「あんた、チョコって好きよね」

 こんな風にあたしがなにげなく言ったのがお正月の三が日が明けてあいつの家に挨拶がてら遊びに行った時のことだった。ちょうどあたしたちはあいつの家の 飼い猫のミーちゃんと一緒に居間のこたつ でぬくぬくと丸くなってチョコレートのお菓子を食べながら、お正月番組でやたらとハイテンションな芸能人たちを眺めているところだった。質問されてあたし の顔を見たあいつはけろっと こう答えた。

「好きだよ」

 心臓が止まるかと思った。





チョコレーター・チョコレーテスト

rinker





 あいつの名前は碇シンジという。同い年の十四歳。知り合ったのは幼稚園で、母親同士が意気投合したせいで幼いあたしたちは必然的に一緒に遊ぶことを強制 された。強制されたといっても今更そのことに文句があるわけではないんだけど、人の出会いって不思議だなとため息混じりに思う今日この頃だ。十四歳ってそ ういう季節なんだか らしょうがない。
 四歳か五歳でお互いを発見したあたしたちはとても仲のいい友達同士になった。ママたちにとってもそれは都合のいいことだったと思う。シンジはなかなかい い奴だったし、あたしは女の子にしてはかなり活発なほうだったから、おままごとやお人形遊びももちろんするけど男の子みたいな乱暴な遊びも大好きで、その 相手としてうってつけだった。ママたちは気兼ねなく子どもを遊ばせることができるし、あたしたちも楽しく遊べる。こうしてお手軽にみんなハッピーになれ て、かなり幸せな時代だったと思う。
 ところが小学校に入って少し状況が変わった。幼稚園時代には目立たなかった男女の差というものが表れ始めたのだ。一年生、二年生ならそれでもまだ可愛い ものだけど、三年生くらいになるとかなり意識し始める。男だから女だから、というような思考の枠がいつのまにか頭の中に芽生えてしまうのだ。あたしも当然 そうだったし、シンジだってそうだった。男子と女子であまり仲良く一緒に行動したりしないものだ。いや、むしろしたらいけない。どこか釈然としない気持ち を抱えながらも、あたしは子ども社会の常識に従った。表面上は従った、といってもいいかもしれない。相変わらずシンジのことは大のお気に入りだったけど、 学校では一緒に行動することを控えなくてはならなかった。
 また実はそうせざるを得なかった物理的な理由というものもあって、あたしとシンジは小学校では一度しか同じクラスにならなかったのだ。クラス分けをおこ なっ た教師をあたしがどれほど呪ったかは、本人でさえ口に出すのが憚られるほどだけど、とにかくあたしは六年間でたった一回しかシンジと同じクラスにならな かった。その一回というのが訪れたのは四年生になった時だ。あたしは多分浮かれていた。幼稚園の頃は毎日会えたのに小学校に入ってからは別々のクラスに引 き裂かれて一緒にいることもできなくなったシンジと、ついに同じクラスになれたのだ。これからは授業を受けるのも何をするのもいつも一緒。きっとこれまで 以上に楽しい学校生活になるだろう、とあたしは期待に胸を膨らませていた。
 そしてあたしは油断したのだった。男の子と女の子が二人で仲良く一緒にいるなんておかしいという子どものルールを忘れ、シンジに近づきすぎた。当然クラ スのみんなはそれに目を留める。これまで同じクラスになったこともないのにどうしてこんなに仲がいいの、という疑問はやがて好奇の視線に変わり、からかい や囃し立ての対象となっていった。あたしたちが揃って目立つ存在だったということも災いしたのかもしれない。あたしは白人的特徴を備えた容姿と活発な性格 のせいでどこにいても目を引いたし、シンジは気立てがよくて優しい性格と可愛い顔立ちで女の子にわりと人気があって、男子の中でも邪険にされたりはしない 存在だった。ある意味ではそんなあたしたちが並んでいるところは子どもらしい無邪気な悪意の格好の標的だったのだろう。
 もちろんあたしはそれに対して黙ってはいなかった。もともとが男だから女だからというような考え方に釈然としないものを感じていたし、せっかく小学校に 入って四年目にして初めてシンジと同じクラスになれたというのに水を差されて面白くもなかったので、あたしは真っ向から受けて立ってやるという態度でみん なのからかいに片っ端から反発した。あたしは結構手強い相手だったろうと、自分でもそう思う。口数なら女子の誰にも負けなかったし、声も身体も大きかった あたしは男子に対しては時に手足を出して実力行使で対抗した。けれどそうなると標的がシンジ一人に集中することは当然の成り行きで、なまじ気が優しかった ばかりにそこへ付け入られて、特に一部の男子の行為はいずれいじめへとエスカレートしていくのでないかとあたしは危惧するようになった。
 あたしは失敗したのだ。認めるのはしゃくだけれど、もっと慎重であるべきだった。シンジとあたしが仲がよくて二人で一緒に話したり遊んだりしていること が何もおかしくないということをみんなに納得させられるだけの言葉を、当時のあたしは持たなかった。ただ一緒にいたいから一緒にいるのだという、たったそ れだけのことなのに。所詮みんな子どもだったのだ。誰が悪いわけでもない。でもあたしはやり方を変えなければならなかった。
 そのことを決定的に意識したのは、シンジがクラスの男子数人と殴り合いの喧嘩をした事件だった。普段の温和なシンジを知るみんなは揃って度肝を抜かれた もの だ。もちろんあたしだってあいつがまさかそんなことをするだなんて思いもしなかった。怒らせたら結構怖い奴だけど、多分そんなことを知っているのはあたし とあいつの両親くらいのものだ。でもあたしでさえその事件には驚かされた。その場に居合わせなかったので詳しい経緯は知らないけれど、相当派手 な喧嘩だったことはあとで会った時のシンジの腫れ上がった顔からも明らかだった。シンジは詳しく教えてくれなかったけど、あたしとのことが原因なのは間違 いなかった。このままでは同じことを繰り返すようになる。そしていつかはもっとひどいことが起きるかもしれない。あたしだけなら意地を張り続けることだっ てできただろう。歯を食い縛って絶対に負けてなんかやらない、と。でもシンジが傷つけられるのを見過ごすわけにはいかなかった。それだけは許せなかった。
 学校ではシンジと距離を置くしかなかった。会いたければ学校の外で会えばいい。みんなの前ではあくまでただのちょっと仲のいいクラスメートとして振舞う のだ。ごく普通の子どもたちのルールに適合するように。あたしは強固な意志でそれを実行した。からかいは徐々に沈静化していった。みんなが飽きたというこ ともあるのだろう。好奇の視線が完全になくなったわけではなかったけど、あたしの目論見は成功した。そして五年生になって再びシンジとはクラスが分かれ、 そのまま卒業ま で一緒になることはなかった。
 さて、話を現在に戻そう。美しき子ども時代は脇において今大事なものを正しく見据えなければならない。
 あたしとシンジは同じ中学校で同じクラスの生徒だ。みんなの前ではシンジとの距離を置くという十歳の日の戒めはいまだ破られていない。何も知らない連中 からすればあたしとシンジは同じ小学校出身で昔から顔見知りのちょっと仲のいい男子と女子だ。本当にくそ忌々しいことにそうなのだ。最近では同級生たちも 色気づいてきて、あたしたちに告白してくるのもいる。別に告白してくること自体はいい。年頃の少年少女なのだから、そういうこともあるだろう。もてあまし ちゃったりぐっとこみあげたりする何かを気になるあの子にぶつけちゃいたいなんて衝動に駆られるのも仕方がない。そんなものあたしにだってめちゃくちゃあ る。だからそれ自体はいいのだ。けどだからといって、あたしがそれをただ黙って見ているだけだと思ってもらっては困るということだ。つまりどういうことか というと、あたしに告白してくる分には断るだけだからそれほど問題はない。でもシンジに告白してくる女の子たちに関しては、ちょっとそうはいかないのだ。 見る目があるのは認めてやる。でも奴らはさっぱり分かっちゃいないのだ。みんなの前ではちょっと昔なじみのオトモダチという感じで振舞っているあたしの演 技に騙されてい い気になっているみたいだけど、そろそろ分からせてやったほうが慈悲ってものかもしれない。
 碇シンジはこの惣流アスカのものだということを。
 ついでにいえばシンジ本人にも分からせてやらないと。狂おしいほど甘く、ね。





「ねえ、アスカはどう思う?」

 あたしを現実に引き戻したのはこちらへ問いかけてくるクラスメートの声だった。今は中学校の現国の授業中で、グループディスカッションの最中だ。でもあ たしは完全にうわの空だった。

「ごめん。聞いてなかった。なに?」

「だからここで主人公が言葉をなくしていくことにどういう意味があると思う?」

 同じグループでまとめ役をやっている女子が課題作品からあたしたちが作っているレポートの束をペンで押さえながらあたしにもう一度辛抱強く訊ねた。自分 の手元にある課 題作品の文面に焦点を合わせるみたいにあたしは目を細めた。自分がまったく集中できていないことがよく分かった。

「意見は?」

「今考えてる」

 あたしはかぶりを振った。

「文字を読んだり書いたりできなくなるっていうのは、社会との繋がりをなくすことだわ。社会との繋がりをなくした人間は動物のように純粋で ひたむき、というか直感的、直接的な生き物として描かれている。つまり主人公の恋人がそうなのよね。それに対して主人公もまた同じような状態に陥ってい く。で、それが何の比喩なのかっていうと、余計なものを全 部そぎ落としたその人の本質同士が向き合うということだと思う。つまり剥き出しの魂みたいな女の子に出会って主人公もまた同じ姿で向かい合う。そうせず にはいられ ないというか。理解するためにそうするとかじゃないの。洪水に押し流されるみたいに、そうなっちゃうのよ。自分の中の一番深くて純粋なところを引き出さず にはいられなくなるのよ。だからそういう……話だと思う。男の子が女の子に出会ってただ恋をするっていうんじゃなくて、もっとこう絶対的で人間の理性とか 文明とかそういうんじゃどうにもできないような強い力というか。愛の」

「愛?」

 まとめ役の女の子がペンの頭を自分の頬に押し当てて繰り返した。眉が弓のように吊り上っていた。周りの子がくすくすと忍び笑いをした。

「そうよ。ラブよ。巷で流行ってるでしょ?」

 あたしは腕を組んで背もたれに勢いよく背中を預け、あごを持ち上げた。開き直るあたしの顔を見て、やはりみんなは笑いを抑えられないようだった。でもこ れの何がおかしいというのだろう。みんなが好きなドラマや歌の中にだってよく出てくるではないか。あんたたちだってそれを観たり聴いたりして喜んでるとい うのに、一方で自らの口にその言葉を乗せることにはためらうというのだから、わけが分からない。

「はいはい、みんな笑わないの。アスカの意見に異議がある人はいる? 他の意見も出してよ。なければこれを中心にしてまとめちゃうよ。来週はもう発表なん だから」

 まとめ役が手を叩いてみんなをたしなめて言った。あたしはため息を吐き出し、先ほどからずっとあたしの集中力を奪っている光景へ再び視線を向けた。あた しの視線の先には窓側に固まっているグループの中にいるシンジと、その隣で笑いかけている女子が一人いる。あたしは奥歯を硬く噛んだ。シンジと楽しそうに 話している女子の名前は霧島マナといって、客観的に見てもなかなか可愛い部類に入る子だ。性格も悪くない。けれどだからといってそれを許すかどうかという のは別の問題だ。あたしが見ていると、あちらのグループの中の誰かが面白いことでも言ったのだろう、シンジたちが大きな笑い声を上げた。まるで周りの雰囲 気に紛れるようにして、明るい表情でとても楽しげにしている霧島マナがシンジの腕に自分の手を置いていた。ぶち殺してやろうか、あいつ。





 学校が終わって家に帰ると、どたんどたんという騒がしい音が玄関まで聞こえていた。一体何ごとかと音の発生源を探すと、リビングでママが飛び跳ねて何か していた。テレビでは筋肉質な肉体をレオタードではち切れそうに包んだ金髪のお姉さんがエクササイズしている。よく見ればどこから引っ張り出してきたもの やらママもスウェットの上下を着込んで、リビングの低いテーブルが脇によけられていた。誰に影響を受けたのか知らないけど、うちのリビングはジムじゃない のよ、まったく。

「ただいま、ママ」

 後ろから話しかけたらママは動きは止めずに弾んだ声で答えた。

「ああっ。おかえりっ。アスカっ」

「なにやってんの」

「なにって、フゥっ、見たら分かるでしょっ」

 確かに見たら分かる。あたしは無言でママの言葉を肯定すると、リビングから繋がっているダイニングキッチンのテーブルにかばんを放り出し、冷蔵庫から アップルジュースを取り出した。ママが何かに興味を持つのは毎度のことだけれど、大方は半月ともたない。飽きっぽい人なのだ。
 ガラスコップに注いだアップルジュースを一息で飲み干して、あたしはママの背中に言った。

「そのビデオ、どこからもらってきたの」

「どこって碇さんとこよっ。使わないって言うから、それじゃって言ってもらってきたのっ」

 うちの母親と碇家の母親との親交はいまだに続いている。昔はよく母親同士子連れで出かけていたものだった。あたしもシンジも相手があって退屈しないのが いいところだった。もちろん成長した今となってはそういうこともなくなったけれど。大体母親同伴のデートだなんてぞっとしない。

「ふぅん」

 十五分後、あたしはママの隣で額に光る清々しい汗を拭っていた。運動って素敵。
 エクササイズが終わるとあたしとママは着替えてお茶にすることにした。運動のあとはやはり食べ物がより美味しく感じられるものだ。シュークリームを口一 杯に頬 張りながらあたしは心底そう思った。

「やっぱり好きなものは好きなだけ食べたいわよね」

 あたしよりは上品にシュークリームを齧りながらママが言った。まったくもって同意である。

「でもママ、別に太ってないからあんなのする必要ないんじゃないの。三つ目もらうよ」

 言葉より先に伸ばした手が三個目のシュークリームを掴んだ。ママが買ってきたのは全部で八個だ。

「パパにも残してあげてね。そうね、二つでいいかしら」

「あたしとママが三つずつ?」

「食べたかったらアスカ四つ食べてもいいわよ」

 そう言ってママは笑って、あたしの唇の端を指で拭った。

「カスタードがついてる。あっちゃんてば食いしん坊さんね」

「ちがうよぉ」

「いいえ、ちっちゃい頃からそうだったわよ。いつだったか外で食べてた時にシンジくんのデザート横取りして泣かせちゃったこともあったわ」

 うそぉ、とママと一緒に笑いながら、一方であたしは忙しく頭の中で記憶を掘り起こしていた。けれどどう頑張ってもそんなことをしでかした覚えはない。確 かにあたしは食い意地が張っているし、シンジに意地悪をすることだってあるけど(だって楽しいんだもの)、そこまでひどいことを本当にしたことがあるだろ うか。
 ママの顔を窺うように見ると、にっこりと笑い返された。

「それ本当に?」

「本当に」

 ママは澄まして紅茶に口をつけた。

「そんなことした記憶ないんだけど。どういう話か教えて、ママ」

「いいわよ? ええっと、あれは幼稚園の頃だったわねぇ。確かまだ知り合ってからそんなに経ってなくって。一緒にお買い物に出かけてたの。場所はどこだっ たかしら。ちょっと忘れちゃったんだけど。飲み物とデザートを頼んでね。シンジくんは苺のショートケーキだったわ。アスカはこぉんな大き なパフェ」

 ママは胸の前でドッヂボールくらいの大きさを両手で示した。いくら何でもそんなバケツみたいなパフェがあるわけない。四つ目のシューに手を伸ばしたあた しへの嫌味だろうか。あたしは手を引っ込めた。

「それでね、シンジくんってアスカとは逆で好きなものをあとに残して食べる子なのね。スポンジから食べ始めて苺がまだ残ってたの。それを見たアスカがいき なりばっと手を 出してね。こう言ったのをはっきり覚えてる。『シンジちゃん苺きらいならアスカすきだからたべてあげる』って。あの時のシンジくんの何が起こったのか理解 できないっていう表情が忘れられないわ。他人事だったら笑い話なんだけどね、もうママは恥ずかしくってたまらなかったわよ。碇さんの前でなんていう行儀の 悪いことをって」

「本当にそんなことあたしがしたの?」

「したわよ。それでシンジくんがやっと我に返ってべそかきながら『ちがうよ』って言うから、アスカも何か様子がおかしいなって気付いたのよね。でももう苺 は口の中だもの。アスカったら『でもシンジちゃんきらいっていったもん』とか言って。いけないことしたって分かってるのに誤魔化そうとするの。今でも身に 覚えがあるでしょ、そういうの」

「そんなことないよ。たぶん」

「ついにはシンジくんが泣き出して、それにつられてアスカも大声で泣き出して。『ぼくのいちごぉ〜!』『もうたべちゃったんだも〜ん!』とか、とにかくも う大騒ぎ。二人とも声が大きいし泣き止まないものだから、周りの人に頭下げながらママたちはあなたたちを抱えてお店の外に飛び出したわ。そのあとシンジく んのご機嫌取りにお菓子を買って帰ったっけ。で、そこでアスカがまたずるいとか自分もとか言い出すものだから、本当にもう大変で。抱きかかえたままお尻ぺ んぺんしてやったのよ」

 過去の己の所業をこうして聞いてみると、つくづく呆れてしまう。本当にそれはあたしだったのかしら。

「というわけで、あっちゃんはちっちゃい頃からとっても食いしん坊でした。苺だって大好きだものね。あの時も大方パフェに苺が入ってなくてシンジくんのが 欲しくなったんでしょ」

「あはは……」

「ねー」

 にっこりと笑いかけてくるママにあたしは苦笑いだ。先ほどから手を伸ばしたり引っ込めたりしている四つ目のシュークリームを指差して、あたしは言った。

「半分こしよっか、ママ」

「まっ。うふふ、いいわよ。半分こね」





 あたしの家の惣流という姓はもともとママのものだ。ママは日本人の父親とドイツ系アメリカ人の母親との間に生まれ、十八歳までアメリカ合衆国のボストン で暮らしていた。今年で四十一歳になったのだけど、美人でスタイルもいいし、優しくて料理も上手でなかなか素敵なママだと思う。もっとも本人はなかなかど ころか世界で一番素敵だと豪語している。それに同意するのはパパだけなんだけど。
 パパは大の日本おたくで二十歳の時にこの国を訪れてそのまま居ついてしまったという人だ。出身はママと同じくアメリカのクリーブランドで、民族的なルー ツは色々混ざっていてよく分からない。ドイツやらハンガリーやら、ルーマニア、イタリア、アイルランド、イングランド、ネイティブ・アメリカンとかその他 色々。ご先祖が アメリカに移民してくる以前にもヨーロッパ内で移動を何度かしている家系なので本当はもっと混ざっている。パパ本人に言わせるとアメリカ系日本人なのだそ うだ。アメリカ系というのはルーツを特定しないアメリカ人ということらしい。加えて今では日本に帰化しているのであながち間違いでもない。
 そんなあたしの パパが憧れの日本を二十歳で訪れて四年後の春、桜咲き乱れる大阪は造幣局の通り抜けでママを見て一目ぼれしたのだそうだ。めがね橋のたもとで桜を見上げる ママの姿は天女のようで、この時ほど自分の長身に感謝したことはなかったという。ものすごい人出だものね。というわけでパパは一緒に訪れていた人たちを 置いて一人でママのあとを追いかけ、通り抜けの出口の北門の外でどうにかママに追いついて声をかけた。一体何て声をかけたかについては、極度に緊張してい たのでよく憶えていないとパパは言うんだけど、ママはしっかり憶えているらしい。当時のパパは長めのくるくるカールヘアに顔半分を覆うひげもじゃで、熊が 現れた のかと思ったと当時二十歳だったママは言う。でもそんな熊男に突然声をかけられて逃げ出すどころか、ママはその場で笑い転げたそうだ。どうしてかという と、パパのカールし た髪の毛やひげにピンク色の桜の花びらが点々とくっついていて、それがとてもおかしくて我慢できなかったからだそうだ。肩から上が人ごみから飛び出してい るのに加え てふわ ふわしたカールヘアのせいでそんな風になってしまったのだろう。とにかくこうしてパパのナンパは一応成功した。一応というわけは、その時ママと一 緒にいたのがよりによってママの両親だったからだ。おじいちゃんはパパのことを何だこの間抜けそうな大男は、と思ったそうだけど、おばあちゃんは人のよさ そうな印象を 持ったと聞いたこ とがある。それから少しの時間パパは歩きながら主におばあちゃんと会話をして、名刺を渡すことができた。パパは当時大阪で大学の助手をやっていて、たまた まその日は名刺を持っていたのだ。それからママたちと別れたパパはもともとその日一緒に来ていた人たちと再会してからすごく怒られた。実はその日は大阪の 大学に勤めていたパパと上司の教授が学会のあとに他大学の研究者たちを連れて桜見物に来ていたのだ。名刺を持っていたのもそれが理由。なのにホストが一人 で勝手な方向に行った挙句、理由を馬鹿正直に打ち明けたものだから、上司の教授はかんかんに怒った。もっともこれが縁でその場にいた他大学の教授の一人に 気に入られて二年後にそちらへ引き抜かれたのだから、パパにとっては人生で一番ついていた日だ。
 二十四歳当時は毛むくじゃらの熊みたいだったパパも今ではなかなか身奇麗なミドルエイジで、大学では何かと女性陣にもてるようだ。もっとも家での様子を 見る限りでは外の女たちには到底望みはないように思えるけれど。出会ってから二十一年、結婚して十六年、おしどり夫婦ぶりにも磨きがかかって実の娘はうん ざりとかそういう境地を通り越してしまっているくらいだ。しかも一見渋くておしゃれな惣流教授は実はただの日本おたくである。家ではしばしばどこかの旅館 でかっぱらってきたようなよれよれの浴衣を喜んで着ているようなオヤジだ。日本語の最初のテキストは高橋留美子と鳥山明。ハリウッド映画よりウルトラマン に 詳しい。クリーブランドの実家に電話する時も「もしもし」と言う。緑茶をすすったあとに「あー」と声を漏らす。好きな言葉は「元気」。好きな米の銘柄は コシヒカリ。好きなアイスの味は抹茶味。六甲 おろしを耳にすると血が騒ぐ。そこらの日本人より日本語が上手。これがあたしのパパだ。
 そんなパパのことを愛しているママはなかなかユニークなんじゃないかしらとあたしは思うのだけど、本人たちが至って幸せそうなので別に言うことはない。 両親が仲良くしていれば大抵子どもは幸せなものなのだ。





 パパが八時くらいに仕事から帰るということだったので、それまで夕飯を待つことにした。もう料理をほとんど作り終わっていたママはリビングでテレビを見 始め、あたしもやることがなくて暇だったので何となくそれに付き合っていた。

「ねえ、アスカ」

「なに、ママ」

「あと一週間でバレンタインよね。今年はどうしようか?」

「ああ、そのこと」

 あたしはため息混じりに答えてクッションを取っておなかの前で抱き締めた。ママがこちらを見て言った。

「今年もママと一緒に作る?」

「うぅん。どうしよっかな」

 惣流家のバレンタインは世間とは少し違い、パパのほうからママとあたしにプレゼントをくれる。これは日本おたくのパパでも抜けない昔の習慣の一つだ。毎 年大体マ マには薔薇を、あたしにはチョコレートをくれる。それのお返しというわけではないけど、せっかくなのでママとあたしも日本式にチョコレートをパパにプレゼ ントする。手作りの年もあるし既製品の年もあるけど、本音では手作りのほうがパパは嬉しそうだ。
 そしてパパのチョコレートを用意する時に、一緒にシンジの分も毎年用意している。せっかくなのでお裾分けというかお義理というか、つまりようするに、あ げたいからあげるのである。文句は言わせない。あたしがプレゼントをあげるなんて一年で誕生日とクリスマスとバレンタインデーくらいしかないのだから、当 然ありがたく受け取るに決まっている。というのは半分冗談で、あいつだって幼い頃からの仲なのでちゃんと承知している。こちらだって同じようにシンジから プレゼントをもらうし、あたしたちがそんなことをする相手はお互いに一人しかいない。あたしたちは特別なのだ。
 でもそろそろあたしたちの特別な仲、という概念をもう一段押し上げてもいいのではないかとあたしは思っている。どういうことかというと、つまりはあたし はシンジに恋をしていて、その恋をそろそろ実らせたいのだ。もう充分待って、いい加減待ちくたびれた。邪魔されたせいで逆に気持ちが育ったという側面がな いわけではないから、小学校時代のことはもういいのだけど、それにしてもやはり学校でよそよそしくするのにはうんざりだ。霧島マナ他 水面下にいくらいるのだか分からない女どもにあたしの男に触るんじゃないと叫びたい。シンジのぼんやりしたお気楽顔にちゃんとこっちを見て笑えと言いた い。あと手も繋ぎたい。
 というわけで一週間後のバレンタインだ。あいつだって馬鹿じゃないんだから、バレンタインデーの世間一般での意味に気付いていないということはないだろ う。たぶん。でもこれまでと同じようにしていたのではあいつはきっとあたしの真意に気付いてくれない。さてどうしよう。

「あたし今年はママと別に作るかも。いや、自分で作るか買うかはまだ分からないんだけど」

「あら、そう。じゃあパパのは?」

「パパのはもちろん一緒に作るよ」

「じゃあ明日休みだから材料のお買い物に行こうかしら。アスカも一緒に行く?」

「うん」

 そうこうしているうちにパパが帰ってきて出迎えたママにハグして頬をくっつけ、あたしの髪にキスをした。こういうのも昔から抜けない習慣だ。もっとも パパ本人は家族以外の他人にはもう変な感じがするのでこういうことはできないというのだけど。

「いい匂いがするね。今日は煮物?」

「そうよ。肉じゃが。あとお魚を焼くから」

 ママの答えを聞いてご機嫌でパパは着替えに行った。そして案の定着物姿で戻ってきた。あたしは見慣れているけど、客観的に見てやはりモアイみたいに彫り の深い外国人顔のパパが着物やら浴衣やらを日常で着ているのは妙だと思う。

「寒くないの、パパ」

 あたしは訊いた。

「大丈夫大丈夫。どてらもあるし」

 パパはほくほく顔で愛用のどてらを似合いもしないのに羽織って、魚を焼くママのところに飛んでいった。まったくこれだもの。





 土曜日にはママと一緒にバレンタインチョコレートの材料を買出しに行き、翌日の日曜にあたしはシンジの家に遊びに行った。会いたくなったからだ。あたし の中のシンジ分が足りなくなったのだ。補給しないと死んでしまうのだ。
 あたしの家もそうだけどシンジの家は庭付き一戸建てで、広さもうちとほとんど変わらない。同じ町内に住んでいて、歩いて五分で行くことができる。イン ターホンから訪問を告げると開いてるから入っていいとのことだったので門を開けて敷地に入ったら、玄関の前で三毛猫のミーちゃんが前足を折り畳んだ箱座り で出迎えてくれ た。雪もちらつくこの季節に寒くないのかしらとあたしがしゃがみ込んでぐにぐに撫でると、ぐるぐるぐる、と威嚇された。虫の居所が悪いらしい。さすが小さ くても虎の仲間は唸り声に迫力がある。ミーちゃんにつれなくされたのであたしが構うのをやめて玄関を開けると、するりと足元をすり抜けてミーちゃんは家の 中 に入っていった。やっぱり寒かったんじゃないのよ。
 家に上がるとおばさんが出迎えてくれた。シンジはどこかと訊くと二階の自分の部屋にいるというので、断って二階に上がる。実は最近はシンジの部屋で二人 きりになるのがちょっと苦手だ。どきどきするとかそういうことではない。それもあるにはあるけど、理由は別のことで、何だか最近ちょっと部屋が男くさいの だ。換気 し ているのかしらと思ったけど、よく考えたらおばさんが掃除しているのだろうから、ずっと閉め切っているということはないはずだ。以前に風邪を引いたみたい になって声も変な風に低くなったし、身体が少しずつごつごつしてきたような気もする。これが男の子の成長なのかと思うと、少し感慨深いものがある。あたし のシンジちゃんがどんどんあたしと違う生き物になっていくのだ。もちろんあたしも胸が膨らんできたりお尻が丸くなったりしてきているので、向こうにしても 似たような気持ちなのかもしれない。胸などは最初はちょっとした腫れみたいなものだったのに、いずれはママみたいになるのかと考えると我がことながら大し たものだと感心する。

「なんだアスカ、来たの」

「なんだはないでしょ。あたしに向かって」

 シンジは部屋でテレビゲームをやっていた。本当にこの男はインドア派なんだから。
 あたしは首に巻いていたマフラーを取ってコートを脱ぎ、ベッドに座ってシンジの丸い背中を見た。客が訪ねてきたのにゲームをやめないなんて一体どういう 了見なのかしら。面白くなかったのでマフラーを鞭みたいに振るってシンジの頭をはたいた。それも無視されたので鞭攻撃を十回繰り返すと、うるさそうにシン ジが唸った。

「やめてよ」

「ちょっと。あたし暇なんだけど」

 構ってよ。という言葉をぐぐっと飲み込んであたしは言った。

「下で母さんと話してきたら。相手してくれるよ」

 本当にどうしてこの馬鹿のことが好きなのだろうと自分でも理解に苦しむことがある。昔はもっと可愛げがあって、あたしに遊んでもらいたくて仕方がないと いう態度を隠そうともしなかったのに、ここ一、二年は本当に生意気だ。悪ぶっていい気になっているつもりなのか知らないが、生憎とそんなことでこの惣流ア スカの恋心を止められると思ったら大間違いだ。今に見ていろよ、と両手に持ったマフラーを引き絞りながらあたしはシンジの背後に膝立ちになった。そしてシ ンジの顔にマフラーをぐるぐるに巻きつけて引っ張った。

「うわっ。前が見えない! やめろよアスカ!」

「うるさい。死ねーい!」

 本当は死んじゃ駄目。
 わりと激しくシンジが抵抗するのであたしもだんだん楽しくなってムキになっていたら、一緒になって床に倒れ込んでしまった。ぜいぜいと息をしながらあた しは思う。小さな頃はいつもこんな感じで何の屈託もなく毎日が楽しかったのに、と。でも子ども時代の美しい思い出はあとに残してあたしは前に進まなけれ ば。それが自分自身の恋のためだし、たぶんきっとシンジのためでもある。こいつはあたしがいないと本当に駄目なんだから。

「あらあら、まあまあ。二人とも本当に仲良しなのね」

 シンジの背中に乗っかってあたしがシリアスなことを考えていたら、突然頭の上から声が降ってきた。慌てて身体を起こすとお盆を持ったおばさんがあたした ちをにこにこと含みのある笑みを浮かべて眺めていた。

「あははー、ジュースとお菓子ですか。おばさん、ありがとう」

「おかわりが欲しかったら遠慮なく言ってね。それとシンジに変なことされたら殴っていいわよ」

「馬鹿なこと言わないでよ、母さん!」

 誰がアスカなんかと、とシンジはぼそぼそ続けた。でもしっかりあたしの耳には聞こえていたので遠慮なく叩いてやった。

「そうそう。そんな感じで」

「大丈夫ですよ。シンジのことなら昔から分かってるので」

「まあ。そうね」

「あはは」

「うふふ」

 それじゃゆっくりしていってね、とおばさんは微笑みながら一階に降りていった。それを確認したら一気に脱力してあたしはベッドのへりに背中を預け、深い 息を吐き出した。

「あたし、おばさんにだけは敵わない気がする」

「何考えてるか分からないよね、うちの母さんって」

「そうなのよ。なんだかこっちのこと全部見透かされてそうで怖い……ってあー!」

 喋っている途中であたしは大声を上げて身体を起こした。おばさんが持ってきたお菓子をいつの間にかシンジがばくばく食べている。こいつ何てことを!

「ちょっと一人で食べないでよ」

「馬鹿、零れる零れる」

「あんたが手で押さえるからでしょっ。もうあんたは食べちゃ駄目。残りはあたしの!」

「客のくせに遠慮しろよ」

「あんたこそ客を気遣いなさいよ」

 神よ。こんなあたしたちでも色気のある関係になれるでしょうか?
 努力の末に残っていたお菓子に境界線を引いて自分の分を確保したあたしは安心してシンジの隣に腰を落ち着けた。シンジは再びゲームに戻る。あたしは隣で それを眺める。あたしたちの肩は触れ合うくらいに近い。けれど、もぞもぞっとお尻を動かしてシンジがあたしとの距離を空けた。こいつでも何か意識するもの があるのだろうか。ゲーム画面を見つめる横顔は何だか落ち着かなげに見えた。

「ねえ」

「うん」

「あたしも一緒にできるゲームに変えて。それかゲームやめて」

「ちょ、ちょっと待って。セーブするところまで」

「早くして。つまんない」

「待ってってば」

 仕方がないのでシンジのゲームに口出ししながら待っていると、いつの間にかお菓子がなくなってしまった。あたしはすごく残念な気持ちになって、コップに 刺さったストローを咥えて吸った。ずごご、と音がしてこちらもなくなった。

「早くぅ」

「じゃあ何するか選んでて」

「お菓子なくなったわ」

「下でもらってきなよ」

「シンジの馬鹿ちん」

「ごめんごめん」

 ため息を吐き出して立ち上がると、あたしはお盆を持って一階に降りていった。階段を一段一段降りていくのもすごく憂鬱な気分だ。もっとこう、あたしと会 えて嬉しい、という顔ができないものなのかしら。
 キッチンへ行くとおばさんがテーブルに毛糸玉を転がして編み物をしていた。お盆を持ったあたしに気付くと、手を止めておばさんは言った。

「あら、なくなっちゃった?」

「はい。ごめんなさい。シンジが新しくもらってきてって」

 ごめんなさい。嘘です。欲しがっているのは食いしん坊のあたしです。

「いいわよ。えーっと、クッキーがまだあったかしら。飲み物はアスカちゃん、ひょっとして温かいほうがいい? ジュースだとおなか冷えちゃうかな」

 と言っておばさんはキッチンをぱたぱたと動き回ってお菓子を探したりお茶缶を出したりし始めた。あたしはそれに対して遠慮する素振りを見せながら、おば さんが何を編んでいるのかこっそり確かめようとした。テーブルには編み物の本が広げられている。

「アスカちゃん、編み物に興味があるの?」

「ひっ」

 いきなり真後ろから声をかけられてあたしは文字通り飛び上がって驚いた。まるで気配がなくて、いつの間におばさんがあたしの背後に立ったのかまった く気付かなかった。これだからあたしはおばさんが苦手なのだ。いい人ではあるし好きなんだけど、とにかく苦手なのだ。

「あら、ごめんね。驚かせちゃった?」

「いや、大丈夫。大丈夫です」

「編み物、興味あるの?」

「いやー、ははは」

 糸のように目を細めて微笑むおばさんと向かい合ってあたしは髪の毛を指に絡めてくねくねしながら誤魔化し笑いをした。本当にこの人は妖怪か何かなんでは ないだろうか。
 実はおばさんが編み物をしているのを見た瞬間に、ぱっと閃いたのだ。この手もありだな、と。ただし問題はバレンタインまで残すところあと一週間もないと いうことだ。せめて一ヶ月、いや三ヶ月前に思いついていればと悔やまれる。もちろんあたしは編み物なんてしたことはないのだけど、三ヶ月もあればどうにか 形にはなっただろう。きっと。
 でも時間が巻き戻ることはない。残念ながら編み物は却下だ。またの機会にしよう。

「えっと、おばさんは何を編んでるのかなと思って」

「セーターよ」

「シンジの?」

「ううん。うちのお父さんの。遅くなっちゃったからこの冬にはもうあんまり着られないだろうけど」

 おばさんは苦笑交じりに頬に手を当て、テーブルの上に置かれた編みかけのセーターを見つめた。真っ白なふわふわの毛糸のセーターはとても暖かそうで、あ の強面のおじさんがこれを着るのかと思うとおかしくもあるけど、きっとおじさんだって嬉しいに違いない。

「アスカちゃんもやってみたかったら毛糸分けてあげるわよ」

「ありがとうございます。でもあたし、やったことないし、今から始めても夏になっちゃう」

「そうね。ふふ、でも気が変わったらいつでも言ってね。おばさん、何でも教えてあげるから」

「はい」

 妙にサービス満点のおばさんがそのあと淹れてくれた紅茶と追加のお菓子を持ってあたしは二階に戻った。階段の途中でミーちゃんがまた座っていた。
 部屋に入るとシンジが寝転がって漫画を読んでいたので、おなかを優しく踏んづけてから床にお盆を置き、あたしは言った。

「邪魔だから起きてよ」

「ここ、僕の部屋なんだけどな」

 シンジがあたしを見上げてぼやいた。

「知ってるわよ。あたしの部屋はもっと綺麗だもん」

「アスカも寝たら」

「駄目よ。紅茶が零れちゃうでしょ」

 ティーポットからシンジの分も注いであげながらあたしは言う。それからしつこくつついていると、やっとシンジは起き上がって、さっそくお菓子に手を伸ば した。

「お菓子は半分こだからね」

「分かってるよ。アスカは食いしんぼだなぁ」

「そんなこと、ない。ねえ、あたしもゲームやりたい。あのクルマの」

 こうしてあたしたちは一時間くらい一緒にゲームをして遊んだ。それに飽きると学校のこととか家族のこととかで下らない雑談をしていたのだけど、ふとした 拍子に言い合いになってしまった。こういうことはわりとよくある。お互い遠慮があまりないせいか、あたしたちはよく喧嘩をし、仲直りをするのもまた早かっ た。けれどやはり喧嘩している最中は嫌な気分がするもので、しかも大概内容が下らないというのがまた情けない。

「シンジの馬鹿! すけべ!」

「すけべってなんだよ。何もしてないだろ」

「さっきだってあたしのお尻に触ったくせに」

「そんなもの触らないよ! 大体アスカがどたばたしてるから」

「そんなものって何よぉ!」

 本当に下らない。こうなるともはや喧嘩のそもそものきっかけも関係なくなって、ただの子どもっぽい意地の張り合いになってしまう。うちのパパとママはこ んな風にはならないのにおかしいなぁ、といつもあたしは思う。それともパパとママもあたしに隠れてこんなやり取りをしているのかしら。馬鹿みたいに。でも パパとママの喧嘩はもっと大人って感じの緊張感があるのだ。

「もうシンジなんか知らない。死んじゃえ!」

 あたしは立ち上がってシンジに足蹴りを食らわせると、コートとマフラーを引っ掴んで部屋を飛び出した。
 階段をばたばた駆け下りていると、さっきとは違う段にミーちゃんが座っていて通れなかったので、あたしは立ち止まった。

「ミーちゃん邪魔だからどいて!」

「みゃあ」

 くそう、もう一発シンジを蹴飛ばしておくんだった。あたしは唇を噛み、ちっともどいてくれないミーちゃんを跨いで一段飛ばしに足を下ろした。そしてまた どたどたと駆け下りた。
 コートに袖を通しながら廊下を横切っていると、キッチンからおばさんが顔を出した。夕食の準備を始めていたのだろう。お出汁のいい香りがしてあたしは無 性に悔しくなった。

「あら。もう帰るの、アスカちゃん」

「ごめんなさい。あたし、ごめんなさい。もう帰ります。お邪魔しました、おばさん」

 コートのボタンを留めてあたしが言うと、おばさんは残念ねぇと漏らしながら後ろを軽く振り返った。そこにはいつの間にかシンジのおじさんが立っていた。 あたしが来た時にはいなかったと思ったのに、いつ帰ってきたのだろう。あごひげを生やした強面のおじさんはおばさんの言葉に小さく相槌を打って、眼鏡のブ リッジを指で押し上げた。あたしはおじさんに会釈をしてマフラーを首に巻いた。

「お夕飯食べていって欲しかったのに。また遊びに来てね?」

 おばさんは何もかもお見通しという例の目であたしを見て、優しく笑った。

「はい」

 家に帰ってあたしは、にやにや笑いながら鬼平犯科帳を読んでいたパパにまとわりつき、鼻歌交じりに料理をするママの手伝いをした。何といってもあたしを 慰め てくれるのは家族だ。あの馬鹿のことはしばらく忘れていればいい。
 パパもママもいつも通りに優しくて、あたしも手伝ったクリームシチューは頬っぺたが落ちるほど美味しい。そんな夕食の団欒中に電話が鳴って、それを受け たママが受話器を手で押さえてあたしに向かって言った。

「アスカ、シンジくんからよ」

 こうなるのは分かっているのよ。喧嘩したってあたしたちの関係は壊れない。でもあたしはもう一歩先に進みたいのだ。特別な一歩を。

「あたしはいないって言って」

 ママは笑うと受話器に向かって言った。

「シンジくん、またアスカと喧嘩したの? あの子が優しくなるとっておきの方法、おばさんが教えてあげましょうか」

 あたしは飛び上がってママから受話器をひったくった。

「わあっ! 馬鹿馬鹿!」





 あたしが碇家の門の前に立っていると、門柱の上から三毛猫のミーちゃんがこちらをじっと見つめていた。ミーちゃんはなぜか柔道着を着て狭い額に日の丸の はちまき を巻いていた。しばらく見つめ合ってから、ミーちゃんは切り出した。

「アスカちゃんはシンジくんが好きなんだね」

 猫のくせに単刀直入である。

「そうなの。でもあいつにどうやってそれを伝えたらいいか分からないの」

 あたしは深いため息を吐き出しながらミーちゃんに打ち明けた。ミーちゃんは訳知り顔で頷いてあたしに答えた。

「無理もないよ。シンジくんはボクのご主人様だけどちょっとぼけてるんだ。あのおとぼけぶりにはほとほと困り果ててるんだ」

 ミーちゃんもまた深いため息を吐き出した。あたしたちの悩みは海のようだ。

「どうすればいいと思う?」

「希望はある」

「本当?」

「シンジくんだってアスカちゃんのことが好きに違いないよ。アスカちゃんが家に遊びに来た時もいつもシンジくんはアスカちゃんのことを気にして目で追って いるのをボクは知ってるもの。特に服がミニスカートとかだとわりとじろじろ見てることも知ってるもの」

「なんでミーちゃんがそんなこと知ってるの」

「ふふん、猫に分からないことはない」

 ミーちゃんは得意げにごしごし顔を洗った。

「でも」

 としばらくして顔を洗い終わったミーちゃんは言葉を続けた。

「気をつけないといけないこともある」

「それはなに?」

「例えばこんなことがある。ボクはオスなのにミーちゃんと名付けたシンジくんを、アスカちゃんはどう思う?」

 ミーちゃんは糸のように細い瞳孔をした目でじっとあたしを見つめた。あたしはミーちゃんってオスだったのか、と思いつつ答えた。

「それはほら、あいつって男女分け隔てない奴だから。わりと」

「それだよ!」

 ミーちゃんが牙をかっと剥き出して大きな声で叫んだので、あたしはびっくりした。

「もしアスカちゃんもシンジくんから女の子だと思われてなかったとしたら、さあどうする?」

「え、どうするって、どうしよう……」

 あたしは困惑して柔道着姿のミーちゃんを見つめた。でもさっきはあたしの足をじろじろやらしい目で見ているって言ってなかったかしら。というかなんでこ んなもの着てるのかしら。はちまきの赤い日の丸の中になぜか「魚」と書いてあるのが読めた。 あ、好きなものか。

「アスカちゃん。ちゃんとシンジくんにアスカちゃんは女の子なんだって意識させないと駄目だよ。それも他の女の子よりも先に」

 あたしははっとしてミーちゃんの言葉の意味するところを考えた。他の女の子。例えば霧島マナのような?

「シンジくんは優しいご主人様なんだ。素性の分からない、どこのしっぽとも知れない野良にも煮干をあげちゃうような子なんだよ。だから優しくされた野良は 勘違いしてシンジくんににゃあにゃあ言うんだ」

「それってもしかして」

「アスカちゃん。気をつけないとネタの乗ってない寿司みたいなことになるよ」

「お寿司?」

「美味しいとこだけ持っていかれる」

「なるほど」

 猫だけに。
 あたしはすごく納得した。

「でもミーちゃん。それは分かってるのよ。問題はどうやってシンジにあたしの気持ちを伝えたらいいかってことなの。付き合いが長い分、こんなことを今更改 まって切り出せなくて。それにちっちゃい頃からずっと好きだった、とかちょっと重くない?」

 あたしが不安を口にすると、ミーちゃんは箱座りの体勢になって大きなあくびをした。退屈なの?

「そのためのバレンタインだよ」

 あくびを噛み殺したようなやる気のない声でミーちゃんが言った。

「でも毎年あげてるもん。今更チョコ渡したってそれだけじゃあ」

「そう。大事なのはインパクト」

「インパクト」

 あたしは繰り返した。

「そう。加えてシンジくんはにぶちんだから回りくどいことをすると目を回す。だから直球勝負じゃないと駄目。これぞ名付けてサードインパクト」

「え、セカンドとファーストは」

「セカンドはアスカちゃんとシンジくんが出会った日。ファーストは恐竜が滅んだ日さ」

「恐竜?」

「うん。まあ、だからどうっていうわけじゃないけど」

「はあ」

「しょせん羽のない鳥さ。猫の餌だよ」

 そう呟いたミーちゃんは目を細めて味のある表情をした。プライドなのかしら。

「ようするにあたしはどうすればいいの、ミーちゃん」

「チョコに気持ちを添えるんだ。にぶちんのシンジくんにもはっきりと分かるように。物より気持ち。アスカちゃんには分かるかい? それをするために人間だ けが持っているものを活用するんだ。文字だよ。お手紙を書くんだ」

「結構単純な手なのね」

「そんなことはない。これがたったひとつの冴えたやり方だよ」

「そうかしら」

 あたしは内心首を傾げたけど、確かにあの鈍感シンジに気持ちを分からせるには文字にして目の前に突きつけるのが一番の近道のような気がした。他の女子た ちも同じようなことをする可能性もあるけど、他の女子からもらったチョコをあいつから取り上げるという裏技があたしにはあるので、たぶん大丈夫だろう。 ちょっと卑怯だけど。
 あたしは門の前で箱座りしてうつらうつらし始めたミーちゃんを撫でてお礼を言った。

「ありがとう、ミーちゃん。あたし、頑張るから」

「支払いはマタタビでお願いするにゃ」

「にゃ?」





 夢から目覚めたあたしは自分でも呆れてものも言えないような気持ちでベッドから出ると、朝の寒気に震えながらヒーターをつけてもう一度ベッドに潜り込ん で枕に顔を埋めた。ミーちゃんに恋愛相談などいくら夢でもあり得ない。
 その日は何となくまだ夢の続きを見ているような気分で学校へ行った。教室に入るとシンジがもう来ていたので、あたしは気になっていたことを訊ねてみた。

「ねえ、シンジ」

「なに?」

「あんたんとこのミーちゃん、メスよね」

「メスだよ。それがどうかしたの」

「いや、いいのよ。ありがと」

 一体何だかよく分からないという顔をしたシンジにお礼を言ってあたしは頷いた。ようやく目が覚めた気がした。
 三時間目の現国の時間には、先週のディスカッションをまとめたものをグループごとに発表した。あたしのグループは二番目に発表して、高い評価を 得ることができた。そうして最後のグループの番になると、あたしはまっすぐに教壇を睨んだ。正確には教壇でシンジの隣に立つ霧島マナを。発表の内容はどう でもいいのであたしの耳には入ってこない。ただ霧島マナが発表でつかえるたびにシンジと顔を見合わせて楽しげにやり取りしている様子がすごく腹が立つ。あ れは絶対にシンジに気があるのだ。そういう噂も聞くし、何よりこのあたしが見間違えるはずはない。きっと奴もバレンタインにチョコを渡すのだろう。でもシ ンジが受け取って一番喜ぶのはあたしのチョコだ。こちらにはミーちゃんに授けられた秘策もある。霧島マナの笑顔を睨みつけながらあたしは思った。間抜け面 していられるのも今のうちだぞ、と。
 ところがどうやら事はそう上手く運ばないようだった。昼休みに仲のいい友達と机をくっつけてご飯を食べていると、急に顔を近づけられてひそひそ声で囁か れた。

「アスカ、霧島さんのこと睨みすぎよ」

「え、何のこと」

 内心どきっとしながらあたしはとぼけた。ぱちぱちとわざとらしく瞬きもしてみせる。

「傍から見てるとすごく分かるわよ。やめときなさい」

 あたしは友達の顔をじっと見てから、卵焼きを一つ食べ、そして言った。

「あたしは別に」

「碇くんのことでしょ、どうせ。下手に喧嘩腰になるとアスカが悪者扱いされちゃうわよ。やめときなさいよ」

 一体あたしは友達からどういう風に思われているのだろうか。そんなに喧嘩っ早く見えるのか。確かに小学生時代は男子でも叩き伏せてメスゴリラとか陰口を 叩かれていたのも知っているけど、中学校では そんなことはしていないし、現に霧島マナに対して何かするつもりもない。それよりもシンジのことが地味にばれている上に、どうせとか軽く言われてしまっ た。
 あたしはママの作ったアスパラの牛肉巻きを箸でつつきながらもごもご言った。

「別にシンジのことはなんでもないのよ。ただの幼馴染で」

「ただの幼馴染なんてこの広い世界のどこにもないの、アスカ」

 あたしは石像のように沈黙した。

「それより碇くんのことで、ちょっと変な話を聞いたんだけど。カナちゃんがね、こないだの土曜に碇くんを見かけたんだって。しかも場所が駅前の地下モール のちょうどクレープ屋さんがある辺り。あの辺ってほとんど女の子向けのお店しかないはずなんだけど、なんだか一人でずっとうろうろしてて、何してんだろっ て思っ たんだって。確かに変よね」

「ヒカリ」

「はい」

「教えてくれてありがと」

「アスカ、顔が怖い」

 あたしは砂を噛むような思いで残りのお弁当を食べながら考えていた。ヒカリの話してくれたことには思い当たる節があったのだ。日曜にシンジと喧嘩をした きっかけをすっかり忘れていたけど、あの時机の引き出しを開けようとしたあたしをシンジが激しく制止したことが原因だった。確かに勝手に引き出しを開けよ うとしたあたしだって悪かったかなとは思うけど、それにしてもシンジの反応は過剰だった。今思い返してもあんなに反応するだなんておかしい。どうしても見 られたくないものが入っていたのだ。初めはエッチなものかと思っていた。あいつだってそろそろそういう年頃だし、エッチなものを持っているのはむかつくけ ど一方で は仕方がない。けれどもし、そうではなくて何かもっと特別なものだったとしたら? 恥ずかしいから見られたくないのではなくて、相手があたしだからこそ見 られるわけにはいかなかったのだとしたら?
 そうだとしたらそれは一体何だろう。土曜日に女の子しか行かないような場所で買ったものだ、というのは間違いないように思えた。ヒカリが嘘をつくとは考 えられないし、目撃者のカナちゃんだってあたしの友達だ。ではシンジは一体何を買った? そして誰に? どの女の子に?
 あたしはゆっくりと教室の窓際に視線を向けた。シンジの席の隣が霧島マナの席なのは、くじで決まったことだからどうしようもない。でもどうしてあの二人 は楽しそうにお喋りしながらお弁当を食べているの? 二人きりというわけではないにしても、今までならあそこまで仲良さげにはしていなかったはずだ。
 疑い始めると何もかもが信じられなくなる。あたしは食べ終わった弁当箱を閉じると、ヒカリに断って席を立った。一人になって考える時間が欲しかった。





 家に帰ってもあたしの気分は晴れなかった。
 シンジのことを好きだと言っている子やそうだろうなと思う子は、霧島マナの他にも何人か知っている。シンジが土曜日に買った何かはその中の誰かへのプレ ゼントなのだろうか。
 見ている限りでは確かに最近霧島マナとよく話しているような気がする。けれどあれはほとんど向こうからアプローチしているのであって、シンジから積極的 に近づいているという印象はない。他の子についても同様だ。大体シンジには少し優柔不断で八方美人なところがあるので、誰に対してもいい顔をしてしまうの だ。だから脈があるのかと思い込む奴も出てくるのだけど、実際のところはこれまでシンジが誰か特定の女の子に特別な感情を持って接したということはなかっ たはずだ。断言はできないが、シンジと一番親しくて、常日頃わりとじろじろ気味に観察しているこのあたしが気付かないということはないだろう。
 ではシンジが隠していたのはあたしへのプレゼントだろうか。その可能性をあたしは信じる気にはなれなかった。ここ最近のあいつのあたしに対する態度は特 に変化がないし、あたしにプレゼントをくれるのならきっと前もって教えてくれるはずだ。そのほうが喜ぶとこれまでの経験から知っているのだから。子どもっ ぽいかもしれないけど、サプライズよりもプレゼントがもらえると分かってそれを待つわくわく感のほうがあたしは好きなのだ。シンジはそれをよく知ってい る。だからあんな風にあたしと喧嘩をしてまで秘密にするだなんて考えられない。もしもあたしへのプレゼントを買ってくれたのだとしたら、シンジはそんなこ とをしない。だからこれも違う。
 第三の可能性はあたしのまったく知らないところに相手がいるというものだ。シンジへの直接の接触がない、あるいはあたしの目に触れないというなら、たと えあたしでも気付かないかもしれない。あたしとシンジの間の阿吽の呼吸には密かに自負があるのだけど、それにしても心が全て読めるというわけではないのだ から。あたしにまったく気付かれずにあいつが誰かに恋をしているということだってあり得るわけだ。
 この第三の可能性が確率としてはもっとも高いように思われた。それが誰なのかあたしにはまったく想像もつかなかった。他のクラスの知らない女子か、上級 生か下級生か。あるいは他校の人間や、また中学生ではないということも考えられるけど、シンジとの接点を考慮すれば、やはり同じ中学校の誰かなのではない だろうか。
 もし本当にそういったあたしの知らない第三の女が実在するとするならば、あたしのとるべき手段はなんだろうか。手紙を使うにしても直接口で伝えるにして も、もうとっくに手遅れなのだとしたら? シンジの気持ちを取り戻すのには遅すぎるのだとしたら? いや、そもそも取り戻すべき気持ちなんて初めからシン ジの中にはなかったとしたらどうすればいい?
 この十年間で積み上げた揺るぎない自信が、実はとても頼りないものだと知ったあたしはショックを受けた。そこには何の保証もない。あたしはシンジに対し て確かめたことさえないのだ。
 うわの空でいるうちに、どうやらあたしはキッチンで冷蔵庫を開けたままじっと突っ立っていたようだった。後ろからやって来たママがあたしの手から冷蔵庫 の扉の取っ手を奪って閉めた。

「こら。開けっ放しにしない」

「あ……、ごめん」

 またスウェットを着てエクササイズをしていたらしいママは妙な顔をしてあたしを見て言った。

「どうしたの。気分悪いの?」

「ううん。大丈夫」

「ふーん。熱はないようね」

 かぶりを振って答えると、ママはあたしの額に手を当てて言った。

「でも元気がないわね。ちょっとママに相談してごらんなさい?」

「なんでもないの、ママ。大丈夫よ」

 とてもではないけど、ママに打ち明ける気にはなれなかった。きっとママだって昔からお見通しなんだろうけど、それでもシンジのことでママに弱音を吐くの は嫌だった。でもあたしが脇をすり抜けて自分の部屋に逃げようとすると、ママに呼び止められた。

「ねえ。本当に大丈夫ならいいんだけどね、アスカ。言わなきゃ分からないのよ。家族だってなんにも言わなきゃ伝わらないことはあるの」

「……またちょっとシンジと喧嘩しただけ。それだけだよ」

 あたしは嘘をついた。でもママは信じなかった。

「本当に? 話してみなさいよ。いいこと、ママは四十年、女をやってるのよ。アスカは十四年。どう? パパを見てごらんなさいよ。あんなにハンサムで素敵 なパパがいる子、アスカは他に知ってる? 知らないでしょ? アスカのパパが格好いいのは全部ママのおかげなの。ママはきっと頼りになるわよ」

「でもパパ、おたくじゃん」

「それは関係ありません」

「四十年じゃなくて四十一年でしょ」

「細かい子ねぇ」

 思わずあたしは吹き出した。あんまり馬鹿らしくて、するっと素直な気持ちになった。十分後、あたしはママの淹れてくれたココアに視線を落としながらぽつ ぽつと打ち明け始めていた。
 話を聞いたママはあたしの不安を笑い飛ばしてしまった。いるかどうかも分からない相手に怖気づくなんてどうかしている、と。ママに言わせればあたしはた だの臆病者だ。たとえ疑わしい兆候がシンジにあったとしても、確かめもせず勝手な想像を膨らませて、勝手にショックを受けているのだから。

「でも絶対におかしいもん。シンジが何か隠してるのは確かだし」

「土曜だってただ通りがかっただけかもしれないでしょ。女の子のお店でお買い物したとは限らないじゃない」

「だって同じ場所をずっとうろうろしてたって聞いたし」

「アスカはシンジくんに確かめるより他の子の言うことを信じちゃうんだ」

「だってヒカリは嘘なんて」

「じゃあ、アスカは誰だか分からないけどシンジくんが好きな女の子が本当にいると思ってるのね?」

「うん」

 ママに念押しされてあたしは力なく頷いた。どんなにママが否定しても、あたしは自分の想像が間違っているとは思えなかった。ママは処置なしといった感じ で肩を竦めると、頬に手を当ててわざとらしく嘆いてみせた。

「そう。残念ねぇ。ママはてっきりシンジくんがアスカのボーイフレンドになってくれるものと思ってたのに。その相手っていうのがどんな感じの子か知らない けど、そんなのよりアスカのほうがずっといいのにねぇ」

「ママは自分の娘を買い被りすぎなんじゃないの。どんなのか知りもしないで」

 あたしが呆れるというよりも情けなくなってそう言うと、ママは猫のような目をしてにたりと笑った。

「あら。知りもしないで諦めてるのはアスカでしょ?」

 その切り返しに虚を突かれて二の句が継げないでいると、ママはさらに言った。 

「言ってみなきゃ何も始まらないわよ。宝くじと一緒。買わなきゃ当たらない。試してみなきゃ分からない。ママだって昔大阪でパパに声をかけられなかった ら、一生パパのことも知らずに今頃別の人の奥さんになってたわ。それはどっちがいいとか悪いとかそういうことじゃないけど、引き返すことは絶対にできない し、ママはあの時パパが勇気を出して声をかけてくれて本当によかったと思ってるのよ」

「パパはママに何て声をかけたの」

 あたしの質問にママは少し目を細めた。柔らかいしわが目尻に刻まれたママの優しい表情は昔を懐かしんでいるようだった。

「ママが綺麗だって。ただそれだけ。つっかえながら色々言ってたみたいだけど、本当にただ褒めてくれただけなの」

 ママははにかむように笑うと、視線を落として爪先でテーブルの表面を撫でた。

「そんな風に褒めてくれた人、初めてだったから。それだけのことがママにはとても嬉しかったの。きっかけなんてこんな簡単なものなのよ。あとになってみな ければその影響の大きさは分からない。ね、アスカ。決めるのはもちろんアスカだけど、チャレンジする前に諦めるだなんてつまらないし、もったいないと思わ ない?」





 次の日、あたしは学校から帰るとママと一緒にパパへのバレンタインチョコを作り、それからシンジへ渡すチョコを一人で作った。あたしはママほど料理もお 菓子作りも上手じゃないけど、きっと美味しいと思う。チョコの用意ができたので、あとはバレンタイン前日まであたしは毎晩机に向かってチョコに同封するシ ンジへのメッセージに頭を抱えることになった。なかなか思うように気持ちを書き出すことはできなかった。
 シンジの様子は学校でも学校外でも相変わらず変わりないように感じられた。ここ一、二年見慣れたいつもの中学生のシンジだ。クラスの女子たちはいよいよ 迫ってきた決戦日にざわついていて、男子たちはそれを冷笑するふりをしていた。けれどあたしはどこかそれを遠巻きにしていた。
 そして前日の夜だ。リビングでソファに座って落語を観ていたパパの首にあたしは後ろから齧りついた。パパはちょっと嬉しそうにして、首をひねってあたし の顔を見ようとした。

「どうしたんだ」

 あたしはパパの言葉には答えず、手を伸ばしてテレビのリモコンを拾い、さっぱり意味の分からない落語の音を小さくした。

「こらこら。聞こえないよ」

「あたし、パパの秘密聞いちゃった」

「秘密?」

 んふふ、とあたしは笑った。

「初めて会った時にママに何て言ってナンパしたのか」

 パパは石像みたいに固まった。

「親子なんだもん。パパにできてあたしにできないわけ、ないもんね」

 あたしはパパの頬にちゅっと音を立ててキスすると、広い肩に手を置いてよいしょと身体を起こした。パパはちょっと混乱しているみたいだった。踵を返した あたしの背中越しに石化の解けたパパが途方に暮れたように言った。

「待ちなさいアスカ。ママ、ママ! アスカが何だか変だよ?」

「変じゃないわよー」

 キッチンからママの大声が飛んできた。

「変じゃないの!?」

 おろおろしているパパの様子を見にママがエプロンで手を拭きながらリビングまでやってきた。

「パパ、アスカの邪魔しちゃ駄目よ」

「あれ、何が何だか分からない。僕は蚊帳の外?」

「それよりパパ、明日の朝はメロンパンでいい? 買ってきたの。パパ好きでしょ」

「オウ、サンライズ……」

 メロンパンはパパの好物だ。そしてなぜかサンライズと呼ぶ。

「ありがとう、ママ。でもアスカのことは……」

「しーッ」

 ママは唇の前に人差し指を立ててパパの言葉を遮った。パパは口元を押さえ、不満そうな顔をしながらも分かったという風に頷いた。あたしがママを見ると、 人差し指の陰に悪戯っぽい笑みを隠してぱちりとウィンクを送られた。
 こうして部屋に戻ったあたしは、机に向かって腕まくりをした。目の前には白紙のメッセージカード。ペンを手に取り、深呼吸する。長々とした手紙はなし だ。あたしが伝えたいことはひとつだけ。訊きたいこともひとつだけ。



 ――あたしはシンジのことが好きよ。
   シンジはあたしのことが好き? 



 ペンを置いて文面を確かめ、カードをチョコレートの箱に入れて綺麗にラッピングした。
 これで準備はできた。あとはもう渡すだけだ。結果がもし駄目でも知るものか。その時にどうなるかあたしは自分でも分からなかった。





 バレンタインデー当日は雲ひとつない快晴で、とても寒かった。学校では大半の女の子たちは浮ついた楽しげな雰囲気で、それとは対照に男の子たちは無関心 を装いながらどこか緊張していた。みんな何だかんだと言いながらバレンタインを意識して楽しんでいるのだ。
 教室に入ると、窓際の後ろのほうに女子が数人で固まっていて、その中にあたしは霧島マナを見つけた。楽しそうに頬を紅潮させてお喋りしている彼女たちも それぞれバレンタインのチョコを渡す相手がいるのかもしれない。言わずもがな、霧島マナはシンジに渡すのだろう。自分の席へ向かいかばんを下ろしてマフ ラーを取ると、ふと 視線を感じたので顔を上げた。すると霧島マナがこちらを窺うように見ていて、一瞬だけあたしたちの視線は交錯し、すぐに逸らされた。日頃意地悪なことを考 えて はいるけど、彼女の気持ちまで否定する気は毛頭ない。それが止めようとしても止められないものであることをあたしは知っているから。
 しばらくして人の増えてきた教室にシンジが入ってきた。霧島マナが緊張する気配が伝わってきた。あたしがシンジを見ると、あいつは手にピンク色の小さな 可愛らしい袋を提げていた。ちょっと呼吸が乱れた。

「ね、シンジ」

 あいつが一人きりのところを捕まえられたのは、やっと三時間目のあとの休憩時間になってからだった。教室を出て行ったあいつを小走りに追いかけて、袖口 を掴んで引き止めた。振り返ったシンジの顔を見てあたしは唾を飲み込み、素早く言った。

「今日は一緒に帰るからね。勝手に帰ったら駄目よ」

「あ、うん。分かった」

 シンジは聞き分けよく頷いた。そしてあたしに訊ねた。

「アスカは今年もくれる?」

「当たり前でしょ」

 あいつの言葉に期待されているのかと思って顔をほころばせてあたしが答えると、あいつは何だか妙な表情をした。言葉を喋ろうとする熊みたいな表情だ。頼 むから意味深な仕草をしてあたしを悩ませないでよ。貧血を起こすから。

「いいわね。約束したからね」

 シンジの鼻先に指を突きつけてあたしは言うと、握ったこぶしであいつの厚くもない胸元を軽く小突いて、逃げるように駆け出した。のぼせた頭が冷えるまで トイレに避難していよう。
 ようやく放課後が訪れた時には、あたしはもう一年も待っていたような気分だった。こんなに学校が終わるのを待ちわびたのは初めての経験だ。実は まだ家のあたしの机の上に置いてある綺麗にラッピングされたチョコレートのことを考えながら、あたしは教室内の人がまばらになるのを待って、シンジに声を かけた。
 帰り道はいつもあたしたちがしているように下らないお喋りをしながら歩いた。中でもあたしが笑ったのが、シンジのおじさんの話だ。前の日曜日にあたしが シンジの家へ遊びに 行った時おばさんが編んでいたセーターが、昨日やっとできあがったのだそうだ。あの真っ白でふわふわの暖かそうなセーターだ。そしておばさんは一日早いけ どと断って、バレンタインのプレゼントとしておじさんに手渡した。夕食後のリビングでのことだ。当然シンジもその場にいた。おじさんは畳んであるセーター を無言で受け取ると、広げるでもなしにめくったり指で押したりしながら、ミーちゃんの寝言みたいなもごもごした口調でお礼を言った。着てみないのかと言う シンジに対してはまた今度着るのだとうるさそうにおじさんは返す。おばさんはその様子をソファに座ってにこにこしながら見守っていたそうだ。そして、お風 呂へ入ったシンジが湯船で充分に暖まってから上がり、リビングへと戻ると、ふわふわした真っ白なセーターを着込んだおじさんが部屋の中央に立っている場面 に出くわした。おばさんはやはりにこにこと頬に手を当ててその姿を見上げていた。数拍ほど何ともいえない空気がリビングに流れたそうだ。真正面からシンジ と目が合ったおじさんは、憮然とした表情でくるりと背中を向け、おばさんの手編みセーターをおもむろに脱いでしまった。なぜ脱ぐのかと訊けばうるさいと返 され、もう一度着てみたらと言えば部屋で勉強していろとにべもない答えが返ってくる。もちろんシンジだって自分の両親のことは充分によく分かっていたの で、ソファの背もたれの上で我関せずと顔を洗っていたミーちゃんを抱えて大人しくリビングをあとにした。扉を閉じる瞬間、シンジが振り返って見ると、おじ さんは大事そうにセーターを持ったままおばさんの隣に腰を下ろすところだった。

「うちのパパも変だけど、シンジんとこのおじさんも相当変わってるわよね」

「父さん、プライドが高いから弱みを見せたくないんだよ。別にこっちだって気にしてなんかないのに」

 おばさんの手編みセーターを着て苦虫を噛み潰したような表情をしたおじさんを想像して、あたしはまた笑った。シンジも一緒になって笑っていた。
 このバレンタインデーでシンジはどうやら何人かの女の子からチョコレートをもらったようだった。学生かばんとは別の手提げを持っていて、そこにもらった チョコを入れていた。シンジはチョコが好きなので、いくつももらえたことに内心喜んでいるのではないかと思うけど、あたしとしてはふざけんなと言いたい。 本当は。

「いくつもらったの?」

「えっと、四つかな」

「霧島さんからももらった?」

「あ、うん。なんかね」

 どこか言葉を濁してシンジは答えた。あたしが顔を見ると、寒さに鼻を赤くさせたシンジは白い息を吐き出しながら困ったような表情をしていた。

「ほー。よかったわねぇ。告白とかもされたんじゃないの?」

 からかうように覗き込んでやると、シンジはむっとした表情になった。

「そんなことされてないし、別にチョコだって欲しがってなんかないよ」

「あんた、それは渡してくれた子に失礼よ。勇気がいることなんだから」

 本当に。これから渡そうというあたしにしてみれば骨身に沁みてそう思う。イベントにかこつけて告白というと聞こえが悪いようだけど、本人たちにとっては これでも精一杯の頑張りなのだ。だからあたしは、男の子ならそれを大らかに受け止めるくらいのことでなくてどうするのだ、という気持ちを込めてシンジのわ き腹を小突いた。

「いてっ」

「シンジの馬鹿。強がってるとそのうち誰からも相手にされなくなっちゃうよ」

「いいよ。少なくともひとつはもらえるから」

 二発目は大振りの蹴りをお見舞いしようとしたのだけど、かわされたあたしはその場でくるっと一回転した。それって、どういう意味なのかしら?





 あたしの家の前まで着いたら、シンジを門の中に待たせてあたしは急いで家の中に駆け込んだ。かばんもマフラーもコートも放り出して、自分の机の上に朝と 同じように置かれた真っ赤な包みを手に取った。中身は手作りのトリュフチョコだ。簡単すぎかとも思ったのだけど、変にひねって失敗しても困るし、今回大事 なのはメッセージカードのほうなのでそうしたのだ。その代わりラッピングは奮発したし、カードだってショップで一時間は悩んで決めた。あたしは綺麗に包装 されたシンジへのバレンタインチョコを両手で包み、よし、と心の中で呟いた。心臓が口から出そうだ。
 玄関から再び外へ出ると、寒そうに白い息を吐きながらシンジが待っていてくれた。シンジは何も言わずあたしが持つ赤い包みに視線を向け、そしてあたしの 顔を見た。その表情はどこか緊張しているようだった。

「じゃ、シンジ」

「あ、ちょっと待って」

 いよいよ渡そうとあたしがチョコの包みを差し出すと、シンジが口を挟んでそれを遮った。こちらがどんな気持ちでいるかも知らずにこの馬鹿たれ、と出鼻を 挫 かれたあたしが差し出した手を引っ込めることもできずに固まっていると、シンジが右手をあたしに向けて差し出してきた。そこには先ほどまではなかった青い 包みが握られていた。

「これ」

「え、あたしにくれるの?」

 目を丸くしてあたしはシンジを見た。

「うん。僕からもバレンタイン。いつももらってばっかりだし」

 そんなことをいってシンジだって毎年お返しをくれるじゃないかと思ったのだけど、あたしは自分でも意外なほど嬉しくて、つい素直に差し出された青い包み に手を触れていた。

「わあ、ありがとう。中身はチョコ?」

「うん。僕が作ったから美味しいか分からないけど」

「あ、そう。あんたが作ったの……」

 忘れていたけどこの馬鹿はお菓子作りが得意なのだ。原因はもちろんあたしで、小さい頃にあたしに付き合わせて一緒にやって、あたしはあまり上手くならな いまま飽きたけど、こいつのほうは何かが目覚めた。もともと手先が器用なのだ。当然女の子のあたしには面白くない成り行きだったけど、美味しいお菓子が食 べられるなら文句はなかった。ところがそれがよりによってこんな場面で障害になろうとは。同時に食べればあたしが作ったほうが美味しくないに決まってい る。しかもありきたりのトリュフチョコ。こんな格好悪いのってない。

「嬉しい。ありがとう、シンジ」

 でもそんなもやもやはおくびにも出さず、あたしは明るく笑ってシンジからのバレンタインチョコを受け取った。片手で受け取るわけにもいかないからシンジ へ渡すチョコは少しの間足元へ。そして受け取ったら今度はそれを置いて、自分が用意した赤い包みを拾い上げた。

「じゃあ、今度はあたしね。これ、あげる。手作りだから美味しくなくても文句言わないでよ」

 包みを持つ両手をシンジに突き出す。シンジがどんな表情で受け取るのか見ていたかったのだけど、あたしの意思に反して目玉は勝手にふらふらとあらぬ方向 を向いてばかりいた。それでもシンジの手があたしのチョコを掴んだ瞬間にはどうにか顔を見ることができた。シンジはあたしが選んだ真っ赤な包装に包まれた チョコに視線を落として、何度か口を開いたり閉じたりした。まさか突き返されるなんてことは起こらないわよね、と固唾を呑んでその様子を見守っていると、 顔を上げたシンジは薄く微笑んで言った。

「ありがとう、アスカ。毎年くれて、嬉しいよ」

 確かに毎年あげているけど、今年の分は少し違うの、とこの場で言ってしまいたかった。でもそれはもう少しあとだ。せっかく忍ばせたカードが無駄になって しまう。あんなに頭を悩ませた末に書いたというのに。あれを書き上げるまでに絶対に体重が少し減った。それくらい悩んだのだ。恋をすれば痩せるというのは 嘘じゃない。

「ね、シンジ。お願いがあるの」

「なに?」

 あたしがあげたチョコを手に持ったままシンジは少し首を傾げた。

「他の女の子からチョコをもらってることは別にいいの。でも、必ずあたしのチョコを一番に開けて食べて」

「一番に?」

「約束して。必ずよ」

 本当はあたしの知らない誰かからもらったチョコが一番大切なのかもしれない。さっきシンジからくれた青い包みのチョコだって、もう今年限りでこういうこ とはやめようという意味なのかもしれない。最後だからこれまでのお礼も込めてシンジからチョコレートをくれたのかもしれない。
 それはあたしにとって認めるのはつらいことだけど、ひょっとすると認めることなんて絶対にできないことなのかもしれないけど、それでもシンジの気持ちま で否定することはできない。だからせめて、これだけは約束して欲しかった。他の女の子たちの気持ちのこもったチョコよりも先に、あたしがあげたチョコの包 みを開いてもらいたい。そしてあたしの気持ちを知ってもらいたい。それくらいは許して欲しかった。

「分かったよ」

 シンジはしっかりと頷いてくれた。あたしは微笑むと、足元に置かせてもらっていた青い包みを丁寧に拾い上げた。

「それじゃ、シンジ」

「うん。チョコありがとう」

「こっちこそ。またね」

 とあたしは胸の前に持ち上げた片手を門から出て行こうとするシンジに向かって小さく振って、指を折り畳んだ。門の外に出るとシンジはこちらを振り返っ た。

「約束、忘れないでね」

 あたしは言った。

「分かってるよ。アスカも、ひょっとしたらチョコがひとくちじゃ大きいかもしれないから、気をつけてね」

「馬鹿、あたしはそんなにがっつかないわよ」

 こぶしを振り上げて殴る真似をすると、シンジは笑いながら手を振って行ってしまった。それを見送ったあたしは手の中のシンプルな青い包みを顔の前に持ち 上げて眺めた。

「手作りチョコの材料はあんなとこじゃ買えないわよね」

 土曜日のシンジの行動はいまだ謎のままだった。コートも羽織らずにいたので寒くてあたしは身体を震わせた。どちらにしてもあとはシンジからの答えを待つ だけ。それまでチョコでも食べていよう。悔しいけど、きっと美味しいに違いない。





 玄関の中に戻ると、あたしは靴を脱ぐのももどかしい気持ちで急いで家に上がり、自分の部屋に向かった。今日はママはどこかへでかけているのか家にいな い。一人だけだと家がしんとして、自分の心臓の音も聞こえてきそうだった。
 机の上にシンジがくれた包みを置くとあたしは椅子へ座ってスタンドの明かりをつけた。袋状の包みの口を縛ってあるリボンを解くと、中から手のひらに乗る くらいの箱が出てきた。蓋を開けたらそこにはちょっと大きめサイズのトリュフチョコが無造作に二つ入っている。よりにもよってチョコの種類まで同じだ。あ たしは苦笑いして、シンジが作ったトリュフチョコをひとつ摘み上げた。確かにシンジが言うように、ひとくちで食べるのは少し大変そうだ。でも一目見て分か るそんなことをいちいち言葉にして警告するだなんて、あたしを食い意地だけの女の子と思っているのかしら。あたしは目一杯に大きな口を開けて、シ ンジのチョコを半分に齧った。ぼりぼりぼりと口の中で噛む。

「美味しい」

 めちゃくちゃ美味しい。じんわり甘くて、ほろっと苦くて。こんな風にぼりぼり噛んで食べるなんてもったいないくらいに。残りの半分も口の中に放り込ん で、あたしはチョコレート色のため息を吐き出した。お菓子だけでも一生あたしのために作ってくれないものかしら。口の中のチョコがすっかり溶けてなくなっ てしまうとあたしはちょっぴり憂鬱な気持ちで頬杖をついた。いくらなんでも虫がいいというよりむしろ情けない自分の想像に落ち込んだのだ。物より気持ち。 ミーちゃんが夢の中で言ったのを思い出した。あたしはたった一言あいつの言葉が欲しいだけなのだ。チョコではなく。
 けれど、そうはいっても目の前にある美味しいチョコの魅力には抗いがたい。二つ目のチョコを指で摘み上げ、今度はゆっくり味わおうと考えながら、先ほど と同じように半分くらいの大きさで歯を立てた。すると、がりっと何か硬いものを歯が噛んで音を立てた。予想もしないことに思わずぎょっとして、一体なんだ ろうとチョコを持つ手をゆっくり引いてみると、半分に割られた球状のトリュフの中から鈍い金属質の光沢のある輪が顔を覗かせていた。

「あらま」

 中の異物を取り出すために指でチョコを割ったら、机の上にころんと転がり落ちたのは指輪だった。チョコ塗れのそれを拾い上げてためつすがめつしていた ら、あたしは込み上げてくる笑いを抑えられなくなった。やられた、と思った。

「あの馬鹿、やられたっ。なによこれ……!」

 指でごしごし擦って指輪の表面にこびりついたチョコレートのかすを落とす。このせいだったのだ、別れ際に気をつけろと言っていたのは。うっかり飲み込ん だりしないように、気をつけて食べろと。
 指輪は銀色で、表面につる草みたいな模様があるだけのシンプルなものだった。きっとそんなに高価なものではない。中高生向けのアクセサリショップで売っ ているような高くても何千円かというチープな指輪だ。あらかた汚れをこそぎ落として改めてスタンドの明かりの下であの馬鹿がチョコの中に仕込んでいた指輪 を 眺めた。それにしてもこれはどういう意味なのだろう。こんなものをシンジはどこで? そう考えて、あたしははっとした。じゃあ何もかもそういうこと?
 ふと視線を落とすと、蓋の開いたチョコの箱が目に留まった。内側が黒い箱の中には、空だと思っていたら小さく折り畳まれた紙切れが入っていた。 チョコの下に敷いてあったのだ。あたしはそれを取り出して広げた。そこにはあたしもよく知っているあいつの字で短い言葉が綴られていた。



 ――好きです。



 多分、あたしの心臓は少し止まった。
 目に映る文字が信じられなかったので、あたしは二度三度強くまばたきした。それでもう一度穴が開くほど紙切れの表面を見つめて書かれてある文字を読み、 続いて実際に声で出して読み上げてみた。何度もあたしはその言葉を誰もいない部屋で繰り返した。どうやら目の錯覚ということではなさそうだった。ああ、神 様。シンジ。

「好きです、好きです、好きです、好きです、好・き・で・すぅー!」

 脇目も振らずあたしは部屋を飛び出した。コートも羽織らず靴を適当に足に引っ掛けると体当たりするように玄関を開けて外に飛び出した。玄関先で帰ってき ていたママと正面衝突しそうになって慌てて避ける。ママは驚いて何か言っていたようだけど、ごめんなさい、今それどころじゃないの。寒さで鼻をつんとさせ ながら、あたしは走った。あたしの家とシンジの家の間は歩いても五分かからない。走れば本当にあっという間だ。
 あいつの家の玄関先から人影が転がり出てくるのが見えた。こちらに向かって何か喚いている。近づいていくその姿にあたしはぎゅっと握った左手を振り上げ て声の限りに叫んだ。

「サイズが大きいじゃないのよ、どじ!」

 きらきらの笑顔を浮かべたあたしの左手の中には一番欲しかった言葉が書かれた紙が握られ、薬指にはぶかぶかの指輪が通されていた。










fin.









あとがき

まず初めに、ここまでお読み下さった方たちと掲載して下さった怪作さまに感謝いたします。

というわけで、バレンタイン話でした。
タイトルには何の意味もありません。適当な言葉が思いつかなかったのでこうなりました。チョコレート比較最上級です。チョコレート、チョコレーター、チョ コレーテスト。お暇でしたらお腹に力を入れてタイトルを叫んでみてください。
私はイベントもののお話を書くのが苦手なのでいつもは書きませんが、今回はちょっと気まぐれを起こしました。でもバレンタインデーに間に合わせるためにす ごく頑張って無理をする羽目になりました。そして疲れました。やつれた猫のひげくらいにくたびれました。
結果としてかなりやっつけな感じの仕上がりとなったのは申し訳ありません。
チョコに指輪を仕込んだりして衛生的にどうなのかとも思うのですが、これくらいで死にはしないでしょうからいいとします。本当にこんなことをすると指輪を 綺麗にするのが大変そうというか、チョコがまずくなりそうです。ホットドッグだと思って食べたらフォークが挟んであった、みたいなものです。
パン屋さんでメロンパンが売られているのを見ると少し不思議な感じがします。サンライズじゃないの、と。特にあの丸くて網目の入ったスタイルのを見るとい まだにそ う思います。ビスケット部分だけ食べるのが好きでした。
霧島マナがお好きな方は申し訳ありません。私は彼女がどんなキャラクターかよく知らないので、台詞なしでした。正直なところそこまで手が回らなかったとい うのもあります。唐突に出てきた洞木ヒカリも同様です。
シンジにしてももっと出番が必要だと思うのですが、影が薄くてすみません。シンジとアスカ、どちら視点のお話にしようかと最初考えたのですが、もしシンジ が主役だったらタイトルは「チョコレートハンター」もしくは「バレンタインの戦士たち」だったでしょう。
もういっそミーちゃんが主役でもいいと実は思っています。
こんなお話を書いておいてなんですが、私は本当はもっとハードボイルドなお話が書きたいという希望を持っているので、もし次にバレンタインを書く機会があ ればそうします。チョコで人が死んだり死ななかったりするスペクタクルにサスペンスフルでアクションばんばんなお話です。私はあーみんが好きです。

さて、ぐだぐだなのであとがきはこの辺で終わります。
ありがとうございました。

rinker/リンカ



リンカさんからバレンタイン記念話をいただきました。

これはリンカさん、ずいぶんと萌力とLAS力を上げられました。

読者の皆様もらぶっぷりにごろごろ転がったことと思います。

転がったあとにはぜひリンカさんへの感想メールをお願いします。

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