好きだ好きだ好きだ

rinker




◆エピローグ; 世界中が踊ってる





「おぉ、シンジ君。なかなか決まってるじゃないか」

控え室へ入ってきた碇シンジを目に留めて、青葉シゲルが感心したような、
しかしどこかからかいを含んだ口調で声を掛けた。
それにシンジは照れたように顔を赤らめる。

「よしてくださいよ、青葉さん。本当は窮屈で堪らないんだから」

そう言って、シンジは落ち着かない様子で首元をまさぐった。

「こらこら、あんまり触るなよ。タイがずれちまうぞ」

と、青葉は少年の首元へ手をやり、僅かに緩んで斜めになったタイを直してやり、
それから少し離れてしげしげと少年の姿を見やり、まるで自分が完成させた作品の
出来映えを確かめる芸術家のように重々しく満足げに頷いた。

「よし。まぁ、慣れないと窮屈だろうが、我慢しろよ。今日一日のことだ」

笑う青葉の服装はタキシードという正装で、心底窮屈そうに肩を動かしているシンジもまた
タキシードを着ていた。
彼らがいる場所は、ネルフ本部の会議室の一つ。
ドアの外には、「男性控え室」 と数ヶ国語で太々と書かれた紙が貼り付けられていた。

「随分と余裕があるんですね。つまり、青葉さんはタキシードとかパーティとかが
初めてじゃないのかなっていう意味ですけど」

シンジが上目遣いに長髪の友人を見ながら言った。

「ま、確かに初めてってんじゃないけどさ、
俺だって慣れてるわけじゃないよ。こういうのは気合だぜ、シンジ君」

と、青葉はシンジの肩に手を置きながら答えた。

「気合?」

「そうさ。気をでっかく持ってりゃ、大概のことは乗り切れる。
まして今日はほとんど知ってる人間ばかりじゃないか。大丈夫だよ」

「やぁ、シンジ君。格好いいじゃないか。そうしていると大人びて見えるよ。
それにしても、お前が気合なんて言葉を知ってるとは、驚きだな、シゲル」

彼らの後ろから、これまたタキシードを着た日向マコトが現れてそう言った。

「何だよ、マコト。俺だってなぁ……」

口を挟んできた日向に向かって青葉は言い返し、
更に日向がそれを返すといった具合に、二人は言い合いを始めてしまった。

「あの、二人とも……」

「ちょっと待ってくれ、シンジ君。これは議論なんだ」

伊達眼鏡を掛けた日向のシンジへ向けた言葉に、青葉が不敵な表情を浮かべて言った。

「そうだぜ。これからこの振られ男を畳んでやるからよ」

「そっちこそいい気になるなよ、ギターオタク」

顎を上げて、日向がぞろぞろとした長髪の友人を威圧的に睨みつけた。

「はぁ。そうですか」

もはや少年としては呆れるより他にない。
顔を真っ赤にして議論という名の言い合いを続ける二人から視線を逸らすと、
隅の方の喫煙スペースでのんびりと煙草を吸っている加持リョウジの姿が目に入ったので、
喧嘩――としかもはや見えない――をしている二人のことは放っておいて
シンジはそちらへ行って彼に話しかけてみることにした。

「こんにちは、加持さん」

「ん? よぉ、シンジ君。なかなか似合ってるじゃないか」

「そうですか?」

会えば決まって皆が口にする似たような言葉に疑わしげな表情でシンジは自分の姿を眺め回した。

「心配ないよ。これなら姫君も満足いくだろうさ。ん、そうだろう?」

加持の言葉に慌てたのか、シンジは顔を真っ赤にして、こほこほと咳き込んだ。

「踊り方は覚えたか?」

「ええ、多分……。自信はないけど、とにかく転びさえしなければそれで」

シンジはしげしげと加持の姿を見た。
相変わらず窮屈な格好が嫌いなのか、ネクタイはポケットの中に仕舞い込まれていたが、
いつも結っている長い髪は、この日はさっぱりと短く切られており、
不精髭もきちんと剃られていた。
シンジは、やはり加持は格好いいなと思い、冴えなく映るであろう自分に少し落ち込んだ。

「髪、切ったんですね」

「あぁ、葛城が切れ切れとうるさくてな。おかげで何だか頭が軽くて落ち着かんよ」

言いながら、彼は涼しくなった首の後ろをしみじみと撫でた。

「それにしても、ジオフロントの野っぱらを急ごしらえの会場にしちまおうなんて、
よくもまあ、思いついたもんだ。さすがは葛城といったところか」

「そうですね……」

「君のお父さんはまだか?」

加持がゲンドウのことを、「お父さん」 と呼んだことに、
シンジは不思議とくすぐったいような気持ちになった。

「ええ、何か直前まで仕事があるらしくって。でも、来ますよ」

少年の答えに加持は目を細めると、
備え付けの灰皿に短くなった煙草を押しつけた。
たった今少年が答えた言葉の何と淀みのないことか。
来ます、と確信を込めて言い切る彼の表情には
初めて出会った頃の鬱屈した陰りは見られない。
加持は目尻の皺を濃くして、もう一本煙草を取り出して口に咥えた。
あまり吸うと匂いがついてどこぞの御婦人の不興を買うかもしれないという考えが
ちらりと頭を掠めたが、だからといって吸うのをやめる気は更々なかった。
自分に正直に生きるのもなかなか悪くないじゃないか。なあ?
片手でかまどを作って安物のライタで己のささやかな誇りの先に火を点した男は、
実に旨そうに口角を上げながら、指で挟んだそれを唇から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。

「まぁ、何にせよもう少し時間がある。のんびり待つとしようか」





碇シンジ達エヴァンゲリオンパイロットの、そしてネルフ一同の戦いが終結してから、
すでに一年以上の月日が流れていた。
この日は、全てが終わり、チルドレンを始め皆が無事に生き残ったことと、
彼らが所属してきた超法規組織ネルフが、正式に国際連合内の科学機関として
新たな一歩を踏み出すことへの記念の意味で、ネルフ本部職員と、
支部から一部の人間を招いて開くことになったパーティ当日である。
少々大袈裟な言葉を使えば、舞踏会と晩餐会だ。
だから、皆が皆着慣れないタキシードなど着て正装していたのであり、
勿論それは女性陣も同じことであった。
参加者達は皆すでに会場として設えられているジオフロントの一角に集まっていた。
そして今まさに、惣流・アスカ・ラングレーは、目の前で放心したような表情をして
自分のことを見つめている恋人から言葉を貰うのをうずうずと待ち構えていた。

「……き、綺麗だね」

ようやく、着飾った恋人を前にした碇シンジは己の義務を思い出して一言だけ絞り出した。
何故だか口の中がからからに乾いていた。

「……まあっ、嬉しいわ、シンジ。でも、それだけ?」

にっこりと笑みを浮かべて赤らんだ頬を片手で押さえながら、アスカは絶妙な角度に首を傾けた。
どうやら彼女は彼の一言だけでは満足出来ないようだった。

「あ、うん、本当に素敵だよ、アスカ」

慌てたようにシンジは言葉を付け加えた。
が、アスカは満面の笑みをたたえたまま、じっと彼を見つめて動かない。

「とても似合ってるよ。ドレスもとても綺麗だし……、えっと、髪飾りもいいね」

次第に背中に冷や汗が噴出してくるのをシンジは感じた。

「髪型も普段とは違うんだね。本当にそんな格好をしてると、
西洋のお姫さまみたいで……、まるで君じゃないみたい……」

「あら、それはとても面白い意見だわ、シンジ?」

少しだけ彼女の眼光が鋭くなったのを彼は悟った。

「あ、えっと、つまり僕が言いたいのは、普段の君の姿よりもずっと……、
何ていうか、見違えるみたいだっていうことで……」

「うふふ、そうね?」

「いや、そうじゃなくてさ……、その……」

シンジは言葉に詰まって硬直した。
まさに晩餐が始まろうかというこの時に、彼女の機嫌を損ねてしまう愚は犯す訳には
いかなかったのだが、どうやら自分は失敗してしまったようだと彼は青褪めた。
しかし、何がいけないのか分からないのだ。
実際のところ、ドレスを着た彼の恋人は驚くほど美しかった。
レースがふんだんに使われ繊細な刺繍が施された真っ白なドレスは彼女の首元までを覆っており、
腰の辺りまでは身体の線にぴたりと沿い、更に腰にはまるでブーケのような大振りなコサージュが
あしらわれ、チュールを重ねられたスカートはふわりと大きく広がって彼女の細い足を隠していた。
いつもは顔の横の髪を後ろに纏めて幼い頃からの付き合いであるインターフェイスヘッドセットを
髪止め代わりにしている彼女の髪型は、この日は丁寧に結われて細工物のような髪飾りが
つけられており、真っ白なドレスに流れる彼女の燃えるような髪が鮮烈にシンジの目を刺した。
どうやら着飾った自分の視覚効果のほどを充分に理解しているらしい彼女は
取り澄ましたような微笑みを浮かべた顔を僅かに染め、
シンジのことを飽くこともなく見つめ続けていた。
無論、彼女はシンジの言葉を待っているのだ。
適切で満足いく、自分に対する褒め言葉を。
だが一体彼女は何と言えば満足するのだ?
心の中で彼は自問したが、その問いに答えてくれるものはいない。
少年の頼みである男性陣は無情にも誰一人助けてくれる者はおらず、
皆にやにやと笑いながら二人を遠巻きにして眺めていた。

「アスカ、その辺にしといてあげたら? シンちゃん困ってるじゃない」

彼らに近付いてきて助け舟を出したのは、葛城ミサトだった。
彼女は暗い青色のイブニングドレスを着ていた。
天の助けと彼女に視線を送ろうとしたシンジであったが、
それに先んじて彼の恋人が鋭い視線で彼を射抜きながら口を開いた。

「ミサト、駄目よ。だって、あたしのシンジは、“困ってはいけない”のよ?」

無茶苦茶な論理を展開するアスカに、シンジは内心で呻き声を上げた。

「それは未来に期待しなさいな。とりあえずさ、一応挨拶とかあるのよ。
グラスでも貰って、正面のステージに注目してくれないかなぁ」

この場を収めようとしているミサトをちらりと見やって、
それからアスカは唇の端を吊り上げて恋人に宣告した。

「ですって、シンジ。さあ、あたしを見て、どう?」

「しつこい女ねぇ」

もはや処置なしとミサトは呆れ顔である。

「えっと……」

言いかけて、シンジは口篭もった。
美辞麗句をとうとうと述べられるほど器用ではない。
彼女のドレスを見ている内に、まるでカーテンみたいだな、とか
一体どれだけの布地が使われたらこんなにも彼女のスカートは膨らむんだろう
――これでは歩く度に何かを避けて廻らないといけないだろうと彼は心配した――とか
そんなことまで頭に浮かんだが、当然それを言えばスカートの裾を摘まんだ彼女が繰り出す
ハイヒールキックによって怪我をすることになるのをこれまでの経験から悟っていたので、
賢明にも口には出さなかった。

「なあに?」

何かを言いかけたシンジに、アスカは甘ったるい声で優しく問いかけた。
実はそれほど彼の修辞の腕前に期待している訳でもなかったのだが、
やはり女の子としては恋人から言葉を貰いたいというのが本音で、
だから彼女は笑みを浮かべて望む言葉――あるいはそれ以上のもの――を
彼が言ってくれるのを、胸を高鳴らせて待ち受けていた。
そしてついに、シンジは口を開いた。

「す……、好きだよ」

「なっ、何言ってるのよ、バカ!」

瞬時にアスカの顔は真っ赤に染まり、振り上げた拳で彼女にしては随分と頼りなく
恋人の胸を小突いて、それに大仰に仰け反りながらシンジも困ったように鼻の横を指で掻いた。
豊かな胸を震わせて、彼らの様子を見ていたミサトは実に楽しそうに笑い声を上げていた。





ミサトいわく一応の挨拶、が終わり、ステージで演奏を始めた楽団の奏でる音色に
誘われるようにして、晩餐の列席者達は思い思いのパートナと共に
ダンスフロアに相当する会場部分へと滑り出していった。
当然シンジはこの時が来るのを覚悟していなければならなかった。
アスカは彼に自分の手を取らせ、悠々と会場の中央へと進み出たのだ。
本当なら彼は出来るだけ皆の前で踊りを披露したくはなかったし、
それが避けられないのならば、せめて隅の方で目立たず踊っていたかった。
ところが、彼の横を滑るように歩く恋人の表情の何と自信に満ち溢れていることか。
列席者達も、彼ら二人に当然の如く会場中央への道を譲った。
何となれば、挨拶途中で 「今夜の主役」 としてシンジ達チルドレン三人を
大々的に紹介してくれたお節介がいた為であった。
無論、その不届き者は三人の内のシンジとアスカが特別に親しい関係にあることを
秘め事を漏らすかのように、しかし嬉々としながら宣言して、
彼らは列席者の万雷の拍手を受けることになってしまったのだった。
会場中央まで堂々とシンジを引き連れてきたアスカは恋人に向かって、
覚悟はいいか、という視線――僅かに面白がっているような色があったが――を向けてきた。
それを受けて、シンジも気を抜くと下がろうとする眉に力を込め、
努力して微笑みを浮かべながら、習った通りのダンスの型をとった。
有り体にいえば、彼が思ったよりもずっとそれは上手くいった。
初めの一曲の間、彼は一度も転ぶことはなかったし、
パートナの足を踏むことも、これまた奇蹟的に免れることが出来た。
ただ、彼は抱き寄せたように見える姿勢をとったアスカの
柔らかな感触に胸が忙しく跳ねて気が気ではなかったし、
何より彼女の髪や身体から立ち昇る芳しく甘い香りは
踊っている間中、彼をぼんやりとさせ続けた。
やがて気が付くと、二曲目が始まっていた。
最初の曲よりもゆっくりとしたペースでステップを踏むシンジの耳に、
恋人の囁くような声が届いてきた。

「素敵だったわよ、シンジ」

彼もまた小声で答えた。

「ありがとう。少なくとも、膝小僧を擦り剥かずに済んだよ。……今のところね」

「ふふっ、大丈夫よ。あんたはリズムを取るのが上手よ。
それにそう、何を置いてもあんたのパートナが誰かってことを忘れてもらっちゃ困るわ」

彼女の言葉にシンジは小さく笑った。
不意に、一年以上前の馬鹿みたいな特訓を思い出したのだ。

「あの時は着地に失敗したね」

「あぁ、そうだわ……、懐かしい……」

愛おしさを込めた声音で、アスカは囁いた。

「まるで全部夢の中の出来事だったみたいだ」

「あら……、悪夢?」

「いや……どうかな」

シンジは考え込んだ。

「ううん、やっぱりあれは現実だった。嫌なことも、いいことも、ひっくるめて全部」

「そうね。あたしもその意見に賛成よ」

彼らは、自分達だけが分かる会話を交わしながら、
密かに笑い合った。

「それはそうと、君は一体何が不満だったんだい」

唐突にシンジが切り出した。

「何のこと?」

「パーティが始まる前のことだよ。随分しつこかったじゃないか」

首を傾げていたアスカの顔に理解が広がった。
それと共に、僅かながら不機嫌そうな色も。
彼はアスカが自分のドレス姿への感想をしつこく聞き出そうとしたことを言っているのだ。

「今のあんたに期待しても無駄だって分かったから、もういいわ」

つんと取り澄ましてアスカは言った。

「どうしてさ。僕は君が素敵だって、素直に言ったよ。
そりゃ、少し言葉を間違えたところもあるかも知れないけど、
君だけ一人で不満がってても分からないよ」

「そこまで言うなら教えてあげますけどね、シンジ?」

分からないという顔をしているシンジを、アスカはまっすぐに見据えて言った。

「あんた、あたしのこの姿、どういう風に見えて?」

「どうって……、綺麗だよ?」

「まぁ、ありがとう。でも、そうじゃなくて、“どんな風か”って訊いたのよ」

綺麗だと真正面から言われて、頬に朱を注して礼を返しながら、
アスカはなおも彼に分かり易いように言葉をゆっくりと、一語一語はっきり発音した。

「分からない?」

「……お姫さまみたい」

シンジからしてみれば、イブニングドレスで着飾った女性の姿など現実離れしている。

「ううん……、それも嬉しいんだけどね、シンジ。
もっと一般的な、けど特別なイメージが思い浮かばない?」

「一般的で特別?」

矛盾した恋人の言葉に彼は首を傾げた。

「そう。つまり、つまりさ、あたしとあんたの関係だからこそ
思い浮かぶことが何かないの? あたしのこの姿を見て?」

そう言われて、シンジは改めて恋人の姿を間近から眺めてみた。
真っ白なドレスで着飾った彼女は普段よりずっと大人びて見えて、相変わらず美しい。
生憎と彼はドレスには詳しくない。
勿論、ドレスなどただの平凡な少年には、何か特別な興味でも持っていない限りは
詳しかろうはずもない縁遠いしろものであり、精々映画で見るか、雑誌の写真で見るか、
あるいはテレビコマーシャルで見るか。
そこで彼は、はたと思い至った。
言われてみれば、彼女の姿はそうしたもので見慣れたある種の女性の装いと
よく似てはいないだろうか。
彼女は、自分達二人の関係だからこそ、と言った。
つまりは恋人同士という関係である。
ようやく、シンジは納得したように口を開いた。

「それ、ウエディングドレスみたいだね」

彼の言葉を聞いたアスカの表情が、ほっとしたような笑みに変わった。

「そうよ。まったく、気付くのが遅い」

「ごめん」

「それと、まだ足りないわ」

更に何か注文があるのかとシンジは目を丸くした。

「花嫁みたいだって言って欲しかったわ。それも最初にね」

「ごめんね」

「僕の花嫁だ。馬鹿みたいって分かってるけど、そう言って欲しかったのよ」

アスカは自分よりもすでに高くなってしまった恋人の肩に額を押しつけた。

「そっか……」

肩に恋人の重みを感じながら、シンジは宙を仰いだ。
さて、これは随分と重たいじゃないか。

「そう言ってもいいの?」

「あんたが望むなら。あたしは……欲しいと言ったわ。あんたは、シンジ?」

「そうだね。結婚なんて考えたことない」

彼は正直に答えた。

「けど多分、これからは考えるよ。いつかきっと、大人になって僕は僕の好きな人と結婚するんだ」

「それはあたしなの?」

アスカは問いかける声が震えるのを抑えることが出来なかった。

「分からない」

どこまでも率直なシンジの答えにアスカは涙が込み上げてきた。
鼻がつんとする。
どうにも彼と想いを通じ合わせてから、自分に正直になり過ぎて感情の制御が利かないのだ。
彼女はそれを誤魔化すように早口に喋った。

「そうよね。先のことなんて分からないし、何の保証だってないんだものね。
けどさ、あたしは、だから、あたしは、それでもあんたとずっと一緒にいたいと思ったのよ」

「うん」

シンジは頷いて、そして言葉を続けた。

「僕もそう思う。ずっとアスカのことが好きでい続けていられたら、きっと素敵だって。
だから、僕が結婚する、僕の花嫁になる人も、アスカだったらいいな」

アスカは涙に潤んだ瞳に希望を込めて、恋人を見上げた。

「あたしとずっと一緒にいたい?」

「いたい」

はっきりとシンジは頷く。

「よかった……」

「君は僕の花嫁」

アスカの腰に廻した腕を僅かに引き寄せて、シンジは彼女の耳に囁いた。
肩は相変わらず彼女の重みに疼いて、しかし彼はもはやその重みと己の重みとの区別が
付かなくなっていくのを感じていた。

「そうよ。そう……そうなの」

「泣いてた?」

「女の子は繊細なのよ」

少し驚いた声で問いかけてきたシンジに、アスカは笑い含みに返事を返した。

「ねぇ、キスして」

「ここでかい?」

シンジは公衆の面全で口付けを交わすことに躊躇ったようだが、
アスカはそんな彼の瞳をじっと見つめて逸らさなかった。
幾らかの逡巡の後、彼は確かめるように口を開いた。

「少しでいいのかな。それとも、沢山?」

アスカは笑った。
まるで涼風が通り過ぎていったようだった。

「今は少しでいいわ。さ、慰めて、あたしのだんなさま?」





数曲を踊り、シンジとアスカは人々の輪から外れて豪華な料理が並べられた
食卓へと歩いていき、そこにゲンドウの姿を見つけたので
彼の元へ近付いていって同じ席に腰を下ろした。

「父さん、ここにいたんだね」

シンジが父に話しかける。

「ああ。お前達は休憩か」

彼はグラスから酒を飲みながら、息子の問いかけに答えた。

「うん。まぁ、出来れば踊りはもう……」

「ええ、少ししたらまた踊りに行きますから」

と、シンジの言葉を遮ってアスカが活き活きと恋人の父に答えた。
その言葉にシンジは彼女の横でいささかうんざりした顔をしてソフトドリンクを啜り、
苦労しているらしい幸せな息子の表情を見て取ったゲンドウは密かに含み笑いした。

「司令はダンスをなさらないのですか? その、誰かと……」

ちらりとアスカがゲンドウの横に視線を移しながらからかうように質問をした。
彼の横には黒いドレスを着た赤木リツコが座っていた。
当然、リツコがこの強面で不器用な男と踊りたがっているのではないかと彼女は考えた
――でなければこの場所にずっといたらしい二人の間ではよほど話題が尽きないのだろう――のだが、
しかしゲンドウは、苦笑しながらそれに返事を返した。

「生憎とその方面は明るくなくてな。まぁ、ここから皆の様子を見ているだけで充分だ。
幸い、料理も酒も味の方はすこぶる旨いし、演奏の方もなかなかのものだ」

「あ、それは、申し訳ありません……」

アスカは慌てたように目を伏せて謝った。
彼はまるで気にした様子もないが、ダンスくらい踊れて当たり前という頭が彼女にはあった。
勿論、ゲンドウが恥ずかしがって――というのは到底似合いもしないのだが――嘘を言っている
という可能性も捨て切れなかったが。

「何、気にすることはない。赤木君にもそう言っているのだがな」

そう言って、困ったように自分の隣に座る女性をゲンドウは見た。
彼女にも当然ダンスの誘いは何度も訪れたのだが、
その度に頑固にも誘いを受けようとはせずに、ゲンドウの隣に座り続けているのだ。

「父さんがよくてもリツコさんにはそうじゃないんじゃないの」

自分の皿に取り分けた合鴨のローストを頬張りながら、シンジが訳知り顔で口を挟んだ。
多少失言をしたこともあって、彼の隣で遠慮がちにソフトドリンクを飲んでいたアスカは、
恋人の発言に内心で、いいこと言うじゃないのよ、と感心した。

「おい、シンジ。お前はな……」

「あら、気にすることはなくてよ、シンジ君。私は別に特別踊りたい訳じゃないし。
こうして眺めているだけで充分よ。踊り通しの貴方達はお腹が空いたでしょう。お食べなさいな」

息子の生意気な言葉に顔を顰めたゲンドウを遮ってリツコが口を開いた。
黙って聞いていたアスカは、何だかこの二人はまるで同じような言い訳を口にすると思った。
案外、内心でも同じようなこと、すなわち口に出したこととは違うことを考えていて、
互いに相手がそれを切り出すのを待っているのかも知れない。
そう考えたアスカは、自分の想像が愉快になって笑いを零した。

「では、司令。お邪魔でなければ、ここで少し休憩と食事をさせて頂きますわ。それと、お喋りも」

「……好きにしたまえ」

悪戯っぽい少女の言葉と視線に、ゲンドウは苦りきった声で返事した。
どうやら彼はこの息子と同い年の少女の相手をするのが苦手なようだった。





「こんばんは、碇司令。ご挨拶をしてもよろしいですか?」

それは、聞き慣れない少年の声だった。
シンジは目の前の父が軽く目を見開くのを見て、何だろうと後ろを振り返った。
背格好は自分と同じくらいだろうか。
深みのある笑みが印象的な同年代と思しき少年だった。
ただ、もっとも目を引くのはその髪色と瞳。
その少年の髪は鈍く灰がかった色をしていて、そして両の瞳はどこまでも赤い血の色をしていた。
彼の姿を見たシンジは既視感に襲われた。
誰かによく似ている。
そう、彼とアスカと、世界で三人だけの仲間である少女に似てはいないだろうか。
シンジが我を忘れて少年に魅入っていると、後ろからゲンドウの声がした。

「君か。直接会うのは二度目だったな」

「ええ。御無沙汰しております。僕も義父も貴方の配慮には感謝しています」

彼はゲンドウに対して頭を下げてみせた。

「大したことではない。さて、紹介させてもらおうか。この少年は渚カヲル。
ドイツネルフの関係者だ。渚君、こちらが赤木リツコ博士」

と、立ち上がってゲンドウは隣のリツコを軽く手で指し示しながら言った。
その声に促されるようにリツコも立ち上がってテーブル越しから軽く会釈をすると、
少年は笑みを深くして会釈を返した。

「初めまして。お噂はかねがね。義父は貴女を大層尊敬していますよ」

「こちらこそ初めまして。光栄だわ。貴方のお義父さまにもよろしくお伝えして頂けるかしら」

リツコの声が微妙な緊張を含んでいるのをシンジは感じた。
が、その訳を深く考えている間もなく、座ったままでいる自分に気付いて慌てて立ち上がった。

「これがシンジ。私の息子だ。その横にいるのが惣流・アスカ・ラングレー。
この二人と、ここにはいないがもう一人の綾波レイが本部の元チルドレンだ」

ゲンドウの紹介の言葉に、少年はゆっくりとシンジに視線を移して、
それから意味ありげな笑みを顔に浮かべた。

「ようやく会えたね。初めまして、シンジ君」

「は、初めまして」

挨拶と共に差し出してきた少年の手を、シンジはおずおずと握った。
ようやく、とはどういう意味なのだろうかという疑問が頭を過ぎったが、
果たしてそれを口に出していいものかどうか、彼はしばし悩んだ。

「今回の来日で君に会えるのを楽しみにしていたんだ。
僕のことは是非、カヲルと呼んでくれないだろうか。実はもうすぐ『渚』ではなくなるんだ」

「えっと……、じゃあ、カヲル君」

渚カヲルは、シンジの手を握り締めたまま目を細めた。

「ふふ。君とはいい友人になれそうだよ。今回の滞在は5日ほどしかないけれど。
今度ブレーメンに移り住むことになっているんだ。ドイツに旅行の時は、是非訪ねて欲しいな」

「そうなんだ。じゃ、僕にこの街を案内させてくれる? 勿論、カヲル君がよければ」

「それは嬉しいな。是非ともお願いするよ、シンジ君。
……さて、それから、こちらが君のガールフレンドだね」

と、今度はシンジの隣に寄り添うように立っていたアスカの方に向き直った。
彼女はしばらくの間無視されていたことに気分を害したのか、
この初対面の少年が恋人に対して思わぬ興味を示したのが気に食わなかったのか、
いささか愛想のない顔で手を差し出した。

「惣流・アスカ・ラングレーよ。貴方、ドイツネルフにいたって?」

アスカの挑戦的な口調に怯むこともなく、渚カヲルは差し出された手を軽く上品に握った後
シンジの時とは違ってすぐに離してから鷹揚な声でそれに答えた。

「そうだよ。ただ、君とはまるで違う部署にいたのでね。
かの高名なセカンドチルドレンにお目に掛かるのはこれが初めてだ」

「ふぅん……、ま、いいわ。よろしく」

彼女はこの不思議めいた少年にさほどの興味はないようだった。
だが、シンジは妙に彼のことが気に掛かって、アスカの挨拶に笑顔を返している
彼の姿をしげしげと眺めていた。
すると、どうやら渚カヲルもその詮索するような視線に気が付いたようで、
再びシンジの方へ向き直って口を開いた。

「どうかしたのかい、シンジ君?」

「え? いや、その……どうして僕のことを知っていたの?」

初めに挨拶を交わした時、彼が 「ようやく」 と言ったことをシンジは訊ねているのだ。
隣で聞いていたアスカは、使徒殲滅に功績ある本部のチルドレンなのだから
当然ではないかと、内心で恋人の鈍感さに呆れていた。
しかし、渚カヲルはシンジの質問を馬鹿にすることもなく、微笑みを浮かべ、
いっそ嬉しそうに答えた。

「それは……、僕が君に逢う為に生まれてきたから、かな」

「へっ?」

突拍子もない答えを返されて、シンジは素っ頓狂な声を上げた後、
彼が何と言ったのかをよくよく考えて徐々に顔を赤らめていった。
その後ろでゲンドウとリツコが微かに視線を合わせるのを見て取ってから、
渚カヲルがうろたえたようなシンジの様子を楽しそうに見つめているとその横から、
場所柄を考えたのか抑えられてはいたが、金切り声が飛んだ。

「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! シンジも何顔赤くしてんの!」

恋人の叱責に、シンジはまるで熱を冷ますかのように頬や額に手を当てて
恥ずかしそうにしながら言い訳した。

「えぇっ? やだな、赤くなってなんかないよ」

「もじもじするんじゃないわよ、気持ち悪いわね」

「君、仮にも恋人に向かって酷いんじゃないのかい?」

平然と渚カヲルが口を挟んだ。

「うるわいわね。元はといえばあんたが変なこと言うからでしょ。この変態!」

「あー、まぁ、その辺にしておきたまえ。
それで、渚君。君の義父上はどこにいるのかね」

放っておくとますますアスカが騒ぎ立てそうなので、
ゲンドウが強引に割り込んで話を変えた。
今だに腹を立てていたアスカもさすがに多少の分別はあったので
しぶしぶながら引き下がったが、それでも気が収まらないのか、
どかりと腰を下ろしてやつあたり気味に大きな肉の塊を肉食獣よろしく口の中に放り込んだ。

「向こうで伊吹マヤさんという女性を口説いています」

飄々と答えた少年の言葉に、リツコの顔がはっきりと分かるくらいに引き攣った。

「冗談です。義父なら冬月副司令と何やら話し込んでいたので、僕だけでこちらにお伺いしたのです。
今言った女性は、冬月副司令と一緒に席にいたもので、ちょっとした冗談にしてみました」

「色々と学習中という訳ね……」

力が抜けたようにリツコが呟くと、少年は優美な仕草で唇の前に人差し指を立ててみせた。

「ええ。日々バージョンアップしていますよ。けれど、その話題はここまでにしましょう。
さて、僕はそろそろ行くとします。もう一人、綾波レイさんに是非ともお会いしたいので」

「はっ。とっとと行きなさい」

「アスカ、駄目だよ、そんなこと言っちゃ……」

こそこそと恋人を諭しているシンジの姿に目を細めた後、
渚カヲルは改めてゲンドウに顔を向けた。

「では、今夜は楽しみたまえ。色々とな」

「そう致します、碇司令。差し当たっては、綾波レイさんをダンスに誘うとしましょう。
何しろ彼女、随分と人気があるらしくて、誘いの手も引きも切らずといった感じですよ。では、失礼」

そう言うと彼はお辞儀をして、悠々とその場から立ち去った。
その後ろ姿が消えるのを見送ったアスカは、疲れたように呟いた。

「何なの、あいつ。変な奴ね」

「うん……、変わってるけど、でも、いい人そうだよ」

「お人好し。これだから目が離せないのよ。……離す気もないけど」

ぼそりと呟いたアスカの言葉に父親の手前ということもあるのかシンジは大層慌てたようだったが、
言った本人もどうやら自分の言葉に随分と落ち着きをなくしたらしく、
その事実を誤魔化すようにソフトドリンクをごくごくと飲んでいた。
そんな若い恋人達を余所に、ゲンドウとリツコは顔を寄せ合って小声で話していた。

「どうだね、彼は」

「ええ……、予想以上に適応していますね」

「冬月先生も面白いことを言う。聞いたかね、彼の言葉」

「シンジ君に逢う為に生まれた。その為に、彼は生き残った?」

「案外、人の生きる理由なんてそんなものかも知れんな。そう……、そんなものだ」

意味ありげに頷きながら、ゲンドウが言った。





それから、シンジとアスカは料理や色んな人達との談笑を楽しんだ後で
再びダンスをする為に席を立った。
しかし、今度は違うパートナと踊るのである。
言葉巧みに、アスカがゲンドウとリツコを誘導した結果、
この有能なる女性科学者は不器用な男にぎこちなく手を引かれて人々の輪の中に滑り出していった。
それを見届けてから、彼らはあらかじめ二人で打ち合わせてあった通りに、
今まで世話になった幾人かの親しい人達とダンスをする為に歩き出した。
アスカがゲンドウとリツコの二人を送り出したのも、半ばはこの為であったのである。
シンジはまず伊吹マヤを見つけ、丁寧に彼女を誘ってダンスフロアへと進み出た。
彼女はまるで少女のように頬を赤らめ、シンジと無邪気に笑い合いながらダンスを楽しんだ。
葛城ミサトと踊った時には、まるで彼女は母親のように優しい表情でシンジと向かい合い、
そして実に彼女らしく楽しげな笑い声を立てながら大いにはしゃいでいた。
彼女は踊っている間、シンジに対して彼の恋人と付き合う上での様々な忠告や助言を与え、
それらの内の幾らかは、非常に有益なものだと思われた。
一曲を踊り終わり、別れ際にミサトから一杯に抱き締められたシンジは、
何故だか涙が出そうになって堪らずに上を見あげて鼻を啜り、
そして別れた後で、丁重にミサトを誘う加持リョウジと、
それにはにかみながら手を差し出して応える彼女を目にして、
満足げな微笑みを浮かべて人波に紛れた。
綾波レイを見つけるのはさほど苦労はしなかった。
彼女はシンジが見つけた時ちょうど渚カヲルと踊っており、この二人の組み合わせならば
髪色のせいで遠目からでもとてもよく目立つのだった。
踊る彼らへ近付いていき、曲の切れ目を見計らって丁重に声を掛けると、
綾波レイのパートナを務めていた少年はにこやかに笑ってその役目をシンジに譲り渡した。
踊り始めると、シンジはこの神秘的な少女に話しかけた。

「ねぇ、綾波。今日は楽しんでる?」

「……ダンスなら沢山したわ。色んな人が声を掛けてくるの。
こんなに一度に話しかけられたのは初めて。碇君は楽しい?」

「そうだね。多分、楽しんでるよ。転びさえしなければ、ダンスも悪くない」

綾波レイの肩越しに、シンジは加持リョウジと踊っている恋人の姿を見つけた。
それに微笑むと、一瞬だけアスカがこちらを見て、二人の視線が合わさった。

「ねぇ、綾波。幸せかい」

「幸せ……?」

「君は今、幸せ?」

シンジは再び問い直した。

「分からない」

水色の髪をした少女は、少し困惑したように答えた。

「今の暮らしはどう?」

「……分からない」

再び綾波レイは繰り返す。
彼女は今、赤木リツコと二人で暮らしていた。
アダムとリリスの破棄からほどなくして、ゲンドウが独りきりの彼女を引き取ろうともしたのだが、
これまたアスカが強行に反対したので、代わりにリツコが引き取ることになったのだ。
普段シンジの恋人は彼の父親に対して強くは出ないのだが、
この時ばかりはたとえ我侭でも引き下がらなかったのだった。
恋人を信じていない訳ではなかったが、どうしても譲ることが出来なかった。
アスカの幼い頃からの不遇――彼女は失うことを極度に怖れていた――を
鑑みたミサトの進言もあり、ゲンドウが譲ったのだ。

「じゃあ……、今みたいな時間がずっと続けばいいと思う? こんな風な穏やかな日常が」

「……そうね。ええ……、きっと、そう思うわ」

ようやく彼女はそう答えて、穏やかに微笑んでみせた。
戦いを終えた今のような素晴らしい時間の中で穏やかに、時には激しく、人間らしく暮らし、
やがては一人の魅力的な女性に成長するであろう目の前の少女の未来の姿に思いを馳せ、
シンジもまた彼女へ優しさに満ちた微笑みを返した。
二人は静かに奏でられる音色に身を任せ、ステップを踏む。
するとしばらくして、綾波レイが微かに聞き取れるほどの声でシンジに言った。

「碇君。もう少し、近付いてもいい?」

「……いいよ」

そう答えると、彼女はそっとシンジに身を寄せてきた。
首筋の辺りに擦り寄っている彼女の髪から、柔らかく甘い香りが立ち昇る。
シンジは彼女を優しく抱き寄せながら、もしも今の姿を恋人が見ていたら
後で大人しく殴られよう、と考えて目蓋を閉じ、甘く匂う水色の髪に鼻をうずめた。





それはとある女性職員と踊っている時だった。
人々が楽団の奏でる調べに乗せて思い思いに踊っている、その人波のちょうど切れ目から、
シンジのよく見知った姿が視界を掠めた。
その人物は、おそらく先ほどまで誰かと踊っていたのだろう、少しだけ浮き立つような足取りで、
踊る人々を取り囲む席の一つに腰を下ろした。
そして、まるで夢を見るような表情でテーブルに頬杖をつき、踊る人々を眺めていた。
無論、シンジも踊っている最中なので、じっとその人物を見つめ続けることは出来ない。
その時彼が相手をしていた女性とようやく踊り終わり、その人物の前までやってきた時も、
席についた時と変わらぬ姿勢で人々の踊る姿に視線を注ぎ続けていた。

「僕と踊って頂けますか、リツコさん」

突然掛けられた声に、その人物――赤木リツコは、はっとした表情で頬杖をついていた手から
顔を浮かせて、丁重に差し出された少年の手を不思議そうにまじまじと見つめた。
それから視線を上げて、彼女は手を差し出しているシンジの顔を見る。
二人の物言わぬ視線が交錯した。
果たして二人がその瞬間何を思ったか、先に口を開いたのはリツコだった。

「私を誘うの、シンジ君?」

彼女は照れを含んだような、意外そうな声でそう言った。

「勿論」

「私みたいなおばさんよりも若い娘は沢山いるわよ」

彼女は目に掛かった相変わらずの金髪を指で払って、
からかうような言葉をシンジに投げかけた。
けれど、シンジはその言葉に恥らうような笑みを浮かべて答えた。

「ええ、多分。でも、リツコさんのお相手をすることは、とても特別なことだと思います」

意味ありげな少年の言葉に、リツコは目を細めて首を傾げた。
口の端をくっと吊り上げ、少しだけ、彼女の頬は赤らんでいるようだった。

「口説くのがお上手ね?」

「ありがとうございます。リツコさん、僕と踊ってくれますか?」

再度の誘いの言葉に、彼女は差し出されたシンジの手をとって答えた。

「ええ。エスコートして頂けるかしら。シンジ君」

シンジは立ち上がったリツコを促し、ダンスフロアへと歩みを進めた。
彼女の少しだけひんやりと冷たい手は、驚くほど細く小さく、
この偉大な女性に対する、ある特別な愛情が己の胸を温めるのを彼は感じていた。
そしてまた、父親の無愛想な髭面を思い出して、彼は一層温かい気持ちになって微笑むのだった。





赤木リツコとのダンスが終わると、最後のダンスの為にアスカがシンジの手に戻された。
彼がリツコのパートナを務めている間、彼女は恋人の父ゲンドウと踊っていたのだった。
アスカはシンジの元に戻ってくるなり、彼の父はやはり大嘘吐きだったということを
したり顔で、けれど心底楽しそうに報告した。

「今日はちょっと疲れちゃったね」

シンジが話しかけると、アスカは少し唇を尖らせた。

「これくらいで何弱音を吐いてるの。だらしないわよ」

「そんなこと言ってもね。慣れてないんだから」

言い訳めいたことを口にすると、彼女は目を細めて言い返してきた。

「へぇ、そぉう。つまり、慣れない浮気で疲れてしまったのね?」

ダンスのパートナをしばらく取り替えることは打ち合わせ済みのはずであった。
無論、だからして彼女とシンジの立場は同じはずである。
つまり、彼女は恋人と綾波レイのちょっとした秘め事をしっかり目撃していたのだ。

「説明は後でしてもらうからね」

「説明って……、別に浮気じゃないよ。綾波も大事な仲間だろう?」

「仲間、ね。都合のいい言葉だこと。そうは思わない?」

どうやら簡単には納得してくれそうもない嫉妬深い恋人に、
分かっていたこととはいえシンジは内心で唸った。
しかし、アスカは恐そうな表情をふっと改めて、彼に笑いかけて言った。

「冗談よ。それにあたしも同じだからね。加持さんにキスしたもの」

シンジの眉間に僅かに力が入った。

「頬っぺたにね」

と付け加えると、彼女は悪戯が成功した子どものように笑って、
呆気に取られた表情をした彼の頬に音高くキスをした。

「ねぇ、シンジ。これまでのことを思い出してる?」

踊っている内に、いつしかどこか遠くを見るような眼差しをしていた恋人にふと気付いて、
アスカはゆったりとしたステップを踏みながら小声で訊ねた。

「うん。色々あったね」

「使徒……、エヴァンゲリオン。日本へ来て、あんたに出会って、一緒に暮らして。
あたし達は戦った。つらい思いもしたわ。それは日本に来る前から。10年間……、長かった」

彼女は目蓋を閉じて声を震わせた。

「うん……、僕もだよ」

「灰かぶりの少女に掛けられた魔法は日付が変わると解けてしまうわ。知ってる?」

突然アスカは言った。

「シンデレラだね」

「あたしに掛けられた魔法はいつ解けるのかしら……」

「解けないよ」

「え?」

「二人が出会ったこと自体が魔法だから。ずっと解けない。解かせない」

彼の言葉にアスカはきょとんとした顔をした後、
堪え切れないといった様子で肩を揺らして笑い始めた。

「あぁ……、いやだわ。そんな台詞、あんたに似合わないわよ。全然、似合ってない」

「悪かったね」

散々に笑われて、少しむっとした顔でシンジは零した。

「でも、ありがとう」

彼女は礼を言って、頬を染めながら静かにダンスを続けた。
しばらくして、シンジはまた口を開いた。

「アスカ」

「何」

「愛してる」

囁くように、ほとんど掠れた声で彼は告白した。
実のところ、彼が 「愛している」 という言葉を使うのはこれが初めてであった。
これまでの彼にとっては、重過ぎる言葉だったからである。
だがこの瞬間、彼はその重い言葉を使わずにはいられなかった。
湧き上がる想いを表に顕わそうと、言葉にしようとすると、
自然と彼の口は 「愛してる」 と言っていたのだ。
そうする他なかったのだった。
彼が愛を告白した途端、目を丸くして見つめてくるアスカの顔が鮮やかに染まった。
もう一度、彼は自分の想いの丈を彼女へ伝えた。

「愛してるよ」

その告白を受けて、踊りながらアスカは恥ずかしげに俯き、唇を噛み、
何やら口の中でぼそぼそと不明瞭な言葉を呟いて、
それから顔を上げて恋人の顔を見つめた。
シンジの肩に掛けていた手を彼の頬へ当て、彼女は愛おしげにしてなお恋人を見つめ続けた。
何度か、彼女は口を開こうとしていたが、どうしても上手く言葉にならないようだった。
だから彼女は、ただ恋人の胸に顔を埋めて、心地好さげに緩やかな足取りに身を任せていた。
シンジは見下ろした恋人の可愛らしい小さな耳が鮮やかなピンク色に色付いているのに気付き、
そっと微笑みを浮かべた。
彼の表情もまた少し恥ずかしげな色に染まっていた。
無言のまま、彼らは演奏される音楽の中で身を寄せ合う。
それからどれくらい経ったか、アスカが顔を伏せたまま何かを呟いた。
彼女の声が小さ過ぎて聞き取れなかったシンジが、訊き返す。
すると、今度は顔を上げ、彼女は恋人の瞳を見つめながらもう一度口を開いた。

「愛してるわ。貴方のことを、誰よりも愛してるわ」

ごく小さな囁きだった。
掠れるような、ささやかな、熱烈な告白だった。
もう何度目になるか分からない告白だったが、
初めての時から込められた彼女の想いは少しも減ずることはなく、
むしろそれはこれまでで一番熱烈な愛の囁きだった。

「分かってる」

「うん……」

「分かってるよ……」

今やシンジとアスカは抱き合ってお互いを支えていた。
彼らの周りでは、多くの人々が思い思いのパートナと共に踊り、更にその周りにも
グラスを手に、あるいは歓談しながら、人々が取り囲んでいた。
けれど、この瞬間、果たして彼らにそれが見えていただろうか。
もはや彼らの目には愛しい相手の姿しか映っておらず、
お互いを見つめ合うその瞳には情熱的で狂おしい、けれどどこまでも穏やかな愛情が溢れていた。
きっとこの先、二人の身体と心にはこの愛情がどこまでも降り積もっていくのだろうと
そんな根拠のない確信を少年は、そして少女も抱いた。
シンジが顔を近づけると、微かに唇の端を上げながらアスカがそれを受け入れた。
それがどれだけ続いたか、ようやく二人の顔の間に再び距離が生まれると、
薔薇色に頬を染めてくすぐったそうな表情をしている少女に向かって、少年が口を開いた。

「ねぇ、アスカ」

「なあに?」

くすくすと笑いながら、彼女は少年を促した。

「僕と踊ってくれる?」

問いかけられたアスカは、僅かに困惑を滲ませた微笑みを浮かべながらシンジの顔を覗き込んだ。
たった今、踊っているところだというのに、彼は何を言っているのだろう。
恋人が理解していないことを見て取った彼はもう一度、
今度は先ほどよりも少しだけ小さな声で、しかし有りっ丈の意思と想いを込めて、
ゆっくりと彼女に囁きかけた。

「僕と踊ってくれるかな。長い長い、踊りに、なりそうなんだけど」

刹那、沈黙が訪れた。
僅かに目を見開いて呆然とした表情をしている少女と、
口を固く結んでそれでも期待を込めた表情で彼女の返事を待っている少年。
すると徐々に、少女の頬が赤らみ、青い瞳が潤み出した。
少年は固唾を飲んで待ち続ける。
彼女は目蓋を閉じ、自分を落ち着かせるように息を吸い込んで吐き、
そして再び目蓋を開けた時には、そこには晴れやかな溢れんばかりの笑顔が浮かんでいた。

「喜んで!」











happy ending



リンカさまから素敵なお話をいただきました。一挙7篇公開です。

こんなにシンジとアスカの好き好きのつまった話が他にあるでしょうか。

素敵なお話をくださったリンカさまにぜひ感想メールをお願いします。

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