好きと言ったら負けるゲーム
E,マイヒーロー
「加持さんってひどい人だったんですね」
地底湖での釣りはいつの間にかシンジと加持の習慣になりつつあった。相変わらず魚が釣れる気配はなかったが、むしろ二人は取りとめもない話をしながら穏
やかな時間を過ごすために、並んで釣り糸を垂らすのだった。
「そうさ。今ごろ気付いたなんてちょっと意外だな。俺はひどい人間なんだよ」
加持はシンジのなじる言葉にそう答え、リールを巻いて何もかかっていない釣り針を引き上げ、竿を振ってもう一度湖に釣り針を投げ込んだ。
二人が話していたのは、加持の女性関係についての話題だった。具体的にいえば、この男性がミサトをどう思っているのか、ということだ。まがりなりにもシ
ンジはミサトと一緒に暮らしているわけであり、彼女に対しては単なる上司や知り合いという以上の感情を抱いている。うっとうしいと思うことや、腹が立つこ
とも多かったが、それでもシンジは決してミサトを悪く思ってはいなかった。だから、彼女がないがしろにされることには純粋に憤りを感じた。
ところが、加持はまるでなんでもないことのように、現在のミサトとの関係が永続的なものにはなり得ないと否定したのだった。
「でも、ミサトさんと加持さんは付き合ってるわけでしょう?」
「時制を間違ってるぞ、シンジくん。『る』じゃなくて『た』。『付き合ってた』だよ。八年も前に俺たちは別れたんだ」
「それなら、今の加持さんたちはなんなんです? だって、いつもデートとかしてるんでしょう? 留守番電話にメッセージが入ってることがあるし、アスカ
だって……」
「アスカがなんだって?」
「加持さんとミサトさんはよりを戻したんだって。そう言ってましたよ」
そもそも加持とミサトが昔付き合っていたという話を教えてくれたのもアスカだった。そのときはきわめて面白くなさそうな口振りで話していたものだが、最
近の彼女はあまり加持とミサトの関係を気にしなくなったようにシンジには見えた。
「ははあ、なるほどね。でも、アスカやきみが思ってるほど俺と葛城の関係は簡単じゃないんだよ」
「よく分かりません」
シンジが正直に言うと、加持は無精ひげの生えた頬をかゆそうにこすりながら答えた。
「この話をきみが気に入るとは限らないぞ」
「気に入るかどうかは僕の問題ですよ」
生意気なシンジの言葉に加持は笑った。
「分かったよ。まあ結局、八年は長かったってことさ。変わらずにいることなんてできない。確かに葛城のことは好きだが、今の俺にはやらなけりゃならないこ
とがある。両方は選べない。八年前の俺なら迷わず葛城を選んだだろうな。だが今は……。どうしようもないことなんだ。そりゃもちろん、俺だってもっと違っ
ていた
らよかったとは思うさ。そうすれば今ごろ子どもの一人
や二人もいたかもしれない。しかし……」
加持は憂うつな表情でかぶりを振り、深いため息を吐き出した。
「じゃあ、どうして今でも二人で会うんです?」
「寂しいからだろうな。実りがないと分かってはいても、ひとときの慰めにはなる」
それはシンジには到底納得できない話だった。しかし、彼にはなんと言うべきか言葉が見つからなかった。間違っていると言いたかったが、それを伝えたとこ
ろでどうにかなる問題でもない。そもそも加持だってそんなことは重々承知しているはずだ。
加持は再び憂うつなため息を吐き出した。
「この話はもうやめにしないか? 俺は確かにひどい人間だが、こんな俺でも気が滅入る話題というのはあるんだよ」
そう言って加持は皮肉げに顔を歪めた。シンジは彼の自嘲の奥に隠された深い悔恨を感じ取って、軽率な質問をした自分を恥じた。
「ごめんなさい。嫌なことを訊いてしまって」
「気にしないでくれ。俺たちは友達だろ。心配してくれるのを怒ったりはしないさ」
加持はまたリールを巻き、引き上げた釣り針を投げ込む動作を繰り返した。
「そうだな……、もしも今起こっている色々なことがすべて終わって、なにもかも丸くことが収まったとしたら、そのときは葛城とのことをもう一度考えられる
かも
しれないな。当然、あいつがそんな虫のいいことを許してくれたらの話だが」
そのとき、シンジの携帯電話が鳴り始めた。同時にジオフロント内に警報が響いた。短い命令を受け取ったシンジは、承諾を伝えて電話を切った。
「使徒か?」
「はい」
「よし、戻ろう。船を出すよ」
手早く釣り糸を巻き取り、操舵室へ向かおうとした加持の背中にシンジは声をかけた。
「大丈夫ですよ、加持さん」
その言葉に加持は物問いたげな表情で振り返った。
「きっとなにもかも上手く行きます。だから、大丈夫」
シンジの言葉は妙な確信に満ちていた。当然だが、彼は自分の言葉の意味するところを充分承知していた。ことの成り行きに彼が果たす役割がいかに大きいの
かも。結局、恐怖や疑念にさいなまれながらも、彼はようやく認めたのだ。自らの決断と勇気に多くの――すべての人々の人生がかかっているということを。
その決意を感じ取った加持は、頼もしげにシンジを見てその肩を叩いた。
「行こう。みんなが待ってる」
シンジが目を覚ましたのは入院の翌日のことだった。使徒は無事に撃退していた。シンジが気絶し、エヴァが各機わずかに損傷した以外は目立った損害はな
い。
病院のベッドで目を覚ましたシンジは医師による検査の結果、もう一日だけ様子を見て何も異常がなければ家に帰れるとのことだった。指揮官であるミサトの
訪問では、先の戦闘でのシンジの無謀な行動についての小言とともにねぎらいの言葉をもらい、次に訪れた無口な同僚とは、長い沈黙の合間に二言三言ほど短い
言葉を交し合った。そして、レイと入れ替わりでやってきて、今シンジの病室にいるのがアスカだ。
目下のところ、シンジとアスカは口論、というよりアスカによる一方的な叱責の真っ最中だった。彼女はシンジのベッドの周りを行ったり来たりしながら、大
袈裟な身
振り手振りを交えて感情的にわめき散らしていた。
「一体あれはなんのつもりだったの?」
「どういうこと?」
シンジが問い返すと、アスカは人差し指をナイフのように突きつけて叫んだ。
「あんたがしたあの馬鹿げた行動よ。一体なにを考えてたの。もうちょっとで死ぬところだったのよ!」
「でも、僕は生きてる」
「運がよかったからよ。まったくの偶然よ。あんたには危険を判断するだけの頭もないの!?」
「使徒はあのときアスカの弐号機を狙ってたんだよ」
シンジの口調はそれですべて説明できるといわんばかりだった。
「そんなことあたしだって分かってたわよ。あたしは自分で対処できたわ、あんたの助けなんかなくたってね。あんたがしたおせっかいは余計な危険をただ増や
しただけだったのよ」
「でも、僕は……」
シンジは怒りに頬を染めて自分を睨んでいるアスカに弁解しようとしたが、そのとき病室のドアがノックされ、加持が顔を覗かせて言った。
「あー、見舞いに来たんだが邪魔だったかな、お二人さん。もしそうならまた出直すが、廊下まで声が丸聞こえなのを教えておいたほうがいいと思ったんだ」
「いえ、邪魔なんてとんでもない。入ってください、加持さん」
シンジは加持の出現にいささかほっとして彼に声をかけた。アスカは怒りを長持ちさせるたちだったし、もうすでに彼女の金切り声はシンジの耳に被害を与え
始めていた。
意外なことに、アスカは憧れの加持が隣に立つまで彼のほうを振り返りもしなかった。シンジはそこから悪い兆候を感じ取った。今の彼女が加持の相
手をするよりシンジの糾弾を優先させるつもりなのは明白だった。
「やあ。きみには怪我がなくて何よりだ、アスカ」
「加持さん」
アスカは抑えた声で彼の名を呼んで、小さく会釈した。そしてすぐにベッドのシンジに視線を戻した。シンジはこの口の上手い年上の友達がどうにかこの
窮地を救ってくれるよう懇願の眼差しを送りながら言った。
「ありがとうございます。加持さんまでお見舞いに来てくれるなんて。でも、別に大したことはないんですよ」
「そうらしいな。明日には退院できるとか。大したことなくてよかったじゃないか、アスカ」
「ええ、ほんとに」
アスカの声は危険なほど平坦だった。相変わらずその青い瞳はシンジを押さえつけていた。さすがに加持は彼女の状態をすぐに察して、話題を変えてきた。
「そうそう、シンジくんに見せたいものがあったんだ」
と、加持は自分の携帯電話を取り出し、画像を表示してシンジの顔の前に持っていった。そこには、釣り上げた魚を自慢げに掲げた加持が満面の笑みで映って
いた。背景は加持が地底湖で勝手に使用している船上で、釣り針からぶら下がる魚はおよそ四、五十センチメートルほどのブラックバスだった。
「やっぱり魚はいたんだよ。どうだ、見事だろう!」
加持は興奮した口調で言った。
「わあ、すごいじゃないですか、加持さん。これ、いつです?」
「今朝だ。素晴らしい引きだったよ」
「失礼ですけど正直な話、本当にあそこに魚がいるなんて信じてませんでした」
「あそこの水は相当量を芦ノ湖から運搬したはずだからな。ろ過されたとしても、卵か稚魚が紛れ込んでいたのは充分考えられる。魚食性のブラックバスがこの
サイズに育って
るってことは他の魚もいるに違いない」
アスカは興奮してはしゃいでいる二人をいぶかしげに見ながら言った。
「二人ともなんの話をしてるの?」
「僕と加持さんは最近よくジオフロントの湖で釣りをするんだ」
「あんなところで?」
「ああ、俺たちは秘密の船を持ってるんだ。いいもんだぞ、誰にも邪魔されずスイカなんか食いながらのんびり釣り糸を垂らすのは」
「スイカの種飛ばし競争もできるしね」
アスカは見るからにうんざりした表情で男二人を眺め、大袈裟に嘆いた。
「男ってこれだから……」
「今度アスカもどうだ?」
「遠慮するわ加持さん、悪いけど。あいにく釣りにもスイカの種にも興味ないの」
「心配しなくてもミミズは僕がつけてあげるよ」
軽口を挟んだシンジを引きつった顔でにらみつけたアスカは、深呼吸で気を鎮めてから言葉を続けた。
「二人とも、お気楽すぎるんじゃないの? こんなときによく釣りなんてできるわね」
加持は肩を竦めて答えた。
「四六時中張りつめてたら身体も心も持たないだろう。息抜きは悪いことじゃないさ」
「だから、あたしが言ってるのは……」
「無茶をする同僚が心配、とか?」
アスカの言葉を加持が引き継ぐと、彼女は火を飲み込んだように赤くなった。次に、その火を盛大に吐き出した。
「このバカは死にかけたのよ! 考えなしの軽率な行動のせいで、意味もなく! おかげで周りの人間が……このあたしがどんなに……」
そこまで言って彼女は両手の中に顔をうずめ、肩を震わせた。
「よしよし」
加持はアスカの肩に手をかけ、優しく叩いてやりながら声をかけた。
「次からはきっとシンジくんも気をつけるとも。これほど心配してくれる人間がそばにいることが分かったんだからな。そうだろう、シンジくん?」
「え、ええ。そうですね」
シンジは戸惑いつつも加持の言葉に頷いた。正直なところ、自分の行動にアスカがここまで取り乱すとは予想外だった。死にかけたのは事実だが、ちゃんと生
還したのだし、これが初めての経験でもない。そもそも死と隣り合わせの危険はいつものことだ。エヴァパイロットの矜持を誰より強く持つアスカな
らば、この仕事が決して安全なものではないことくらい承知しているとシンジは思っていた。
しかし、今目の前でアスカは言葉を詰まらせ、手のひらで顔を覆って肩を震わせている。シンジにとってこの光景は、昨日自分が死にかけたことよりもずっと
衝撃だった。横っ面にパンチを食らったような気がした。この華奢な(加持と並んで立つとそれがよりいっそう強調されて頼りなげに見える)少女を泣かせて
しまったのが自分だと思うと、胃の奥が石を飲み込んだように重くなった。
「アスカ、僕のために泣いたりなんて……」
シンジは顔を埋めているアスカに声をかけようとした。
しかし、ぱっと勢いよく顔を上げたアスカが潤んだ瞳でシンジをにらみつけ、切り込むように鋭い声で叫んだので、彼は最後まで言えなかった。
「泣いてないわよっ! 誰があんたなんかのために泣くもんですか!」
彼女があまりに勢いよく顔を上げたので、鮮やかな赤い髪が、彼女の怒気に揺らぐ炎のように見えた。シンジはベッドの上で心持ち後ずさり、迫り来る炎から
身を守るように手で庇いながら、やっと答えた。
「そ、そう、だよね」
怖い顔でシンジをにらみつけているアスカの隣では、加持がおかしくてたまらないという顔でにやにや笑っていた。シンジは年上の友達にうらめしげな視線を
送った。
そこへノックとともに病室へ入ってきたのは、病院の看護師だった。若い女性の看護師は見舞い客のアスカと加持に挨拶しながらシンジのベッドへ近づくと、
くるくる歩き回ってベッドの乱れを直しながら、彼女の患者に体調を問い質し、取り出した体温計を手際よく患者のわきに突っ込んだ。
「またあとで体温計を取りに来ます。それから先生の往診がありますから」
「あ、はい。分かりました」
シンジの従順な返事に若い看護師はにっこりと優しく微笑みかけた。彼女の笑顔はとても魅力的だった。彼女が病室を出て行くまで、加持はあからさまな視線
を向けるのを隠さなかった。アスカはシンジまで看護師に魅了されているのを気付き、顔をしかめた。それから、短いため息を吐き出してかぶりを振った。
「じゃあ、そろそろあたしたちはおいとましなくちゃ」
「あたしたち?」
加持が訊き返すと、アスカは加持の身体に手をかけて無理矢理回れ右させながら答えた。
「あたしと加持さんよ、もちろん。当然でしょ。このバカには休息とお医者様の診察が必要なのよ。釣り上げたニジマスの自慢はあたしが聞いてあげるから」
「ブラックバスだ」
加持が訂正すると、アスカは手をひらひら振って笑った。
「どっちだっていいわよ」
その間もアスカは加持の背中をぐいぐい押して病室から追い出そうとしていた。
「ちょっと待てって。じゃあシンジくん。お大事にな。しっかり休めよ」
「はい。ありがとう、加持さん」
シンジが手を振って答える間もなく、加持は廊下に押し出された。アスカはたった今自分が追い出した加持を上目遣いで見つめ、懇願口調で頼んだ。
「加持さん。このあと暇だったら、あたしを家まで送ってくれない?」
「ああ、構わないよ」
「よかった。じゃあ、先に行って待ってて」
「一緒に来ないのか?」
「まだ少しシンジと話があるのよ。すぐ追いつくから」
加持は物問いたげに片眉を吊り上げてアスカを見下ろした。しかし、アスカはそんな視線を追い払うように手を振って廊下の先を指差し、えらそうな口調で彼
に命令した。
「ほら、行って。エレベータはあっちよ」
賢明にも加持はアスカを笑ったりせず、その言葉どおりに従った。
邪魔者を先に行かせたアスカが病室に戻ってくると、測り終わった体温計の表示を眺めている最中だったシンジはちょっと驚いた顔をした。
「何か忘れ物でもあったの?」
するとアスカは肩を竦め、ベッドのすぐそばまで近づいて答えた。
「ええ、まださっきの話が終わってなかったから」
途端にシンジは引きつった顔になった。加持や看護師のおかげでうやむやになったと安堵していたのだが、アスカはシンジが考えている以上に執念深いよう
だった。
アスカはそんな彼の表情を見て、くすりと笑うと、安心させるように言った。
「怖がらなくても、もう怒鳴ったりしないわよ」
「本当?」
訊き返すシンジはまるで子どもみたいで、どうしたらあの戦闘で無謀な行動に走る彼と今の姿が繋がるのか、アスカは首を傾げざるを得なかった。
「まだお礼を言ってなかったと思ったの」
「そうだっけ?」
「ええ、そうよ」
そして、アスカはベッドの上で身体を起こしているシンジに近づき、その頬に優しくキスをした。彼の柔らかな頬に押し付けたくちびるをたっぷり時間をかけ
てから離
すと、彼女は耳元でささやいた。面と向かってはとても言えないと思ったからだ。
「昨日はすごく格好良かったわよ、シンジ。助けてくれてありがとう。でも、今度からは思い切った行動を取る前に、あたしの意見も聞くようにして。たとえあ
た
しを助けようとするときで
もよ。分かった?」
顔を離してアスカがシンジを見ると、彼は赤くなった顔に少し困ったような表情を浮かべ、きっぱりと言った。
「悪いけど、アスカ。もしまたアスカが危険な目に遭ったとしたら、僕は同じことをするよ」
シンジの言葉はこれまで聞いたことがないくらい強い意志が込められていた。しかし、彼の決意はまさにアスカがやめて欲しいと願っていることなのだ。
「シンジ」
「何を言われても気は変わらないよ。アスカが怪我したりするのを黙って見過ごすなんてできない」
彼を翻意させるにはどうすればいいか悩んでいたアスカだったが、決意に引き締まるシンジの顔を見て、そんな考えはすぐどこかへ吹き飛んでしまった。シン
ジの凛々しい顔は、数日前までの彼と同じものとはとても思えなかった。この短い間で明らかに彼は成長し、変わっていた。
急に胸が高鳴るのを感じ、アスカはどぎまぎした。
たとえ憎からず思っている相手であっても、これまでのシンジはあくまで彼女より弱い子どもだった。少なくともアスカはそう捉えていた。エ
ヴァの操縦に秀でているのも、ものごとの道理をわきまえているのも、シンジでなくアスカであるはずだった。
しかし、彼はそれをほとんど一夜にしてひっくり
返してしまったのだ。
アスカにとって不思議なのは、自分がその変化をすんなり受け入れていることだ。もちろん、傷つけられたプライドは抗議の叫びを上げている。だが、彼女は
ほとんど恍惚とした表情で内面の叫びを無視した。
いくら一般の女の子の基準からはかなり外れているとはいえ、曲がりなりにもアスカも年頃の女の子だったので、素敵な男の子が己が身を挺して彼女を守ると
宣言するのを目の当たりにしたら、うっとりしないわけには行かない。実際、彼女のうっとり加減はかなりのものだった。
アスカは目を輝かせ、ベッドの上の少年を見つめながら、蜜のような声で訊ねた。
「どうしてそう思うの?」
シンジはすぐには答えられなかった。さんざん言葉を迷ったあげく、彼は困りきった表情でアスカを見た。
「だって、アスカは女の子だから」
「女には危ないことはさせられないって言うの?」
すかさず問い返すアスカの口調には面白がっている響きがあった。
「それは、つまり……」
このまま困りきったシンジの顔を眺め続けているのも悪くないが、これから彼には医者の診察が待っているし、アスカも加持を待たせているので、これくらい
にしておいてやることにした。
まだシンジは決定的な言葉を口にするほど決心が固まっていないらしい。もちろん、アスカとの今後の関係についての決心だ。それを知ることができたのはア
スカにとって収穫だった。いずれにせよ、彼女自身もまだ完全に心が決まっていないのだ。ほぼ決まりかけてはいるけれど。
「ところで、相手があたしじゃなくても同じなの? 例えばファーストでも?」
ふと思いついてアスカが訊ねると、シンジは少し考えてから、頷いた。
「綾波でも他の人でもそうするよ。僕は、僕の目の前で傷つけられる人を黙って見ていたくないんだ。エヴァなんて嫌いだけど……エヴァを使って僕にできるこ
とがあるなら、それをするよ。もう決めたんだ」
明らかにシンジは本気だった。こちらのほうの決意はしっかりと固まっていて、翻意させることはできそうになかったし、すでにアスカにはその気もなくなっ
ていた。
シンジがアスカに危ないことをして欲しく
ないと思うのと同じように、アスカもシンジに危ないことをして欲しくはないと考えている。彼はどちらかというと危なっかしいし、
どこへ飛んで行くか分からない、制御の利かないロケットみたいなところがあった。今回の件でもアスカがどれほど彼を心配し気を揉んだかしれないが、そんな
気分はそう度々味わいたいものではない。
だから、止められないのならせめて彼のそばにいて、危なっかしいことをしないよう常に見張っている必要があった。結局はそれが二人のためなのだ。彼だっ
て
アスカがいつもかたわらにいて身に危険はないと分かれば、気が休まることだろう。別の意味では気が休まらないかもしれないが、その点も解決策がないわけで
はない。お互いにあと少し勇気を出しさえすれば。
「だから、アスカ。心配をかけたのは悪かったけど、僕はこれからも無茶をすると思うよ。必要なときには」
「強情ね」
アスカは微笑みを浮かべて彼女の勇敢な少年を見た。それから、もう一度シンジの頬にキスをして、思い切って彼の首に腕を巻きつけて抱き締めた。彼は慌て
たような声を上げたが、アスカはそれを無視して、少年の体温を感じ取ることに専念した。
しばらくして身体を離すと、シンジがベッドの上で妙にもぞもぞして居住まいを正した。シンジの表情には困惑の色があったが、少なくとも今のできごとを嫌
がっていないのは間違いなかった。
気をよくした、というよりほとんど上機嫌になったアスカは、先ほど彼女が二度くちびるを押し付け
た彼の赤らんだ頬を指でつまみ、からかうような調子で言った。
「でも、あたしはただ守られてるだけの女じゃないわよ、バカシンジ」
言葉とは裏腹に、アスカは頼もしげな眼差しでシンジを見つめていた。