純情ハイヒール

by リンカ


太陽が沈みかけていた。
よく晴れた常夏の青い空。たなびく白い雲。それらが徐々に夕方の色に染まっていく。
壮麗なオレンジ色の世界を臨んで、彼女の心にはしかし何の感慨も浮かび上がってはこなかった。
ベランダに立っていたアスカは微かに鼻を鳴らして、眼前の景色に背を向けた。
取り込んだ洗濯物で一杯になった安っぽいプラスチックの籠を屈み込んで両手で抱え、
生暖かく吹き込む風に頼りなく揺れているレースの膜を潜り抜けて
冷房の効いた部屋の中へと戻っていった。
籠を抱えてリビングまでやって来て、そこでアスカはそれを下ろして自分も膝を突き、
そのまま正座をして膝の上で洗濯物を畳み始めた。
無言でタオルを畳みながら、そういえば正座に慣れたのはいつ頃からだったかと
ふと記憶の底をさらってみた。
この国へ来る以前は正座というものそれ自体を知らなかった。
初めて試した時には単なる苦行でしかなかった。下肢が圧迫される感触がどうにも気持ちが悪く、
またすぐに痺れを来たしてそれが治まるまで身動きひとつ取れなかった。
金輪際やるものかと思っていたものだが、いざという時これが出来ないとこの国では困ることがあると
保護者の女がしかつめらしく脅すものだから、無理矢理慣らして今では短時間なら平気になった。
そこまで思い出してみて埒もないことだと我に帰り、作業の手を早めた。
半分程終えてみて、手を休めた彼女は顎を上げて鼻をひくつかせた。
いい匂いが漂ってくる。
彼女の同居人が料理に取り掛かってしばらく経っていた。
どうやら出汁と醤油の匂いらしい。とすると今日は和食かと判断して、彼女は再び洗濯物を畳み出した。
和食もこの国へ来てから慣れたもののひとつだ。
確かに旨いとは思うのだが、ドイツで育った彼女にとっては日本での食生活も初めは随分奇妙に映った。
和食に関して言えば、大抵の場合一品の量が少ないし味が薄いものが多い。
何故こんなにちまちまと食べるのかと不思議でならなかった。
それに食全体で言えば、何と雑多な料理を食べる民族かと呆れたものだ。
およそ統一的でなく、しかも料理がどこのものであれ、大概米をつけるのだ。
ごく日常の夕食にあれだけ本格的に食べるのもよく分からなかった。昼はあまり食べない癖に、
何故寝る前に腹が膨れるまで食べるのか。活動する日中にこそ食べるべきなのではないのか。
時折にだが運良く材料が調達出来た時などに彼女が自分に出来る故郷の家庭料理を作ってみせると、
同居人達は歓声を上げながらも必ず残す。
米は腹に入る癖に、何故ジャガイモだと入りきらないのだろう。
デザートが軽視されることも理解し難い。
ケーキをいつも食べていると何故すぐに太ると言ってくるのだろうか。
その他本当に色々と不思議なことはあったのだが、
それでも結局は彼女は慣らされてしまった。主に料理の達者な同居人の手によって。
洗濯物を畳み終わったアスカは、それぞれ所定の場所に仕舞う為に立ち上がった。
と、料理をしていたはずの同居人がエプロンで手を拭いながら近寄ってきた。


「アンタの分、自分で仕舞いなさい」


タオルの束を手に持ったアスカが少々はしたなく足で示した先には
男物の下着やシャツが積み重ねられていた。


「うん。今日は焼き魚だけどいいよね」

「魚、何?」

「カレイ」

「たまには酢漬けとか出しなさいよ」

「売ってないんだよ。アスカが自分で漬けてみるかい?」

「作り方が分かんない。ちょっと、アタシの下着をじろじろ見ないで」


不躾な男の視線を目ざとく察したアスカがジト目で睨むと、
同居人は顔を赤らめて慌てて自分の洗濯物を拾いあげ、そそくさと部屋へ駆けていった。


「まったく、バカシンジめ。下着じゃなくてアタシを見なさいってのよ」


ぶつくさと文句を言いながら、彼女も自分の部屋へと歩いていった。
知らず口ずさんだ鼻歌はこの国のものだった。






食事の用意も後はカレイを焼くだけとなり、
アスカとシンジはリビングで残るひとりの同居人の帰りを待っていた。
この同居が始まって、約3年になる。途中入院などで途切れた期間もあるのだが、
こうして3人で暮らすのも随分と自然なことと感じられるようになってきていた。
それはアスカにとってもそうであり、シンジにとってもそうであり、
そして残るひとりの葛城ミサトにとってもそうであった。
ソファーの下のカーペットに腰を下ろし、背を凭せ掛けて伸ばした足を組んでいたアスカは、
ふと頭を巡らせてソファーに座っている斜め上のシンジの方を見やった。
雑誌に目を奪われている彼はアスカの視線に気付かない。
それをいいことに彼女は彼をじっくり観察してみた。
出会った頃より背が伸びた。顔も丸みがややなくなり、時折髭が気になるのか顎を掻いていた。
こざっぱりと短い髪はワックスで上げられていた。
童顔が気になるのだそうだが、彼女としてはそんな風に一々手を加えて欲しくなかった。
あれでは指通りが悪いに違いない。触ったらベタつくなんて気分が悪い。
いつか止めさせようと彼女は心の中に書き留めておいた。
肩は広くなったがまだ厚みはあまりなかった。
腕は細いが、それでも筋肉のすじが女の腕とは違うことを主張していた。
その腕にあまり濃くはないが体毛が生えているのが見えた。
視線を下におろして足を見た。膝までのパンツからニョキリと伸びる足も太くはないが
しかし引き締まっている彼の足は形がよく映った。
腕と同様、すね毛がちらほらと生えていた。大人になるにつれ濃くなっていくのだろうか。
アスカは彼の父親の貫禄ある髭を思い浮かべながらそう考えた。
眺めていると悪戯心が湧き上がってきて、彼女はシンジのすねを下から上に撫であげてみた。
するとシンジが驚いたような声を出して足を跳ね上げた。


「もうっ、悪戯は止めてよ」


雑誌の向こう側からシンジが憤慨したような、戸惑ったような、曖昧な顔を向けてきた。
アスカはそれを見返して、にんまりといやらしい笑みを浮かべた。


「まだまだなまっちろい足してるわね。そんなんじゃ男らしくないわよ」


そう言って彼女は正面を向き、シンジの膝に頭を凭せ掛けた。
払い除ける訳にもいかず、彼はアスカの図々しい態度をそのまま甘んじて受け入れた。
アスカは正面を向いたまま、ぼんやりと手を伸ばして彼のすね毛を摘み取った。
くりくりと捻っていると、シンジが鬱陶しそうに足を揺らしたので、
彼女は仕方なく彼のささやかなすね毛を解放して、彼の膝に凭せ掛けている頭の位置を直してから
今度は自分の赤い髪の毛をくねくねと指に巻きつけ始めた。
彼女の親友を始め、何故か男の体毛を不潔だと感じる女が多いようだが、
それはどうしてなんだろうと彼女は心底不思議に思う。
恋人に除毛しろと強要したというある同級生の話を聞いた時は心から呆れ返った。
別に少々毛が生えていようがいいではないか。むしろ男性的で好ましいし、
まったくつるんとした男など何となく貧弱な気がアスカはするのだ。
胸毛など言語道断だと彼女達は言うが、
仰向けに寝た恋人の胸に頭を乗せて、そのくるくるとした胸毛を指で弄ぶだとかいう
そんな情景にエロティシズムを感じないのだろうかとアスカは半ば本気でそう思う。
思うが、彼女達に説いて聞かせるのも何だか変な気がするのでいつも黙っている。
胸毛は言うに及ばず、揉みあげや髭や手足の毛も嫌なのだそうだ。
むだ毛なのか、男性性の象徴なのか。一体どちらがおかしいのだろう。
多分、自分達女性にとっては明らかに異質なその性的アピールを怖れているのではないかと
アスカは考えていたが、一方で単純に国民的な好みの問題かも知れないとも思ったので
別段彼女は友人達を翻意させる気も、あるいは逆におもねる気もないのだが、
つまるところこの国の女性―あるいは少女―はひょろ長くてつるりとした中性的で綺麗な男が好みらしい。
だが少女漫画の中ならともかく実際にはそんな男はそうそういない。
彼女が知る限りは、たった今彼女が頬っぺたをぴたりとくっつけている足の持ち主だけだ。
だから彼女は友人達から羨ましがられる―実際には少女好みの偶像からは生身の人間である彼は
当然の如くかけ離れているが―のだが実のところ心中密かに彼女がシンジに
わかめでもたらふく食わせてやろうかと考えているともしも知ったらどんな顔をするだろうか。
ついでに言えば、本当のところは友人達が羨ましがる関係でもまだないのだが、
そこはアスカの悩みの種でもあったので、彼女は決してそれを友人達に明かそうとはしなかった。
ほうっとアスカは溜息を吐いた。
もうちょっとたくましくなってよね、とそのたゆたう吐息の中に想いを込めて。
シンジは目の前の雑誌を除けて少女の赤銅色の後頭部を眺めた。
この娘は人の足を図々しくも枕代わりにしておいて、何を物憂げな溜息をついているのかと彼は思った。
いくら気心の知れた同居人だからってちょっとじゃれ過ぎだと彼は居心地悪く足を揺らした。


「ちょっと、動かさないでよ」

「あのねぇ、アスカ。凭れるならクッションでも何でもあるだろ」

「アタシはこれがいいの」

「わがまま」

「うっさい。ねえ、シンジ」

「何?」

「アンタ、胸毛ないの」

「・・・はぁ?ないよ、そんなモン。僕は特に毛深くもないし」

「使えないわね」

「何さ、それ。大体西洋人じゃあるまいし、そんなに生えないよ」


そう言ってシンジは足を伸ばした。
その拍子に頭を凭せ掛けていたアスカはずり下がってしまった。
肘で体を支えて、彼女はくるりと反転して彼の伸ばした足に腕と頬を乗せて見上げた。
再び足に掛かった重みにシンジが眉を顰めてそちらを見た。
アスカとシンジはしばし見つめ合った。


「・・・今度は何?」

「・・・ねえ、シンジ」

「ん?」

「アタシにキスしたい?」


見上げる少女の瞳はどこまでも本気だった。
その言葉と視線にまんまるく目を見開いて声を失った少年をじっと見つめた。
少年のハーフパンツの裾をぎゅっと掴み、身を乗り出そうとした。
それに僅かに少年が身体を引いた。


「・・・ア、アス・・」

言い掛けたところで玄関が開く音がして、ただいまー、と明るい女の声がした。
顔を赤らめていたシンジがその声に反応して戸惑った風に首を巡らせた。
しかしアスカは彼が誤魔化そうとしているのを許さず、更に身を乗り出し、膝立ちして彼に
覆い被さるように覗き込もうとした。


「たっだいまーっ!今日のご飯は何かしらー・・・・・ありゃ?」


リビングまでやって来たミサトが間抜けな声を出して静止した。
シンジはこの空間を包む沈黙に急かされるようにしてあたふたとアスカから逃れて立ち上がり、
ミサトにおかえりと言いながらキッチンへと足早に去っていった。
頬をバラ色に染め不満そうに口を尖らせた少女がゆっくりと保護者役の女の方に顔を向けた。


「・・・ひょっとしてイイトコだった・・・?」

「どうしてアンタって人は、そう間が悪いの。アタシに何か恨みがあるの?」

「あっはっはー・・・ごめんちょ」

「フン、別に構やしないわよ。どうせこんなのただの気紛れなんだから」


そう言って少女はシンジが座っていたところに腕を乗せて顔をうずめた。
ミサトはその様子を見て彼女の脇に腰を掛けて、鈍く燃えるような色の髪をそっと撫でた。


「どうしたの。何だか弱気じゃないのよ」

「・・・だってアタシもう17になるのよ。アイツはあと1年と少しでこの家を出てくだろうし・・・
それにアタシもママが帰って来ないかって言ってきてるもの」

「アスカのお義母さんが?」

「ドイツと日本で別れちゃったらもう会うことなんてなくなるのよ。たとえ再会の約束を百遍したってね。
アタシはライバルの顔を拝むこともなくアイツを取られるんだわ。それでアタシの方も今は顔も知らない
ような誰かと一緒になるのよ。だからもうどうだっていいの・・・」


あとたった1年恋人ごっこ、兄妹ごっこをしてそれでお別れなのだ。
混血の美しい少女は絶望に身を浸してその吐く溜息も切なげに顔をソファーに押し付けた。


「ふーん・・・でもその話、わたしは少し違う風に聞いてるけど」

「・・・どんな風に」


くぐもった声でアスカが訊ねた。


「いやね、司令から聞いた話だと、シンちゃんと一緒にドイツの大学に通わないかとか、
あっちでホームステイしないかとか、少なくとも一度は顔を見ておきたいとか。
そんな感じの話だったけど?」


ガバッと勢いよくアスカが顔を上げた。
その表情を覆っていた絶望がみるみる内に消え去っていった。


「・・・アタシ、早とちりした?」

「そうみたいね。ま、よくやるけど」

「うるさいわね。誰だって欠点くらいあるわよ」


すっかりいつもの顔色を取り戻した彼女は、ふー、と息を吐きながら再びソファーの上に顔を乗せた。
顔を横に向け頬っぺたをぴったりとつけて姉代わりの女の豊満な尻を眼前に眺めながら、
アスカは僅かに鼻をくすんと鳴らした。
こうしたやり取りは大体2日に一遍はある。
アスカは恋しいシンジに向かってひた走るかと思いきや、次の瞬間にはふたりの関係を悲嘆したり、
感情のぶれが激しくおよそ不安定な様子だったが、30歳を過ぎたミサトにとってみれば
恋の迷路に迷っているただの女の子の姿そのものに映った。
最近ではからかいよりアドバイスの方が先に口をついて出て、そんな自分の姿に
葛城ミサトともあろうものがこれでは形無しだと苦笑しながらもしかし、やはり年若い妹分が可愛かった。


「さって、アスカの心配事も消えたことだし、今日のご飯は何なのかしら?」

「今日はカレイよ」


そう答えたアスカの腹がキュウと鳴った。








「姉さん、もうビールは駄目だよ」


涼やかな風貌をした少年がこっそりと冷蔵庫を開けようとしていた盗賊の背中に忠告を投げ掛け た。
盗賊は背を流れる艶やかな黒髪を手ですくってしなを作りながらあでやかに振り返った。


「・・・そんなことしても駄目。はい、これ仕舞って」


しかし少年は成熟した大人の女性の魅力をまったく意に介さず、手に持っていたショウガやポン 酢を
彼女に渡した。


「シンちゃんのいけず」

「いけずで結構。お腹がぶよぶよになっても知らないよ」

「なる訳ないでしょ。わたし、糖分をハジク体質なの」

「はいはい。リツコ義母さんの論文にでも採り上げてもらえば?」


手を泡だらけにして食器を洗いながら、背中でそんなやり取りを聞いていたアスカは、
シンジが保護者役の女をミサト姉さん、あるいは単に姉さんと呼ぶようになったのは
いつ頃からなのだろうと不思議に思った。
彼女が気が付いた時にはもうそうして呼んでいたので、
多分自分が入院している間にふたりの間で取り決めが交わされたのだろうと思うが、
何となくふたりから疎外されたような気がして初めは面白くなかった。
彼女の場合は姉と思っていようがいまいがミサトはミサトと呼んでしまうので、
取り残されたような気分にさせられたのだ。
ふたりの親密さも気に食わなかった。ひょっとしていかがわしいことでもあったのではと
かつてそれはしつこく追求したところ、ふたりの間に一度だけ濃厚なキスが交わされたことを
知ったアスカは、一週間程憎しみを込めてむっつりと黙り込んだ。
その後いくつかの彼女の持ち物と彼の持ち物が破壊され、彼の身体に赤い腫れや引っ掻き傷を
作ったあとでようやく機嫌を直した彼女は、寛大にも彼らの間の姉弟契約を認めてやったのだ。
そんな経緯を思い出していたアスカの肩口から、突然耳朶を撫でるような声がして、
彼女は鳥肌を立てながら飛び上がった。その時皿を手に持っていなかったのは幸いだったが。


「なっ、何すんのよ!」


勢いよく振り返りながら真っ赤に顔を染めたアスカは不埒者の方へ指を突き付けた。
その拍子に彼女に声を掛けた少年の頭や顔や胸のそこかしこに真っ白な泡が飛び散った。


「あー・・・ゴメン。あとで紅茶飲むかって訊こうとしたんだけど・・・」


情けない調子でシンジはいつも威勢のいい少女に弁解した。
一体自分が彼女の奔放な行動の余波から逃れられる日はいつか来るのだろうかと
泡が乗っかった頭の中でふとそんな思いが過ぎった。


「あ、紅茶?うん・・・飲みたいけど・・・シンジ、先にシャワー浴びた方がいいわよ」

「それが賢明だろうね」

「・・・ゴメンね?」


アスカが上目遣いに恋しい少年の情けない顔を見上げて謝ると、
彼は優しく微笑んで彼女に答えた。


「構わないよ。僕はこういうことに関してはオーソリティーだから」


アスカは少し失礼な彼の言葉に微笑みを返して、彼の鼻の頭の泡をその細い指で掬い取った。


「あら、自惚れないでよね。アタシはまだまだアンタの知らない秘密で一杯よ?」


そのまましばし見つめ合う少年少女を端から眺めていた姉代わりの葛城ミサトは、
溜息を吐いて天井を見上げた。


「・・・若いってのはイイわよねぇ」







洗い物も終えて、シンジが風呂から出てくるまでリビングのソファーで待つことにしたアスカの 横に、
ミサトがビール片手にドスンと腰を下ろした。
先ほどのシンジの注意を守っていない保護者の姿に眉を顰めたが、アスカは放っておくことにした。
どの道言うことを聞きはしないし、あの甘い少年も結局許してしまうのだ。
だからいつまで経ってもこの女は新しい恋人も作らずこの家に腰を据えているのだ。
そう考えてアスカは今は亡きドイツ時代のガードの顔を思い出した。
実際にはドイツでもそれほどいつもべったりくっついている訳でもなかった。
ただ口を開けば気さくな感じで接してくれるし、容貌も彼女にとっては好ましく映ったものだから
自然頼れる大人の男性として憧れるようになったのだが、当時ミサトには悪いことをしたと
彼女は今更ながら悔恨した。そのことだけに限らず、もう少し自分がわきまえて行動することが
出来ていれば、その後の事態は様変わりしていたかも知れないのだ。
陰鬱な表情で溜息を絞り出したアスカの頭を、横からミサトがぽんぽんと軽く撫でた。


「なーに暗くなってんのよ。美人が台無しよ」

「別に・・・ただ昔のアタシってホントバカだったなって失望してただけ」


自嘲するような笑みを浮かべて投げ遣りにそう言った妹の態度に、
ミサトは内心胸が詰まる思いがしながらも、彼女の頭をバシンと音高く叩いた。
突然の姉の暴挙にアスカがきっと睨みつけると、その視線を受け止めもせず
ミサトは彼女の首に腕を巻きつけてグイグイと締め上げた。


「ちょっ、何すんのよ!放しなさい!」

「あ〜ん?ションベン臭いガキが何生意気言ってんの?
あんたが馬鹿だったことなんて誰だって知ってるわよ。今更たそがれてんじゃないわよ!」

「・・・・・何よう」


その言葉にアスカは情けなくなって唇を噛み締めた。でないと何かが壊れてしまいそうだった。


「でもね、あんた以外のみんなだって同じようにお馬鹿揃いだったのよ。
自分だけが責任背負ってるみたいな顔して浸ってんじゃないってのよ、まったく」


ミサトは愚かな妹の赤茶けた髪の毛に顔を埋めながら言葉を続けた。


「でもあんた、あれから少しはマシな人間になったでしょ?
他のみんなだって、わたしやシンちゃんだって毎日頑張ってるでしょ?
あんたのその青い目がビー玉じゃなくてちゃんと物事が見えてるんなら、
いつまでも過ぎたことをくよくよ悩んでるんじゃないわよ。
さもないとケツ蹴っ飛ばしてでも考えを改めさせるわよ」


アスカは目を瞑ってこの一回り年上の女の言葉を噛み締めていた。
彼女の言う通りだ。あれから時間は流れて行き、皆変わろうと必死になってきたではないか。
自分だって懸命にそうしてきたのではなかったのか。
ミサトの首筋に顔を埋めて、彼女はこの優しい姉の柔らかい匂いで胸を一杯にした。


「・・・うん。ゴメン」

「そりゃシンちゃんの決め台詞よ?」

「ぷっ、く、確かに。アタシってば、らしくなかったかしら?」

「まあまあ、いいんじゃないの。若いうちに色々迷っとくのがいいのよ。
あんたのお尻が青いうちならいざって時に蹴っ飛ばして方向転換させてやるから」

「アタシのお尻は青くないわよ」

「んー?そうかしらん?それじゃひょっとして赤いのかしらね」


よいしょっと、と言いながらミサトはアスカから離れて再びビールを口に運んだ。
燃え立つような髪を手で梳いて撫でつけていた少女は、この途方もなく強い―強くなった―女の横顔を
じっと見つめた。


「悪かったわね、ミサト」

「いいってことよ」


こちらの方が余程この少女らしい謝罪の言葉に片手をひらりと振り上げて、
頓着なげに女は好物を呷った。


「ところでアスカ。あんた、蒙古斑なかったの?」

「知らないわよ、そんなこと」







蛇口を捻ると熱い湯がノズルから噴き出した。
産まれたままの姿をした少年はそれを頭から浴びてぼたぼたと滴る水流を眺めながら
肺一杯の溜息を吐いた。
こうして3人で暮らし始めておよそ3年だ。
あの常軌を逸した混乱の後、父親はそれまでの全ての陰をかなぐり捨てて皆の為に邁進した。
釈然としない思いはあったが、そんな父だったから彼は許すことが出来た。
何といっても唯一の肉親であり、結局はシンジは父を愛していたのだ。
赤木リツコと一緒になることに関しても素直に祝福が出来た。
もはや母のことをどうこう言っても仕方がないし、それで皆が幸せになるのなら
悪くはないと思ったのだ。彼らと一緒に暮らすことを拒んだのはこの少年一級の照れの為だった。
曲りなりにも父とリツコは新婚夫婦になるのだし、10年の月日を越えて家族を再開しろと言われても
戸惑いが先に立った。父も義母も悲しそうな顔をしたが、ここは自分の我侭を通させてもらって
彼らとは別に暮らすことにしたのだ。
加えてそれまで共に暮らしていたふたりの女性とも別れようと考えていたのだが、
ここでそのうちのひとりである葛城ミサトから猛反対を受けた。
数度に渡る交渉と怒鳴り合いの末、彼は結局それまで通り3人で暮らすことを受け入れた。
必死に自分を説得してくれたミサトの心遣いは嬉しかったが、しかしシンジには一つの懸念があった。
その時は入院していたもうひとりの少女は決して自分を許すまいと考えていたのだ。
彼女抜きで話が決まってしまい、ひとまずふたりだけの新しいマンションでの生活が始まったが、
早晩同居生活は破綻することになるだろうと憂鬱な気持ちを押し殺しながら少女の看病を続けた。
その頃の彼女は弱弱しい病人の風情など露ほども見せず、
実に傍若無人で我侭で、乱暴な態度でもって彼に接した。
思うにあれは彼女の赦しの過程だったのだろうと後々になってからシンジは理解するようになった。
彼女なりの葛藤と昇華を経て、自分への憎しみを乗り越えて正常な関係を取り戻そうとしていたのだと
そう考えたシンジは彼女に対して尊敬の念を抱いて、彼女の為に様々に尽力した。
健康を取り戻して家に戻ってきた彼女は、以前よりもずっと穏やかで優しかった。
無論、生来の気性が激しいことには変わりはないのだが。
だが、しばらく経つうちにシンジは違和感に気付くようになった。
彼女は彼に対してかつてよりはるかに優しくはなった―喧嘩も頻繁にするのだが―が、
一方で始終ちょっかいを掛けたりからかったり、あるいは纏わりついたりしてくるようになったのだ。
共に大人へと成長していく時期にあって、彼女の無遠慮なじゃれつき方は
彼にとっていささか悩みの種でもあった。
彼女は女性で、彼は男性だ。
シンジは彼女のことが好きだったし、また魅力溢れる女性だと理解もしていたので、
彼女の少しひんやりとした柔らかい身体やいい匂いのする髪が自分に触れる度に
落ち付かない気分にさせられて戸惑いを覚えた。
どうして彼女はこんなにも無遠慮なのか。あるいは戸惑う自分を見て楽しんでいるのか。
そこだけが目下シンジがアスカに対して抱いている唯一の不満だった。
身体を洗い終えたシンジは、泡を落とす為にシャワーを肩から流し掛けた。
この誠実で生真面目な少年の最大の問題点は、
アスカが自分に友情以上の好意を抱くことなどありえないと考えていることだった。








「もうすぐあんたの誕生日ね、アスカ」


ミサトが食後二本目のビールを傾けながらアスカへ話し掛けた。
愛しい少年を待ちわびてじりじりと髪を弄っていた少女は、
今思い出したといった具合に目を丸くして姉の方に振り返った。


「ああ・・・そういえばもうそんな時期ね」

「何よ、そっけないわね。プレゼントの要望があるなら今の内に言っといてね。
サプライズがいいならこっちで勝手に選ばせてもらうけど」


そう言ってぐびりと旨そうに喉を鳴らしてビールを飲み下した女に、
アスカは苦笑しながら答えを返した。


「別に気を遣わなくたっていいのよ」

「気なんか遣ってないけど?我侭言ってもいいわよう。少々高くたって構わないから」


優しいミサトの言葉にアスカは首を傾げながら顎を指で押さえて思案した。
別段欲しいものというのはないのだが、と考えながらもひとつだけ彼女は要望を思い付いた。


「あ、あのさ、ミサト。だったらひとつお願いがあるんだけど・・・」

「んー。よいよい、言うてみい」

「誕生日の日か、その周辺。家、空けてくれない?」


その要求にビールを傾けていたミサトの動きが止まった。


「・・・アスカちゃん。それはちょっとばかし大胆なおねだりなんじゃないの?」

「え、ああ、いや別に一晩中帰ってくるなって言ってる訳じゃないのよ?
ただしばらくの間だけアタシとシンジの・・・その」

「ふたりきりの時間が欲しいと」

「ええ・・・そんな感じかしら・・・」


片眉を上げてミサトは一回り年下の少女の顔を見た。
髪の色と同じように真っ赤に染まった頬の上で、潤んでキラキラした青い瞳が輝いていた。
彼女の細い指がもじもじと髪の毛の先を結い合わせていた。
枝毛を作るのが趣味なのかしらと思いながら、承諾の返事を期待している彼女に向かって口を開いた。


「んー、お姉さんとしては不安だけど・・・」

「お願いよ、ミサト。別に変なことなんてしないから!」

「ふんふん。まあ、そんな必死にならなくっても。何も頭ごなしに駄目だって言う訳じゃないの よ。
それに実はその件に関しては頼まれるまでもないんだけど」

「・・・どういうこと?」


黒髪の女と赤毛の少女がひたと見つめ合った。
と、その交錯する視線に耐え切れなくなったのか、年かさの女の方が照れを誤魔化すように
突如後頭部を掻き毟りながら捲し立て始めた。


「いや何ちゅーかその、あんたの誕生日とわたしの誕生日、近いじゃない。
だからちょうど上手い具合にその辺に予定が収まったというか、ここんとこ知らないうちに色々あって、
あれよあれよという間に、ね。つまりはあれだ。アスカ、分からない?」


覗き込むようにミサトの方に身を乗り出していたアスカは何かを察したのか目を見開いて身体を 引いた。
その妹の様子にビール好きの女は益々照れ臭そうに口を尖らせた。


「ミサト、アンタ、それって・・・」

「いやまあ・・・人生、生きてりゃ稀なこともあるもんだっていうか・・・」

「へ、へぇ・・・よ、よかったじゃない」

「う、うむ・・・問題ない・・・」

「・・・日向さんもコレのドコがいいのかしら」

「それを言われるとキツイんだけど・・・って、アスカ。何で分かったのよ」

「誰だって分かるわよ、そんなモン。んじゃ、とうとう観念したのね」

「観念ってあんたねぇ」

「・・・加持さんはもういいの?」


アスカが不意に声を落としてミサトに問い掛けた。
その様子を察したミサトも表情を改めて妹を真摯に見返した。


「いいのよ。あいつはわたしの中にいるんだから。これは誰にも消せないし否定出来ないこと よ。
それが分かってるからもう大丈夫なの。わたしも、あいつも。日向君もね」

「そう・・・」

「だからあんたも頑張んな、アスカ。あいつもどっかでタバコふかしながら見てるわよ。
みっともないとこ見せられないでしょ。女の子は恋に全力でぶつかるものよ?」


ミサトが頭を撫でると何故かアスカの目から涙が零れ落ちた。


「馬鹿ね、泣くんじゃないわよ。あんたの泣き方きったないんだから。シンちゃんに見られちゃ うわよ」


ずずっと鼻を啜って震えながら微笑もうとした少女の顔を見ていると、
ミサトも鼻の奥がむずむずと堪らなくなって、思わず顔を真ん中にぎゅっと寄せた。


「うっく、フ、フフ、何変な顔してんのよ、ミサト。しわくちゃじゃない」

「う、うるさいわねぇ。あんたがめそめそしてるからじゃない、もう。鼻水拭きなさいよ」

「アンタもよ、ミサト」


ふたりはののしりあいながらティッシュを沢山ゴミ箱へと送り込んだ。
そうしてしばらく経ってから、ミサトはこの日帰ってきた時にアスカを悩ませていた事柄に関して
訊ねてみることを思い付いた。


「ねえ、アスカ。一応訊いときたいんだけどさ。あんた、ドイツに帰ることどう思ってんの。
何か夕飯前は勘違いして泣いてたみたいだけど、ゆくゆくは考えなきゃいけないことでしょ」

「な、泣いてなんかないわよっ」


強がる少女の顔を眺めながらもミサトは重ねて訊ねた。


「で、どうしたいと思ってんの。あんたもお父さん達と仲直りしたことだし、
そこら辺、考えてみたんじゃないの?」

「・・・考えたけど」

「ど?その先が聞きたいのよ。隠さず言って御覧なさいな」


優しく促すと、アスカはクッションを抱え込んでそれに顎を押し当てながらぽつぽつと喋り始めた。


「アタシだってパパとママとやり直したい気持ちはあるし、この国じゃなくてドイツの方がやっぱり
慣れてるのは確かで・・・帰りたいって気持ちはあるわよ。もう一度、今度こそパパ達と家族として
過ごす為なら・・・でも、ドイツに帰ったらシンジがいないんだもの」

「ふむ。だから涙に暮れてたのね」

「もう、しつこいわね。ねえ、アンタが言ってた司令の話ってシンジは知ってるの?」

「いや、知らせてないみたいよ、まだ。でも来年には大学のことも考えなきゃいけないし、
留学させるって点では司令は悪くないと思ってるみたいね。別にもう危ないこともないし。
アスカの御両親のところで見てもらえるなら逆に頼みたいくらいなんじゃないの。
ま、それもシンちゃん次第だけど、わたしが訊いてるのはその後の話なのよ」

「・・・分かってるわよ。アタシは・・・ドイツに帰りたいけど、シンジがいないならどこだっ て一緒だわ」

「あら、あの人となら世界の果てまでも、って感じかしら。じゃあ、留学の話は置いとくとし て、
シンちゃんがその後こっちで暮らすと言ったらアスカもついてきたいってことなの?」

「う・・・ん、でも、アタシとシンジは何でもないんだもの。そうなったらアタシは一緒にはい られない・・・」


そう言ったきりクッションに顔を埋めて黙り込んだ妹の赤い髪を見ながら、
ミサトは結局問題はそこになる訳かと頭をぽりぽりと掻いた。
何ともじれったいことだが、自分自身それほど器用な人間でもないし、
一体どうやってこの可愛い妹を焚き付けたらいいか、その奇想天外なアイディアを
時に生み出すことのある灰色の脳細胞を働かせてみた。
弟の方を焚き付けるのは、はっきり言ってミサトは諦めていた。
彼はおよそこの方面に鈍い少年だったし、そもそも男の考えていることがよく分からない。
何故彼がアスカの熱烈な好意を信じるどころか、まるで想定もしないのか、
30数年生きてきた彼女にも皆目検討もつかなかった。
昔は確かに色々あったが、もうそれも過去の話だし今では端から誰が見たって
この少女と少年の未来はひとつしかないように思えるのに、彼だけがそうは考えていないのだ。
ここであの不精髭の男がいれば少年に色々諭してくれるかも知れなかった―加えて余計なことまで
教えそうな気もした―が、彼はもういないし、周りの他の大人の男達は彼ほどこの方面に達者ではない。
どちらかといえば女の味方であるミサトは、目の前で悲嘆に暮れて顔をうずめている少女の姿に
少年への義憤と何とかしなくてはという使命感と、それから温かい母性のようなものが込み上げてきた。
小さなものは皆可愛い。小さくなって震えている存在は抱き締めてやりたい。
身長からいってアスカは既にミサトよりも大きかったが、女性的なふくよかさという面ではやはり劣り、
いかにも少女的な線の細さを露呈しているその震える白い肩に、女は腕を廻さずにはいられなかった。
ミサトは、アスカの肩を優しく抱きながら事態打開へ向けて脳へ血をせっせと送り込んだ。


「ねえ、アスカ。物事にはね、時機ってものがあると思うのよ」

「時機?」

「そう。あんたとシンちゃんはね、わたしも他のみんなもお似合いだと思うけど、
正直言って離れ離れになって時間が過ぎちゃうと、結ばれることは難しいと思うの」


アスカは膝を抱え込み、クッションを胸と膝の間に挟んでその上に頬杖をついて顔を手で覆った。
残酷なことを言っていると胸が痛んだが、ミサトは続けて言った。


「でも例えば3年前だって、きっとあんた達は結ばれる時機じゃなかったんだろうし、
これから3年後に初めてふたりが出会ったんだとしても、やっぱり上手くいかないんじゃないかと思うの」


紅茶色の長い髪をゆっくりと梳きながら、ミサトは語り掛けた。


「今しかないと思うのよ。今この時を逃したら、きっとあんた達はお互いに相手のことを胸に刻みながら、
まったく別の人間と人生を過ごすことになるんじゃないかってわたしは思うわ」


何故だかあの不精髭の男の苦笑が目に浮かぶようだった。


「でもどうすればいいの?アイツってば全然気が付いてなんかくれないのよ。
このままだったらアタシがドイツに帰ったってアイツ、てんで堪えやしないのよ。
それでアタシのいないところで知らない女の子の胸に飛び込むんだわ」


再び鼻を啜りながら、アスカがくぐもった声を上げた。


「そうね。だからさ、頭で分からないんなら身体で分からせるのよ」

「・・・・・」

「あの通りニブチンだからね。ジャブを一発食らわせて、
頭が真っ白になったところでとくと思い知らせてやるのよ。
アスカがいかにシンちゃんを愛してて、シンちゃんにとって大事な女の子かって。
あの子は不意打ちに弱いんだから、そうなったらもうこっちのものよ」

「・・・・・」


黙って聞いていたアスカは、鼻を啜りながら考えてみた。
確かにこの姉の言うことも乱暴だが一理あるかも知れない。
いや、それどころか何だかこれしか事態を打開する方法はないような気さえしてきた。
少女は手で覆っていた顔をキッと上げた。


「どう?やる気になった?」

「・・・なった」


決意に満ちた妹の顔に、ミサトは不敵な笑みを浮かべてティッシュを差し出した。


「じゃあ、グズグズ言わせてないで鼻かみなさい。シンちゃんもそろそろお風呂から上がってくるわよ」

「フン、見てなさいよ、シンジ。アンタなんかアタシに掛かればひと飲みよ!」


ちょっと表現が微妙ねと思いながら、ミサトは3本目のビールのプルタブを開けた。









シンジが浴室から出て、身体を拭き終わり服を身に付けてリビングへと戻ろうとすると、
ちょうどそのリビングへ続く薄暗い廊下にアスカが壁に背をつけて俯いて立っていた。
少女の表情は長い髪に隠されて見えなかった。
一体何をしているのだろうとシンジが声を掛けながら彼女に近づいた途端、
彼の首にその華奢な腕がしっかりと巻きついてきた。
突然のことに目を白黒させながら、シンジは慌ててそれを振り解こうとしたのだが、
見かけよりずっと力強い彼女の腕を放すことは容易ではなく、乱暴も出来ないので
彼は為す術もなくそのまま壁に押さえつけられてしまった。


「アスカ・・・?」


呼び掛けると、俯いて彼の胸に顔を埋めていた少女が上を見あげた。
睫毛に縁取られた彼女の青い瞳はほの暗いその場所で妖しい炎を燻らせて
彼の黒い瞳を覗き込んでいた。


「どうし・・」

「黙って」


アスカは少年の言葉を短く遮り、益々腕を締め付けて身体全体で押さえつけてきた。
硬い壁と柔らかい少女に挟み込まれたシンジは身動きが取れないまま
拠り所なく腕をわたわたと動かした。
細い指でシンジの湿った髪を挟み弄びながら、アスカは悪戯っぽく笑みを浮かべた。


「ねえ、ご飯の前に、アタシにキスしたいかって訊いたわよね?」

「それは・・・」


シンジは何か答えようとしたが少女の視線に気圧されるように言葉が途切れ、ただ頷きを返した。


「まだ答えを聞いてないわ。アタシはアンタにキスをしたいの。アンタはどうなの?」


呆然と彼女の言葉を聞いていたシンジは、ああ、とか、うう、とか何か唸り声を上げただけで
まともに答えを返すことも出来ず混乱したまま彼女から目を逸らした。
その態度にアスカはムッとしたが、ここで叫んでも始まらないので予定通りの行動を取ることにした。


「でもいいわ。アタシは我慢するのがキライなの。だから欲しいものは今すぐもらうわ」


そう言って彼女が爪先立ちに背伸びをして、自分の柔らかい唇を彼の唇に押しつけた。
しっかり廻された腕は微かに震え、彼女の身体は今や完全に彼に密着して支えられていた。
何が何だか分からなかったシンジだが、長い長いキスの間に手の置き場にどうにも困り、
とうとう少女の細くくびれた腰におずおずと添えた。
そのくすぐったい感触にアスカは飛び上がりそうになったが、じっと我慢して彼の口を吸い続けた。
唾液に濡れた口付けの味は何とも奇妙な生温かい人間の味で、
ミサトやあるいはアスカとの数度のキスの経験はあるシンジだったが
これほど長く、艶かしい触れ合いは初めてだったので、彼の意思とは別に
早くもその曖昧な官能に飲み込まれ、否応なく惹き込まれていった。
控えめに腰に宛がわれていた手は自然と動き、片方の手は少女の髪の中に滑り込むようにして
背を押さえ、もう一方の手は尾てい骨の上の窪みに彼女の身体を引き上げるようにして当てられていた。
混乱し、また口付けの熱でぼんやりと虚ろになった頭の中で、シンジはそれでも
この少女を離したくないという気持ちが湧き上がるのを感じていた。
そして、どうやらありえないとこれまで彼が思ってきた事実が、彼女の心の中に実は確固として
存在していたらしいことをおぼろげに悟って、シンジは控えめに、しかし恍惚として少女に応えた。
アスカは少年の反応に鼻で鳴き声を上げながらもキスを続けていたが、
爪先立った足が疲労に震えて限界まで来ていたので、名残を惜しみながら濡れた唇を離した。
再び顔の距離が開いたふたりは言葉もなくじっと見つめ合った。
お互いの瞳には狂おしい愛情が溢れていた。


「即断実行は美徳だけど、これはちっとやり過ぎじゃないの?」


突然聞こえてきた呆れを含んだ声に、シンジは驚いて声の主を振り返った。
そこには壁に肘を突いて寄りかかり、ビール片手に突っ立っているミサトの姿があった。
慌てて何かいい訳をしようとしたシンジだったが、上手い文句を思いつく前に
相変わらず首に腕を巻きつけてぴったりと引っ付いているアスカが口を開いた。


「言いたいことはそれだけかしら、ミサト」

「ああ・・・いや、まだあるけど」

「そう。でも後にして。紅茶でも淹れててよ。今忙しいの」

「でしょうね。けど出来れば今はこれ以上忙しくして欲しくないんだけどね、お姉さんとして は」


その言葉にアスカは鮮やかに笑みを浮かべて言葉を返した。


「大丈夫。アタシもそこまでバカじゃないし、今はこれで十分よ。だからもう一回・・・」


言葉を切ると同時にもう一度、アスカは背伸びをしてシンジに顔をぶつけた。
逃げようもなく少年は甘んじて二度目の口付けを受け入れた。
彼らの姉は、愛すべき妹と弟の求愛行動に苦笑しながらビールの缶を持ち上げて一気に呷った。


「んじゃ、ごゆっくり。あんまりはしゃいじゃ駄目よ」


そう言い残して彼女はリビングへと戻っていき、再び薄暗い廊下にアスカとシンジだけが残された。
このキスが終わったら今度こそ彼の返事を聞かせてもらわなくては、と少女は考えた。
それから自分の愛も思い知らせてやるのだ。
もう絶対に離したりしないと想いを込めて首に廻した腕を締めると、少年も息苦しいほど抱き締めてきた。
ふたりの少年と少女の心はひとつになって、お互いを求め合いながら
今はただ甘美な触れ合いに夢中になった。


ところで、この企みが上手く運んでいる中でアスカはひとつ問題を見つけた。
どうにも身長差があって背伸びする足が疲れる。
誕生日に欲しいものを言えというミサトの言葉を思い出して、彼女はちょうど思い付いた。
ハイヒールを買ってもらおう。
それなら少なくとも外でならキスするのに苦労しなくて済むかも知れない。
もうそろそろ一人前のレディになるんだし。
そうと決まれば、と彼女はこのうっとりする触れ合いの後に
どうやって彼に話し掛ければいいか、その言葉を考え始めた。
ゆっくりと慎重に、また微笑みながら。





fin



リンカさんからほんわかLASをいただきました。

日常的な時間の雰囲気がよいですね。

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