ぼくたちが仲直りするワケ



rinker





 喧嘩の原因が何だったかなんて、当事者のぼくにも思い出せない。
 十四歳までのほとんどの期間を幼なじみとして過ごしてきた遠慮のなさが、時には悪く働くことがある。投げつけた言葉で相手を傷つけ、自分も傷つき、相手 への腹立ちと自己嫌悪とで心の中がグジュグジュになってしまう。

「シンジなんて死んじゃえ!」

 という捨て台詞(と顔面めがけて飛んでくるクッション)を残してアスカが部屋を飛び出していったのは、もう三十分も前のことだ。じゅうたんにこ ぼれたジュースを罵りながら拭き取り、そのままごろんと仰向けになったけど、すぐに起き上がって、さっき顔面にぶつけられたクッションを蹴り飛ばし、それ が本棚にぶ つかって数冊の本がこぼれ落ち、また罵りながらそれを拾う。座ってもうろうろ部屋を歩き回っても、漫画を読んでも、いらいらとして集中できない。最後には 宿 題でもしようかと広げた教科書も放り出し、ベッドの上にダイブした。

「何だよ、アスカのやつ。絶対にあっちが悪いんだからな」

 喧嘩の理由は覚えてないけど、そうに決まっている。
 心の中で言い聞かせながら、うつ伏せになったぼくは枕にぐりぐりと顔を押し付ける。そんな駄々っ子じみたことを繰り返していると、部屋の扉が開いて、 入ってきた人間の声が背中に降ってきた。

「何だか騒ぎ声がしてアスカちゃんが出て行ったと思ったら、やれやれ、あんたは何をしているの」

 ため息交じりの母さんの言葉に怒りがまたぶり返し、乱暴な言葉でぼくは言い返した。

「どうでもいいだろ。放っておいてよ」

「最初からそのつもりですけどね」

 突き放そうとしたのは自分のくせして、いざ本当に冷たくされると、枕から顔を離して母さんを見上げずにはいられなかった。

「何の用」

「母さんね、スーパーにお買い物行ってくるから。お留守番お願いね」

「……今日のごはん何」

「サバ味噌よ」

「何だ、父さんの好物じゃないか」

「シンジも好きじゃない」

「そうだけどさ」

「わがまま言いたかったら、将来自分の奥さんに聞いてもらうことね」

 母さんはそれだけ言うと、回れ右してさっさと部屋を出て行こうとした。決して愛されていないことはないけど、この人には万年恋女房なところがあって、子 どもとしてはどこか物足りなく感じることがある。といってもぼくももう十四歳だし、別に事あるごとに構ってほしいわけじゃないんだけど。

「あ、そうだ。お菓子の器とコップ、流しに片付けておいてね。あと、アスカちゃんから『あんたなんかもう知らない』なんて嫌われたくなかったら、早めに仲 直りしたほうがいいわよ」

 ぼくの返事も待たずに母さんが出て行って扉が閉まると、ぼくはまた枕に顔をうずめた。「もう知らない」どころか「死んじゃえ」とまで言われたけど、一方 でぼくはアスカから本気で嫌われるという事態が上手く想像できなかった。
 彼女は昔から常に家族以外でもっとも親しい人間の筆頭であり続けてきた。そばにい ることがあまりにも当たり前で、今日と同じように明日も彼女がいてくれる保証なんて、本当はどこにもないということが、理屈としては分かっても感情が追い つ かなかった。
 アスカがいないのは、例えばこの世から赤い色が消えてなくなるとか、ぼくにとってはそういう不自然さを感じさせる状況だ。それで死ぬことはなくても、時 とともに慣れることはあっても、異常な感覚は心のどこかに最期の瞬間まで残るに違いない。

「でも、やっぱり死ぬほどのことはないんだ」

 ぼくにとってアスカはただの幼なじみに過ぎない。別に恋人同士でも将来を誓い合った仲でもなく、たまたま子ども時代に知り合って仲良くなり、多くの時を 過ごしてきた友人というだけの関係でしかない。
 なのに、ぼくの心はこうしてグジュグジュになる。
 眼を閉じたぼくは、大きく深呼吸をした。ぼくの心がグジュグジュになる理由。それをグジュグジュの中から見つけ出すのはとても難しい。赤い色がなぜこの 世にあるのか、なぜそれがなくなるのが不自然なのか、無数の色の洪水の中からそのわけを突き止めるのが難しいように。
 手探りの探索はやがて眠りとともに夢の世界に及んで、ぼくは何かとても懐かしい、昔の夢を見たようだった。
 母さんの声で起こされた時には、その内容はもう思い出せなかったけど。
 そのあとは母さんの作った美味しい晩ごはんを家族三人で食べ、父さんとチャンネルを争いながら一緒にテレビを見て、宿題をしたり本を読んだりして時間を 過ごし、お風呂に入って歯磨きしてトイレに行って、ベッドで眠りについた。
 つまり、普段どおりの日常を過ごしていた。けれども、アスカのことは、灯りを消して眠りに つくまで、指に刺さった棘のように忘れられなかった。
 翌朝、いつもどおりに学校へ行く準備をして玄関から出たぼくは、門扉の外で待っているアスカの姿を見つけた。

「おはよう」

「うん。おはよ」

 手を上げてあいさつすると、向こうも小さく頷いて応えた。
 門を開けてアスカと向かい合って立つ。家の敷地より一段低くなった歩道に立つアスカの頭は、ちょうどぼくの胸のあたりにある。少し俯き加減になったその 頭が近づいてきて、ぼくの胸にこつんと一度ぶつかって離れた。

「出てくるの遅いよ」

 昨日の剣幕はどこへ行ったのかというほど気弱な声で、アスカはぽつりと言った。

「昨日はごめん」

「……遅いよ」

 ぼくが謝ると、アスカはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
 何をどう謝るとか、どうして謝るとか、そういうこともきっとすごく大切なんだろうけど、ぼくにとっては一つだけ分かっていればそれで充分だった。その一 つというのは、たぶん、きっと、アスカがぼくにとってとても大切な人であるということだ。
 彼女はぼくの家族ではないし、本来いて当たり前の存在でもない。それでもぼくは、彼女にそういう存在であってほしいと願っている。
 これが恋かどうかはぼくにも分からない。でも、この気持ちの強さにかけては、他に勝るものはないと断言できる。
 一度ぶつかって離れたアスカのひたいが、またぼくの胸に押し付けられた。そして、今度は離れようとはしなかった。

「学校行こう」

「うん」

 頷いた彼女のひたいが胸にこすれて熱かった。
 並んで歩き始めたアスカの顔は、ほとんどぼくの等しい高さにある。その横顔をちらちらと窺いながら、何となく会話の糸口を見つけられずにいて、ぼくは少 し落ち着かなかった。彼女がぼくの隣に戻ってきた状況には満足しているのだけど、いつもの喧嘩の後とはぼくの心境もアスカの態度も異なっていたので、どう も勝手が違うような気がして、自然に振る舞うことができない。
 そのままぼくたちは会話を交わし合うでもなく、肩だけは寄せ合って歩き続けて、交通量の多い国道の横断歩道で赤信号に掴まって立ち止った時になって、 やっとでアスカから口を開いた。

「嘘だからね」

「え?」

「嘘だからね、死んじゃえなんて」

 どうやら彼女は激情に駆られて投げつけた自分の言葉をずっと後悔していたらしく、こちらと目を合わせようとはせず、気まずそうな口調で弁解した。
 幼なじ みとしての長い期間で、大抵の罵り言葉は経験済みだ。お互いの気安さから言い過ぎてしまうこともしばしばで、そのせいもあってか学校では夫婦喧嘩なんて揶 揄される。
 もともと気が強くて手も口も早いアスカが、自分の言葉をこんな風に気に病んでいる姿がどこか新鮮で、かわいらしくて、ぼくは返事もせずに彼女の 顔を見つめていた。するとぼくの態度を誤解したのか、アスカはいっそう小声で呟くように言葉を続けた。

「絶対に死んじゃダメなんだから。いなくなったりしたら承知しないんだからね」

 もちろん、アスカが何を考えてそんなことを言ったのかなんてことは、ぼくには推測するほかないのだけど、自分自身の期待を込めて、こんな言葉を手渡し た。

「それなら、ずっと一緒にいなくちゃいけないね」

 赤信号が青に変わった。信号待ちの人々が歩道を一斉に渡り始める。
 でも、立ち止ったままのアスカの顔は赤く染まり、花が開くように明るくほころんだ。

「うふふっ、約束よ、シンジ」

 もしこれが恋だというなら、もうずっと前に始まっていたんだろう。
 ぼくたちは確かに偶然出会ったというだけの幼なじみだ。
 でも、それがすべてだと考えるのは間違っている。
 ぼくが彼女の手を取るのは、偶然でも運命でもない。

「走ろう、アスカ」

 握り返される手の温かさとともに臨む未来がどこまで続いているのか、まだ分からない。
 けれども、笑い声を伴いながら二人肩を並べて、ぼくたちはまた一歩を踏み出した。

 





 very short stories.











あとがき

 お付き合い下さり、感謝いたします。

 魔が差したと申しますか、シチュエーションだけ書き出したものです。
 正味一、二時間というところでしょうか。
 very shortにもほどがありますが、たまには。
 内容はこっ恥ずかしいです。
 漫画にすると十ページくらいでしょうか。そんなにありませんか。どうでしょうか。
 
 このお話のシンジとアスカは学ランとセーラー服のイメージですよね。
 紺セーラー。ひざ丈スカート。詰襟。指定カバン。みたいな。
 ちょっと野暮ったい感じで。
 いやまあ、どうでもいいんですけど。すみません。
 ですよね、じゃないですよね。

 そんなこんなで青い春まっ最中の二人のことを、玄関からこっそり覗いていたシンジのパパンとママンは、「行けっ、そこで肩を抱けっ」とか「男ならガバッ とキスしなさい!」とか陰ながら好き勝手言っていたのだと思います。
 息子への愛が高じてそういうことになってしまうんだ、と二人は自分で考えていそうですが、単に物見高い性格なだけの気がします。
 エヴァがない世界のママンはそういうイメージです。
 エヴァがある世界のママンは使徒をバリバリ食べちゃうイメージです。
 サバ味噌好きデス。

 テキトーなあとがきで申し訳ありません。
 
 お読み下さった皆様。掲載して下さった怪作様。
 本当にありがとうございました。

 rinker/リンカ

リンカさまより幼馴染なお二人のお話をいただきました。

エヴァのない世界の短編って、リンカさまの定番っぽい気がしてきました。青くてかわいらしいし。
ずっと前に始まっていたんだろうとシンジもそう思うようですが、実は本当は好き同士じゃないとこういう会話にはならないだろうな、という感じの素敵な二人でした。

素敵なお話を書いてくださったリンカさんにぜひ感想メールをお送りしましょう!

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