もともとあたしが可愛げのない性格だってことは分かっている。
だから、たまには女の子らしいことをしてみせてポイントを稼ごうとか、そういう思惑があると勘繰られても仕方がない。実際あるのだから。少しはね。
といっても、もちろん誰に対してもそんなことをするわけじゃない。
すべてはいとしの彼(きゃっ)のためだ。
けれど問題は、あたしがとことんまで細かい手作業に向いていないということ。
どんどんこんがらがって無様な格好になっていく毛糸の塊を膝に乗せたあたしは、天井に向かって力いっぱい叫んだ。
「あーん、もういやぁー!」
あたしが編むのは、あなたへの恋
(続・チョコレーター・チョコレーテスト)
そもそも彼氏の碇シンジへのプレゼントに手編みのマフラーを贈ろうと考え付いたのが無謀だった。
なぜって、あたしは編み物なんかしたことはないし、学校の
家庭科でさせられた刺繍でさえこの世の終わりのような出来だからだ。そのときは可愛いクマの絵柄を刺繍したつもりだったのだけど、それを見たパパからのコ
メ
ントは「E.T.?」だった。当然そのあとママが失礼なパパを退治してくれたけど、それくらいあたしは手芸には向いていないってこと。ちなみに、密かにク
マシンジと命名されたその刺繍は机の引き出しの奥にしまわれている。
さて、それなのにどうしてこんな無謀な挑戦をしているのかといえば、それはシンジのお母さんのせいだ。おばさんはあたしと違って手芸が得意で、よくレー
ス編みをしたりシンジやおじさんのセーターを編んだりしている。
ちょうど一年前のバレンタインデーの少し前、あたしがご近所のシンジの家を訪れた際、テー
ブ
ルに広げられていた編み物の本を覗き込んでいるところをおばさんに見つかってしまった。そのとき、どうもおばさんはあたしが編み物に興味を持っていると勘
違いしたらしい。実際には、自分の壊滅的手芸センスは分かっていたので、「あたしもこんなの作ってシンジにプレゼントできたらな」と憧れと諦めが綯い交ぜ
になったため息を吐いていたのだけど、勘違いしたおばさんはそれ以来しきりとあたしを手芸の道へ引き込もうとするようになった。特に、バレンタイン当日に
感動的な告白を経て(あたしはいまだにそのときのことを思い出しては叫び出しそうになる)、あたしとシンジが正式に付き合うようになってからは。
確かにおばさんくらい見事なセーターやマフラーが編めたら、さぞや誇らしい気持ちになれるだろうと思う。手編みセーターなんて格好悪いと最近
生意気を言うようになったシンジとは違って、おじさんなんて真冬ともなれば、喜々としておばさんの手編みセーター、マフラー、手袋、ニット帽でその身を固
める。
シンジはその様子を面白おかしく教えてくれるし、事実あたしも面白がって聞くのだけど、でも、こんな風にも思う。
おばさんは好きな人に着てもらいたいと思えばこそ一生懸命に編む。おじさんも好きな人が編んでくれたものだからこそ喜んで着る。こういう素直で素朴な気
持ちって、とても素敵なことなんじゃないかしら、と。
そこですとんと罠に落ちた。そう、罠だ。
こんな風な素敵な考えにすっかり魅了されてしまったあたしは、身の程知らずにも、まんまと碇家の戸を叩いたのだ。お正月が終わってすぐのことだった。
編み物を教えて欲しい(ついでに教本も貸して欲しい)と頼んだときのおばさんの表情ときたら、ほとんど舌なめずりせんばかりだった。もちろん、おばさん
があたしを食べちゃうつもりだからじゃなくて……、息子のシンジに食べさせるつもり(きゃーっ!)だからだ。
あたしとシンジが付き合うことを喜んでくれているおばさんは、初心者で要領の悪いあたしに丁寧に編み物の基本を教えてくれ、練習用の毛糸と棒針までくれ
た。もともとあたしのことを気に入ってくれていたのだけど、この一件でいっそう心証がよくなったらしく、シンジの家へお邪魔するとまるで家族の一員のよ
うに扱われるようになってしまい、少しくすぐったいような戸惑いを覚えている。
あたしがシンジへのプレゼントとして選んだのはマフラーだ。理由は一番簡単で早くでき上がりそうだったから。猶予はひと月ほどしかない。それに、おばさ
んに弟子入りしたからといって、あた
しの絶望的手芸センスが劇的に向上するはずないし、現在中学三年生の冬で高校受験を間近に控えた身としては、編み物にばかりかまけているわけにはいかな
い。
たとえ大・大・大好きなシンジのためであったとしても。あたしはそういうけじめがないのが嫌いなのだ。
ともかくこうして、おばさんから借りた本に載っている手本に従って、鮮やかな青色の毛糸を使い、あたしはマフラーを編み始めた。青色の手編みマフラー
を巻いたシンジの姿が見たい一心で、あたしは燃えていた。ほんの気紛れなんかじゃない。彼が喜ぶと思えばこそ、苦手な編み物にも本気で挑戦する気持ちに
なったのだ。
が、三日目にあたしはかんしゃくを起こした。一日目はまだ最初だからと言い聞かせていた。二日目も慣れればもっと上手く行くようになる、と。でも、三日
目。どう見たってもつれた毛糸の塊以外の何ものでもないシロモノを前に、ついにあたしは泣き言を漏らしてしまった。
たとえシンジのためだろうとなんだろうと、苦手なものは苦手なのだ。天井に向かって叫んだあと、棒針を投げ出したあたしは青色のマフラーのなりそこねを
乱暴にほどき始めた。せっかく苦労して編みかけたものをほどいてしまうくらい惨めなことってない。
やっぱりあたしにはこんな地味な手作業は向い
ていない。もう二度と編み物なんてやるもんか。どうせシンジにはマフラーをプレゼントするつもりだったことは伝えていないのだから、バレンタインと付き合
い始めて一周年のお祝いは何か別のものに変えればいい。そうしよう。もう決めた。
まだほとんど形になっていなかった青色のマフラーは、あっという間にただの毛糸に戻ってしまった。これで苦手な編み物から解放される。ああ、せいせいし
た。
でも、急に後悔があたしを襲った。
マフラーを編みながらあたしが考えていたのは、シンジの喜ぶ顔ただそれだけだ。確かに不器用なあたしにとって編み物は簡単な作業じゃない。けれど……決
してそれがつらかったわけでもない。むしろ編んでいる最中は幸福でさえあった。大好きな人のために何かをしているという充足感。自分の作ったものを大好き
な人はきっと喜んでくれるはずだという期待感。そんなものであたしは満たされていた。
たった今やめると決意したばかりなのに、あたしは投げ出したはずの棒針をもう一度拾い、毛糸で輪を作り、そこに二本重ねた針を通して、また一からマフ
ラーを編み始めた。
あたしが編もうとしているのはいわゆる一目ゴム編みマフラーという初心者向けの簡単なものだ。毛糸の輪に針を通してマフラーの端の部分に当たる作り目を
編む。そこから一目ゴム編みで長く伸ばしていき、最後に伏せ止めをすればマフラーができ上がる。一目ゴム編みとはようするに裏編みと表編みというのを交互
にするだけ。全体を通して非常に単純な作業だ。
ところが、何度も繰り返すようだけど、その簡単な作業があたしには難しい。これがおばさんならあっという間に編み終わってしまうだろうけど、あたしの場
合、受験勉強の合間の休憩時間に少しずつ編んでおり、しかも手際がいいとは到底いえない腕前なので、恐ろしく進みが遅い。
それでもどうにかバレンタインデーには間に合わせなければいけない。どうせならあたしたちの気持ちが通じ合って一周年の記念日(うっとり……)に渡した
いし、バレンタイ
ンを過ぎるとすぐにあたしの志望校の入試が始まってしまうからだ。
結局、その日は何度もやり直した末に作り目を編み直したところで針を置き、あたしは勉強に戻らざるを得なかった。
青い色の毛糸を選んだのは、シンジが好きな色だから。どうして好きなのか理由は知らないけど。
もちろん、あたしも青って好きよ。明るく晴れた空とか、どこまでも広がる海とか見ると気持ちがいいし、何よりシンジが好きって言うんだもの。あたし自身
が
一番好きなのは赤だけどね。
中学校も受験が間近になってくると、段々雰囲気が硬くなってくる。生徒もそうだし、教師だってみんな緊張気味だ。まあ、無理もないんだろう。
でも、そんな緊張などどこへやら、朝のあたしはいたってご機嫌だ。なぜって、シンジと手を繋いで登校できるのだから。硬くなるどころかあたしの心は毎朝
ふにゃふにゃの状態で始まる。
「んふふー」
「今日もご機嫌だね、アスカ」
あたしと手を繋いで歩くシンジが言った。
「んー? うふ、まあねー」
シンジの顔を横目で見て、あたしは繋いだ手をにぎにぎしながら答えた。手を繋いで一緒に歩くというただそれだけのことが、この気持ちを温めてくれ
る。
含み笑いをするあたしを見て、おかしそうに笑うシンジの口から白い息が吐き出された。男にしては色白の頬が赤く染まっている。今朝がとても寒いせいかし
ら。それともあたしと手を繋いでいるせいかしら。
あたしの頬が赤いのは、もちろんシンジと手を繋いでいるせいだ。繋いだ手を大きく前後に振り、ぴょんぴょん飛び跳ねてあたしは言った。
「シンジの手、あったかい」
「僕は冷たいよ。手袋をしちゃ駄目なの?」
「ダーメ」
繋いでいるほうの手だけわざわざ手袋を外すよういつも要求するのはあたしだ。確かに外気にさらされた手は冷たいけれど、せっかく手を繋ぐんだから、じか
に触れ
合いたい。シンジの肌の感触はとても気持ちがいいから。これはシンジ相手にだけ感じる不思議な感覚で、あたしはこの感覚をすごく気に入っていた。
そういうことは、彼だってきっと感じているはずだけど、恥ずかしがり屋なので口にはしてくれない。でも、照れ屋なシンジも可愛いから好きよ。
一年前までは、あたしたちはただの仲のいい幼馴染で、お互いへの片想いを抱えて悶々とした日々を過ごしていた。関係を発展させたいけれど、現状を壊すの
が怖くて一歩を踏み出せず、友人としての気安さの陰に思慕を隠すのが精一杯だった。
そんなあたしたちが去年のバレンタインデーに、ついに勇気を振り絞って一歩を踏み出したのだ。それも二人同時に。
翌日、幼馴染から恋人同士になったあたしとシンジは一緒に登校した。二人が仲のいい幼馴染だということを(それからお互いが好きだということも)ずっと
隠していた中学校生活では、一緒に登校するのは初めてのことだった。もうこれからはあたしたちの仲を隠す必要はない。むしろみんなに見せつけてやりたい。
世界中の人たちにだって宣言してやりたい。「これがあたしの好きな人よ」って。
そして、あたしはシンジと恋人になって初めての朝、長年の夢を一つ叶えた。シンジと手を繋いで歩くという、ずっとずっと望んでいた夢を。最初のうち
彼は恥ずかしがってかなり抵抗したけど、手を触れるたびにその抵抗が剥がれ落ちるのが分かった。彼の手の中であたしの指が身じろぎするたび、彼は離さない
ように
きつく握ってくれた。ためらいがちに指を絡めると、もう二度とあたしたちは離ればなれにはならないという幸せな予感に満たされた。
その日以来、ほぼ毎日あたしたちは手を繋いでの登校を続けている。
「くわーっ。朝から見せ付けてくれるのー、この二人は」
下品な声が後ろから聞こえてきたので振り返ると、シンジの友達の鈴原トウジがあからさまにげんなりとした表情でポケットに手を突っ込んで歩いていた。
「おはよう、トウジ」
「おお、おはようさん。にしてもセンセ、毎日毎日よー飽きまへんな。こっちは目ぇの毒でっせ」
「じゃあ見るのやめなさいよ」
「アホか。嫌でも目に入るんじゃ。お前の頭は遠くからでも目立つねん」
どうもこの鈴原トウジとあたしは馬が合わないというか、いつも売り言葉に買い言葉の応酬になってしまう。相手にそれほど悪意があるわけじゃないと思うの
だけど、お互い口が悪くて向こう気が強い性格をしているせいなのだろう。
アホと言われてかちんと来てしまったあたしの手をシンジが軽く引いてなだめてくれる。シンジのこういうところもすごく好き。鈴原には逆立ちしたってでき
ない心配りよね。
「まあ、わしから見たら惣流がシンジを鎖で繋いで引っ張り回しとるようにしか……あ痛っ!?」
ぺらぺらと腹の立つことを言う鈴原の後頭部を振り抜かれた手提げカバンが直撃した。やったのはあたしじゃない。大袈裟に後頭部を押さえた鈴原が振り返っ
た先には、可愛らしく両手でカバンを提げ、にこにこと笑うお下げ髪の女の子が立っていた。
「ちょ、いきなり何すんねん。堪忍してぇな、いいんちょ」
「おはよう、アスカ、碇くん」
「おはよ、ヒカリ」
あたしの親友の洞木ヒカリはあたしとシンジに挨拶をし、鈴原を無視してこちらに並んだ。
「って無視かい、こら」
「あら、いたの、鈴原?」
わざとらしく目を丸くしたヒカリが振り返ると、鈴原は殴られた後頭部を掻きながら、何ともいえない表情になった。
「そりゃないで、いいんちょ」
「わたしの名前はいいんちょじゃないわよ」
そっけなく鈴原に返すとヒカリはあたしに顔を向け、悪戯っぽく歯を見せて笑った。さっすがヒカリ。あたしではこうは行かない。案外この二人はお似合いな
んじゃないかしらという気もするけど、本
人たちがどう思っているのかは今のところあたしもシンジも知らない。
「そんなん、いいんちょはいいんちょやもん」
ふてくされたようにぶつぶつ言う鈴原にシンジが声をかけた。
「大丈夫、トウジ?」
「あかんー。頭蓋骨陥没や。もう一歩も歩かれへん」
「もうちょっとで学校だよ」
「それまで持たん。シンジー、わしのこと負ぶってくれー」
「バカ言ってんじゃないわよ。あんたホモ?」
思わずあたしが口を挟むと、すかさず鈴原は憎まれ口を返してきた。
「バカ言うなやアホ。ホモなわけあるか。お前には男の友情が分からんのじゃ」
「くーっ、ムカつく奴ね」
シンジ相手とは随分態度が違うじゃないのよ。やっぱりホモなんでしょ。シンジが可愛いからってふざけるんじゃないわよ。絶対渡さないわよ。
「まあまあ、まあまあ」
ヒカリとシンジの両サイドからなだめられ、あたしはどうにか深呼吸して気分を落ち着けた。
「なあ、シンジ。お前に男の友情が分かるなら、こないな荒っぽい女はほかしてわしと行こ」
やっぱりムカつくわ。
「んー、ごめん、トウジ。今はちょっと無理」
幸いあたしのシンジは悪魔の誘惑に乗せられて不実を働くような人ではないので、ちゃんと断ってくれた。彼の手を両手でぎゅうっと握り締めたあたしはにっ
こりと勝利の笑みを浮かべた。不実だなんて大袈裟ですって? でも、あたしは片時だってシンジから離れていたくないんだもの。
「ちぇ。惣流とくっついてから付き合い悪いわ、シンジは」
「別にアスカが一緒でも話はできるじゃないか」
「あかん。そりゃあかん。男の仲っちゅうのはそないな柔なもんやない」
「何よそれ、男、男ってさっきから。やっぱりホモなんでしょ」
「せやからちゃうゆーてるやろ!」
鈴原はあたしに親友を取られたようで面白くないのだろう。とはいえ、あたしとシンジが付き合い始めたことによるやっかみの激しさに比べたら、こんなもの
はじゃれ合いといっていい。本当に付き合い始めた当初は大変だったのだ。シンジもあたしも嫌がらせされたり根も葉もない噂を流されたりしたし。さすがに一
年も経つと収まったけど。
学校が終わると、あたしはまたシンジと手を繋いで下校した。さすがに学校の中ではシンジが恥ずかしがるので我慢したけど、校門を出たらすぐさま彼の手を
捕まえて、手袋を剥ぎ取ってから、ぴったり手のひらを密着させるように繋いだ。すると、手袋を奪われて寒かったのか、シンジが無言で自分のコートのポケッ
トに繋いだ手を突っ込んだ。
彼の横顔は少し赤く染まっていた。いつまでも恥ずかしがりは治らないのね。
「えへへ、こうすればあったかいね」
「うん」
真っ暗なポケットの中で、少し汗ばんだあたしの手がしっかりとシンジの手に包まれていることがよく分かり、くすぐったくて、あたしのくすくす笑いはいつ
までも止ま
らなかった。
その日はシンジの家に寄っていった。彼と一緒に勉強をする約束をしていたし、おばさんとも少し話をしたかったからだ。
二階のシンジの部屋でコートを脱いでカバンを下ろし、おばさんが温かい飲み物を作ってくれるというので、それを取りに行くことを口実にして、あたしは一
人で台
所へ向かった。
「あら、アスカちゃん。わざわざ取りに来てくれたの? あの子を使ってくれたらいいのに」
おばさんは紅茶を淹れるためのお湯を沸かしているところだった。台所に入ってきたあたしを振り返り、優しい笑顔を向けてくれる。
「ううん。あたしがおばさんと話したかったの」
「ま、嬉しい。近ごろはシンジもあんまりお話してくれないのよ。反抗期かしらねぇ。うちのお父さんは昔からあんなのだし、ミーちゃんはシンジの言うことし
か聞かないし。もうおばさんの味方はアスカちゃんだけだわ」
芝居がかってそう言うと、おばさんは目尻にしわを作りながら目を細めた。おばさんがあたしを気に入ってくれ、優しくしてくれるのは嬉しいのだけど、どう
もこういう対応をされると一つ一つ退路を断たれていっているような気分になるのは、なぜなのかしら。
「で、お話って?」
「あ、編み物のことなんだけど、おばさんから借りた針はいつ返せばいいですか?」
「別に返さなくたっていいのよ。余ってたのなんだし。第一、まだ編んでる最中なんじゃないの?」
「自分でちゃんと買おうと思ったんです。だから……」
借り物の針で編み上げるより、きちんと自分で用意した針でシンジに贈るマフラーを完成させたい、というのはあまりに感傷的なこだわりだろうか。
あたしの言葉を聞いたおばさんは大きく笑って言った。
「ああ、アスカちゃんったらもう、なんて可愛いのかしら」
笑われたことに怒ればいいのか、可愛いと言われたことに喜べばいいのか分からず、あたしは結局変な表情でおばさんの言うことを聞き流した。
火にかけたやかんが音を立てて沸騰したことを報せる。おばさんは火を止め、用意していたティーポットにお湯を注いだ。
「いいのよ。おばさんがあげた針も持ってなさい。でも、アスカちゃん。もう編み物なんてしてる暇はないんじゃないの? 一月も半分終わっちゃったし、うち
の子なんかのために時間を使うことはないのよ。アスカちゃんが受けるところ、難しいんでしょう。第一志望は清心女子だったっけ?」
片頬を手で押さえて心配げに言うおばさんに、あたしは首を横に振ってみせた。
「はい。でも、大丈夫です。模試の判定はAが出てるし、勉強の合間の休憩に編んでるので。気分転換にもなるし。それにパパとママも、きちんとやることを
やってるなら構わないって」
「しっかりしてるわね。頭もいいし。あの子もアスカちゃんくらい優秀ならねぇ」
お盆の上にポットとカップを載せておばさんがため息を吐く。
「そんなこと。第三付属もレベル高いですよ。それに、シンジはしっかりしてる、と思います……」
「あらまあ。のろけられちゃったわ」
おばさんのからかうような口調にあたしは耳まで真っ赤になった。でも、いくらおばさん相手でもシンジの弁護はちゃんとしなくちゃ。あたしの自慢の彼氏な
んだも
の。
「ま、第三付属も共学の中ではね。清心には敵わないけど。でもアスカちゃん、バカ息子と同じ高校じゃなくて寂しくはない?」
「いいんです。あたし、そういうので妥協したくないんです」
「本当にしっかりしてる。うふふ、でも本音はどうなのかしら。今だけおばさんに打ち明けてみない? 少しは寂しいでしょ」
「……ちょっと」
おばさんに迫られてあたしはつい本音を漏らしてしまった。俯いた視線の先に、あたしが零した呟きがころころと寂しそうに転がるのが見えるようだった。
本当は寂しいに決まっている。せっかく付き合うことになったのに、高校に入れば毎日一緒にはいられなくなるなんて。でも、彼氏と一緒にいたいから志望校
のレベルを落とすなんて、プライドが許さなかった。シンジが受ける第三付属高校も共学ではトップレベルだけど、あたしは彼と付き合うようになる以前から、
県下一レベルが高い女子校の清心を受けることに決めていた。いまさらそれを翻すなんて、しかも色恋がその理由だなんて、自分自身でも到底認められなかっ
た。下らないプライドかもしれない。もっと感情のままに行動しても構わないのかもしれない。でも、あたしにはそれができなかった。
もちろん、別々の高校に通うことになったとしても、この想いが色褪せることなんてあり得ない。そういう意味では、心配などする必要はないのだ。
「うふふ。正直でよろしい。あら、シンジ、いつからそこにいたの?」
「えっ!?」
おばさんの言葉にびっくりしたあたしが身体ごと振り返ると、ドアの隙間から半分身体を覗かせたシンジがこちらを窺っていた。
「いやその、遅いなーと思って……、ごめん、部屋で待ってるから」
あたしと目が合ったシンジはうろたえ、あたふたと二階へと駆け戻っていってしまった。あのバカ、盗み聞きなんてみっともない真似して。あとで叱りつけて
やる。
「やれやれ、これじゃアスカちゃんとゆっくりお話もできないわね。ほらほら、アスカちゃんもそんな怖い顔しないの。あの子が待ちくたびれてるから、早く二
階に上がってあげなさい」
はいどうぞ、とおばさんは用意したお盆をあたしに差し出した。ティーポットとカップ、ボウルにはバウムクーヘンが入っている。
「ありがとう。おばさん」
「階段には気をつけてね。あと次からは荷物運びはバカ息子にさせるのよ」
「はい」
「それじゃ、お勉強しっかりね」
と、おばさんは釘を刺すのも忘れない。あたしはにっこりと笑ってそれに応えた。
お盆をひっくり返さないよう慎重に階段を上り、ちょっとお行儀が悪いけれどつま先でシンジの部屋のドアをノックすると、シンジが少し気まずそうな表情で
ドアを開けて、お盆を受け取ってくれた。
「母さんと何話してたの」
「こら、先に謝りなさいよ。盗み聞きしてごめんなさいって。あたし、こそこそするのは嫌いよ」
「盗み聞きなんかしてないよ。アスカを呼びに行ったら二人で何か話してたから」
「ふーん。本当に何も聞いてないのね?」
「本当だよ」
座卓は二人並んで座れるほど大きくない。L字に向かい合うシンジの顔をまじまじ見つめてあたしが問い詰めると、彼は目を逸らさず首を横に振って否定し
た。
本当に聞かれていなければいいのだけど。
いつもは同じ高校へ行けないことへの寂しさを見せたりはしない。自分でも意地を張っていることは分かっているのだけど、これはもう性分というほかない。
あたしだって彼氏に甘えたい気持ちはある。でも、弱みを見せるようで抵抗があるのだ。
それにもう一つ、シンジへプレゼントするために編み物に挑戦していることも、彼にはまだ秘密にしておきたい。どうせならびっくりさせてやりたいか
ら。マフラーを受け取ったシンジはきっと喜んでくれるし、あたしにも女の子らしいところがあると見直してくれるだろう。それがきっかけで何か嬉しいこと
(きゃあっ!)が起こったりするかもしれないし。
とにかく、ここは一応シンジの言葉を信じてあげることにしよう。
「それならいいわ。でも、どうしてここで待っていなかったの?」
小首を傾げて訊ねると、シンジは少し目を泳がせて言った。
「だって、遅かったから」
「そんなに待たせちゃった、あたし?」
「うん。すごく待った」
恥ずかしそうに目を伏せるシンジの頬は赤く染まっていた。
もうずっと昔から思っていたことだけど、どうしてこいつってば男のくせにこんなに甘えるのが上手いのかしら。このあたしを待ちわびてじりじりしながら、
じっと一人
この部屋で我慢しているシンジの姿を想像すると、とてもドキドキする。痛いほど求められていることに胸を突かれる。そして、自らの中にも同じくらい強い気
持ちがあることを見つけて、胸が一杯になって叫び出したくなる。
でも、その気持ちがあまりに強すぎるので、身を任せてしまうのが怖くて、あたしはいつも踏みとどまる。
「もう馬鹿なことばっかり言うんだから。まだ問題集もノートも出してないじゃない。ほら、早く出しなさいよ。お茶はあたしがしてあげるから」
ポットからカップに紅茶を注ぎ、シンジへ差し出す。その間にあたしは気持ちを落ち着ける。今はとにかく、勉強を始めなくちゃ。そのためにこうしてシンジ
の家に来たんだから。
「アスカ」
シンジがあたしを呼んだ。顔を上げると、彼がこちらへ向かって身を乗り出してくるところだった。
「な、何よ」
彼は答えず、ただ顔を近づけてきた。その魂胆は分かっている。こんな風に顔を近づけて見つめてくるのは、キスをしたいときだ。
普段は恥ずかしがり屋のくせにこういうことはちゃっかりしたがるんだから。もしかしてシンジってすごくエッチなのかしら。大体これから真面目に勉強をし
ようというときにキスだなんて不謹慎だわ。何考えてるのかしら。
とかなんとか考えつつ、仕方がないのであたしは彼の唇に軽くキスをした。
「はいっ。今はこれだけ」
「……けち」
「ふざけてると怒るわよ、シンジ」
「分かったよ。もう言わない」
わざと目を吊り上げて怒った表情を作ると、シンジは両手で降参のポーズをして引き下がった。
まったくもうっ! せっかくのキスをこんなムードもないときに迫るだなんて。これでも恥ずかしいのを我慢しているのよ。そりゃあたしだってキスとか嫌い
じゃないわ。本当のところかなり、いや、すっごく大好き。でも、好きだからといって、いつでもどこでもすると思われるのは心外よ。シンジはあたしの彼氏な
んだか
ら、ちゃんと気を遣ってもらいたいわ。
「うなーん」
ベッドで丸くなっていた三毛猫のミーちゃんがそばに近づいてきて、あたしの脚に小さな顔を載せた。
「ごめんね、ミーちゃん。今は遊んであげられないの」
「にゃあ」
「こら、ミー。あっち行ってな」
聞く耳持たずとあたしの脚の上に這い上がろうとしているミーちゃんをシンジが強引に手で払いのけた。その拍子に彼の指先があたしの太ももをスカート越し
に掠めていく。
「ごめん、アスカ。ミーが邪魔だから部屋の外に出してくるよ」
「う、ううん。大丈夫よ。集中してればミーちゃんがいても気にならないわ」
「そう?」
「ほら、始めましょ。最初は三十分よ。分からないからって一つの問題で詰まったりしたら駄目だからね」
「そのあと答え合わせしようね。じゃあ、ミー。邪魔するなよ」
「みゃーお」
ミーちゃんの鳴き声はどこか遠い。問題集の真っ白なページにずらりと並べられた数式や図形を見つめながら、あたしは落ち着こうと必死だった。
ああもう、顔が赤いのバレてないかしら。バレてるわよね。シンジには平気な顔をしてみせたけど、実はキスのせいでかなり動揺していたのよ。そこを不意打
ちなんかされたらたまらない。
卑怯だ
わ。シンジのくせに生意気よ。偶然指が当たったくらいでこんなにあたし
をドキドキさせるなんて。
一月も後半に入った。入試まで残すところあと一ヶ月だ。
シンジに贈るマフラーはすでに五割がた縫い進んでいた。とりたてて工夫が必要ということもない単純作業の繰り返しなので、大きな失敗をしない限りは二月
に入るまでには無事できあがるだろう。
夕ご飯を食べてから二時間ほど集中して勉強し、休憩がてらコーヒーを淹れるためにキッチンへ移動した。コーヒーを淹れる用意にがちゃがちゃやっている
と、ダイニングを挟んでひと繋がりになっているリビングのほうからママの大声が聞こえてきた。
「アスカー。コーヒー淹れるのー?」
「そうよー」
「ママのもお願いー」
「はーいー。パパはー」
「パパは今お風呂ー。パパのも作っておいてあげてー」
「りょーかーい」
淹れ終えると、自分とママの分のカップをリビングへ持っていった。あたしからカップを受け取ったママが言った。
「ありがと、アスカ。休憩にするの?」
「うん。ちょっとね」
ソファに腰を下ろしたあたしが答える。
「パパのあと、お風呂に入る?」
「ううん。お風呂はもうちょっとしてからにする」
「そ」
熱いコーヒーをひと口啜り、隣に座るママは優しい顔になって言った。
「志望校には入れそう?」
「うん。大丈夫」
あたしは頷き、それから一つあくびをした。
「頑張るのはいいけど、無理しちゃ駄目よ。身体を壊したりしたら元も子もないんだから」
「大丈夫よ。ちょっと眠くなったから休憩にしたの」
あたしはもう一つあくびをし、ぼんやりした頭をしゃっきりさせるために熱くて苦いコーヒーを口に含んだ。
シンジと付き合うようになって変わったことの一つが、ふとした拍子に彼のことを考える機会がずっと増えたということだ。それも漠然とした彼への思慕を思
い巡らすのではなく、たとえば今何をしているのかなとか、勉強頑張っているのかな、居眠りとかしてないかな、お風呂にはもう入ったのかな、といったことを
具体的なイメージとともに思い浮かべるのだ。
付き合い始めた当初は、本当に何も手に付かなくなるくらいシンジのことで頭の中がいっぱいになって、そんな自分をコントロールするのにしばらく苦労した
ものだ。たぶん、彼と恋人同士になれたという現実をまだ上手く自分の中で処理しきれなかったのだろう。ようするに舞い上がっていた、といってもいい。
もちろん、今はそんなことはない。勉強に集中しているときもそういった思考は一切シャットダウンされる。
でも、やっぱりふとした拍子にシンジのことを想い、あたしは何ともいえない気持ちになる。
大きなため息を吐き出したあたしを見て、ママは心配そうに言った。
「ねえ、やっぱり疲れてるんじゃない?」
「あ、違うの、ママ。勉強のことじゃなくて」
手をひらひら振ってあたしが否定すると、ママは得心した顔になった。
「ははん。それじゃシンジくんのことね」
あたしがシンジと付き合っているのは当然ママも承知している。けど、あたしだってシンジや勉強以外の考えごともするのだから、こうやって決めつけないで
欲しい。そりゃ、確かに今はシンジのことを考えていたけど。
「ねえ、ママ。あたし、このままシンジと結婚することになるのかしら」
この言葉を聞いたママは弾かれたように笑った。
あたしとしては別にふざけたつもりはない。ごくごく自然な疑問が口をついて出ただけだ。それを大笑いされるのだから、当然あたしは腹を立てた。
しばらく笑っていたママもこちらの表情に気付いたのか、取り繕うように咳払いをした。
「ごめんごめん。笑っちゃ悪かったわね。確かにそうなれば素敵なことだとは思うけど。アスカはどう思う?」
問われて考えた。でも、結婚という状況があまりに飛躍しすぎていて、自分でもよく分からない。確かにこのままずっと一緒にいたいと望んではいるし、そう
なればいずれ結婚という問題に直面す
ることになるだろうけど、当然のことながら今すぐの問題ではない。ただ、そういう方向へ今自分が確かに向かっている、というおぼろげな感覚が足を竦ませ
る。
「分かんない。ただ、考えてたら何か気が遠くなるっていうか」
「ため息が出ちゃう?」
「そうなの」
ママはあたしの横にぴったりとくっつくと、肩に腕を回して引き寄せてくれた。
「あっちゃん。マリッジブルーには十年早すぎるわ。心配しなくても今を一生懸命楽しめばいいの」
「今を?」
「そうよ。第一、十年先にどうしてるかなんて誰にも分からないじゃない。それこそ、シンジくんとはもう付き合ってないかも」
「そんなことないもん」
あたしはむっとして否定した。シンジと別れるなんて考えられない。それだけはあり得ない。
「分からないわよぉ。他の人を好きになっちゃうかもしれないし、シンジくんが浮気するかも」
「シンジはそんなことしないもん!」
むきになってあたしは叫んだ。いくらママでも聞き捨てならない。
でも、ママはあたしの抗議に軽くかぶりを振って答えた。
「もののたとえよ。先のことは分からないってこと。だからこそ、今を大切に過ごさなくちゃいけないの。未来は『今日』の積み重ねの先にあるんだからね。マ
マの言うこと、分かる?」
「それは分かるわよ。でも、シンジは浮気なんかしないからね」
「はいはい。ママが悪うございました」
本当に失礼しちゃうわ。
「やっほー。上がったよ。お、アスカ、休憩してるのか。パパにもコーヒーある?」
お風呂から出てきて、ぺたぺたと足音を立てながら後ろから近づいてきたパパのお気楽な声に、あたしはぐるりと首を巡らせて答えた。
「あるよ。キッチンに」
「お、サンキュー。じゃあパパも飲もうかな」
なぜか頭に手ぬぐいを巻いているパパは、自分専用の甘ったるいカフェオレを作りにご機嫌な足取りでキッチンへ向かった。
あたしは隣のママにこしょこしょ訊ねた。
「なあに、あの頭に巻いてるやつ」
「昨日出張で行った京都でお会いした先生に頂いたんだって」
「手ぬぐいを?」
「そ。有名な織物らしいわよ。見せびらかしたいのよ。『それどうしたの』って質問してあげなさい。喜ぶから」
「パパって子どもみたい」
あたしの感想を聞いたママはにっこり微笑むだけで何も言わなかった。
金髪碧眼でイースター島のモアイみたいな顔をしていて、パジャマの上に綿入れ、額に手ぬぐいという、人となりを知らない他人が見たらさぞやシュールに思
わ
れるだろう出で立ちのパパは、リビングに戻ってくるといそいそと
あたしの隣に腰を下ろした。
「じゃーん。いいだろ」
「あっ、パパだけずるい!」
パパはコーヒーと一緒にどら焼きをいくつか持ってきていた。どら焼きはパパの好物だ。日本へ来てしたかったことの一つが、アニメでしか知らなかったあの
ドラえもんの大好物を実際に食べることだったらしい。
もちろん、あたしもどら焼きは大好きだ。
「アスカも食べるか。でも、太っても知らないぞぉ」
「成長期だからいいんだよーっだ。一個食べよっ」
テーブルからどら焼きを一つ掴み取り、袋を破ってかじりつく。うん、このどら焼きはいいどら焼きね。
そんなことより、どうでもいいけど甘甘のカフェオレにあんこたっぷりのどら焼きって合うの、パパ?
「ママも食べたら?」
「ううん。ママはいいわ」
ママは残念そうに首を横に振った。本当はママだってどら焼きが好きなくせに。
「心配しなくても、結婚してからママは1キロだって太ったりしてないよ」
甘党のパパがいかにも美味しそうにどら焼きを頬張りながらママに言った。
「嘘でしょ、パパ」
すかさずママが言い返す。
「うん、まあ嘘だけど。じゃあ僕と半分こしよう。このどら焼きはね、生地が絶品なんだよ。食べないと絶対損する」
「はいはい。分かったわよ。じゃあ半分だけ」
「僕が割ってあげるよ」
新しく袋を破ったどら焼きを半分に割ったパパは、ママの口へその半欠けのどら焼きを持っていった。
「やだわ。自分で食べられるわよ」
と言いつつ、ママもパパが持つどら焼きに手を添えながら、そのままかじった。
また始まったわ。別にパパとママの仲がいいことそれ自体は構わないのよ。ええ、仲睦まじくて大変結構。娘のあたしにも嬉しいことだわ。でも二人とも、あ
たしを真ん中に挟んだままだってこと、忘れてるんじゃないの?
ずずず、とあたしの立てるコーヒーを啜る音が妙に大きく虚ろに響いた。
「あら、本当に美味しい。アスカももっと食べたら?」
「あたしもそうしようと思ってたとこ」
テーブルから二つ目のどら焼きを引ったくり、袋から出してあたしは大きく噛みついた。美味しいじゃないのよ、このやろー。
両親に挟まれて甘いどら焼きをもぐもぐやっていると、ママといちゃつくのを一休みしたパパが肩を上下させながらあたしに言った。
「ねえ、アスカ、お願いがあるんだけど。ちょっとパパ、肩が凝ってるから揉んで」
パパとママの肩揉みは昔からあたしの仕事だ。だから、今回も素直に聞いてあげようと思ったのだけど、あたしが返事をする前にママが口を挟んだ。
「こら、パパ。駄目よ。アスカもお勉強で疲れて休憩してるんだから」
「そっか。パパにはアスカの揉み方が一番いいのにな」
パパは残念そうに言い、首を左右に傾けたり、肩を上下させたりして、いかにも肩が凝っていると見せつけた。
もう、しょうがないパパね。
「いいわよ。肩もみもみやってあげる。ママもしてあげようか?」
「あら。それじゃお願いしようかな。お礼にお夜食……は今どら焼きを食べてるのか。それじゃ、明日の夕飯はアスカのリクエスト聞いてあげる」
「やった。じゃ、ハンバーグお願い」
「はいはい。ハンバーグね」
ソファの後ろに回りこみ、パパの肩を掴む。あたしの小さな手ではパパの分厚い肩はとても掴み切れないのだけど、それでも揉んであげると、決まってパパは
気持ちよさそうにする。大人っていつも肩が凝っているのね。本当にこんなのが気持ちいいのかしら。そう考えながら、あたしは肩を揉む手に力を入れる。
「気持ちいい?」
「ああー、最高。もっと強くてもいいよ」
「ところでさ、パパ。その頭に巻いてるの、どうしたの?」
「え、これ? ふっふっふ。なかなかいいだろ、この手ぬぐい。京都の人からもらったんだけどね……」
と、額から外した手ぬぐいを広げてみせ、得意げに話し始めたパパの言葉に相槌を打ちつつ、パパとママ二人に肩揉みの奉仕をし終え、さらにあたしはどら焼
きを三つも平らげたのだった。
おなかがぽっこり出たりしたら、みっともなくてシンジに会えなくなるわ……。
あたしは今、泣いている。
シンジのバカヤローが浮気したからだ。
放課後のことだ。シンジと一緒に帰る約束をしていたあたしは、待ち合わせの下駄箱前へ向かって一階の渡り廊下を歩いている途中だった。
同じクラスなのだから、いつもなら教室からそのまま一緒に帰るのだけど、その日はたまたまシンジが先生に用事があって、十分くらいで終わると言うので、
あたしは下駄箱で待つことにしたのだ。
シンジが職員室へ向かってから、少しの間教室で友達とおしゃべりをし、待ち合わせにあたしのほうが遅くなってしまいそうだったので、慌てて教室を出た。
校舎を鳥瞰すると渡り廊下によって繋がったL字の形をしていて、長い辺に当たる校舎の二階にあたしたちの教室があり、短い辺の校舎の一階に下駄箱がある。
あたしはまず一階に下り、そこから校舎を移動するため渡り廊下を急ぎ足で歩いていた。
渡り廊下の中ほどまで来たとき、ふと先ほどまでいた校舎を横目で振り返ったのは、理由あってのことではない。あとから考えてみれば、それは直感のよう
なものだったのかもしれない。
あ、とあたしは声を上げそうになった。一階の廊下に沿って並ぶ窓ガラスの向こう側にシンジの姿を見つけたのだ。ちょうど職員室を出たところだろう。カバ
ンを提げたシンジはこちらへ向かおうとしていた。
シンジはあたしには気付いていない。立ち止まったあたしは、このまま動かず彼を待つか、それとも引き返して彼のもとへ行くか迷った。
ところが、その一瞬の逡巡の間に、あたしの目には信じられない光景が飛び込んできた。歩いているシンジの後ろから、一人の女生徒が小走りに駆け寄ったの
だ。呼び止められたシンジは振り返り、立ち止まって彼女に笑いかけた。シンジはあたしにはなかば背を向けるような形で、横顔しか見えないけれど、その分女
生徒はこちらに正面を向けることになるので、その表情がよく見えた。女生徒はわずかに背の高い相手を見上げる格好で、まっすぐにシンジと向かい合ってい
た。心から嬉しそうな表情で、シンジのことを見つめていた。
二人はいくつか言葉を交わし、楽しそうに笑い合った。二人がどんな内容の言葉を交わしているのか、あたしには当然分からない。でも、シンジの笑顔は、い
つもあたしに向けているものと変わらない気がした。どうして彼があたし以外の女の子に対してそんな表情ができるのか、理解できなかった。
あたしは縫い付けられたようにその場から動けなかった。頭のどこかから出される、彼のもとへ走り出せ、大声を上げろ、という命令にもかかわらず、あたし
の口や足は
凍りついたままだった。
女の子はあたしやシンジとは違うクラスの生徒で、ショートヘアで儚げな雰囲気を持つ綺麗な子だ。直接話したことはないが、綾波レイという名前はあたしも
知っていた。彼女がシンジと同じ天文部員だということも。もちろん、三年生のこの時期なので、もう引退はしているけれど。シンジたちとは違うクラブに所属
していたあたしは、二人がこんなに仲がよさそうにしていることなどまったく知らなかった。
これがみみっちい嫉妬だということは理性では分かっている。たかだか女生徒の一人と会話しているだけじゃないか。まさかあたし以外の女との接触を禁じて
いるわけでもない。友人と接すれば会話も弾むだろうし、会話が弾めば笑顔にだってなるだろう。ごく当たり前の、何でもないことだ。
このように理性では分かっていても、自分の中で嫌な気持ちが広がるのを止められない。それでも何とかこの嫉妬を押さえ込もうと努力したのだけど、次に目
に飛び込んできた光景に、そんな気持ちはすべて吹き飛んでしまった。
それまで綾波さんと楽しそうに話していたシンジが、突然前に動いた。あたしの目からは彼が完全にこちらに背を向け、綾波さんに覆い被さるような格好にな
る。綾
波さんと
シンジの顔
が一瞬だけ限りなく近づいたように見え、それからぱっと離れた。
そのあとシンジはさらに二言三言綾波さんに言葉をかけてから、手を振ってまた歩き出した。その場に留まってシンジの背中を見送る綾波さんの顔は上気し、
潤んだ瞳には心からの思慕が
込められていることが見て取れた。
今、シンジが綾波さんにキスをした?
それがどういうことか分かった途端、あたしは身を翻して走り出した。シンジもこちらへ向かってきている。あたしと下駄
箱で待ち合わせしているからだ。でも、あたしはもう待つつもりなんてなかった。下駄箱に飛び込み、掴み取った自分の靴に乱暴に足を突っ込
み、わき目も振らず学校を
飛び出した。
あたしはずっと走り続け、家に着いて玄関を開けてもまだ止まらず、廊下を駆け抜け、自分の部屋に飛び込んでから、ようやく走るのをやめた。額に汗を浮か
べ、肩で息をし
ながら、立ち尽くすあたしは手に提げたカバンを取り落とした。どさっ、という音が耳を打ち、そのあとは荒い息遣いと心臓が血液を送り出す音だけがあたしの
頭を
いっぱいにする。
しばらくそうしていたあたしは部屋がひどく寒いことに気付き、暖房をつけてコートを脱いだ。制服から着替えもせず、ベッドを背もたれにして床に腰を下ろ
し、毛糸が引っ掛からないよう中に布を敷いた籐の
バスケットを手元に引き寄せ、そこから編みかけのマフラーを取り出して膝に乗せて、続きに取りかかった。
もう随分この作業にも慣れてきたとはいえ、最初の何回か棒針の運びを失敗し、それからあたしは調子を取り戻して規則正しくマフラーを編み始めた。一心不
乱に、でも徐々に針さばきは乱暴になっていく。
ふと、膝の上に乗せられた青色の毛糸の上に透明なしずくがぽたぽた落ちていくのが視界に映った。
透明なしずくの正体はあたしの涙だ。いつの間にかあたしは泣いていた。いや、もしかすると学校を飛び出して走っている最中にも、気付かなかっただけで、
すでに涙を流していた
のかもしれない。
一旦自覚してしまうと、涙は止まらなくなった。あたしは鼻をすすり上げ、嗚咽に咽びながら、涙に沈んでぼやけた視界の中でそれでも縫い進もうとするけ
ど、針は何度も毛糸を潜り損ない、そのたびに悔しくて新しい涙があふれ出た。
ちくしょう、とあたしは思った。ちくしょう。悔しくて、悲しくてたまらない。
こんなにシンジのことが好きなのに、この身が張り裂けそうなくらい、言葉ではとても言い表せないくらいに大好きで大好きでたまらなくて、それはきっと彼
も同じだと信じて疑わなかったというのに、どうしてこんなことになるのだろう。
一年。想いが通じて付き合い始めてからたった一年だ。これほど簡単に心変わりしてしまうほどシンジの気持ちは軽いものだったのだろうか。それとも、そも
そもこの一年間は初めから嘘だったのだろうか。
何より悔しいのは、こんなに手酷く裏切られ傷つけられても、なおシンジのことを好きな気持ちは変わらないということだ。そして、変わらないからこそいっ
そう悲しく、つらかった。
あたしは縫い続けるのをついにやめ、青色のマフラーを握り締めて、わんわん泣いた。大切な大切なマフラー。シンジの喜ぶ顔が見たい一心で一生懸命に編ま
れてきたマフラーをあたしは膝の上でぎゅうときつく握り締め、ぽたぽたと次から次にしたたり落ちる涙のしずくで濡らしていった。
その日、シンジから何度も掛かってきた電話や送られてきたメールをあたしはすべて無視した。家に帰ってからしばらくあとになって何度かインターホンが
鳴ったような気もしたけど、それも無視した。
泣き腫らして真っ赤になった顔で夕飯の席に現れたあたしを見てママは仰天した。シンジと喧嘩したとだけ説明するとそれ以上問い質すようなことをせず、マ
マはあたしを優しく気遣い慰めてくれた。
幸いなことにパパは仕事で帰りが遅く、あたしの泣き顔を見たのはママだけだった。シンジのことを個人的には気に入っているとはいえ、あたしが彼と付き合
い始めたと知るとパパはちょっとショックを受けたようだった。そんなパパが今のあたしの有り様を目の当たりにしたら、一体何を言い出すか分かったものでは
ない。きっと激しく怒ってシンジと別れろとか二度と会うなとかそういう無茶を言い出すに違いない。
もしかすると、本当にもう二度とシンジにはこれまでみたいに会うことができなくなるかもしれない。別れてしまうことになるのかもしれない。でも、それは
あたしの決め
ることであって、パパが口を出すことじゃない。いくら大好きなパパであったとしてもだ。
翌朝、あたしは表面上は普段どおりに振舞おうと努力していた。その努力は必ずしも成功しているとはいえず、元気のないあたしを見たパパが心配してくれた
けど、少し疲れているのかもとあたしは嘘を言って取り繕った。
もちろん、昨日の痛手は少しも和らいだりはしていない。でも、シンジとの関係だけで生活しているわけでなし、学校もあれば受験も間近に迫っている時期に
この問題にだけ囚われていることはできない。
いつもよりずっと早い時間にあたしは家を出ようとしていた。本当なら、毎朝あたしとシンジは一緒に学校へ行く。家が近く、互いの家まで一本道なので、ど
ちらが迎えに行くとも決めず、ただ時間だけを決めている。だから、あたしがシンジの家に迎えに行くこともあれば、シンジが迎えに来ることもあり、相手を迎
えに行こうと同時に家を出、道の真ん中で鉢合わせすることもある。でも、今朝はシンジと連れ立って学校へ行くつもりはなかった。昨日の今日でまだ気持ちの
整理がついていない。だか
らまだ、彼の顔を見ることも話をすることもできないと思った。
ところがあたしが家を出ると、門扉の外にはこんな時間にはまだいないはずなのに白い息を吐きながらじっと立っているシンジの姿があった。
門扉に背を向けて立っていたシンジは玄関が開く音に気付いてこちらを振り返り、思わず足を止めてしまったあたしと視線が合った。心臓が跳ね、昨日の出来
事が生々しく甦って身体が震えた。それでもどうにか冷静さを保つと、あたしは彼を無視し、無言でその脇を通り抜けて、一人で歩いていった。
「アスカ」
シンジはあたしの名を呼び、あとを追いかけてきた。
あたしは歯を食い縛り、彼の呼びかけに答えず、早足で先へ進んだ。
「アスカ、どうして無視するんだよ。昨日は何で黙って帰ったんだよ。聞こえてるんだろ、アスカ」
シンジは矢継ぎ早にあたしを問い詰めた。彼からするとあたしの態度は理不尽なものに見えるかもしれない。でも、悪いのはシンジだ。まさかあんな場面を見
られていたとは彼は思っていないのだろうけど、知ってしまった以上は簡単に許すことなんてできない。
「返事くらいしろよ!」
肩を掴んできた手を振り払い、あたしはシンジのほうへは決して顔を向けず、無言で歩き続けた。シンジは苛立った声を上げ、あたしのあとを追った。
「ねえ、何で怒ってるの? 僕が何かした? 説明してくれなきゃ分からないよ」
何をしたか、ですって? 白々しいにも程があるわ。
あたしは痛いほど奥歯を噛み締めて怒りをこらえた。この十年以上、あたしはずっとシンジのことを見誤ってきたのだろうか。彼がこんな風に簡単にあたしを
裏切るとは思っていなかった。その上こんな白々しい嘘を平気でつく人だったなんて、想像もしていなかった。
信号が赤だったので、横断歩道の手前であたしは立ち止まった。本当なら信号なんて構わずシンジを引き離してしまいたいけど、国道にはたくさんの自動車が
行き来していてそれもできない。
無視し続けるあたしに業を煮やしたのか、シンジはあたしの正面に立ち、まっすぐにこちらを見つめてきた。けれど、あたしは彼を見ない。目の前に立つ彼か
ら目を逸らし、黒いアスファルトで舗装された地面や、国道上を走るたくさんの車を見ていた。
「こっちを見てよ、アスカ」
シンジが怒っているというより、むしろ悲しそうな声で言った。
あたしだって本当はシンジから目を逸らしたくなんてない。彼の呼びかけにはいつだって応えたい。でも、もうどうすればいいのか分からないのだ。
あの幸福だった一年間が嘘のようだ。つい昨日の午後まではその幸せが続いていたのに、これからもずっとそれが続くものと信じて疑いもしていなかったの
に。
シンジから目を逸らしている分、嫌でも周囲の様子を感じ取れた。周りで同じように信号待ちしている人たちや、道をすれ違っていく人たちがあたしたち二人
へ好奇の視線を投げかけているのが分かる。はたから見れば、さしずめませた中学生の痴話喧嘩といったところだろうか。中にはあたしたちのことを知っている
同じ中学校の生徒もいるかもしれない。そういった好奇の眼差しにさらされて、あたしはいっそう惨めな気持ちになり、涙がこみ上げそうになった。
「アスカ」
「触らないで」
あたしに触れようとしたシンジの手を振り払い、信号が青に変わったと同時にあたしは正面に立ち塞がる彼の横を肩をぶつけて通り抜け、そのまま彼を置
き去りにするように足早に信号を渡った。
それでもなおしつこく追いすがってくるシンジは、いくら呼びかけても取り合おうとしないあたしに対し、ついに強硬手段に出た。後ろからあたしの手を取
り、振り払われないようきつく握り締めて強引に引っ張った。
「離してよ!」
あたしは悲鳴を上げたけど、彼はそれを無視して歩道脇の公園の中へ無理矢理あたしを引きずっていった。
葉を散らせて裸になったけやきや桜に囲まれた公園は広く、奥へ行けば歩道からはあまり姿を見られない。あたしはシンジから逃れようと何度も手を引いたけ
ど、
彼の握力はとても強くてびくともしなかった。彼がこんなに力強いなんて、これまであたしは知らなかった。まったくの無言であたしを引っ張るシンジの横顔を
見て、初めて彼が怖いと思った。穏やかで優しいと思っていたシンジは、いざとなれば力ずくであたしのことをめちゃくちゃにできるのだ。そう考えると、絶対
に負けるものかと気を張る一方で、身体がすくんだ。
公園の奥まで行くと、ようやくシンジは立ち止まった。けれど、捕まえたあたしを離してはくれない。彼は手を掴んだまま、こちらと向き合った。その表情は
怒っているようでも悲しんでいるようでもあり、一瞬だけ目を向けるとまっすぐにこちらを見つめる彼の視線とぶつかり、あたしは慌てて目を逸らした。
「本当にどうしたの、アスカ。わけが分からないよ。僕のことがもう嫌いになったの?」
「……嫌いになったのはあたしじゃなくて、シンジのほうでしょ」
あたしはついに観念して口を開いた。逃げ出すことができないのなら、せめてあたしを傷つけた彼の罪を糾弾してやりたかった。
「何で僕がアスカを嫌いになったりするんだよ」
「だって見たもの。昨日」
「見たって何を」
彼は本当に分からないという表情であたしを見た。そのとぼけ方があまりに見事で、あたしは完全に頭に血が上った。キレた、といってもいい。
「あんたが綾波さんといちゃついてるところをよ、このバカ!」
あたしの金切り声を受けて、シンジは目を丸くし、ぽかんと口を開けた。
何よ! 何なのよ、その顔は!
「このあたしが知らないと思って、よくも堂々と学校で浮気してくれたわね!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、アスカ」
「うるさい! この裏切り者!」
掴まれていないほうの手を思い切りシンジに向かって叩きつける。彼は身体を手で庇いながら、いいわけを繰り返そうとした。
「一体何のことだよ。綾波と浮気? 誰がそんなこと」
「だから見たって言ってんでしょ! いいわけなんか聞きたくない!」
いくらあたしが叩いても、そのたびにシンジが身体を庇うので、今度は足で蹴り始めた。彼のすねを何度も蹴りつけ、最後には股間を思い切り蹴り上げてやろ
うと足を引いた。でも、さすがにあたしの視線から意図を読んだのか、力いっぱいに蹴り上げられたあたしの足から彼は身体をひねって股間を守った。
「いい加減にしろよ!」
いつになく強い調子でシンジは怒鳴った。彼から怒鳴られたのは初めての経験だ。激しく怒りを発散させながら、あたしはついに泣き出した。
「何よ、何よ、何よっ! あんたが悪いんじゃない。あたしがいるのに、他の女にちょっかい出すから!」
「だから、アスカ。それは違うって」
「あ、あたしが、こんなに好きなのに。シンジのことしか、考えられないのに」
ぐずぐずとしゃくり上げながら、顔をくしゃくしゃにしてあたしは言い募った。
「それなのに、シンジは、シンジは、あたしのこと、もう好きじゃなくなったんだわ」
こちらが想えば相手も同じだけ返してくれると期待するだなんて、虫のいい話だ。けれど、シンジならそれをしてくれると、あたしが彼を想うのと同じように
彼もあたしを想ってくれると考えていた。ずっとそれを信じていた。シンジだけは、と。
ところが、あたしは裏切られたのだ。いっそ彼を嫌いになれたら楽なのに、今なお胸が張り裂けそうなくらいに好きだから、余計につらい。
「僕がアスカを嫌いになるわけないだろ。もし昨日の放課後のことを言ってるなら、あれはただ話してただけだよ」
「でも、キスしてたじゃない!」
この期に及んでまだ否定しようとするシンジに向かって、あたしは手を振り上げてわめいた。
「キスだって? そんなことするわけないじゃないか!」
シンジはあたしの言葉に目を剥いたけど、あたしにはそれがひどく白々しく映った。
「だって見たもん!」
「してないって」
「した!」
「しつこいな! してないって言ってるだろ!」
あたしたちは息を荒げて睨み合った。いまだに手を掴まれたままなので二人の間には一歩の距離しかない。お互いのつばが顔にかかるような近さであたしたち
はやり合った。
「じゃあ、何を話してたのよ。説明してごらんなさいよ」
「受験のこととかクラブのこととかだよ。職員室には綾波もいたんだ。で、先生の用が終わって外に出たら声をかけられたから、それで話を」
「ああそう。偶然だって言いたいのね。それにしちゃずいぶん見つめ合って楽しそうにしてたけどね」
シンジのあの笑顔。綾波さんのあの眼差し。思い出すだけで身震いした。
「どこから覗いてたのか知らないけど、本当に話してただけだよ。何を見たらキスしただなんて思い込むんだ。どうかしてるよ」
「それは、あんたがあの女に顔をくっつけるのを見たからよ」
「見間違いだよ。アスカの思い込みだ。僕はキスなんかしてない」
あくまで綾波さんとのことを認めようとはしないシンジの態度に、あたしは深いため息をついた。怒りや悲しみのためというより、脱力のためだ。
結局、シンジはこういう人間だったのだ。これ以上食い下がるのもむなしい。彼とはもう話していたくない。顔も見たくない……。
「もういいわ。分かった。もういい」
「何が分かったんだよ。だから、アスカが言ってることは違うってさっきから」
「もういいって言ってるでしょ! いい加減離してよ、バカ!」
あたしは金切り声を上げ、振り抜いた平手でシンジの頬を力いっぱい殴りつけた。手加減なしの本気で彼を殴ったのは初めてだった。
「バカはそっちだろ! どうしてそんな分からず屋なんだ!」
「あんたには関係ないでしょ! バカなあたしと違ってお利口なあの女のとこに行きゃいいじゃないのよ! もうあたしたちはおしまいなのよ!」
言い放ってから、一瞬凍りつくような沈黙が下りた。あたしは激情から決定的な言葉を口にしてしまっていた。もう取り消すことができない一言を。
「本気で言ってるの、アスカ?」
「……離して」
シンジはあたしの手を離した。
解放されたあたしは、ずっと強い力で握られてあざができた手首を撫で、身を翻して公園の外へ駆け出していった。彼が追いかけてくる気配はなかった。
学校であたしとシンジに何があったのか詮索してくる人間はいなかった。あたしたちは放課後まで完全に相手を無視し続けた。少なくとも表面上は。クラス
メートたちは藪をつつくような真似を恐れ、腫れ物に触るみたいにあたしたちに接した。
こんなに学校が楽しくないと感じたのは初めてだ。昔はシンジと一緒のクラスになれたというだけで大喜びしていたというのに、今日は彼が同じ教室にいるこ
とが苦痛でならなかった。
とはいえ、別々の高校に入ってしまえばもう関係ない。もう二度とシンジと話すことも、顔を見ることさえもなくなるだろう。だから、それまでの辛抱だ。
結局はママの言ったことは正しい。先のことなど分からないのだ。シンジとの別れもその一つに過ぎない。別に彼との関係が壊れたからといって、世界が破滅
するわけで
はない。今はつらくても、いずれ時がこの傷を癒してくれるだろう。いずれは新しい恋もし、彼のことを忘れてしまえるだろう。
それは分かっているのに、学校から帰ってくると、張りつめていた気持ちの糸があっけなく千切れ、堰を切ったようにあたしは泣き崩れた。
冷え切った部屋で暖房もつけず、制服のままベッドに身を投げ出して、枕に顔を押しつけてあたしは思うさま泣いた。
あのとき、あたしがあの言葉を口にしなければ別れたりすることはなかったのだろうか。それとも、シンジの心変わりを一過性のものとして見て見ぬふりをす
ればよかったのだろうか。そもそもあんな場面を発見しさえしなければ、あたしは何も知らず今日も明日も笑えていたのだろうか。
あたしには分からない。分かるのは、シンジがあたしのもとから去ってしまったということだけだ。
昨日はあれほど寄越してきていた彼からの電話やメールが今
日はまったくない。彼も今朝の一件で完全にあたしに愛想を尽かし、新しい恋人のところへ行ってしまったのだろう。綾波さんは悔しいが綺麗な女の子だ。直接
には知ら
ないけどきっと性格もいいのだろう。あたしみたいな外見も性格もがさつで悪目立ちするような女の子に比べれば、綾波さんのほうがずっと魅力的に違いない。
このまま干からびて死んでしまいたい。あたしはそう願った。身体から水分という水分をすべて涙にして流し尽くし、干からびて重さのない死体になりたい。
そうすればたぶんこの悲しみをどうにかしようと思い悩み苦しむこともなくなるだろうから。
でも、実際には一時間泣いても二時間泣いても干からびることはなかった。あたしはシンジとの幸せだったころを思い出しては泣き、この二日間の出来事を思
い
返しては泣いた。
日が沈み、夜の帳が落ちてもあたしは泣き続けていた。ママが夕飯に呼びに来てくれたけど、あたしは食べたくないと断った。それまでも何度か心配げにあた
しの様子を見に来てくれていたママは、「残しておくから食べたくなったら出てきなさい」とだけ言い、あたしの意思を尊重してそっとしておいてくれた。
パパも何度かあたしの部屋を訪れた。泣いているあたしを心配し、しきりとその理由を知りたがったけど、あたしは答えず、ママからそっとしておくよう言わ
れてパパはしぶしぶ引き下がった。
夕食の時間からしばらく経った。まだぐずぐずと泣き続けていたあたしのところへ再びママが訪れた。
「アスカ……、お友達が来てるわ」
友達が来た?
うつ伏せになっていたあたしは首をひねって、部屋の入り口に立つママを見た。真っ暗な部屋と明るい廊下の境目に立つママの表情は逆光でよく分からない。
こんな時間にあたしに何の連絡もなく友達が家に来るなんておかしい。まして今日のあたしの様子を見ていたならなおさらだ。あるいはヒカリなら、心配して
来てくれるかもしれないけど、それにしても連絡がないのはおかしい。
でも、いずれにせよあたしは今は誰にも会うつもりはなかった。
「帰ってもらって」
「あなたが自分で伝えたら?」
ママの声は妙に冷ややかな気がした。さすがに何時間も女々しく泣き続ける娘に苛立っているのだろうか。
「今は誰にも会いたくないの」
「そう。分かった」
あたしが再度断ると、ママは部屋の扉を静かに閉めた。
それからまたしばらく時間が経過した。ようやく少し泣き止んできたあたしは、長時間寒い部屋にいたせいか、生理的欲求に迫られてベッドから身体を起こし
た。暗い部屋から明かりの下へ出ると、眩しさに眩暈がした。あたしはお手洗いを済ませ、からからになった喉を潤すためにその足でキッチンへ向かった。
キッチンではママが洗い物をしていた。冷蔵庫から取り出したお茶をコップに注いでいたら、ママが洗い物の手を止めずに言った。
「やっと会う気になったの」
「……会う?」
あたしの声は少し掠れていた。お茶を飲むと数時間ぶりの水分が喉を潤すのが分かる。最初は干からびて死にたいなどと考えていたくせに、喉が渇けばこうし
てお茶を飲む。人間なんて現金にできている。結局は、こうして深い傷でも徐々に癒えていくものなのだろう。
あたしの質問に、今度はママは洗い物の手を止め、こちらを見て答えた。
「お友達が来てるって言ったでしょ。でも、その様子じゃ違うみたいね」
一瞬何を言われたのかよく分からなかった。ママが来客を告げに来たのは、もうずっと前のはずだ。
「まさか、まだ待ってるとか」
「さあ」
「さあって何。上がって待ってるんじゃ……」
言葉は尻すぼまりに消えた。まさかこの真冬の夜に玄関の外でずっと?
あたしは慌てて駆け出した。まったく信じられない。ママたちは何を考えているのだ。どの友達が来ているのか知らないし、長時間外で待ち続けているとも思
えないけど、万が一ということもあるので、とにかく確認しないといけない。そして、もし本当に待っていたとしたら、ちゃんと謝らなくては。
ずっと泣いていたので目の周りは赤く腫れ、顔はむくんでいるはずだ。ベッドに寝ていたから髪もぐちゃぐちゃ、着たままの制服もしわだらけ。それでも、あ
たしは構わず玄関に飛びつき、ドアを開けた。
目に飛び込んできた姿にあたしは凍りついた。
玄関の外に立っていたのはシンジだった。
すぐに扉を閉めようと思った。もうあたしとシンジの関係は終わったのだ。いまさら何の用があるというのか。
でも、頬や鼻を赤くして白い息を吐き、寒さに震えながら立っている彼の姿を見て、あたしは三和土からドアを開けた姿勢のまま動けなくなった。
時計を見ていたわけではないので正確な時間経過は分からないけれど、少なくとも一時間以上シンジはここでこうして待ち続けていたはずだ。雪こそ降ってい
ない
ものの、星空の下は身を切るような寒さだ。一体なぜそんなことをするのか。そうまでしてあたしと係わるだけの理由が今の彼にあるはずもないのに。
見つめ合ったままあたしたちは動かなかった。シンジはあたしの泣き腫らしたひどい顔から目を逸らさなかった。あたしもまた、彼から目を逸らせなかった。
片側の頬がとくに赤いのはあたしが今朝殴った跡に違いない。
最初に口を開いたのはシンジだった。
「ずっと考えてたんだ。今朝のことがあってからずっと」
シンジの声は寒さのためか、あるいは他の理由からか、わずかに震えていた。
「でも、どうしても納得できない。こんなことでアスカを失うなんて。僕には受け入れられない」
「……どうして? 別にいいじゃない」
彼が再び差し伸べようとしている手をあたしが振り払っていることは理解していた。彼の手を取りたい気持ちと取りたくないという気持ちがあたしの中で拮
抗している。でも、実際に口をついて出たのは拒絶の言葉だ。もしあたしがこれほど意地っ張りじゃなければ、とも思うけれど、自分でもどうにもならない。
「あたしみたいながさつなのより、あんたには綾波さんのほうが似合うわ」
「そんなことない」
「鈴原がいつも言ってるでしょ。あたしは標識みたいに遠くからでも悪目立ちするって。どうせあたしは性格が悪くて、こんな赤茶けた髪に青い目の気持ち悪い
女の子よ。綾波さんのほうがよほどいい。誰だってそう思うわ」
「アスカ、お願いだから自分をそんな風に言うのはやめてよ。僕は綾波のことなんて何とも思ってない。アスカじゃなきゃ駄目なんだ」
その言葉にあたしの心臓が鳴った。彼の表情はとても真摯なものに思えた。
でも、傷ついて用心深くなったあたしの心には彼の言葉が信じられなかった。
「嘘よ」
「嘘じゃない。綾波とは何もなかったし、これからだってない。僕はずっとアスカのことが好きだったんだ。これからもずっとアスカだけを好きでいたい」
込み上げた涙で目がかすみ、シンジの顔がよく見えなくなった。まばたきをすると、頬を温かいしずくが滑り落ちた。その涙が嬉しさのためなのか、悲しさの
ためなのか、あたしにはよく分からなかった。
「青い目だって気持ち悪くなんかない。僕は昔から好きだったよ。小さいころから思ってたんだ。どうしてこの子はこんな綺麗なものを持ってるんだろうって。
アスカの目を見てると吸
い込まれていくような気分になる。その不思議な青い色を僕だけのものにしたくなる」
「嘘よ……」
青色が一番好き、とシンジは昔からよく言っていた。それはあたしを見て言ってくれていたの?
「アスカ、仲直りしよう。僕は別れたくなんかない。アスカのことが本当に好きだから」
シンジは一歩踏み出し、二人の間の距離を詰めた。あたしの腕を取り、強引にではなく優しく引き寄せようとした。あたしも抵抗せず、玄関の内側から外へと
足を踏み出し、彼との隙間を埋めた。
額をつけるようにしてあたしたちは向かい合った。シンジに頬を撫でられると、また新しい涙が零れた。
「信じていいの?」
「お願いだから僕を信じて。まだ僕のことが好きなら、別れるなんて言わないで」
「好きよ。あたしも好きよ。シンジのことが好き。あたしだって別れたくなんかない」
恥もプライドもかなぐり捨ててあたしは打ち明け、くしゃくしゃになった顔を押さえて泣いた。そんなあたしをシンジは抱き寄せ、きつく腕の中に閉じ込め
た。
「あたし、信じる。信じるから許して」
「許すなんてそんなこと。不安にさせた僕も悪かった」
シンジがあたしの手首に指を這わせて言った。
「あざになったんだね。乱暴してごめん。痛くない?」
「平気。あたしこそ思い切り殴っちゃったわ。ごめんなさい」
「ふふ。さっきから二人とも謝ってばかりだね。でも、よかった」
シンジは笑い、一度空を見上げて大きく息を吐き出した。
顔を押さえていた手をシンジの背中に回す。寄せ合った彼の頬はとても冷たかった。一体どんな思いでこの寒空の下あたしを待ち続けてくれたのだろうか。あ
たしが出てくるかどうか確証もないというのに。そこまでしてくれた彼に申し訳なく思う一方、その気持ちが嬉しくもあった。
「寒かったわよね。ごめんね、シンジ」
「もう平気だよ。アスカの身体、すごく温かい」
シンジが首を傾けて頬をすり寄せるので、あたしもそれに応えた。耳のすぐそばで吐き出される彼の白い息がかすかに震えを帯びているのが分かった。彼もま
た泣いているのだろうか。そう考えたけど、あたしは訊ねることをしなかった。
苦しいくらいの抱擁はいつまでも続く。一年前はわずかにあたしのほうが背が高いくらいだったのに、気が付けばそれが逆転し、今は彼のほうが少し背が高く
なっている。この一年間は嘘なんかじゃなかった。確かにあったのだ。そして、これからもあたしはシンジに寄り添い、ささいなものからも年月が二人の関係に
刻む年輪を感じ取ったりするのだ。
彼の首筋に甘えながら、あたしはぼんやりとそんなことを考えていた。
一月も終わりが近づいてきたある日曜日、シンジがあたしの家に来た。また一緒に勉強をするためだ。いよいよ受験が近いので、こんな風に二人で勉強をで
きるのは今回で最後だろう。
仲直りをして以降のあたしたちの関係はきわめて良好だ。むしろ以前よりも深まったとさえいえる。もちろん、具体的な意味で深い関係(きゃっ、エッチ!)
になったわけではないけれど。
お昼ごはんのあとに訪れたシンジとはきちんと真面目に勉強をした。たぶん、この調子なら二人とも志望校に合格できるはずだ。別々の高校に通うことは、や
はり少しだけ寂しいけれど、自分で選んだ道なので後悔はしていない。たとえ共学校でもシンジは浮気しないと信じているし。
勉強が一段落してから、たまたま先日仲直りした日の話になった。
「実はあのとき、アスカのお母さんには帰れって言われたんだよ」
「えっ! ママ、ひどい!」
ママから一言もそんな話を聞いていなかったあたしは驚いた。もっとも、娘のためを思ってのママの行動をひどいなどと言える資格はあたしにはないのだ
けど。
「すごい剣幕で言われて、正直かなり怖かった」
それはそうだろう。ママが本気で怒るとどれほど怖いか、あたしは身を持って知っている。
「それでもアスカに会わせて欲しいって食い下がったら、言われたんだ。『アスカが出てくるかどうかは分からない。家にも上げるつもりはない。事情は知らな
いけど、自分はアスカの親だから今は僕に味方しない。それでも待ちたいなら、そこで気が済むまで待ちなさい』って。僕も引き下がるつもりはなかったから、
そうした」
「ごめんね、シンジ。あたし、ママがそんなこと言ったなんて知らなくて。いや、もとはといえばあたしのせいなんだけど」
「でも、そのおかげで今もアスカと一緒にいられるんだもの。全然気にしてないよ」
シンジは屈託なく笑って言った。その表情を見て、あたしは今なら訊ねられるかもしれないと思い、仲直りをした以降も心の中に引っ掛かっていた疑問を口に
した。
「ねえ、シンジ。あたしはシンジのことを信じてるし、もう全然気にはしてないんだけどね、シンジと綾波さんが話してるとき、あたしからはシンジが綾波さん
に
顔を近づけてくっつけたように見えたから、キスしたと思い込んだけど、本当は何だったの?」
あたしの質問にシンジは記憶を掘り起こして少し遠くを見るような表情になった。
「ああ……。そういうことだったのか。あれはね、本当にただ顔を近づけただけ」
「何でそんなことしたの?」
「アスカは話したことないかもしれないけど、綾波は他人としゃべるのが苦手で声が小さいんだよ。だから何言ってるのか聞き取れないことがしょっちゅうあっ
て。それで、『えっ?』って顔を近づけて聞き返したんだ」
シンジはその仕草を実際にやってみせながら答えた。
確かにあのとき、あたしから見えていたのはシンジの後姿だけで、本当に二人の顔と顔が接触したことまで確認したわけではなかった。それでも、あんなに楽
しそうにしていたし、シンジが顔を近づけるというとすなわちキスだとしか自らの経験上思い浮かばなかった。それで誤解してしまったらしい。
もっとも、綾波さんがシンジへ向けた気持ちのほうはどうやら本物だとあたしはほとんど確信していた。恋をしていない女の子があんな表情をしたりするはず
がない。けれど、あえてそれをシンジに教えてやる気にはなれなかった。独り相撲とはいえ散々傷ついたことへのせめてもの腹いせだ。
結局のところ、蓋を開ければ何だかあたしははた迷惑ですごく間抜けみたいだった。実際そのとおりで、シンジからしてみれば、まさしく青天の霹靂だったろ
う。
「そうだったんだ。あたしてっきり……。もう恥ずかしい。こんな勘違いして一人で騒いで。ちゃんと話を聞いてれば済んだのに。本当にごめんね」
「いいってば。でも、一つしてほしいことがあるかも」
と、シンジはあたしの手を取り、熱を帯びた眼差しでこちらを見つめた。
もちろん、あたしには彼が何を求めているのか、ちゃんと分かっていた。床に座ったままの姿勢で彼にすり寄り、顔を近づけて、あたしだけが彼にできること
をした。
手を繋ぐのもとても気持ちいいけど、キスをするのはもっと気持ちいい。
心を込めた長いキスを終えると、あたしはシンジの肩に顔を埋めた。唇を合わせるだけのキス。でも、それがすごく特別なことなんだと知ったのは、シンジの
おかげだ。
「どうしたの?」
「ううん」
あたしはぐずるように首を振ってシンジの肩に額を擦り付け、彼の質問には答えなかった。暖房のよく効いた部屋はぬくぬくと暖かい。けれどそれ以上に、あ
たしの顔
は両側からカイロを押し当てたみたいに熱くなっていた。
繋いだ手の感触を確かめ、シンジの肩に顔を押し付けたまま彼の腕を取って抱き締める。一生あたしを繋ぎ止めていてくれる腕だ。
服の下、胸の真ん中に小さくて硬いものが押し付けられる感触があった。胸に抱いて密着する格好になったシンジの腕が、あたしの首から提げられている指輪
に当たって
いるのだ。一
年前にシンジから贈られた指輪は、まだあたしの指には合わない。でも、いずれ成長して大人になれば、ちょうどよくなるかもしれない。そう考えて、サイズを
直さず、鎖に通して首から提げている。
いつかこの指輪があたしの指にぴったり嵌まるようになるころ、あたしたちはどんな大人になっているのだろう。何をしているだろう。二人で一緒にいられて
幸せな日々を送っているのだろうか。
「ねえ、シンジ。もう一回」
顔を上げ、あたしはシンジにねだった。
二度目のキスは先ほどよりずっと熱が込められていた。シンジの腕はあたしの身体を抱くように支え、あたしも彼の首に腕を回した。
もうちょっと大人になるまで待っていてね、シンジ。そうすればあたしのことを何もかもあんたにあげるわ。
でも、今はこのキスで精一杯なの。
名残を惜しみながら唇が離されると、二人の口から同時に「好きだ」「好きよ」と呟きがこぼれ、あたしたちは急に恥ずかしさを思い出したように、身体を離
して、真っ赤な顔でくすくす笑った。その間もあたしたちの手だけは繋がれ、離れることはなかった。
そのあと連れ立ってリビングへ行ったら、録りためたNHK大河ドラマを観ている最中だったパパがシンジをキャッチボールに誘った。昔からパパはシンジを
キャッ
チボールに誘いたがる。あたしも子どものころからグローブを着けてパパの相手をしてきたけど、やっぱり男の子相手にやると気分が違うのかもしれない。
家の前の道路で二人はキャッチボールを始め、あたしは門扉に身体を預けて、寒いのによくやると思いながら、それを見物した。まずは肩慣らしから入り、徐
々に二人は強い球を混ぜていく。
小
学校高学年くらいから、二人のキャッチボールの迫力にあたしはついていけなくなった。あたしなら軽く投げ合うだけで充分なのに、パパたちは力いっぱい投げ
ないと満足できないらしい。ボールをキャッチしたグローブが大きな音を立てると、二人ともいかにも満足げに笑う。男ってみんなこうなのかしら?
それにしても、今日のパパは少し気が入りすぎていた。パパの投げる球はうなるように飛び、見ているあたしが怖くなるほどだ。受け止めるシンジもグローブ
を着けた手をときどき痛そうに振る。明らかに力を入れすぎなのは自分でも分かっているはずなのに、不気味なくらいの笑顔を貼り付けたパパは速球をやめよう
と
はし
ない。
さてはこの前あたしが泣いたことの仕返しをしているのね。もうっ。パパって何て大人げないのかしら。
「パパ。ちょっと力入れすぎじゃない?」
「いやいや、まだまだ。シンジくんもいい球を投げるようになったなぁ、うん」
「あんまりシンジをいじめたら、もう二度と肩もみもみしたげないからね」
「え? おっとっと……」
シンジの投げたボールを取り損ない、パパは転がっていくボールを慌てて追いかけた。
「腰ふみふみもよ。いくらパパが頼んでも絶対にしてあげないから。あたし、ちょっとシンジの家に行ってくるわ。キャッチボールはほどほどにしてね」
あらかじめ用意していた手提げカバンを持ち門扉から外へ出て、あたしはシンジに声をかけた。
「すぐ戻ってくるから。それまで適当にパパの相手してあげて」
「僕の家に行ってどうするの?」
「んふ、ちょっとね。じゃ、パパに負けちゃ駄目よ、シンジ」
バレンタインデーは寒いけど気持ちいいくらいに青く澄んだ快晴だった。
ちょうど一年前のこの日は、シンジが別の女の子を好きなのではないか、あたし以外の女の子からのチョコレートに心動かされるのではないか、と気が気でな
かったものだけど、今年のあたしはこの空と同じくらいに晴れ晴れとした気持ちだ。
たぶん、シンジは今年も複数の女の子からチョコレートをもらうだろう。シンジは格好いいから、それは当然のことだ。でも、いくらシンジがチョコレートを
もらったとしても、あたしはまったく心配していない。本当に彼が好きな女の子が誰なのか、確信があるからだ。そして、誰よりも心のこもった贈り物ができる
のは自分だと自信があるからだ。
学校が終わり、あたしとシンジはいつものように手を繋いで一緒に帰り道を歩いた。こうして二人で登下校できるのもあとわずかの間だ。高校に入れば、あた
しはバスで、シンジは自転車で通学することになる。家を出る時間も重ならないだろう。
そのことをシンジも惜しんでくれているに違いない。どちらが言い出したということもなく、最近のあたしたちの足取りはゆっくりとしたものになっていた。
いつもより時間をかけてあたしの家まで着くと、あたしはシンジを中に招き入れた。もちろん、彼を長時間拘束するつもりはない。もう受験まで日がないの
で、そんなことをしている暇はないからだ。
自室へ行く途中、ママがあたしたちを見て思わせぶりに笑った。娘のあたしが新年からの一ヶ月間、四苦八苦して取り組んでいたものを知っているのだ。邪魔
しないでよ、とあたしは無言のメッセージを送ったけれど、にこやかにシンジと挨拶を交し合っているママにそれが通じたかどうかは分からない。とにかく、あ
たしはこれ以上ママに絡まれる前に、シンジの腕を取ってこの場から逃げ出すように部屋へと引っ張っていった。
今日という日がどういうものであるか当然承知しているシンジは、何も言わず、でも若干期待を込めた表情をして、あたしに従って部屋までついてきた。部屋
に入ってすぐにシンジを立たせて待た
せ、あたしはあらかじめ用意していた真っ赤な色の包みを取り出し、深呼吸を一つしてから、振り返って彼に向かって突き出した。
「はい。バレンタインのプレゼントよ」
顔がみるみる熱くなるのを感じた。いまさらと思われるかもしれないけれど、これでもあたしは純情可憐な女の子なのだ。シンジのほうも赤く染まった表情を
引き締めておくのができないようで、照れ臭そうににやにやと笑っていた。こう言っては悪いけれど、せっかくの格好いい顔が台無しだ。もちろん、それも可愛
いから大好きだけど。
「ありがとう。開けてもいい?」
包みを受け取ったシンジは、傾けたり裏返したりしてしげしげとあたしからの贈り物を眺めながら訊ねた。あたしはもちろん、こう答えた。
「いいわよ。開けてみて」
真っ赤な包装紙の口を開いて出てきたのは、真っ青な色のマフラーだ。マフラーを手にしたシンジの瞳に賞賛の色が浮かぶのを見つけ、あたしの胸は喜びでは
ち切れそうになった。
「すごい! アスカが編んでくれたの?」
「そうよ。大したものじゃないけど、気に入ってくれる?」
本心では「もっと褒めて!」と叫びつつ、あたしはあくまで控えめにシンジの顔色を窺った。彼の表情には混じり気なしの驚愕と賞賛、そして喜びがあった。
彼はこういう作業があたしにできるとは思っていなかっただろう。自分で褒めるのもどうかと思うけれど、あたしはよく頑張ったと思う。確かにシンジのお母さ
んなどに比べると編みはつたない。その時々の精神状態によって編み目はさまざまに変化し、特にシンジが浮気したと思い込んだあの日に編んだ箇所は固く不揃
いに歪んでしまっている。それでも、できあがってみると、青色のマフラーが愛おしくさえ感じられた。
その理由はきっと、このマフラーにあたしのシンジへの想いが込められているからだ。あたしは一針一針を想いとともに編み込んだのだ。優しい気持ちのとき
は柔らかく、楽しいときには軽やかに、怒っているときなら固くなる。そういう彼への正直な想いをそのまま写し取ったようなマフラーを渡せることを誇らし
く思った。
「ありがとう、アスカ。本当に嬉しいよ」
シンジは感極まってあたしに言った。こんなに喜んでもらえるなんて、あたしのほうが泣き出しそうだわ。
「シンジの好きな青色よ」
あたしの瞳の色でもあるの。青色って素敵な色よね。
「うん。わぁ、本当にすごいなぁ」
「えへ。ね、ちょっと巻いてみて」
催促すると、彼は急いで首にマフラーを巻きつけ、得意げにあたしの前で胸を張った。
「似合う?」
「うん、素敵。思ってたよりずっといいわ」
急いだせいで巻き方にまで気が回らなかったらしく、変な格好になってしまっているマフラーを丁寧に巻き直してあげながら、あたしはシンジの姿をうっとり
と眺
めた。編んでいる最中にいつも夢想していた光景が今現実に目の前にあるのだ。あたしは幸せのあまり気絶しそうだった。
シンジは心から喜んであたしの贈り物を身に着けてくれている。それはやはり、彼があたしのことを好きだからであり、またあたしが彼を想いながら編んだと
いうことを分かっているからに違いない。
「これから毎日このマフラーを使うよ」
「ありがと、シンジ。本当は冬の初めに渡せたらよかったんだろうけど」
「春にも使う」
「バカ。汗もができちゃうわよ」
「じゃあ来年も使う。再来年もその次も、毎日使うよ」
「そんなにしたらぼろぼろになっちゃうわ。でも、喜んでくれてよかった。また来年も編んであげるからね。今度はもっと練習してセーターにでも挑戦しよう
かしら?」
練習であたしの腕が向上すればの話だけど。
ともかく、こうしてバレンタインデーにシンジへ手編みマフラーを贈るという計画は見事に成功したわけだ。
「あっ、しまった! チョコ用意するの忘れてた!」
あたしは口を押さえ、目を丸くして大声を出した。シンジはきょとんとした顔をしてから、マフラーを大切そうに触りながら、あたしを慰めるように言った。
「いいよ。チョコがなくても。僕はこのマフラーだけで充分嬉しいから」
「まっ。シンジったら欲がないのね。えへへ、ちょっと待ってね」
シンジに背を向けて机の引き出しを開け、あたしは綺麗に包装されリボンを巻かれた手のひらほどの大きさの箱を取り出してシンジに見せた。
「今のは嘘。ちゃんと用意してあるわよ。まあ、こっちは既製品だけど、お菓子を作るのはあたしよりあんたのほうが上手いくらいだしね」
チョコレートは普通に買ってきたものだ。去年は頑張って手作りしたけど、今年はチョコまで手作りする余裕がなかった。それに、あたしがお菓子作りが下手
だというのは本当なのだ。そんなわけで別に自虐のつもりもなかったのだけど、差し出された箱を受け取ったシンジは言った。
「ありがとう、アスカ。でも、僕はアスカが作ってくれたお菓子、好きだよ」
その屈託のない言葉に、不覚にもほろりと来た。
「ああもう」
「なに?」
「もう、あんたって奴は本当に、どうしてこう……」
「ど、どうしたの?」
いきなり泣き始めたあたしにシンジはおろおろとうろたえた。でも、どうしたもこうしたもない。こんな風にあたしの感情を揺さぶってくれるのは彼以外には
いない。だから、あたしはシンジでないと駄目なのだ。
「いいから早く抱き締めなさいよ」
すがるようにシンジの肩に顔を埋めて泣き顔を隠したあたしを彼の腕は優しく包み込んでくれた。悲しくつらい涙と違って、嬉しさから流れる涙は心地よささ
え感じられる。
ゆりかごのようにかすかに身体を揺するシンジに身を委ねながら、あたしはもう少しだけこの気持ちいい涙を流していようと考えていた。
せっか
くのマフラーを鼻水で汚さないよう気をつけながら。
「好きだよ」
ああもうっ。
happy St.Valentine's day!
あとがき
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
いつかのバレンタインに書いた「チョコレーター・チョコレーテスト」の続編として、同じくバレンタインのお話を書いてみました。
いかがでしたでしょうか。
いまさらですが、本当はこういう風な恋愛のお話は得意ではありません。
ちょっと無理しました。
ところが、こういったお話は不思議とすんなり書き進んでしまいます。あまり内容が複雑でないので悩まないせいでしょうか。
編み物については何も知りません。
二人の志望校の名前は適当です。
アスカのは伝統のあるミッション系の女子校。シンジのは難関国立大の付属校とでもお考え下さい。
前のお話の指輪のことやアスカの父親の日本おたくぶりをもう少し掘り下げたかったのですが、時間がないのでできませんでした。
今回のお話ではシンジとアスカが喧嘩してしまいます。
その場面に差し掛かったところで、嫌な気持ちになって読み進むのをお止めになられた方もいらっしゃるかもしれません。
私自身もああいったネガティブな内容はとても書きにくいものでした。
なお、ずっと以前に「付き合っているシンジとアスカが喧嘩してから仲直りするお話を書いて欲しい」とリクエストして下さった方がいらっしゃいました。
私にとっては初めての(唯一の)リクエストです。たぶん。
その方は「愛だろ、愛。」というお話の続編として、そのような内容のお話をご所望されていらしたのですが、残念ながらいまだにそれは果たすことができず
におります。
しかし、今回のお話で一応二人の仲違いを描くことになり、リクエストの三分の一くらいは果たせたのではないかと思います。
では、お読み下さった皆様。そして怪作様。
ありがとうございました。
rinker/リンカ
リンカさんからバレンタインのお話をいただきました。
『チョコレーター・チョコレーテスト』の1年後のお話。
つきあっているうちには、それは仲違いすることもあるでしょうね。…でも、この二人はきちんと仲直りできますよね。
素敵なお話を書いてくださったリンカさんにぜひ感想メールを!