そのコーヒーを冷まさないで


rinker



夏の夜はとろりとしていて、温めた蜂蜜のようだ。
二十二時を回っていた。
それまで自分の部屋にいたシンジは、用足しにトイレへ行き、その帰りにふとキッチンに立ち寄る気になった。
静かな夜だ。家全体が静まり返っている。
真っ暗なキッチンの電気を点けると、冷たい灯りが静けさを一層もの寂しくさせた。
シンジは意味もなく冷蔵庫の蓋を開け、中を確認する。
牛乳やビール缶と並んで入っている麦茶のボトルを彼は取り出し、それを片手に食器棚に伏せて置かれている
グラスのひとつへ手を伸ばした。
すると、足音が聞こえてきた。
伸びをするようなくぐもった声もそれに重なる。
食器棚へ伸ばした手を引っ込めて振り返ると、長い髪を結んだ少女がこちらへ向かってきていた。

「あ、シンジ」

先客に気付いた少女がそう呼びかけてから手を口の前に添えてあくびをした。

「やあ、休憩?」

そう答えながら手に持ったペットボトルを調理台の上に置く。

「アスカは何をやってたの」

「漢文よ」

と、アスカ。

「あんなものさせるくらいならいっそ中国語を教えればいいのに」

もう一度彼女はあくびをした。
それを見たシンジは笑いながら取り出した麦茶を再び冷蔵庫の中に仕舞う。

「あれ、飲まないの」

「コーヒーにしようと思って」

そう言うとシンジは用意を始める。

「いいわね。あたしにもちょうだい」

「そのつもりだよ」

打てば響くように答える。
アスカは背を向けたシンジの姿を好ましげに見つめたあと、テーブルの椅子を引いてそこに腰掛けた。
頬杖をついて、彼女は再びあくびを噛み殺した。
眠たそうに目をしばたかせると、壁に掛けられた時計へ視線を向ける。

「ミサト、遅いね」

「もうじき帰って来るんじゃないかな」

と、声が返ってくる。

「保護者業も大変よね」

「あと半年だよ。大学に入れば僕は出てく」

言外に含められた意図を二人とも感じていたが、それについてはお互いに何も言わなかった。
奇妙な三人暮らしを始めてもう四年ほどになるが、終わりのときは近づいていた。
シンジが出ていくことは決まっている。アスカについては、元より彼女は三年前からここにいる義理はなかった。
その後彼女がどうするのかは誰も知らない。

「眠くってたまらないわ」





やかんに水を入れ、火にかける。
それが沸くまでの間に他の準備をする。
次第に水が温まってくると、やかんの穴から水蒸気が逃げる音が聞こえてくる。
やがて白い湯気が立ち上り始め、しゅんしゅんしゅんと音が高くなる。
キッチンに向かってシンジが静かに作業している姿を頬杖をついてしばらく眺めていたアスカは、
急に立ち上がってキッチンを何やら漁り始めた。
注ぎ込んだ湯が一滴一滴コーヒーに変わっていく様子を無言で眺めていたシンジは、彼女は一体何を
しているのだろうと背中で考えた。考えたけれど、問いただすこともせず彼女の好きにさせていた。
最後の湯の透明な一滴が黒いコーヒーになって下に落ちていき、シンジがようやくアスカのことを振り返ると、
彼女は片手に二人がよく見慣れたものを掲げて得意げに笑いかけてきた。

「ねえ、見て?」

「いいね」

シンジが微笑む。
それはウィスキーのボトルだった。保護者であるミサトの酒だ。
二人の子どもたちはお互いの顔を見合わせてにっこりと笑い、黒いガラスの瓶を期待するように見つめた。
頭の後ろで結わえた長い赤毛を馬の尾のように揺らして、少女は悪戯をするみたいに瓶の蓋を開けた。
キッチンに漂うコーヒーの香りの中で、微かにウィスキーの香りが彼らの鼻をくすぐる。

「垂らすだけよ」

と、コーヒーを注いだマグカップの上にボトルを傾けながらアスカが言うと、

「垂らす?」

シンジはおかしそうに訊き返した。
すると眉を上げてアスカは軽く彼を睨む。

「駄目。少しだけ」

「勿論だよ」

澄ましたように笑ってシンジはもう一つのマグカップも彼女のほうへ差し出した。
彼らは飲酒をするのが初めてではない。
保護者であるミサトに付き合って時折自分たちも飲ませてもらっていた。
二人とも酒の味については不満を覚えることはなかった。飲んだ気分も、少しならまあ悪くはない。
不良保護者が子どもたちに教え込んだ唯一の悪習がこれだった。
無論ミサト不在のもと勝手に飲んだりすれば怒られるのは当然だが、その点彼らはここ数年で
二人揃って冒険好きで悪戯好きに成長していた。目を盗むことには研きが掛かっている。
アスカがウィスキーをマグカップの中に注いで掻き混ぜている間、シンジは冷蔵庫を漁って摘まめそうなものが
ないか探す。すぐに彼はチーズの箱を見つけてそれを取り出しアスカに訊ねた。

「チーズでいい?」

「何でもいいわ。ナッツか何かなかった?」

「それはないみたいだよ」

「じゃ、チーズで」

肩を竦めてから、アスカはマグカップを持ってテーブルまで移動した。
シンジもそれを追ってチーズをテーブルに置き、彼女とは向かい合わせの席に腰を下ろす。
席に着いた二人はマグカップを掲げて、視線で合図を送りあった。

「何に乾杯するの?」

「うーん……我らが親愛なる保護者に」

「ええ、ミサトに」

「これ以上こじわが増えませんように」

「とっととお嫁に行くことを願って。乾杯」

二人で声を揃えて乾杯を告げると、分厚い陶器のふちが低い音を立ててぶつかった。
そうして二人して初めの一口を含む。まるで示し合わせたかのように彼らの動作はぴたりと重なっていた。

「ん。美味しい」

「ああ、そうだね。もうちょっとお酒が多くてもいい気がするけど」

何気ない風を装ってシンジがそう言うと、アスカが怖い顔を作ってぎゅっと彼を睨みつけた。

「あんたはすぐそうなんだから。少しだから美味しいのよ。量を過ごしすぎると為にならないわよ」

「ミサトさんとは違うよ」

シンジがチーズを二つ手に取り、一つをアスカに差し出す。

「どうだかね。とにかく駄目よ。明日も学校があるんだし」

受け取ったチーズの包み紙を剥きながら彼女はしかつめらしく言い渡した。
それで納得したのか、シンジもチーズを一口齧り、もぐもぐと口を動かしてからまたコーヒーを啜った。

「漢文は宿題をやってたの?」

「それは終わったわ。今やってるのは復習。だってすぐに忘れちゃうんだもん」

拗ねたように口を尖らせて彼女は言うと、チーズをひとかけら口に放り込んだ。

「えらいね。一番の苦手なのに成績はそう悪くはないじゃない」

「だからやってるのよ。復習をしなくちゃあっという間にビリになっちゃう」

「そんなことはないよ」

シンジが微笑みかけると、アスカは微かに頬を染めてから得意げな表情を作った。

「あんたもちゃんと勉強しなさいよ。出来るに越したことはないんだし。そっちは何をやってたの?」

今度は彼女が訊ねる。

「定期報告書。まあ、早めに用意しとかないといつも僕はもたつくから」

いまだに所属している組織ネルフには定期的に報告書と称した身辺の事柄に関する書類を提出しなくては
ならないのだが、この少年はこれが嫌いだった。毎日自分の行動に記録をつけているわけでもなく、
日々何かしらの決意を抱くわけでもなく、発見があるわけでもない。つまり、書くことがない。
目の前に座る相棒の少女などはいつもそつなく提出しているようだが、シンジは毎度悩む。
以前に相談すれば難しく考えすぎるのだと言われ、なお説明を請えば自分で考えろと蹴り出された。
学生日記ではあるまいし、ネルフにおける職務関連の諸処の事柄を書きとめておけばいいだけで、
事実アスカはそうしているのだが、シンジはどうやら無味乾燥なそれではいけないと思い込んでいるらしい。
彼の父である司令がそれに目を通すかもしれない可能性と、あるいは彼の態度は関係があるのではと
彼女は勘繰っている。





それからしばらくの間、彼らはとりとめのない会話を楽しんだ。
友人のこと、学校のこと、ネルフでのこと、身の回りの些細なこと。
話の種は尽きない。
ここ数年のうちに彼らの関係は非常に良好なものに変化していた。
出会ってから一年ほどの昔の頃からするとそれは驚くべき変化で、おおむね二人ともその変化を歓迎しており、
喧嘩をすることも度々あるが、彼らはお互いにこの関係が気に入っていた。
テーブルに向かい合わせでコーヒーを飲んでいた二人だったが、それが大分減ってきた頃、ふとシンジが
そこから首を巡らせてリビングのほうを見ながら、場所を移らないかと提案した。
チーズはすでになくなっていた。
答えを返す代わりにアスカは席を立ってマグカップを持ったままリビングへと歩いていった。
シンジもそのあとについていくと、すでにカーペットの上に腰を下ろした少女が謎めいた表情で彼を見あげた。
躊躇いなく彼は彼女の横に腰を下ろす。
テーブルに隔てられていたときよりもずっと縮まった距離にお互い何を感じているのかは、二人とも相手から
読み取ることが出来なかった。

「ミサト、遅いね」

先に口にした言葉を再びアスカは少年に向かって言った。

「忙しいんだよ」

「そうね」

少しだけ低い声で彼らはやり取りをした。
テーブルに着いていたときの会話の続きを彼らは始める。
しかしそれもじきに言葉少なになって、ぽつぽつと一言二言交わすだけになっていった。
相変わらず夜は静かで、お互いの呼吸の音がやけに大きく聞こえていた。
時計の針が立てる音は時間以外の何かを刻むように意味ありげに耳に響いていた。
不意に、ちびちびとコーヒーを飲んでいたシンジがマグカップから口を離して、隣で同じようにゆっくりコーヒーを啜る
アスカの方へ顔を向けて、夜の静けさに遠慮するような低い真剣な声で言った。

「キスしたい」

アスカは目を伏せてマグカップの中で揺れるコーヒーの表面を眺めながら、

「駄目よ」

か細い声で返した。
シンジは彼女に向けていた顔を戻す。
二人はお互いに視線を向けないまま、同時にマグカップを口元に持ち上げてコーヒーを啜った。
お互いに続く言葉はない。
このまま時間が経つかに思えた。
しかし、今度はアスカのほうがシンジへ顔を向けて言った。

「来て」

彼の反応は素早かった。
マグカップを片手に持ったまま、もう片方の空いている手を床に突っ張らせて身体を支え、彼女に近づく。
あっという間に二人の顔の距離はなくなった。
唇が触れ合う。仄温かく、湿った柔らかい感触。お互いの唇からコーヒーの苦味と酒の甘味を感じる。
一度目はすぐに離し、二人は頬を上気させて見つめ合った。
少しだけ潤んだ彼らの瞳には、それぞれ数え切れない様々な意味と想いが溢れていた。
そして今度は、ほんの僅かに唇を開き互いに誘い合うように近づいて、先ほどよりもずっと真剣なキスをした。
二度目は彼らの間に距離ができるまで少し掛かった。
離れるときにちゅっと湿った音がして、二人は顔を一層真っ赤にさせた。
お互いにそれに気付いて赤い顔のままにやにやと笑った。
キスを終えると、彼らは言葉を交わすこともなく向き合っていた身体を元に戻して、コーヒーを口に含んだ。
相変わらず夜は静かで、聞こえる音は時計の針とお互いの呼吸くらいで、耳を澄ませばひょっとして
この騒がしい鼓動の音も相手に聞こえてしまうかもしれないと彼らはそれぞれ思いに耽った。
耳を澄ませばひょっとして、相手の心の中まで聞こえてくるかもしれない。
沈黙が彼らを包んでいた。
もうコーヒーは残り少ない。これを飲み終われば二人ともお互いの用事へ戻ってしまうだろう。
シンジはマグカップをカーペットの上に置いて、おもむろにアスカのほうを向いて先ほどのように身体を近づけた。
しかし今度はアスカは謎めいた表情で今しがたキスを交わした少年のことを見つめた。
そんな彼女の顔とふくよかに隆起した胸の間で視線を行ったり来たりさせてから、彼は言った。

「君のブラウスのボタンを外したい」

息を呑む気配がした。

「駄目」

少女の返事は不安げに揺れていた。
それを感じ取ったシンジは意地の悪い表情になる。

「嫌、じゃなくって?」

すっと手を伸ばす。
もう少しで彼の指が少女の胸元のボタンに掛けられる、というところで、不意にその手は柔らかく押しのけられた。

「もうすぐミサトが帰ってくるわ。だから、駄目よ」

先ほどの不安げな表情はどこかへ消えていて、アスカの瞳には悪戯っぽい光が宿っていた。
するとシンジもそれ以上迫るでもなく、大人しく引き下がって彼女に寄せていた身体を元に戻して
カーペットに置いたマグカップを取り上げ、口に運んだ。
アスカもまた少しだけコーヒーを口に含む。
どちらともなく彼らははにかむような笑みを浮かべた。
これは二人の間で交わされる一種の駆け引きで、無論今回が初めてではなかった。
けれどこの先に進んだことはまだ一度もない。
一体どちらが勝ちを収めるかはいまだ彼らにも分からないが、果たして負けたほうが悔しい思いをするかもまた、
彼らには分からなかった。
アスカは両手で包むようにマグカップを持つ。
まだ仄かに温かいその中身。
少しだけ口をつけ、上目遣いに隣を窺うと、シンジと目が合った。
マグカップで揺れる残り少ないコーヒーを、その仄温かさが消えてしまわないうちに二人は一気に口へ流し込んだ。
全て飲み干して顔を見合わせたシンジとアスカは共犯者めいた笑みを浮かべる。

「ごちそうさま」

とアスカ。

「うん。美味しかった」

シンジもそれに答える。真実コーヒーは美味しかったし、こんな他愛ない時間が何より楽しかった。
深い満足を覚えて、彼は後ろに腕を突っ張って身体を支えて仰け反らせ、大きく息をした。
休憩はそろそろ終わりだ。

「そうね。さってと、続きをやらなくちゃ」

明るい調子でアスカはそう言うと、勢いをつけて立ち上がり、頭の上で手を組んで一杯に伸びをした。
それを振り仰いだシンジは眩しいものでも見たかのように目を細めた。

「コップは僕が片付けとくよ」

「そ? じゃ、もう戻るわ」

邪気もなく微笑んだ彼女は、座ったまま伸ばされたシンジの手に自分のマグカップを渡した。

「適当なところで切りをつけなよ」

「それはあんたのほうよ。あーあ、ミサトの奴ほんとに遅いわね」

もう一度伸びをするアスカ。
シンジも立ち上がり、二人分のマグカップを手にキッチンまで歩いていく。
それらをシンクに置いて水を出し、スポンジに洗剤をつけて洗い始める。
少女はその後姿を不思議な表情で見届けると、何も言わずに自分の部屋へ戻るために歩き出した。
一度だけ、振り返る。
少年の背はいつも通りの日常の匂いしかしない。

「美味しかったわよ」

ぶっきらぼうに投げかけると、彼は微かに肩を竦めて、

「知ってるよ」

アスカはくすりと苦笑して、今度こそ振り返らずに自分の部屋へ帰っていった。





二つのマグカップを洗い終わるとコーヒーメーカやスプーンも全て洗い、チーズを食べた跡のごみも片付けて、
シンジはキッチンの電気を消した。
そのままリビングまでやってくると、やはりこの場所も誰もいなくなるのだからと電気を消した。
コーヒーに混ぜたウィスキーのためか、少しだけ胸が熱い。
時計の針はすでに二十二時三十分をとうに過ぎたところを指していた。
じきにミサトも帰ってくるだろう。
真っ暗なリビングで先ほどアスカがしたように一杯に伸びをすると、毎度自分を悩ませている報告書を
片付けるために彼は自分の部屋へと戻っていった。
しんとしたキッチンとリビングには二人の飲んだコーヒーとウィスキーの香りが名残を惜しむように微かに漂っていた。
仄かに温かく。











終わり





リンカさまからコーヒーの香り立つような素敵なお話をいただきました。

いつものお話とは傾向の違う、静かなLASという感じですね。

長々とした解説は不粋だと思いまする。

素晴らしいお話でした。皆様も読後にぜひ感想メールをお願いします。

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