好きと言ったら負けるゲーム
@,彼女の言い分
窓から入り込んでくる眩しい朝日に顔を撫でられ、惣流・アスカ・ラングレーは眠りから目を覚ました。
ベッドから身体を起こし、両腕を突き上げて一杯に伸びをする。時計を確認すると、まだ目覚ましのアラームを設定した時刻よりも早く、もうしばらくまどろ
んでいようかしら、と彼女は思ったが、やむにやまれぬ生理的欲求に促され、あくびを漏らしながらしぶしぶベッドから降りた。
腰まで届きそうな長さの赤毛に何度か手櫛を入れて寝癖を押さえ、アスカは部屋の扉をそっと開けた。台所でなにやら水仕事をしている物音が廊下を伝わって
聞こえ
てくる。あたしの同居人はこんな早くから起きて朝の仕事を始めているんだわ、と彼女は思い、寝起きのみっともない姿を同い年の同居人に見られることのない
よ
う、足音も静かに手洗いへ滑り込んだ。
アスカが碇シンジという同年齢の少年と同じ家に暮らすことになった原因は、当初は純粋に職務上のものだった。ネルフという組織に所属し、使徒と呼称され
る敵性生命体を迎撃する任務
についている彼女た
ちは、とある一体の使徒が持つ特殊な性質への対抗手段を講じるため、同居を命じられたのだ。
葛城ミサトという名の上官の家で六日間寝食をともにし、特殊な訓練を終えて、二人は見事敵を倒した。
不思議なのは、問題の使徒を片付けたあとも二人の同居が続けられたということだ。
実際問題として、シンジとアスカが一緒に暮らし続ける必要性はまったく
なかった。同僚の綾波レイというパイロットだって一人で暮らしている。それに、十四歳という微妙な年頃の男女が一つ屋根の下で長期間ともに過ごすとい
うのは、特にある種の問題を考えたとき、あまり賢明なこととはいえない。
でも、あたしがそれを望んだのよね。と束ねたトイレットペーパーで股間を拭きながら、アスカは思った。汚れたトイレットペーパーを槽内に捨て、水を流し
て手を洗い、手洗いから出た彼女は、部屋に戻って新しい下着と中学校の制服を取り出した。まだシンジは台所で作業を続けている。朝食までは今しばらく間が
あるだろ
う。だから、その間に朝風呂に入ってしまおうと考えたのだ。
それに、寝起きのだらしない格好でシンジの前に出るより、身支度をきちんと整えていたほうが印象がいいはずだ。彼自身がそもそも几帳面な性格だし、あた
しのこだわらない格好に以前から批判的だったから。
そこまで考え、アスカは急に顔を赤らめてかぶりを振った。別にシンジがどう思うかなんてどうだっていいじゃない。単に礼儀上だらしなくしていないほうが
好ましいというだけのことよ。なんといってもあたしは女の子なのだし。だらしない女の子というのは、それほど魅力的なものじゃないわ。
着替えを抱き締めた彼女は、足早に脱衣所へ駆け込んだ。もともとドイツでも朝風呂の習慣はあったのだが、高温高湿の日本ではすぐに身体が汗でべたべたに
なり、一日に何度風呂に入っても足りないくらいだ。手早く裸になったアスカは浴室に入り、熱いシャワーで寝ている間にかいた汗を流し始めた。
アスカ自身もシンジとの同居の継続を希望した理由を正確には理解していない。が、いざ問題の使徒を倒して、職務上必要に迫られた同居生活が、役目を果た
して解消されてし
まうという段になって、アスカは急にそのかりそめの生活に固執したのだ。実のところ、上官の葛城ミサトに対する彼女の主張は如才ないほどだった。
「あたし、これからもミサトの家に住むわ」
特別な連携を駆使した作戦で使徒を倒した直後のことだった。鉄くさいLCLを落とすために更衣室でシャワーを浴び、服
を着替えると、作戦指揮に当たっていた葛城ミサトが労をねぎらうためにやって来た。もちろん、六日間の同居生活の解消と今後のアスカの生活について、ミサ
トは話をするつもりだった。ところが、ミサトがその話を始めないうちからアスカのほうが先手を打って言った。ミサトは唖然として赤毛の少女を見つめた。
「今回の使徒は確かに片付いたけど、今後どんな能力を持った敵が現れるか分からないわ。そのためには連携を密に保っておくのも悪くないでしょ」
アスカはすらすらと淀みなく言った。
「え、ええ。それは確かにそのとおりだわ。でもね、アスカ」
ミサトはアスカの言葉を肯定しつつ、自分の意見を言おうとした。しかし、アスカがそれを言わせなかった。
「それに、パイロット管理の面からもあたしとシンジが一緒にいるのには利点があるはずよ。どうせあたしたちの行動は逐一把握されてるんでしょ?」
「あなたたちのためを思ってのことよ」
「分かってるわよ。あたしはもうドイツで慣れっこだわ、そんなの。見えない護衛にとっても当然そうだけど、ミサトにとってもパイロット二人を手元に置いて
手綱
を握っておけるのは、なにかと安心できるんじゃないかしら。防衛戦というのは色々と気を使うものだし、なんといっても指揮官はミサトなわけだからね」
アスカはまるで、自分が大人しく手綱を握られて文句も言わない従順な馬かなにかだとでもいうように、しゃあしゃあと言った。しかし、事実は違う。自尊心
のかた
まりである彼女は、可能であるならまず他人の言うことなど聞かない少女だ。もちろん、彼女はとても賢いので、引き際はそれなりに心得てはいたが、なにしろ
まだ子どもだったので、その判断を間違うこともしばしばあった。彼女のこういう性質は、周囲の大人たちの頭痛の種となりがちだった。
ミサトは難しい顔をしてこめかみを押さえ、言った。
「なにもかも考慮してくれてるってわけね。ほろりとさせてくれるわ」
「どういたしまして」
にっこり笑ったアスカの顔をミサトは怖い顔でにらんだ。
「この際だから言っておくわ。シンジくんと長期間同居する上でのリスクをあなたはちゃんと理解してるの?」
「仲良くするわよ。少なくとも、その努力はするわ」
「もちろん仲良くしてもらわなきゃ困るけど、わたしが言ってるのはそういうことじゃないのよ、アスカ。あなたもシンジくんも微妙な年頃の男女でしょう」
「それがどうかしたの?」
「分かってるはずでしょ。もっと突っ込んだ言い方をわたしにさせたいの? そういった行為の結果がエヴァとのシンクロにどう影響するか、誰も知らないわ。
万一が起こってからでは遅いのよ」
「ああ、そのことね! やだ、ミサト。もちろん分かってるわ。でも、大丈夫よ」
アスカは頬を赤く染めたが、きっぱりと言いきった。
「本当に?」
「あたしを信用してよ」
ミサトはしばらくの間、疑り深い眼差しでアスカの笑顔を睨んでいたが、やがてふーっとため息を吐き出し、明らかに納得していない口調で言った。
「分かったわ。司令にはわたしから話を通しておく。まあ、あの司令なら反対もしないでしょう。それじゃ、あなたはシンジくんと一緒に家に帰りなさい。わた
しは仕事があるから遅くなるわ。夕飯は二人で適当に食べてちょうだい」
「うん。……ありがと、ミサト」
要求を聞き届けてもらえたアスカは、先ほどまでのわざとらしい笑顔から一転して、ほっとしたように唇を小さくほころばせた。それを見たミサトもやっと笑
顔を見せた。
「いいのよ。それはそうと、今日はお手柄だったわね」
「とーぜん。エースだもん」
ミサトがこぶしを握って持ち上げてみせたので、アスカも同じようにこぶしを作って軽く打ち合わせた。
「次も頼むわよ」
「任せなさいって」
このようにアスカの希望によって、彼女がミサトの家に住み続けることが決められた。
結局のところ、アスカは寂しかったのだろう。
彼女は幼い頃からエヴァンゲリオンの操縦訓練にはげみ、学校も飛び級を繰り返してすでに一年前に大学を修了している。それはひとえに彼女が抜きん出て優
秀だからであり、また絶え間ない努力を怠らなかったからであるが、引き換えに彼女には気の置けない友人の一人とていなかった。
彼女が進んで友人を作ろうとしなかったことも確かに一因ではある。また、気が強く高慢でわがままな彼女の性格は決して付き合いやすいものとはいえない。
しかし、なにより人々はアスカの優秀さとその特殊な立場とを敬遠したのだ。誰一人として彼女をただの少女として接してくれる人間はいなかった。アスカの
ほうでもそれは仕方のないことと割り切っていたのだが、日本へ向かう洋上でシンジと出会ってから、気持ちに少し変化が起きた。
なんといっても、シンジも同じエヴァパイロットなのだ。立場が対等なのだから、特別視されるいわれはない。むろん、同じ立場といってもあくまで優秀なの
は自分である、とアスカのプライドは声高に自らの優位性を主張し、事実彼女はシンジにそれを見せつけようと躍起になっていたが、一方で彼に対してきわめて
強い親近感を抱いてもいた。
シンジの態度はアスカにとって新鮮だった。シンジからすれば、飛び級を繰り返す天才児や選ばれたエヴァパイロットというアスカの側面はあまり意味をなさ
ないのだろう。彼はびっくりするほど飾らない人間だった。平凡で、アスカからすれば愚鈍とさえ思えるときもあったが、誰よりも気安く彼女の相手をしてくれ
た。
もしかすると彼はアスカのような特別な人間への接し方を知らないだけなのかもしれない、とも思ったが、おべっかを使われるよりはいくらかましだという
のが彼女の正直な感想だ。たとえ彼の態度に不愉快な気分にさせられることがしばしばあったとしても、我慢できないほどではなかった。
またシンジは、二人のうちどちらかが(あるいは双方が)いらいらしているときには打ってつけの喧嘩相手でもあった。出会ってすぐのころから彼らは何度も
衝突を
繰り返
してきた。別にいつもいつも口喧嘩を楽しんでいるわけではないが、アスカにはこれまで喧嘩する相手さえいなかったので、さんざんやり合った末にシンジを言
い負かすと胸がすかっとしたし、逆に負けると本気で腹を立てて、地団駄を踏んだり物を投げたりした。そこには孤高の天才児やエヴァパイロットといった肩書
きは影も形もなく、ただの年相応の少女としての姿があるだけだった。
一度こういう体験をしてしまうと、いまさら一人暮らしに戻って、すぐそばに話し相手がいる生活を手放すことが惜しくなってしまった。これまで
飢餓状態にあったアスカの心からすれば無理もない話ではある。だから、彼女は屁理屈をこねてミサトへ同居継続を要求したのだ。ミサトにもそれが分からな
かったはずはないが、最後にはその要求を認めた。アスカは保護者代わりをしてくれる上官に感謝しつつ、ひとまずは現状を満喫するつもりでいた。
シャワーを浴び終え、身繕いを済ませてからダイニングへ行くと、エプロンを脱いだシンジがテーブルの席について頬杖で待ちぼうけていた。
「おはよう、アスカ。今日は先にお風呂に入ったんだね」
制服姿のアスカを見ると、顔を上げてシンジは言った。
「うん。おはよう。待たせちゃった?」
シンジの短めの黒髪が一箇所寝癖ではねているのを見つけて、アスカはくすくす笑いながら答えた。神経質なくせに、自分の容姿や格好には無頓着なのよね、
とアスカはおかしく思った。
「そんなことないよ。それじゃ食べようか。お味噌汁入れてくるから、アスカはごはんのほうをお願い」
「はいはい。あのスコップはどこ?」
「スコップじゃなくて、しゃもじだよ。しゃもじ」
「うるさいわね。で、どこなのよ」
「そこ」
ミサトは早朝に帰宅してまだ寝入ったばかりなので、起こさなくてもいいとのメモがテーブルの上に置かれていた。多忙なのは仕方がないこととしても、同居
の継続に懸念を示していたわりに、この保護者はアスカたちの関係にあまり注意を払う気配がない。普段の対応からは、どうも二人のことをじゃれ合う仔猫程度
にしか考えていない節が見受けられた。もちろん、アスカにしてもミサトがそこまで愚かだとは思っていない。が、ときどき見くびられているような気がして面
白くないのも事実ではあった。だからといって何かをするというわけでもないのだが。
アスカは向かい合って朝ごはんを食べるシンジの顔を先ほどからちらちらと盗み見ていた。顔立ちは悪くないわ。心の中で思ってから、彼女は慌てて付け加え
た。もちろん、飛び抜けていいというわけでもないし、人並みの域を出ない程度にということだけど。
それにあの髪。相変わらず一箇所だけ寝癖でぴょんとはねている短い黒髪に視線をやり、アスカはそわそわした気分になった。今すぐに洗面所まで走り、くし
と寝癖直しを取ってきて、彼の寝癖を直してやりたい。彼の後ろに立って、あの真っ黒で艶のある髪を一本一本時間をかけて丁寧にくしけずりたい。もう少しで
テーブル越しに彼のほうへ手を伸ばしそうになり、アスカは何度も身もだえした。シンジに見つからないようこっそりと。
「どうかした?」
シンジが箸を止めて訊ねた。
「ううん、別に」
アスカは取り澄ました表情を装って答え、不思議な味のする味噌汁に口をつけた。不味くはなく、むしろ美味しいといってもいいが、不慣れなアスカの舌には
やはり不思議な味だ。
そのあともアスカはシンジの顔をこっそり窺いながら、朝食を食べ終えた。彼女自身、なぜそんなに彼の顔を見なければ気が済まないのか、いぶかしく思いつ
つ。