好きと言ったら負けるゲーム
C,女ってやつは!
特殊なパイロットスーツに身を包んだシンジとアスカ、レイの三人はエヴァのシンクロ試験に向かうために、ネルフ本部内の通路を歩いていた。先頭をアスカ
が行き、その後ろからシンジとレイが従っている。アスカはひっきりなしに後ろに向かって話しかけ、それに対してシンジが適当な相槌を繰り返していた。
通路の一角に設けられた休憩所の横を通りかかったときのことだ。休憩所に置かれた自動販売機から飲み物を取り出していた人物が、三人に声をかけてきた。
「やあ、みんなこれから訓練か?」
「加持さん!」
アスカはいつもより一オクターブ高い声で叫ぶと、声をかけてきた加持リョウジの身体に突進した。加持リョウジは長髪を後ろで結んだ背の高い男だ。三十歳
くらいで、いつも無精ひげを生やし、あまり清潔ではないが魅力的な容貌をしていた。アスカはこの男性のことをドイツにいるころから知っており、とても慕っ
て
いた。
加持に抱きついたアスカの姿をシンジは眉をひそめて眺めていた。彼女のこういった大袈裟なスキンシップはなぜかシンジをむかむかさせた。ヨーロッパでは
普通のことかもしれないが、だからといってこの日本でもこの種の光景に寛容な人間ばかりというわけではないのだ。相手が親戚のおじさんというのでもあるま
いし、十四歳という年齢を考えると、アスカの行動はいささか不適切に思えた。なにより彼女は今、身体に少しの隙間もなくぴったり密着した、薄っぺらい布切
れしか身に着けていないのだ。シンジの感覚からすると、それは裸と大差なかった。
「これからシンクロテストがあるんです」
シンジは堅苦しい口調で加持に言った。
「そうか。いつも大変だな。リッちゃん――赤木博士は厳しいだろう」
腰にアスカを抱きつかせたまま、加持が答えた。
「はい。でも、リツコさんも仕事ですから」
シンジの言葉は皮肉げでさえあった。確かに加持が仕事をしている場面を見たことは、アスカですらない。もちろん、姿を見ないときには仕事をしているのだ
ろうが、その内容は誰も知らなかった。
アスカは肩越しに鋭くシンジを睨むと、加持の顔を見上げて甘えた声を出した。
「シンジはいつもリツコに怒られてばかりいるのよ。いまだにまともなシンクロもできやしないから」
「でも、シンクロ率はアスカとあまり変わらないんだろう?」
「数字だけよ。その他はてんで駄目なんだから」
「こらこら。大事な仲間をそんな風に言うもんじゃないぞ、アスカ」
「あら、そんなつもりはないのよ、加持さん。でも、使徒を倒すにはエースのあたしがいれば充分だと思うわ。加持さんだってあたしの実力はよく知ってるで
しょ?」
お気に入りの男性に媚を売るアスカの姿を見かねたシンジは、内心の苛立ちをこらえ、努めて平坦な口振りで言った。
「アスカ。もう行かなくちゃ時間に遅れるよ」
しかし、アスカはシンジをまるっきり無視した。
「そうだ、いいこと思いついたわ。ねーえ、加持さん? せっかく久しぶりに会えたんだもの、これからあたしとデートしましょうよ」
「無茶を言うもんじゃないよ、アスカ。ジュースくらいは奢ってやってもいいが、どっちにしろ今はシンクロテストに行かなきゃな。ほら、シンジくんたちも
待ってるじゃないか」
加持は身体にしがみつくアスカを見下ろして穏やかに諭したが、彼女は聞き分けなかった。
「シンジなんてどうでもいいのよ。シンクロテストも一回くらいサボったって誰も困ったりしないわ。デートが駄目なら、ここでおしゃべりするのでもあたしは
構わないわよ、加持さん。あたしにとっては、そっちのほうがよっぽど大事なことだわ。お話したいことがたくさんあるの。だって、加持さんはなかなかあたし
に付き合ってくれないんだもの」
このあたりがシンジの限界だった。我ながら短気だとは思ったが、シンジは相変わらず加持に抱きついて彼を無視している少女の背中を険しい目でにらみつ
け、冷たく吐き捨てた。
「それなら好きにしろよ。僕らはもう行くからな」
「何をそんなにいらいらしてるの、シンジ?」
顔だけ振り向いたアスカが無邪気を装ってシンジに訊ねた。シンジの顔は怒りで真っ赤になった。
「早く行こう、綾波」
「ええ」
険しい表情をしたシンジは、その場にアスカを置き去りにして足取りも荒く立ち去った。レイは何も言わず、彼のあとを従順についていった。
いうまでもなくアスカの手管は見え透いていたので、彼女の考えていることなどシンジには分かりすぎるほど分かっていた。
アスカが以前からこの年上の男性に好意を抱いていることはシンジも知っていた。なにしろ常日頃から彼女はその事実を公言し、周囲に忘れさせまいと気をつ
けてきたからだ。しかし、今回のことは、明らかにシンジに対するあてつけだった。彼女はわざとらしい態度で同居人の少年を挑発し、その反応をいちいち楽し
んでいた。
数日前にリビングで彼女からキスを迫られて以降、彼女の態度は普段どおりの高飛車でわがままな同居人のそれに戻っていた。あの出来事はシンジを混乱に突
き落としたが、数日経ってみると、たちの悪い気紛れの一つだったのだろう、と彼は思い始めていた。
だが、明らかにゲームはまだ終わっていなかったのだ。それどころか、彼女は他の関係ない人間まで巻き込んで、残酷なゲームをいっそう手の込んだ複雑なも
のにしようとさえ
していた。
シンジはそんなものに付き合う気は毛頭なかった。アスカには好意を抱いていたが、あくまでそれは同居人であり友人としての範囲に留まるものだったし、彼
はあまり彼女に対して多くを期待してはいなかった。
彼女は確かに可愛らしいし、機嫌のいいときに限れば素晴らしい友達だ。しかし、そんな彼女を楽しませるためだけに、鋭く尖った無数の棘の中へ進んで身を
投げ出すほど自分はおめでたくない、とシンジは考えていた。アスカの魅力や才能に理性を失う馬鹿な男の子は世の中にたくさんいるのかもしれない。これまで
も実際にいたのだろう。
でも、僕は絶対にそんなことしないぞ。シンジは鼻息も荒く自分に言い聞かせていた。
次の日、同じ休憩所で再び加持リョウジと鉢合わせしたのは、訓練が終わって更衣室に引き上げているときだった。シンジは一人で歩いていた。この日は他の
二人には訓練が課されていなかったからだ。
最初は加持を無視して通り過ぎようとシンジは考えた。昨日のことにまだ腹を立てていたからだ。加持は単に巻き込まれただけで、悪いのはアスカだというこ
とは承知していたが、シンジはそこまで割り切れていなかったし、そもそもアスカの子どもじみていて見え透いたやり口を見抜けないほどこの男性が単純な人間
だとは考えられなかった。
しかし、それではやはり目上の人間に対する礼儀として問題があると考え直し、シンジは軽く会釈して挨拶した。
「こんにちは、加持さん」
挨拶はしたものの、会話する気にはなれなかったシンジは、そのまま歩調を緩めず通り過ぎようとした。だが、加持がシンジを呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ、シンジくん。きみを待ってたんだよ」
「僕を?」
「ああ。もし時間があれば、ちょっと話をしないか?」
シンジは疑いのこもった目で加持を見つめて言った。
「僕、男ですよ、加持さん」
加持はシンジの皮肉に顔色一つ変えず、肩を竦めて言った。
「確かにきみがスカートを穿いて歩いてるところを見たことはないな」
自分の子どもじみた発言を恥じたシンジは顔を赤くして謝った。
「すみません。失礼でしたね」
「聞き流すよ。で、どうかな?」
「時間はあります。訓練はもう終わったので」
シンジが頷くと、加持は安心したように笑った。
「よかった。飲み物を買ってあげるよ。何がいい?」
「じゃあ、スポーツドリンクを。ありがとうございます」
「よし。そうしたら、まずきみは着替えないとな。それから場所を移そう」
「どこへ行くんです?」
「ちょっといいところを知ってるんだ」
加持に連れて行かれたのは、ジオフロント内の人工地底湖だった。湖畔の桟橋にはパッとしない小型船が横付けされており、加持は何食わぬ顔でシンジを乗せ
て船を出
した。
湖は大きく、周りを森に取り囲まれている。頭上にある天蓋を見上げなければ、ここが地下だとはとても信じられないくらいだ。
加持は湖の真ん中あたりで船を停め、ぼんやりと景色を眺めているシンジのところへやって来た。
「どうしたんです、それ」
加持が両手に抱えていた釣竿やバケツを見て、シンジがなかば呆れて訊ねた。
「俺の私物さ。持ち込んだんだ」
ご丁寧なことに加持はゴム長靴に履き替えていた。
「そもそもこの船はなんなんです?」
「ジオフロント造営時に使われた作業船だよ。お役御免で放置されてたが、まだ使えるんでね、俺がもらったんだ」
「父さんから?」
「わざわざ断る必要はないと思ったんだよ。忙しいきみのお父さんをこんなことでわずらわせたくなかったからな。もちろん、その他の連中もね」
つまり、加持は無断で船を私物化しているのだった。しかし、まったく悪びれないどころか得意げでさえあるその表情を見ていると、シンジはこれ以上追求す
るのも馬鹿らしくなってしまった。
「で、これからするんですか、釣りを?」
「当然だろ。きみが釣竿の新しい使い方を知っているのでもなければ」
「そもそもここに魚っているんですか? どこからも水が流れ込まない、言ってみれば大きな水たまりなんでしょう?」
「よく見ろよ、シンジくん。これだけたくさん水があるんだぞ。魚がいるに決まってるじゃないか。絶対だ。前々からそう思ってたんだよ。まあ、とにかく糸を
垂ら
してみりゃすぐに分かるって」
加持は目を輝かせて自信たっぷりに断言し、シンジに釣竿を手渡した。
それから二人は折り畳みチェアに並んで腰かけ、船上から釣りを始めた。シンジはこの穏やかな地底の湖に魚がいることをまだ信じていなかったが、意気揚々
と釣りを
始めた加持に付き合って、糸の先に繋いだ針に加持が用意したミミズを刺し、湖面へ投げ込んだ。
「昨日のことだがね、シンジくん」
湖面に揺れる浮きを真剣な眼差しで見つめながら、つばをいい角度に曲げた野球帽をかぶった加持が話し始めた。
「昨日がどうかしました?」
答えたシンジは加持からもらった麦わら帽子をかぶっていた。外界から光ファイバーで取り込まれた光によって、ジオフロントには陽射しがある。
とぼけてみせたシンジに加持は笑って言った。
「きみは本当に見かけによらない子だな。なあ、ここには俺たちしかいない。腹を割って話そうじゃないか。もちろん、俺が言ってるのは昨日のアスカのことだ
よ」
「ああ、そのことですか」
予想どおりでシンジはちょっとがっかりした。加持との間でアスカのことは今一番話題にしたくないことだ。彼女が加持を好いていようが別に構わないが、い
いようにからかわれるのには心底腹が立つ。
「そのことだ。昨日はちょっと調子に乗りすぎていたが、あまり彼女に腹を立てないでやってくれ。止めない俺も甘いと分かってはいるんだが」
「僕は別に。アスカの性格が悪いのはいまさらですし、加持さんのせいじゃありませんよ」
「ずいぶんと達観してるな。どうだ、一緒に暮らしてみて。アスカにはてこずるだろう。あの子はなんというか、あまり人付き合いのやり方を知らなくてね。明
らかな優位に立てない相手とい
うのは初めてなん
だよ。もともと素直じゃない性分でもあるし」
「だからって慰めにはなりませんよ。標的にされるのは僕なんですから。せめて、アスカがころころ態度を変えないでくれたら助かるんですけど。彼女の本心は
一生分かりそうにないという気になります」
アスカが自分のことをどう思っているのか、シンジにはよく理解できなかった。友達として笑い合っていたと思ったら、そのすぐあとにはまるで親の仇のよう
に口汚くののしられる。同じパイロットとして認め合えたかと思えば、エリートという言葉を振りかざして足蹴にしてくる。キスを迫るかと思えば、道端の石こ
ろほどにもかえりみなくなったりする。彼女の態度にはまるで一貫性というものがなかった。
「世の中にはな、シンジくん、自分には一般のルールが当てはまらないと考えている女性がいるんだ。彼女たちは適用されるルールを自ら作り出す。しかも、そ
のときどきに応じてね。彼女たちはルールを捻じ曲げてるんじゃなくて、いつも違うルールに従ってるんだ。だから、ころころ態度が変わるのも、彼女たちに
とってはごく自然なことなんだよ。合理的でさえある。自分が作ったルールに従ってるだけなんだから。そういう女性のことを完全に理解するのはとても難しい
ことなんだよ」
「でも、それって、すごく迷惑な話じゃありません?」
「もちろん、厄介ではある。とてもね」
加持は無精ひげの生えたあごをかきながら続けた。
「しかし、こちらがそういう女性の扱い方を覚える気になれば、必ずしも厄介ではなくなるんだ。その決心をきみがすれば、という話だが」
「まさかアスカに何かしろって、僕に言うんじゃないでしょうね」
シンジが望んでいるのは、できるだけアスカに振り回されないでいられることなのだ。そのためには離れて係わりにならないことが一番の方法だ。しかし、現
実には同居をしているのだし、同じエヴァパイロットとしてまだしばらくは係わり合いを続けなければならないのは明白だった。シンジが好むと好まざるとに係
わらず、アスカは彼の鼻面を掴んであちこちに振り回し続けるだろう。
かといって、アスカに対してなんらかの手段を講じるというのは、あまり魅力的な考えとはシンジには思えない。アスカの性格からして全力で抵抗するだろう
し、そうなればシンジにとってひどく骨の折れる作業になりそうだからだ。
「大したことじゃないんだよ。少なくとも、最初の一歩は。ただ認めるだけでいいんだから」
「どういうことです?」
シンジが訊くと、加持は肩を竦め、ごくなにげない口調で言った。
「アスカのことが好きだろ?」
シンジの頬がうっすらと染まったが、彼は何も答えなかった。
「おいおい、腹を割るって約束したんじゃないか? 別に恥ずかしがることじゃない。アスカはあのとおり綺麗な子だし、きみらみたいにしじゅう一緒にいれば
そういう気持ちが芽生えてもまったく不思議じゃない」
「でも、そんなことを認めたって、アスカが変わったりはしませんよ」
いいわけがましくシンジが言うと、加持は穏やかに笑った。
「たったそれだけのことでアスカがどれほど変わるかを知ったら、きみはびっくりするよ。俺を信用してくれ、シンジくん。絶対にびっくりする」
この年上の男性の言葉をシンジはよくよく考えてみた。確かにアスカのことは好きだといってもいい。今でも友達だとは思っているし、彼女はすこぶる魅力的
な少女だ。気持ちを発展させ
る見込みは充分にある。少なくとも、彼女が期待に応えてくれるとはっきりと分かれば。
彼はキスを迫られたときのことを思い出して赤くなった。からかわれているのかどうかを思い悩まずにすめば、あのときだって違う可能性はあったのだ。
結局のところ問題は、アスカがどういうつもりでいるのか分からないという一事に尽きた。それが彼らの間に横たわる唯一の障害なのだ。少なくとも、シンジ
の気持ちを押しとどめるものはそれだけだった。
シンジは隣で釣り糸を垂らしている男の横顔を見つめた。彼は相変わらず熱心に浮きが反応を見せるのを待っていた。シンジも自分の釣竿の先で湖面に揺れる
カラフルな浮きに視線を移した。
「全然釣れませんね」
「魚はいるはずなんだよ。それは分かってるんだ。ポイントが悪いのかもしれないな」
加持は頑固に言い張った。
その後二人はあたりが薄暗くなり始めるまでねばったが、結局魚は一匹も釣れずじまいだった。
家に帰ったときには、もうすっかり夜になっていた。リビングで寝そべっていたアスカは、険悪な表情でシンジを出迎えた。
「遅い! 何遊んでたのよ!」
「ずっとネルフにいたんだよ」
彼女の剣幕に身体を引きながら、シンジは弁解した。ダイニングのほうへ視線を送ると、テーブルの上にはカップラーメンが二つ、箸とともに置かれていた。
今日の食事当番はアスカだ。
「……ごはん、待っててくれたの?」
わざわざ彼女がそんなことをしたのに意外な気がして問いかけると、彼女は腕を振り回して答えた。
「おかげであたしはおなかがぺこぺこよ。せめて連絡することくらい思いつかなかったの?」
「悪かったよ」
「ふん。分かればいいのよ。ところであんた、その麦わら帽子はなんなの?」
シンジは加持からもらった麦わら帽子を手に持っていた。
「ああ。加持さんにもらった」
「加持さんに?」
アスカの声が急に甲高くなった。シンジはしまった、と思った。
「加持さんにもらったですって!?」
今度はほとんど金切り声で彼女は叫んだ。加持の言葉を頭から疑うわけではないが、彼の助言が、目の前で角を突き出してわめいている少女にあてはまるかど
うか、シンジには確信が持てなかった。
「加持さんがあんたと何してたのよ! あたしには全然付き合ってくれないのに!」
「ちょっと話をしてただけだよ」
シンジは手に持った麦わら帽子を持ち上げて少し考え、それからアスカの赤色の頭にその帽子を強引にかぶせた。
「あげるよ。きみのほうが似合う」
アスカは無理矢理麦わらをかぶせられた頭を両手で押さえ、口を空けて目をまん丸くさせた。こんな間の抜けた表情を彼女がするのは珍しかった。
「あ、ありがと……」
おずおずとつっかえながらアスカが礼を言うと、シンジは思わず噴き出してしまった。あまりに彼女の態度が珍しかったから、悪いとは思ったがおかしくてた
まらなかったのだ。
「なによ!」
当然、アスカは顔を真っ赤にして怒った。
しかし、不思議なことに怒った彼女をなだめるには、いつもと違ってそれほど時間はかからなかった。というより実際には、彼女はすぐに機嫌を直したのだ。
それが加持の麦わら帽子のためか、その他の理由によるものか、シンジには判断がつきかねた。