窓越しホットライン


rinker





「はぁー……」

 頬杖をついて数学の授業を受けていたあたしは、海の底からくみ上げたみたいなため息を吐き出した。あたしの視線は教壇に立つ青葉先生のもとへ注がれてはおらず、廊下側に近い列の、とある男子生徒の丸い後頭部へまっすぐ向けられている。
 あたしの名前は惣流アスカという。中学二年生だ。パパがドイツ系アメリカ人、ママが日本人とドイツ人の混血なので、娘のあたしも白人的容姿をしている。肌の色素が薄いとか、鼻が高いとか、瞳が青いとか、赤みがかった金髪であるとか、そんな外見の生徒はクラスであたし一人しかいない。良くも悪くも目立つ外見をしているそんなあたしが、あからさまに授業に身が入っていない顔で頬杖ついて、でっかいため息など吐き出していたら、青葉先生の目に留まるのも当然だろう。

「じゃあ、問三を惣流、答えてくれ」

「X=21です」

 あたしはぱっと立ち上がり、ため息交じりにすらすら解いた練習問題の解答を口にし、またぱっと座った。きっとあたしが間違うか、どの問題を当てられたのか分からず戸惑うことを期待してたのだろう、青葉先生はちょっとがっかりしたみたいだった。これでもあたしは優等生なのである。身が入らなくても授業にはついて行くのがあたしのプライドだ。

「はぁー……」

 先ほどからあたしが視線を向けている後頭部の持ち主の名は、碇シンジという。黒い短髪に優しい顔立ちの男の子だ。うちの隣の家に住んでいる。痩せ型で、 背はあたしより8ミリ低い。 でも、段々差が縮まってきているので、そのうち追い越されそう。ちょっと気が弱くて、緊張すると右手をにぎにぎするのが癖。シイタケとセロリが嫌い。音楽が得意で、チェロとピアノが弾ける。初めてあたしのために歌声を披露してくれたのは、あたしの四歳のお誕生会でのこと。彼自身の誕生日は明後日の六月六日で、あと二日経てば、彼はあたしより半年早く、十四歳になる。
 そんなシンジの後頭部を穴が開くほどじー……っと見つめ続けるあたしは、再度深いため息を吐き出した。

「ふぅー……」

「惣流! 授業中にでかいため息を連発するんじゃない!」

 怒られちゃった。バカシンジのせいよ。





 放課後になって、帰ろうとしたところを担任の伊吹先生に呼び止められた。

「惣流さん、最近何か悩みでもあるの? 授業にまるで身が入っていないようだって、青葉先生もひどく心配なさってたけど。もし先生でよければ、何でも相談に乗るわよ」

 まだ若い伊吹先生(あだ名はマヤチン)は、可愛らしい童顔を心配げに曇らせていた。あたしは背丈がほとんど変わらない伊吹先生の目をじっと覗き込むと、生真面目な口調で、正直に答えた。

「恋してるんです」

 ばさばさっ、と音を立てて、伊吹先生が手に持っていたプリント類やノートを落とした。

「こ、恋?」

「はい。恋です」

 伊吹先生の表情は目に見えて引きつっている。
 そんなに意外? あたしはちょっと首を傾げた。一体、健全な女子中学生が他にどんな悩みを持っていると伊吹先生は考えていたのかしら?

「そそ、そう……。ま、まあ年上の男性に憧れる年頃だし、別に悪いことじゃ……」

 年上? マヤチン、何言ってるの?
 意味不明なことを言って勝手にうろたえている伊吹先生をあたしは眉をひそめて眺めた。
 シンジはあたしと同い年だ。誕生日は彼のほうが半年早いので、厳密には年上と言えなくもないけど、同じ学年の相手を普通そんな風に言わないはずだ。一体何を勘違いしてるのかしら。

「……ああ、なるほど」

 少し考えて、あたしは納得した。確かに、青葉先生は女生徒からそこそこ人気がある。若い、楽しい、親しみやすいと三拍子揃っている独身男性教師は意外にいないのだ。でも、人気があるといっても、あくまでそれは親しみやすいお兄さんとしてであって、恋愛対象ではない。中にはそんな感情を抱く子もいるかもしれないけど、断じてあたしは違う。

「分かってると思いますけど、相手は同級生ですから」

「へ? あ、も、もちろんそうよね。分かってるわよ。やぁねぇ、惣流さん。分かってる分かってる。そうよね、やっぱり恋の相手は年が近くないとね」

「別に好きになったら、年なんて関係ないと思いますけど」

「あ……そう。そ、それもそうね。愛があれば年の差なんてって言うものね」

 伊吹先生って、優しくて、可愛くて、背が低いけどスタイルよくて、すごくもてそうなんだけど、こんなぼけぼけっとしていて、ちゃんとやっていけるのかしら。こういうところが誰かさんを彷彿とさせて、放っておけない気分になるのよね。相談に乗ると言われたけれど、逆にこっちが心配になってくるわ。

「とにかく、心配しないで下さい。そのうち解決しますから」

 伊吹先生が足下に落としたプリントを屈んで拾い集めながら、あたしは言った。

「か、解決って、あなた。あ、いいわよ、惣流さん、先生が自分で拾うから」

 慌てて屈みこんだ伊吹先生だったけど、すでに拾い集め終わったあたしからプリントとノートを差し出され、ふにゃっとした情けない笑顔で礼を言った。

「ありがと」

「どういたしまして」

 あたしがさっと立ち上がると、それを追って、プリントとノートを胸に抱えた伊吹先生ももっさりした動作で立った。立つ時にいちいち「よいしょ」なんて声を出す伊吹先生を、大人になるとそんなにお尻が重くなるのかしら、それとも膝丈のタイトスカートのせいかしら、と思いながらあたしは眺めた。

「とにかく、解決は解決です。授業にもなるべく集中するように気をつけます」

「そう。それじゃ、また相談したくなったらいつでも言ってちょうだい。わたしでなくても、他の先生でも構わないから。保健の葛城先生とか」

「分かりました。ありがとう、先生」

 たぶん、伊吹先生にも葛城先生にも相談することはないだろうと思いつつ、あたしは心遣いに頭を下げた。

「それから、授業もちゃんと受けること。いいわね?」

「はい。じゃあ、先生。さようなら」

「はい、さようなら。また明日ね」





 もちろん、言うまでもなく、あたしが恋している相手はシンジだ。
 きっかけがどうこう、なんて野暮なことは訊かないでほしい。あたしのひとめぼれだ。
 当時四歳。この街へ引っ越してきた最初の日のことだった。家の片づけをしているパパとママが相手をしてくれないので、こっそり外へ冒険に出かけたはよかったけど、遊んでいるうちに帰り道が分からなくなり、途方に暮れて泣いているところだった。そこへ、一人の男の子が現れたのだ。彼は泣いているあたしに優しく話しかけ、道に迷っていることを知ると、もみじのような小さな手を繋いで、一緒に家を探してくれた。手を引かれて、ずいぶんと長く歩き回ったような気がした(実際にはあたしは新居のすぐ近くで道に迷っていた)。やっと家が見つかると、泣き声を聞きつけて外へ出てきたママにあたしは飛びついた。よかったね、と投げかけられた言葉に、ママの脚にしがみついていたあたしは、濡れた目をぱちぱちして涙を払い、あたしより身体の小さな男の子の顔を初めてきちんと見た。
 で、恋に落ちた。
 以来、あたしはその時落ちた恋の穴から一度も抜け出したことはない。

「あなた、何してるの?」

 部屋の真ん中で椅子に座り、隣家に面した自室の窓に向かって、一心に念じながら突き出した手をうにょうにょさせていたあたしは、ノックとともに部屋に入ってくるなり怪訝な口調で話しかけてきたママにこう答えた。

「おまじない」

 答える間にもうにょうにょはやめない。見た目は滑稽かもしれないけど、あたしは真剣なのである。

「シンジくんをのろいたいの?」

「失礼しちゃうわね。のろいじゃなくて、おまじないだって言ってるじゃない。どうしてあたしがシンジをのろわなくちゃいけないのよ」

 この手が指す方向、つまり向かい合った隣家の部屋には、シンジがいる。幼いころ迷子になったあたしを助けてくれた王子様は、何と隣に住んでいたのだ。まさに運命的といっていいこの事実を何度感謝したことだろう。窓を開ければ、いつでも恋する人の顔を見ることができるのだから。
 あたしの説明にもかかわらず、得体の知れない動作を繰り返す娘の姿をママはかなり警戒しているようだった。

「怪しいオカルトに嵌まったんじゃないでしょうね」

「ママ! ちゃかすならあっち行ってよ」

 文句を言うと、ママは腕を組んで肩を竦め、勉強机のふちにお尻を乗せた。

「実際のとこ、アスカは何をしてるの?」

「決まってるでしょ。シンジがもっとあたしを好きになってくれるよう念を送ってるのよ」

 ぶっ、という噴き出す音に続いて、ママはごほごほとわざとらしい咳を二、三度した。あたしはそんなママを横目で見て、ふんっ、と鼻を鳴らした。
 そうなのである。あたしはシンジに恋をしているのだけど、その彼が目下悩みの種になっているのだ。
 シンジがとてもいい奴だということは、この十年、彼と幼なじみをやっているあたしが太鼓判を押す。何といっても、あたしが好きになるくらいだもの。
 問題は、シンジがこと恋愛の機微となると、とことん鈍い、というより何を考えているのかさっぱり分からないということ。そして、居心地のいい幼なじみという関係から抜け出すのをあたし自身が恐れているということ。
 これまで喧嘩だって山ほどしてきたけれど、シンジと一緒にいて居心地の悪い思いをしたことなんて一度もない。いわば、彼とは歯車がきっちり合うのだ。でもそれも気心の知れた友人という距離感だからこそなのではないだろうか。こうして窓越しに隔てられているからこそ、あたしたちはお互いにうんざりせずに済んでいるのではないだろうか。
 不安は尽きないし、いくら悩んでも、正しい答えを教えてくれる人はいない。その方面ではシンジが何を考えているかもわからないし。
 でも、この惣流アスカ、それくらいで引き下がるようなタマじゃない。
 シンジは明後日で十四歳になる。半年後にはこのあたしもそうだ。あたしたちは、もういつまでも子ども同士ではいられないのだ。
 それを悟った時、あたしは決めた。
 ぐずぐず悩むより、きちんと彼に想いを伝えよう。彼の誕生日に告白しよう、と。
 古今、恋する女の子はおすもうさんよりタフでガッツがあると決まっているのよ。

「で、ママは何しに来たわけ?」

「アスカがちゃんとお勉強してるかしらと思って。一応机に教科書は出てるわね」

「ノートもペンも出てるでしょ。ちゃんとやってたわよ。今は休憩」

 あたしが言うと、ママが疑わしげな口調で返した。

「それ、休憩になってる?」

「もう、うるさいなぁ。ほっといてよ」

 ママに邪魔されつつ、十本の指をぴろぴろさせながら、あたしを構え〜、もっと相手しろ〜、両想いになりたい〜、と念を送る。
 想いを伝える決意をしたといっても、それはそれ、これはこれ。東に神社あればお参りして賽銭を投げ、西に易者あれば行って占ってもらい、という感じに、この恋を叶えるためならありとあらゆることを試さずにはいられない。バカらしいと思われるかもしれない。でも、繰り返すようだけど、あたしはマジなのだ。

「ねえ、アスカ……。そんなわけの分からないことをしてないで、直接話したら? いつもそうしてるじゃない」

「このあとそうするの! でもこれも大事なの!」

 何しろシンジの鈍感さ加減ときたらとんでもない。つい先日も、二人で遊びに行った駅ビルに入っているアクセサリーショップで、並べられた指輪を前にあたしが目を輝かせているのを見たシンジが、言うに事欠いて「こんなのずっと指に着けてて、邪魔にならないのかな」とのたまった。指輪を見ている女の子の隣で、よ? さすがのあたしも頭をかきむしりそうになったわ。店員さんも苦笑いをしていた。
 確かに楽器を演奏する彼にしてみれば、正直な印象だったのかもしれない。それは理解できる。シンジにとっては、きらきらした指輪やピアスなんてどれも同じに見えるのだ。これが彼の好きなクラシックCDなら、同じ曲が収録されていても一枚一枚の違いに事細かにこだわるに決まっている。彼はクラシックの一曲一曲を聴いて、奏者の技巧や感情に思いを馳せる。でも、あたしがなぜ指輪に目を輝かせるのか、指輪を前にどんなことを思い描いているのか、そういうことになると彼にはまるっきり見当もつかなくなるのだ。
 いくらなんでも、その場でシンジがあたしに指輪をプレゼントしてくれるなんて期 待したりしていない。でもいつかは……。
 恋する女の子なら当然の思いってものじゃない。それをあいつときたら、あーもー!
 念力に頼りたくなるあたしの気持ち、分かるでしょ?

「まあ、好きになさい。でも、ママは得体の知れない怪しいおまじないより、もっと普通に神様にお祈りしたほうがいいと思うの。今のアスカ、相当変だも の」

「あたし、クリスチャンじゃないもん。いるかどうか分からない神様より、自分の力で何とかするんだもん」

「その手にょろにょろで?」

「この手の先から念力的なものが出てるのよ。こう、びびびーっと。それをシンジに届けてるの」

「ユリ・ゲラーじゃあるまいし、手をかざしたって何も出やしないわよ。ま、ほどほどにしておきなさい。もう夜なんだから、このあとシンジくんとあんまり長話しちゃ駄目よ」

「はーい」

 ママはかぶりを振ると、近づいてきてあたしのおでこにキスをしてくれた。それがくすぐったかったので、ちょっと首を竦めてから、あたしもシンジに恋のメッセージを届けるのを中断して、ママのほっぺたにキスを返した。

「あとで紅茶持ってきてあげるわ」

「とかいって、また様子をのぞきに来るのが目的じゃないの?」

 あたしが勘繰ると、ママは肩を竦めて答えた。

「母親だもの」

 理解があるんだか、ないんだか。
 ママはあたしの恋を知っていながら口出しをしない。
 引っ越してきたその日、お隣の男の子に恋をしたことを興奮したあたしはママに向かってまくし立てた。それはもう十年も前のこと。自分自身びっくりするほど、あたしは一途だ。それを考えると、ママの態度も頷けるような気がしないでもない。





 ママが部屋から出て行くと、あたしは引き出しから懐中電灯を取り出し、窓際に置かれたベッドの上にあがってカーテンを開いた。
 あたしの部屋とシンジの部屋は、隣り合っているとはいえ、窓から窓まで三メートル以上距離がある。さすがにひょいと乗り越えられる距離ではないけど、窓越しに顔をつき合わせて話すには問題ない。初対面から彼にぞっこん恋に落ちたあたしが、この窓を使わないはずがなかった。
 でも、特に夜はそうなのだけど、この窓越しの会話という奴がけっこう騒音になる。実際にこれまで何度もパパやママから近所迷惑だと叱られている。それなら携帯電話を使えばいいだろうと思うかもしれないけど、幼い頃は当然そんなもの持っていなかったし、シンジに至ってはいまだに持ってない。それにお金もかかるし。
 でも、あたしたちは携帯電話に代わる、あたしとシンジだけを繋ぐ特別な電話を持っているのだ。これならうるさくて近所迷惑だと叱られることもないし、内緒話もできる。
 あたしたち二人の特別な電話を初めて使ったのは、五歳の時だった。それは二つの紙コップの底を長い糸で繋いだもの、つまり糸電話だ。幼稚園で制作したものを持ち帰ってシンジと一緒に遊んでいるうちに、あたしたちはその素晴らしい使い道を思いついた。以来、どちらからでも会話に誘えるよう、お互い一つずつ糸電話を持ち、壊れるたびに新しいものを作り直しながら、窓越しの会話に利用している。
 ちなみにある時から、糸には必ず赤い色のものを使用している。運命の赤い糸。その素敵な言い伝えを知った日の夜には、ママの裁縫道具の中から探し出した赤い糸を紙コップに繋ぎ直したものだ。当然、ママは大爆笑したわ。失礼しちゃう。
 まず必要なのは、合図のための懐中電灯だ。すでに言ったように、窓と窓との間は三メートル以上の間隔が空いている。あたしの腕は彼の部屋の窓をノックできるほど長くはない。かといって声を張り上げて呼びかけるわけにも行かない。そこで、懐中電灯だ。あたしたちは数種類の合図の仕方を決めた。三回点滅が、糸電話で話そうという合図。承諾も三回点滅。二回点滅は、今話せない拒否の合図といった具合だ。時と共にバリエーションが増えてきて、今では二十種類くらいの合図があり、中には今怒っているとか、お腹がすいたとか、元々の目的とは関係ない合図まである。
 回りくどいようだけど、案外このやり方で相手の合図に気付くものだ。もちろん、いつもすぐというわけには行かないけど、何度か繰り返したり、間隔をあけてみたり、色々試すのもまた楽しみの一つなのだ。といっても、シンジ相手でなければ、絶対に楽しいなんて思わないだろうけど。ちなみに、まったく気付いてくれない相手に業を煮やすこともたまにはあって、そんな時には重石をつけた糸電話をシンジの部屋の窓に投げつけてしまう。
 重石に使っているのは、紙コップのサイズに合う小さなぬいぐるみだ。あたしのはおさるさん。シンジのはペンギン。これを紐で紙コップにくくり付けて、相手に投げ渡すというわけ。
 さて、今日はすぐに気付いてくれるかしら、とあたしはシンジの部屋の閉じた窓に向けて、懐中電灯で合図を送った。
 最初の合図からしばらく待つと、承諾の合図とともにカーテンが開いてシンジが顔を覗かせた。この瞬間がいつもどきどきして、あたしは大好きだ。窓を開けた彼に向かって、あたしは「行くわよ」と声をかけながら、おさるさんをくくり付けた紙コップを投げ渡した。最初のころは投げ渡しにずいぶん失敗したものだ けど、今となっては目を閉じていても的を外さない自信があるほどだ。当然、今投げた糸電話の片割れも、受け取ろうと待ち構えたシンジの手の中に吸い込まれるように落ちて行った。
 窓越しに向かい合い、あたしが口元に紙コップをあてがうと、シンジは耳に当てた。

「今何してたの」

 一言めをしゃべると、今度は糸電話を耳に移動させる。すると、紙コップからくぐもった声が返ってきた。

「宿題。アスカは?」

 また耳から口へ。シンジはその逆。

「あたしは宿題なんてとっくに終わらせたわよ。さっきまでは数学の復習してたの」

 また繰り返し。

「アスカはえらいなぁ。ぼく、数学苦手」

「あたしは得意よ」

「ちぇ。自慢げに言うなよな。けど、ぼくもアスカが苦手な音楽は得意」

「誰が音痴ですって?」

「すいません」

「分かればいいのよ」

 一言ずつ、糸電話を口と耳とで往復させながら、あたしたちの会話はゆっくりと進む。手の届きそうで届かない、窓と窓の間に渡した赤い糸に、声だけを伝わらせて。紙コップ越しにこの耳に直接届けられるシンジの声は、あたしだけのもの。このあたしが糸電話に託す声も、彼だけのもの。
 紅茶を持って来たママに途中で冷やかされたりしながら、この独特な会話をあたしたちは三十分ほど楽しんだ。おやすみの挨拶をして窓を閉じ、帰ってきた糸電話を胸に抱きしめて、そのままベッドに倒れこむ。

「あたしもあんたみたいにこの窓を飛び越えられたらいいのに」

 紙コップの一方にくくり付けられたひょうきんな顔のおさるさんに向かって、あたしはため息交じりに漏らした。

「うっきっきー」

 おさるさんは陽気な鳴き声で慰めてくれた。
 本当はあたしが自分で声を出したんだけどね。





 六月五日の朝、一緒に登校するためにあたしはシンジの家の前で彼を待っていた。
 あたしたちが住んでいる地域でも気象庁は梅雨入りを発表していたけど、朝からよく晴れた青い空が眩しい。この晴天は明日も続くそうだ。このことがあたしの恋に何かしら象徴的な意味を持っているような気がして、朝からちょっと気分がよかった。
 一か月後の七夕では、晴天でなければ織姫と彦星は年に一度の再会を果たすことができないということになっている。一方、このあたしの十年越しの片想いに 決着がつく明日六月六日は、梅雨らしからぬぽかぽか陽気の晴天だという。天の川越しならぬ窓越しの恋を天も応援してくれているのかしら。
 などという妄想をたくましくしていると、わが彦星がやっと姿を現した。

「グッモーニン、シンジ」

「おふぁよ、アスカ」

 あくび交じりに挨拶を返したシンジは、目をこしこし擦りながらあたしと並び歩き始めた。

「シンジ、寝癖で髪がはねてるわよ」

「えっ。濡らしたんだけどなぁ」

「あたし、くし持ってるから、次の信号待ちの時に梳かしてあげる」

 笑いながらはねた一房を手で撫でると、しっとりと濡れていた。
 こうして一緒に学校に行くのは、もう十年続けられているあたしたちの習慣だ。からかわれることもあるけど、この習慣を変えようとしたことは一度もない。ちなみに朝に彼の寝癖を直すのも、この十年のあたしの役目だ。あたしは心の中でこれをとても素敵な役目だと思っている。
 学校に着いて自分の下駄箱のふたを開くと、上履きのうえに白い封筒が乗せられていた。取り出して眺め、あたしはふんっ、と鼻を鳴らした。封筒の表には「惣流アスカ様」とだけおおらかな字で書かれていた。

「ねえ、シンジ」

 あたしは振り返り、向かいの下駄箱で靴を履きかえているシンジに声をかけた。

「なにー?」

 のほほんと間延びした返事を寄越してからシンジは顔を上げ、あたしが彼に見えるように掲げているものに気付いて顔をしかめた。

「また?」

「うん、また」

「もてるね」

「あたし、可愛いから」

 熱のこもらない口調で言い合って、あたしたちはそろってため息を吐き出した。
 あたしが昔から可愛いのは、もちろん言うまでもない(文句ある奴、ちょっと廊下に出なさい)のだけど、目に見えてもて始めたのは、中学校に入ってからのことだ。折悪しく(それとも良く?)あたしたちが一年生のころに流行った恋愛ドラマがあった。そのドラマは何十年か前の日本を舞台にしていて、劇中で下駄箱の中にラブレターを忍ばせる場面が印象的に使われていたために、携帯メールで告白したり別れたりするこの時代に件の懐古趣味が一躍もてはやされることになったのだ。そして、あたしはもっぱらその被害を受けているのだった。
 もっとも、よく知りもしない相手にひとめぼれをするたくさんの男の子たちをあたしは責められない。なぜなら、あたしの恋もひとめぼれから始まっているから。でも、だからといって、彼らの気持ちにいちいち応えるわけにはいかない。
 こう言ってしまうと、申し訳ないというか、まるであたしが酷い人みたいなのだけど、正直に白状して、シンジ以外の男の子のことなんてどうだっていい。
 あたしはとにかく、他の何をおいても、まず第一に、恋するシンジのことが欲しくて欲しくてたまらないのだ。
 そして真実手に入れたなら、彼という人にかかりきりになりたいのだ。
 とはいえ、実際にシンジのことだけ考えていては生活して行かれないから、あくまでその心意気でっていうことだけども。

「誰からか見た?」

「ううん。見てない。シンジは見たほうがいいと思う?」

 意地悪な質問にシンジは困った表情になって、つっかえながら答えを返した。

「名前も確かめられずにラブレターを捨てられるのは気の毒だと思うよ。でも、アスカが別に知りたくないなら、いいんじゃないかな……その、つまり、見なく ても」

「ふぅん、そう」

 困っているシンジの表情をもっと見ていたいという欲求をぐっと抑え、あたしは視線をむりやりラブレターのほうへ向けた。
 認めたくないが、あたしもあまり字が上手いほうじゃない。封筒の表に綺麗とはいえない字で書かれた自分の名前をしげしげ眺め、あたしは思った。やはりこういう場面では字が綺麗でないと、真剣な思いにどこかユーモラスというか、間の抜けた印象を加えてしまう。字づらの綺麗さが人品骨柄や思いの真剣さを左右するわけではないけれど。 その点、シンジは読みやすい几帳面な字を書くので、案外ラブレターには向いているのかもしれない。シンジなら、あの好ましい字を使ってどんな手紙を書くのだろう。彼からのラブレターなら、宝箱にしまって大切にするのに。
 それはともかく、あたしはここでさらにシンジを困らせてやろう、と考えた。別に深い意味はない。いつだって女の子は好きな男の子の心を試したくなるもの なのだ。
 ことさらにさりげない口調で、あたしは言った。

「たまには読んでみようかしら。案外会ってみたくなるかもしれないし」

 と、その場で封を開こうとした。
 でも、それをさえぎるように、伸ばされたシンジの手が白い封筒をなかば握りつぶした。

「あ」

 どうもシンジ本人もびっくりしているようだ。自分の行動にあとから気付いたように声を漏らし、自分の手とくしゃくしゃに握った封筒を信じられないような 目で見ている。
 もちろん、びっくりしているのはあたしも同じだった。でも、まだ驚きの渦中にいるシンジと違って、あたしの心はすぐに彼の行動の意味に気付いた。

「あ、あれ? ごめん、アスカ。何かつい……」

 いいわけのように言いながら手を離すシンジに向かって、あたしは努めて落ち着き払った口調で声をかけた。

「いいのよ。別にそこまで興味があったわけじゃないわ。いつもどおり読まずに捨てることにする」

「う、うん。アスカがそうしたいなら」

 いまだに自分の行動に戸惑っているシンジが視線を逸らしているのは好都合だった。なぜって、落ち着き払った口調を表情が裏切っていたから。簡単に言えば、あたしはにやにや笑いをこらえられずにいた。だってこれが笑わずにいられるわけないじゃない。シンジは今、間違いなく嫉妬したのだ。
 シンジが何を考えているか分からないと言いつつ、彼の好意を疑ったことはなかった。でも、それが恋心なのか友情なのか、これまであたしには区別がつかなかった。控えめに言っても、シンジにはぼややんとしたところがあるし、過去にあたしが受けてきた交際の申し込みに対しても、明らかな嫉妬を見せたことなど一度もなく、どちらかというと彼は無謀な挑戦者たちに呆れている様子だった。
 けれど、そんな彼の態度に初めて変化が現れた。しかも、このあたしが想いを伝える決心をした今になって、だ。これはもう、相当に脈があると考えてもいい。できるなら、その場で飛び上がって喜びを表したいところだったけど、あたしはその気持ちを胸の中にぎゅうぎゅう畳んで仕舞った。何せ周りには他の生徒たちもたくさんいる。

「おはようさん、シンジ。と、ついでに惣流」

 かけられた声に、あたしとシンジは揃ってそちらを向いた。そこには短髪で日に焼けた肌をした少年が立っていた。彼はあたしたちのクラスメイトで、鈴原トウジという。シンジの親しい友人だ。

「ついでって何よ」

「おはよう、トウジ」

 シンジは微笑んで友人に挨拶を返した。先ほどの戸惑いからはようやく立ち直ったらしい。
 鈴原はシンジと並んで上履きに履き替えながら、あたしのほうへ視線を向け、握りつぶされた封筒に気付いて白い目になって言った。

「お前にはせっかくもろたもんをせめて丁寧に扱うような優しさはないんかい」

「あ……、トウジ、それ」

 自分の仕業である、とシンジは言いたかったのだろうが、言い出しにくいのか口ごもってしまった。

「あん?」

 そんなシンジに鈴原は問いかけるような眼差しを向ける。
 ここで大人しくシンジに庇ってもらってもいいのだけど、そうすると彼が親友からどんな風にからかわれるか分からない。鈴原は他人の色恋を冷やかしたがるガキっぽい奴なのだ。親友相手でもきっと遠慮したりしない。一方のあたしは、どうせシンジの親友からの評価が最初から低いので、せっかくもらったラブレターを読まずに握りつぶす女、という評価が加わったところで、いまさらどうということもない。だから、ここは自分がやったことにしようと決めて、シンジが答えてしまう前にあたしは口を開いた。

「どうせ断るんだからいいのよ。大体、鈴原には関係ないでしょ。あ、まさかこれ、あんたからじゃないでしょうね」

 シンジ以外の相手にそんな優しさは持ち合わせていない。
 とはさすがにはっきり言うことができず、あたしは多少のうしろめたさを隠すために攻撃的な口調で言い返した。

「アホか。恐ろしいこと言うなや。何でわしがお前なんかにコクらなあかんねん」

「誰がアホですってぇ」

「アホなこと言う奴にアホ言うて何が悪いねんドアホ」

 鈴原も切り返しに容赦がなかった。そもそも彼とあたしとはまったく性格が合わないのだ。もし彼が大好きなシンジの親友でなければ息の根止めてやるのに。こんな口汚いのがどうしてあたしの優しいシンジと親友になれるのか、本気で理解に苦しむわ。

「言い過ぎだよ、トウジ。アスカも。二人ともそのへんにして、教室に行こうよ。予鈴が鳴っちゃうよ」

 あたしたちの言い合いを眺めていたシンジがとりなすように言った。できればあたしはこの場で鈴原をへこましてやりたかったのだけど、鈴原の暴言からシンジが庇ってくれたのが嬉しかったので、ここは矛を収めることにした。それに、確かにもうすぐ予鈴が鳴る時間だった。

「せやシンジ。明日お前の誕生日やんな。わしとケンスケでごっつうええもんやるから、期待しとけや」

 階段をのぼっている時、鈴原がシンジと肩を組んで、いかにもろくなことを考えていない口調で言った。

「ちょっと。シンジにろくでもないものをあげたりしないでよ」

「惣流には関係あらへんやろ」

「シンジに悪い影響を与えないでって言ってるのよ」

「お前はこいつのおかんか」

「幼なじみよ!」

 もしももしもエッチなものとかだったら、絶対に許さないんだから。知っているのよ、時々鈴原たちからエッチなアイテムを借りたりしていることを。

「ふ、二人とも、両側からそんなに引っ張ったら、階段落ちちゃうってば」

 まるで大岡裁きみたいに両側から引っ張られているシンジは弱り切った声を上げた。それであたしも鈴原も引っ張るのはやめたけれど、階段を上がりきるまで、あたしはシンジの腕をぎゅっと抱えたままだった。そのことをあとで友達にからかわれた。でも構うもんですか。シンジはあたしのなんだから。





「えーっ、ついに告白しちゃうの?」

「しーっ! 声が大きいってば」

 黄色い悲鳴を上げた友達を慌てて制止して、あたしは辺りを見回した。中庭にはあたしたち以外の生徒の姿もちらほらと見られる。でも、こちらに注意を払う人間はどうやらいないようだった。
 ぽかぽか陽気が気持ちよかったので、中庭でお昼ごはんを食べようということになって、あたしは友人二人と一緒にベンチに並んで腰かけていた。
 あたしに注意されて口を押さえた友人は洞木ヒカリという。そばかすが可愛いおさげの女の子だ。もう一人の友人、ショートカットの霧島マナは、おはしに突き刺したミートボールをこちらに向けながら、いたずらっぽい表情で言った。

「フラれなきゃいいけどね。何しろあの鈍感のシンジくんだもん。幼なじみのままでいたい、とか本気で考えてるかもよ」

 常日頃から愚痴を聞いてもらっているこの二人は、あたしの大好きな幼なじみがどれほど恋愛方面に鈍いか、よーく知っている。いつもならあたしも言い返せず、なかば諦め気味に同調するところなのだけど、今日は違った。

「ふふん。それはどうかしら」

「おっ。何その余裕の表情」

「何かあったの? ま、まさかもう碇くんと。きゃあぁぁ」

「ヒカリ、ヒカリ、落ち着いて」

 何を想像しているのか知らないけど、一人で顔を赤くしてヒートアップしているヒカリを落ち着かせてから、あたしは今朝の下駄箱での顛末を話した。

「でも、それってほとんど無意識よね」

 話を聞いたマナは、首をかしげながら疑わしげに言った。
 確かにあの時のシンジは意識してあたし宛のラブレターを握りつぶしたわけではないだろう。でも、少なくとも彼は、無意識下ではあたしを誰にも渡したくないと思っているのだ。……たぶん。きっと。そうに違いない。シンジがあたしを独占したがっている……かもしれない。それだけでこんなに嬉しいなんて。あたしって実は束縛されるのが好きなマゾなのかしら。

「何で赤くなってんの、アスカ」

「い、いや、別に。とにかく、無意識だろうと何だろうと、そういう気持ちがあるのは確かなのよ。もしシンジが自分で気付いてないんなら、あたしが気付かせ てやればいいんじゃない」

「おー、言うなあ。ねえ、ヒカリ?」

 マナに同意を求められたヒカリは、俯いてぷるぷる震えていたかと思うと、がばちょっと顔を上げ、あたしの手を取って握りしめてきた。

「そのとおりよ、アスカ!」

 鼻の先が触れ合うくらい近くから、ヒカリが熱っぽく叫んだ。それに驚いたあたしは、危うく膝の上のお弁当箱を落としそうになった。

「わっわっ」

「相手が自分で気付かないなら、こちらから気付かせればいいのよ。向こうがその気になるのをじっと待ってるなんてバカみたいだわ。そうよ、そのとおりよ!」

 なぜだか知らないけど、あたしの言葉が彼女にいたく感銘を与えたらしかった。それはとても結構なことだし、友人として嬉しくもある。でも今は、膝の上のお弁当を守らなければならなかった。

「そ、そうね。ヒカリ。分かったから、もう少し離れて。ちょっとマナ、あたしのお弁当箱おねがい。落としちゃう」

「はいよ」

 マナは気安く返事をして、膝の上のお弁当箱を取ってくれた。

「サンキュ、マナ。で、ヒカリはもう少し落ち着いて。話はちゃんと聞くから」

「ご、ごめんなさい、アスカ。わたし、取り乱しちゃって」

 肉薄していたヒカリはようやく離れてくれて、申し訳なさそうに謝った。
 ヒカリも鈍感な誰かに恋をしているのかしら、とあたしが考えていると、マナがのー天気に口を挟んだ。

「ヒカリが取り乱すのはしょっちゅうだけどね。わぁ、ミニハンバーグ美味しそう。もーらい」

 おはしの先でぷすりと刺して、マナは二つしかない特製ミニハンバーグのうち一つをぱくりと食べてしまった。

「こらーっ、あたしのハンバーグ!」

 ママの手作りであたしの大好物なのにー!

「いいじゃん。ケチケチしない。もう一個あるでしょ。わたしのコロッケ、トレードしてあげるから」

「そういう問題じゃ……」

「カニクリームコロッケだよ」

「……仕方ないわね」

 カニクリームコロッケも好きなんだもん。仕方がないの。

「まいどあり」

 食べられてしまったハンバーグの代わりにコロッケが乗せられたお弁当箱を返されたあたしは、気を取り直して先ほどの話題を続けることにした。

「とにかくそういうことで、勝算は充分あるとあたしは思うわ。一度や二度上手くいかなくたって、諦める気はそもそもないけどね。十年続けた片想いは伊達じゃないのよ。何がなんでも落としてやるわ」

「ま、もとから仲いいしね。からかっといてなんだけど、アスカがフラれるとは思ってないよ」

 マナの言葉にヒカリも頷いて言った。

「うん。わたしもそう思うわ」

「ありがと、二人とも」

 持つべきものはよき友よね。

「はたから見てたら今までだって付き合ってるようにしか見えなかったけどね。むしろいまさら告白するの、っていう」

 一人は引っこ抜きたくなるような毒舌だけど。

「ずっと家が隣の幼なじみだったんだもの。関係を変えるのは勇気がいるのよ、きっと」

 その点、ヒカリははるかに理解があるし、優しかった。暴走癖は玉に瑕だけど。
 彼女の言うとおり、十年も続けてきた関係に変化を加えるのは、あたしだって怖い。泣きたくなるくらい怖い。窓越しにシンジの部屋を眺めていると本当に泣き出してしまうこともある。
 でも、あたしは決めたのだ。
 幼なじみから一歩先に進むのだと。
 十年間、あたしは幼なじみとしてずっとシンジの隣にいられた。でも、十年後はどうだろう。二十年後は? その時もまだ幼なじみではいられるかもしれない。しかし、たとえそうでも、あたしは彼の隣にはいられないだろう。彼の一番ではなくなっているだろう。
 大好きで大好きでたまらない彼のことを失いたくないのなら、あたしにはもうぐずぐずしている時間はそれほど残されていないのだ。

「四歳からずっと一緒かぁ。そういうの、わたしはうらやましいな」

「あら、マナでもそんなこと思うの?」

 珍しくヒカリがからかうようなセリフを口にする。

「これでも乙女ですから」

 コロッケを突き刺したおはしを振り振り、澄ました顔でマナは返した。

「食い意地張った乙女のくせに」

 ぽかぽか陽気の日差しを浴びて、あたしたちは声を揃えて笑い合った。





 手元の時計は午後十一時五十七分を指していた。もうじき日付が六月六日に変わる。
 カーテンを開いたあたしは、窓越しに明かりの漏れるシンジの部屋の窓を見つめた。手には糸電話を持っている。
 窓を開けると、ひんやりした空気が流れ込んできて頬を撫でた。懐中電灯の合図を送る。一度目では返事がなく、二度目の合図を送って少し待つと、承諾の返事が戻ってきた。
 シンジは水色のチェック柄のパジャマを着ていた。もう寝る前だったのだろう。あたしもピンクの水玉模様のパジャマを着ている。昔はよくお互いの家にお泊りをして一緒に寝たものだし、いつでも窓越しに顔を合わせることができるので、あたしたちはお互いのパジャマ姿をけっこう見慣れていた。
 といっても、こんな夜中に糸電話で会話をすることは滅多になかった。そのせいか、窓から姿を見せたシンジは、少し不思議そうな顔でこちらを窺っていた。
 あたしは何も言わず、おさるさんをくくり付けた糸電話を相手に投げ渡した。危なげなく受け取ったシンジに向かって、糸電話を通して話しかけた。

「話があるの。今、構わない?」

「いいよ。話って?」

 あたしたちの声は、いつもより密やかだった。それは夜遅い時間だからということもあるが、むしろこれから打ち明けようとしている事柄に対するあたしの覚悟が、シンジにも伝わってしまっているせいだと思う。

「ちょっと待ってね」

 手元の時計を見下ろすと、あと数秒ほどで午前零時になるところだった。秒針の規則正しい動きをほとんど息を止めて見つめる。そしてついに細長い針がてっぺんを指し、五十九分を指していた分針がそれに重なったことを見届けると、あたしは顔を上げ、胸に手を当てて深呼吸してから、糸電話を構え直して大好きな人に言葉を伝えた。

「お誕生日おめでとう、シンジ」

 糸電話を耳に当てたシンジは少し目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んでくれた。そんな表情をしてくれて、あたしも嬉しかった。

「ありがとう、アスカ。そっか。もう六日になったんだね」

「誰よりも早く、一番にお祝いしたかったの。シンジがまだ寝てなくてよかったわ」

 逆光で分かりにくいけれど、あたしの大胆な言葉にシンジは顔を赤らめたようだった。
 もちろん、こちらだってドキドキしっぱなしだ。実は情けないことにさっきから震えが止まらない。あたしは彼から見えないところで、こっそり手を握ったり開いたりした。これはシンジが緊張した時の癖だけど、あたしにとってもおまじないになっていた。

「プレゼントもあるのよ。受け取ってもらえる?」

「今?」

「そう、今。気に入ってくれると嬉しいんだけど」

 あたしは一度糸電話を口から離し、大きく深呼吸した。顔が真っ赤に染まっているのが自分でも分かる。シンジからもたぶん見えているだろう。ピンクのパジャマの上からドキドキ揺れている左胸を押さえて、乾いたくちびるを舐め、再び糸電話を口にあてがった。

「プレゼントはね、あたし。あたしがシンジの彼女になってあげる」

 シンジは口を少し開き、赤い顔でこちらをじっと見つめていた。目は見開かれて、信じられないという表情をしていた。
 実は、シンジの反応次第では、用意していた予備のプレゼントを渡すつもりでいた。彼が欲しがっていたクラシックCDの新譜だ。でも、いざ告白の場面になってみると、そんなことはあたしの頭から吹き飛んでしまっていた。

「返事を聞かせて?」

 あたしは口もとに当てていた糸電話を耳に移動させて、シンジの答えを待った。一秒一秒がとても長く感じられた。今この場の沈黙が十年の重みを備えている かのようだった。
 やがて、紙コップを口元に当てる物音と緊張した息づかいが、赤い糸を伝わってあたしの耳に届いてきた。
 いよいよなのだ。目をぎゅっと閉じたあたしは、決して彼の言葉を聞き漏らすまいと、糸電話に当てた耳に意識を集中させた。

「ありがとう、アスカ」

 シンジの声はささやくようで、低く甘く、耳をくすぐった。

「嬉しいよ。ぼくもアスカに彼女になってほしい」

 あたしは目をぱっちり開けて、向かいの窓にいるシンジを見た。
 もしかすると聞き違いかもしれない。そう思って、あたしは糸電話を構えて、彼に訊いた。

「本当に?」

「本当だよ。アスカこそ、本気なの?」

 ためらいのない声でシンジは答えて、逆にこちらに同じ質問をしてきた。答えなんて分かりきっている。いつの間にか身体の震えは止まっていた。その代り、 胸のドキドキはいっそう激しくなっていた。この手でしっかり押さえていなくては、身体ごとどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。

「もちろんよ。このプレゼントの返品は不可だからね」

「それって、ぼくとずっと一緒にいるってこと?」

「シンジがそうしたいなら」

 あたしはそう答え、高鳴る胸を押さえて十年慕い続けた男の子をじっと見つめた。
 再び糸電話を口元に当てた時、シンジが微笑んだのが分かった。彼は優しく細められた目であたしの視線を受け止めていた。

「うん、そうしたいな。これからもずっとアスカと一緒にいて、結婚して、子どもを育てて……そうやって一緒に年を取りたいな」

 片想いは切なくて涙が出てくるものだということをあたしはよく知っている。
 でも、想いが叶った時にも、涙は自然と出てくるものなのだ。

「バカね。気が早過ぎよ、バカシンジ。でも、嬉しい」

 これで、あたしたちはもうただの幼なじみではない。
 これからは、お前はシンジの何だ、と訊かれたら、胸を張って「恋人」だと答えられるのだ。
 あたしは夢見ごこちで愛しい恋人を見つめた。二人ともパジャマ姿というのが何となく格好がつかないけれど、かえってそれがあたしたちらしいじゃない、と 思った。

「ねえ、アスカ?」

「うん。何?」

 シンジに名前を呼ばれて、あたしは一言だけ答えてから、また糸電話を耳に戻した。涙に濡れた目をごしごしこすって、シンジの顔をしっかり見つめる。

「好きだよ」

 シンジのバカ。せっかく涙を拭いたのに、台無しよ。

「あたしも好き」

 それからあたしたちは、赤い糸で結ばれた糸電話の端と端とをお互いに掴んだまま、言葉を交わすでもなくただじっと見つめ合っていた。





 翌朝、玄関から出ると家の前でシンジが待ってくれていた。
 あたしは何となく気恥ずかしくって、ぴょんぴょん跳ねて彼の隣へ行くと、そのまま肩をぶつけて挨拶をした。

「おはよ」

「うん、おはよう。行こうか」

 言葉とは裏腹に、あたしたちは見つめ合ったままなかなか歩き出そうとしなかった。でも、そのままだと日暮れまでずーっと家の前で見つめ合っていることになってしまう。本心を言えば、それでも全然構わないのだけど、まともな社会生活を営んでいくためにはそうも言っていられない。

「行きましょ」

 言葉だけでは身体が動きそうになかったので、あたしはシンジの手を繋いで、軽く引っ張った……いや、本当はただ彼と手を繋ぎたかっただけなんだけど、とにかくそれでやっとあたしたちは歩き出すことができた。

「今日もいい天気だね」

 昨日と同じく、朝から梅雨らしからぬ雲一つない晴天を見上げ、シンジが気持ちよさそうに言った。

「ほんとに」

「明日からはしばらく雨らしいけどね」

「梅雨だもん。でも、今日まで晴れてくれてよかった。せっかくシンジのお誕生日なんだから、お天気だって気持ちよく晴れてたほうがいいもの」

「あー、うー」

 どう切り返せばいいのか分からなかったのか、変な唸り声をあげてから、結局シンジは笑って誤魔化した。彼がそんな態度なものだから、あたしも自分の台詞が恥ずかしくなってしまった。

「ぼくは、窓の向こうにいつもアスカがいてくれれば、晴れでも雨でもどっちでもいいかな」

 と思っていたら、シンジのほうが恥ずかしい台詞を吐いた。
 あたしは思わず繋いだ手をブランコみたいにぶんぶん大きく振った。

「バ、バカ!」

「ご、ごめん」

 これだから天然は!
 大体これからは窓の向こうで満足してもらっちゃ困るのよ。

「そういえばお誕生日といえば、シンジ」

「ん?」

「昨日鈴原が言ってたわよね。プレゼント期待しとけって。……エッチなアイテムだったら受け取っちゃダメよ」

 あたしがじろりとにらむと、シンジはあからさまに顔をひきつらせた。
 こいつ、さては期待してたわね。あたしというものがありながら。そりゃあ、エッチなことはまだ……できないけど、でも許せないわ。あたしは嫉妬深いの よ!

「だ、大丈夫だよ。いくらトウジたちでもそんな」

「泣くからね、あたし」

 没収して粉砕して焼却してあんたを殴ったあとでね。

「わ、分かりました……」

 泣くという宣言が効いたのか、それとも背後の本音を読み取って恐れをなしたのか、シンジは従順な返事をした。
 あたしはシンジの肩に身体を寄せ、小さな声で付け加えた。

「あたしだけを見てほしいのよ。やっとシンジの彼女になれたんだもん」

 この言葉にシンジははっとしたようだった。
 彼は何も答えなかったけど、あたしと繋いだ手にぎゅっと力を入れた。
 こうして手を繋いで歩いていると、初めて出会った時のことを思い出す。迷子になって泣いていたあたしの手を引いてくれたシンジ。
 それから十年経って繋いだシンジの手はちょっと汗ばんでいて、硬く骨ばっていて、あたたかかった。
 手の届きそうで届かない、窓越しに暮らすあたしの大好きな人。
 でも、あたしの片想いはついに窓を乗り越えて、こうして彼を掴まえることができた。

「初めてシンジと会った時もこうやって手を繋いだの、憶えてる?」

 期待を込めて訊ねると、シンジはあたしのほうへ顔を向けて、眩しそうに笑った。

「忘れるわけないよ。アスカは迷子になって泣いていた。本当のことを言うと、ぼくがアスカに声をかけたのは、何て可愛い子なんだろうと思ったからなんだ」

 あたしがびっくりして見ていると、シンジは赤くなった頬を恥ずかしそうにかいた。

「ひとめぼれだったんだ」

 最初は声も出なかった。あたしは何度も口をパクパクさせてから、やっとのことで声を絞り出した。

「でもあんた、ちっともそんなそぶりを見せなかったじゃない」

「だ、だって恥ずかしかったし、まさかアスカもぼくのことを……だなんて思わなくて」

「ずるい!」

 あたしは叫んだ。
 まったく何てことなのかしら。ひとめぼれはお互い様だったなんて。

「ずるいって言われても」

「だってそうじゃない。これじゃあ、あたしたち、最初っから両想いだったんじゃない!」

「へ?」

 シンジは何を言われたか分からないという風にぽかんとした。それもそのはず、あたしはいつから彼のことが好きだったか、まだ打ち明けていなかった。でも それより今は、この十年の片想いが、実はそうではなかったという事実にショックを受けていた。

「十年も無駄にしたんだわ。だったら、これからは目いっぱいに楽しんでその分取り返さなくちゃいけないじゃない!」

 あたしがまくしたてると、シンジは笑って言った。

「この十年、アスカと一緒で楽しくなかったことなんてないよ。でも、この先目いっぱい楽しむのは賛成かな。とりあえず今度の週末、駅前に遊びに行こうよ」

 今度はぽかんとするのはあたしのほうだった。

「……それってデート?」

 まさかあのシンジがあたしをデートに誘ってくれる日が本当に来るなんて。
 でも、そうだわ。彼氏と彼女なんだから、デートしてもいいんだわ。もし友達に見つかっても、「デートしてるのよ!」って胸を張って答えてもいいんだわ。
 ……これ、夢じゃないわよね?

「そうだよ。デートだよ」

 一応、念のためにシンジのほっぺたをつまんでみる。うん、柔らかいし、あったかい。夢じゃないわ。
 指を離してから、あたしは呟いた。

「どうしよう。嬉しい」

「前にアスカが指輪見てたでしょ。あそこにもう一度行こうよ。ぼくもえっと……アスカにプレゼントしたいから」

 本当にどうしよう。どこの誰よ、シンジが恋愛の機微に鈍いとか言っていたのは。

「あ、あたしの誕生日、まだよ……」

「知ってるよ。十二月四日だろ。そうじゃなくて、彼氏だからプレゼントしたいの。あの時、欲しがってたじゃないか。それに婚約指輪じゃないけど さ、昨日……あ、正確には今日だけど、アスカが告白 してくれた時に言ったよね。ずっと一緒にいたいって。だから、その約束の指輪」

「こ、婚約の婚約?」

「あはは。そんな感じ。婚約の婚約指輪」

 えー。
 うわー。
 これ、どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 今までだって好きで好きで仕方なかったのに、これ以上好きになっちゃったら、あたし、どうしたらいいんだろう。

「シンジ、あたし、幸せで死んじゃうかも」

 息も絶え絶えのあたしの手をしっかり引いて、シンジは頼もしく笑った。

「ダメだよ。まだまだ、これから先ずーっと一緒にいるんだから」

 これから先ずっと一緒に。
 そうだ。それこそあたしが求めてやまなかったことだ。
 ああ、それにしても彼氏になった途端、シンジは何て頼もしいのかしら。
 息を吹き返したあたしは、明るい声で彼に答えた。

「そっか。そうよね。よーし、それじゃ週末は思いっきり楽しまなくちゃ。二人の初めてのデートなんだもの」

 いつでも窓越しに会えるし、糸電話の赤い糸で繋がることはできるけどね。

「楽しみだね、アスカ」

「うん! どんな指輪買ってもらおっかな」

 あたしは先日アクセサリーショップで見たあれやこれやを思い浮かべて、うっとりした気分になった。早くみんなに見せびらかしたいな。さすがに学校に指輪 を着けては行けないけど。指にはめた指輪を見ると、あたしはシンジの女なんだ、って気分になるのかしら。きゃあー。

「あ、でもシンジ、お小遣い大丈夫なの?」

 あたしがシンジの誕生日プレゼントとして予備に買ったクラシックの新譜CDは、お小遣いがないからと彼が我慢したものなのだ。ちなみにそのCDは、今日 学校から帰ってきたら、彼の家に渡しに行くつもりでいる。きっと、シンジのお父さんとお母さんもケーキやプレゼントを用意しているのだろうし。
 質問に答えるシンジの声は、いつものちょっと頼りない感じだった。

「だ、大丈夫」

 ま、急には万事に頼もしい男になれないわよね。
 でも、それがあたしたちらしくって、ちょっと安心してしまったあたしは、シンジの肩に軽くぶつかって言った。

「これからもずっと仲良くしようね。好きよ、シンジ」

 おばあちゃんになるまでよろしくね。










fin.










あとがき

 シンジ誕生日のお話でした。
 本当は時間がなかったので書くつもりはなかったのですが、ずっと前に書きかけて放置していたお話を使って書いてみました。
 もともとの予定ではもう少し紆余曲折があるお話のはずだったのですが、時間が限られていましたし、コンパクトに変更。
 それでも六月六日には少し間に合いませんでしたけど。
 甘い作りなのはご容赦下さい。

 このような窓越し幼なじみ系のお話は他にもいくつか書きかけがあるのですが、実際に出来上がるのはいつになることやら。
 ともあれ、少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。

 では、皆様。掲載して下さった怪作様。
 ありがとうございます。


 rinker/リンカ





リンカさんからシンジ君おたんじょう日おめでとうのお話を貰いました!

更新日を一日遅らせてしまい、六月六日からさらに遠さがってしまいました…orz

窓越し幼馴染で糸電話通信、なかなか味がありますね。こういう状況は想像したことがなかったです。素敵な発想ですね。
あと、両思いで良かったです。当然?いや素敵なことです。

素敵なお話を書いてくださったリンカさんに是非感想メールをお願いします。


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