好きと言ったら負けるゲーム
D,覚悟はいい?
そろそろ態度を決めるべきときだわ、とアスカは考えていた。
同居人のシンジをからかうのはひどく楽しいことだったが、目的と手段を履き違えるわけには行かない。アスカは別に、シンジの慌てふためく顔が見たくて彼
をもてあそんでいるわけではない。確かに彼のそういう顔は間が抜けていて可愛くて、彼女をたまらない気持ちにさせたが、それが本当の理由ではない。そもそ
もの彼女
の目的は、彼に自分を意識させることにあるのだ。
でも、なぜそんなことするのかしら?
自らのささやかな乳房の上から手を当て、アスカは自問した。
アスカはなんといっても世界に三人しかいないエヴァパイロットで、十三歳にして母国の最高学府を修了した天才児だ。しかも、非常に美しい少女でもある。
これまで出会ってきた人々はすべて多かれ少なかれアスカを意識してきた。誰一人として彼女を無視することなどできなかった。
シンジだって例外ではないわ。アスカはそう思っていた。なにしろ一緒に暮らしてまでいるのだ。だから、彼は誰より強くあたしを意識しなくちゃいけない。
そうすべきなのよ。
これまでのところ、アスカの試みは非常に上手く行っているように思えた。シンジは明らかに女の子の扱いというものに慣れていなかったし、思わせぶりな言
葉、ほんのささいな仕草一つで、彼はかわいそうなくらいアスカを意識していた。そんな彼を見るたび、彼女は深い満足を覚えていた。
また、自分が純情な少年をもてあそぶ才能に恵まれていることを発見して気を良くしてもいた。憧れの男性はかつてアスカの誘惑を鼻にもかけなかったが、あ
れは決して彼女に魅力がないせいではなかったのだ。その気になれば、自分はきわめて魅力的な女の子になれる。その事実は、かつての失恋に傷ついた少
女の自尊心を大いに回復させた。
しかし、この状況をいつまでも楽しんでいるわけにも行かないことに、徐々にアスカは気付き始めていた。今シンジは確かにアスカを意識している。でも、明
日は
どうだろう。明後日は?
からかえば面白いくらいに反応が返ってくるのは事実だが、大雑把にいってしまえば、それはリトマス試験紙が酸性やアルカリ性に反
応して色を変えることと大差ない。別にリトマス試験紙自体が色を変えたいと望んでいるわけではないのだ。
多少の不快さとともに認めなければならないことだが、シンジが移り気な少年であることをアスカは知っていた。彼は確かにアスカが働きかけたときには彼女
の
ことを見るかもしれないが、こちらが目を離した途端、別の女の子のほうへ目を向けるに違いない。綾波レイのこともある。あの自分とは正反対で、いまいまし
いがとても美しい少女にシンジが心惹かれているのは、疑いようがなかった。
あるいは別の女の子の可能性も大いにある。ひとたびシンジが誰かから誘惑されれば、その女の胸に喜々として飛び込んでいくに決まっている。アスカは自分
より胸が豊満で頭の軽そうな女の子のもとへ身投げするシンジの姿を想像して爪を噛んだ。これは屈辱以外の何ものでもない。
しかし、アスカはシンジが単純に自分を選ぶというだけでは満足できない、とも考えていた。彼が節操もなく女の子の胸に飛び込むのは、寂しさからだ。アス
カ
にはそれがおぼろげに理解できた。彼女自身、もし強烈な自尊心による抑制がなければ、優しい言葉をかけてくれた最初の男の子の腕の中へ一も二もなく飛び込
むだろう。この心の隙間を埋めてくれるのなら(ある程度保持したいラインはあるにせよ)誰でもいいのだ。特に今のような過酷な状況下においては。
誰でもいいけど、たまたま一番近くにいたのがアスカだったから、とシンジに思われることは絶対に、絶対に許せなかった。他を捨ててでもアスカでなければ
駄目だ、と
思ってくれなければ嫌だ。
強すぎる自尊心のためだけにアスカがそのようなことを求めている、と考えるのは間違っている。確かにシンジから一番に求められることは彼女の自尊心を満
たすだろうし、彼女が自尊心、あるいは虚栄心のためにシンジから賛美されることを求めているのはある程度事実だ。
しかし、この場合もっとも重要なのは愛情だった。アスカは(そしてシンジも)、本人が認めるか否かはともかく、愛情に飢えた子どもだ。これまで他人と上
辺だけでしか付き合うことをせず、傷つけられることがない代わりに、アスカ個人としての人格を求められたこともなかった。彼女はこれまで誰も愛さず、誰か
ら
も愛されなかったのだ。彼女の自覚の有無は問わず、いくつかの例外を除けば。
ほとんど初めて、アスカはアスカ個人として、一人の女の子として求められようとしていた。少なくとも、そうなる見込みは非常に高かった。彼女自身による
その方向への誘導は、目を見張る成功を収めていたから。
相手がシンジだということにアスカは別に不満を抱いていない。赤面を恐れず正直に白状すれば、現状では相手にはシンジ以外考えられないといっても
いい。が、たった一つだけ譲れないものが彼女にはあった。それはシンジの気持ちのあり方だ。
ごくシンプルな言い方をすれば、彼女は本物の愛情を求めていた。上辺だけのおべっかや、見せかけの愛情には我慢ならない。自分を裏切らない本物の愛情が
欲しかった。そんなものが本当にあるのか、という問いは彼女には酷だろう。彼女はまだほんの少女だったし、その半生から愛情に対する執着は人一倍強かった
のだから。
だから、シンジがもし本気であたしのことを好きでいてくれるのなら、自分もこの気持ちを認めてもいいわ、と意地っ張りな彼女は考えていた。心の中で考え
るだけで
も大変な努力をしなければならなかったが、彼女は健気にもその気持ちと向き合おうとしていた。普段の生活でしばしばシンジの顔から目が離せなくなるのと同
じように、彼女は胸の奥で脈打つその気持ちに心を奪われつつあった。
「今度はアスカの話も聞かせてくれないかな」
夕食後洗い物を終わらせたシンジがそう持ちかけてきたのは、やはりミサトの帰宅が遅いある夜のことだった。リビングでテレビを観ている最中だったアスカ
は、少しの驚きとともに彼を振り返った。内気な彼のほうからそんな風に話を持ちかけてくるなんて予想していなかったからだ。アスカは気になる男の子の積極
的な変化を内心喜んでいたが、長い間習い性となっている意地っ張りが顔を出し、心にもないことを言ってしまった。
「どうしてあたしがそんな話をしなけりゃいけないわけ?」
つんとした表情まで作ってつれない態度を取ったアスカだが、彼女の態度を受けて目に見えて萎縮したシンジの姿に、激しく後悔した。
「そ、そうだよね。ごめん、変なこと訊いて」
シンジは後ずさりながら言った。
「あ……、今のは違うの、シンジ」
「いいんだ。それじゃ僕は部屋に戻るから」
アスカの弁解を聞こうともせず、傷ついた表情のシンジは回れ右して行ってしまおうとしていた。
「ちょ、ちょっと待って。待ってってば。もうっ、待ちなさいよっ!」
最後にはシンジが着ているシャツの裾を掴んで、アスカは彼を強引に引き止めた。
勝手に自己完結して他人の話を聞かないところも矯正リストに追加だ、と彼女は思った。もちろん、それと同時に、つい意地を張って反射的に心にもないこと
を口走ってしまう彼女自身の困った癖もなんとかしなければいけない。虚勢を張るには都合がいいかもしれないが、信頼関係を築くには障害となりかねない。特
に、シンジのように他人の意図をすぐ誤解しがちな人間を相手にするときには。
なんといっても、彼との関係は今後のアスカにとって、最重要のものとなるかもしれないのだから、彼女はかなり本気だった。
「は、離してよ」
シャツの裾にしがみついて離れないアスカを振り返りながら、シンジは気弱な声で言った。
どう謝ればシンジを引き止められるのだろう? アスカは困惑して、こちらを見るシンジから顔を逸らした。下手に出るのは苦手だ。しかし、今回は明らかに
彼女が悪いのだから、苦手だろうとなんだろうと関係なかった。せっかくのシンジの勇気を踏みにじろうとしてしまったのだ。彼女は真実彼に謝りたかったし、
失敗した自分に腹を立ててもいた。
「わ、悪かったわよ……」
思い切って口に出してみたら、予想していたよりいじけた口調になってしまい、思わずアスカは唇を噛んだ。
「あの……アスカ?」
シンジは何がなんだか分からないという声だった。明らかに彼はアスカの謝罪のわけをいぶかしんでいた。反射的にぱっと顔を上げたアスカは、ほとんど涙ぐ
みながら叩きつけるように叫んだ。
「悪かったって言ってるのよ! あたしだってたまには反省するのよ、それがそんなに珍しい!? 大体あんたこそなによ、一言冷たくされたからって簡単に引
き下がるんじゃないわよ、バカッ!」
大した剣幕だった。
また失敗した、とアスカは絶望的な気分になった。いくら外見が綺麗でも、このように心が粗野な女の子を本気で愛してくれるほど寛大な男の子はいるはずが
ない。シンジは優しいが、彼の心の広さがそこまでとはアスカには思えなかった。
「えーと、つまり……?」
しかし、シンジはシャツを掴まえたアスカの手を振り払って逃げ出す代わりに、彼女の複雑な表情を見つめて、慎重に問い質した。
「だから、さっきから待ってって言ってるじゃない。いいからここに座って、もう一度あたしに質問してよ」
しおらしい声でアスカが答えると、少し迷う表情を見せてから、何かを決心したように口元を引き締めて、シンジがアスカのそばに腰を下ろした。
いつものシンジならやらないようなことだが、彼は彼女の目をまっすぐに見て、先ほどの言葉を繰り返した。
「この前は僕の話をしたから、今度はアスカの話が聞きたいんだ。エヴァパイロットとして生きてきた十年がどんなものだったかとか、アスカの家族や学校、住
んでた町のことを。そもそもドイツがどんなところかも知らないんだ。そこでアスカがどんな風に生活してたかなんて、想像もつかない。だから、教えてくれ
る?」
「本当に聞きたいの? あたしのことが知りたい?」
「うん。知りたい」
話しかけるシンジの顔を真剣に見つめていたアスカは、不意に花がほころぶように表情を和らげた。
「ふぅん」
結局、なにもかも上手く行くのかもしれない。アスカは胸の奥で希望が大きくなるのを感じた。自分のことを他人に詳しく話して聞かせるのは初めての経験
だったが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、彼にはあらゆることを知っていてもらいたかった。
「ミサト、今日は遅くなるのよね」
「うん。深夜になるから、戸締りして寝てなさいって」
「ねえ、シンジ。あたし、紅茶が飲みたいな。長く話を続けていると、きっと喉が渇くと思うし、あたしよりあんたが淹れたほうが美味しいのよ。お願いしても
いい?」
アスカは少し俯き、目をぱっちり開けて、上目遣いにシンジを見ながらねだった。もちろん、前屈みに身体をすり寄せることも忘れなかった。おまけに、今日
も彼女はシ
ンジを困らせるような服装をしていた。
シンジは顔を真っ赤にして、あちこちに忙しく視線を動かしながら答えた。
「わ、分かったよ。紅茶だね。うん。ミルクは?」
「たっぷり」
アスカの声はしたたり落ちんばかりだった。
「そ、そう」
「お願いね。ふふっ」
最後のあざとい真似は念のためだ。これから話し終えるまで長時間シンジの注意を引きつけておかなければならないので、最初にしっかりとこちらを向かせて
おきたかったのだ。
相変わらずアスカは自らのこの手の才能に惚れ惚れしていた。心から楽しんでもいた。
シンジ以外の男の子にはどれくらい効果があるのかしら、と好奇心に駆
られもしたが、このまま上手く事が運べば、その挑戦をする機会は訪れそうになかった。もっとも、だからといってアスカがこのお気に入りの遊びを捨てて、腕
前を
錆び付かせる気にはなれないだろうが、いずれにせよその場合も相手を務めるシンジは喜んで我慢するに違いない。
実際、十四歳の少年にとって、アスカの手口はちょっと度
が過ぎていた。
なかば心ここにあらずという状態を呈したシンジが、紅茶を淹れるために立ちあがろうとしたが、なぜか動きを止めて、まじまじとアスカを見た。
「どうしたの?」
見つめられたアスカはきょとんとして訊いた。
「そろそろシャツを離してくれる? それとも僕と一緒に台所へ行くことにする?」
シンジのシャツを掴まえたままになっていたことに自分自身気付いていなかったアスカは、穏やかに指摘されて顔をりんごみたいに真っ赤にした。
それから、真剣に悩み始めた。彼を離さないまま。
なかがきふたたび
皆様。怪作様。ありがとうございます。
終わりませんでした。もうちょっとだけ続きます。
予告と異なり、申し訳ありません。
Eはもうできてますし、Fで今度こそ終わるはずです。……ったらいいなと思います。
あとはアレをコレしてソレをナニすればちょちょいのちょいで。
よろしくお願い致します。
rinker/リンカ