお笑い芸人じゃないんだから。





アスカが蒼い視線をちらりとミサトに向け、溜め息をついた。


「もういいわよ…つまりミサトの話しってのは、

シンジの作った食べる芸術品ともいうべきビーフシチューを

半年間も熟成させて、立派な廃棄物に仕立て上げた触媒が酒だった…

って事でしょ?聞きたかないわよ」


「う……」





「身も蓋もない言い方」ってのは今のアスカ嬢に使うんでしょうねえ。

ちなみに言われたミサトは「身から出た錆」ってとこかな?……ちょっと違うか。

えーと「ぐうの音も出ない」…こっちか。







「まあ、過ぎた事は仕方ないよ、それよりこれを処分しないと」


シンジがもう何度目だかわからない溜め息をついた。


あの鍋を実際に視認した彼には判っていた。

あれをどうにか出来るのは自分だけだと。


どうにかと言っても、鍋ごと放棄するしかないだろう。

他にも選択肢はあるのかもしれないが、この際放棄させてくれ。

中身を捨てた後、あの鍋を洗う…と言う作業は、藻の生えた皿を洗うのとは

訳が違うのだ。





「ミサトさん、この鍋は中身ごと破棄して構いませんね」

「え、ええ…やってくれるの?シンジ君」


確認したシンジに、ミサトが目を見開いた。

「自分でやれ」と言われるに違いないと思っていたのだ。


そう言っても良かったのだろう、いや、むしろそう言いたかったに違いない。

でもシンジはそこまで非情にはなりきれなかったらしい。





「…乗りかかった船ですから…」

「シンジ君…」

「じゃあ、ミサトさんはそこでゴミ袋を開いて持っていてください」

「え、ぇえ!?」





……非情にはなりきれないが、無制限に寛容で居るつもりもないらしい。

さすがは自然体で容赦の無い男、イカスぜ!





ミサトがシクシク泣きながら新しいゴミ袋を引っ張り出した。





「アスカは安全な所に避難してて」

「え?あたしも手伝うわよ」

「駄目だよ。これは僕がやるから…君は見ない方がいい」

「…わかったわよ…」





優しい、しかしきっぱりとした口調のシンジに、しぶしぶアスカも引き下がった。

それにしても、姉代わりだった三十路の女性にする態度とは雲泥の差だな。

さすがは彼女にだけ無制限に甘い男…イカスぜ…








アスカが台所の入り口付近まで待避したのを見とどけてから

シンジはピンクのゴム手袋を装着し、扉に向き直った。

使徒との戦闘に赴く時の顔をして……ある意味使徒よりも恐ろしい相手だしな。

シンジの斜め後ろでは、ミサトがゴミ袋を広げて持っている。





「開けますよ」

「ええ」





ピンクの手袋に包まれたシンジの手が扉に伸びた。

ミサトの表情が緊張感を増す。

本人達は至極真剣なのだが、絵面的には妙に間抜けだ。








パク……





微かな音を立てて、扉がついに開かれた。


半年ぶりにまともに光にさらされる鍋。

鍋の周りや、かかっているラップに、カビで不思議な模様が描かれている。

鍋の外壁におびただしい数の小蝿が蠢いている。

動いていないはずの鍋がザワザワと揺れているように見えるほどだ。

さらにゴマ粒ほどの突起が大量に鍋に張りついている…

おそらく小蝿が孵化した後のサナギの殻だろう。

言いようのない異臭は、かび臭さとの相乗効果で吐き気がするほどだ。









無言のままシンジは呪われた鍋に手を伸ばした。

声を発するものはいなかった、あまりの匂いに全員息を止めているからだ。


とにかく、さっさとこの鍋をゴミ袋へ!


もう頭の中にはそれしか無さそうだ。

しかし、シンジがこの鍋を持ち上げた時、悪夢は起こった。





動くはずの無い安住の地が、突如持ち上がるという不測の事態に

小蝿が一斉に避難を開始した。

飛び上がった小蝿の大群は、取りあえずは手近なものに止まるという暴挙に出た。

手近なものと言うのは、つまり、シンジとミサトの手や顔や腕や足や…全身である。




モワワン……


シンジとミサトは灰色のモヤに包まれた。

灰色のモヤとは、当然小蝿の集団の事である。

たかられている、たかられまくっている。うひ―――!(鳥肌)








「う!うわあああああああああああああああああ!!」

「きゃあああああああああああああああああああ!!」

「いやあああああああああああああああああああ!!」






たまらず悲鳴を上げた2人にアスカ嬢もつられた。一瞬にしてパニックになる台所。

皆落ち着け!忘れられてるだろうが今は深夜だ!つーかそろそろ早朝だ!

ご近所さんはいい迷惑だ!





「いやあああ!!シンジ!シンジィ――!!」

「来るな!来ちゃ駄目だ!アスカ!!」





思わず駆け寄ろうとするアスカに、振り返りながらシンジが叫ぶ。

振り返った反動で手が滑った。


カラン!ゴト!ボタ…!

「……!!」





「あ………」




「!!!!!!!!!」


時がとまった……











か、書きたくもないが解説しよう…

ここまで書いてしまったものの責任だ。





カラン!鍋から蓋が落ちた音。

ゴト!刺さっていたお玉が落ちた音。

ボタ…!傾いた鍋から中身が落ちた音。


「……!!」反射的に落ちた蓋を拾おうとかがんでいたミサトの声の無い悲鳴。





「あ………」

手を滑らせて、片手で鍋をぶら下げていたシンジが

中身が落ちた先にミサトの頭があった事に気がついた時の声。





「!!!!!!!!!」

床及びミサトの頭に落っこちた廃棄物(元シチュー)の中に、白く小さいものが大量に蠢いているのを

発見してしまった全員(作者含む)の心の叫び……声になんてなるわけが無い。





そして、時はとまった…ひ――…(汗)

















フシュン!!!


永遠の一瞬が過ぎ、我に返ったミサトが風の速さで風呂場に消えた。

同じく我に返ったシンジとアスカは、その場の惨状に半泣きになった。


ミサトの通った後に点在する有害物質…新手のヘンゼルとグレーテルか?





「汚されちゃった、汚されちゃったよお…グスングスン」

風呂場からはシャワーの音に混じって、そんなミサトの泣き声が聞こえてくる。

ああ、こっちが「身から出た錆」ですね、ふむふむ。


なんて、納得している場合じゃない。

シンジとアスカはがっくりと肩を落として立ち尽くしていた。

小蝿がたかるのも気付かずに…




さもありなん、綺麗に掃除した個所に点在する有害物質を、排除せねばならないのだ。

ついでに、この小蝿も駆除せねば……







「…………やろっか…」

「……うん、ごめん、僕のせいで仕事が増えたね…」

「…いいのよ…元はといえばあたしが悪いんだもの…」


いや、元凶は今風呂場で泣いてる人物だろう。


ミサトの放り出したゴミ袋に、シンジは鍋を入れた。

アスカは新しいゴム手袋をつけ、雑巾を手に取った。


現在時刻…午前5時18分





どうにもこうにも理不尽なものを感じたのか、雑巾を握り締めて

アスカが一声、雄叫った。


「…あたしは…あたしはこんな奥さんには絶対ならないわ!!

「そうだね、アスカはこうはならないよ」


シンジがそう肯きながら、落ちた蓋とお玉をゴミ袋に放り込んだ。





「だから安心してね、シンジ」

「うん…………え?!





目を見開いたシンジが見たものは、黙々と雑巾で床をこするアスカの姿だった。

髪をまとめてるから、ホッペどころか耳や首筋まで真っ赤っかなのがバレバレだ。

そんなに照れるんなら言わなきゃいいのに……





しばらく呆然とその姿を見つめていたシンジが、とんでもなく優しい笑顔を浮かべて

真っ赤なアスカの隣にすとんとしゃがみこんだ。





「僕もちゃんと家事に協力するからね」


その一言に、アスカも真っ赤なままで小さく肯いた。








いい場面で、いいムードだけどねえ…

手には雑巾、床には半年間じっくりコトコト熟成させちまった有害物質だもんなあ…

まあ、2人してニヤけながら楽しそうに床こすってるし…いいか。








その後の片づけには、なお3時間を要したらしい。

ちなみにその3時間、ミサトは風呂に篭りっぱなしだったとか。


「取れないよお、綺麗にならないよお…グスングスン」


と、泣きながら……どうやらトラウマになったようだ。

究極の自業自得ではなかろうか。





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彼等が体験した恐怖はこれが全てである。


常夏の気候で、シチューを半年間常温保存した時の恐ろしさが

この文章で伝わっていることを切に願う次第だ。






このくそ暑い中で、気温をさらに上げそうな2人のイチャツキっぷりの方が怖い?

そうかもしれんね。












END



注…この話に登場する人物、マンションはフィクションですが、

「半年間常温保存した鍋」だけはノンフィクションです(これが一番怖かったりして)

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こんにちは、むぎです。


えーと…この話のミサトのズボラっぷりは、別にモデルが居るわけじゃないですよ。

そりゃ、私もお掃除下手だし、ズボラですがここまでの有り様にしたことはありません。

本当です!本当なんですってば!!


ええ、信じてもらえないだろうなあ・・とは思ってます(笑)


皆さんも「モワワン」って虫にたかられないように、台所だけは綺麗にしましょうね(笑)

他の場所?人様に迷惑が掛からなければいいんじゃないですか?ハムスターの巣みたいになってても(笑)

いや、だから別に、私がモデルじゃないですよ!違いますって!(笑)


では


 烏賊すホウムでは久しぶりのむぎさんから投稿作品をいただいてしまいました。

 とっても烏賊しております。

 う〜ん、放って置いたらシンジ君の料理でも殺人的なモノになってしまうのですね‥‥いや、まったく。ミサトカレーを超えましたな(汗)

 超現実的な話でありましたが、半年間熟成鍋の話は本当だそうで‥‥そう言われるとリアリティが香ってくるような気がします(笑)

 なかなかミサト臭さのある話でした。ぜひ、読後にむぎさんへの感想メールをお願いします。

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