スパルタショコラ
rinker
「あたし、チョコレー党なの」
真顔を装ったあたしがいきなり口走った言葉を聞いて、シンジは思わずといった感じで、口に含んでいたミルクティーを噴水みたいにぴゅう、と吹いた。
「うわっ、ごめんっ……」
くちびるの隙間から飛び出した乳褐色の飛沫がテーブルの真向かいに座っているあたしの腕に散ったのを見たシンジは、あごの先からぽたぽたしたたるミルク
ティーを手で押さえながら、慌てて謝った。でも、あたしはそれに答えるより先にテーブルの上に置かれた布巾を手に取り、シンジの顔目がけて投げつけた。濡
れた布巾はぺちっと音を立てて彼の顔に張りついた。
いささか乱暴なやり方で渡された布巾を使って濡れた顔とテーブルを拭き、シンジは申し訳なさそうな、というより怯えたような顔でこちらを窺ってきた。常
日頃のことを思えば彼の態度も仕方がないと理性では分かっていても、感情は複雑だ。別に怒っているわけでもないのにこんな風に怯えられるとあたしの繊細な
(嘘じゃないわ本当よ)心は傷ついてしまう。ましてその相手がシンジならばなおさらだ。
「ごめんね本当に。で、もう一回言ってもらえる?」
「あたし、チョコレー党なの」
どうも一時的に耳が遠くなっているらしいシンジにもよく聞こえるように、あたしは一字一句くちびるで文字を象るみたいにはっきりと発音した。
しかし、それでもシンジは困惑したように小首を傾げた。
「アスカがチョコレート?」
「チョコレー党」
「ちょこれーとう……?」
小首傾げ角がさらに五度ほど増す。さも不思議げな表情が憎たら可愛い。
「甘党、辛党、チョコレー党って言うじゃない」
「そんなの聞いたことないけど……」
「今聞いたでしょ」
辛抱強いあたしの言葉にさすがのシンジも空気を読んだのか口を噤んだ。
あたしは澄ました顔で視線を伏せ、紅茶のカップを口元へ運んだ。落ち着かなげに咳払いしたシンジは、あたしの机や本棚、綺麗に整えられたベッドへそわそ
わと視線をさ迷わせてから、最後に壁のある一点でぴた
りと視線を固定した。彼が目に留めたのはカレンダーだ。ピンク色のハートが散りばめられたカレンダーにはチョコレート色でFebruary、つまり二月と
印字されている。
チョコレートが関係し、ピンクのハート入り乱れる二月のイベントといえば一つだけだ。いかにシンジが鈍くても気付かないはずがない。バレンタインデー
だ。
彼の表情に理解の色
が浮かぶのをこっそりと
確認し、あたしは澄まし返った表情に内心の高揚を覆い隠した。
意味もなくカップの端を爪で弾いたシンジは、躊躇いがちな口調で言った。
「えっと……、アスカ、チョコが好きなの?」
「くれるの? ありがとう嬉しい!」
彼の言葉を間髪入れず鷲掴みにして攫うように、視線を上げたあたしは答えた。もちろん、彼が「好きなのか」と問いかけたのであって、「欲しいのか」と訊
いたわけではないということは重々承知している。
こちらの食い付きのよさにシンジは怖気づいた顔をしたけれど、自ら賽を投げてしまったことを悟ったのか、あたしが会話をすり替えたことを非難するでもな
く表
情を和らげた。
「最近は女子同士で交換したりもするものね。逆チョコだってあるし、男のぼくがあげても変じゃ……ないよね?」
どうやらいまだに固定観念から抜け切らないらしく、シンジの言葉は質問口調だ。
肯定の言葉の代わりに、あたしはにっこりと極上の笑みを返してあげた。それを見て勇気づけられたのか、徐々にシンジも笑顔になっていく。
うふっ。
「バレンタインかぁ。ぼく、母さん以外では幼稚園の頃にもらったことがあるだけだよ」
「ふぅん、そうなの。それ、誰からもらったの?」
広げた手のひらをテーブルの上に載せて重ね、ごく何気ない口調で訊ねる。
「え? さあ、知らないよ。いつの間にかポケットに入ってたんだ。ぼくに食べてって書かれた紙と一緒に。母さんがきっと忍者の仕業ねって言って大笑いして
たような記憶があるけど、誰がくれたかは分からない」
「あ、そう。十四年生きてきて、ママ以外からもらったのはそれだけなんだ。あんた、モテなさそうだもんね」
「ほっといてよ」
あたしのからかう言葉に、シンジは柔らかそうなくちびるを尖らせた。その先っぽをちょんっとつまみたい衝動でテーブルに置いた指先が震える。
「アスカはもらったことあるの?」
「あるわよ」
即答すると、シンジはプライドを傷つけられた顔になった。男の子って時々すごく変なところにこだわるんだから、と彼の顔を見ながらこっそり考える。いつ
もはこの世の中にバレンタインデーというイベントがあることなんてまるで知らないような顔をしているくせに、いざその日になってみるともらったチョコの数
を競
うなんて。
「それ……、女子から?」
そうであって欲しいと願うような彼の言葉を、目を細めたあたしはそっと受け流した。
「女の子の過去を詮索しないの」
ま、全部女の子からだけどね。
と声には出さずに呟いて、心の中で舌を出す。シンジがここで「もらったことがあるのか」ではなくて「誰かにあげたことがあるのか」と訊いてくれるような
子だったら、もうちょっと違う対応をするのだけど。
しばらくもやもやした様子を見せていたシンジは、神妙な顔をしてミルクティーを飲むことで気持ちを落ち着けたようだった。
「と、ところでさ、アスカ」
「んー?」
シンジに倣ってあたしもミルクティーを飲みながら、間延びした返事をする。
「その、ぼくにも……い、いや、やっぱり何でもないよ」
もじもじしながら顔を赤らめていたシンジは、何やら躊躇いながら言いかけて途中でやめた。
「そう?」
「う、うん。あはは……は」
彼が何を言いたがっているのかもちろん分かっていたけれど、そんなことはおくびにも出さずただにっこりと甘い微笑みを浮かべたあたしは、カップを持ち
上げて紅茶を飲み干しているシンジの姿を見つめた。
うふふっ。
碇シンジと再会したのは二年と半年ほど前のことだ。元々シンジの一家はこの町に住んでいたのだけど、小学校へ上がる前に父親の仕事の都合で引っ越し、今
から二年半
前、小学六年生の夏休みにまたここへ戻ってきた。
幼稚園で一緒だった頃のあいつに関して憶えていることはあまり多くはないのだけれど、たまたま戻ってきた碇家の引っ越し先が我が家のすぐ近所だったこと
や親同士が
仲がよかったこともあって、再会後に何のかんのと世話焼きする役目を押し付けられてしまった。というより、なかば自ら引き受けたといったほうが正しいかも
しれない。学
校のクラスも同じだったし、シンジの様子も何だか頼りないような心細いような、このままでは上手く周囲に溶け込めないのではないかと危惧するようなところ
があったものだから、これはあたしが何とかしなくては、と思ってしまったのが運の尽きだった。
あたしの世話焼きと本人の努力の甲斐もあって、今ではシンジはすっかり友達も増えて周囲と上手く付き合っている。でも、なぜかいまだにあたしとの関係は
継続している。まあ、ミイラ取りがミイラになってしまったというか、思い込みの力は偉大というか……、シンジの思惑はともかくとしても、あたしのほうで彼
のそばを離れがたくなってしまったのだ。
ここが自分でもびっくりしてしまうところなのだけど、せっかく懐いた子犬を手放すのが惜しいだけとうそぶいてみた
ら、しっぽを振っているのはこちらも同じだったのを発見して、まさか自分にそんなものが付いているなんて思いもしなかったという以上に、これがまたあたし
の意思
とは無関係にぷるぷるぷるぷるとよく振れまくるしっぽで、赤面する顔を押さえてみたところでまさに頭隠してお尻隠さずしっぽぷるぷる、捕まえようとする手
をことごとく逃れるしっぽの振り幅は日々大きくなるばかりといった感じで、ようするにもうぶっちゃけてしまうと、あたしは好きなのだ。シンジのことが。も
のすごく。
「ヒカリ、一緒に帰ろっ」
ホームルームが終わると、手早く荷物をまとめてコートとマフラーを身に着けたあたしはぴょんぴょんスキップして親友の洞木ヒカリに声をかけた。そばかす
が可愛いヒカリはあた
しの
ほうを振り向いて「うん」と頷き、教科書類を大きいものから順番にカバンに入れ始めた。それを待ちながら教室内を見回すと、男子の友人たちと一緒にいるシ
ンジと一瞬だけ視線が交錯する。
「お待たせ。……どうかした? にこにこ顔してる」
「ちょっとね」
あたしは「いーっ」と歯を出して笑い、ヒカリに飛びついて腕を組んで引っ張った。
「さ、帰ろ帰ろっ」
最初に教壇へ向かい、クラスメイト達と話している担任の時田先生に挨拶する。
「先生さようなら」
「はいさようなら、惣流さん、洞木さん。また明日」
柔和な笑顔で挨拶を返してくれる面長なで肩の時田先生に手を振って、教室前方の扉から廊下へ出る。そのまま階段に向かって歩き出すと、教室後方の扉から
出てきたシンジたちとちょうど鉢合わせした。ちょっと目を丸くして立ち止まったシンジに、あたしはすれ違いながらひらひらと手を振って言った。
「バイバイ、シンジ」
「あ、うん。バイバイ」
シンジの声を背中で受け止めながら、ヒカリの腕を引っ張って歩いていく。
「ちょ、ちょっとアスカ、そんなに引っ張らないで」
廊下の突き当りまで来ると、引っ張るあたしを押し留めてヒカリが抗議した。あたしは彼女の顔を覗き込み、悪戯っぽくくちびるを歪めた。
「ヒカリも鈴原に別れの挨拶をしたかった? 何ならここで待っててあげましょうか」
あたしの言葉にヒカリは慌ててこちらの口を手で塞いできた。やって来たほうへ視線を送ると、シンジと友人たちはまだ教室の前で何やらじゃれ合って遊んで
いる。その友人の一人が鈴原といって、ヒカリの密かな片想いの相手だった。
あ、シンジが鈴原にヘッドロックかけられた。きっとあたしとのことをからかわれているのね。ま、そうなることを承知の上でシンジだけに笑いかけたんだけ
どさ。
男子って本当に子犬みたいだわ。笑いながら揉み合っている男子たちを眺めながら、あたしはつくづく思った。
「変なこと言わないで。いいからもう行きましょうよ」
真っ赤な顔をしたヒカリはあたしの口を押さえたまま、男子たちのほうを見ないようにして言った。その手を取ると、今度は腕を組むのではなく普通に繋い
で、あたしは答えた。
「はいはい。まったく奥手なんだから」
校舎を出ると外は雪がちらついていた。空を見上げて口を開けて真っ白な息を吐き出し、身体をぎゅっと縮める。
「うひゃあ、寒いっ」
暖を取ろうと隣のヒカリに抱きつくと、彼女は開こうとしていた折り畳み傘を落として「わっ」と声を上げた。
「もうアスカったら。傘落としちゃったじゃない」
「えへへ、天然湯たんぽだ」
下駄箱の前で抱き合っているあたしとヒカリを他の生徒たちがくすくす笑いながら避けていく。ヒカリは恥ずかしそうに顔を赤らめ、すぐ間近にあるあたしの
青い
目を見て言った。
「アスカ、変な子って思われちゃうわよ」
「いいわよ、別に。他人にどう思われようとあたしはあたしだもん。抱きつきたい時には抱きつくし、好きな人には好きって言うわ」
最後にすりすり頬擦りしてからヒカリを放し、彼女の傘を拾って手渡した。それを受け取ったヒカリは、慎重な口調で言った。
「それってやっぱり……」
言葉を切り、ヒカリは来た方向へ曖昧な視線を向ける。もちろん、ヒカリがシンジのことを言おうとしていることは分かっていた。小学校からの親友である彼
女は、あたしがシンジと係わるのをすぐそばで見続けてきた。この胸の想いだって知っているだろう。あたしが彼女の秘めた恋を知っているように。
親友の問いかけには無言のまま、自分の傘を広げたあたしは一歩前へ進んでから彼女のほうを振り返った。
「ヒカリのことも好きよ」
差し出した手をヒカリが握る。笑いかけると、彼女もつられるように顔をほころばせた。
帰宅すると、家中に甘いチョコレートの匂いが充満していた。台所ではエプロン姿のママがボウルに入れたチョコレートを湯煎しながらヘラでかき混ぜている
ところだった。
「ただいま」
「お帰り、アスカ」
手元のチョコに視線を固定したまま答えるママを横目で見ながら、コーヒーを淹れる準備を始める。
パパとママは毎年バレンタインにプレゼントを交換し合っている。うちのパパはアメリカ出身だし、ママも半分ドイツ人なので、どちらかというと日本独自の
バレンタインデーのやり方にはこだわっていない。もっとも、当人同士はそうでも周囲は当然違うわけで、パパが毎年職場からもらってくるチョコレートはいつ
も二人の間にちょっとした緊張を生み出している。たくさんの義理チョコといくつかの本命チョコを前に並べて正座(パパ命名『おしおき座り』)させられるパ
パは滑
稽でもあり、でもあたしがママの立場だとしたら同じことをするかも、と想像すると笑い事ではないようでもある。こんなことなら最初からすべてチョコを断れ
ばいいと思うのだけど、職場の円滑な人間関係のためにはそんなことはできないらしい。元アメリカ人のくせに言うことが妙に日本人くさいのよね、パパって。
だけど、ママに言わせれば「押しが弱くて優柔不断なだけでしょ」とのこと
だ。そんなことを言いつつ、こうして毎年嬉々としてパパへのプレゼントを用意しているのだから、もう好きにしてっていう感じ。……本当にそう言ったとした
ら、「言われなくても好きにやっているわよ」と返ってくると思うけどね。
「楽しそうねえ、ママ」
淹れたてコーヒーの香りを楽しみながら、あたしは鼻歌交じりに大量のチョコと戯れているママに向かって言った。
「楽しいわよ。アスカも作る?」
「今回はやめておこうかな」
少し考えてからあたしは答えた。これまではいつもママの手伝いをしていた。ママとあたしの二人からだと言ってチョコを渡すと、パパがとても喜んでくれる
からだ。
他にあげるような相手もいなかったし、一番好きな男性に贈るという意味では確かに間違ってはいなかったのだ。
でも、今年はちょっと違う。ママも敏感にそのことを察したのか、手を止めてあたしを見ると面白がるような表情をして言った。
「パパ以外に誰かチョコをあげたい相手でもできた?」
予期していた問いかけにも、やはり頬は熱くなる。あたしは緩んだ口元を隠すようにマグカップの縁を咥え、小さく答えた。
「ひみつ」
上目遣いに視線を送ると、ママはくすりと笑ってから再びチョコを溶かし始めた。
「ふふ、秘密ですか」
「はい、そうなんです」
おどけた言葉を交わし合い、あたしたちはくすぐったく笑った。確かにママのことは大好きで尊敬もしているし、どんな些細なことでも話して分かち合いたい
とこれま
で思ってきた。でも、この気持ちは少し違うかもしれない、とあたしは初めて感じたのだった。
これは正真正銘あたしだけのものなのだ。
湯気を立てるコーヒーの芳しい香りを吸い込み、ゆっくりとくちびるを触れる。
「で、シンジくんにはどんなチョコをあげるの?」
「あちっ」
もっとも、ママにはお見通しのようだけど。
気後れしたようにこちらを窺う男の子を観察しながら、あたしは顔をしかめそうになるのをこらえながら、それでもできる限りにこやかに笑った。
「こんにちは」
「……どうも」
父親の大きな手に肩を掴まれた少年は薄いくちびるをほとんど開くことなく、か細く答えた。
これは今から二年半ほど前の話だ。
笑顔がひきつったことは否めない。こんな子だっただろうか、というのが再会した時のシンジの印象だ。
幼い頃一緒に遊んだ少年のことを忘れたわけではなかった。別れてからすでに六年近くが過ぎていたけど、あたしと共に遊ぶ笑顔の彼を写した写真が我が家の
アルバムに納められていたし、それ以上に彼と過ごしていた頃の気持ち、楽しかった思い出はおぼろげではあっても忘れ去られることなくこの胸の奥にずっと仕
舞い込まれていた。
でも、成長し再び戻ってきたシンジを前にしたあたしが感じていたのは、正直にいえば幻滅だった。それはシンジ本人に対してというより、美化されたあたし
自身の記憶に対しての幻滅といったほうがいいかもしれない。そして同時に、目の前の成長したシンジの存在が侵されざる神聖な過去の記憶を汚したことへの憤
り。
淹れられたコーヒーがとうになくなりお菓子が空になっても、積もり積もった親たちの会話は果てることを知らず、いい加減退屈しきったあたしがシンジを散
歩に誘ったのは、
強い責任感のせいだった。本当なら彼のことなど放っておいて友達のところへでも遊びに行きたかったが親たちの手前そういうわけにも行かず、自らの分別を恨
めしく思いながら、にこやかな四人の眼差しに見送られてシンジを伴い家を出たのだった。
季節は夏だった。焼けつく午後の陽射しと蝉しぐれの中、あたしとシンジは熱したフライパンの底みたいなアスファルトを踏んで気まずい沈黙と共に高台へ向
かった。そこに昔よく遊んだ公園があったからだ。散歩へ連れ出したといっても特に当てがあったわけでもなく、かつて通っていた幼稚園は家から少々距離があ
るので炎天下で歩いて行く気にならず、また行ったところでどうせ敷地には入れないのだから、その代わりにと思いついたのが高台の公園だったのだ。
一歩後ろからついて来るシンジを時折振り返り、声をかける。
「この辺り、憶えている?」
「何となく」
シンジの返事は大抵一言で終わりだった。その度にあたしは、シンジくんって本当にこんな子だったかしら、と繰り返しため息を吐きたいような気分になって
し
まうのだった。
彼の両親の話によれば、六年ほど前にこの街から引っ越して以来、一、二年ごとに引っ越しを繰り返していたようだった。仕事の都合で仕方のないこととはい
え、友達ができ学校に慣れたかと思えばまたすぐ別れなければならないシンジには気の毒な境遇だったことは確かだ。伏し目がちであまりしゃべらない彼の態度
は、人見知りをしているというより他人と打ち解ける意欲がそもそも欠落しているように思われた。どうせすぐにお別れになるのだから、仲良くなっても仕方が
な
いという
投げやりな態度がすっかり習い性になっていたのだろう。正直なところ、この時のシンジは再会したあたしにもあまり関心がないようだった。
こちらを憶えていないのならそれはそれで仕方がないし、そんなことを責めるつもりもない。ただあたしは、彼があまりにもつまらなそうな顔をしているのが
嫌なのだった。このあたしが一緒にもかかわらずそんな顔をされてプライドが傷ついたとかどうとか、別にそういうことではなくて、ただ単純に遠い記憶の向こ
うで屈託なく笑っていたあの頃のように明るい表情を
見せて欲しかったのだ。
高台の公園はたくさんの木が取り囲むように植わった中央の空間が広場となっていて、そこに遊具や砂場が設置されている。木々の間には遊歩道があり、あた
したちは木洩れ日の落ちる道をゆっくりと歩いた。公園の中は外よりもいくぶん涼しく、大した距離ではないとはいえ炎天下で坂道をずっと登ってきて額に汗が
噴き出していたあたしはほっと息をついた。公園には様々な人が集まっていた。母親に連れられた幼児、夏休み中の小学生くらいの子どもたち、ジョギングをす
る人たち。
彼らの話し声が木々に反響して、遊歩道をシンジと二人もくもくと歩いていても、それまでのような息の詰まるような気まずさは多少和らぐようだった。
「ここ、懐かしい?」
腰の後ろで手を結んで肩越しに振り返ると、きょろきょろと辺りを見回していたシンジは、やっと表情を少し動かして答えた。
「うん。昔よくここで遊んだ……ような気がする」
「遊んだのよ。あんまり憶えてないかもしれないけど」
シンジと向き合って後ろ歩きをしながら笑いかけると、彼は戸惑ったような顔をした。たぶん彼には他人と共に遠い過去の思い出を懐かしむような経験がな
かったためだろう。人生でほとんど初めて現れた、同じ思い出を共有しているあたしという他人にどう対応すべきか、決めかねているような様子だった。
遊歩道を抜けて広場に出たあたしは、小さな子どもたちがはしゃぎ声を上げて遊具や砂場の周りで駆けまわっているのを眺めた。その光景が、あたしたちも昔
はああしていたのだと、おぼろげな記憶にわずかな色彩を与えた。
およそ六年ぶりにここを訪れるシンジはどうだろうかと隣に目を向ければ、彼は前へ歩き出しながら独り言のように呟いた。
「あの木、憶えてる」
彼が言うのは広場の端のほうに植わっている一本の大きな木だった。近づいて幹に手のひらを当てたシンジは、懐かしそうに頭上に広がる枝を見上げ、表情を
和らげた。隣に並んで同じように見上げつつ、あたしはこっそりと彼の表情を窺った。
「確かこの木に登ろうとしてすっごく怒られたわよね」
その木は幹の表面がごつごつしていて低いところから枝が広がっているので、小さな子どもでも手や足を引っかけやすく、木登りにはうってつけだ。しかし意
外と樹高があるので、調子に乗っていると思いのほか高いところまで登ってしまって、降りられなくなったり落ちて怪我をしたりする子どもが必ずいた。
「登っている途中で知らないおじいさんに叱られたんだ。懐かしいな」
「あのおじいさん、今も時々見かけるわよ」
あたし自身ほとんど忘れていたけど、シンジと話しているとその時の情景が甦ってきた。幼児期のあたしたちにとって、この木の高いところまで登
るのは一種のステータスだった。たぶん小学生のお兄さんたちが登っている姿に憧れて真似したくなった誰かが始めたことだったのだろう。そしてご多分に漏れ
ず、あたしもその輝かしいステータスを得たいと望むチャレンジャーの一人だった。ちょっと勇気のある男の子なら大抵みんな挑戦していたし、仰ぎ見るような
高いところまで登ったすごい女の子もいた。それならこのあたしも挑戦しないわけには行かない。そう意気込んでシンジと共に臨んだファーストアタックの途中
で、近所のう
るさがたのおじいさんに叱られてしまったというわけなんだけど。
「もっと大きな木だったような気がしたけど、今見るとそれほどでもないんだね」
「まだすごく小さかったんだもの。でも、あたしも今言われて初めて気付いたわ。あの頃はてっぺんが雲の上にあるような気さえしていたけど……。あたした
ち、大きくなったのね」
シンジと自分とを一緒にして「あたしたち」と呼んだのは意識してのことではなかった。でもその一言で、彼に対する親近感が急速に手元に引き戻されるよう
な感覚があった。
あたしたちは、また同じ場所で同じ時間を過ごすのだ。
「ねえ、登ってみない?」
でこぼこした堅い幹に手を置き足をかけたあたしはシンジを見て言った。
「最初に挑戦して叱られたきり、一度も登ってないの。碇くんもそうでしょ?」
と、目を丸くしている彼に笑いかけるとあたしは返事も待たず木を登り始めた。幼児の頃と違い、あっという間に背丈よりも高い場所に張り出した枝に達する
と、まだ地面から
こちらを見上げて立っているシンジを手招きした。
「どうしたの、早くおいでよ」
「また叱られちゃうよ、惣流さん」
「その時は一緒にごめんなさいしなきゃね」
あたしの能天気な言葉に勇気づけられたのか、それともいくら言っても無駄だと諦めたのか、シンジもあたしの後に続いて登り始めた。逡巡していたわりには
意外に彼の動きは軽快で、さすがは男の子というべきか、あたしより身軽にスルスル登るくらいだった。それを見届けたあたしは、また上を見あげて一段高い枝
を目指
した。
地上から四、五メートルほどの高さに、幹を中心に左右に張り出した太い枝があったので、あたしたちは幹を挟んでその両側に腰掛けた。
「んー、いい眺め」
「本当だ。思ったよりずっと見晴らしがいいところにあるんだね、この公園」
あたしたちが登っている木は公園の端、高台の斜面側にある。そのため遮るものなく眼下の街が一望できた。
木の幹のどこかにセミがとまっていて、じーじーと騒がしく鳴いていた。頭上に豊かに茂っている枝葉の作る日陰と通り抜ける風のおかげで木の上は涼しく、
あたしたちは思いがけない心地よさに浸りながらしばらく街を展望していた。
「あっ」
と、突然声を上げたシンジが街のどこかを指差し、弾んだ声で言った。
「ぼくの家が見えるよ、アスカちゃん」
口に出した後になって、彼はあたしを幼かった頃みたいに呼んだことに気付いたみたいだった。途端にかぁっと耳まで赤くさせて、彼は指差していた手を恥ず
かしそ
うににぎにぎさせた。
「あ、いや……ごめん。惣流さんのほうがよかったよね」
再会して以来、あたしたちはお互いに「碇くん」「惣流さん」と呼び合っていた。もちろん昔は下の名前で呼んでいたのだけど、小学六年生にもなって、しか
も約六年もの間顔も合わせなかったというのに、また昔のまま呼び合うというのはさすがに躊躇われたからだ。
でも彼の無意識の呼びかけが、居心地の悪い気まずさも六年の空白も何もかも駆逐した。
あたしは木の幹に寄りかかって彼の顔を覗き込み、にっとくちびるの端を吊り上げて答えた。
「下の名前でいいわよ。でも、ちゃん付けはなし。その代りあたしもシンジって呼び捨てにするわ」
「ええ?」
シンジは驚いた声を上げた。それもそうだろう。他人に関心の薄そうなこの男の子に、この六年間でファーストネームを呼び捨てにする女の子がいたとは思え
ない。そ
れを承知の上で、あたしは目を細めて彼に詰め寄った。
「次に惣流さんって呼んだら、二学期が始まってから学校のみんなに、昔シンジが幼稚園の肝試しでお漏らししたこと言いふらすわよ」
「そ、そんなひどい」
さっそく呼び捨てを試しながら笑顔で脅すあたしに、お漏らしの一件を憶えていたらしいシンジは情けない顔で抗議した。
「それが嫌ならアスカって呼んで。たった三文字じゃない。簡単なことでしょ?」
「そういう問題じゃ……」
「あら、あたしはへっちゃらよ。シーンジシンジ、シンジシンジシンジシンジシンジ! ほらね?」
同じ木のどこかで鳴いているセミのようにシンジの名前を連呼し、太い幹の向こうにいる男の子を上目遣いに見つめた。シンジはきょろきょろしてあたしの視
線から逃れようと
試みていたけど、やがて観念したのか街のほうへ視線をやりながら小さく答えた。
「分かったよ」
「じゃ、呼んでみて」
間髪入れずに催促すると、シンジは顔をひきつらせてあたしへ視線を向け、すぐに逸らした。公園に来るまでは斜に構えたような顔をしていたシンジがこちら
の一言でうろたえる姿を見るのが段々楽しくなってきて、木に抱きついたあたしは肩を揺らして笑いをこらえた。
「今呼ばなきゃ駄目?」
「呼びたくないの?」
質問に質問で返すと、シンジは口ごもってしまった。性格的にはっきり嫌だと言い切ることができないのだ。弱り切っているシンジの姿にもう十分満足したあ
たしは、これくらいでからかうのは勘弁してあげることにした。
「冗談よ。あたしはアスカって呼んでほしいけど、どうしても無理なら好きなように呼べばいいわ。でも、こっちがシンジって呼ぶのは構わないわよね?」
少し残念な気もしたけど、たぶんシンジはアスカと呼ぶことを拒否するのだろうと考えていた。ところが、予想に反して彼は長い逡巡の後でこう言ったのだ。
「シンジでいいよ。ア、アスカ」
ここですらすら言えないのがシンジの可愛いところだ、というのはずいぶん後になってから思うようになったことなのだけど、今にして考えれば最初からその
傾向があったのかもしれない。
それはともかく、相当の勇気を振り絞ったに違いないシンジの赤く染まった横顔に敬意を表し、あたしは木の幹に平手を打ち合わせると、朗らかに呼びかけ
た。
「これからよろしくね、シンジ」
「お手柔らかにお願いします」
「うふふっ、それはどうしよっかなぁ」
冗談めかしたような、本音のようなシンジの言葉にあたしはくすくす笑いを漏らした。すると、つられるように彼も表情をほころばせた。
あたしたちの笑い声を眼下に広がる街並みが吸い込んでいった。幹を挟んで枝に腰かけるシンジのほうへ顔を向けると、そこにはあけっぴろげで明るい笑顔を
浮かべて弾けるように笑う男の子の姿があった。
あたしはシンジの表情に目を奪われた。これから何もかもうまく行くような、とても素敵な日々が待っているような、そんな気がして胸がドキドキした。
なぜならそれは再会して以来初めて見る、愛想笑いではない彼の本物の笑顔だったからだ。
「アスカはどうして碇くんを好きになったの?」
と訊いてきたヒカリは、たぶんこちらが相当きょとんとした顔をしていたからだろう、気まずそうにくちびるを食みながら、それでも辛抱強くあたしの答えを
待っていた。
「なあに、いきなり」
「いきなりって……今まさにその話をしてたじゃない。明日のバレンタインに碇くんに告白するんでしょ?」
「それはそうだけど、どうしてって言われても、うぅーん……」
眉間にしわを寄せ、腕を組んであたしは天井を見上げた。
二時間目の後の休憩時間に、あたしたちは内緒話をするために廊下の突き当りにいた。ここで壁を背にして立っていれば、廊下の向こうや階段から人が近づく
のがすぐに分かる。内緒話を
するにはうってつけの場所だ。年季の入った灰色の天井はきっと数多くの生徒たちの秘密をため込んでいるに違いない。
あたしは物言わぬ天井を見上げたまま、ヒカリに答えた。
「何となく、かしら」
「何となく?」
その言葉を繰り返すヒカリの声音は期待外れと言わんばかりだ。でも、あたしとしては真剣に考えた結果がこの答えなのだった。
「もちろんあいつの好きなところを具体的に挙げようと思えばできるのよ。顔とか声とか、こういうところがいいとか……。でもそれは、あくまで好きなところ
であって、好きになった理由かと言われるとそういうことじゃないのよね。だから、どうして好きになったのかと訊かれても、何となくいつの間にかとしか答え
よう
がないわ」
「ふぅん。そんなものなのかなぁ」
ヒカリはあまり納得した風ではなく、首を傾げている。あたしは組んでいた腕をほどき、胸の前で曖昧なジェスチャーをしながら、さらに付け加えた。
「あたしの場合はってことだけどね。別にそれは人それぞれだと思うけど。大体ヒカリこそどうなのよ」
「へ? わ、わたし?」
「何で鈴原なの?」
「そ、それは……優しいから」
俯いたヒカリは真っ赤に染まった頬を押さえ、蚊の鳴くような声で答えた。その姿は大変いじらしくて可愛らしいのだけど、言葉の内容のほうには首を傾げざ
るを得ない。
「鈴原……優しい?」
「優しいの!」
心底疑問というあたしの言葉に怒ったようにヒカリは言い返した。
あたしの印象では、鈴原はよくいるお調子者の男子の一人でしかない。もちろん悪い奴ではないのだけど、正直あたしには完全に圏外というか、どう頑張って
も気が合いそうにないという感じだ。シンジの友達だから話したりもするけど、そうでもなければあまり係わろうとはしなかったに違いない。
けれどヒカリにとっては、きっとまったく異なる印象なのだ。たぶん、同じようにあたしがシンジの好きなところを一つずつ挙げていっても、その多くにヒカ
リは首を傾げるのだろう。
「冗談よ。ごめんごめん」
「もうっ! ……ねえ、もしも断られたらどうする?」
頬を膨らませた表情から一転して遠慮がちに質問したヒカリにあたしは小さく笑った。あたしたちが告白するのしないのと騒ぐ大きな理由の一つが、断られる
こと
への恐怖だ。当然あたしだって何度も同じ質問をこの胸の中で繰り返してきた。
「たぶんシンジのことはすっぱり諦めて、いずれ他の人のことを好きになると思うわ」
「えっ! そうなの?」
ヒカリは予想もしなかったという表情で驚いた声を上げた。あたしは親友の反応に苦笑しつつ、わけを説明した。
「フラれたあともあいつのそばにいて惨めな自分をいつも再確認するのには耐えられないもの。これはきっとつまらないプライドの問題なんだけど、あたしを
フッ
たあいつの前でこれまでと同じように笑っていられる自信がないの。そんな惨めな思いをするくらいなら、縁がなかったと潔く諦めてしまうほうが百倍ま
し」
「それはそうかもしれないけど……そんな風に思い切ることができる?」
「さあ、そこが分からないところなのよね。どんなに諦めようとしても諦められないくらい、あたしの中の好きという気持ちが大きかったとしたら、いつまでも
ずっと好きでい続
けるのかもしれないわ。そうしたら、いつかあいつがあたしの思いを受け入れてくれる日も来るかもしれないし。でも……自分がそんな風に耐え忍ぶことができ
るかどうか疑問だし、それほどまであいつへの気持ちが強いかどうかも分からないもの。もしかすると、フラれた瞬間に嫌いになってしまうかも」
結局、想像するだけでは確かなことは何も分からないのだった。
「わたしだったら諦められるかしら……」
「ヒカリも明日告白してみたら? 一応チョコは用意してるんでしょ?」
あたしが水を向けると、ヒカリは赤くなった顔の前で両手を振った。
「わ、わたしはいいわよ……」
「何で?」
「だって恥ずかしいし、自信ないもの」
おさげ髪を手でもてあそんで、ヒカリは俯いた。あたしは腰に手を当てて大げさにため息を吐くと、親友の頬を両側から手のひらで挟んで、ずいっと顔を近づ
けて言った。
「大丈夫よ。ヒカリみたいな素敵な女の子、鈴原にはもったいないくらいだもの。絶対にうまく行くわ。それにもし断られたら、あたしが鈴原をとっちめてあげ
る」
柔らかい頬をぶにぶにと押さえると、こらえ切れないようにヒカリは笑った。
「そうね。その時はお願いしようかな」
「任しておいて。再起不能にしてやるから」
「……手加減はしてあげてね」
ウィンクとともに、あたしはにんまり笑って答えた。
「それは無理よ。絶対無理」
その夜、夕食後にシンジと電話で話した。用事のあるなしにかかわらず彼と電話で雑談するのは別に珍しいことではない。でも、もしかするとこの日の電話が
最後になってしまうかもしれなかった。彼にフラれた後になってもこれまでどおりに電話で話せるとは思えない。そう考えるとついつい会話を引き伸ばしたく
なってしまい、本来の用件を切り出したのは一時間も経ってからだった。
「ところでさ、シンジ。明日のチョコはもう用意した?」
かなりの期待を込めて訊いたのが相手にも分かったのか、電話越しにシンジが身構える気配が伝わってきた。
「うん、したよ」
少し緊張した声でシンジは答えた。その息づかいにまで耳を澄ませながら、あたしは口元をほころばせた。
「うふふ、楽しみ」
「あんまり期待されるとちょっと怖いんだけど」
「そお? じゃあ、すっごぉぉぉーっく楽しみ!!」
力を込めてあたしが言い直すと、シンジはこらえ切れないように噴き出した。
「分かったよ」
「分かってくれた?」
「本当にチョコが好きなんだね」
シンジが好きなのよ。
と、反射的に言い返しそうになったあたしは、足元にあったクッションを蹴飛ばして言葉を飲み込んだ。
シンジが気の利いた答えを返すなんて、今は期待しても仕方がないって最初から分かってたけどね。
……それでも期待してたの。
「はぁ……あたしってば健気」
「え? 何?」
ぽつりと呟いたあたしの独り言にシンジが反応する。
「何でもないですよーっだ。バカシンジ。ふふっ」
「何だよそれ……」
「とにかく、明日は一緒に帰りましょうね。学校で渡されるのはちょっと嫌だし、うちでなら人目を気にしなくていいしね。シンジもそのほうがいいでしょ?」
「そうだね。そのほうがぼくも助かるかも。で、アスカの家がいいの?」
「ええ」
「じゃあ、朝からチョコを持って出たほうがいいかな。じゃないと帰りに一度ぼくの家に寄ることになるし」
「どっちでもいいわよ。誰かに見られたり取り上げられたりしなければ」
他の男子に見られてからかわれるくらいなら構わないけど、先生に見つかって取り上げられたりするのは絶対に困る。
「あ、それともアスカに先に帰ってもらって、後からぼくがチョコを持ってそっちに行けば……」
「シンジ」
遮るようにあたしはシンジの名前を呼んだ。
「うん?」
「明日は、一緒に、帰るの」
「……ハイ」
一字一句区切るように念を押したら、シンジは神妙に返事をした。
「一緒っていうのは、学校を出る時から、あたしの家に着くまでのことよ。分かる?」
間違っても途中で別れてあたしだけ先に帰ったりはしないのだ。
「分かった」
あたしの気迫に圧倒されたのか、シンジの態度は行儀のいい柴犬よりも従順だった。
もしここで分からないとか何とか彼が四の五の言ったら、絶対に離さないように腕を組んで帰ると言ってやるつもりだったのだけど……ちぇっ。
「じゃあ、アスカ。明日は……あ、ちょっと待って」
と、言葉を切ったシンジの気配が遠のき、電話の向こうで誰かと話してから再び戻ってきた。
「長電話はほどほどにしろってさ」
どうやらお母さんに注意されたらしい。自分の携帯電話とはいえ、電話代は親持ちなのだから仕方がない。
「うちもそろそろママが乗り込んでくるかも」
もしも時間や電話代のことを気にせずに済むとしたら、一晩中でもシンジと話していたいくらいだ。話したいことはいくらでもあるし、もしそれでも足りなけ
れば好きという言葉を一晩中言い続けたっていい。こうして電話越しではなく直接顔を向かい合わせていたとしたら、一言もしゃべらずただじっと見つめ合って
いるだけでも構わない。でも、今はまだそういうことはできないのだ。
「それじゃシンジ、今日はこれくらいにしましょ。明日チョコを朝から持って出るかどうかはシンジに任せるわ」
「うん。あとね、アスカ。ひとつだけ訊いていいかな」
「なあに?」
あたしが促すと、シンジは少し口ごもった後で意を決したように言った。
「アスカはさ、これまで誰かにバレンタインチョコをあげたことがあるの?」
それはある意味あたしが待ち構えていた質問だった。
思わずにやけてしまう口元を意識しながら、逆にシンジに質問し返した。
「それが気になるの?」
「まあその、別に言いたくないなら答えなくていいけど、ちょっと気になったというか、どうなのかなと思って……」
シンジは気まずそうにまごまご答えた。彼の性格からして、わざわざ口に出して訊くということは相当気になっているということだ。もちろん、これがあたし
にとって歓迎すべきことなのは言うまでもない。
「で、知りたいんだ」
「うん。そう、かな」
答えるシンジは何やら歯切れが悪い。でも、あたしはあえて彼のそんな態度を気にしないことにした。
「それなら教えてあげるけど、あげたことあるわよ」
かすかに息を呑む気配が電話越しに伝わってくる。あたしは弧を描くくちびるを人差し指で押さえ、彼の反応を待った。
「そ、そうなんだ……。それって誰に?」
「質問は一つだけじゃなかったっけ?」
「あ、ごめん。別に詮索するつもりじゃ……」
「ふふ、冗談よ。まあ知りたいならいつ誰にあげたか教えてあげてもいいんだけど」
「だけど?」
「だけど、訊いてくれるのが遅かったから、やっぱり教えてあげない」
あたしの言葉にシンジが憮然としたのが分かり、それ以上こらえ切れずに笑い声をあげてしまった。そのせいでますますシンジはへそを曲げてしまったよう
だった。
「もういいよ、アスカ」
「怒らないで、シンジ。そうね、ヒントくらいは出してあげようかしら。相手はシンジもよーく知っている人よ。これで一晩考えてみて。明日正解を教えてあげ
るから」
「ぼくがよく知っている?」
「ええ。じゃあまた明日ね。おやすみシンジ」
「う、うん、また明日。おやすみアスカ」
あたしは電話口に軽くくちびるを付けると、「ちゅっ」と高い音を立てて離した。
「おやすみのキスよ。じゃあね」
シンジの返事を待たずに通話を切って、もう一度電話にくちびるを当てる。彼が今ごろどんな顔をしているのかと想像すると、どうしてもにやけてしまい、
クッションを抱き締めてご
ろんとベッドに転がったあ
たしは一人でくすくす笑った。
そこへノックの音がして、返事をすると開いた扉からパパが顔を覗かせた。
「なあに、パパ?」
大男のパパの青い瞳を見上げながら訊ねる。
「お風呂の用意ができたよ。先に入ってきなさい」
我が家ではパパがお風呂当番だ。でも、大柄なパパが最初に入ると浴槽のお湯がたくさんこぼれてしまうから、掃除をしてお風呂を沸かした本人が大抵は最後
に入ることになる。……まあ、たまにママと一緒に入ってるみたいだけど、あたしは空気の読めるいい子なので、そういう時は何も気づいてないふりをするの。
「分かった」
「誰かと電話していたのかい?」
あたしが手に持っていた電話に視線をやって、パパが訊いてきた。
「うん。してた」
別に隠すことでもないので正直に答えると、パパはあごの先を軽く摘まんで、少し気難しそうに言った。
「相手は男の子?」
腹筋で身体を起こしたあたしはパパと正面から向き直って、まじまじと見つめた。
「パパ? まさか立ち聞きなんてしてないわよね?」
大げさに目を見開いたパパは驚いた表情を作って否定した。
「まさか!」
「じゃあどうしてそんなこと訊くの?」
質問すると、パパは少し視線をさ迷わせてから、なぜか言いにくそうに口を開いた。
「別に大したことじゃないんだけど、電話を持ったお前の表情が、昔のママに似ていたんだ」
「昔の?」
「結婚する前のってことだ」
「つまりパパと恋人同士だった頃? それともさらに前?」
「さあ、どっちかな」
デニムのポケットに手を突っ込んだパパは曖昧に肩を竦めた。
パパとママが出会ったのは高校生の頃だ。当時アメリカに短期留学したママのホームステイ先がパパの家庭だったのだ。わずか一か月ほどの滞在の間にパパは
ママの出身である日本という国にいたく興味を抱き、大学生になってから今度は逆にパパのほうが日本へ留学した。もちろんずっとメールで連絡を取り合ってい
たママとの再会を果たしたことも言うまでもない。そして、そのまま居ついてママと結婚し今に至るというわけだ。
二人が正式に恋人同士になったのは大学時代のことだけど、実際にはママの短期留学の時にすでに何かしら心の動きがあったのだとあたしは想像している。少
なくともパ
パが日本へ興味を抱いたきっかけがママの存在だったことは疑う余地もないし、ママの帰国後もずっと連絡を取り合っていたのだって、単なる友情のためという
より、一か月間の交流でパパのハートに若者によくある化学反応が起きたためだと考えるほうが自然だ。そしてもしかすると、それはママのほうだって同じだっ
たのかもしれない。
少女だった頃のママの表情にパパが見出したものを想像して、あたしはあたたかい気持ちになった。二人は当然、あたしが産まれた時からパパとママなのだけ
ど、それよりもっと前にはただの少年と少女であり、今あたしが経験しているような色々な想いをパパたちも経験してきたのだ。自分だけの瑞々しい想いを大切
に胸にいだいて、輝かしい若者としての日々を過ごしていたのだ。当たり前のことのようだけど、これってちょっと素敵な発見じゃない?
「可愛い娘が心配なのは分かるけど、もしもあたしに彼氏ができたら、ここへ連れてきて真っ先にパパに教えてあげるわ。心配性のパパもそれで少しは安心でき
る?」
「まあ、そうだな。こそこそされるよりはずっとましだ。もちろん相手によるけどな」
パパはいかにも不満げにそう言った。寛大な父親というのをやるのも結構大変なものらしい。でも、仕方がないじゃない。パパを恋人にするわけには行かない
んだし、現にあたしはパパ以外の男の子に恋をしているんだもの。
「こそこそするのは嫌いなの。恋をするなら胸を張っていたいわ」
あたしは立ち上がり、まさしく言葉どおりに胸を張って部屋を横切ると、タンスから替えの下着を取り出した。パパはそんなあたしを見るともなしに目で追い
ながら、胸の前で曖昧なジェスチャーをして言った。
「それでこそパパの娘だ。で、アスカ、その相手のことなんだけど……」
言いかけたパパのほうへくるりと身体を向けたあたしは、パパに見えるように胸の前で下着を持ってわざとらしくゆっくり訊いた。
「名前を聞き出すまであたしをお風呂に入れない気なの?」
パパはお餅がのどに詰まったみたいな顔をしてから、降参という風に両手を上げた。それからあたしに指を向け、額にしわを寄せて上目遣いにこちらを見な
がら念を押した。
「彼氏ができたら真っ先に、だぞ」
「約束する」
指をまっすぐに揃えた手のひらを正面に向け、あたしはにっこり笑いかけた。
「さあ、その大っきな図体をどけてちょうだい。もうパパの股の下をちょこまか潜り抜ける歳じゃないんだもの」
あたしがおどけると、パパは弾けるように豊かな声で笑った。実際、小さな頃のあたしはしょっちゅうパパの両脚の間にできたトンネルを潜り抜けていたもの
だ。それはあたしのお気に入りの遊びだった。
「分かったよ。それじゃお風呂に入っておいで」
パパは笑いながら扉の前から身体をどけ、その立ち去り際に顔だけ覗き込ませて優しい声で呼びかけてきた。
「アイラブユー、アスカ」
「アイラブユートゥー、パパ」
恋人ができてもずっと好きよ、パパ。
あたしは別に熱烈な運命論者というわけではない。
シンジとあたしが恋人同士になることが運命づけられているわけではないし、結ばれなければならない理由もない。
幼い頃に離れ離れになった男の子と約六年ぶりに再会することができたのは単なる偶然だ。それが少なからず好意を抱いていた相手だったということも。そも
そもこの広い世界、過去から未来へ続く時間の流れの中であたしが彼と出会った事象もまた偶然の産物なのだ。
問題は、偶然をいかに必然に変えていくかということだ。この場合、必然とはあたしにとってそうであるということで、世界にとっての必然でも他の人間に
とっての必然でもない。
つまり、あたしの恋は完全なるエゴなのだ。このエゴを充足させるためにあたしは不確実なこの世界と格闘しなくてはならず、バレンタインデー当日の放課後
にシンジを遊びに誘う鈴原の前に立ち塞がるのもそのためだった。
「駄目よ。シンジはあたしと用があるの」
シンジを背に庇うように前に出たあたしを見て、鈴原はよく日に焼けた顔を歪ませた。
「何や、横から割り込んできて。ははぁん、さてはバレンタインやな? シンジにチョコを渡す気なんやろ」
鈴原の言葉を聞いていたクラスメイト達に軽いどよめきが起こる。鈴原も攻撃の糸口を見つけ、からかう気満々という表情だ。
でも、そんな浮ついた周囲も鈴原の態度もはねのけ、あたしは胸を張って言い返した。
「鈴原には関係ないわ。モテない男がひがむのはみっともないわよ。どうせあんたはお母さん以外からはもらったことがないクチでしょ」
「な、何やとぉ!」
鈴原は顔を真っ赤にして声を上げた。
「アホ言うなや! そんなわけあるか!」
「へえ、じゃあ他に誰からもらったことあるのよ」
ヒカリがまだ鈴原にチョコを渡していないことは確認済みだ。あたしの質問に鈴原の態度は勢いを失くし、少し口ごもってから誤魔化すように答えた。
「そ、それはあれや、妹とか、お隣のおばちゃんとか……」
あたしを含めその言葉を聞いた周囲はみんな憐みの眼差しを向けるか、さもなければ失笑した。まあでも、鈴原は特別モテるタイプの男子ではないし、恋だ
の何だのはまだまだこれからというあたしたちの年齢を考えれば、案外これが普通なのだろう。それはともかくとしても、くれたことがあるのが妹とお隣のおば
ちゃんというのが硬派を気取ってもどこか間の抜けた鈴原らしいところだ。でも、鈴原の妹ちゃんが実は超可愛いという事実を知っているあたしは、兄貴とし
ては案外本気で嬉し
かったのかもしれない、なんて想像してしまう。お隣のおばちゃんのことは知らないけどね。
「わ、わいのことはどうでもええやろ!」
周囲の雰囲気に耐えられなくなったのか、顔を真っ赤にして叫ぶ鈴原に向かって、あたしは平然と言い返した。
「それならあたしたちのことだって関係ないわよね。とにかくシンジとは前から約束していた用があるの。遊びたいならまた別の日にして。ほら、シンジも言っ
てやってよ」
後ろのシンジを振り返ると、彼は鈴原に苦笑を向けながら謝った。
「ごめんね、トウジ。今日は本当に無理なんだ」
「そんなぁ。お前は友情より女を取るんか」
「約束は約束だし、今日は友情よりこっちが大事だから」
申し訳なさそうな表情とは裏腹なきっぱりしたシンジの言葉に、鈴原はがっくりと肩を落とした。
「う、裏切もぉ〜ん」
シンジの言葉を聞いたあたしはぴょんぴょん飛び上がりたいのをこらえて、満面の笑みを浮かべて周囲を見回した。
「じゃそういうことで」
これ以上反論できるクラスメイトは誰もいなかった。
いたとしても返り討ちだけどね。フフフン。
シンジの袖口を引っ張って教室を出るよう促しながら、鈴原の後方に親友の姿を見つけて小さくウィンクを送る。ヒカリはいたずらを責めるようにわざとらし
く眉間にしわを寄せて怖い顔をしてから、こっそり微笑み返してくれた。
「鈴原、ちょっと用があるんだけど」
「な、なんやねん、いいんちょ」
背後からヒカリに声をかけられた鈴原は肩を揺らして振り返り、あからさまに怯んだ様子を見せた。
「おいおい、今度は何やらかしたんだ、トウジ」
男子生徒から揶揄の声が飛ぶ。お調子者の鈴原がクラス委員のヒカリに怒られる姿をいつも見ている彼らからすると、まさかヒカリの用件もバレンタインだと
は思いも寄らないらしい。もっとも、そういう機微に敏感な女生徒の何人かは気付いたみたいだけど、口を閉ざして状況を見守るという賢明な判断を下したよう
だった。
「別に何もしてへんで……たぶん」
鈴原の反論には力がない。お調子者の鈴原だがなぜかヒカリには頭が上がらないのだ。また怒られると思って身構えるのは一種条件反射のようなものかもしれ
ない。それだけに、この後ヒカリの本当の気持ちを知ったら天地がひっくり返るくらい驚くに違いない。
「いいから、他人にちょっかいかけるのはいい加減にして、ちょっと一緒に来てよ」
「何やねんな、一体……」
頑張れ、ヒカリ。
困惑気味に頭をかく鈴原を引っ張って行こうとする親友に心の中でエールを送りつつ、あたしもシンジの背中を押して教室を出た。
普段シンジと一緒に下校する機会はそれほど多くない。あたしは確かにシンジにとって特別な地位を占める女子だけど、それはいわゆる恋人という意味ではな
いし、気の置けない幼なじみというのともまた違う関係だからだ。この微妙な距離感がこれまでずっとあたしたちが必要以上に親しくするのを妨げてきた。でも
逆に言えば、このもどかしい距離感こそがあたしを恋に引き込んだ張本人なのかもしれない。
他愛ない雑談と緊張した沈黙とを交互に繰り返すことでこれまでの人生で一番長い十五分をやり過ごし、あたしたちはシンジの家に到着した。結局、彼はあた
しへのチョコレートを学校へ持ってこないことにしていた。他人をからかうのが好きな友人たちに見つかってしまうのが嫌だったのだろう。そういうわけで、シ
ンジがチョコを取ってくるのを待たなければならなかった。外は寒いから家の中に入るようシンジは言ってくれたのだけど、あたしはそれを固辞して玄関先で待
つことにした。中に入ってシンジのお母さんに見つかれば、何のかんのと勘繰られるに決まっているからだ。同級生のからかいなら上手くあしらえても、好きな
人の母親の前で顔色を変えずにいる自信はまだなかった。
ついでに着替えてくるように伝えたので、シンジはなかなか出てこない。あたしは白い息を吐きながら、足元の敷石を数えることで時間を潰した。ここへ来る
までの十五分よりはるかに長く感じた数分の後、やっと姿を現したシンジは待ちぼうけていたあたしを見て照れくさそうに笑った。
「お待たせ」
「じゃ行きましょ」
そう答えてぷいと回れ右してスカートの後ろで手を結んだあたしは、彼が隣に並ぶのを待って「いーっ」と歯を出して笑い返した。
シンジの家からあたしの家まではゆっくり歩いても五分とかからない。あっという間にうちに着くと、ママにただいまを言うのもそこそこにまっすぐ自分の部
屋に向かい、着替えのためにシンジを部屋の外に待たせて中に入った。引っ張られるようにしてここまで来たシンジが部屋の外でママと困ったように話している
声に耳をそばだてながら、あたしはあらかじめ用意していたお気に入りのセーターとスカートに着替え、大急ぎで扉を開けた。
「お待たせ! さあ入って!」
すごい勢いで開いた扉の向こうで、シンジとママが少し目を丸くしてこちらを見ていた。
「帰って来るなり息を切らせて、何をそんなに慌てているのかしらね、この子は」
呆れ気味のママは頬に手を当て、あたしとシンジの間で意味ありげな視線を往復させた。
「えーっと、何ていうかこれは……」
真っ赤な顔をしたシンジがママに何やら釈明しようとするのを遮り、あたしは早口で言った。
「ママのことはいいから部屋に入って、シンジ。それからママ?」
「はい、何ですか?」
すごむ視線も何のその、ママは平然とこちらを見返した。
「邪魔しないで」
「邪魔って何の?」
小首を傾げてとぼけた返事をするママをあたしは頬を膨らませて威嚇した。でもママは怖がるどころかおかしそうにくすくす笑った。
「はいはい、分かりました。それじゃシンジくん。ゆっくりしていってね」
「は、はい」
「それとアスカ?」
「何よ」
「あまりドタバタ騒がないように。後で飲み物を持って来てあげるわ。ホットココアなんてどう?」
「いらない。来ないで」
ぴしゃりと断ると、ママのまなじりがにぃと細くなった。
何で今日という日に限ってココアなのよ。まったくママときたら!
「心配しなくてもノックくらいしてあげるわよ。シンジくんはあったかいのと冷たいの、どっちがいい?」
しなを作ってシンジに流し目を送る年増おばさんに対抗して前に進み出るあたし。庇われているシンジは何が起きているのかよく分かっていないという表
情だ。他人と係わりを持つことに関心が薄い時期があったせいか、どうもシンジはこういった機微に疎いところがある。ママの余計なからかいには鈍くてもいい
けど、あたしのほうにはちゃんと気付いて欲しいのよね。
「あ……それじゃあったかいのを」
素直に答えている間抜けなシンジの腕を取って部屋に引っ張り込むと、ママがそれ以上言葉を発する前に扉を閉めた。「チョッコレイト〜、チョッコレイト
〜」とか何とか歌いながらママの気配が遠ざかって行くのを確認すると、肩を大きく揺らして深呼吸をし、あたしはようやくシンジを振り返って笑いかけ
た。
「やっと邪魔者が消えたわね」
「邪魔者ってそんな」
「いいのよ。ママってば時々すごく大人げないんだから」
頬を膨らませてみせてから、あたしはシンジの腕を掴んだままだったことにやっと気付いて慌てて離した。気まずさと赤面した顔を誤魔化すように、大げさな
身振りでシンジに座るよう促す。彼はたぶん無意識なのだろう、何度も訪れたことのあるあたしの部屋を一度見回してから、こんもりと小山のように不自然に膨
らんだベッド
カバーに視線を置いた。そして物問いたげな表情でこちらを見る。でもあたしはにっこり笑うと、無言の問いかけを無視してクッションを指差し、「早く」と促
した。
「あれ、何なの?」
「気にしないの」
「でも……」
「もう。エッチ」
それでも気になるらしいシンジに向かってくちびるを尖らせて言うと、彼は耳まで赤くなって黙り込んだ。
それ以上言葉が続かなくなったらしいシンジがようやくクッションの上に座ったのを見届けてから、あたしも腰を下ろしてミニテーブルで斜に向かい合った。
テーブルの上に手を置い
ては引っ込めて膝に乗せ、やっぱりまたテーブルに置いてから、「それで」と声をかけた。
「それで?」
そわそわと落ち着かなげなシンジがおうむ返しに訊いたので、あたしは指で彼の肩をつついて言った。
「ここへ来た目的を忘れたの?」
「ああ、そうか。いや、忘れたわけじゃないよ。うん」
顔を赤くさせたシンジは言い訳めいた言葉をもぐもぐ口の中で呟いてから、持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。それはチョコレート屋さんの可愛い袋
だった。十四歳の男の子がこの時期に買いに行くにはかなりの勇気が必要だったはずだ。それを思ってくちびるをほころばせつつ、あたしは期待を込めた眼差し
でシンジを見つめた。あたしの眼差しにシンジはいっそう顔を赤くさせたけど、ここまで来ては腹を括るしかないと覚悟を決めたのか、その可愛らしいチョコ
レートの袋をこちらへ差し出しながら言った。
「はい、これ」
……訂正するわ。
シンジはもう少しきちんと腹を括る必要がある。
「10点」
「えっ?」
あたしの低い呟きにシンジはびっくり仰天したようだった。……びっくりしないでよね、もう。
「それ、百点満点で?」
「そうよ」
「……めちゃくちゃ評価低いんだね」
「まったくだわ」
驚きの低さよ。
「受け取って欲しかったらもっとちゃんと渡して」
「ちゃんとって」
ちゃんとはちゃんとよ、とあたしはもどかしい気持ちで手をにぎにぎさせた。別にうちのパパとママがするみたいに「愛してるよ」とか告白しながら渡してく
れなくてもいいけど(そんなことになったらたぶん心臓がバクハツしちゃう)、いくらなんでも「はい、これ」なんてひどすぎるわ。その辺のコンビニで買って
きた
一個百円の消しゴムじゃないのよ。
「む〜……」
シンジは何もない空中に言葉を捜すようにしばらく視線をさ迷わせてから、やがて一つの解答を得たのか、居住まいを正して両手で袋を差し出した。
「これ、つまらないものですが」
それを耳にするなり、あたしは身を乗り出してシンジの頭に思いきりチョップをお見舞いしてやった。
「てりゃ!」
「いたぁ!」
大げさに頭を押さえるシンジ。あたしは手刀を振りかざし、口から火を吐くように言った。
「ぶつよ!」
「もうぶったじゃないかぁ」
シンジはうらめしげにこっちを睨んだけど、そんな表情をしたいのはあたしのほうだ。
「ふざけてないで真面目にやって!」
「ただのジョークなのにそんなに怒らなくても」
「またチョップされたいの?」
「いえ、結構です」
慌ててシンジはかぶりを振った。座り直して大きなため息を吐き出し、あたしは彼にお願いした。
「今のは2点。やり直しよ。何度も言うけど真面目にやってちょうだい」
たぶんシンジは場の雰囲気に耐え切れなくなってボケてみたのだろうけど、あいにくあたしのほうも彼のボケを笑って流せるだけの余裕がないのだった。ぶた
れた頭をさすってこちらを見ていたシンジもやっとその気になったのか、表情を引き締めて改めてチョコをこちらに差し出した。
「ぼくからのバレンタインチョコです。受け取ってください」
真剣な表情をしたシンジの顔色があっという間に真っ赤に染まった。その劇的な変化に一瞬見惚れてから、すぐに自分の頬もすごく熱いことに気付い
た。チョコを受け取ろうと持ち上げた両手でそのまま顔を覆って隠してしまいたい衝動に駆られたけど、意思の力でそれをねじ伏せたあたしは、軽く頭を揺すっ
て肩にかかる髪の毛を後ろに払い、あごを少し上げ胸を張って彼をまっすぐに見た。
チョコレートの袋を掴む指先の震えを抑え込もうと力を入れると、指先が中の箱に少し食い込んだ。こちらが掴むのと同時にシンジの指先が離れて行こうとし
たの
で、その前に彼に問いかけた。
「ねえ、シンジ? シンジはどうしてあたしにこれをくれるの?」
シンジは虚を突かれたように動きを止め、目を丸くしてあたしを見つめた。
もちろん、今回のバレンタインであたしから彼にチョコを催促したことは分かっている。あたしが欲しいと言ったから彼はくれるのだ。でも、今訊いているの
はそんなことじゃない。
「このチョコにはどういう意味があるの?」
たぶん、あたしたちがこんなに真剣に見つめ合うのは初めてのことだろう。この瞬間だけは恥じらいもなく、お互いの瞳から目を逸らさず、息することさえも
忘れて見
つめ合う。
今が、その時なのだ。
恋する男の子のどこまでも深い星空のような瞳を見つめながら、胸の中でささやいた。
今この瞬間があたしたちの選択の時なのだ。今ここでシンジの心を手に入れられなければ、きっとあたしたちは一生結ばれることがないだろう。今ここで二人
の道を重ね合わせることができず、すれ違いに終わったとしたら、もう二度と再び交差する機会は訪れないだろう。
でも残酷な予感とは裏腹に、あたしは全くと言っていいほど不安を感じていなかった。この場へ漕ぎ着けるまで絶えずあたしを苛んでいた不安はどこかへ消え
去っていた。あるいはもしかすると、幼少期の交流と別れ、そして二年半前の再会とその後一緒に過ごした
時間、すべてのやり取りがいちどきに去来して胸がいっぱいになり、そんなものを感じるだけの余裕がないのかもしれなかった。
こげ茶色の虹彩の美しいひだの奥にある心を覗き込む。あたしが求める彼の心を。
いくつもの音にならない感情が見つめ合う二人の間で交錯し、やがてシンジはその胸の中で織りなした気持ちをくちびると舌とで言葉に紡いだ。
「これはぼくの本命チョコだよ」
想いのかたまりが胸に飛び込んできて、あたしの呼吸を止めた。その言葉は瞬く間に全身に行き渡り、内側へ向かって染み込み、あたしという存在を構成する
す
べてを隙間なく満たした。この身体と心のすべてを使って、彼の言葉を理解した。想いを受け止め、そして自らのものとした。
顔いっぱいに笑顔を浮かべ、あたしは言った。
「ふぅん、本命チョコか。それじゃこれを受け取ったら、あたしたちは彼氏と彼女?」
小さく首を傾げて目を細めてみせると、シンジは照れ臭そうに、でも決してあたしから目を逸らさずに訊ねた。
「ぼくと付き合ってもらえますか?」
もちろん、答えは決まりきっている。あたしが掴んだチョコを引き寄せると、シンジは手を放した。
「今からあたしたちは恋人同士ね、シンジ」
今度こそ百点満点だわ。
嬉しさに染まる顔をお互いに見合わせてから、あたしは手の中に納まったチョコレートの袋に視線を落とした。
「チョコレートありがとう。開けていい?」
「もちろん。食べてみてよ」
袋から取り出した箱は可愛らしい包装紙に包まれ、赤いリボンが結んである。逸る気持ちを抑えて丁寧にリボンと包装紙を取り外し、蓋を開けた。途端に芳し
い香りが鼻をくすぐる。中には一つずつ区切られた小部屋に綺麗なチョコレー
トが全部で十二個納められていた。十二個すべて違う種類のチョコのようだ。どれも美味しそうなそれらを眺め、あたしはきらきらと目を輝かせた。
「わあっ、美味しそう」
その感動ぶりがおかしかったのか、シンジはくすくすと小さく笑った。あたしは上目遣いに彼へ視線を送り、くちびるを尖らせてからかうように言った。
「買うの、結構頑張っちゃった?」
「周りが女の人ばっかりだった。みんなに注目されてるみたいで恥ずかしかったよ」
シンジは喉が詰まったような顔をしてから、仕方なくという風に打ち明けた。情けないところを正直に白状するのは、あまり男らしいことじゃないのかもしれ
ない。でも、別に彼の完璧さに恋をしているわけではない。あたしは虚勢を張らないありのままのシンジのほうが好きだった。
それぞれ形の違う十二種類のチョコの中から一つ選び取り、指で摘まんでみせる。
「じゃあシンジが頑張って買って来てくれたバレンタインチョコ、食べちゃおっかな」
「うん」
シンジの見ている前でチョコをくちびるで咥え、そのままでにっこり笑ってみせてから、口の中に入れる。
「ん、甘ーい!」
舌の上でとろけるチョコレートの甘さに、あたしを両手で頬を押さえてうっとりした。
「そっか。よかった」
あたしが喜んでいるのを知り、シンジも嬉しそうに呟いた。そんな彼の優しい表情を横目で見やり、頬を両手で挟んだまま呼びかけた。
「ねえ、シンジ?」
「何?」
「あたしからバレンタインチョコが欲しい?」
その言葉を聞いた途端、シンジの表情は固まった。もちろん本当はこんな質問をしなくたって答えは分かっている。シンジだって男の子だし、最初から彼があ
たしのチョコを欲しがっていたけど言い出せなかったことも知っている。それに何といってもあたしの彼氏なのだから、シンジにはもらう権利がある。
でも、あたしはあえて彼の答えを待った。
石化の解けたシンジは何度か口を開け閉めしてから、上擦った声で恐る恐る答えた。
「欲しい」
あたしは口元をほころばせた。別にそんなに緊張しなくても、堂々と言えばいいのに。もっとも、今の今付き合うことになったばかりで、早々に遠慮をなくせ
るも
のでも、彼氏としての自信が身につくものでもないのかもしれない。そう考えると、正直に答えた分だけシンジとしては充分勇気を振り絞ったのだろう。
ま、たとえシンジに催促されなくたってあげるけどね。
あたしだって女の子だから、好きな人にチョコを渡したいんだもの。
「いいわよ。じゃ、あげる」
と、あたしはシンジがくれたバレンタインチョコからハート形をしたものを選んで摘み上げ、それをくちびるに咥えて「ん」と心持ちあごを上げて彼に差し出
した。
「え、えっと……」
当然シンジにこちらの意図は伝わったはずだ。恥じらいと戸惑いで赤いような青いような表情になって、彼はおろおろとあたしを見た。
「や、やっぱりそれをくれるってことだよね……」
「ん」
しゃべれないあたしは、そうよ、と心の中で答えながら彼を見つめた。
「手で取ったら駄目かな」
「んーん!」
とんでもないことを言ってこちらに手を伸ばしかけたシンジを軽く睨み、あたしは首を横に振って彼の言葉を否定した。そして改めて、先ほどよりも身を乗り
出してくちびるの間に挟ん
だ
ハート形の甘いチョコを差し出した。
「ほんとにいいんだね?」
「ん!」
往生際の悪いシンジはそれでもまだ逡巡していたけど、やっと覚悟を固めたらしく真剣な表情になった。
チョコはすでに溶け始めている。ミニテーブルを斜に挟んでいたシンジがこちらに回り込んできて、正面から向かい合うと伸ばした両手であたしの肩を掴ん
だ。そ
んな風に彼から触れられたことがなかったので、緊張で身体が強張り、震えてしまいそうだ。それ
をじっと耐えていると、耳まで赤くなった彼の顔がじわじわと近づいてきた。
顔が赤いのはあたしも同じだろう。何しろ顔から火が出そうなほど熱い。そのせいなのかどうか、くちびるに咥えたチョコがどんどん溶け出していて、うっか
り取り落したり、逆に口の中に吸い込んだりしないよう気を付けなければならなかった。
もちろんこれは家族にしたのを除けば、あたしの初めてのキスだ。
シンジにとってもそうだと信じたい。……別に初めてじゃなかったからといって嫌いになったりはしないけどね。
身を乗り出したシンジの顔がいよいよ近づいてきて、彼の吐く息があたしの顔に触れて何だかくすぐったい。興奮し過ぎよバカ、と心の中で小さく毒づくけ
ど、たぶん興奮しているのはこちらも同じで、緊張と期待と、恥じらいとほんの少しの怖れと、それらすべてを合わせたよりもずっと大きな、目の前の少年への
愛しい気持ちが、心臓が脈打つリズムと一体となってあたしを内側から揺さぶっていた。
目を閉じるタイミングが分からなくて、もう鼻先が触れ合ってくちびる同士の距離もなくなるという段になっても、まだあたしはシンジの瞳を見つめていた。
不慣れなキスを失敗しないよう、ちゃんと狙いを定めるためにぎりぎりまで目を開いていなければならなかったのだろう、彼もこちらを熱いくらいの視線で見つ
めていた。
こげ茶色の虹彩の中央に真円を描く真っ黒な瞳孔があり、そこにあたしの瞳が映っていた。瞳の中の瞳が自分自身を見つめ返している。そこに気を取られた刹
那、シンジのくちびるが溶けかけたチョコレートを包み込むように触れてきた。
視界が白くスパークして、電撃に撫でられたみたいに全身が甘く痺れた。その感覚があまりに強烈でびっくりしてしまったものだから、自分自身を見失わない
ために、シンジって意外とまつ毛長いんだ、などともうとっくの昔から知っていることを心の中で呟いたりしながら、あたしを痺れさせる甘い電流をまるでこの
身体の内側に閉じ込めるようにして、震える目蓋をそっと閉じた。
永遠にも思われた数秒が過ぎ去り、くちびるに挟んでいたチョコをすっかり奪ったシンジのくちびるがゆっくりと離れていった。身体の芯からぴりぴりする感
覚はその後も少し残り、あたしは再び目蓋を持ち上げると同時にめまいのようなものに襲われて、シンジの胸に倒れ込んだ。彼は驚いた声を上げてあたしは抱き
留めてから、そのまま抱き寄せるかそれとも引き離すか決めかねたのだろう、固まって動かなくなった。
頬を寄せたシンジの胸は激しく早鐘を打っていた。ドキドキしているのが自分だけでないと知って気をよくしたあたしは、しばらくそのままの体勢でシンジの
心臓の鼓動に耳を澄ませた。
「ねえ、アスカ」
「ん、もうちょっとだけ」
困ったような呼びかけに短く答えたあたしはシンジの胸に身を預けたまま、くちびるに残るチョコの甘さとキスの余韻に思う存分浸った。
「ね、バレンタインチョコのご感想は?」
「鼻血が出そう」
とぼけているのか本気なのか、あたしは彼の答えにくつくつと肩を揺らして笑った。顔を上げると、シンジはびっくりするくらい優しい眼差しでこちらを見て
いて、胸が詰まって涙がこみ上げそうになった。
あたしは本当に本当に、本当にこの男の子のことが好きなのだ。そして、彼もそれに負けないくらい強く、あたしのことを想ってくれているのだ。
鼻をつんとさせながら改めて彼の顔を見つめ、しかし彼の口元にチョコがついているのを発見したあたしは涙を引っ込め、思わず吹き出してしまった。まるで
口の周りを汚しながら食べる小さな子みたいだ。心なしかお尻の後ろにはふるふる揺れる子犬のしっぽまで見えるような気がする。
「シンジったら、口の周りがチョコだらけよ」
笑いながらそう指摘して、指先で彼の汚れた口元を拭う。チョコのついた指先を舐めると舌先に甘い味が溶けた。それと同時に、自分がひどく大胆な行為をし
たことを悟り、恥ずかしくなったあたしは咥えた指先を歯で軽く噛んで、いーっと誤魔化し笑いをした。
そんなあたしに少し目を丸くしたシンジは、不意に悪戯を思いついたような表情になって言った。
「アスカも付いてるよ」
「え、どこ?」
自分で拭おうとしたら、その手をシンジに押さえられた。
「わっわっ、何っ?」
迫ってくるシンジの顔に少し慌てて身体を引くと、彼はさらに距離を詰めてきた。
「何って、チョコだよ」
「どこ?」
「ここ」
答えながらシンジは指で示すでもなくただ顔を近づけてくる。ぶつかりそうになるくちびるに、またキスされる、と今度は触れ合う前に目をぎゅっと閉じた
ら、濡れた感触がくちびるではなくその脇にあって、あたしはたまらず声にならない悲鳴を上げた。
シンジはあたしの口の周りを啄ばむようにし、時折濡れた舌先でつついた。チョコを舐め取られているだけだと何度も自分に言い聞かせながら、ぞくぞくと鳥
肌の立った身体を硬直させたあたしは必死になってその感触に耐えた。
時間がぐるぐると渦を巻いて、どれくらいそうしていたか分からない。ほんの一瞬かもしれないし、もしかすると一時間くらいかもしれない。
舐めるのをやめたシンジの顔を、あたしは茹でダコみたいにのぼせた表情でぼんやり眺めた。ふにゃふにゃになった身体は、シンジが支えてくれていなければ
その場に崩れ落ちていただろう。
彼は忌々しいくらいに嬉しそうな顔で、してやったりとあたしに言った。
「せっかくアスカからもらった初めてのチョコだからね。残さず食べなくちゃ」
舌の上のチョコよろしく蕩けきった頭では何一つ考えられない。あたしはシンジの言葉に返事さえままならず、しばらくの間ただぼんやりと彼の顔を見つめて
いた。このあたしにとんでもないことをした自覚がないのだろうか。それとも早くも彼氏という地位に順応してしまったのかもしれない。シンジはうろたえる素
振りさえ見せず、チョコの味でも残っているのか小さく舌を出してくちびるを舐め、悪戯っぽく笑った。その表情がまたぞくぞくするくらい素敵で、あたしはま
すます蕩けたチョコになった。
しばらくはそうやって呆けていたのだけど、シンジの得意げな顔を見ていると、段々と仕返しがしたくなってきてしまった。別に勝ち負けの問題じゃないこと
は分かっているけど、あたしは本来ものすごく頑固な負けず嫌いなのだ。たとえ彼との恋愛関係においても、その性格は大人しくなってくれそうにはなかった。
この時のために秘めていたとっておきの台詞を言うべく、あたしはシンジの手のひらが抱き留めた背中を弓なりに反らし、胸を張って正面から彼を見据えた。
シンジのどこか余裕のある表情は変わらない。まるでキスを経験して一気に男らしくなったみたいだ。惚れた弱みというもので、またしても見惚れて腰砕けにな
りそうなところをぐっと引き締め、あたしは目一杯の努力をして不敵な表情を装うと、つんと澄まして彼に告げた。
「あら、初めてじゃないのよ」
「……へっ?」
ハトが豆鉄砲を食らうとこんな顔になるのだろうか。余裕ぶっていた表情は一瞬で吹き飛び、間抜け顔でシンジは固まった。
さっきまでの頼もしい感じも素敵だけれど、こういう抜けたところもすっごくラブリーだ、とあたしは自分だけが知っていればいいことを心の中で考えつつ、
呆然としたシンジの表情をしっかりと堪能してから、追い打ちをかけた。
「昔あたしが誰にチョコをあげたか知りたかったんでしょ。忍者の正体を知ったご感想は?」
「忍者……え? まさか幼稚園の時の、アスカだったの?」
びっくり仰天しているシンジの問いかけに、今度はこちらがしてやったりの表情をしてこっくり頷いてみせた。
そうなのだ。
シンジが唯一幼稚園の頃にもらったバレンタインチョコ。いつの間にかポケットに入っていて、後でお母さんから「忍者の仕業ね」と面白がられたのは、実は
あたしがあげたものだったのだ。これはあたしがパパ以外の男性に唯一あげたチョコでもある。なぜこっそりポケットに忍ばせるような真似をしたかといえば、
正面から堂々と渡すのがどうしても恥ずかしくてできなかったからだ。
「今日になったら教えてあげるから、一晩考えてみてって昨日電話で話したでしょ。シンジの予想は当たっていた?」
訊ねると、シンジはふるふると首を横に振って、まだ呆然とした表情のまま答えた。
「ううん。まさかそうだったなんて考えもしなくて……、そっか、じゃあこれが二つ目のチョコなんだ」
普通は少しくらい疑ってかかるだろうに、ここで考えもしなかったというところがいかにも彼らしくて、背中を支えるシンジの腕に手を添わせたあたしは表情
をほころばせた。
「モテモテね、シンジ」
あたし限定でね。他の女の子にはモテちゃ嫌よ。
「うん。何だか嬉しいな」
本当に嬉しそうにシンジは笑った。
あたしの大好きな笑顔を見せてくれた。
恋とは何かをまだ知らぬほど幼い頃に始まった恋は一度途切れ、長い年月を経て新たな恋となって再び甦り、そして今度こそ胸の中にしっかり感触とぬくも
りとを伴って抱き締めることができた。
「これからもたくさんアスカのチョコが欲しいな」
嬉しさからか、少しおどけたようにシンジが言うので、あたしもそれに応えて悪戯めいた表情で切り返した。
「鼻血が出るまで?」
「はは、そりゃ一度にたくさんだと出るかもしれないけど……」
こちらの言葉を冗談だと受け取ったシンジが言い終わらないうちに、あたしはシンジに抱き留められた体勢のまま、手を伸ばしてベッドカバーの裾を引っ張っ
た。ずるずると長いカバーが床に落ちると同時に、その下で小山のように膨らんで覆い隠されていたものが引き摺られて、雪崩を打ってこぼれ落ちた。
どさどさと音を立てて床に積み上がった大量のチョコレートの山を、シンジは今度こそ唖然として眺めた。
「一つも残さないんでしょ?」
山の中から摘み上げた小さな包みを破って、取り出したチョコレートをくちびるで咥える。
まだ言葉を失っているシンジの首に両腕を回して、しっぽをぷるぷる振りながら、あたしは満面の笑みを浮かべた。
この先もずっとずっと、たくさんのチョコをシンジにあげるわ。
だから、溶ける前にちゃんと食べてね?
うふふふっ。
fin.
あとがき
最初は「knock
!」というお話の続きを書こうとしていたのに、気付いたらまったく関係ない内容になっていました。バレンタインのお話なのにバレンタインに間に合わず、ホ
ワイトデーもゴールデンウィークさえ過ぎてしまいました。
あまりに久しぶりすぎて書き方を忘れました。面白くなかったらスミマセン。変なトコロがあったら目を瞑って下さい。
お便りで応援して下さった方に特に厚く感謝いたします。
それがなければきっと書けなかったでしょう。
もちろんお読み下さった方々、掲載して下さった管理人さまにもお礼申し上げます。
ありがとうございました。
rinker/リンカ
リンカさまよりバレンタインデーのお話をいただきました。
ちょっと季節外れ? でも良いお話ですね。
シンジがアスカのためにチョコを買うように調教されている……!
すっかりシンジはアスカの恋の奴隷というところでしょうか。アスカも……ですけど。
素敵なお話を書いてくださったリンカさんにぜひ感想メールをお送りしましょう!