ユア・スウィート・ケイク


rinker






 朝の八時にスナックみたいなパンを一つ食べたきり、四時間以上も胃に何も入れて ないことに気付いたあたしは、読んでいた雑誌を放り出してベッドから起き上がった。
 胃袋は声高に不満を訴えていた。腹筋がなだらかな起伏を形作るおなかを手のひらで慰め、

「バカシンジ……」

 とあたしは呟いた。
 同居人の碇シンジはあたしに食糧を供給する役割を担っている。
 断っておくが、別に強要したわけじゃない。こちらがさも当然という顔をしていさえすれば、彼は自ら進んで奉仕を買って出るのだ。
 したがって、おなかが空いたとか、汗がべたついて気持ち悪いとか、そんなことを感じるたびにあたしが同居人の少年のことを考えるのは、まったく正当で自然な行為なのである。
 紙でできたスライド扉を開けて部屋を出て、はだしで床をぺたぺた鳴らしながらキッチンへ向かった。
 キッチンでは少年のまるい後頭部があっちを覗いたり、こっちで屈みこんだり、右往左往していた。
 何となく声をかけあぐねてそれを黙って眺めていると、視線のむずがゆさを感じたみたいに後ろ頭をかいてこちらを振り返ったシンジが、

「困ったな」

 と言った。

「お昼ご飯を作ろうと思ったんだけど、何もないんだよ。調味料のほかにあるのはミサトさんのビールと牛乳と卵の残りが一個、あとはこれだけ」

 訊ねもしないうちからぺらぺらと説明するシンジの手が、シリアルの箱みたいなものを掴んでいた。

「アスカ。お昼、ホットケーキでもいい?」

 あたしに名前で呼びかけたシンジは、苦笑のようなものを顔に浮かべて言った。
 ホットケーキミックスと書かれたその箱とシンジの顔を見比べ、あたしは眉間にかすかな溝を刻んだ。
 困った口ぶりとは裏腹に、シンジの中ではすでに結論は出ているようだった。
 だからあたしは、

「いや」

 と言おうとした。
 けれど、くちびるが言葉を紡ぐより早く、おなかがあたしを裏切った。

 ぐうーっ。

 とっさに押さえたけど、もう遅い。
 くすりと笑いをこぼしたシンジの表情を見て、耳まで真っ赤になっているのを自覚しながら、ネコみたいに爪をむき出した指で彼の柔らかいほおを掴んだ。

「二枚、食べる」

「わ、分かった。それじゃあ二枚ずつだね」

「焦がしたのはあんたが食べるのよ」

「う、うん」

 最後に涙目のシンジの顔にぐっと接近して、

「早くして」

 と念を押してから、とがった爪を食い込ませた彼のほおを解放してやった。





 他にすることもないので、テーブルの席についたあたしは、ホットケーキを作るシンジの後ろ姿を眺めていた。
 よほど作り慣れているのか、シンジの動きには迷いがない。
 この家の食事当番を買って出ているとはいえ、シンジは料理がうまいわけではない。彼の出す食事の大半が、実はレトルトや惣菜だ。
 それを考えると、今のシンジの姿は意外とも言えた。
 よっぽどホットケーキが好きなのかしら?
 そんなことを考えながら、頬杖をついてテーブルの下で組んだ脚をぷらぷらさせ、シンジの背中を眺めていると、あっという間にホットケーキが四枚焼きあ がって、彼がそれを皿に載せて飲み物と一緒にテーブルへ運んできた。
 二枚ずつ重ねられたホットケーキは綺麗な焼き色がついていて、悔しいけどおいしそうだった。

「いい匂い」

 思わず口を滑らせてから、誤魔化すためにあたしは咳払いをしてシンジに命令した。

「バター」

「はいはい」

 生意気な返事をしたシンジの手からバターをひったくってナイフでたっぷり掬い取り、まだ湯気を立てているホットケーキの中央におごそかに載せた。とたん に溶けた バターが外縁へ向かって流れていく。

「ナイフとフォーク」

「どうぞ」

「ふん」

 差し出されたそれをまたしてもひったくり、それぞれ両手に構えて、視線をホットケーキから正面に移した。
 向かいに座ったシンジは、何も言わずにバターをホットケーキの上に載せてから、同じように顔を上げた。
 なぜかその表情が寂しげに見えて、あたしはまた、

「ふん」

 と鼻を鳴らした。
 しかし、そんなあたしの態度をとがめるでもなく、

「食べようか」

 とシンジが言ったので、

「そのために作ったんでしょ」

 意味もなくあたしは毒づいた。

「いただきます」

「いただきます」

 示し合せるまでもなく綺麗に声が揃ったことを充分に意識しながら、シンジよりも先に、手元で湯気を上げるかぐわしい生地にナイフを入れた。
 とろけるような黄色が覗く。ひとくちのサイズよりも少し大きめに切り分けてしまったのは、あまりにも空腹であるせいで、他に理由なんてない。
 慎みはこのさい二の次とばかり、あたしは大きく口を開けてまだ熱いホットケーキをほおばった。
 生地はふっくらもちもちとしていて、卵の甘みと豪勢なバターの香りがたまらない。
 世界人類三十億の中でたった三人しかいないエヴァンゲリオンパイロットとはいえ、味覚に関しては普通の十代の少女の例に漏れることなく、ケーキや菓子の類が好物である。
 けれど、あたしにとってそれらはあくまで店で食べたり買ってきたりするものであり、自分で作るものではない。
 味でいえば、もちろん数段劣るのだろう。本職の人間が製作するものとは比べるべくもない。
 そう思いつつ、あたしはまだひとくちめを飲み込まないうちから、ふたくちめの切り分けに取り掛かっていた。
 




 あたしが最初の一枚を食べ終えたころ、シンジはようやくその半分ほどを片付けたところだった。
 常日頃からがつがつと食い意地の張った男ではないとはいえ、シンジの食べ方はじれったいほどだ。
 こんなことをあたしが気にする必要はない、というのは言うまでもない。あたしはシンジから視線を引きはがし、二枚目にまっすぐナイフを入れた。
 シンジが唐突に話しかけてきたのは、その時だった。

「アスカはぐりとぐらって絵本知ってる?」

 また急に何を言い出すのかと再び視線を彼へ向けた。

「知っている絵本なんて一つもないわ」

 わけが分からないとは思ったが、あたしは律儀に答えを返した。

「そう……」

 あたしの正直な答えにシンジは少し戸惑ったようだった。でも、彼は切り分けたホットケーキにフォークを刺した手を止め、視線は皿の上に落としたままで話 を続けた。

「ぐりとぐらっていう絵本にフライパンで作るカステラが出てくるんだけどね、それがすごくおいしそうで、子どものころあこがれてたんだ」

「カステラ」

 初めて聞く名前をあたしはおうむ返しに発音したが、たぶんお菓子の一種なのだろうと推測して、あえて訊ねることをしなかった。

「うん、カステラ。フライパンいっぱいに膨らんだ生地がおいしそうな卵の黄色で、ぐりとぐらは森の動物たちとみんなで取り分けておひさま色の大きなカステ ラを食べるんだ。それを見て、ぼくもこんなの食べてみたいなぁって」

 フライパンいっぱいのカステラとはどんなものなのかと想像しながら、あたしは二枚目のホットケーキにナイフを入れてひとくちサイズにする作業を続けた。

「それで自分で作ってみたんだよ。でも、最初は盛大に焦がしちゃって。けっこう難しいんだよね。ホットケーキくらいならともかく、フライパンいっぱいだと 焼くのに時間もかかるし。だから、初めて成功した時はうれしくてうれしくて、おなかがぱんぱんになっても無理して全部食べたな」

「それがあんたがホットケーキ作るの得意な理由?」

 あたしが訊くと、シンジは自嘲するような声で答えた。

「作ってくれる人がいなかったからね」

 ああ、だからなのか。
 ホットケーキを作り始めてからの彼の態度のわけがすべて分かって、あたしは納得した。
 しかし、だからどうだということもない。
 食べたかったけど作ってくれる人がいなかったから自分で作った。ごく単純な話だ。珍しくもない。あたしだってそんなものいなかった。
 シンジがこの手の弱みを他人に見せるのは甘えたいからだ。彼はあたしに同情して慰めてほしいのだ。ほんの少しでもいいから優しい言葉をかけてもらいたい のだ。
 でも、そんなことするもんか。
 あたしはシンジのママじゃないし、同情を切り売りする真似をするような安い女でもない。
 無言で切り分けたホットケーキを口に運ぶ作業に再び取り掛かったあたしの態度に、シンジも何も言わなかった。
 もともと大して期待していなかったのだろう。あるいは、期待を裏切られることに慣れ過ぎたせいなのかもしれない。
 またゆっくりとしたペースで食事を再開させたシンジを尻目に、あたしはつめこみ過ぎのほおをリスみたいに膨らませ、一心にあごを動かしていた。
 しみったれたシンジの思い出話はバターの香りが吹き飛ばしてくれる。
 でも一方で、柔らかな甘さに隠された彼の涙が舌触りに残った。

「おいしかったわよ」

 空になった皿にナイフとフォークを置いて正直な感想を伝えると、シンジはうれしそうに微笑んだ。










 三日後、あたしが小一時間もかけてフライパンいっぱいのおひさま色のカステラを焼いてやったら、シンジは本当に泣いた。
 レシピを調べまくり、友達の家でひそかに練習を重ねていたあたしは、そんな彼の態度に戸惑ってしまった。別にこんなみっともない姿を見たいがためにカス テラを作ってやったわけじゃない。泣かれるのは心外だった。
 情けないシンジの姿を見かねたあたしは、ほおを引っぱたこうと思ったのだけど、間違えてキスをした。
 彼の涙はしょっぱくて、やっぱり少し甘かった。





very short stories.









あとがき

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 アスカ、シンジの初めてのヒトになる。の巻でした。
 何年も前に作りかけだったお話を手も加えずそのまま出すというズルを前回にしてしまったのですが、今度はきちんと書きました。
 ぬいぐるみのお話の続きを書かなくてはと取り掛かっていた最中に、ふと何となく思いついてしまって、突発的衝動の赴くままこんなお話に 走ってしまいました。
 短いお話でしたし、とろい私にしては数時間というめざましく早いスピードでできました。
 こんなことをしているから、いつまで経っても続き物が終わらないのだな、という自覚はありますが、身体が言うことを聞きません。ごめんなさい。

 「ぐりとぐら」のおひさま色のカステラ、とても憧れていました。
 あまりにも有名な絵本なのでご存知の方も大勢いらっしゃるでしょうが、本当においしそうなのです。

 普通のカステラも好きです。
 カステラはポルトガル宣教師の伝えたお菓子を日本独自に発展させたものだそうです。
 なので、このお話のアスカはカステラを知りません。
 見たことも聞いたことも食べたこともないのですから、シンジの話を聞きながら、頭の中では様々なカステラ予想図が飛び交っていたことでしょう。
 「ぐりとぐら」の翻訳版ではやはりパンケーキと訳されているのでしょうか。
 ちなみにホットケーキとパンケーキは同じもの。

 ミサトがいませんが、休日出勤でもしているのでしょう。都合のいいことに。
 ペンペンは……冷蔵庫で寝過ごしているんです、きっと。

 間違えてキスしてしまった二人のその後のことはご想像にお任せします。
 でも、おひさま色のフライパンカステラを作れるアスカは、将来きっと素敵なママになれるのではないでしょうか。
 ママのとっておきを、子どもたちも大喜びで食べるに違いありません。

 ところで最近、他の方々のお書きになられた作品をいくつか拝見したりしていたのですが、そうしていると、分かっていたとはいえ、自分のお話のあまりの下 手さ加減にちょっと打ちのめされてしまいました。
 もっと上手くて面白いお話を書けるようになりたいです。
 そんな野望を胸に秘めつつ。


 では、皆様。掲載して下さった怪作様。
 本当にありがとうございました。
 またいずれ他のお話でお会いできれば嬉しいです。




リンカさまより心あたたまるお話をいただきました。

フライパンと小麦粉と卵とバターの幸せな気分。エヴァパイロットという立場から離れた等身大?の時間を過ごしている二人がよい感じですね。

素敵なお話を投稿してくださったリンカさんにぜひ感想メールをお送りしましょう!

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