好きと言ったら負けるゲーム
A,彼の言い分
父に呼び出されて第3新東京市に来てからというもの、年上の女性の家に住まわせてもらったり、他のエヴァのパイロットが二人とも女の子だったり、そのう
ちの一人とも一緒に住むことになったりと、自分の身の回りがにわかに華やかになったような気がして、碇シンジは少し居心地の悪い思いをしていた。
実はシンジは女の子の相手があまり得意でない。葛城ミサトが初めに彼を自分の家に住まわせると決めたときには嫌で嫌でたまらなかった。といっても、ミサ
トはすでに『女の子』という年齢ではなかったので、むしろシンジにとって彼女の存在は『大人』として認識されていたし、色々な意味で女性らしさに欠ける彼
女の姿を見ていると、意識するのが馬鹿らしくなってしまうのは否めないところだった。
しかし、アスカの場合は話が違う。彼女は正真正銘の女の子だった。
ドイツから来たアスカは華奢な白人の少女で、肌がしぼりたてのミルクのように白く、瞳は深く澄んだ湖の底のように青かった。長くうねる髪の毛は沈む寸前
の夕陽のよ
うに赤
く燃える色をしていた。背丈はシンジとほとんど変わらず、華奢ではあったが、紛れもなく成熟しつつある女性の身体つきをしてた。顔の造作は非常に可愛ら
しく、美しくさえあった。また彼女からは花のようなうっとりする香りがした。シンジには彼女が一体どこからそんな香りを発散させているのか、どうしても分
からなかった。
とはいえ、彼女にみとれてぼーっとしてばかりいる暇は、実のところシンジにはあまりなかった。
容姿こそほとんど完璧なアスカではあったが、口を開けばその本性はたちどころに明らかにされた。控えめにいっても、彼女はとても高慢でわがままな少女
だった。彼女はきわめて賢かったが、それを鼻にかけているようなところがあった。さらには長年の間特別扱いをされ続けてきたので、世の中の人間はすべて彼
女に対してそのように振舞うべきだと考えているのではないか、とシンジは疑っていた。彼はそんな彼女の態度に子どもじみた反発心を覚えていた。
加えて、興奮したときの彼女の声ときたら、恐ろしく甲高くて、凶器といってもいい。口喧嘩するたびにシンジの耳のすぐそばでアスカがそのとんでもない声
を
喉の奥から絞
り上げるせいで、いつもしばらく耳鳴りに悩まされる羽目になるのだ。それでも、彼女が手足を出して実力行使をしてくるのに比べたら、ずっとましではあっ
た。
機嫌のいいときのアスカのことは決して嫌いではなかった。彼女は明るくて楽しい話相手だ。しかも、これまで出会ったどんな女の子よりも可愛い。シンジと
してもそこは認めざるを得ない。
しかし、機嫌が悪いときのアスカは、ありていにいえば、ほとんど災害だった。
安全なはずの家の中で嵐はしばしば発生した。しかもほぼ必ず、その嵐は一直線にシンジ目掛けて飛んでくるのだ。自分を狙い撃ちにするたちの悪い災害と対
決しなければならない(それもほとんど毎日)のは、とても疲れるのだ。たとえその災害がうっとりするほど可愛いとしても、シンジとしてはそこにばかり目を
奪われているわけにはいかない。そんなことでは、彼女は思う存分シンジをずたずたにしてしまうだろう。さすがの彼もそこまでアスカの姿に夢中になっている
わけではなかった。
「それにしてもシンジはうらやましいよな」
そんなわけで、中学校で昼食の弁当を食べているとき、友達の相田ケンスケが口にした言葉に対して、シンジは乾いた笑いを浮かべるほかなかった。この手の
友達の誤解は、いくら説明しても一向に晴れる気配がなかったので、彼はすでに諦めかけていた。
「なにしろあのミサトさんと惣流やからなぁ。根性悪の惣流はともかく、ミサトさんと一緒に暮らせるなら何を引き換えにしてもええ」
もう一人の友人の鈴原トウジが夢見心地で言った。
確かにミサトは成熟した大人の女性で、肉感的な身体つきをした美女だ。あの大きく突き出した胸やその他の部分に男心をそそられてしまうというのも当然の
反応といえる。
しかし、それを帳消しにして余りある側面を知っているシンジとしては、友人の妄想にはまったく賛成できなかった。
「そんないいものじゃないよ。実際は大変なんだ」
シンジは悲劇的な表情まで作って、もう何度目になるか分からない友達への説明を試みようとしたが、例によってそれは失敗した。実際、ごく平均的中
学男子であるケンスケとトウジにとって、真相を明かして夢から醒まさせてやろうというシンジの心遣いは、彼だけが独占する至福を誤魔化すためのたちの悪い
たわ言でしかなかった。ようするに、シンジは友達に信じてもらえないどころか、ますます羨まれ、妬まれるだけなのだ。
「これもエヴァパイロットの特権か」
「世界を守るごほうびだよ、トウジ。英雄色を好むって言葉もあるくらいだ」
「許されへんな。こないな不公平、おてんとさんが許してもこのわしが許さへん。ま、しかし、それはそれとしてや、一度くらいはミサトさんの風呂を覗いてみ
たんか?」
シンジは弁当を噴き出して咳き込んだ。
「センセも男や。軽蔑したりせえへんから、ほんまのところを白状してみ?」
トウジはいやらしい眼差しでシンジに迫った。ケンスケも並々ならぬ興味をその表情に浮かべて、その様子を見守っていた。
けれども、シンジは彼らの期待を裏切り、真っ赤な顔をして否定した。
「そんなことしないよ!」
嘘ではない。誘惑がなかったとはいえないが、シンジは一線を守り続けていた。そもそも彼の性格上、その種の一線を超えてしまうと、罪悪感と自分への嫌悪
感でいてもたってもいられなくなるだろう。
「ほほう、なるほど。さすがセンセは紳士でいらっしゃる」
「まったく。俺たち凡人とはできが違うのさ。たぶん両脚の間には俺たちとは違うもんが付いてるんじゃないのか?」
「ちんことちゃうのん?」
「ああ、きっと俺たちには想像もできないような何かだよ。一見ちんこに見えるかもしれないが、それはちんこじゃない別のすごいものなんだ。なにより、それ
はちんこよりずっと礼儀正しいらしいからな」
「知らへんかったわ。連れションで覗いたときには普通のちんこや思たのに、実はちゃうもんやったとは。ちょい待ち、せやったらケンスケ、シンジは男
やないんか?」
「かもしれないな。もちろん女じゃないことは確かだが。でも、そのあたりは難しい問題だからな」
「ああ、せやな。分かっとる。デリケートな問題やな」
「二人ともいい加減にしてよ!」
シンジが抗議の叫びを上げた。
「気にすることないで、シンジ。たとえお前が男やなくても、わしらはお前の友達や」
「そうそう。女に興味がないくらいでお前を嫌いになったりはしないって」
シンジをからかうトウジとケンスケの態度は馬鹿丁寧でさえあった。
相変わらず自分の言葉を信用しようとしない友人たちのふざけた態度にぷりぷりと腹を立てていたシンジは、そのとき首の後ろになにかむずむずするものを感
じ取って、ふと後ろを振り返った。
すると、教室の後ろのほうの席から、アスカがこちらをじっと見ていた。彼女はシンジと目が合ったことにもひるまず、さら
に数秒ほどその真っ青な瞳で彼を射抜いてから、突然鼻と眉の間にぎゅっとしわを作って、いーっとやった。
同居人の不可解な行動に面食らいつつ、シンジはこのところお馴染みになってきた居心地の悪さを感じていた。
どうも最近しじゅうアスカに見張られているような感覚があるのだ。青い瞳による彼女の詮索は場所を問わなかった。振り返るといつも後ろに彼女がい
るような気さえした。
一体なにがそんなに彼女の興味を惹きつけているんだろう? シンジにはわけが分からなかったが、少女の性格を考えてみるまでもなく、これにはなにかしら
厄介ごとの予感がつきまとっていた。
彼女はたぶん難癖を付けられる材料を探しているんだろう。シンジはそう考えていた。なにしろこのドイツから来た少女がシンジを批判しない日はないのだ。
そこまでして他人にいちゃもんをつけることに熱意を傾けられる彼女の性格は、彼にとっては信じがたいものだった。
内心ため息を吐き出しながらシンジが顔を戻すと、同じポーズをとった友達二人が奇妙な表情でこちらを見ていた。
「なんだよ」
シンジは問い質した。
「いやーんな感じ」
二人は声を揃えて言った。今度は必ずしもふざけているわけではなさそうだったが、シンジはむくれた顔を作るだけでなにも答えなかった。
その日の放課後は、エヴァの訓練のためにネルフへ行くことになっていた。正直なところ、シンジはエヴァに乗ることにあまり熱意を感じているわけではな
く、むしろできることならこんなことはしたくないと考えていたが、課せられてしまったものは仕方がないとなかば諦めていた。
友達からの遊びの誘いを断り、シンジはクラスメートで同僚でもある綾波レイに教室で声をかけた。ネルフでの訓練や実験は必ずしもパイロットが全員一緒で
あるわ
けではなく、ばらばらに行われることも多い。この日訓練が課せられているのはシンジと綾波レイの二人だけだった。
「綾波も訓練だろ。一緒にネルフまで行かない?」
「ええ。いいわ」
レイは静かな声で答えた。
彼女の肌はほとんど色素がなく、血管が透き通って見えていた。瞳は驚くほど明るい真紅に輝き、短い髪の毛は不思議な水色をしていた。まつ毛もまた薄い水
色なので、光が当たるとまるで炎の結晶のまわりにおりた冷たい霜が縁取っているように見えた。
総じてレイはアスカとは正反対だった。外見から性格、声の感じに至るまで百八十度異なっていた。女の子が苦手だという事実からすると不思議なことだが、
シンジはレイと一緒にいると心安らか
になれた。確かにレイはアスカのように攻撃的ではないし、やかましくもない。そして、彼女もまた美少女だ。
しかし、この不思議な感情はそれだけが理由と
は、シンジには思えなかった。なにかしらの秘密が綾波レイには、あるいは彼女と自分との間には、あるに違いないとシンジは考えていた。が、自分でもよく正
体が分からないこの感情をなぜかあまり追求する気にはなれなかった。この満たされるような感覚をシン
ジは気に入っていて、それだけで充分だと彼は感じていたのだ。
けれど、学校を出るときの彼は、その充足感の背後からとげが刺さるような感じを覚えていた。誰かが自分をじっと監視しているような、近い将来厄介な問題
が持ち上がりそうな予感に少し寒気を覚えながら、いつもほとんど変わることのない涼しい顔をしたレイと並んで、シンジは学校を出てネルフへ向かった。