甘やかな降伏

by リンカ


シンジは椅子に座り呆然と目の前の女を見つめていた。
いや、果たしてシンジの瞳にその女の姿が映っているだろうか。
それほどにシンジは衝撃を受けていた。

つい先程まではいつも通りの日常だったのだ。
それなのに、その穏やかな平和は無残にも呆気なく崩れ去ってしまった。

こんなにも日常とは脆いものなのだろうか。
こんなにも物事とは容易に変化してしまうものなのだろうか。

もう先程までの平穏な日々は戻って来ない。
シンジは震える唇を動かして何とか声を出そうとしたが、
それは音もないただの空気の揺らぎにしかならなかった。
もはや言葉を生み出すこともままならない。

テーブルの向かい側から、女がシンジを見ている。
シンジにはどうすることも出来なかった。
身動きひとつ出来ないのだ。
あまりにも無残だった。

シンジはゆっくりと瞼を下ろし、そして震えながら再びそれを持ち上げた。

何も変わらない。

ほんの僅かに、目を開けた先にいつもの平和が待っているのではないかと期待して
その些細な、抵抗とも呼べぬ些細な行為をしてみたのだが、やはり何の意味も無かった。

女がシンジを見つめている。
シンジの脳裏にはこの数年の出来事が去来していた。

苦しかった。傷付いた。壊れた。
それでも最後にはシンジは何かを掴み取ったのだ。

シンジの隣には少女がいた。
陽光のような輝きに惨たらしい傷を隠した少女。
彼女はシンジと共にあった。一緒に歩んできた。
シンジが少年から青年に成長するのに合わせて、
その少女もシンジの隣で美しい女性に成長していった。

シンジはもう一度瞼を閉じた。
少女の姿が鮮明に浮かび上がる。
笑っている顔。怒っている顔。泣いている顔。
憎しみに満ちた形相。窶れ果てた壊れた姿。
そして再び笑顔が浮かび上がった。
シンジが狂気の狭間で掴み取ったものだ。

何より大事だった。
彼女がいれば何もいらなかった。
幸せだったのだ。彼女とシンジは幸せだった。

シンジとアスカの2人は幸せだった。

シンジが目を閉じ、この世で何より愛しい存在を思い起こしていると、
彼を見ていた女が何事かを言った。

シンジは目を開く。
開いたが、その女が何を言ったのか分からなかった。
女はシンジが聞いていなかった事を悟り、もう一度同じ事を口にした。

その言葉という名の凶暴な凶器はシンジの身に滑り込み、血流を廻り、筋肉をすり抜け、
骨格に絡みつき、全身に浸透していった。
そしてシンジの心にも強引に入り込む。シンジの意思など関係なく染み渡っていく。
今やシンジはこれまでのシンジではない。
その言葉に侵し尽くされ、劇的に、そして途方もなく変化していた。

シンジの頬を雫が滑り落ちた。
涙を流すなど一体何年ぶりであったろうか。

脆弱な少年は、逞しく成長した。
だというのにその成長の証もこの凶器の前では何の用も為さなかった。

ポロリポロリと涙の雫が零れ落ちた。
ひとしずくひとしずく、頬を伝って零れていたそれはやがて流れゆく奔流となる。

女がそのシンジの様子を静かに見つめていた。
何を思っているのだろうか。
この無残な男の様を目の当たりにしてこの女はどうするのか。

シンジが涙を流している。
拭う事もしない。出来ないのだ。
シンジは体をただ震えわせるだけで、涙を流しながらも硬直し動けなかった。

女がすっと紙を差し出した。
シンジは呆然とそれを見つめる。
白い指先が摘んでいるのは、ティッシュだ。
シンジは泣いていた。当然鼻からも液体が流れて来る。
大の男のあまりに無残な姿に憐憫でも抱いたのか、
このシンジの様を創出せしめた所の張本人であるこの女は、静かにティッシュを彼に差し出していた。

シンジが震える手で何とかそれを受け取った。
そのまま震えながら、女を見たまま、緩んでしまった鼻に当てた。

物悲しい音が響いた。
数度の噴射によってシンジの鼻の周辺が綺麗になる。

この非情な非日常における非常に日常的なその行為によって、
シンジは幾分己を取り戻した。

鼻をかみ重たく湿ったそのティッシュをテーブルの上に置き、
シンジは改めて女を見つめた。
もうシンジの硬直は解けていた。

女がもう一度口を開いた。

シンジが頷く。
そして問いかけた。

それに女は何と答えたのだろう。
その答えにシンジの様は再び先と変わらぬものとなりつつあった。

その様子に女が今一度口を開いた。
何と女も泣いていた。
シンジを無残にも変えてしまったこの非情な女が何故涙を流すのか。
ポロポロと涙を零し、シンジに向かって言葉を渡した。




シンジが叫んだ。
雄叫びを上げて、涙を辺りに振りまきながら
テーブルの上に身を乗り出して女に掴みかかった。

女もそれに反応する。
彼女もテーブルの上に身を乗り出し、
いやそれどころかテーブルの上に乗り上がってシンジにぶつかる。

女はテーブルの上に座り込み、
シンジはテーブルに身を乗り出してその女の体を受けとめて、
そして2人は抱き合っていた。

2人は涙を流していた。
お互いがお互いに何かを叫んでいた。
その相手の叫びに反応して、2人は一層きつく抱き締めあう。

そしてシンジがポツリと言った。


「僕は・・・アスカと2人で幸せだった。でも・・・でも、これからは・・・」


言葉の途中でシンジの息が詰まる。
女がシンジの首筋に顔を埋めて微かな声で震えながらそれに答えた。


「これからは3人よ、”パパ”」


その密やかな呟きに2人は一層涙を溢れさせた。
再びお互いに叫んでいた言葉を、
今度は静かに相手に向かって口にした。


「愛してるわ、シンジ」

「僕も愛してる、アスカ」











つまるところそれはあるひとつの幸福な情景だった。

ともあれこうしてシンジはただの男から父親となり、アスカはただの女から母親となり、
そしてその前に結婚をしていなかったので慌ててそれをすることになった。

アスカが腹が目立ち始める前に式を挙げると言って聞かなかったからだ。

シンジとアスカが父ゲンドウに事の経緯を報告に行くと、
この非道の父は、だからとっとと結婚しておかないからだ馬鹿者め、と息子に苦言を、
実に緩みきった顔で厳粛を装って述べ、
そしていそいそと息子と義娘の式の手配に取りかかる事にした。

ネルフの権限ならば多少の無理はきくからだ。

シンジとアスカの報告の場でそのゲンドウの様を見て、
赤木リツコは呆れながらも腕の中の幼子を抱え直した。

誰の子かと言えば、それはリツコの子だ。そしてゲンドウの子だ。
ゲンドウが50歳になる寸前に女としての意地と愛をもって彼を掴まえてしまったのだ。
そして婚姻を結んで1年後に子を為した。
つまりシンジの妹である。姓は赤木だ。

シンジは幼い妹がきゃらきゃらと笑う様を見て隣に座るアスカを見た。
アスカもシンジの顔を見返して、そっと微笑んだ。

その慈愛に満ちた美しい母の表情にシンジは胸に込み上げる想いを抑え切れなかった。
これからアスカは母になる。
そして自分は父になるのだと、誇らしくもくすぐったい気持ちが溢れた。

そして、名前考えなきゃ、とも思った。



因みにリツコはこのささやかで幸福な報告の場で疲れ果てていた。
別に腕の中の幼子が身を捩って暴れたり、
ペシペシとリツコの頬や胸を叩いて遊んでいたのが原因ではない。
ゲンドウの筋肉が何処かへ行ってしまった顔を見たからでもない。

リツコは、アスカがこの報告の合間に実に36回にも及んで、
シンジに向かって、このアスカの若き伴侶に向かって、“ダーリン”と囁いたのを聞いたからだ。

逃げちゃおうかしら、と頭を過ぎらないでもなかったが、
それはともかく、よもやアスカがこんな甘ったれであるとは思いも寄らなかった。
シンジに向かって囁く度に頬をリンゴの様に染め、それに対するシンジの応えに
一層幸せそうに微笑んでいる。

念願叶い結婚してまだ数年とはいえ、
30をとうの昔に過ぎてしまっている自分にはアレは無理だと
リツコは羨望と呆れが綯い交ぜになった複雑な思いを抱いた。

もしも自分が夫に向かって“ダーリン”などと言った日には
それだけでゲンドウをして心停止なさしめるだろう。
そう想像してみて、こんな下らない事で娘と2人路頭に迷うのは御免だと、
アスカとシンジが額をくっ付け合っているのを見ながらギリリと歯を噛み締めた。



アスカがシンジの肩に頭を乗せて視線をさ迷わせた。
リツコがまだ幼児の娘を膝に抱えて青筋を立てているのが見えた。
これからよろしくねリツコお義母さま、とアスカはリツコの内心など少しも察する事なく
義理の母となる女に向かって殊勝な心掛けを心の内で誓った。

アスカは幸福だった。
子供など要らぬと言った過去はとうに過ぎ去った。
シンジと共に歩む日々の中で次第にこの愛しい男の子が欲しいと彼女の中の女が訴えた。
用無しの子宮はシンジとの間に新しい絆を生み出す大事な胎に変わった。
そして漸くシンジとの間に子を為した。

確かにシンジにとっては今回の事は予定外の事であったろうが、
アスカには確信があった。
別にシンジを謀った訳ではない。

ただ、自分は妊娠した、と不意に悟った。
そして幾らかの時間を経てその通り妊娠している事が分かった。

シンジと2人で暮らす日々は喩えようもなく幸せで
そしてそれは何ものにも代えがたい日々だったが、
いとも簡単にそれ以上の幸せを見つけてしまった。


アスカはシンジに妊娠を報告した時の事を思い出した。
シンジはアスカの言葉を聞いて固まり、そして次には泣き出してしまった。
ぽつりぽつりと言葉をやり取りして、そして歓喜が弾けた。

シンジが喜んでくれた事が嬉しかった。
その事に一層アスカは愛しい子の宿る胎が温かく感じられた。
テーブルの上に乗っかってシンジと抱き合いながらひとしきり泣いた後、
アスカはシンジに抱きかかえられてベッドへ運ばれていってしまった。

大事な体だからとシンジがアスカを労わろうとするのに、
アスカは彼が愛おしくなりながらも、まだ夜の7時よと苦笑しながら言うと、
今度はリビングのソファーに抱きかかえられて運ばれた。
膝掛けまで掛けられて、ご飯は僕が用意するよ、と胸を叩くシンジに、
もう作っちゃったわよ、とアスカが笑いながら言うと、シンジはじゃあ掃除、と言い掛けて
そんな時間ではない事に漸く気付いて頭を掻いた。

食事にしましょ、とアスカが言うと、みたび抱きかかえられダイニングに連れていかれた。
椅子の上に慎重に下ろして膝掛けを整えた後、キッチンに向かって駆けていったシンジの
後姿をアスカは見送り、くつくつと肩を揺らした。

そうしてテーブルの上を見てみれば、シンジの鼻をかんだティッシュがペタンと張りついている。
そういえば、と膝掛けを捲って膝を見てみると、彼女の愛らしい膝小僧に何だかべりべりした
感触があった。

やっぱりアイツはバカシンジだわ、とアスカは思った。
こんな大事な時に鼻水垂らして格好がつかないったらありゃしない。
ホントバカシンジなんだから、とアスカは膝を拭きもせずつらつらと思った。

バカバカバカバカバカシンジ、ダイスキよ。ダイダイダイスキ!アイしてる!

アスカは幸福だった。


回想から戻ってきてアスカは寄り添うシンジの体温を感じる。
首を動かしてシンジの顔を見上げると、彼もアスカの方を見た。
そのまま見つめ合ってアスカの薔薇色の唇が密やかに動いた。



リツコは溜息を吐いて頭を振った。
手配の為の手筈を整えてゲンドウが戻ってきてリツコの横に座り、
妻の様子がおかしいのに気付いて息子達の方を見て固まった。
リツコの膝の上の幼い少女が嬉しそうに頬を紅潮させて母を見上げて言った。


「お兄ちゃんとお姉ちゃん、なかよしなの」

「・・・そうね」

「もぐもぐなの」

「ええ、そんな感じね」

「かじかじ?」

「それもあるかもね」

「ちゅっちゅ」

「そうよ。キスっていうの」

「・・・・・」


幼子は母の言葉に暫し思案する。
そして再び母を見上げた。


「アイもちゅーしたい」


ゲンドウが首をギシギシいわせながらこちらを振り向く前に、
リツコは母として、アイと名づけた愛しい娘の目を手で塞いだ。


「ママ、まっくら」

「子供はもう見ちゃ駄目」

「えー?アイも見たい。もう子供じゃないもん。ひとりで夜眠れるもん」

「うそおっしゃい。いつもママのベッドに潜り込んで来るくせに」

「ちゅーはー?」

「大人になったらね」


リツコは膝の上で身を捩る娘の言葉に笑って答えた。


「ママー、ちゅー」


目を塞ぐ手を押し退けて母を見上げてからそう言った娘に、
リツコは笑って、その柔らかな頬に唇を押し当てた。
嬉しそうに幼子が笑う。

リツコは唇を離して、娘のぷにぷにした頬をゴシゴシと擦った。
それに声を立てて笑った娘にリツコも微笑んだ。
そして隣の夫を睨みつける事も忘れなかった。
微妙にリツコと膝の娘との距離が縮まっている。

そして夫が自分の尻にしっかり敷かれている事を確認した上で、
リツコはもう一度シンジとアスカを見た。

アスカがシンジの膝の上に半ば乗りかかっている。

涎垂れてるわ、やり過ぎよ、と思いつつ、
溜息を再び吐いてから席を立った。



赤木家のリビングに、何か音が2回響いた。



シンジとアスカが正座している。

その前にリツコが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
シンジとアスカが頭を下げて叩頭する。
それを見やってようやくリツコは2人を睨みつけるのを止め、
そして自分の隣で娘が母の真似をしているのを見て、こらっ、と叱った。

その様子にアスカがはたかれた頭を撫でながら笑い、
シンジもいずれ自分達の家庭でも見られるかも知れないその光景に頬を緩めた。




そうこうしながらシンジとアスカの報告も終わり、
そして結婚式やら出産やらバタバタと通り過ぎていった。



その後シンジとアスカと、その子供達がどのような人生を送ったかはまた別の話だが、
いずれにしろ彼らは幸福だった事は確かだろう。







なお、結婚式の後シンジはこう述懐している。

加持が人生の墓場と言っていたが、自分はそうは思わないと。
そして加持も早くミサトに降伏した方が良いのではないか、とも。


加持が20歳の若造に諭されたのかどうかは定かではないが、
晩年ミサトには幾人もの孫がいたそうだ。

皆ミサトとある男との間に生まれた子供達が成人してから結婚して為した孫達だ。


因みにその孫達の内の何人かは加持と名乗った。

もうひとつ加えて言うならば、碇と赤木と名乗る孫達がいたかどうかは想像に任せるとしよう。






fin



リンカさんから短篇作品をいただきました。

なんというか、愛でいっぱいですね。これなら降伏して幸福になってしまうのも無理はありません(笑

素晴らしいお話を書いてくださったリンカさんにぜひ感想メールをお願いします。

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