好きと言ったら負けるゲーム
F,kiss in the dark
「で、どうなのよ」
「でって何が?」
ミサトに訊ねられたアスカは、首を傾げてはぐらかした。
「わたしの目を節穴だと思ってるの? 最近シンジくんといい雰囲気でしょ」
ミサトの執務室に呼び出されたのは、任務に関して何か重要な話があるためだとアスカは思っていた。ところが、いざアスカが赴いてみると、気軽な調子で椅
子と飲み物を勧めたミサトが切り出した話題がこれだ。
狭い執務室には椅子に座って向かい合う二人以外の人間はいなかったが、アスカは思わずあたりを見回してから、誰にも明かしたことのないはずの秘密をあっ
さり口にしたミサトを怖い顔でにらんだ。しかし、上司兼
保護者の女性はまるで平気という顔で赤面した少女を見つめ返した。
「あら、可愛い顔」
「あたしをからかうつもり?」
「ひどいわ。わたしはただアスカを心配してるだけなのに」
ミサトは傷ついた顔になって大袈裟な仕草で胸に手を当てた。アスカは彼女の豊かに膨らんだ胸を不愉快そうに眺めてから、観念して言った。
「あいつと悪くない感じなのは認めるわ。ミサトがそう言うなら。でも、別に何もないわよ」
「でも、あの子が好きなんでしょ」
あっさりとしたミサトの言葉に、アスカの顔色は一瞬で茹で上がった。
「……そ、そんなこと……」
「ない? ある?」
ミサトはいたずらっぽく目を細めた。
「……ある」
タコみたいに真っ赤なアスカは口を尖らせてぼそぼそ白状した。頭が軽いふりをするわりにミサトの観察力がとても鋭いのはアスカとしても認めざるを得な
かったし、そもそも観察力の鋭さとは関係なく、日頃生活をともにしていれば自らの気持ちは筒抜けなのかもしれない、と彼女は考えたからだ。ようするに隠し
ても無駄だと観念したのだ。
顔に気持ちが書いてある間抜けと思われるのは屈辱だったが、このところの自分を思い返してみれば、それは否定しがたかった。たぶん、シンジを見つめる自
分の顔はさぞかし締まりがなくてだらしないに違いない。別に顔をふやかすのが趣味というわけではないが、シンジを見ていると自然とそうなってしまうの
だから、どうしようもないことだった。
ミサトは椅子から身を乗り出し、真っ赤になりながら本心をようやく認めた女の子に腕を回
し、その大きな胸に彼女の赤い顔を埋もれさせた。
「やっと認めたのね。一度認めると気持ちが楽になるでしょう?」
優しくささやいたミサトだったが、答える代わりにアスカはふがふがと苦しそうにもがいていた。
「おっと。ごめん」
慌ててミサトが拘束を緩めると、窒息しかけたアスカは彼女の大きな胸をいまいましそうに両手で押し退けてから、やっと答えた。
「楽になんかならないわよ。むしろ前より……」
アスカは言葉を濁したが、ミサトは得心した顔で言った。
「ははあ。恋の苦しみってやつね」
「ねえ、ミサト。恋するのって、もっと幸せなものじゃないの? 心が温かくなってなごむようなものじゃないの?」
質問するアスカの表情はきわめて真剣だった。目を細めてそれを見たミサトは、いつものふざけた態度を改めて、優しく答えた。
「少しも苦しくない恋なんてないのよ。みんなそうなの」
「知らなかったわ」
ふてくされた声でアスカは言った。
「それなら、これでアスカも知ることができたというわけね。恋をすると、心がわがままになるの。好きな人のことをなにもかも手に入れたいって。でも、それ
は簡単なことじゃないわ。木になったりんごをもぐように好きな人の心を奪うことはできない。だから、苦しいの。なかなか手に入らないものを心が切望するあ
まりに」
「じゃあ、手に入れればこの苦しみは終わる?」
アスカは期待を込めて訊ねたが、ミサトは首を横に振った。
「いいえ、終わらないと思うわ。それまでは自分一人しかいなかった心の中に愛する人を住まわせたとしても、字義どおりの意味で一つになれるわけじゃないも
の。認めたくはなくても、結局は他人なのだから。だから、あなたがして欲しいと思うことのまるで逆のことをしばしば彼はするでしょうし、そのたびにあなた
は怒ったり悲しんだりしなきゃならないでしょうね。恋が叶う前の苦しみとはまた別の種類のものだけど、まったく苦しみがなくなるわけじゃないのよ」
ミサトの説明は、アスカからしてみればまったくの理不尽だった。それではこの世の人々がこぞってあがめる愛というものにはなんの価値があるというの
か。結局は苦しみ続けなければならないのなら、まるで実在する神のごとく愛が熱狂的に信奉されるのは、理に適わないことのように思えた。
「納得いかないわ」
不満げにこぼすアスカに、ミサトは肩を竦めてみせた。
「百パーセント納得してる人間は少ないんじゃないかしらね。一人ひとりがばらばらで
不完全
な存在
なの
は、一見不幸なことに思えるわ。でも、だからこそヒトは愛情によって他者との繋がりを得て、生まれつき欠けているものを補おうとするの。
考えてみれば、人間は昔からそのことを知っていたのよ。残念ながら『一つになる』というのはあくまで象徴的な意味合いでしかないけど、わたしたちはでき
るかぎりそこに到達しようとする。心と身体の双方でね。愛情によって相手と心を通い合わせて一つになろうとするのと同じように、わたしたちは愛する相
手と結婚して一緒に暮らすことで生活を一体化させようとする。わたしたちの身体の構造は初めから一対に組み合わさることを前提にできていて、その結合を
『一つにな
る』とか『愛し合う』とか表現する」
最後の言葉にかすかに顔を赤らめたアスカを見て、ミサトは微笑んだ。
「その行為の果実として、二人の遺伝子が一つに組み合わさって産まれてくる子どもは、ある意味象徴的な『一体化』が具体的に結実する唯一のものといえる
わ。
でも、子どももまた、あくまで一人の他者なのよ。たとえこのお腹の中で育んだ生命だとしても。
結局のところ、触れえざるものに近づこうと努力し続けるのがヒトの一生だといっても過言じゃない。終わりがないからこそ、その努力は苦しみを伴う。たと
え限りなくそこへ近づけたとしても、真の
意味で他人と一つになれる人間はどこにもいないわ。
それでも、わたしたちは一つになろうと試みることをやめられないの。愛し合わずにはいられないのよ」
「なんのために? 生まれたときから一人なら、死ぬときも一人でいればいいじゃない。そこまでして愛情を求めることになんの意味があるっていうの?」
「あら、もちろん意味はあるわ。愛にはなにより大きな喜びがあるもの。たとえ、避けざる苦しみがあるのだとしても、その喜びのためにすべてを投げ打って人
生を
捧げるだけの価値があるし、現に愛なしでは人は生きられないのよ。大体そんなこと言うアスカだって、シンジくんへの気持ちを消せといわれて、素直にそれが
でき
る?」
ミサトの言葉にアスカはぐうの音も出なくて黙るしかなかった。腹の立つ言いかただったが、確かにミサトは鋭いところを突いていた。
「あるいは、こういう言いかたをしてもいいわ。愛は神様のように寛大で、神様よりも気前がいいのよ。得られる見返りには、この身を捧げさせるのに充分な魅
力
と、現実的な
説得力
があるってこと」
「日本人っていうのは、神をずいぶん安く見積もるらしいわね」
アスカは皮肉っぽく言ったが、ミサトは生真面目な顔を装って、あっさり言い返した。
「一応告白しておくけど、わたしは中立的不可知論者よ。ま、それはともかく、難しい話はおいといて、現実の問題に戻りましょうよ」
「問題ならいっぱいあるわよ。どの問題?」
「さしあたっては、いい感じになってるアスカとシンジくんが今後どうするのかっていう問題ね」
するとアスカは、天井を仰いで両手で顔を覆い、うめき声を上げた。
「そんなこと、あたしが知りたいわよ!」
実際問題として、シンジが退院して葛城家に戻ってからというもの、二人の関係はきわめて良好なものとなっていた。ささいな喧嘩は相変わらず起きていた
が、以前ほど頻発することもなく、険悪さも薄れていた。
お互いへの好意はもはや隠しようもなくはっきり感じられた。二人そろってこの手の感情にひどく鈍感であるという事実にもかかわらず、すでに相手の気持ち
が肌といわず五感すべてで感じ取れるほどだった。
しかし、具体的な進展はいまだなかった。
「悩むのは大いに結構なことだと思うわ、アスカ。でも、今はちょっと時間がないのよ、申し訳ないんだけど」
気まずそうなミサトの言葉を聞いて、顔を押さえていたアスカはぱっと手を外して彼女を見た。
「どういう意味?」
「あー、急な話で悪いけど、出張でしばらく家を留守にしなくちゃならないの」
ようするに、これが本当の用件だったのだ、とアスカは悟った。これを言いたいがために、ミサトはわざわざ訓練後に彼女を執務室まで呼び出したのだ。
「いつから?」
「実は明日から。……三日間」
アスカがまじまじと凝視する間、ミサトは亀みたいに首を縮めていた。
「どうして言わなかったのよ」
「今言ったわ」
「もっと早くってことよ!」
興奮したアスカのキンキン声が耳に突き刺さったミサトは目をぎゅっと閉じてそれをやり過ごした。叫び終わったアスカは、いまいましそうに自分の保護者を
にらんでから、怯えた口調で言った。
「つまり、三日間もあたしとシンジは二人きりで過ごさなくちゃならないってことなのね」
「そう。まずいわよね」
「怒るわよ、ミサト」
「ごめん。でも、実際そうなのよ。同居を決めたときに二人でした話を思い出して欲しいんだけど、その手の行為は絶対にしないと改めて約束してもらいたい
の。色々
な意味で、今はタイミングが悪すぎるわ。あなたたちはたったの十四歳で、使徒はこれからもまだ現れるのに、よりにもよってあと一歩踏み出すにはほんのそよ
風で
も足りるというこのときになって、わたしの目を気にせず二人きりになれる絶好の機会が到来したっ
てわけ。さあ、今こそあなたたちの理性に期待してもいいんでしょうね?」
ミサトの口調は保護者のそれというよりまるで懇願するようだった。頭ごなしな命令で子どもたちの真剣な気持ちをないがしろにしたくはないが、かといって
この事態を放置するわけにも行かず、二人の自発的な抑制に任せようというのだ。
アスカには彼女の気持ちが理解できたが、だ
からといって慰めにはならなかった。当事者はアスカ(とシンジ)なのだ。
「……正直に言うと、自信ないわ」
「アスカ!」
ミサトは青ざめて悲鳴を上げた。椅子から立ち上がった保護者を手のひらで押し留めて、アスカは言葉を続けた。
「わめかないで。ねえ、お願いがあるんだけど、ミサトが留守にする間、加持さんに泊まりに来てもらえるよう頼めないかしら」
「加持に?」
「加持さんの都合が悪ければ、別の誰かでもいいわ。でも、加持さん以外ならできるだけ女性でお願い。あまり知らない男の人は嫌だわ」
「加持の予定は訊いてみなくちゃいけないけど……、そうね、そうするのが一番ね」
「あたしもそう思うわ、ミサト。本当は自信がないというより、怖いのよ。理性では分かっていても、いざそのときになったら何をしでかすか、見当もつかない
の。正直、今のあたしはあんまり信用できないわ。少なくともこの問題については」
アスカはほとんど泣きそうな顔でかろうじてミサトに笑いかけた。
「笑っちゃうわよね、こんなの。でも、好きなのよ。この際はっきり認めるけど、自分でもどうにもならないほど好きなの。エヴァのことで複雑な気持ちがある
のは事実よ。でも、それでも止めることができないの。こんなこと初めてだわ。まるで気持
ちがいうこと聞かない。それくらい好きで好きでたまら
ないのよ」
肝心のシンジが相手ではないとはいえ、アスカがこれほどあからさまな告白をしたのは初めてのことだった。口に出してみると、自らの気持ちの強さを再認識
させられて、彼女自身驚いていた。これが愛情だというなら、確かにミサトの言うとおり、到底止められそうになかったし、また止める気も起きなかった。それ
どころか、この気持ちのためならばすべてを投げ打ち、あらゆる障害を乗り越えられそうな予感さえした。
だが、それはそれでアスカには恐怖なのだ。現時点では自分でも抑制できない行為の結果に責任を持たなくてはならないのだし、もっと単刀直入にいえば、よ
うするにキスより先に進む覚悟がまだ彼女にはできていなかった。実際にはキスでさえまだ頬にしかしたことがない。
そして、もっとも恐ろしいのが、問題の三日間でキスから先の段階に踏み込んでしまう見込みが充分にあるということだった。その衝動を抑え切れる自信がア
スカにはなかったし、この点に関してはもう一方の当事者であるシンジは彼女自身よりもっと信用が置けなかった。
ミサトはそんなアスカの葛藤をきちんと汲み取ってくれたようだった。
「情熱的ね。まるでわたしの若いころ……、いや、その話はどうでもいいや。とにかく、アスカの気持ちは分かった。わたしは全面的にあなたの味方よ。でも、
悪いけど今はこらえてもらうしかないわ。加持には話をしておくから、そういうことでいい? 了解?」
「分かったわ。了解よ」
「本当に大丈夫なのね、アスカ?」
その言葉は念を押すためというより、同じ女性として本当に心配してくれているのだと感じられ、アスカはミサトの気持ちを嬉しく思った。だから、彼女には
嘘をつきたくなかったし、その期待を裏切りたくもなかった。
「うん。大丈夫」
アスカが頷いたので、ミサトはほっとした表情になって、立ち上がりながら言った。
「よかった。じゃあ、話はこれでおしまいよ。今日はもう帰りなさい。わたしもたぶんそれほど遅くはならないと思うわ。明日の朝が早いし」
「ああ、ミサト。話はまだ終わってないわ」
「まだ何かあるの?」
「ええ、あるわ。今度はあんたの話よ」
ミサトはぎょっとした顔でアスカを見たが、先ほどまでの泣き顔など跡形もなく消したアスカは、椅子を指差しながら無慈悲な声で言った。ミサトに感謝して
いることと、好奇心を満たすこととは、また別の話なのだ。
「さあ、座ってよ。まさか、あたしにあれだけ恥ずかしい告白をさせておいて、自分は秘密を持とうなんて考えちゃいないわよね?」
ミサトが出張で三日間留守にすると聞いたシンジは、あからさまにうろたえたが、代わりに加持が泊まりに来ると知って、ほっとしたような残念なような、妙
な気分を味わった。
みさかいのない衝動の歯止め役として加持を呼んだもくろみは、おおむね成功といってよかった。シンジにとってもアスカにとっても加持は臨時の同
居人として申し分ない人物だったし、二人とも彼の前ではとてもいい子になることができた。
もちろん、自分が呼ばれた理由を知っている加持が、お行儀よくする子どもたちが本心ではどんなことを考えているのか想像するのは簡単だったはずだが、元
恋人のミサトほど
他人をからかうのが好きというわけではないので、がらでもないと思いつつ、ほのぼのとした気分で役目を果たしたようだった。
出張から戻ったミサトは、何ごともなく平穏に三日間を過ごしたというアスカの報告を聞いて、あからさまに安堵した様子を見せた。
ミサトからすれば、子ども
たちの恋愛は使徒以上に手に負えない問題であるようだった。彼女は軍事的な訓練を受けていたので、敵を殺すとか障害を排除するといったことは得意なのだ
が、人の心が相手となるとまるで専門外なのだ。まさか恋する二人に銃をぶっ放してくっつけたり離したりするわけにもいかない。
手を繋いだりくすくす笑
い合ったりするくらいなら安心して見ていられるが、人目につかない物陰をこそこそ探すようになるとそうも言っていられないし、都合よく同居しているこの二
人に限っては、わざわざ物陰を探す必要さえないのだ。これを監視して問題が起きないようにしろというのは、ミサトにはいささか酷な要求だった。だからこ
そ、彼
女は当事者であるアスカの自発的な協力を求めたのだ。
そのもくろみが上手く行ってミサトは胸を撫で下ろしていたが、しかし、実はアスカはそれほど穏やかな気分ではなかった。
この三日間に及ぶ、加持という緩衝材を真ん中に挟んだ緊張状態は、アスカとシンジに自分たちの恐ろしく危険な状況を嫌というほど自覚させてしまった。つ
まり、これまでは暗黙のうちに秘めていた、二人きりになると衝動的な過ちを犯しかねない、という予感を声を大にして確認し合ったに等しく、彼らはその危険
な
誘惑を共有してし
まったのだ。ずっと自分一人の心の中だけで自制してきた誘惑が、ひとたび共有されてしまえばどれほど抗いがたいものとなるのか、今や二人は身を持って経験
する羽目に陥っていた。
そんなシンジとアスカの危うい関係に再び試練が訪れたのは、一ヶ月ほどあとのことだ。突発的事故の対応に忙殺されていたミサトが帰宅できなくなったこと
を
伝える際に、いつもの配慮を忘れていたのはある程度仕方がない。だが現実として、彼女の不在はシンジとアスカの夕食後のくつろいだ時間を一転して
緊張したものに変えてしまった。
「ミサトさん、今日は帰れなくなったって」
「……そう」
このやり取りと同時に二人が交し合う眼差しは共犯者としてのそれだった。
気持ちを確かめ合ったことはない。しかし、確かめるまでもないことはお互いに心のどこかで分かっていた。おそらくどちらが一歩を踏み出したとしても、彼
らはそれを受け入れるだろう。たとえその一歩が行き過ぎたものであったとしてもだ。
こういうとき、間違いを犯さないためのもっとも有効な手段は、相手を視界に入れないことだ。シンジは気まずさと後ろめたさから、ミサトの連絡を受け取っ
たすぐあとに自分の部屋に引きこもった。アスカが視界の中にいる限り、ひっきりなしにいかがわしい考えが浮かぶのをとめられないことを彼は恥ずかしく思っ
たが、どうにもならなかった。彼もまっとうな十四歳の男の子だったので、その手のことに興味はあったし、好きな女の子が常に手の触れられる距離にいるので
は妄想がたくましくなるのも無理のないことだ。
といっても、閉じこもったままでいるわけにもいかず、夕食から二時間ほど経ってから、シンジは入浴のために着替えを持って部屋を出ようとした。すると、
ちょうど同じタイミングでアスカも自分の部屋から出てきた。二人の部屋は廊下を挟んで向かい合わせに位置していたので、彼らはそれぞれの戸口から鉢合わせ
する形になった。彼らは互いに驚いた表情で見つめ合った。こういうとき、偶然はしばしば運命的な側面を見せる。
「あ……、お、お風呂入ろうと思って」
シンジは抱えている着替えをアスカに見せながら言った。
「そ、そう。あたしはキッチンに紅茶を淹れに」
アスカはキッチンの方向を指差しながら、歯を見せて少しわざとらしく笑った。シンジもそれにぎこちない笑顔で応えた。
「ああ。いいね、紅茶」
「よかったらシンジの分も淹れようか?」
「ありがとう。じゃあ、お風呂のあとにもらうよ」
「任せて。美味しいの淹れるから」
二人の口調はまるで、何かしゃべって誤魔化していないと取り返しのつかないことが起こると怖れているかのようだった。そんな風にびくびくしているから余
計に意識してしまうのだが、まだ二人とも落ち着いた振る舞いができるほどには、この新しい感情に慣れてはいないのだ。
会話が途切れてから二人はしばらく見つめ合っていたが、はっとわれに変えると、気まずそうに笑ってアスカが言った。
「それじゃ、シンジはお風呂に行くんでしょ」
と、彼女は手で廊下の先を示して彼を促す仕草をした。キッチンへ行くにも浴室へ行くにも、二人の部屋からは同じ方向へ向かうことになる。別に彼を先に促
さなくとも並んで行けばよさそうなものだが、このままお互いの動きを窺っていると、夜明けまで見つめ合いながらそれぞれの部屋の戸口に突っ立っていること
になりかねなかった。冷静に考えれば馬鹿馬鹿しいが、アスカはおそらく半分以上本気でそう危惧していたし、シンジのほうも彼女が動き出すきっかけを与えて
くれてほっとしていた。
「そうだね。は、入ってくるよ」
そう答えてシンジはぎくしゃくとした足取りで浴室へ向かって歩き出し、アスカはその背中を眺めながらあとに続いた。そして、そのままリビングを通り抜け
て浴室までついて行きそうになり、途中で気付いたアスカは慌てて引き返した。
どうも彼女には、シンジを見ていると普段では考えられないような失敗をやらか
す傾向があった。恋は苦しいだけでなく、人を馬鹿にさせる効果もあるのだ。彼女はみっともない自分が嫌だったので、なんとかならないものかと考えていた
が、結局はこの恋が実るまで現状は変わりそうになかった。少なくとも、しじゅう気にする必要もないくらいに彼のことをもっとよく知ることができれば、うわ
の空
になることも多少は減るかもしれないが。
一方のシンジは、アスカから紅茶の誘いを受けたことを喜ぶと同時に後悔していた。当然、彼はアスカのことが好きだったので、たとえささやかであっても
彼女と接していられることには大きな喜びを感じていたが、健全な男子が抱える問題の切実さは、ひょっとするとアスカが抱える悩み以上のものかもしれなかっ
た。
そうした葛藤との孤独な戦いを繰り広げながら、悩ましい入浴を済ませたシンジは、先の約束もあるので、リビングで待っているはずのアス
カのもとへどきどきしながら向かった。
彼女は珍しくテレビも観ず、ダイニングテーブルの席に座って、ぼんやりと頬杖をついていた。彼女の前にはソーサーに載せられたカップ
があり、近くにティーポットも置かれていた。シンジが近づいていっても、うわの空の彼女は気付く気配もなかった。
「あがったよ」
声をかけられたアスカの振り返りかたは、ちょっと劇的だった。色白な頬がかすかに染まり、大きな青い瞳がぴんとまっすぐにシンジへ向けられた。
それを見て、ああ、綺麗だな、とシンジは素直に思った。もちろん、美しさが彼女のすべてだなどというつもりは彼にはない。しかし、彼女の美しさはシンジ
が惹きつけられる大きな理由の一つではあった。それに、彼女の美しさは顔の造作そのものにあるのではなく、たとえばたった今白雪の中に炎がひらめくみたい
に
彼女がシンジを振り返ったような、ドラマティックな内面の表れにあった。
「ゆっくりだったのね。紅茶淹れてあるわよ」
答えるアスカがまず目を留めたのは、シンジの濡れた髪の毛だった。彼女が憧れる綺麗な黒髪は、湿り気を帯びてつややかに輝き、そしてバスタオルで乱雑に
かき回
されたまま方々に向かってはねていた。シンジがこういうことにこだわらないのは百も承知だったが、いくらなんでも小さな子どもじゃあるまいし、と彼女は思
い切って彼に言った。
「髪ぐちゃぐちゃよ。とかすくらいしなさいよ」
シンジは心底不思議そうな顔でアスカを見、それから、言われたから仕方なくとありあり分かる仕草で、はねた髪を手で撫でつけた。アスカはそれを見て、い
らだたしそうな声を上げた。
「ああもうっ。駄目よそんなんじゃ。いいわ、あたしにさせて!」
そう言うやいなや、彼女は立ち上がってどこかへ行こうとした。それを見たシンジは驚いて声をかけた。
「え、紅茶は?」
「自分でやって! あたし、ドライヤーとブラシを取ってくるから」
実のところ、アスカが給仕してくれるのを内心期待していたシンジは、いつもどおりの彼女の傍若無人さにちょっとだけ力が抜けてしまった。そもそもアスカ
が彼のために紅茶を淹れてくれるということ自体めったにないことだったのだが、珍事は最後まで珍事であってくれないようだ。
ブラシとドライヤーを手に鼻息も荒く戻ってきたアスカは、食卓の椅子に座ったシンジにそのまま動かないよう断固とした口調で命じると、紅茶を飲んでいる
シンジがくつろげないと感じているのをよそに、いそいそと彼の髪をとかし始めた。彼女にしてみればついに念願叶ったりというところなので、鼻歌まで歌いだ
す始末だ。
「ねえ、アスカ」
「んー?」
「どうせ今日は寝るだけなのに、こんなことしても意味ないよ」
「ふーん、そう?」
顔を動かすなと厳命されているせいで紅茶が飲みにくくてかなわないと思いながら、シンジは形ばかりの反抗を試みた。はっきりいって、風呂上がりに濡れた
髪をブローするなど生まれてこのかた初めての経験だ。どうせ短い髪なのですぐに乾くし、くせも少ないから、そもそも必要ないのだ。別に髪をとかさなくても
枝毛の一本や二本
で落ち込んだりしないし、枝毛があるかどうか気にしたことさえない。髪の毛が四方八方を向いていたって構いやしない。そういう事情をアスカにもぜひとも
分かってもらいたかったが、好きな女の子に世話を
焼かれている幸運にちょっとばかり酔っていたため、まあいいや、とシンジは結論づけた。
それにどっちみち、アスカはシンジの反論をまったく聞いてはいなかった。
「あたしもこんな髪だったらいいのにな」
ドライヤーを当てながらアスカが呟いたので、シンジは少し振り向いて訊き返した。
「こんなって?」
「顔をまっすぐ向けて」
「はい」
ブラシの先であごをつつかれ、シンジは大人しく言うとおりにした。
「こんな風なツヤとコシがあるまっすぐな黒髪にってことよ。あたしの髪をごらんなさいよ。細くってうねってて、しかもこの色ときたら」
ごらんなさいと言われても、そうしようと後ろのアスカを振り返れば、またブラシで顔をつつかれる羽目になるので、シンジは心の中で彼女の豊かな赤毛を思
い
浮かべた。
正直にいえば、彼女が何を不満がっているのか、まったく理解できなかった。彼女の赤くうねる豊かな髪の毛は、沈む寸前の夕陽のように鮮やかでとても綺麗
だったし、最高に似合って
いた。彼女の気性にもぴったり合う。しかも、心がとろけるようないい匂いまでするのだ。シンジはアスカの赤い髪が大好きだった。
それでも、ためしにシンジはストレートの黒髪になったアスカを想像してみたが、あまりの似合わなさに鳥肌が立った。黒髪に憧れているアスカには悪いが、
やはり彼女は今のままが一番いい、と結論するほかなかった。
「ヒカリもそうなのよね。あんたのほうが濃い黒色だけど、コシとツヤは同じ。どうしてかしら」
アスカは中学校で友達になった女の子のおさげ髪を思い浮かべながら言った。
「海草を食べるからとか?」
「うーん、ツヤに関してはそうかもね。ヨーロッパじゃ海草なんて食べないし。なんにしてもうらやましいわ」
アスカは心から羨望のため息を吐き出した。
そのため息をすぐ耳元で聞き咎めたシンジが、ここらで自分の意見をきちんと伝えておこう、と決心する勇気を奮い起こせたのは、このところ二人の間に漂っ
ていたいい雰囲気と決して無関係ではない。
「僕はい、いいと思うよ。アスカの髪」
途中で声は裏返ったが、シンジにはホームラン級の快挙だ。言い終わったすぐあとで、顔から火が出るかと思うほど熱くなったが、彼は後悔しなかった。むし
ろ、ついに言ってやったぞ、と誇らしい気持ちになった。
一方のアスカは、思わぬシンジの発言に文字どおり全身真っ赤に染まってしまった。今のはこれまでで一番好意の告白に近いものだ。まさかシンジからそんな
ことを言ってくるとは思ってもみなかったので、彼女はもう少しで後ろから彼の頭に抱きつくところだったが、彼の両耳が赤色灯みたいに後頭部の横から突き出
ているのを見つけたせいで少し落ち着きを取り戻し、すんでのところで踏みとどまった。
アスカは一杯になった胸を押さえて、シンジの丸い後頭部を好ましく見つめた。不器用な彼の言葉が嬉しくてたまらなかった。
「ありがとう」
シンジのつむじを見下ろしながら、アスカは言った。
「嬉しい」
「うん」
シンジはやはり照れ臭くて、小さく返事をするだけで精一杯だった。
白状すれば、アスカから素直に感謝されたのは意外な気がしていた。いつもの彼女なら、「当たり前でしょ!」とか「当然よ!」とか、あるいはもっとひねく
れているときなら「何言ってんのよ、あんたバカぁ?」とか、そんな風な切り返しをしてくるはずだ。そういう態度に出てくる彼女にならシンジは慣れていた
し、ある意味安心もできる。
しかし、素直なアスカというのには、妙に落ち着かない気分にさせられた。いつかアスカが自らの過去の話を聞かせてくれたときも、包み隠さず答えてくれた
ことに質問をした当のシンジが驚いたものだが、思えばあのころから徐々に彼女の態度は柔らかくなり始めており、最近ではほとんど険悪な雰囲気にもならな
いことにふいに彼は気付いた。
確かにシンジは鈍感だが、この期に及んでその理由に気付かないほどではない。彼がアスカのことを好いているように、アスカもまた彼のことを想ってくれて
いるということを今度こそ間違いなく彼は確信していた。
そして、決定的な一言が、ついにアスカの口からこぼれ出た。彼女自身こんな展開を予想していたわけではない。しかし、彼の言葉に
感極まってしまった彼女にとっては、その一言はごく自然に口をついて出てきたのだ。
「好きなの」
シンジのうなじのあたりに視線を落としながら、アスカは打ち明けた。それはほとんどささやき声に近かったが、シンジには鳴り響く鐘の音よりはっきりと聞
こえた。
「あたしは、あんたのことが」
椅子から身体をひねって後ろを向き、シンジはうつむいて泣いているアスカを見た。途切れた言葉は飲み込まれ、代わりに彼女の細いあごの先から透明な涙が
伝い落ちた。くちびるはわなわなと震え、視線は椅子の背のあたりに落とされている。彼女の両手はまるで小さな女の子のように服のすそをぎゅっと握り締めて
いる。
そしてシンジの見ている前で、伏せた瞳にたまる涙をこらえきれず、まるで夜空に流星が尾を引くようにさらにふた筋こぼれ落としてから、アスカは静か
に顔を上げた。
今この瞬間、この場所で見つめ合う二人のまわりから波が引くように世界が遠のくのが、シンジとアスカには分かった。
「どうして泣くの」
立ち上がったシンジが優しく訊いた。
「分からない」
アスカは力なくかぶりを振った。
そんな彼女の涙に濡れた頬をシンジは指の背でそっと撫でて言った。
「両想いなんだね、僕たち」
向かい合う彼の言葉にくちびるを噛み締め、アスカはうなづいた。その拍子にまた涙がこぼれ、彼女は顔を両手で隠して肩を震わせた。
「ねえ、アスカ」
呼びかけると、アスカは鼻の頭まで真っ赤に染まり、くしゃくしゃに歪んだ顔で彼を見つめた。彼女の金色のまつ毛にふち取られた青い瞳は涙に沈み、揺らめ
いていた。シンジは彼女が見せる懸命な表情の可愛らしさに胸を打たれていた。
「なによ」
言葉だけは強気なまま、いじらしく彼女は訊き返した。
「したいことがあるんだ」
そう言ってシンジは、アスカをおどかさないようゆっくりとした動作で、彼女に近づいた。彼の黒い瞳は、アスカの涙にうるんだ青い瞳をしっかり掴んで離
さなかった。そこに込められた真剣さに、アスカは彼の望んでいるものを察した。
双方にとって、くちびる同士の口づけは初めての経験だった。最初は閉じたくちびるがおそるおそる合わせられ、しばらくすると、彼らは少しだけくちびるを
開き、
熱い吐息と濡れた感触にちょっとびっくりしてから、恥ずかしげに顔を離した。
「なんか、くすぐったいね」
「う、うん。息、とめちゃったわ」
二人とも顔を赤く染め、照れ臭くてくすくす笑い合った。
「ね、ねえ、シンジ。あのね、シンジからもその……言って欲しいんだけど」
髪の毛を指でもてあそびながら、アスカが妙にまわりくどい言いかたをしたとき、日頃の鈍感さを発揮したシンジは、何のことだかすぐには理解することがで
き
なかった。彼が戸惑った表情を見せる間、アスカは健気に待ち続けた。
やがて、アスカの期待のこもった視線にシンジも何を求められているのかを悟ることができた。シンジもうっかりしていたが、まだ彼のほうからは好きだと言
葉に出して伝えていなかったのだ。
「は、恥ずかしいよ」
シンジは照れ隠しにそう言った。
アスカは相変わらず彼のことをじっと見つめていた。だが、その瞳にほんの少しだけいらだちが込められたのをシンジは見逃さなかった。まずい選択をしたの
は明白だった。彼が顔をこわばらせている間、アスカは断固として視線を動かさなかった。
すぐにシンジは白旗を揚げた。たとえ気持ちが通じ合ったにせよ、アスカはアスカのまま変わることなどないのだ。彼女がどんな風に怒るのか、シンジは身を
持って知っていたし、気持ちを通じ合わせて第一歩を踏み出した矢先に彼女を怒らせることは、できるだけ避けたほうがいいのは間違いなかった。
それに結局のところ、アスカの要求はきわめて妥当なものなのだ。シンジがいかにその言葉を口にするのを恥ずかしく思い、言わなくても気持ちは通じ合って
いるはずだと信じていたとしても、なおアスカには彼からの言葉を聞く正当な権利があった。
「分かった。言うよ」
アスカから送られる無言のプレッシャーを弾き飛ばすため、シンジはゆっくりと深呼吸した。もし毎日こんな風に愛の告白を求められたらどうしよう、と彼は
ちょっと心配に思ったが、引っ込み思案な自分でもいずれは慣れる日が来るはずだと信じるほかなかった。
「好きだよ、アスカ」
言い終わった瞬間、それまで期待をこめて待ち続けていたアスカの表情が一変した。それを目の当たりにして、シンジはほとんど圧倒された。彼女は目を潤ま
せ、耳
まで薔薇色に染めて、うっとりとシンジを見つめていた。この魅力的な女の子の感情をこれほどまでに揺り動かす力が、一体自分の言葉のどこにあるのだろう
か、と彼は不思議だった。だが、先に彼女から同じ言葉を告げられたときの自分を思い返して、つまりはそういうものなのだ、とあいまいに納得した。
それからしばらく、二人は交わす言葉もほとんどなく、成就した恋にはにかみを浮かべながら、ただじっと見つめ合い続けた。
もし可能ならば、彼らは一晩中でも見つめ合っていたかった。邪魔が入らなければ、実際にそうしていたかもしれない。だがそのとき、遠ざかっていた世界が
ぺったぺったという足音とともに二人のもとへ戻ってきた。
シンジのあとに風呂に入っていたと思しきペンギンのペンペンは、くわくわと鳴きながらリビングを横切り、自らの居住用冷蔵庫のふたを器用に開けて、中に
潜
り込んでからぱたんと閉めた。マイペースなペンペンはシンジたちに目もくれなかったが、彼の登場は恋人になりたての二人の頭を冷やすには充分だった。
二人はなんともいえない表情を見せ合ってから苦笑し、複雑な気持ちを抱きつつ、小さな同居人に感謝した。いくら恋人同士になったからといって、何をして
もいいというわけではない
ことは二人とも承知していたし、特にアスカはミサトとの約束があったので、まだ自制心を手放すわけにはいかなかった。
それから、シンジは温めなおした紅茶を持って自室に戻り、アスカは入浴しに浴室へ向かい、そのあとは就寝までそれぞれの時間を過ごした。
真っ暗な自室のベッドで何度目かの寝返りを打ってから、シンジは大きなため息を吐き出した。
眠れないのだ。明らかに先ほどのできごとが原因だった。アスカと気持ちを確かめ合ったという事実に興奮しているせいで、眠気はさっぱり訪れてくれない。
考えるのはアスカのことばかりだ。出会ったころにはこんなことになるとは夢にも思わなかった。第一印象はよくなかったし、お世辞にも彼女が性格のいい少
女ではないことを実際すぐに知った。しかし、彼女がただの高慢でわがままな少女ではないということが徐々に分かり始め、同時に彼女に惹かれていった。それ
が決定的になったのは、お互いの昔話を語り合ってからだろう。そして、思いを通じ合わせた今ではもう彼女以外のことなんて考えられないくらいに好きになっ
てしまった。
しかし、今のシンジにはアスカを構う以外にすべきことがある。使徒はこれからもまだやって来るはずだ。次の襲来がいつなのか、あと何度戦えば終わるのか
も分からない。通常兵器がほとんど効かない使徒に対抗できるのはエヴァしかない。そして、エヴァ初号機を動かせるのはシンジしかない。彼が戦わなければ、
世界はアスカとレイの肩にかかることになり、パイロットとしての能力はともかくとしても、初号機の力が他機よりも抜きん出ているという事実から、使徒に敗
れる公算が強まるのは明らかだった。
世界を救う、というのは平凡な少年として育ってきたシンジにとっては、いまひとつピンと来ない。ゲームや漫画でならよくあることだが、現実として自分の
行動が世界全体を左右するというのは、想像の限界を超えている。
しかし、シンジはより身近な理由から、自らに課した役目を果たそうとしていた。彼が生命の危険を冒してまでエヴァに乗って使徒と戦うのは、たとえば加持
のためだ。今起きているエヴァや使徒に係わる問題がすべて片付けば、加持は使命から解放されて、それ以上ミサトへの愛情を押し殺している必要がなくなる。
当然、それはミサトの望みでもあるだろう。シンジには、加持やミサトが口で言うほど自分たちの関係を割り切れているとは思えなかった。加持とミサトが想い
を通じ合わせて幸せになれるのならばそうなるべきだし、それができない世界など間違っている。
また、これは父のためでもあった。いうまでもなく、初めにシンジをエヴァに乗せたのは父だ。果たして彼が本当は何を望んでいるのか、シンジに理解できて
いるとはいえない。しかし、一つだけシンジには間違いなく分かっていた。使徒が現れる今の状況が父の望むものではないということだ。複雑な父子関係だが、
シンジはシンジなりに父の役に立ちたいと思っているし、使徒の排除という点に関する限り、目指すところは同じといっていい。仮に父の本当の目的がシンジに
とってどうしても容認できないようなものであった場合は、将来対立することになるかもしれないが、それまで彼は父の希望を叶え続けるつもりでいた。
それ
に、
もしかすると、加持の言うようにすべてが丸く収まってしまえば、父を駆り立てているものもなくなり、今よりもっと分かり合えるようになるかもしれない、と
いう希望を抱いてもいた。あまりに楽観的な希望かもしれないが、どんなことになったとしても、結局はシンジは父のことを愛し、大事に思っているので、父と
の関係の修復こそが最大の望みなのだ。
そして、むろんシンジが戦うのはアスカのためだった。
彼女はこれまでの十年をエヴァに捧げてきた。つまり、エヴァに乗って使徒と戦うことこそが彼女の本懐だといってもいい。そのために必要なすべてを彼女は
身につけ、望まれたことはなんであろうとこなしてきた。
しかし、本当は違うのだとシンジは知っていた。アスカが本当に望んでいるのは英雄になることではない。ただ愛されることだ。彼女はひたすらにそれだけを
望んできたのだ。
幼かったアスカが犯した、今に続く小さな過ちは、他の人間には成し遂げられないようなことをすれば、父や他の人々の注意を捉え、愛情を得られると誤解し
たことだ。そのためにはまず優秀なパイロットにならなければならない。そして、優秀なパイロットになるために、アスカはまさに彼女が得たいと望んでいた愛
情を捨てたのだ。
本当は、アスカはただ父と継母に向かって「あたしを愛して」と言うだけでよかったのだ。彼らに甘え、ねだればよかった。据わった目で父をにらむのではな
く、愛していると本心を打ち明ければよかったのだ。それだけで、なにもかもが上手く行くはずだった。
亡くなった実母は戻らないが、それはもはや仕方のないことだ。生死は神の領域であり、人の身ではいかんともしがたい。愛情に包まれた年月を過ごしていれ
ば、やがてはアスカもそのことを理解し、傷も癒えたに違いない。
だが、彼女は間違い、そばには彼女の間違いを正してやる人間がいなかった。彼女がエヴァに乗り続けることを都合がいいと考える人々に囲まれていたから、
彼女は自分
の間違いに気付くことさえなかった。確かにエースパイロットとして使徒を倒せば、崇拝はされるかもしれない。しかし、本当の愛情はそんなことで得られるも
の
ではないのだ。
シンジは、自分ならそれを与えられる自信があった。彼のアスカへの気持ちはそれほどのものだった。しかし、二人で愛情を育みながら暮らしていく世界がい
つも危機的状況にさらされているというのはいかにも具合が悪いし、アスカの妙なこだわりを捨てさせるためには、使徒がいなくなってエヴァに乗る必要がなく
ならなければならない。彼女のエヴァへのこだわりは並々ならぬものがあったが、それでも彼女には本当はエヴァなど必要ないと彼は信じていた。平凡な人生な
ど分からない、と彼女は言ったが、一度心を決めてしまえば、彼女もそうなれるのだ、と。
またそうすれば、アスカと両親との関係も修復される見込みが出てくることも考えられる。昔話を語り合ったとき、彼女は両親と上手く行っていないこ
とにこだわりを感じていないふりをしていたが、シンジははっきりと彼女の悲しみを感じ取っていた。両親の愛情もまた彼女には絶対に必要なものだった。たと
えいつか大人になる日が来るのだとしても、親から子として愛される権利は、誰にでも、そしていつまでもあるのだ。
それにそもそもエヴァに関していえば、アスカがいつ死ぬかも分からない危険なことをしているというのがシンジには気に入らなかった。彼女は誇りを持って
エヴァに乗っているのだろうし、シンジにそれを侮辱するつもりはないが、はっきりいうと、彼女が傷つけられるようなことには我慢ならない。使徒だろうがな
んだろうが許してはおけない。
これほどまでに他人を大切だと思うことは初めての経験だったが、シンジはそれを心地よさと満足感とともに受け入れ、今後一切その考えを捨てるつもりもな
かった。
アスカと自分には平和な世界が必要なのだ。だから、戦う。それはシンジにとって、非常にシンプルで説得力のある動機だ。彼女との未来のためなら、たとえ
どんなに恐ろしくても、苦しくても、必ずエヴァで使徒を倒してみせる。シンジの決意は岩よりも固い。
だから、そのためには、もうしばらく誘惑は遠ざけておいたほうがよさそうだ、とシンジは結論づけた。アスカといちゃつくのに夢中になりすぎて使徒を倒す
のに
失敗したなどということになれば本末転倒だし、そもそも使徒との戦いはやり直しなどきかない。文字どおり彼ら自身の生命がかかっているのだから、死ねばす
べてがおしまいだ。
アスカと気持ちを通じ合わせ、キスまでできて、シンジはまさに天にものぼる心地がしていた。しかし、ここが気の引き締めどころだ。今は辛抱しなくてはな
らないとしても、きっと幸せな未来が待っているはずだから。
と、そのようなことなど考えつつも、大部分はアスカに対する、より直接的な感情にもんもんと思い巡らせながら、暗闇の中でシンジはまた寝返りを打った。
すでにベッドに入ってから一時間は経
過していた。シンジはため息を吐き出し、向かいの部屋にいるはずのアスカを思った。彼女はもう眠っただろうか。しかし、彼はもう一度ため息を吐き、その
考えを打ち消した。これではますます眠れなくなる。
そのとき、ふすまが開かれる音がした。シンジの部屋ではなく、廊下の向かい側だ。ミサトはネルフ本部に泊り込みで帰ってきていないし、ペンペンならまず
先に冷蔵庫のふたを開け閉めする音が響くはずだから、当然物音の主はアスカしかいない。のどが渇いたのか、それともトイレだろうか。シンジは物音一つにも
ひどくアスカを意識してどきどきしながら、息を殺して耳を澄ませた。
しかし、アスカが部屋を出たのはのどを潤すためでもトイレのためでもなかった。彼女は廊下の向かいにあるシンジの部屋の前に立つと、深呼吸を一つしてか
ら、そっと戸を開けた。
戸の開く音にシンジが頭をもたげて戸口に視線を送ると、暗闇の中にアスカが立っているのがかろうじて見えた。暗闇に包まれたその姿が、なぜだかひどく真
剣なものに感じられて、シンジははっとさせられた。
「アスカ?」
アスカはすぐには問いかけに応じなかった。彼女はシンジの部屋の中に一歩踏み込むと、らしくもなく弱々しい声で言った。
「今夜は一緒に寝てもいい?」
最初シンジは何を言われたのか分からなかったが、やがて理解が訪れると、彼は驚いた声を上げてアスカを制止しようとした。
だが、アスカのほうが決断が早かった。彼女は鋭く息を吸い込んで咳払いをすると、先ほどとは打って変わってはっきりした声で宣言した。
「ごめん。言い直すわ。あたし、あんたと一緒に寝るから」
シンジが呆気にとられているのをよそに、彼女はほとんど輪郭も分からないほどの暗闇をつかつかと進み、シンジのベッドにひざをかけてきびきび言った。
「もっと壁側につめてよ。あたしが寝られないじゃない」
「いや、だから、アスカ」
混乱したシンジがそれでもどうにか言葉をひねり出そうとしていると、アスカの強気な声が飛んだ。
「なに、嫌なの?」
「そ、そうじゃなくて」
「じゃ、いいでしょ。ほらもう、そっちに寄ってよ」
と、勝手にベッドに上がりこんだアスカは、シンジの身体とベッドのふちの間に強引に身体を割り込ませてから、シンジを手で壁際に押しやって自分のための
スペースを作った。それから、彼女は持参した自分の枕にぼすんと勢いよく頭を預けた。
一人もんもんと固めた決意にもかかわらず、惚れた弱みで頑強な抵抗ができないシンジは、まんまとアスカの思惑どおりの状況になってしまったあとで、遅れ
ばせながらはっ
とわれに返った。
「だだだ駄目だよ、アスカ。こんなことしちゃいけないよ」
「こんなことって? ただ並んで寝てるだけじゃない」
アスカは図太く答えた。少なくとも、暗闇に響く声だけはそんな調子だった。
「う、その……、いつまでここで寝てるつもりなの?」
「明日の朝までよ」
きっぱりとアスカに答えられ、岩のように固い決意はどこへやら、シンジは彼女を追い出すことを早くも諦めてしまった。どういうつもりか分からないが、本
当にただ並んで寝たいだけなら、好
きにさせておくほうが害がないかもしれない、と彼は少々心許ないいいわけで自分を納得させようとした。
それに、仮に彼女がもっと別の意図があるなら、その
ときこそ毅然とした
態度で臨めばよい。むろん、そのときの彼に毅然とするだけの根性と理性が残されていればの話だが、彼女がベッドに入ってくるなり彼の鼻腔を満たしたあの
うっとりする香りのせいで、すでに頭の働きがかなり鈍ってしまっていたので、果たして本当に毅然とした態度が取れるかは疑わしかった。
シンジに場所を開けさせて仰向けになったきり、アスカが動き出す気配はなかった。恋する女の子が隣に寝ていることに緊張するあまり、シンジは壁側に向
かって寝返りを打った。せめてアスカに背を向けていれば、少しは彼女を気にせずにいられるかもしれないと思ったからだ。
ところが、そんなシンジの思いにもかかわらず、アスカは背を向けた彼のTシャツのすそを引っ張り、少し機嫌を損ねた声で言った。
「ちょっと。まるであたしがいないみたいに振舞うのはやめてよ。せめて仰向けになってちょうだい」
いるからこそ背中を向けたのに、という言葉を飲み込み、シンジは大人しく彼女の言うとおりにした。アスカが本心からそう考えたとは思わないが、その言葉
には胸が締めつけられる気がしたからだ。好きな人から無視されるほどつらいことはない。相手にされないという
のはなによ
り悲しいことだ。幼いころからそういう経験をせざるを得なかったシンジとアスカは身に染みてそのことを知っていた。
仰向けに並んで寝る二人は無言だった。暗闇の中では相手の息遣いばかりか心臓の鼓動まで聞こえてきそうだ。
これがとてもまずい状況だ、ということをシンジは自覚していたが、一方では嬉しくてたまらなかった。何しろ初めて本気で好きになり、気持ちを確かめ合っ
た女の子が、自分の隣に寝ているのだ。もしかすると、もう自分はとっくに眠っていて夢を見ているのではないか、とシンジはさっきから隠れて何度も足をつ
ねっ
てい
た。そして、そのたびに痛みを訴える足から、これはやはり現実だと自分に言い聞かせていた。
だが、分からないのはアスカの真意だ。つまり、アスカには『その』つもりがあるのだろうか、ということだ。
これが本当にただ並んで寝るだけのつもりだとしたら、成就した恋に舞い上がったあまりの奇行ですませることもできるが、そのわりには隣で仰向けになって
いるアスカには明らかに緊張がみなぎっている。彼女はその強気な口調ほどには図太くないのだ。
あるいは、その気があると見せかけて、襲いかかってきたシンジをこてんぱんにやりこめるつもりでいるということも考えられる。アスカの性格とこれまでの
前科からすると、その可能性は捨てきれない。今夜の告白劇から、彼女が甘い言葉やあらわにした素肌を駆使したあからさまな誘惑で同居人を試す時期はもう終
わった、とシンジは考えていた。そんなことをして試さなくても、お互いの気持ちは確認しあったのだから、と。だが、悪戯好きな彼女の性格を甘く見すぎ
てい
る可能性は充分にあった。
そして、一番まずいのは、彼女が本当にそのつもりでいる場合だ。その場合はもうどうしていいのか、正直シンジには分からなかった。
そんなことをシンジが悩んでいる間、真っ暗な天井をじっと見上げるアスカが考えていたのは、ただ一つのことだけだった。
額に汗を浮かべて悩むシンジは、ふと指先に触れるものに気付いた。それは控えめに、おそるおそる、彼の小指に触れては離れていく。当然、シンジはその正
体がすぐ分かった。彼の小指にちょいちょい触れているのはアスカの小指だ。
おや、とシンジは思ったが、彼女は何も言わない。ただ指だけを触れさせてくる。だが、彼女の釣り針みたいな小指はシンジの指先を遠慮深く引っかくだけ
で、一
向に彼を釣り上げようとはしなかった。
しばらくその接触が続くと、シンジは先ほどまでの悩みがなんだか馬鹿らしくなってしまった。隣で寝ている大好きな女の子が可愛らしくてたまらなくて、シ
ンジは暗闇の中で晴れやかな笑みを浮かべた。そして、恥ずかしがりな彼女の小指を、その手のひらごとしっかり掴んで握ってあげた。その瞬間、アスカは身体
を
こわばらせたが、すぐにぎゅっと握り返してきた。
「手を繋いでてもいいかな?」
シンジが訊くと、アスカはうわずった声で強がりを言った。
「しょ、しょうがないわね。シンジがそうしたいって言うなら、い、いいわよ」
「うん。ありがとう」
彼の礼の言葉にアスカは何も言わず、ただ握る手にきゅっと力を入れた。
考えてみれば、アスカと手を繋ぐのは初めてだ、とシンジは思った。エヴァのコックピットの中で手を重ね合わせたり、エヴァ同士で手を掴んだりしたこと
はあるが、あれは必要に迫られてやっただけで、真実手を繋いだとはいえない。
こうしてみると、アスカの手がとても小さくて華奢なことにシンジは驚いてい
た。これからはこの小さな手の持ち主を守るのは自分なのだ、と考えると、胸が熱くなった。彼女は「ただ守られているだけの女じゃない」と強気に言ったし、
確かにその性格や能力からして、一方的に守られることに彼女が黙っているとも思えない。だが、それでもシンジは彼女を守らずにはいられないだろう。
「ねえ」
しばらしくて、それまで無言だったアスカがぽつりと呼びかけてきた。
「なに?」
「訊きたいことがあるの」
「うん?」
シンジが待っていると、少しの沈黙を挟んでからアスカが言った。
「ファーストのこと、どう思ってるの?」
「綾波?」
どうしてここで綾波レイのことが出てくるのだろう、とシンジはちょっとびっくりした。しかし、質問するアスカの声はあくまで真剣だった。
「あたしを選んでくれたのは嬉しいわ。でも、ファーストのことはいいの? 好きだったんじゃないの?」
そう訊かれて、シンジは改めてレイのことを考えてみた。確かにシンジにとってレイは安らげる相手で、好きといえばそうなのかもしれない。だが、それは明
らかにアスカに対して抱いている感情とは違うものだった。
そういうことをどうやって説明したらいいだろう、とシンジは悩みながら口を開いた。
「なんていうか……綾波への好きはアスカのとは種類が違うんだ。そういう対象には見られないっていうか……ごめん、上手く説明できないや」
「そっか」
「でも、本当に僕が好きなのはアスカだよ」
「うん。分かった。あたしのほうこそごめん、変なこと訊いて。けど、安心した」
アスカは明らかにほっとした様子で答えた。
シンジからしてみれば、まさかアスカがそんなことを気にしていたとは夢にも思っていなかったので、ショックを受けていた。たとえ好きという気持ちを確か
め合えたとしても、二人の間にはまだまだたくさんの分かり合わなければならない事柄があるのだ。
この新しい関係の想像以上の複雑さはシンジを少し怖気づかせた。だが、アスカと繋いだ手の確かな感触が、彼の心を勇気づけた。こうしてアスカと二人で乗
り越えられるのなら、どんなことでも恐ろしくはない、と彼は思った。
そうして、二人はまた無言に戻った。
いまだ眠気が訪れる気配はなく、シンジは何とはなしに暗い天井を見上げていた。暗闇で目が利かず、二人の息遣いの他にはほとんど物音もしない静けさの中
に身を置いていると、繋いだ手だけが妙に生々しく感じられる。まるで身体の他の部分がすべて消えてしまって、繋いだ手だけが現実に取り残されたような錯覚
におちいる。
そんな感覚の中で不思議な安らぎを感じていたシンジは、暗闇を通してこちらに向けられた視線に不意に気付き、消えてしまったはずの顔を横に
向けて、それを確かめた。
静かな暗闇の奥から、おぼろげに光るものがこちらを見ていた。それはアスカの大きな瞳だった。部屋中のかすかな光がすべて集まってそこに降り注いだよう
に、彼女の瞳はちらちらと夜空の星みたいにまたたいていた。
その光景にシンジは息を呑んで見入った。暗闇の中でさえ、彼女の美しさは圧倒的だった。彼は五感を取り戻した全身に稲妻が駆け抜けるのを感じた。あまり
に感動してほとんど泣き出してしまいそうだった。
好きなのだ。本当に好きなのだ。今まさに一心にこちらを見つめている、この少女のことが。
突如暗闇の中で浮き彫りとなった一つの事実、一つの感情に彼は圧倒されていた。それは手触りが感じられるほどに鮮烈だった。
シンジは首だけ振り向いていたのを、身体ごとアスカのほうへ向けた。彼に見つめられても、彼女は決して目を逸らそうとはしなかった。シンジが繋いでいな
い側の手を伸ばし、震える指先で彼女の頬に触れると、彼女の瞳から光のまたたきがこぼれ落ち、顔を預けている枕に染みこんだ。
シンジはもう考えることさえしなかった。涙を流すアスカの頬に触れていた手を下ろし、仰向けの彼女の腰を抱き寄せ、顔だけでなく身体も彼のほうへ向かせ
た。彼女は腰に触れられたとき、わずかにこわばる気配を見せたが、それ以上の抵抗はせず彼の腕に身を委ねた。
距離を縮めて向かい合った二人の間にあるものは、いまや胸元に添えられたアスカの腕だけだ。繋いでいた手はそのままに、シンジはゆっくりアスカを抱き寄
せようとしていた。彼女の腰に回された彼の腕は、優しくて、強引だった。
しかし、二人の間に距離がなくなる寸前で、アスカはそっとシンジの胸元を押さえて動きを止めた。手のひらから彼の激しい鼓動を受け取ってから、アスカは
手を下ろして、腰を抱く彼の手の甲にとがった爪をぐっと突き立てた。
「あっ」
シンジは小さく悲鳴を上げ、ちょっと後ろめたい眼差しで彼女を見た。そんな彼に、アスカはそっと言った。
「駄目」
制止されたシンジがわずかに傷ついた気配を漂わせたことに気付き、アスカは彼のあごを慰めるように指先でなぞり、くちびるの位置を触れて確かめて
から、首を伸ばして自分のくちびるで優しくふさいだ。
彼らにとって二度目となる口づけは永遠に終わらないかのようだった。その間アスカの手はシンジの頬や首筋をなで、もう一方の手は彼と固く固く結ばれてい
た。またもう一方のシンジの手は再び彼女を抱き寄せ、二人の身体を密着させていたが、今度は彼女はそれを咎めはしなかった。
やがて重ね合わされたくちびるとくちびるにすきまが生まれ、二人は鼻をこすり合わせて間近で見つめ合った。暗闇の中にうっすらと浮かび上がる自らの愛に
向かって、二人はほとんど無意識に微笑みかけた。
再びくちびるが求め合う寸前、消え入りそうなかすれ声でアスカがささやいた。
「まだ、駄目よ……」
そして、二人のかすかな息遣いとともに、なにかもが暗闇の中へ溶けていった。