のど飴


rinker





 ちなみにアスカは目に入る文字をすべて読むタイプの人間だ。

「ねえ、シンジ。このあれってなんだろ」

 シンジとアスカは学校帰りに二人でドラッグストアに寄っているところだった。アスカ専用のシャンプーとトリートメントとボディソープと、それからシンジ の歯磨き粉 が 切れてしまったので、それらを買いに来ていたのだ。
 毎日欠かさず使わなければならないものを一度にみっつも切らしてしまったことを知ったアスカは当然の如く同居人のシンジを罵倒し、どうして買って補充し ておかな い のかと責めたが、シンジからすれば自分が使いもしていないのに減り具合など知るはずもない。
 そうやって反抗すると、彼女は手近にあった歯磨き粉のチューブ を思い切り掴んで、歯磨き中だったシンジに向かって投げつけた。至近距離からそんなことをされて避けることもかなわず、おでこに硬いチューブの角が直撃 し、思わず口の中の歯磨き粉を飲みこんでしまったシンジは、お なか壊したらどうしようと思いながらしゃがんで床に転がったチューブを拾い上げた。
 ところが拾い上げたはいいが、あれっとシンジは思った。妙にチューブが平べったく心細くなっている。つい先ほど使った 時には確かにまだたくさん中身が詰まっていたのに。と、アスカの足元を見れば、白い塊がぺちょっと物寂しげに落ちているではないか。キャップをしっかり締 めなかった のが敗因らしい。こうしてシンジの歯磨き粉もなくなってしまった。
 以上の経緯により、次の日、ぶちぶちと延々文句を繰り返すアスカと、その文句を裾からずるずると地面に引き摺って歩くシンジが肩を並べて学校帰りに買い 物に行くことに なった のだ。
 なお、彼女が文句を言いつつシンジに任せてしまわず自分も買い物についてきたのは、彼に任せておけば何を買ってくるものやら分かったものじゃないとの理 由 だ。アスカは繰り返しそれを強調した。三度は言った。昨晩の洗面所で、今朝学校へ行く前の玄関先で、そして放課後になって学校を出る前の教室で。
 というわけで、僕って相変わらず信用されてないやとなで肩気味のシンジと、肩いからせて前のめりになっているアスカが目指すドラッグストアへ到着し、シ ンジはすぐに、アス カはたっぷりと時間をかけて目的のものを選んで、それをレジへ持って行ったのだけど、そこでアスカが冒頭の言葉を口にしたのだった。

「え、なに?」

 先端から赤い光が出ている機械で商品のバーコードをスキャンしていくレジ店員の仕草を眺めていたシンジはアスカの言葉を受けて、彼女に問い返した。
 それに対して、アスカはレジカウンターの正面陳列棚の一点を細い人差し指でさして言った。

「これよ、これ」

「どれ? これ?」

「だからこれだってば!」

 そこには赤と青の丸くて平たい手のひらに乗るほどの小さな缶が並んでいて、それぞれ同じようにふたの上には「せき、のどのあれに効く 北天のど飴」と書 かれていた。

「のど飴がどうかしたの?」

「以上四点で2045円のお買い上げになります」

「あ、あんた払っといて」

「ちぇ、ほとんどアスカの買い物じゃないか」

 文句を言いつつ大人しく自分の財布からお金を取り出すシンジ。

「家帰ったらちゃんと払うわよ、けち臭い男ね」

「大体僕の歯磨き粉だって」

「だからあれは謝ったでしょ」

 腕を組んでむくれた顔を作ってシンジを睨むアスカ。
 二人のやり取りにさらされてレジ店員は阿弥陀如来のような微笑を浮かべている。

「それでね、ここにのどのあれに効くって書いてあるでしょ」

「ああ。書いてあるね」

「2100円からお預かりいたします」

「この、あれってなにかしら?」

「はぁ? なにってそりゃあ」

「あ、ちょっと待って待って。分かった。あれだ、炎症のことね」

「だからあれだろ」

「やっぱりあれよね。でもどうして指示語なのかしら。日本人ならみんな分かるの?」

 ここに至って、ようやくシンジはさきほどまでの会話の微妙な齟齬の正体がアスカの勘違いにあると分かった。
 確かに流暢に話すとはいえ日本語が母語でない彼女には紛らわしい表現かもしれない。何しろ日本語は三種類の文字を混合させて用い、品詞にかかわらず同じ 音で意味の全く異 なる言葉もしばしばあるのだから。

「アスカ、このあれはそのあれじゃない」

「わけ分かんないわね。じゃあこのあれはどのあれなのよ」

「肌荒れのあれだよ。ミサトさんがよく気にしてるやつ」

「あっ」

「こちら55円とレシートのお返しですね」

「あ、どうも」

 レジ店員からつり銭とレシートを受け取ったシンジは財布にそれを仕舞う。

「それからこちらは試供品ですが、お客様、よろしければどうぞ」

 口を「あ」の形にしたまま固まっていたアスカに店員がそっと差し出してみせたのは、一個包装になった北天のど飴だった。

「あ、あ、ありがとう」

 手のひらでのど飴をふたつ受け取ったアスカは、らしくもなくきょどきょどしてお礼を言い、口元をほころばせてシンジのほうを向いてから、やおらはっとし た表情 になると、

「帰るわよっ!」

 と一人でさっさと大股で歩いて行ってしまった。
 もちろん置いていかれた形のシンジもすぐさま彼女のあとを追いかけるのだけど、その頃にはもう、とうにレジ店員は次の客の応対に移っていた。



 後ろ手にカバンを提げて歩いているアスカの背中を、シンジは逆光を受けて目を細めながらやや遅れて追いかけている。
 ドラッグストアを出て以降、会話はない。
 言葉を勘違いしていたことが恥ずかしいのかしらとシンジは思い、自分から話しかけることを躊躇っていた。もともと話し上手でもない。それに彼が口を利く と、高確率で彼女はいらいらするようだし、キジも鳴かずば撃たれまいということわざだってある。
 黙っていよう、とシンジは決めた。僕は撃たれたくないキジなのだ。
 心なしかアスカは俯いているようにシンジには見えた。少なくともドラッグストアへ立ち寄る前のように風を切らんばかりの威勢のいい様子ではない。
 西の空 に沈みかけた太陽が彼女の赤みのある金髪を縁取り、黄金のように輝いている。波打つ金髪は背を流れ、腰の後ろで緩く組んだ手にカバンを掴んでいる。ス カートの裾が時折風をはらんで膨らみ、その下でハイソックスを穿いた細い足が規則正しく動いている。ややつま先が上がり気味の、ちょっとつまらないと拗ね たような歩き方だ。
 彼女の足に繋がれた長い影がものも言わずに彼女に従い、それをシンジがさらに追いかけている。
 そのまま家まで着いてしまえば、きっと何も言わずに済ませることだってできた。でも、信号が赤になって横断歩道の前で立ち止まったアスカの背中にシンジ が近づき、そして並んでしまったのは、仕方のないことだった。まさか背後霊のように彼女の後ろに潜んでばかりいるわけにもいかないのだから。

「お釣り、あるわよね」

 唐突にアスカが口を開いた。
 
「お釣り?」

 シンジが訊ね返すと、彼女は肩を竦めた。

「今細かいの持ってないの。だから一万円でお釣りあるかって訊いたの」

 さきほど立て替えたお金のことを言っているのだとようやく気付いたシンジは、自分の財布の中身を思い浮かべて、首を縦に振った。

「多分あると思うよ」

「あっそ。よかったわ。借りたままじゃ気分悪いから」

 そういえばこの子は貸し借りが大嫌いだったとシンジは思い出す。
 わがままで身勝手なわりには律儀な面もあるのだと、少しおかしかった。けれど、それが表情に出たのか、隣のアスカに怪訝な顔をされた。

「そういえばさ」

「なによ」

「よかったね。のど飴もらえて」

 いまもアスカはドラッグストアでもらったのど飴をポケットの中に持っているはずだった。ふたつくれたのはきっと二人分ということなのだろう。

「ふん。子どもじゃあるまいし。大体あたし、のどなんて痛くないもの。意味ないわ」

 シンジに言われてアスカは生意気に答えた。でも、そのわりにポケットをごそごそ探ってもらったのど飴を取り出してみたりしている。

「そっか。……んー、じゃ、カラオケでも寄って行こっか」

「カラオケ? あたしとあんたが? なに言ってんの?」

 彼女のこういうきつい切り返しは別にいまに始まったことではなく、誰に対しても大抵はこんな感じだ。
 シンジにしても確かになにを言っているのかという感じではある。同じようにエヴァという兵器に乗っていて、同じ学校に通い、同じ家に暮らし、かといって 特別親しいわけでもなく、むしろいがいがした喧嘩なんてしょっちゅうのことだ。
 間違っても仲良く二人でカラオケに行く仲ではない。そういう関係からはアンドロメダ銀河くらいに遠い。
 馬鹿なこと言っちゃったな。でも、どうせアスカはすぐに忘れるだろう。シンジはそれで考えるのをやめた。
 横断歩道を挟んで両方向からの車の流れが整然と止まり、信号が青になった。

「あんたがおごるのよ。いいわね」

 すでに足を踏み出していたシンジは背後からその言葉を聞いた。
 空耳かとも思ったけど確かにその声は聞きなれた少女の声で、確認しようと後ろを振り返ったらもうそこに彼女の姿はなかった。慌てて一回転すると、大股で 肩いからせて風を切って歩くアスカの背中がどんどん先のほうへ進んでいる。

「待ってよ!」

「三時間は歌うわよ。覚悟してなさい!」

 急に元気になったアスカにやっと追いつき、やっぱりこの子のことはよく分からないやと内心で思いつつ、でもシンジは、声ががらがらになるまで歌いまくっ てのど飴を舐める自分たちの姿を想像し、おかしくなってちょっと笑った。
 意外と可愛いところもあるものなのだ。普段は気付かないけれど、こういう発見は案外嬉しい。
 だから、こうやって自分自身の意外なところにも気付いたりする。

「僕、アスカのこと、結構あれかも」

「今度はどのあれなのよ」

 困ったように頬を膨らませるアスカを見て、シンジはさらに笑みを深くして、ゆっくりと深呼吸をした。
 すぐにでも明かしてしまいたいような、だけどもったいないような、不思議な気分だった。





fin










まあ四コマ漫画みたいな




あるいはやさしさ

「あんたのお父さんの名前、珍しいわよね」
「そういえばそうだね」

「シスの暗黒卿みたいでちょっとかっこいいわよね。碇ゲンドゥー」
「いや、ゲンドウだよ」

「え?」
「ゲンドウ」

「……あ、この番組あたし好き」
「僕も」



グレー判定

「まあ二人が結婚したいというなら、基本的には、その意思を尊重しよう。応援もする」
「そうね。ドイツにいらっしゃるアスカさんのご両親にも一度お会いしなくちゃね」
「ありがとう、父さん、母さん!」
「ありがとうございます!」

「いいのよ、あなたたちが幸せになれるのなら。ねえ、ゲンドウさん」
「ああ。そうだな」
「そうだ、ねえ、シンジ。こういう時はこう言うのよね?」
「こうって?」

 三つ指を突き頭を下げるアスカ。

「ふしだらものですがどうぞよろしくお願いします」
「アスカ! ふつつか! ふつつかだって!」
「え、でもシンジが夜……」
「しーっ!」

「……幸せには違いないかな」
「叩くわよ、あなた」




リアル世代

「アスカ、ついに完成したわよ。エヴァンゲリオン弐号機改」
「本当、リツコ?」

「パワー、スピード、すべてがこれまでの弐号機の三倍の性能よ」
「すごいわ、リツコ!」
「この化け物を乗りこなせるのはアスカだけよ」
「とーぜんよ、リツコ!」

「これで使徒との戦いには決着がついたも同然ね」
「まっかせなさい! このエースパイロットのアスカ様にかかれば、バカシンジなんかの出る幕はないわ! 行くわよ!」

「ただしATフィールドは尻から出るわ」
「後衛でお願いします」



たましいのさけび

「アスカー、今日はハンバーグだよー」
「ふん。ちゃんと美味しくできたんでしょうね」

 と言いつつも出来上がったハンバーグを覗きに来るアスカ。

「どうかな。僕、ミサトさん呼んでくるね。アスカはご飯よそっといて」
「しょーがないわねー」
「ごめんね、お願い。ミサトさーん、ご飯できましたよー。ミサトさーん」

 エプロンで手を拭きながらミサト部屋へ入っていくシンジ。アスカの前にはいつものようにみっつ並んだお茶碗とおしゃもじ。

「……いも食いてぇー」






あとがき

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

 短くてお話というほどのあれでもないのですが、息抜き程度にでもして頂ければ幸いです。
 なんで「せき、のどのあれ」の「あれ」は漢字になってないんでしょうね。個人的には「荒れ」よりも「飴」のほうが難しい漢字だと思いま す。字面が悪いからでしょうか。
 というようなことをドラッグストアでふと思いました。
 ちなみに南天を北天に変えたのは特に意味はありません。
 なんだかお店でステーキを注文したら頼んでもないのにしょっぼいフライドポテトが一緒にくっついてきたぜ、みたいな感じでおまけが引っ付いていますが、 お気になさらないで下さい。そもそもステーキじゃなくてチーズバーガーっぽいですし。
 なお、私はかっこいいと思います。ゲンドゥー。
 それから、グルグル大好きでした。最後の巻読んでないんですけど。
 あと、アスカは絶対じゃがいも大好物に違いないです。なにせドイツなので。
 いもの皮むきもお手の物です。ほほいのほいです。

 それではあとがきまで締りがなくて恐縮ですが、この辺りで失礼致します。
 改めて、怪作さま、お読み下さった皆様。ありがとうございました。

  rinker


リンカさまからとってもマターリなお話をいただきました。
実に日常的なお話ですね。たまにはこういう何もない日があってもいいかなあ、みたいな話ですね。(おまけも楽しい)

すてきなお話ですね。ぜひ、読後にはリンカさんに感想メールをお願いします。

寄贈インデックスにもどる

烏賊のホウムにもどる