結局翌朝までほとんど一睡もしなかった僕は、やっぱり父さんたちに心配そうな顔をされつつも、閉じそうな目蓋を時々擦って指で押し開けたりしながら、家 を出て学校へ向かった。雨が降っているのにひどく眩しくて目がしょぼしょぼする。徹夜なんてしたのは初めてだよ。あくびを連発しながらふらふら歩く僕の様 子はちょっと変だったかもしれない。
 途中で合流したトウジとケンスケからは目の下に隈ができていると言われ、学校へ着くなり教室へも行かず腕を引っ張られて保健室へ連行された。半分閉じた 目で僕はぼんやり友人たちと保健の先生とのやり取りを聞いていた。どうも、今にも倒れそうだから寝かせてやってくれと頼んでいるらしい。あれよあれよとい う間に僕は保健室のベッドへ横にさせられて、トウジとケンスケが最後に何か言っていたようだけど、それもよく分からないままに意識を失った。

「あたし、アスカ。ソウリュウ・アスカ。あなたは?」

「マ、マ、マイ・ネーム・イズ・シンジ・イカリ」

 初めて出会った外国人の可愛い女の子は、ちょっとたどたどしい日本語を話した。
 十歳の僕は間近で外国人に接するのは初めての機会だった。英語で話しかけられたりしたらどうしよう、ハローくらいしか言えないや、とどきどきしていたの だけど、実際に会ってみると彼女の口から飛び出してきたのは日本語だった。でも、父さんからその日の来客がアメリカ出身だということを聞いていた僕は緊張 のあまり、前もって練習していた英語の自己紹介をそのまま口にしてしまった。失礼な母さんが大笑いする中で僕は真っ赤っかになっていた。

「シンジというのね」

「イ、イエス」

 かちんこちんになって英語の返事をかえす僕のことを、彼女は笑ったりしなかった。その代わりに彼女は僕のほうへ手を開いて差し出してきた。慌てて僕がそ の手を取ると、彼女はぎゅっと握って、上下にニ、三度振った。こんな風に女の子と握手をするのも初めての経験だった。女子と手なんか繋げるかよ、っていう のが僕ら男子の共通認識で、当然僕だってそう思っていた。でも実際には、彼女と繋がれた手を振り払おうだなんて気持ちは露ほども浮かんではこなかった。そ れどころじゃなかった、というのもある。

「よろしく、シンジ」

 にっこりと笑うと頬が薔薇色に染まって、青い目が吸い込まれそうなくらい印象的だった。ようやく日本語を思い出した僕は、どぎまぎしながら返事をかえし た。

「こっ、こっ、こちらこそ。ソウリュウさん」

 花の蜜でも吸って生きている妖精みたいな笑顔が、一転してむっとしたものになった。こうして見ると、青い目はかなりの迫力だった。何がなんだか分か らなくて僕がおろおろしていると、彼女はゆっくりと言い聞かせるように発音した。

「アスカ」

「え?」

「ア・ス・カ」

「ええっ?」

 握手した手に力を込めて、ずずいっと迫ってくる白人の女の子を前にした僕は、白状すれば泣き出してしまう寸前だった。
 これが僕とアスカの出会い。
 清潔なリネンと消毒液の匂いに目を覚ました僕は、しばらくの間自分がどこにいるのか分からなかった。白いシーツに白いカーテン、白い天井。頭が働き出す まで寝そべったまましばらくぼんやりしていたら、じきにここが保健室だということに気付いた。周りへ視線を巡らせてみれば、カーテンの向こうに淡い人影が 見える。きっと保健の伊吹先生だろう。

「今、何時間目ですか」

 カーテンを開いて先生の後姿へ声をかけると、回転椅子を軋ませてこちらに身体を向けた先生はボールペンを指先でもてあそびながら言った。

「ああ、やっとお目覚めね。今は三時間目の最中よ」

「三時間目……」

 どうやら僕はかなり熟睡してしまったようだった。

「徹夜したんだって? 試験勉強かしら。でも頑張りすぎるのも考えものよ」

「はあ……すみません」

「で、あなたの名前は?」

「は?」

「朝お友達があなたを寝かせてやってくれってここに来たけど、まだあなたの名前も知らないわ。先生に教えてくれるかしら?」

「あ、えと、2‐Aの碇です」

「そう。それじゃ碇くん。三時間目もあと十分くらいで終わるし、2‐Aは今体育の授業のはずだから、休憩時間になるまでここでコーヒーでも飲んで行 きなさいな」

「はあ、でも、いいんですか?」

「いいのいいの。どうせ今から体育館に行っても何もできないわよ。ちょうどコーヒー淹れようと思ってたところだし、碇くんには先生の話相手になってもらお うかな。ね?」

 淹れてもらったコーヒーのマグを手に、僕は患者用の椅子に座って先生と向かい合った。伊吹先生は優しくて美人だと評判の若い女の先生だ。先生の組まれた 脚を包むストッキングに僕はちょっとどきどきしていた。
 僕自身は健康診 断の時くらいしか保健室へ来ないのであまり伊吹先生のことを知らなかったのだけど、実際に話してみると、どうやらかなり生徒に対して気さくに接する人のよ うだった。僕がミルク と砂 糖を要求した時も笑顔で出してくれたし。

「碇くんて人気あるのね。休憩時間のたびにお友達が様子を見に来てたわよ」

「うぇっ? そ、そんなことないですよ。どうせトウジとケンスケでしょ」

「ああ。朝の二人? 確かにその二人も来てたけど、他にも来たわよ。男子が何人かと、あとは可愛い女子も来たわよぉ」

 いかにも楽しげな口調の伊吹先生は細めた横目でこちらを見た。どうも生徒に対して気さくというよりは、暇を持て余しているだけのようにも思えてくる。

「朝の二人はね、体操服姿で他のお友達と連れ立って二時間目のあとに来たの。碇くんが起きてるかと思って。でも、まだ寝てたからすぐに体育館に向かった わ。面 白い子たちね。あとはね、一時間目が始まる前にぱっと一人だけで来た女の子もいたな」

「髪、短かったですか?」

「え? いいえ、髪は長かったわ。あの子、確か惣流さんだったわよね。生徒会の」

 アスカが来たのか。てっきり霧島さんかと思ったけど。
 それにしてもわざわざ様子を見に来るなんて、どういう風の吹き回しなんだろ。って、そういうアレってこと? いやいや、まさかね。

「眠ってるあなたの顔をじっと眺めてから、何にも言わずにすぐ帰っちゃったけど」

「はあ……」

「なになに、彼女なの?」

「ち、違いますよ」

「ふぅん。違うのかぁ。そっかぁ」

 にやにや笑いながら先生は身体を振り子みたいに傾けて言った。というか何をやってるんだろ、この人は。腰が痛いの?

「アスカはただのクラスメイトで別にそんなんじゃ」

「おおっ、呼び捨て? 怪しいなぁ〜」

 こうして三時間目の授業が終わるまでの間、僕は伊吹先生にからかわれることになった。ちょっともてあそばれちゃった気分。
 友達なのにファミリーネームで呼ばれるなんて納得いかない、というのが十歳のアスカの理屈らしかった。つまり僕がソウリュウさんと呼べば、それは僕が彼 女を友達だと認めていないということだ、と彼女は受け取ったのだ。それが彼女にとっての当たり前で、けれど僕にとっては当たり前のことではなかった。
 場所 は僕の家で、その場にいるのは僕の家族と彼女の家族だけだ。日本での最初の友達に対して、アスカは正しいと信じている自分の主張を通そうと躍起になってい た。止める人間は誰もいない。おぼつかない日本語と早口の英語、それにドイツ語らしき言語を繰り出す彼女と悪戦苦闘しながら僕はどうにか意思疎通を図って いた。
 こうなるとお互いに遠慮していても始まらない。額をつき合わせて異文化コミュニケーションする息子たちを互いの両親がどんな顔で眺めていたのかは知 らないけど、とにかくその日のうちに僕たちの間には妙な連帯感のある友情が築き上げられた。同じひとつの作業をともにやり遂げたといった類の連帯感だ。思 い返してもあれは大変な騒ぎだった。喧嘩してまでも彼女は僕とコミュニケーションを取るのを諦めず、僕もまた父さんたちに頼まれていたからという理由以上 に彼女の相手をしてやった覚えがある。
 結果として、アスカは欧米風にファーストネームで呼んでくれる友達を一人獲得することに成功し、僕はといえば人生初で女の子を下の名前で呼び捨てにする 義務を負った。アスカにひとつめの白星、僕のほうにひとつめの黒星がついた瞬間でもある。
 ただし、さすがのアスカも学校では我を通すのを避けたようだった。あまりにみんなが当然という顔をしてファミリーネームで呼んでくるので、これはおかし いぞと感づいたらしい。アスカと呼んでください、と一応何度かみんなに伝えたようだったけど、結局それに従ったのは一部の女子だけで、男子からはそのよう な猛者はついに一人も現れなかった。
 きっとカルチャーショックの連続だったろうと思う。言葉、文化、食事、何もかもだ。最初の頃はその手のことに戸惑うアスカをかなり頻繁に見かけた。子ど もだか ら順応が早い、というのがあったにせよ、精神的には決して楽ではなかったはずだ。
 でも、僕は彼女の弱音を聞いたことがない。その代わりに彼女の謎の究明やら特訓やら探索やらにはよく付き合わされたものだけど。
 初めておはぎを食べた時には、ひと口かじったあとにアスカの分のあんこをすべて僕が食べさせられ、テレビゲームをやる時には右脇に辞書、左脇に自動解説 機(つまり僕)を置き、箸の使い方を練習するといって母さんたちと一緒にラーメン屋巡りに駆り出され、といった具合だ。他にも日本人が海にいるぶよぶよし たエイリアンみたい な姿のなまこを食すると耳にした時には真顔の彼女から厳しく真偽を問い詰められたり、線香花火の心得を伝授したり、まあ思い出せば印象深いことはいくつも あ るんだけど。あとはそう、もち ろん日本語の勉強を一番手 伝ったかな。特に漢字の習得にかなりてこずっていた。小学一年生からの書き取りドリルとかやってたな。懐かしい。
 つまりはアスカにとって、僕は疑問をそのままぶつけることのできる相手だったんだ。初っ端からやり合った仲だからね。あれが分からない、それは何? こ れはどうしてなの? そういう疑問はまず両親以外では僕のもとに持ってきていたと思う。顔を見ていると陰ながら努力するなんて似合いそうにないんだけど ね。そうして、彼女はみんなの知らないところで必死になって努力して、今ではどこから見ても立派な日本人になったというわけ。やっぱりすごいよ。
 三時間目の終了のチャイムが鳴って、まだまだ話相手に飢えていそうな伊吹先生に休ませてくれたこととコーヒーのお礼を伝えて保健室から廊下へ出ると、体 育の授業からの帰りにちょうど通りかかったらしいアスカと出くわした。体操着入れを手に提げた彼女は僕の前で立ち止まり、ふんと鼻を鳴らして言った。

「やっと目が覚めたのね。徹夜したんだって?」

「まあね」

「馬鹿ね。徹夜なんかしたって次の日もたないことは分かりきってるのに。あんた、まだ顔色よくないわよ。寝足りないんでしょ」

「うーん。でもだいぶすっきりしたよ」

「お弁当食べると眠くなるわよ、絶対」

「あ、それはそうかも。困っちゃうな」

「ほんと、馬鹿シンジなんだから」

 いつもの悪態に僕は笑って、彼女の背後の廊下に視線をやった。保健室の前を通るこの廊下は、体育館から僕ら2‐Aの教室へ戻るための最短ルートには入っ ていな い。その証拠にアスカの他には誰も僕たちのクラスメイトはいなかった。
 もう一度アスカに視線を戻すと、僕は何故かそこから釘付けになって動けなくなった。これまでそんな風になったことなんてないのに、どうかしている。彼女 が可愛いのなんていまさらのことで、どうということのない事実に過ぎない。なのに僕は今、アスカの白くて小さな手とか、ピンク色で小ぶりな唇とか、真っ青 な瞳を縁取る金色の長い睫毛だとか、とにかく色んなところが急に気になりだして、そこに触れてみたいと強く思った。こんなことを思ったのは初めてだった。
 僕の視線に晒されて、アスカは落ち着かなげにスカートの裾を触った。

「やだ、シンジ。どうしたの?」

「あのね、アスカ……」

「あ、おーい、シンジー!」

 僕の声を遮るように届いた大声の主は、廊下の端からどやどやと騒がしくこちらへやって来た。もちろんそれは体操服姿のトウジとケンスケだった。

「起きたんか。朝に顔見たら死にかけのパンダみたいになっとったからびっくりしたで。いくら試験前やゆうてもシンジは徹夜するほど勉強でけんわけやないや ろ。どないしたんや」

「いや、まあ、何となく?」

「何となくかいな。そりゃしゃーないわ。って、うおっ、惣流がおる! 自分、何でこないなとこにおんねん。しかも、もう着替えとるやん。早っ! は はーん、さてはセンセのことが気になっていてもたってもおれんくなったか。うほほ、さすが夫婦やのー」

 僕、トウジってすごく勇敢なのか、それとも頭蓋骨の中に脳みそじゃなくておからでも詰まってるんじゃないかって時々思う。蹴られて痛い思いするのは経験 上分かっているはずなのにさ。やれやれ。

「うっさいわね! 誰もシンジなんかの様子を見に来たりしてないわよ。体育のバスケで怪我したから保健室に来ただけよ」

 ローキックを食らって悶絶するトウジに向かってアスカは冷たく言った。

「怪我ぁ? どこ怪我したんだよ」

「手首ひねったの。じろじろ見ないでよ、ヘンタイ」

 ケンスケが疑わしそうに訊ねると、アスカは彼をぎろっと睨みつけて言い返した。本当にアスカは口が悪いなぁ。どこでこんな言葉を覚えたんだろ。素の彼女 はもっと優しいはずなんだけど、おかしいなぁ。
 そうしてアスカは、トウジ・ケンスケのついでみたいに僕のことも睨みつけてからぷいっと顔を逸らして、そのまま本当に保健室に入っていった。怪我をした というのは嘘じゃないらしい。何だ。やっぱり僕のお見舞いに来てくれたわけじゃないんだ。

「ちぇー。あいつ、ほんっまに性格悪いわ。何が怪我やねん。どっこも腫れとらんかったやないかい」

「まあまあ、トウジ。いいから教室戻ろうよ。着替える時間がなくなっちゃうよ」

「センセは甘いねん。そないなことばっか言うてると、惣流のケツの下で紙みたいにぺらぺらになるで」

「ならないよ」

「どうだかねぇ」

 まったくこの二人ときたら、相変わらずなんだから。

「ほら、行こうよ。そういえばトウジは委員長にノート返したの?」

「うぁっ? 返したで。何やねん、急に」

「次は理科のノート借りるんだよな」

「ああん、別に言わんでもええやん、ケンスケ」

「へー」

 こうやって馬鹿話をしながら、僕たちは教室へ戻っていった。アスカに言いかけた言葉がトウジたちの乱入で途切れたままになっていることを僕は気にしてい た。ただし、一体どんなことを口走ろうとしていたのか、自分でもよく分かっていなかった。だから、あれでよかったのかもしれない。
 四時間目、アスカは左手首に湿布を貼っていた。彼女が僕を好きだなんて、やっぱりありそうもない。だってそのあとも彼女の様子はいつも通りだったし、放 課後まで特に会話もなくその日は終わったもの。霧島さんほどとは言わないけど、本当に好きでいてくれるなら、もうちょっとは醸し出す何かがあってもいいは ずだ。でも、僕には何も感じ取ることができなかった。
 結局こんなものだよ。僕だって別にアスカのことなんて特別何とも思ってないさ。廊下で話した時は寝起きでどうかしてたんだ。好きとかどうとか、そんなの は関係ないね。ほんとにほんと。





 母さんの怒鳴り声で目を覚ましたのは、かなり遅刻ぎりぎりの時間だった。目覚まし時計は電池が抜かれて床に転がっていた。どうしてもっと早くに起こして くれなかったのかと抗議する僕に、何回も起こそうとしたけど起きなかったのはそっちだと逆に母さんは怒った。どたばたと慌しく用意をして、朝ごはんを食べ る暇もないから牛乳を一杯だけ飲んで、家を飛び出した。今日も外は大雨だった。
 走ったおかげでどうにか遅刻せずに済んだけど、その代わり朝からぐったりと疲れてしまった。もうほとんどのクラスメイトが登校してきているみたいで、教 室はざわざわと騒がしかった。席について机の上に身体を投げ出すと、僕の背中に重たいものが乗っかってきた。

「センセがぎりぎりに来るなんて珍しいやないの。また徹夜か?」

「トウジ、重い」

「おおう、もっと重くしたろ」

 何を思ったのか、トウジは机に手をかけて無理矢理僕の身体を押し潰し始めた。もう本当に意味が分からないな、こいつは!

「いたたたたっ! 痛い痛い!」

 きーんこーん、とチャイムの鳴る音で幸いにしてトウジは離れてくれたけど、ムカついたのでパンチを一発お見舞いしてやった。でも、ぐほぉぅ、とか大袈裟 にリアクションしているトウジを見ていると馬鹿らしくなってくる。やれやれ、まったく。朝から疲れるよ。お腹も空いているしさ。
 僕の上げた悲鳴はクラスの注目を集めてしまったらしかった。チャイムが鳴ってから、先生がやって来てショートホームルームが始まるのをみんなが待ってい る間に、斜め前の席のアスカがこちらを見ているのに僕は気付いた。彼女は馬鹿にしたように目を細めると、声を出さずに口をぱくぱくさせてメッセージを伝え てきた。

 ――ばーか。

 それからぷいっと前を向いてしまった。僕だってしたくてあんなことをしてるんじゃないんだよ。ただトウジのノリに付き合っているとああなってしまうだけ なんだ。本当だよ。
 斜め後ろからアスカの横顔を眺めて僕は必死にテレパシーで言い訳を送ってみた。でも通じる気配はなかった。そのあとすぐに先生がやって来てショートホー ムルームが始まった。その間もずっとアスカのことを眺めていた。
 いつもより彼女の頬っぺたがすべすべしているように見えるのは目の錯覚かな。うん、錯覚だな。赤茶色の髪から覗く小さな貝みたいな耳とか、シャツを押し 上げている胸の膨らみだとか。別にそんなものに目を奪われたりはしてない。アスカだからっていう理由ではね。そうだよ、霧島さんの胸だってすごく温かくて 柔らかくて、僕はあの時そんなことを考えて密かに喜んでいたんだ。アスカだからどうとかじゃない。女の子なら何でもいいんだ。男子なんてそんなものだよ。
 担任の先生が何か面白いことを言ったらしかった。みんなが一斉に笑い声を上げて、それに一人取り残された僕は相変わらずアスカだけを見つめていた。口を 開いて楽しそうに笑う彼女の顔。
 僕は頭を抱えて机に顔を伏せた。
 ああもう! やっぱり好きかも!





 でも、自覚したのはいいけど僕は落ち込んでいた。どう考えても僕には告白なんてできそうもない。しかもあのアスカが相手だ。笑われて終わりになる気がす る。
 朝のショートホームルームでの自覚から、僕はもんもんとした気分で時間を過ごしていた。外が大雨だというのがまた気分にぴったりだよ。このままだとじめ じめした僕の周りにきのこが生えてきそうだ。
 霧島さんは本当にすごい。一体どれだけの勇気があの柔らかい身体の中に隠されていたんだろう。告白を断った僕の台詞じゃないかもしれないけど、どうすれ ばそんな勇気が得られるのか教えて欲しいくらいだ。そんなこと言えるわけないけどね。謝るのは禁止だけど、今度こそ笑顔で殺されそうな気がする。バスケッ トボールをドリブルしながら笑顔で追いかけてくる霧島さんを想像して、僕はぶるっと震えた。怖い、怖すぎるよ。
 転機が訪れたのは放課後だった。借りたノートを学校の外でコピーしてきて、すぐにそれを委員長に返すために戻ってくるというトウジのせいで、僕は珍しく 帰りが一人だった。下駄箱へ向かうために2‐Aの教室がある二階から一階への階段を降りていると、背後から呼び止められた。
 聞き違いようのない声だ。僕が振り仰ぐと、アスカが妙にちょこちょこした動きで傍まで駆け下りてきた。何だか周りを気にしているみたいだ。

「どうかした?」

 アスカはかばんを持っていなかった。まだ帰りではないのだろう。彼女は長い髪を指に巻きつけながら言った。

「シンジさ、昨日は徹夜とかしなかったの?」

「へ? してないけど……」

 何だ何だ?

「テスト勉強頑張ってるんでしょ?」

「まあ、一応」

 徹夜の理由はそれじゃないけどね。

「あたしも今回のテスト範囲で分からないとことかあるのよね。あんたはどう? 理系が苦手でしょ」

「ああ、まあね。数学と理科でちょっと」

「うんうん。あたしも国語とかやばいのよね」

「へぇー」

 一体何が言いたいんだろう?
 僕は階段の段差で少し高いところにあるアスカの顔を見つめた。彼女はちょっと唇を噛んで、含みのある眼差しを向けてきていた。じっと僕のことを見つめて きていた。その眼差しは何かを期待しているようにも思えて、僕をすごく悩ませた。
 これはひょっとして、ひょっとするの? ここが頑張りどころだったりする? 勘違いだったりしたら笑えないよ。
 ぎこちない沈黙が僕たちの間にその長い身体を横たわらせた。こんな風に僕たちが向かい合ったことはかつてなかった。アスカはいつだって僕に対して言いた いことを言ってきたはずだし、こちらだって彼女の前でこんなに緊張したことはなかった。
 心臓は打楽器みたいに大きな音を立てていた。僕は汗ばんだ手のひらを何度か握ったり開いたりした。背中を汗が流れ落ち、喉がからからに渇いていた。お互 いをちらちらと窺う視線は逸らしてはまた向けられというのを繰り返していた。
 アスカは何かを待っている、と僕はその表情を見て思った。彼女は僕に何か期待している。でも、口では言い出せないから必死になって視線で伝えてこようと している。
 確信はなかった。それでも、僕は思い切って勘を信じてみることにした。

「そうだ、よかったら数学と理科、アスカが教えてくれないかな……、なんちゃって」

 ああ、なんちゃってなんて語尾につける僕はすごく臆病だ。でも、アスカはちゃんと答えてくれた。

「そ、そうね。あたしなら数学と理科は完璧だから、教えてあげてもいいわよ。ただし、ただじゃ教えてあげられないわね」

「あ、それなら僕が国語を教えてあげる……、っていうのはどう、かな?」

 言った瞬間にしまった、と思った。ケーキを奢ってあげるとかのほうがよかったかな。四年前のアスカじゃあるまいし、教えてやるなんて言われて素直になる ような甘い相手じゃないことは分かりきっていたのに。うわぁん、後悔先に立たず。
 だから、てっきり僕の提案を馬鹿にして断ってくると思っていたんだけど、意外なことにアスカは素直に頷いてくれた。

「う、うん。いいんじゃないかしら? まあ、あんたなんかに教わらなくたって自分でやろうと思えばできるんだけどさ、別にそれで構わないわよ」

 アスカの言葉に僕は安堵するとともに少しムカッと来た。本当に口が悪いったら。もう、しょうがないな。
 ところが、僕の考えていることが表情から伝わったのか、アスカは慌てたみたいに付け足した。

「あ、でもでも、教えてもらうほうがやっぱり効率がいいと思うの。一人でするより二人のほうが、ほら、協力して早く勉強が進みそうでしょ?」

「そ、そうだね。じゃあ場所……」

「うん。場所ね。えっと……あたしの家」

「僕の家にしよう……と思ったんだけど、まずかった?」

 僕たちは同時にそれぞれの家を提案して、顔を見合わせた。すれ違う時に道を譲ろうとして同じ方向へよけてしまうみたいな気まずさがあった。

「ううん! まずくない。それでいいわ、シンジの家で。でも、今日はあたし、駄目なの。明日の放課後でもいい?」

「うん、分かった。明日の放課後、僕の家で」

 どうにかこうにか上手く行ったようだった。自分でも信じられなかったけど、アスカは僕の提案にまったく不満を抱いたりはしていないようだった。それどこ ろか随分乗り気みたいだ。珍しく僕の勘は当たったのだろうか。でも、そうすると、つまりアスカは僕と一緒に勉強したがっていたということになる。それはつ まり、僕のことが好きだから? え、冗談ではなくて?

「それじゃ明日。一度うちに帰ってからあんたんちに行くから。待ってて」

「分かった」

「じゃあね」

「うん」

 笑い合ってお互いに手を振ると、アスカは急に回れ右して階段を駆け上がった。そしてそのまま廊下を折れ曲がって行こうとしたんだけど、曲がり角の陰から 女子生徒が出てきて、出会い頭にぶつかりそうになったアスカは「きゃっ!」と悲鳴を上げて飛びあがってよけた。それからぶつかりそうになった相手へ謝り、 一度こちらへ振り返ってから照れ笑いのようなものを浮かべると、彼女は横歩きして曲がり角の向こうへ消えた。
 僕はぽりぽりと鼻筋を掻いてから、一段一段階段を降り始めた。初めはゆっくりだったんだけど、次第に早足になって、いつの間にか僕は一段飛ばしに階段を 駆け下りていた。
 自分の部屋に戻ると、僕はベッドの上にかばんをぶん投げた。本当は叫び出したいくらいだったけど、そんなことをするとご近所迷惑だし、母さんが息子の気 が狂ったのかと飛んでくるので、代わりに見えない相手に向かってこぶしを交互に繰り出した。パンチ、パンチ!
 少しだけ鍛えられた気がしたのでシャドウボクシングにもう満足した僕は、肩で息をしながら冷静になって部屋を見渡してみた。どうも少し片づけをする必要 があるみたいだ。もともと僕は散らかしたりしないほうだし、母さんが掃除しているから汚いということはないけど、一応アスカが来るんだから漫画とか楽譜と か意味不明のがらくたとか、余計なものは全部本棚や押入れに納めよう。あ、でもよく考えたら片付けだけでいいのか? 季節は梅雨、窓は締め切ってじめじめ した空気がこもっている僕の部屋は、ひょっとして臭うんじゃないの? ふんふんすんすんと臭いを嗅いで確かめようとしたんだけど、どうも自分ではよく分か らない。でも、一度気になりだしたら放っておくわけにはいかない。アスカに嫌がられたりしたらと思うとぞっとする。大変だ。ファブリーズ買ってこなきゃ!





 インターホンが鳴った瞬間に素早く反応した僕は、モニターの映像でアスカの姿を確認すると、今開けるからと伝えて玄関へ走った。ドアノブに飛びついて深 呼吸をひとつすると、僕は唾を飲み込んで心の準備をした。別にアスカが家に来ること自体は初めてというわけではないんだけど、こんなに緊張したことはな い。
 ドアを開けると、そこにアスカはいた。広げられたスカイブルーの傘の陰から青い瞳をこちらに向けている。彼女は私服だった。僕は女の子の服なんてよく知 らないからどう言っていいのか分からないけど、とにかくすごく可愛くて、霧島さんに見せてもらった雑誌に載っていた一番可愛いモデルの女の子と同じくら い、いやそれ以上に可愛いんだ。カラフルでポップでキュートで何だかふりふりとかひらひらとかしてて、中学校に入ってからはあまり私服のアスカを見た記憶 がない僕 は、あまりに彼女が女の子らしくてショックを受けていた。うわああっ、何だこの可愛い生き物は!
 いや、待て! 落ち着け、落ち着くんだ、碇シンジ。意識を集中しろ。何か他のことを考えて心を鎮めるんだ! 1192作ろう鎌倉幕府!
 呪文の効果によって無事に冷静さを取り乱した僕は改めてアスカを見た。学校から家に帰ってからわざわざ着替えて来るなんて、少しは僕のことを意識してく れているの かな。可愛い格好を見せたいとか。僕だって制服じゃなくてお気に入りの服に着替えているから、アスカもそういう風に考えてくれたんだったらいいな。
 玄関の中に招き入れると、アスカはお邪魔しますと小さな声で言って靴を脱いだ。先に上がって彼女が靴を脱ぐのを見ていた僕は、彼女がスニーカーとかでは なくて、踵の高いサンダルみたいなのを履いていたことに少しどきっとした。これじゃまるで本当に女の人みたいだ。って、もちろんいつもの彼女が男みたい だって意味じゃないけどさ。
 できれば母さんにちょっかいをかけられることなく済ませたいと思っていた僕は、さっそくアスカを部屋へ案内しようとした。ところが、物見高い母さんはい ち早くリビングから顔を出してアスカの姿を見つけると、すごく高い声で「あらっ」と言った。

「なあに、シンジ。一緒に勉強するお友達ってアスカちゃんのことだったの?」

「そうだよ。だから何?」

 僕がげんなりしながら答えると、すぐに続けてアスカが母さんに会釈して言った。

「こんにちは。お邪魔します、おばさん」

「はい、こんにちは。アスカちゃんがうちに遊びに来てくれるのなんて随分ひさしぶりねぇ」

「勉強しに来たんだよ。遊びにじゃない」

「ごめんなさい。ごぶ……ごぶたさ?」

「ご無沙汰、ね」

「あ、それです。ご無沙汰してしまって」

 僕の言葉を完全に無視して母さんはアスカとやり取りをしていた。この人は本当に息子の主張を屁とも思ってないな。アスカもアスカだよ。母さんに調子を合 わせちゃってさ。ねえ、こんなところで話してないで早く僕の部屋へ行こうよ。おーい、聞いてますかー。

「アスカちゃんたら丁寧ねぇ。いいのよ、どうせうちのシンジなんか相手にしたって大して面白くないでしょ」

「そ、そんなことないですよぉ」

「あらそう? よかったわね、シンジ」

 余計なお世話だよ、うるさいな!
 アスカが僕の部屋に入ったのは一体いつ以来のことだろう。まだ小学生の頃だったように思う。母さんからやっとの思いで逃れることができ、アスカを部屋ま で案内すると、彼女は妙に大人しい様子できょろきょろしながら部屋の中に入った。
 二人で勉強をするために、僕は部屋に納戸から引っ張り出してきた小さなテーブルを運び込んでいた。そこに座るようアスカを促して、僕は一度飲み物を取っ てくるために部屋を出た。また母さんに邪魔されたくはないからね。台所へ行くと案の定鼻歌を歌いながらお盆にお菓子を積んでいる母さんの姿があって、絶対 にタイミングを見計らって僕の部屋に突入する気だったに違いない。母さんは僕の姿に気付くと、にやっといやらしい笑みを浮かべて言った。

「アスカちゃんが来るならそう言えばいいのに。シンちゃんったらもう、秘密主義なんだから」

「うるさいなぁ」

「こういうことに興味がないのかと思えば、ちゃっかりしちゃって。うんうん。やるな、おぬし」

 誰がおぬしだよ。妙なだみ声出さないでよ。

「ばっかじゃないの。飲み物とお菓子、僕が持ってくからね」

「えー。母さんが持ってってあげるわよぅ」

「お断りします」

「お断りしないで」

「します! テスト勉強するんだから邪魔しないでよ」

 部屋に戻るとそこにはアスカがいた。もちろん、さっき来たばかりなのだから当たり前のことなんだけど、その事実に僕は感動してしまって思わず開け放った ドアのところで立ち尽くし、彼女に見入ってしまった。
 何故って、目の前のこの当たり前だという事実は、本当はすごく入り組んだ偶然と僕の努力と彼女の意思によって保たれているものだから。四年前アスカが日 本に来なければ、彼女のお父さんと僕の父さんが同じ職場でなければ、僕たちが同じクラスにならなければ。僕が彼女のことを好きになって、勇気を出してここ に誘わなければ。そして彼女がそれに応えなければ。
 そういうものが積み重なって、今アスカはここにいる。まるで奇蹟のように。何かひとつでも欠けていれば簡単に失われてしまっていただろう奇蹟のように。
 女の子座りをした彼女は飲み物とお菓子が載ったお盆を持ったままぼけっと突っ立っている僕のことを不思議そうに見上げていた。今の彼女にはさぞかし僕の ことが間抜けに見えているのだろう。一方の僕はといえば、彼女の折り曲げられた脚に夢中だった。短いスカートのせいで太ももの中ほどから露わになってい る、真っ白で細く滑らかで柔らかそうな彼女の素足。自分がまるで変態に思えてきて僕はひどく恥ずかしかった。

「座らないの?」

 アスカは不思議そうに訊ねた。

「あ、うん。これ、ジュース。お菓子もあるから」

「ありがと。実はすっごく喉乾いてたの」

 僕がコップを手渡すと、アスカは口をつけて一気に半分ほど喉の奥に流し込んだ。僕はぽかんとそれを眺めていた。どうも彼女が好きだと自覚してから、彼女 から目を離すのが難しくなったみたいで、いつも僕は馬鹿みたいに見つめてばかりいた。コップから口を離すとはーっと息を吐いて、彼女はこちらの視線に気付 いてちょっと顔を赤くさせた。

「何よ。外暑かったんだからしょうがないでしょ」

 どういう風に答えていいのか分からなかったので、僕もジュースを飲むことでそれを誤魔化した。本当はジュースを飲み込むたびに動くアスカの白い喉に見惚 れていた、だなんてとてもじゃないけど言えない。そんなことがバレた日には、彼女のキックで全身の骨をばらばらにされてしまう。そして嫌われる。折れた骨 はいつかくっつくけど、心のほうはそうもいかない。

「さ、それじゃ勉強のほうを始めましょうよ。数学からでいい?」

 アスカはかばんから数学の教科書と問題集を取り出しながら言った。

「え、う、うん。アスカの国語からしなくていいの?」

「それは最後でいいわ。あんたのほうが多いからまずはそっちを片付けましょ。あたしがみっちり教えてあげるんだから、あんたも真面目にやるのよ」

「りょーかい」

 僕はおどけて敬礼をしてみせた。そうだ。勉強もそれはそれで真面目にしなくちゃ。一応そういう目的でアスカはここに来ているんだしね。あとのことはま あ、その後の雰囲気によってどうにかこうにか考えるとしよう。

「よろしい。それじゃ分かんないとこはどこかな? 先生が教えてあげちゃうっ」

「はーい、先生。ここが分かりませーん」

「んー? どれどれ?」





 四角いテーブルにはすに座って額を寄せ合いながら、僕たちは三時間近く勉強していた。気が付けば時計の針はもうじき午後七時を指そうとしており、雨も 降ってい るために外はもう真っ暗だった。
 アスカの教え方はとても分かりやすくて、僕がどうしても理解できなくて詰まっていたところが、まるで栓がぽんと抜けるみたいに解決した。本当に彼女は頭 がいいのだ。きっと高校や大学はいいところに行くんだろうな。
 一方の僕はお世辞にも教えるのが上手とは言えないし、正直なところアスカの相手をするのに舞い上がっていた部分があるから、本当に彼女の役に立てたかど うかは分からない。加えて国語、つまり日本語は彼女にとって本来は外国語で、そもそも感覚的なハンデを負っている。その差を努力で埋め合わせるのがと ても難しいということは、僕にでも容易に想像できる。理屈として分かっても感覚として分からない。彼女のそういった疑問に僕がどれほど答えられたのか自信 はない。
 それでもアスカは最後には僕に感謝してくれた。ありがとう、シンジのおかげで助かったわ、と。三時間も集中していたから少し疲れた顔で、彼女は笑った。 僕は自分のふがいなさに悔しく思うのが半分、そして彼女と一緒に時間を過ごして礼まで言われたことに喜んでいるのが半分といったところだ。
 ところが、だ。問題がまだひとつある。これで確かに僕たちは期末試験で少しでもいい点が取れるようになったかもしれない。なるほど、勉強会は成功だっ た。いっそ気持いいくらいにね。つまり、僕たちは三時間の間くそ真面目に試験勉強に取り組み続けて、少しもいい雰囲気になったりはしなかったのだ。そんな 気配はかけらも見出せなかった。
 アスカは凝ってしまった身体をほぐそうと腕を高く上に伸ばしていた。うーん、と声を出しながら気持よさそうにしている彼女の袖口から覗くわきにち らちらと目を奪われながら、これはどういうことだろうと僕は考えていた。
 ひょっとして、アスカはやはり僕のことを何とも思っていないんじゃないだろうか。彼女を勉強に誘って、向こうも応じてくれたものだからてっきりその気が あるのかと期待していたけど、もしかしたらまったくそんな気はなくて、ただ昔と同じような気分でここにいるだけかもしれない。僕だけが一人で勘違いして舞 い上がっているだけかもしれない。
 そう考えると僕は目の前が真っ暗になるような気がした。僕は確かに日本で一番最初の彼女の友達だけど、それも偶然の賜物で、もしもそうでなければきっと 彼女と親しく会話をすることも、まして彼女のことを名前で呼び捨てたりすることもできなかったに違いない。僕なんて少しチェロが弾けるというだけで、人が 十人集まればもう埋もれてしまうような何の取り柄もない平凡な男子に過ぎないんだもの。
 そんな僕のことを、一体どうして彼女が好きになってくれる?
 勉強を終えて寛ぐアスカの様子は至って普通だった。僕の部屋で二人きりになっていることを特別意識している気配もない。最初の頃こそひょっとしてという 期待を抱いていたけど、時間が経過するにつれ、その期待は小さくしぼんでいった。今となってはすっかりぺしゃんこになって、僕はほとんど諦めかけていた。 すごく悔しくて悲しくて恥ずかしい。こんなに居た堪れない気持ちになったのは初めてだった。何が悪かったのか。どうすればよかったのか。これからどうすべ きなのか。そういう思いが僕の中でぐるぐるしていた。

「これで今回の試験は大丈夫そうね」

「え? あ、そうだね」

 ミキサーでかき回されたみたいになっている思考の渦から、何とか僕はまともな言葉を探し出して返事をした。頭の中でぐるぐるやっているうちに僕はどんど ん深みに落ち込んでいっていた。悪い兆候だ。泣き出してしまいそうだった。

「わっ、もうこんな時間。お腹空いちゃった! 実は少し前からお腹が鳴ってたのよね。恥ずかしくてずっと我慢してたんだけど。聞こえてた?」

「ううん。全然気付かなかったよ」

「よかった。それじゃ、そろそろ帰らなくちゃ、ね」

「そ、そうだね」

 調子を合わせて僕が答えると、彼女は唇をぎゅっと結んでかばんに手早く教科書やノートをしまい始めた。僕はとっくになくなっていたジュースのコップのふ ちを意味もなく指で弾いた。そうしているとタイミングよくノックの音がして、僕が返事をすると母さんが顔を覗かせて言った。

「二人ともお勉強は終わったの?」

「あ、ごめんなさい。遅くまでお邪魔してしまって」

 アスカは申し訳なさそうに母さんに言った。

「そんな気を遣わなくていいのよ。それよりアスカちゃん、もう時間も七時だし、よかったらうちで晩御飯食べてく?」

「いえ、そんな、悪いですから。もう帰りますし」

「あらそう? 別に遠慮しなくたっていいのよ? 今日はうちの人も遅くなるからいないし」

 母さんは頬を手で押さえて、意味深な視線をこちらに向けてきた。母さんなりに息子のことを応援しているつもりなのか、それとも単純に母さん個人としてア スカのことを気に入っているのか。案外、娘のいる気分を味わいたいだけなのかもしれない。でも、いずれにせよアスカはあくまで固辞するつもりらしかった。

「うちもあたしが帰らなくちゃママが一人になっちゃうから。あの……」

「あら。そう言われちゃうと無理強いできないわね。アスカちゃんはお母さん思いなのね」

 さすがの母さんも仕方がないなという風に笑って引き下がった。アスカは恐縮したように母さんに頭を下げた。

「それじゃ、時間が時間だからおうちに電話してからお帰りなさい。シンジにも送らせるから」

「いえっ、一人で大丈夫です! 距離だって短いし、そんな送ってもらわなくたって!」

 両手をぶんぶん振ってアスカは言った。そんなに全力で拒否されるとますます傷つくんだけどなぁ。くすん。

「まあうちの子じゃあんまり頼りにならないかもしれないけど、囮くらいにはなると思うから、連れてってやってよ。ね?」

 うるさい。母さんは黙れ。

「で、でもぉ」

 アスカはいかにも困ったという表情で助けを求めるようにこちらに視線を送ってきた。僕は軽いため息をひとつ吐き出した。困っているアスカには悪いけど、 ここで送ると言わな ければ僕の男としての立場がない。たとえ嫌われたっていざという時は身を盾にして彼女を守り……、空しいからやめよう。とにかく、アスカの家まで近いとは いえ雨が降っていて暗い夜道だ。送らないわけにはいかないじゃないか。だから、そんな可愛い顔しても駄目。

「送ってくよ。だからアスカは家のほうに電話をして。それから母さんは早くあっち行って」

「なーによ。人を邪険にして。少しはお母さん思いのアスカちゃんを見習ったら? ね、アスカちゃん?」

 母さんの妄言にアスカは何も言わず弱り切った笑みを浮かべた。まったくどっちが子どもだか分かりゃしない。

「いいからほら、行ってよ」

「はいはい。邪魔者は消えますよ。しっかりアスカちゃんを送り届けるのよ。それからアスカちゃん。またいつでも来てね。お母さんにもよろしく伝えておい て」

「はい」

 鬱陶しい母さんがいなくなると、思わず僕は大きなため息を吐き出した。すると、アスカがおかしそうにくすくす笑った。やれやれ。彼女は笑っていられるか もしれないけど、家族の僕にとってはそうそう笑いごとじゃないんだよ。我が家のゴッドマザーときたら。
 でも、母さんの乱入のおかげで気が紛れたのは怪我の功名という奴だった。何しろ、昨日から今日にかけて、僕は一世一代の勘違いをしたのかもしれないんだ からね。本当はアスカを送っていくことなんてこれっぽっちも頭に浮かんでいなかった。あれこれ考えるのに手一杯だったんだ。うじうじしているって自分でも 情けな く 思うけど、なかなか変えられない。そういうところを直せばアスカも好きになってくれるかな。いや、それはまた別の問題か。はぁっ、諸行は無常だ なぁ……。
 アスカが自宅に電話をかけている間、僕は教科書類をひとまとめにして勉強机に置き、しとしとと雨に濡れる外の景色を窓から眺めていた。そうしながら、結 局何も進展が得られなかった今日のことを僕は思い返していた。
 きっとアスカにとっては僕は十歳の頃から変わらない友達の一人に過ぎないんだろう。でなければ思春期にも突入した十四歳の女の子が一人で同い年の男の子 の部屋にのこのこやってくるわけがないもの。だって一対一だよ? この際母さんのことは遠い彼方においておくけど、普通は二人きりの密室なんて多少なりと もそういうつ もりがあると期待されて当然だよ。そりゃ僕は紳士だから変なことをしたりしないけどさ。いや、嘘だ。臆病だからだね。けれど、そんな臆病な僕だって心の中 では色々考えているし、現に彼女に吸い寄せられる視線までは誤魔化せなかった。
 何もかも自分だけのものにしたいと言った霧島さんの言葉が今になって分かるよ。僕はアスカのことを何もかも自分だけのものにしたい。この好きは、そうい う好きだったんだ。好きだから見ていたい。一緒にいたい。触りたい。僕の腹の底のほうから湧き上がって来る、ぞくぞくするくらいに大きな気持ちのかたま り。こういうことだったんだ。
 でも、アスカは僕のことを好きではないかもしれないという、ただそれだけのことが、こんなにも分厚い壁となって僕たちの間を塞いでいる。

 硬い、硬い心の壁だ。

 その壁を乗り越えるのは、ひどく難しい。相手を傷つけ、自分自身も傷つきながら、やっと乗り越えた先に初めて触れることができる温かい体温を、本当に手 に入れることができるなんて保証はどこにもない。どこにもないんだ。
 母親との通話を終えたアスカは携帯電話をしまって、窓際に立っている僕のほうを見上げて言った。

「ねえ、シンジ。本当にいいのよ、わざわざ送ってくれなくたって。近いんだし、あたし、一人で帰れるわ」

「別にいいよ。送ってくくらい何でもないし。それより帰る用意はできた?」

「うん……」

 アスカは俯いて足元に視線を落とした。少し無愛想すぎたかもしれない。僕は心の中で舌打ちして自分を戒めた。駄目だ駄目だ、こんなことじゃ。彼女は何も 悪くない。八つ当たりなんてみっともないぞ、碇シンジ。

「ねえ、シンジ」

 テーブルの表面をそっと手のひらで撫でながら、俯いたままアスカが僕の名前を呼んだ。

「何」

「今日はありがとう。色々教えてくれて」

「いいよ。僕のほうがたくさん教えてもらったみたいだし」

「ふふ、確かに。ま、当然ね。でも、ちょっと懐かしかった」

「懐かしい?」

「ほら、昔もこうやって日本語や漢字を教えてくれたでしょ。何となくその頃のことを思い出しちゃって」

「ああ……そのこと」

 昔のことを思い出した、か。確かに昔この部屋で同じようにして二人で過ごしたことはあるけど、僕のほうはもう昔とは違う。今の僕はアスカのことが好きで 好きでたまらなくて、す ごく勇気を出して誘ったんだ。勉強にかこつけてでもいいから、少しでもアスカと仲良くしたい。彼女だって同じように求めているかもしれない。そういう期待 さえ抱いて。でも、アスカは昔と同じ気持ちであの時間を過ごしていたんだろうか。勉強しながらも心のどこかでずっとどきどきしていた僕の気も知らず、十歳 の頃と同じ無邪気な友情だけしか持たずに。

「ちょっと、何よ、その薄い反応。もしかして忘れちゃってたの?」

「まさか。忘れるわけないよ」

「どうだか。ま、でも、いいわ。とにかくこう思ったのよね。あたしはあの頃から何も変わってないんだなぁって」

 僕はもう彼女の顔を見られなかった。だって、今のは駄目押しだよ。自分の頭の中でぐるぐる考えてはいても、実際に彼女の口から言われると落ち込んじゃう よ。

「……じゃ、行きましょ」

 そう言ってアスカは立ち上がり、ふわふわしたスカートの裾を下に引っ張り、しわを伸ばして整えた。すらっとした彼女の脚に見惚れながら、これで終わりな んだな、と僕は考えていた。この部屋を出て、雨の中を彼女の家まで送っていき、別れを言って戻ってくる。そして明日からはまたこれまで通り何も変わらない 関係が続くことになる。これまでと何も変わらない、そしてこれから先変わる見込みもない関係が。目の前に横たわる未来に僕はめまいがした。本当に貧血を起 こしそうだった。
 冗談じゃない!
 こちらに背を向け、部屋から出ようとドアを開けようとしているアスカのあとを追いかけ、僕は彼女の背後から手を伸ばして、内開きのドアが開かないよう押 さえつけた。彼女は驚いて肩を揺らした。

「ちょ、ちょっと何よ」

 振り返ろうとして僕の顔が至近距離にあることに気付き、首を竦めるようにアスカは前を向いた。僕は彼女の肩口からそれを見下ろしていた。衝動的な行動の あとに続けるべき言葉が見つからず、僕は石像のようにその場に硬直した。彼女の華奢な背中が震えているようだった。ほとんど触れ合おうとしている僕たちの 身体は、それでも見えない壁によって遮られたままだった。

「もう、ふざけるのはやめて。ドアが開けられないじゃない」

 彼女は緊張をほぐそうとしているのか、少し笑って僕に言った。あるいは本当に僕がふざけているだけなのだと思っているのかもしれない。
 でも、答えを返そうとしない僕の様子に、アスカもまた押し黙った。張り詰めた息遣いが雨音から浮かび上がるように耳元に響いていた。

「アスカ」

「……何よ」

 低い声でアスカは呼びかけに答えた。僕は唾を飲み込んだ。とうとうのっぴきならないところまで来てしまったぞ、と考えていた。ここで、ごめん、悪ふざけ でした、なんて言おうものなら確実に今日が僕の命日になる。
 僕は臆病で、霧島さんのような勇気はないんだ。自信もない。傷ついたあとになって笑っていられるだけの強さも、きっと持ち合わせてはいない。
 でも、しがみついてでも諦めたくないものがこんな僕にだってある。そのために一生のうち一度や二度はなけなしの勇気を振り絞って行動することがあって もいいだろう。
 そして、今がその時なんだ。今アスカがこのまま部屋から出て行ってしまったら、そこで取り返しのつかない何かを失うことになる。

「僕ね、今日嬉しかったんだ。アスカがうちに来てくれて。二人でああやって勉強できて」

 アスカは無言で、身じろぎひとつさえせず僕の言葉を聞いていた。彼女が口を挟んでくる気配がないことは僕にとっては好都合だった。何故なら途中で口を挟 まれたりしたら、振り絞った勇気が挫けて、適当な誤魔化しを口走ってしまいそうだったからだ。

「アスカは昔のことを思い出して懐かしいって言ったけど、僕は昔と同じことをしてるつもりなんて全然なかった。でも、そう思っていたのは、期待していたの は僕だけだった?」

 すぐそばのアスカの身体から仄かに温かい体温が感じられるようだった。でもそれはあまりに不確かで、自分自身の熱と区別がつかなかった。

「全部、僕の勘違いだったの?」

 これが最後のつもりで僕は訊いた。声が震えそうになって腹にかなりの力を込めて発音しなければならなかった。彼女が何と答えるのかが怖くてたまらない。

「――じゃない」

 かすかな声が彼女の口から零れた。でもそれはあまりにかすかで、僕にはよく聞き取れなかった。

「え?」

「勘違いじゃないって言ったの、馬鹿!」

 はは、馬鹿だって。やっぱり僕の勘違い……あれ?

「……え?」

「だって期待してたのはあたしのほうだもの……」

 拗ねたように言うアスカの俯いた顔を肩口から見ながら、僕は混乱し始めていた。
 勘違いじゃなかった? アスカも期待していた? それってつまり、もしかするとひょっとして……うわっ、本当に?

「ごめん、シンジ。ちょっと離れて」

 アスカはそう言って背中でとん、と僕を軽く押した。その柔らかい感触に、さっきまでずっと彼女に覆い被さるようにして立っていた自分の行動の大胆さをよ うやく自覚した僕は、ぎこちない足取りで後ずさりして彼女から距離を開けた。いまだに僕は先ほどの彼女の言葉が現実のものとは思えなくて呆然としていた。
 彼女はドアの前からテーブルのところまで戻ると、そこにまた座り込んでしまった。僕は馬鹿みたいにそれを眺めていた。

「このまま何ごともなく帰らなくちゃいけないのかと思ったわ。本当にあんたはいつでもぎりぎりまでぐずぐずしてるんだから」

 頬杖をついてアスカはこちらをちょっと睨みつけた。何だかご機嫌斜めのようだ。あれ、ここはもっとハッピーな雰囲気になるところじゃないの?

「ご、ごめん」

 それでも思わず謝ってしまうのが僕の駄目なところだ。だってアスカが怒ってるんだもん。あの青い目で睨みつけられるとどうも弱いんだ。

「ごめんじゃなくって、他に言うことがあるんじゃないの?」

 他に言うこと?
 こちらを見つめてくるアスカの眼差しは、どこか必死で、熱が込められているようだった。ああ、でもそうか、と僕は気付いた。最近何度かこういう感覚を僕 は感じたことがあったじゃないか。それをずっと見過ごしてきたんだ。
 だったら言うことはひとつしかない。

「好きです」

 一度覚悟を決めてしまえばその言葉は驚くほどすっと出てきた。恥ずかしいことには変わりないんだけど。
 とにかくこれでとうとう、と僕はどきどきしてアスカの反応を待った。あたしも好き、とか何とか言ってくるのかぁ? 僕たちって相思相愛なんだ。えへへ、 アスカが彼女かぁ。うひー、照れる。
 ところが、彼女はまったく動かなかった。心なしか顔が赤らんでいるようだったけど、返事をするでもなく相変わらず僕のことを見つめていた。しばらく僕た ちの間には沈黙が腰を下ろしていた。
 え? 一世一代の僕の告白、受取人不在なの?

「それで?」

 えーっ!?
 アスカは女の子座りした膝の上にこぶしを握って、ちょっと膨れた顔で僕のことを見上げた。それでったって、まだ何かあるの? ま、まさかまた間違え たっ?

「え、えっと……」

「シンジがあたしのことを好きなのは分かったわ。それでシンジはあたしとどうしたいの?」

 触りたいです。
 じゃなくてっ! 待て待て、落ち着け、僕。アスカならこれは予想の範囲内だったよ。いや、本当は予想はしてなかったんだけど、アスカが予想外のことを仕 出かすということは充分予想されることだった。つまり何が言いたいのかっていうと、落ち着けってことだ。アー・ユー・オーケー、シンジ? オーケー。
 言うべきことは分かっている。僕たちが今後どういう関係になっていくのか。アスカはそれをはっきり口に出して僕に言って欲しいんだ。それは分かってる よ。
 でも、一度安心して気が抜けてしまったせいか、さっき告白した時みたいにすんなりとは言葉が出てこなかった。胸の奥のほうでつっかえて、心臓の鼓動に合 わせてどくどくとその言葉は揺れていた。それを取り出そうとするたびに失敗して、僕は何度も唾を飲み込んでいた。
 くそっ、情けないぞ、碇シンジ。お前はやればできる奴だ。
 気合を入れろ! ファ、ファイヤー!

「よ、よかったら、えっと、僕と付き合ってくれないかな」

 僕はやっとのことで言葉を吐き出した僕はじっとアスカの顔を見つめた。彼女の潤んだ瞳もこちらにまっすぐ向けられていた。

「正直言って、付き合うといってもどうすればいいのかぴんと来ないんだ。でも、僕はアスカともっと色々なことをしたい。それでアスカのことをもっと知りた い。時間をかけて、ゆっくりでもいいから。だから、その、アスカと一緒にいたい、です」

 最後の最後で照れ隠しに「です」なんてつけちゃう僕はやっぱり決まらない奴だけど、それでも僕の言葉はきちんとアスカに伝わったようだった。彼女とほと んど睨み合うようにしながら息を詰めて返事を待っていたら、火が出るんじゃないかってくらいに真っ赤になって、彼女は両手で顔を押さえてテーブルに伏せて しまった。恥ずかしがっているみたいだ。こういう反応をする彼女の姿がとても新鮮に思えて、何て可愛いんだろうとこちらも顔を熱くさせながら、きち んと言葉で返事をかえしてくれるのを僕は待った。
 ところが、しばらくして僕の耳に届いたのは彼女の言葉ではなくて、泣き声だった。
 たっ、大変だ! きっ、緊急事態発生!

「うわっ、ご、ごめん! 何かよく分からないけど、とにかくごめん!」

 僕はパニックに陥ってしまって、アスカに駆け寄ったものの触れることもできずにおろおろわたわたとうろたえていた。霧島さんにも言われたけど、女の子に 泣かれるのだけはどうにも駄目なんだ。だって心臓に悪いよ、これ。女の子はずるい。
 四年前に出会ってから、アスカが泣くのを見たのはこれが初めてだった。いつも明るくてエネルギッシュで、とても泣くところなんて想像もできないと思って いたのに、今現実に目の前で彼女は肩を震わせて泣いている。しかも僕の言葉のせいでだ。
 あああ、どうすればいいの?

「ア、アスカ。泣かないでよ」

 どうにかして泣き止ませようとアスカに手を伸ばしかけ、僕はぴたっと止まった。指先の数センチ先には大好きな女の子が顔を隠している白い腕がある。長い 髪は夕方の海のように背中に流れ、肩と顔も覆い隠していた。
 何故か突然、その時の僕の目にはアスカがとても幼い女の子のように映った。同い年でいつもは僕のことをぐいぐい引っ張ってくれるような彼女が、ひどく弱 々 しくて頼りない存在に思えた。
 ああ、そうか、と僕は気付いた。強いだけが彼女じゃないんだ。弱くて脆いところだって彼女は同じように抱えていて、それを表に出さないように必死になっ て頑張ってきたんだ。彼女は決して泣かなかったわけじゃない。これまで僕が知らなかっただけなんだ。
 でも、これからはきっと違う。
 そう考えると、不思議とますます彼女のことが大切に思えてきて、このまま僕の中にある好きという気持ちはどこまで膨らんでいくんだろうと想像して、僕は 少し笑った。それはとてもすごいことで、同時に楽しいことのような気がした。
 伸ばしかけていた手を再び動かして、僕はアスカのこめかみの辺りの髪にそっと指先で触れた。そして肌を引っ掻かないように髪の房を持ち上げて、耳の後ろ にかけた。露出した彼女の小さな耳は真っ赤に染まっていてまるで可愛らしい貝のようだった。同時に隠れていた横顔も見えるようになったのだけど、彼女はい やいやをするように顔を僕から背けた。

「アスカ」

 悲しくて泣いているわけではないと、ようやく冷静に考えることができるようになった僕は、アスカの柔らかい髪を撫でて呼びかけた。泣きじゃくる彼女を落 ち着かせようとそうしたんだけど、さらさらした猫毛が指先に心地よくて少し癖になりそうだ。

「あたしも……」

 アスカは消え入るような声でぽつりと言った。危うく聞き逃すところだった僕が顔を近づけると、彼女は相変わらず手で顔を隠したまま首を縮ませて逃げなが ら、また言った。

「あたしも好き」

 ああ、やっと。やっと言ってもらえた。嬉しくて飛び上がりそうだったけど、それをこらえて僕は彼女のそばで顔を緩ませていた。これで僕たちは晴れて両想 いだということがはっきりして、付き合うことができるんだ。
 ところで、ここでちょっとした悪戯心を出した僕は責められるべきなんだろうか。さっきまで散々頑張って勇気を出して、アスカに色々と告白したんだ。最初 なんて好きだと伝えたら、「それで?」だよ。あそこで挫けちゃわなかった自分を自分で褒めてやりたいね。さて、それなのに彼女のほうはまだほんのちょっと しか言葉にしてくれてない。これって不公平だよね? だから、僕にだってもう少しはいい目を見る権利があると思うんだ。

「ねえ、アスカ」

 僕は呼びかけながらアスカの手首を軽く掴んだ。彼女はびくっと震えて僕から逃げようとした。

「顔、見せて?」

「や」

「お願い」

「だめ」

 あくまで僕に顔を見せる気がないらしいアスカの強情さに少々むきになった僕は、痛くならない程度に力を入れて、無理矢理彼女の顔を覆う両手を引き剥がし た。
 泣きはらして真っ赤になった彼女の顔は、今まで僕が見たこともない表情だった。いまだに溢れ出している涙に沈む青い瞳が湖に映る夜の月のようだった。

「だめって言ったのに」

 そう言ってまたアスカはぽろぽろ涙を零した。
 ああもう、可愛いなぁ、ちくしょう。

「ねえ、アスカ」

「なによ、馬鹿」

 こういう向こう気の強いところも最高だ。

「アスカが僕を好きだっていうのは分かったけど、それでアスカは僕とどうしたいの?」

 その瞬間のアスカの表情といったら見ものだった。久し振りの僕の大金星ってところだ。そして、強情っぱりな彼女は赤い顔をさらに真っ赤にさせて下を向い た。すぐに顔がくしゃくしゃっとなって、僕に掴まれた手をぐいぐいと引っ張っ てくる。離してあげると、彼女は涙をごしごし拭き取って顔を隠すと、拗ねた子どもみたいに小さな声で言った。

「あたしもシンジと一緒にいる。ずっと一緒」





 あのままずーっとアスカと二人で部屋にいるのも悪くはなかったのだけど、何しろ僕たちはまだ親に養われている身分であって、そうそう思い通り好き勝手は できない。
 アスカにちょっと意地悪してやっとのことで言葉を聞き出した直後に突然鳴り響いた彼女の携帯電話に飛び上がって驚いた僕たちがテーブルに身体をぶつけて 痛い思いをしたのはご愛嬌だ。電話の相手はアスカのお母さんで、前にこれから僕の家を出て帰宅すると彼女が連絡してから、もう三十分近くも経っていること に僕たちは初めて気付いた。アスカの家までは歩いてせいぜい十分。心配するのも無理はない。
 こうして、何故かくすくす笑いの母さんに見送られ、僕たちは慌てて家を飛び出した。あれは絶対分かっていて僕らを放っておいたな。邪魔されなかったのは ありがたいけど、アスカを送り届けたあと家に帰ってからのことを思うと寒気がする。まさか立ち聞きまではしてないと思いたいけど、うーん。
 外の雨は降り続いていた。細かい雨粒を避けるために僕たちは傘を差して、並んで歩き出した。さすがにアスカは泣き止んでいて、やっといつもの調子を取り 戻したみたいだった。

「だから送らなくたっていいって言ってるのに」

「あー、僕が送りたいからっていう理由じゃ駄目かな?」

「……馬鹿。調子に乗るんじゃないわよ」

 唇を尖らせてつんとしている彼女の横顔を見ながら、僕は笑った。確かに調子に乗っているかも。だからこんな軽口も飛び出してくる。

「本当に僕でいいの?」

「どういう意味よ」

「だって、加持リョウジみたいにかっこよくないし、勉強もスポーツもアスカのほうがずっとできるんだよ」

 僕の言葉を聞いた彼女は、こちらを横目でじっと睨んでから、大袈裟なため息をひとつ吐き出して言った。

「あたしだってチェロなんて弾けないし、あんたより音痴よ。あんたはあたしが頭がいいから好きになったの?」

「違うよ」

「だったらあたしだって一緒よ。それにシンジはもうちょっと自分に自信を持ったほうがいいわ」

「どういう意味?」

「……またあたしに恥ずかしいこと言わせる気なのね」

 へ?

「知らない。自分で考えなさいよ、それくらい。言わないからね、あたしは」

 何故かアスカはつっけんどんにそう言うと、僕から顔を背けた。街灯の明かり程度でも分かるくらいに頬が上気している。一体何を考えたんだ?

「そうそう。そういえばさ、加持さんの結婚相手、あのミサト先生よ」

 照れて膨れていたかと思えば、急に思い出したように調子を変えて言い出したアスカの言葉を理解するのに僕には少し時間が必要だった。ミサト先生だって?

「ミサトって、あの葛城先生? 小学校ん時の、あの?」

「そ」

「うっそーッ!?」

「ほんと」

 あの明るくてパワフルでおっぱいのでかい、僕らの担任だった葛城先生が俳優の加持リョウジと結婚する?

「何で芸能人なんかと先生が」

「だから、芸能人になる以前から幼馴染だったのよ。そりゃあたしだって詳しいことは知らないけどさ」

 アスカはそう言って、足元の大きな水溜りを飛び跳ねて避けた。先へ進んだ彼女に遅れないように足を速めて追いついた僕は、また肩を並べた。
 国道まで出ると、そこを渡るために僕たちは横断歩道の前で信号待ちした。雨は細かくて、傘のおもてで撥ねる音もほとんどしない。その代わりに国道を行き 交う車は濡れたアスファルトを派手に鳴らして水を撥ねさせていた。黒い国道がまるで夜の川のようだった。
 次々と近づいては遠ざかるヘッドライトに照らされたアスカの横顔を、僕はじっと見ていた。今彼女は何を考えているんだろう? 付き合うようになったから といって、心が読めるようになるわけではない。そんなことは、本当には誰もできない。ただ、よりよく理解していくために僕たちは何度も何度も触れ合いを重 ねていくしかないんだ。僕は少しずつそんなことを考えるようになっていた。
 しばらくして僕の視線に気付いたのか、アスカがこちらを向いた。はにかむように表情が笑っていた。ふと思いついて傘を持つ手を左手に持ち替え、彼女の左 手を握ると、あっ、という顔をしてから彼女は少し俯いた。僕だって恥ずかしくてたまらなかったけど、何といっても僕は彼氏なんだから、これくらいのことは しなきゃ。というかしたい。してもいいよね?

「いや?」

「ううん。嬉しい」

「よかった」

 少し大胆になって指を絡めると、僕はきつく彼女の手を握った。柔らかくて小さな彼女の手は握り締めていないとどこかへ消えてしまいそうな気がした。

「ちょっと、シンジ、痛い」

「あ、ごめん」

「もっと優しくして。強引なのもあたし、いや。今日もちょっと怖かった。シンジがドアを開けさせないように押さえた時。それから泣いてるあたしをいじめた 時も」

「ご、ごめん……」

 恥ずかしくて僕は謝るしかできなかった。あの時はとにかく必死でなりふり構っていられなかったけど、あとから考えてみればよくもあんなことができたもの だと思う。あと、意地悪するのがちょっと癖になりそうだと思ったのは、彼女には絶対秘密だ。
 しゅんとなった僕の横でアスカは笑って、握った手を軽く持ち上げて言った。

「心配しなくてもあたしもちゃんとシンジの手を握ってるわよ。あんただけがぎゅっとしなくたって、手を離してどこかへ行ったりしないから」

 僕ははっとして顔を上げた。

「どうして分かったの?」

「あっ、やっぱりそんなこと考えてたんだ。ほーんと馬鹿シンジね」

「ねえ、アスカ」

 焦れて僕が促すと、彼女は肩でどんと僕を小突いて言った。

「ひ・み・つ」

「そんなぁ」

「ほら、青になった。行くわよ」

 そこからはずっと僕たちは手を繋いでいた。二人ともが傘を差したままで手を繋いでいたので、お互いの傘が何度もぶつかった。それでも僕たちはできるだけ 肩を寄せ合うようにしながら並んで歩いた。
 考えてみれば、初めて握手をしたあの日からアスカと手を繋いだりしたことは一度もなかった。比べるのは悪い気 がするけど、霧島さんのようにアスカの手もまた想像していたよりもずっと華奢で頼りなかった。でも、霧島さんの時とは違って、アスカとならこのまま一生 ずっとでも手を繋いでいたいと思えてくる。もちろんそんなことは不可能なんだけど。

「そういえばさ、手首はもう大丈夫なの?」

「へっ?」

 ふと思い出した僕は繋いでいる手を見下ろしながらアスカに訊いた。彼女がつい一昨日に捻挫して湿布を貼っていたのは、今僕と繋いでいる左手だったはず だ。なのに、気が付いてみれば今日はそんなものは貼っていないし、痛そうな素振りもみせない。

「ああ、あれ? あれはえっと、もう治ったの。うん」

「へぇー。よかったね」

 あんまり大したことはなかったんだ。と僕は素直に納得したんだけど、隣でアスカが何やら「あー」とか「うー」とかうなっている。

「どうしたの?」

「あのね、シンジ。実は手、怪我してなかったの。ごめん」

「怪我してない?」

「だって、シンジに会いに行ったら、鈴原たちまで来るんだもん。しかもいちいちからかってくるから、その、恥ずかしくなって……」

「それで嘘を?」

「うん。保健の先生にも嘘ついて湿布もらったの。あとでヒカリに笑われちゃった」

 僕はちょっと呆れて言った。

「アスカは素直じゃないなぁ」

「うう、うるさいわね」

 本当に素直じゃないなぁ。知ってたけど。他にも僕の知らない照れ隠しの数々があるんだろうなと想像したら、ちょっとおかしかった。そしてそれに気付いて いなかった僕は一体何だったんだと反省会が招集されたけど、一瞬で終わった。今の僕は立ち直りが早いんだ。

「ヒカリには色々相談してたの。でも、いい子なんだけど、時々すごくお節介なのよね」

「ああ。それで僕のところに」

「うん。まあ、それだけが理由じゃなかったみたいだけど」

「それそれ。すっごく意外だったよ。だって、まさかトウジと」

「あたしはやめろって言ったんだけどなぁ」

「そんなこと言って、案外お似合いかもしれないよ? お節介焼きと問題児で」

 僕が言うと、アスカは噴き出して笑った。

「あははっ。それもそうかも。ま、向こうは向こう。こっちはこっちでやってればいいわ。だってあたしたちもすごく……お似合いだと思うもの」

「えっと……」

 僕は真っ赤になって言葉に詰まった。アスカも自分で言っておいて恥ずかしかったのか、歩くのが早くなってしまっている。

「ほ、ほらっ、早くついて来なさいよ。そこ水溜りあるわよ。自転車来たから避けて! 傘危ない!」

 どうも僕たちはもうちょっとレベルアップが必要みたいだ。でも、時間はあるよね?





「あたしがあの質問をした理由? まだそんなこと気にしてたの?」

 僕の質問にアスカは目を丸くして言った。
 そろそろアスカの家に近づいてきていた。僕たちは目前に迫った別れを惜しむように自然と足取りを遅くさせながら、ふたつ並んだ傘の下で手を繋いで雨の中 を歩 いてい た。
 僕が訊ねたのは、二週間くらい前にアスカが訊ねてきた「無人島へ持っていけるなら何にするか」という質問の理由だ。今となってはそれほど気になるわけで もないのだけど、何となく話題にしてみたんだ。いってみれば、あれが今日のことの一番最初のきっかけになったんだし。

「別にいいけどさ。最近映画のCMをよくやってるでしょ。無人島に漂着してどうこうっていうの」

「うん」

 さすがに霧島さんに教えてもらった、と漏らすほど僕は無神経ではなかった。そんなことしたらどうなるか、考えただけでおしっこちびりそうってのもあるけ どね。何度も繰り返すようだけど、アスカは怒るとかなり怖いんだ。しかも物をよく破壊する。できるだけ怒らせないほうが身のためだというのは、考えたら分 かるだろ?

「あれのね、原作の小説を読んだことあるのよね。それでCM見てふと思い出して」

「へー。どんな話なの?」

「話していいの?」

「うん。別にいいよ」

 心配しなくても僕は攻略本を読んでゲームをやる派だ。

「じゃあ、そうね。細かいことは省くけど、ある客船が難破して無人島に若い男女が流れ着くの。二人はまだ十代で、同じ客船に乗り合わせたというだけで、そ れまで顔も名前も知らなかった。でもまあ、何だかんだで協力してその無人島で生き延びることにするのよね。で、難破船から流れ着いたものだとか流木だとか 使って色々工夫して暮らし始めるんだけど、当然家に帰りたいと思ってるから、そっちも試すのよ。でも船なんて作れないし、いかだでさえ満足に浮かばない。 しかも浮いたとしても、いかだなんかで海へ出ても陸地に辿り着ける前に死ぬのが落ち。で、二人が思いついたのはメッセージボトルよ。しかも使うのは、島に いくらでも転がってる椰子の実だったの。椰子の実ってね、南の島からこの日本にも流れ着くのよ? すごいでしょ。
 二人は自分たちが乗ってた客船の名前や難破した日付、もちろん自分たちの名前やプロフィール。それに島の様子なんかも椰子の実の皮の表面に彫り込んでた くさん海に流した。もちろん流された椰子の実が文明のある場所に辿り着く確率なんて恐ろしいくらいに低いってことは二人にも分かってた。でも、習慣として 二人は続けることにしたの。やめてしまうと、家に帰ることまで諦めたみたいで怖かったから」

 アスカはよどみなく僕に語り聞かせてくれた。きっとこの小説が好きで、何度も読み返したんじゃないだろうか。話している彼女の表情は楽しそうだった。

「そのうちにね、二人の故郷に戻りたいという気持ちは少しずつ変化していくの。助けには来て欲しいけど、島での生活にも慣れ ちゃってて、それを壊されたくない。特に女の子のほうがそう思い始めるのよ。
 だけど、二人きりでの生活には当然色々と問題もあって、二人は結構派手な喧嘩もするのよね。で、ある日もささいなことで喧嘩して、売り言葉に買い言葉で 二人は別々の場所で暮らすことに決めちゃうの。そうやって男の子がこれまでの寝床から出て行ったのよ。
 それから、二人が島の離れた場所で顔も合わせずに暮らし始めてしばらく時間が経ったある日、海岸に流木拾いに出かけた男の子が波打ち際で波に揺られてい る椰子の実を見つけるの。椰子の実ってね、シンジ、すっごく万能なの。食べられるし飲み物にもなるし、食べたあとはくり抜いて器とかにもなるし、木や 葉っぱも色んな道具を作るのに使えるのよ。だから、男の子がまだ食べられるようなら拾って食べようと思って椰子の実に近づいたら、その実の表面には文字が 刻まれ てたの。そう。自分たちがメッセージを彫り込んで海に流した実だったのよ。しかも、彫り込んである内容は遭難の救助を求めるものなんかじゃなかった。そう じゃなくて、一緒に遭難したあの女の子の気持ちがそこには刻まれていたの。
 この無人島に二人きりで漂着した男の子のことをどう思っているか。彼女がいつも何に喜び、何に怒っているか。日々の生活で何があったのか。そこでどんな ことを思ったのか。
 そんな内容ばかりの椰子の実を、男の子はそれからいくつも見つけるわ。気が付けば自分から探しに毎日海岸に出るようにさえなった。彼女のメッセージはそ うやって次々に彼のもとへ届けられていくの」

 そこで言葉を一旦切ると、アスカは僕の顔を見て微笑んだ。彼女が繋いだ手に少し力を入れてぎゅっとしたので、僕もそれに応えた。もう二度と離れない、と いう風に僕たちの指は絡み合っていた。本当にそうならどんなにか素晴らしいのに、と僕は思った。

「きっと女の子にとっては、一種の賭けだったのよ。本気で彼に届けるつもりなんてなかった。聞く相手がいなくたっていいから、ただ自分の気持ちを正直に吐 き出したかっただけ。最初はきっとそうだったんだわ。でも心のどこかで、波任せの偶然が彼のもとへ自分の想いを運んで行ってくれはしないかって。そう願っ てもいたのよ。
 そして、女の子は賭けに勝った。彼女からのメッセージで一杯になった寝床をあとにして、男の子はもといた場所へ帰ることにしたの。女の子がいる場所へ」

「めでたしめでたし?」

 僕が言うと、アスカは笑ってかぶりを振った。

「それからもまた色々あるんだけど、ま、省略するわ。二人が幸せになったってことだけは確かだけど。
 最後に、ずいぶん時間が経ってから大きな船が助けに現れるの。何とそれは二人の母国からやって来た船だった。しかも二人のことを探すために船出したって いうのよ。結局、二人が最初にメッセージを彫り込んで流した椰子の実が何年もかけて彼らの母国にまで流れ着いたってわけ。彼らはこの奇蹟に大喜びし て……、そして船に乗って故郷に帰ることにするの。三人でね」

「えっ、三人?」

 三人って、つまり、そういうこと?

「これでおしまい。エヴァー・アフター。面白かった?」

 手を繋いだままアスカはぴょこんと前に跳ねて僕の顔を覗きこんだ。僕は彼女のきらきらした瞳に見つめられながらそのまま歩いて彼女を追い越すと、うー ん、と言った。

「うーん、だけ?」

 アスカは僕についてきながらぴょんぴょんスキップした。だから雨の日にそんなことすると水が撥ねて濡れちゃうってば。あと手をやたらと引っ張らないで よ。

「面白かったけど……、結局アスカが僕に質問した理由は?」

「うっ……、それはあれよ。何となく」

「つまり、言うのが恥ずかしいの?」

「う、うるさいわね、シンジの馬鹿! 小説の中でそういうくだりが出てくるのよ!」

「何て?」

 僕が重ねて訊ねると、さっきはやけくそみたいに声を張り上げたアスカが今度はごにゃごにゃと小さな声で呟いて答えた。

「最後のほうで仲直りして恋人同士になった二人がそういう会話をするの。もし遭難なんて形じゃなくて無人島へ来れるとしたら、何を持って来たいかって。遭 難生活はとてもじゃないけど文明的じゃないもの。故郷を懐かしんで二人はそういう話を始めたの。でも男の子がふと、こう漏らすのよ。『ものなんて何もいら ない。僕は君さえそばにいてくれたらいい』って」

「まさか……それを僕に言ってもらいたかったとか」

「きゃーっ!」

 いや、きゃーって。あの時の僕らは完璧ただのクラスメイトだったんだよ? 無理がありすぎるでしょ。どれだけ気障なんだよ、僕は。本当にそんなこと言っ たらドン引きだよ? そして僕は後悔で自殺しちゃうよ?
 じゃあ、結局それがあのわけの分からない不機嫌の理由だったってことか。やれやれだよ。さすがにこれは開いた口が塞がらない。

「ううっ、放っといてよ! 自分だって馬鹿らしいって分かってたもん。わぁん、だから言いたくなかったのに。か、か、彼氏になってから、シンジってば ちょっ と意地悪だわ」

「そ、そんなことないよ」

 あるかも。アスカが可愛すぎるのがいけないんだ。

「ううう、あたしは負けないからね。でも、あんまり意地悪すると愛想尽かししちゃうわよ」

「それは……困る」

 僕たちは顔を見合わせると揃って大笑いした。
 アスカの家はもうすぐそばだった。今は別れが惜しくて離れるのがとてもつらいけど、明日の朝にはまた学校で会えるし、そのあとだってずっと僕たちは一緒 にいることができる。まだたったの十四歳なんだもの。これから先どんなことが僕たちの間に起きるのか、とても楽しみだった。希望で僕の胸は一杯だった。も ちろん楽しいことばかりじゃないかもしれないし、先生がある日突然チェロの道を絶たれたように僕たちの間にもつらいことが待ち構えている可能性は否定でき ない。でも、いってしまえば何だってそうなんだし、たとえ不幸にしてそういう日がやって来たとしても、その瞬間になって後悔するようなことにはしたく ない。
 僕はアスカの手をぎゅっと握った。痛いと文句を言われない程度にね。

「その映画、観に行こうか」

「うん。そうね。テスト明けにね」

「夏休み、たくさん会おうね」

「当然。あっ、シンジ、夏休みに演奏会あるでしょ。あたし、聴きに行くからね。これまで嫌がって誘ってくれなかったけど、今度からは絶対、絶対行くから ね」

「わ、分かったよ」

 実はアスカにも僕のチェロを聴かせたことは一度もない。嫌だったというか、何となく恥ずかしかっただけなんだけど、聴きたがってくれるのは素直に嬉し かった。 でも、アスカってクラシックに興味ないはずだけど、演奏会なんて大丈夫かな? 居眠りしちゃいそうな予感。
 そうこうしているうちにアスカの家の前に着いた。僕たちは繋いでいた手を離して向かい合った。今日はもう、一緒にいられるのはここまでだ。
 改めて彼女と向かい合うと、何だか叫び出したいような気分だった。
 みんな見てよ。これが僕の彼女だよ。最高に可愛いでしょ。ってね。
 もちろん、そんなことはしない。でも、一生のうちに一度くらいはしてみてもいいかもしれない。ま、気が向けばね。
 僕はいつもとは違う気分で、いつもの台詞を口にした。

「じゃあ」

「うん」

「また明日」

「明日ね」

 こちらに背を向けたアスカは傘を畳みながら玄関に向かって歩き出し、傘を差した僕はその後姿をじっと見守っていた。扉まであと数歩というところでアスカ がこ ちらを振り返っ た。細かな雨に濡れた彼女の髪が夕日に照らされる海のように煌めいていた。

「シンジ、あの女の子は想いを椰子の実に刻んで海に流したわ」

「うん」

「あたしも同じよ。ずっと賭けをしてたの。素直にはなれないけど、たくさんのメッセージを送ってたの」

「……うん」

「あたしの椰子の実がシンジのもとへ届くまで、長い時間がかかった。でも、やっと届いたわ。あたしの気持ちに応えてくれて、ありがとう」

「こっちこそ。アスカが僕のことを好きになってくれて嬉しい。とても信じられないような気もするけど……」

「こらっ。自信を持てって言ったでしょ」

「そうだったね。うん。そうする」

「頑張れ、あたしの彼氏」

 こぶしを作って小さくガッツポーズをして言った彼女は、下唇をちょっと噛んで、すごく嬉しそうに笑った。僕もそれに負けないくらいの笑顔を返した。本当 に頑張れそうな気がした。何といっても、今日はものすごく大きな壁を乗り越えることに成功したのだから。そして、その壁の向こう側にあったものを本当に手 に入れることができたのだから。

「ところで、ちょっと訊きたいんだけど」

「なあに?」

「さっきの話。長い時間がって……どれくらい?」

 僕の質問に彼女は目を細めて、唇で綺麗な弧を描いた。そして、見惚れている僕に向かってそっと囁いた。

「鈍感」








旅をする椰子の実

fin.









あとがき

 怪作さま、読者のみなさま。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

 さて、まず初めに。タイミング的にシンジの誕生日周辺での掲載となっていると思いますが、このお話は別に誕生日記念でもなんでもありません。期待された 方がいらっしゃったとしたら申し訳なく思いますが、お許し頂きたいところです。以前も書いたような気がしますが、私はイベントものが苦手です。
 長い長いお話でした。本当はこの三分の一以下で終わると考えていましたが、そうはなりませんでした。不思議です。お暇な時にでもゆっくりと読み進めて頂 ければと思いますが、あとがきで書いても意味のないことではあります。
 霧島マナという名のオリジナルキャラクターがいますが、気になさらないのが吉です。彼女の出番はもっと少ないはずだったのですが、いつの間にか後半に入 るまで完全にアスカを押し退けていました。困ったものです。というかすみません。
 洞木ヒカリの印象がかなり悪いように思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、あくまでシンジ視点ですのであしからず。でもごめんなさい。委員長って 何なんで しょうね。
 中学校の教育課程など完全に忘れ去っていましたので、二年生の国語で古文をやるのかどうかとか知りません。
 それから、原作本編ではノートPCのようなものを学校の授業で使っていたような気がしますが(うろおぼえ)、そうするとノートを貸すとか何とかとか色々 できなくなるので、教科書とノートにしてしまいました。
 ちなみに私はモス派です。
 それから攻略本を読んでゲームをやる派です。といってもゲーム自体あまりしません。
 お話の中に出てくる無人島に男女が漂着する映画と小説は、実際には存在しません。ただ、ちょっと昔の映画で「青い珊瑚礁」というのがあったような記憶が あります。観たことはありませんけど。
 ところで、名前だけ出てきた綾波レイですが、実は彼女はシンジの遠縁に当たる子で、普通の女の子に戻りたいの症候群によって進学した大学でシンジと出 会ってその事実が判明し、やがてアスカと熱いバトルを繰り広げるとか、そういうお話は別にありません。
 あと、高校へ進学したシンジですが三年間霧島さんと同じクラスになり続けて、ちょっぴり気まずい思いをした挙句に、名門女子高に進学していたアスカがそ れにやきもきしたりちょっと変になったりとか、そういうお話も特にありません。
 ありませんが、あっても困らないとは思っています。
 さて最後に、こんなチェリーでストロベリーなお話はまったく私には向かないと思っています。つい書いてしまいましたが、これでいいのかと私の中の誰かが 囁いています。どうなんでしょうね。

 というところで、あとがきは終わります。
 改めて、お読み下さった方々へお礼申し上げます。ありがとうございました。


 rinker/リンカ



リンカさんから素敵なお話をいただきましたので、三夜連続更新です。

あいかわらずほのぼのLASを描かれますね。素敵です。
別に記念日とか、そういうのじゃ無くても問題無いと思います。

読後の感謝の気持ちを伝えたい方は、ぜひ遠慮せずにリンカさんにメールを送りましょう。

寄贈インデックスにもどる

烏賊のホウムにもどる