「もしも無人島に何かひとつだけ持って行けるとしたら、あんたなら何を持って行く?」

 クラスメイトのアスカにそう問いかけられて、彼女がこういうわけの分からないことを言い出すときは要注意だぞ、と僕は思った。大抵の場合、僕には彼女が 何を考えているかなんて分からないんだ。そ して彼女にしてみれば、それは僕の重大な欠点であるらしかった。無茶を言うもんだと思う。

「え、突然そんなこと言われても迷っちゃうな」

「これくらいで迷ってんじゃないわよ。ひとつだけよ。持って行くなら何を選ぶの?」

 アスカは苛立たしそうに眉間に皺を寄せて僕を急かした。
 せっかくの可愛い顔が台無しだ、だなんて僕は思わない。彼女は顔を合わせて いるときの半分はしかめ面をしているからだ。百歩譲って可愛いことは認めてもいいけどさ。いまさらだと思わない?
 それはともかく彼女はせっかちで気が短くてその上さらに意地悪だ。これ以上もたもた していると何をされるやら分かったものじゃない。僕は必死で彼女の下らない質問について考えた。無人島に持って行くなら何かだって? ものは何でもいいん だろうか。そもそも無人島でどれくらい過ごすことになるんだろう? 食べ物はあり、なし?

「えっと、訊きたいんだけど」

「あんたは、これから、人っ子一人いない南の海の小さな無人島に行って、そこで一生を過ごすことになるの。そこへたったひとつだけ持って行くものを選ぶの に、これ 以上質問が必要なの? 馬鹿じゃないんだから想像力を働かせなさいよ」

 そもそも何故僕がそんな質問に答えなければならないのか、それを訊きたい。
 と本当に訊ねたら、きっと蹴飛ばされるんだろうなぁ。大体馬鹿じゃないんだからって、世界中で誰より僕のことを馬鹿呼ばわりしているのは当のアスカなの に。あ、なんかそう考えたら腹が立ってきた。落ち着け、僕。どうどう。
 眉間にはわずかにしわを寄せ小首を傾げて、つま先でこつこつと床を叩いているアスカに睨まれながら、僕は無人島の真っ白な砂浜にぽつねんと体育座りし て、ど こまでも続く青い海と空を臨んでいる海パン姿の自分を想像してみた。椰子の木の林が繁っていて砂浜のところどころに落ちた実が転がっている。巣穴から飛び 出した小さなカニがとっとっとっと針でつついたような足跡を砂に残しながら僕の足元を横切って行く。聞こえるのは寄せては返す波の音だけ。本当にこれ以 上何が必要だっていうんだろう?

「あんた、いつまで考えてるの?」

 アスカの剣呑な声が空想に浸っていた僕を現実に引き戻した。いつだって現実はつらく厳しいんだ。まるでブリザードやカムシンのように。

「あ、えっと、そうだ」

 無駄と知りつつ防衛本能に従って愛想笑いを浮かべ、僕は言った。

「チェロかな」

 アスカは何も言わなかった。それでも一応僕は続けた。

「何がなくてもチェロさえあれば文句はないよ。うん」

 四歳のときから十四歳の現在まで続けているチェロは僕にとってほとんど唯一の趣味といっていい。習い始めたきっかけなんて忘れたし、プロの演奏家になり たいとまでは考え ていないけど、それでも僕はチェロを弾くのが好きだし、チェロがない生活なんて想像するだけで気が遠くなりそうだ。まあ、贅沢をいえばチェロに加えて一生 かかっても弾き切れないほどの楽譜の山と座りのいい椅子が一脚欲しいところだけど、ひとつだっていうから仕方がない。
 我ながら気の利いた答えを返した、と僕は思った。でも、アスカはそうは思わなかったようだった。

「あっそ。答えてくれてありがと。あんたってやっぱりつまんないわね」

 彼女はそれだけ言うと、ぷいっと向こうへ歩いて行ってしまった。あとに残された僕はといえば八つ当たりする相手もいないので、頭の中で精一杯彼女を罵っ てからジェット噴射みたいなため息をひとつ鼻から吐き出した。
 もっと別なことを答えたほうがよかったのかな。何がいけなかったのかな。もう一度やり直しをするのは駄目かな。……うわっ、やばい、いつの間にか自分反 省会が! あんな 奴のことなんて気にするな、碇シンジ(あ、これ僕の名前ね)。
 自分を励ましてみたもののしばらくの間そわそわと心配を続けていた僕をよそに、アスカはそれきりまるでこちらに関心を払おうとはしなかった。本当にあの 質問は意味のない下らない雑談に過ぎなかったのだろうか。恐れていた被害が僕に及ぶ気配はなく、至って平穏で不気味なくらいだった。
 だけどその日以来、アスカの機嫌が微妙に悪くなった。
 本当に意味が分からないんだけど、これは僕のせいってことになるの?





旅をする椰子の実








 惣流アスカは僕のクラスメイトだ。彼女は四年前にドイツから日本へ一家でやって来た。でもドイツ人じゃなくって アメリカ人なんだそうだ。さらに今はアメリカ人でもなくて日本人なんだとか。ややこしくてやんなっちゃうよね。ふぅっ。
 それで、ドイツ人みたいなアメリカ人で四年前からは日本人の彼女が、惣流という日本風の名字なのは、彼女のお母さんがもともと日本の人だから。もう少し 正確に説明すると彼女のお母さんのお父さん(つまりおじいちゃん)が 日 本の人で、おばあちゃんはドイツの人だ。一方彼女のお父さんはアメリカ出身。実はアメリカやドイツで暮らしていたときにはお父さんのファミリーネーム を名乗っていたらしいんだけど、日本で暮らすことになってから名字に惣流を使うことにしたんだそうだ。帰化するときにそう決めたんだって。
 何で僕がこんな こと知ってるのかっていうと、四年前の 自己紹介でアスカ自身がみんなの前で喋ったのを聞いたから。彼女が赤みのある栗毛に青い目、彫りの深い顔立ちというひと目で白人的だと分かる容貌をしてい るのにアスカという日本の名前なのも、母方から日本人の血 を受け継いでいるためだ。以上、説明は終わり。
 そんなアスカと僕は、小学校四年生のときからずっと同じクラスになり続けていて、これはもう偶然とかじゃなくて何かの呪いなんじゃないかって思いたくな るところなんだけど、本当の理由はたぶん僕には分かっている。
 彼女が初めて日本の小学校に編入することになったときに、彼女のお父さんたちがまだ日本語も たどたどしい娘のことを心配に思ったってそれは当然のことで、たまたま彼女のお父さんの職場で働く同僚に同い年の息子がいるというので、それと一緒のク ラスに入れてもらえるように頼んだりすることは、それほど無茶な願いではなかったはずだ。つまりようするに、同じ職場の同僚というのは僕の父さんのこと で、その息子というのは僕のことだ。これは直接僕が父さんから聞いた話だから間違いはない。そして、そういうクラス編成時の考慮事項というのはきっと小学 校の間だけでよかったはずなんだけど、何かの拍子に中学校にも伝わってしまったのだ。これが四年に渡る呪いの真相。だと僕は勝手に決め付けている。
 とはいえ、だからといって僕が学校で何か特別にアスカの面倒をみさせられたとかそういう事実はない。先生と僕たち二人がただそういう事情を了解し合って いただ けだ。確かに最初の頃は席も隣にさせられたし何かあると教えてやれとか言われてたけど(これは僕が当時クラス委員だったせいもあると思う)、じきにそうい うこ とはなくなった。アスカはわりあい早くからクラスに馴染んでいったし、たどたどしかった日本語もめきめきと上達させていったからだ。
 それでも最初のクラスでは、担任の女の先生が何かと僕とアスカをワンセットにして扱いたがっていた。普通ならからかわれてひゅーひゅーとか言われちゃう ところだけど、当時のアスカはまだすごく外国人らしかったから、みんなもちょっと遠慮してからかいは少なくて済み、そうこうしているうちに彼女も慣れて 一人でも上手くやっていけるようになったんだ。六年生でまた僕たちの担任になったその女の先生は、アスカの変わりように驚いていたっけ。懐かしいな。すご く自己主張の激しい胸を持つ先生だった。ようするにおっぱいがでかいってことなんだけどさ。それにとても美人で、パワフルで。今でも僕の卒業した小学校で 元気に先生やってるのかな。
 それはともかく、実際のところアスカは大変な努 力をしていただろうと思う。そこだけは敵わないなぁと素直に感心しているんだ。僕がもしある日突然ドイツに引っ越さなくちゃいけなく なって、しかもこれからずっとそこで暮らすんだと言われたら、目の前が真っ暗になる。だって嫌だよ。暮らしてた場所を離れるなんて。そことは別のまったく 得体の知れない言葉も分からない土地で暮らさなくちゃいけないなんて。絶対に嫌だ。
 でも僕はアスカの泣き言を聞いたことがない。一度だってない。本当にそこだけはすごく格好いいと思っている。
 こっちは彼女のせいで泣き言漏らしまくりだけどね。まあ、それとこれとは別の話ってことで。





 おっと、話を戻さなきゃ。
 無人島に何かひとつ持っていけるならチェロにすると僕がアスカに答えた日以来、何日間か彼女の微妙な不機嫌は続いている。そう、微妙なんだ。いってみた ら今にも雨が降り出しそうでいてやっぱり降り出さない曇りの日みたいな。そわそわしちゃうよね、そういうの。このところのアスカを見ているとそんな気分に なるんだ。
 これは何も僕だけの感覚ではなくて、他のクラスメイトたちも変調に気付いて戸惑っているのだけど、誰も原因が分からないらしく、触らぬ神に祟りなしとば かりにこの数日は彼女を敬遠している。
 まあ時期としても今は梅雨の真っ最中だしね。降るなら降れ、さもなくば晴れろ! って感じかな。あ、今のはうちの父さんの真似なんだけどさ。ごめん、ど うでもいいよね、そんなこと。
 でね、僕が面倒くさいなぁと思うのは、こういう時に責任感に駆られたアスカの友達からどうしたわけかこの僕が詰問されるってことなんだ。アスカの一番の 友達はクラス委員長の洞木ヒカリさんなんだけどさ、本当にどういう思考回路しているんだろうね。これを学校の八番目の不思議に加えたっていい。ね?

「ほんっとうに心当たりはないの?」

 生真面目と責任感という名の鎧兜で身を固めたような委員長から上目遣いに凝視されながら、昼休憩でお弁当を食べたあとのトイレから教室へ帰ってきたとこ ろだった僕は困ってしまっていた。というかうんざりして死にそうだった。

「ほんっとうに、ないよ。あるわけない」

 ごめん。嘘。ないわけじゃないけど、あんなことで機嫌を悪くするなんてありえないというかアンビリーバボーというか、とにかくどちらにしてもあまり係わ りたくないから、ないと答えておきます。

「本当?」

 委員長はあからさまに僕を信じていないという様子で目を細めて低い声で言った。これは彼女の勘がいいってことじゃなくて、そもそも委員長は馬鹿で下品な 男子のことなんてミミズの目ん玉ほども信じちゃいないってことだ。

「ねえ、洞木さん。よく考えてよ。アスカみたいな気分屋の表情が変わるたびに、全部それが僕のせいだなんてことが本当にあると思うの? あいつはペキンで 蝶が羽ばたいたって怒り出すんだ。いちいち気にしててもしょうがないよ」

「別に全部だなんて言ってないじゃない。でも」

「大丈夫だよ。どうせ明日辺りには機嫌も直るって」

「根拠は?」

「明日はブラジルで魚が跳ねる」

 これ以上僕に訊いても無駄だと悟ったのか、委員長は教室一杯のため息を吐き出して引き下がる素振りを見せた。でも僕のもとから立ち去る前にもう一度こち らを見て、彼女は言った。

「最近、アスカと何か話した?」

「別に。そういえば無人島にひとつ持っていけるなら何にするとか訊かれたけど」

 僕がそう答えると、委員長は一瞬だけ表情を動かした。え、その反応なに?

「それで碇くんは何て答えたの?」

「チェロ」

 碇シンジといえばチェロ。僕と同じクラスになったことのある連中にならある程度浸透している認識だ。といっても、実際に僕がチェロを演奏しているのを聴 いたことがある人は学校にはいないはずだ。でもクラス対抗の合唱コンクールでピアノの伴奏をしたこととかあるから、なんか音楽やってる男子くらいには思わ れている。だから委員長だって僕の答えには疑問を抱かないはずだ。
 ところが、彼女は僕の答えを聞くとしばらく思案するような様子を見せたあと、心底呆れたという表情で額を押さえて、端的に気持ちを言葉で表現してくれ た。

「呆れた」

 あのさ、もしかして無人島にチェロ持っていきたいとか異常なの? キモイ? 合唱の伴奏引き受ける男子とかありえない? とにかく、そんな態度されたら 傷ついちゃ うんだけど。

「呆れたって、そんなにおかしかったかな」

 泣いちゃうぞコノヤロ。

「え、ああ、違う違う。私が呆れてるのはアスカよ」

「ふぅん?」

 ますます意味が分からない。それが表情にも出ていたんだろう、疲れたような様子でこちらをしばらく見ていた委員長は、ぽつりとひどいことを言った。

「碇くんってあんまり気が利かないわよね」

 そして教室から出て行った。
 いやいやいや、本当に女子ってひどいと思わない? 普通面と向かってあんなこと言わないよ? 
 でも僕はずっと気が利かない奴だと思われてたのかな。周りのみんなもそう思ってるの? どういうことか説明してから行ってよ、委員長。言いっ放しなんて ずるいよ。
 ちょっぴり傷ついた僕が脳内自分会議を緊急招集させながら席に戻ると、出迎えてくれた友達のトウジがしゃかしゃか身を乗り出して訊いてきた。

「なあなあ、いいんちょと何の話しとってん? 何の話しとってん?」

 うるさいよ、ジャージーマン。二回言うな。ケンスケも横で皮肉げに笑うな。眼鏡改造するぞ。赤っ鼻つけてやるぞ。ふんがーっ!





 そして次の日、あっさりとアスカの機嫌はもとに戻っていた。この数日のもやもやした空気は何だったのかというくらい何食わぬ顔で、彼女は授業を受け たり友人たちとおしゃべりして笑ったりしていた。
 ほら! 言った通りじゃん!
 なーにが気が利かない、だ。アスカの不機嫌に僕は関係なんてないんだ、やっぱり。僕は気が利かない人間じゃないぞ。アスカとだってもう普通に話すことが できるんだぞ。

「――だよね」

「あはは、あるある!」

 笑ってる、笑ってる。ほらね、この通りさ。大体委員長は四角四面にものごとを考えすぎなんだよな。

「ところでさ、アスカ」

「ん? なあに?」

 アスカは笑いすぎで涙の浮かんだ目尻を指で拭いながら僕を見た。

「こないだのアレ、無人島がどうこうっての、結局何だったの? 意味あったの?」

 僕が訊くと、アスカは涙を拭っていた手を下ろし、ゆっくりとひとつまばたきをしてから、口を開いた。

「ああ……」

 とても低い声だった。まるで地鳴りのような声だった。というかさっきまでの笑顔はどちらへ行かれたんですか?

「あれなら何でもないのよ、シンジ。気にしないで、意味なんかないから」

「えっと」

「気・に・し・な・い・で!」

 あれあれーん? 僕ってやっぱり気が利かない奴?
 さっきまで和気あいあいだった僕たちの間にまるで氷河期が訪れたようだよ。というかアスカが席を立って他の女子のほうへ行っちゃったよ。氷河期どころ じゃないよ。
 あの話題は触れないほうがよかったのかな。でも気になってたし。まさか怒り出すなんて思ってなかったし。もう済んだことだと思ってたんだもの。アスカ だってけろっと笑ってたじゃん。あああ、僕はどうすればいいの? ああああ……。

「なーんやセンセ、また夫婦喧嘩でっか。お前も飽きひんやっちゃのー。ししし」

 そばで僕たちを見ていたらしいトウジがいやらしい顔で笑った。
 くそ、ものすごくムカツクけど否定できない! でも夫婦ってとこは違うからね!

「ねえ、ケンスケ」

 揉み手をしてこちらを見ているがめつい大阪あきんどみたいなトウジじゃなくて、そのそばでカメラの雑誌を読みふけっていたオタクっぽいケンスケに僕は話 しかけ た。 ケンスケは僕たちのやり取りを聞いていなかったらしく、こちらを振り返って不思議そうな顔をした。

「おう、こら、わしは無視かいな」

「だってトウジに訊いてもしょうがないし……」

「んなことあらへん。あらへんでぇ。せやからわしに訊いたって。無視せんといてぇな」

「ええ〜」

「おいおい、用があるんなら早く言えよ、シンジ」

 僕とトウジのやり取りを遮って、事情の分かっていないケンスケがせかせか言った。分かった分かった。漫才はまた今度だよ、トウジ。

「あのさ、もしも無人島で過ごさなくちゃいけなくなって、ここからひとつだけ持っていけるとしたら、何にする?」

 僕が質問すると、トウジとケンスケは一旦顔を見合わせてからほとんど同時に答えた。

「カメラ」

「たこ焼き」

 二人とも呆れるほどにきっぱりした口調だった。

「いや、待てトウジ。食い物だと食ったら終わりだぞ。かといってたくさんあっても腐る。いいのか、それで?」

「そんなんカメラもメモリ一杯になったらおしまいやん」

「馬鹿だな。カメラって答えの中にそれに付随する諸々が全部含まれてるに決まってるだろ。だからメモリの心配をする必要はないし、好きなだけプリントもで きる」

「馬鹿って言うなや。まあええ。せやけど、それやったらわしのたこ焼きもおんなじやろ。いくらでも作れるし、しかも腐らへん、そういうたこ焼きや。さらに トッピングも選び放題、食べ放題」

「何か夢のようだな」

「ああ、行ってみたいわ、南の島」

「南の島っていつ決まったんだよ」

「そりゃそうやろ。だって寒いとコートいるやん。持ってけるもんはひとつやのに」

「お前、馬鹿だろ」

「せやから何でお前は馬鹿って言うねん!」

 このままどつき漫才に突入しそうな雰囲気のトウジとケンスケの間に割って入って、僕は二人のやり取りを止めた。ていうか僕を置いてきぼりにしないでよ。

「で、結局何だったんだ? 何でこんなこと訊いたんだ、シンジ」

 ケンスケは指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら言った。トウジもその横で腕を組んで僕のほうを見ている。
 何故と問われてもどう説明したらいいのか僕には分からなかった。二人の答えを聞いてみれば、アスカが僕に同じ質問をしたときに何を考えていたのか分かる かもしれないと思ったのだ。でも、やっぱり僕には分からなかった。欠点はそう簡単に直らないから欠点なんだ。

「さあ、何でっていうか」

「あ? はっきりせんやっちゃなぁ」

 僕もそう思うよ、トウジ。ごめん。
 うまく言葉が出てこない自分に気落ちしてしゅんとなっているところへ、後ろから元気のいい女の子の声が唐突に割り込んできた。

「ねえねえ! 何の話してるの」

 ショートカットのその女の子は僕の隣席の机に横から腰掛けると、しっぽを振って面白いものを探している子犬みたいな表情で僕たち三人に加わった。で も、僕の顔を見ると 不思議そうに目をぱちくりさせて言った。

「ありゃ。何かシンジくん元気ないね」

 人差し指であごを押さえて、ふーんとひとつうなってから、彼女は手のひらを打ち合わせ、分かったと言った。

「鈴原がいじめたんでしょ」

「あほ! そないなことするかい」

 手をつっこみの形に振ってすかさずトウジが言った。すると彼女は、冗談だようとけらけら笑って、今度はケンスケを指差した。

「相田のオタバナに付き合わされて疲れちゃったんだ。駄目だよ、シンジくん。ノーと言える人間にならなくちゃ。外の世界は怖いところなんだぞ」

「一体何の話をしてるんだか。俺もトウジも何もしてないよ。変な言いがかりつけるなよ、霧島」

「えへ、ごめーんね」

 霧島さんは手のひらを合わせて顔の前に持って行き、片目を瞑って首を竦めた。こういう仕草をする彼女はちょっと可愛いと思う。だからどうってんじゃない けど。

「別に大した話じゃないんだよ、霧島さん」

 僕は説明逃れをしようと思ってそう言った。何しろ女子の間で情報が伝わる速度は光なみだ。別にやましいことなんてひとっつもないんだけど、飢えた猛獣た ちの群れの真ん中に血の滴る肉を投げ込むような真似はしたくない。いや、やましいことがないのは本当だってば。でも女子たちにかかれば、なかったものがあ ることにされるなんてのは朝飯前のことなんだ。分かるだろ?
 けど、そんな僕の思惑もケンスケのヘリウムより軽い口によってあっさりとおじゃんになった。

「そうだ、霧島にも訊いてみようぜ。お前だったら、無人島にひとつだけ持っていけるならどうする? 何を持っていく?」

「え、何々、そういう話をしてたの?」

 身を乗り出して顔を輝かせた霧島さんが僕の顔を覗きこんだ。この話をしていた経緯(つまりアスカの原因不明の不機嫌のことだけど)を訊かれたくないから 誤魔化そうと思ったのに、ケンスケのあほたれめ。

「わしらもシンジに訊かれたんや」

「へーえ。あ、でもそれってひょっとして」

 思い当たることでもあったのか、霧島さんは宙を見上げて気になるところで言葉を切った。あれ、何か知ってるの? それなら早く教えて。
 ところがそんな僕の気持ちもお構いなしに、ちょうど次の授業が始まるチャイムが鳴り出した。もう、どうしてこういうタイミングで鳴るかなぁ! 何か分か りそうだったのに!

「おっとっと、授業が始まっちゃう」

 霧島さんは座っていた机からぱっと離れて自分の席へ戻ろうとした。

「おいおい、ひょっとしてって何やねん、霧島」

「あとあと。あとで教えたげるから」

 ひらひらと手を振って霧島さんは廊下側にある自分の席へ戻っていった。霧島さんがあとで教えてくれるという話の内容を気にしつつそれを見ていた僕の視界 に、いつの間にか教室の外へ出ていたらしくチャ イムとともに戻ってきたアスカの姿が入ってきた。アスカの席は僕の斜め前だ。なので彼女はすたすた歩いて僕に近づいてきているんだけど、まったくこちらを 見ようともしない。
 やっぱり怒ってるのかな。理由は分からないけど。
 席について両手で長い髪を後ろへ流した彼女の横顔を眺めながら僕はぼんやりとしていた。チャイムが鳴り終わって、教室の前方のドアから先生が入ってき た。委員長の起立を呼びかける声とともにみんな一斉にがたがたと立ち上がり、礼をして再び座る。
 そのとき、後ろの女子から何か話しかけられたアスカが振り返ってそれに答えた。そして身体を戻すときに一瞬だけ僕の上で視線が止まった。僕はずっとア スカを見ていたから、まっすぐに僕たちの視線はぶつかった。
 彼女の青い瞳から火花が散ったような気がした。でもそれは怒りとは別の何かのように感じられた。ただの勘、だけど。しかも僕の勘は結構外れるんだけど。
 一瞬の火花に僕の目が眩んでいる間に、世界は少し先へ進んでいたらしい。三度目の呼びかけでようやく先生の声に気付いた僕は、慌てて立ち上がって大きな 声で返事をした。

「はぁい!」

「おう、分かるのか。じゃあ、解いてもらおうか?」

 先生はチョークの先で黒板をこつこつ叩いた。そこには『1.(a)』とだけ書かれていた。えーっと、ひとまず教科書の何ページなのかってところから教え てくれませんか。





 あとで教えるという霧島さんの言葉は、何だかんだで延びに延びて、結局放課後になってから果たされることになった。たまたま霧島さんが所属するバスケッ トボール部が休みで、僕とトウジは帰宅部、ケンスケは写真部をサボるというので、学校を出た僕たち四人は雨の中を歩いて駅前のマクドナルドへ入った。
 それぞれ注文したものが載せられたトレイを手に二階へ上がり、騒がしい店内から道路に面したガラス張りの窓際席を確保すると、僕たちは顔を見合わせて 笑い合った。共犯者の笑みって奴だ。別に学校帰りに遊んでいくことが珍しいわけじゃないけど、やっぱりこういう時はちょっと特別な気分になる。店内を見渡 すと同じ中学校の生徒は僕たちだけのようだった。校則にはきっと駄目って書いてあるんだろうね。でも校則に最初から最後まで目を通したことのある生徒なん ていまだかつて存在しないと思うよ。
 それとも今日は僕たちの中に女子の霧島さんが混ざっているから、余計にそんな風に意識しているのかもしれない。通称三馬鹿トリオの僕、トウジとケンスケ は残念ながら女子と交流する機会にそれほど恵まれてはいないから、今日みたいな機会はものすごく珍しい。それこそ砂漠に降る雨くらいに珍しくて、そして貴 重なんだ。その証拠に写真馬鹿として名の通っているケンスケが、写真以外の理由で部活をサボってここにいる。潤いが足りてないんだね、ケンスケ。十四歳だ もんね。
 さてと、ケンスケのことはどうでもいいから話を進めなきゃ。
 席の並びは僕と霧島さんが窓側で向かい合い、それぞれの隣にはケンスケとトウジが座っている。お腹が空いていたのかトウジはさっそく自分の買ったビッグ マックの包みを開いてテレビコマーシャルみたいな食べ方で僕を笑わせてくれた。何か抗議したいのか、トウジは目一杯膨らんだ口をふがふが動かしたけど、あ いにくとトウジのふがふがは文字通りにふがふがとしてしか僕の耳には聞こえなかった。それを見ていたケンスケが皮肉げな声でトウジに言った。

「飲み込んでから喋れよ」

「ふんがが、ふがふが」

「まったく分からないよ、トウジ」

「ふがふが、ほが」

「わはは! 変な顔! 鈴原、超馬鹿っぽい! あはは!」

 霧島さんにとってはどこか感じ入るものがあったらしい。テーブルを叩いて身体を震わせながら爆笑している。トウジは顔を真っ赤にさせて言い返していたけ ど、 やっぱり何を言っているのかさっぱり分からなかった。というかいつまで噛んでいるんだ。大口で含みすぎだよ。
 やれやれ、とケンスケと僕は顔を見合わせてかぶりを振った。馬鹿なことをせずにはいられないトウジにつっこみを入れる役も楽じゃないんだ。女子の中には トウジのことを毛嫌いしている人たちもいる。たとえばおさげ髪がトレードマークの我らが委員長もその一人だ。でも霧島さんはこういう雰囲気を大らかに楽し むほうらしい。いい人だな、とほのぼのした気持ちになった僕が正面に向かい合った霧島さんを見ると、彼女も自分のハンバーガーにかじりついた ところだった。

「でかいね」

 霧島さんは、トウジと同じビッグマックを小さな両手で抱えるようにしてかぶりついたまま、何かを言おうとした。でも僕は彼女の前に手をかざしてそれを 遮った。

「飲み込んでからでいいよ」

 一番最後に注文をした霧島さんが何を選んだのか僕は見ていなかったので知らなかったんだけど、女子ってこんなに食欲旺盛なんだっけ。お菓子は別腹ってい うのはともかくとして、普通の食事だとそんなにたくさん食べない印象があるんだけどなぁ。ひょっとして彼女たちがいつも持ってきている、あのジョークみた いに小さい弁当箱は、実はやせ我慢なの?
 そんなことを考えながら僕は正面の霧島さんのことをじっと見ていた。彼女は恥らっているのか、小さな手から零れ落ちそうにも見えるビッグマックから申し 訳程度にかじり取ると、軽く俯いてリスみたいに小刻みにあごを動かした。口に含んだビッグマックの小さなかけらを飲み込んでしまうと、彼女は言った。

「だってお腹空いてたんだもん」

 そりゃあ腹が減ってなけりゃ、こんなものは頼まないだろう。実に簡潔で納得できる言葉だといわんばかりにトウジが霧島さんの隣で頷いていた。もちろん、 僕とケンスケは頷くのではなく笑うほかなかった。僕たちはどうやらトウジと違って、まだまだ女の子に甘い幻想を抱いていたらしい。

「すげえな。太らないのかよ」

 ケンスケが自分のチキンフィレオの包みを開きながら霧島さんに言った。一般的には女に体重の話を持ち出すのは間違いだということになっているけど、霧島 さんはからっと晴れた八月の青空みたいな笑顔であっけらかんと答えた。

「そりゃ運動しなけりゃ太るよう。でも私はバスケやってるから、ぜーんぜん太らないの。縦には伸びたけどなぁ。中学校に入ってから七センチか八センチか。 私、昔はすっごいちびだったんだよね」

「お前、そういや俺よりでかいよな」

 頬杖をついたケンスケは呆れたように言ってコーラをストローから吸い込んだ。

「お父さんもお母さんも家で私のこと男の子みたいとか言っちゃってさ。いっそ髪をもっと短く切り落としちゃおうかって言ったら、お母さんが本気でやめてよ とか騒ぎ出すから、今んとこ切らないでいるけどね。女の子がそんな風ににょきにょき背を伸ばしてたくましくなってどうするのだって。いいじゃんねぇ、女の 子がたくましくたって。バスケだって好きでやってるんだし、お腹が空けば美味しいものだって食べたいもの。太っちゃうのは勘弁だけど、今時百七十センチあ る女の人 だって珍しくない。短い髪だってかっこいいじゃん。ね、シンジくんもそう思わない?」

「えっ? あ、そうだね」

 霧島さんから突然話を振られて、テーブルの真ん中に置いたトレイの上にぶちまけられた全員分のポテトの山を切り崩すのに熱中していた僕は、少し首を傾け た彼女の、すでに女子として長いほうだとはいえない髪を見て言った。

「いいんじゃない、短くしても。似合いそうだし」

 別に大して考えずにした発言なんだけど、何故か下唇を噛んで笑いをこらえているような表情の霧島さんに、ポテトの山へ伸ばした手の甲をきゅうっとつねら れた。何だよう。

「はいはい。そこ、二人でいちゃつかんといてぇな」

 いちゃついてるわけないだろ。見てよ、ほら、つねられたところが赤くなった! 爪の痕がぁ! 暴力反対!
 という風にどうでもいいやり取りを交わしつつ、本題を忘れていなかった霧島さんは自分のカバンから一冊の雑誌を取り出して僕たちに見せてくれた。
 それは女子中高生向けのファッション誌で、やたらとパステルカラーで埋め尽くされてきらきらした可愛い女の子たちがたくさん載っていて、普段そんなもの に見慣れていない僕たちはほとんど洪水みたいなその雑誌に目がちかちか頭がくらくらで大変だ。僕たちがいつも読んでいるマンガ雑誌とは随分と違う。トウジ なんてぽかんとして口を開けているし、ケンスケでさえさっきから三度も眼鏡を拭いている。何か心なしか鼻息も 荒いような気もするけど、まあそれはいいや。
 僕のしていた無人島の話を聞いて霧島さんがひょっとしてと言っていたことが、この雑誌に載っているのだそうだ。彼女は問題のページを開くと、僕のほうへ 上下が正しく向くようにしてくれた。どうやらそこでは現在公開中の洋画についての特集が組まれているらしかった。ページのあちこちに、ぼろぼろの布切れを 身体に巻きつけただけという半裸姿の美男美女や、熱帯風の生い茂る草木や綺麗な泉などの風景、荒れ狂う海と小さなボートなどがスクリーンショットとして収 められている。

「この映画、知ってる?」

 訊いてきた霧島さんに僕は頷いてみせた。

「CMで見たことあるよ」

 内容はあまり知らないけど、そこそこ話題の大作らしいこの映画はテレビでよくCMが流れているので、存在自体は僕も知っていた。どうも雑誌の 記事によれば、年若い男女が二人きりで無人島に漂着する内容らしい。そこから親しくもない二人が色々な紆余曲折を経て、まあラストはどうなるのか知らない け ど、とにかくそんな感じの映画だ。
 一見してこの映画の一番重要なところはたぶん、主演の美男美女二人がほとんどのシーンを半裸でいるってことだと思う。間違いなく家じゃ親がいるときには 観られないね。僕の父さんっていわゆる気まずいシーンが流れたときにはいきなりテレビを消しちゃうんだよ。ぶちって。母さんがすぐにリモコンを奪ってつけ 直してから父さんの手を叩くんだけどさ。父さんったら、ふん、とか何とか言っちゃって。恥ずかしいならそう言えばいいんだ。おかげで僕は居場所がないよ。

「それでね、ここんとこを見てみて」

 霧島さんがそう言って小さな爪の先で示したところに僕は顔を近づけてよく見た。そこにはポップな装飾文字で『無人島にひとつだけ持っていくとしたら?』 と書かれていた。憶えのあるフレーズに思わず僕はあっと声を漏らした。質問の下にイラストとともにいくつかのパターンの答えが書いてあって、一番下のほう に『カレシにも訊いてみて! もしかして意外な本音が分かるかも?』と添えてあった。何でもかんでも恋愛に結び付けたがる女の子の悪い癖がここにも出てる ね。どうでもいいけど。
 ともあれ、僕はなるほどと思った。アスカなら当然この映画のことは知っているだろうし、霧島さんのようにこういう雑誌を読んでいたとしてもおかしくはな い。たまたま気まぐれを起こしてこの質問を誰かにしてみようというつもりになったのかも しれない。頭がいいわりに彼女は案外下らないことを面白がる部分がある。なるほどねぇ。考えてみれば誰でも思いつくような使い古された質問だし、やっぱり 意味というほどの意味はなかったのだ。ただ、そこでアスカが不機嫌になる理由だけはまったく想像もできないので、きっとあれはこの質問とはまったく関係な いことが原因だったのだろう。委員長にも言ったけど、アスカはしょっちゅう怒っているんだ。

「はー。でもシンジはこれ見て訊いてきたわけやないんやろ?」

 ところが、ダブルチーズバーガーをもぐもぐやりながら一人で納得しかかっていたところへトウジが投げかけてきた言葉は、僕を少々気まずい現実に引き戻し た。 何故と訊かれてアスカのことを話すのは嫌な んだけどなぁ。まあ別に名前を出さなければそれでいいのか。

「僕も他の人から訊かれたんだ。それでトウジたちにも訊いてみようと思って。それだけ」

「へえ。シンジは持っていくなら何にするんだ?」

「チェロだよ。訊かれたときもそう答えた」

「ああ。そういや習ってるもんな、チェロ」

 ケンスケが納得したように頷いた。やっぱりこれが普通の反応だよね。僕がケンスケのカメラという答えを聞いてなるほどと思ったように(トウジのたこ焼き はどうかと思うというか、きっとふざけて言っているんだろうけど)、僕を知る人たちならチェロという答えにすんなり納得してくれるはずなんだ。トウジと霧 島さんも当然僕がチェロを習っていることを知っているので、ケンスケと同じような反応をみせた。

「ほー。さすがチェロリストやな」

「チェリストだよ」

 トウジの言い間違いをすかさず僕が訂正すると、ケンスケは耐え切れずにコーラでむせて、霧島さんは隣のトウジから顔を背けて窓ガラスに手のひらと額を 押し当てて肩を震わせた。

「し、知っとったわい」

 いや、絶対さっきのは素だった。時々トウジはこういう天然ボケをやらかすんだよな。だから鈴原は馬鹿なんだと一部の女子から揶揄される原因でもあるんだ けど、付き合ってみると飽きなくて面白い。それでも本人はボケたつもりがなかったので恥ずかしいらしく、トウジは赤唐辛子みたいな顔色でやけくそにビッグ マックを口に詰め込んだ。だからそんなにすると喉に詰まらせちゃうよ。
 しばらく経って、飛び散ったコーラを綺麗に拭き取ったケンスケが言った。

「シンジはチェロ、俺がカメラ、トウジがたこ焼き。霧島ならどうする?」

 よほどトウジのボケがつぼに嵌まったらしく涙を拭いていた霧島さんは、ああ、おかしかったと深呼吸をすると、うーんとケンスケの質問に対して首をひねっ てみせた。

「そうだなぁ、私なら……」

 彼女は正面の僕の顔を見て、それから窓の外の通りに視線を移した。僕たち他の三人も彼女につられて同じほうへ何となく視線を向けた。雨が降っているので ひどく薄暗いけど、夕方の駅前というこ ともあって人通りは多く、僕たちと同じ中学校の制服もちらほらと見受けられる。みんな傘を広げているのでここから顔まで見分けるのは難しいけど、ひょっと するとクラスメイトなんかもいるのかもしれない。

「一生かかっても食べきれないくらい一杯のイチゴっていうのも捨てがたいなって思うんだけど」

 トウジと同系統のことを言う案外食い意地の張った霧島さんは、窓の外から視線を外してこちらを向き、頬杖をついた。

「映画みたいに彼氏と二人きりになれるのも悪くないな」

「くわっ。女はすぐこれだもんな」

 ケンスケが霧島さんの答えにうめき声を上げると、彼女は背筋を伸ばして澄ました顔を作って言った。

「失礼ね。いいじゃん、女なんだもん」

 さばさばした霧島さんでもやっぱりこんなこと考えるんだなぁ。あれ、でも待てよ?

「霧島さんって彼氏いるんだ?」

 僕が疑問を口にすると、霧島さんは一瞬間の抜けたような顔をしてから、すぐに笑って顔の前で手を振りながら首もふるふると横に振った。

「いないよう。だからもしもいたらって話」

 あ、いないんだ。可愛いし性格もいいから、てっきりそうなんだと思っちゃった。
 心なしか顔を赤くさせた霧島さんがポテトをつまみながら言った。

「でも素敵な彼と二人きりの世界ってやっぱり憧れるでしょ?」

「そうかなぁ? 二人きりだと色々不便だと思うけどなぁ」

 僕が首を傾げたら横からケンスケのつっこみが入った。

「まじで考えるなよ、シンジ。本物のサバイバルをするわけじゃないんだからな」

「あ、そうか」

 ま、そうだよね。本当にそんなことあるわけないし。
 でもアスカだったら何を持っていくって答えるんだろう? 僕はもう一度窓の外に視線を向けた。無数の水滴の向こう側に映る空はどこまでも黒い雲に覆われ て、雨が降り続いていた。

「ちょいわしションベン行って来るわ」

「あ、俺も」

 トウジとケンスケが連れ立ってトイレへ向かうと、霧島さんがわざと怒ったみたいな声で言った。

「もう、男子って何でわざわざ汚い言葉使うんだろ」

「えっと、そうだね」

 僕は曖昧に相槌を打った。ションベンのことを言っているんだろう。でも僕も一応男子なんだから、同意を求められたって困るよ。
 一度会話はそこで途切れて、僕はもう冷めてきているポテトをつまんで口に運んだ。霧島さんはドリンクの容器を両手で包むように持ったまま、時々ストロー をかき回して氷をしゃらしゃら鳴らしていた。

「あのね」

「うん?」

「シンジくんはさっきの質問、誰からされたの?」

 それは訊いて欲しくない質問だった。トウジたちのほうはどうやらうやむやにして誤魔化せたようだけど、霧島さんはそうはいかないようだった。

「別に。誰だっていいじゃ……」

「アスカ?」

 僕の言葉を遮って霧島さんはいきなり正解を口にした。うわっ、どうして?
 少し驚いて彼女の顔を見ると、どきっとするくらいまっすぐな眼差しが槍のように僕へ向かってきていた。鼻先で火花を散らすそれに僕は息を呑んだ。

「そうでしょ?」

「……そうだよ。あいつも結構ミーハーだから、面白そうだと思って訊いてきたんだと思うよ。僕が答えたらつまらないとか言ってどっか行っちゃったけどね」

 念を押す霧島さんに誤魔化しても無駄だと思い、肩を竦めて僕が言った。すると彼女は少し間を置いてから表情を緩めて微笑み、ずっともてあそぶだけだった ストローをくちびるで挟んで吸い込んだ。

「だと思った。一緒に観に行くの?」

 観にって何を、と咄嗟に分からなかったのだけど、開かれたままだった雑誌のページを指す霧島さんの指を見て何のことだか気付いた。

「まさか。行くわけないよ」

 当たり前だ。学校で会えば楽しく話もするけど、僕とアスカはそんなに親しいわけじゃない。まして二人で一緒に遊びに行ったりするような関係では、まった くないんだ。霧島さんも妙なこと言い出すよな。びっくりだよ。

「ふぅん。ほんと?」

「本当。やだな、疑ってる?」

「へっへっへ、まあ信じてあげましょうか」

 霧島さんはいやらしい笑い方をわざとすると、でもさ、と言った。

「シンジくんはこの映画に興味ないの? 面白そうじゃない」

「そうかな。僕ってあんまり映画とか観ないから」

 正直に言うと、この無人島の映画にはあまり興味が湧かなかった。そもそも恋愛ものは好きじゃないし、どうせ観るならアクションとかSFのほうが断然い い。正直にそう答えたら、何故か霧島さんは頬を膨らませて不満そうな声を上げた。

「結構話題になってるのにな。ねえねえ、シンジくん。興味ないなんて言わないで、せっかくだからさ、私と一緒に観に行かない?」

「え。いや、いいよ」

 霧島さんの申し出にぎょっとした僕は慌てて断った。だっておかしくない? それじゃまるでデートじゃないか。付き合ってるわけでもないのにどうしてそん なことをしなくちゃ いけないの。

「うわっ。冷たい。冷たいなぁ、女の子がせっかく誘ってあげてるのに」

 恩着せがましいことを言いながら、手を伸ばしてきた霧島さんはまた僕の手の甲をきゅっとつねった。そしてそのまま僕の人差し指と中指を掴んで離さなく なった。

「離してよ」

「い・や・だ」

 霧島さんの小さな手はひんやりして少し汗ばんでいた。僕だって男だから、嫌いではない女の子に手を握られて嫌な気がするわけじゃない。むしろちょっと気 分がいい。でも一応、男子としての面子とか照れ臭いからとか、そういった理由から僕は彼女に離してと言わなくちゃならない。男子って案外面倒くさいもの だよね。

「トウジたちが帰ってきちゃうよ」

「ふーん、そういうの気にするんだ?」

 霧島さんが僕の言うことを聞く気配は一向になかった。まあ所詮男子なんてこんなもんだよ。諦めの境地に至った僕は彼女にされるがままになることにした。 もう、どうにでもして。

「シンジくん、指長ーい。ね?」

 僕の人差し指と中指を片方ずつ持って引っ張りながら左右に広げて霧島さんは言った。こらこら、裂ける裂ける。

「長くないよ。普通だよ、これくらい」

「ううん、音楽やってる人の手って感じ。長くて細くて。でも私みたいな女の子とは違って、やっぱり男の人の手なんだ。硬いんだもの。血管も浮き出てる。す ごい。こ ういうの、ちょっとかっこいいな」

 と、霧島さんは僕の手を好き勝手にいじくり回しながら一人で感心していた。自分ではそんなことまったく思わないけどな。ただの手だもん。

「聴いてみたい」

「え?」

「好きなんでしょ、チェロ。無人島にまで持って行こうってくらいなんだもの。聴いてみたいなぁ、私」

 霧島さんは僕の指の間を広げるのをやめて、最初みたいに人差し指と中指を掴んだ。こうしてみると、背丈はそれほど違わないのに霧島さんの手は随分華奢で 頼りない 感じがした。これでどうやってバスケなんてやっているんだろう?

「えっと」

「駄目かな」

「駄目ってわけじゃ……」

 答えあぐねて僕は黙ってしまった。霧島さんは悪戯っぽい顔でこちらを見ている。何だかからかわれているみたいだ。ヘビに睨まれたカエルってこんな感じな のかな。逃げ出したいよう。
 ところが僕にとっては幸いなことに、霧島さんの妙なプレッシャーからはすぐに解放されることになった。

「せやから何でお前らはいちゃついとるねん」

「いやーんな感じ……」

 振り返るとトイレから戻ってきたトウジとケンスケが変な顔で変なポーズをとっていた。二人の視線は僕と霧島さんの繋がれた手にまっすぐ注がれている。

「いや、これはそのぅ……」

 いいわけをしようと僕は焦って口を開いたけど、それを遮るように対面の霧島さんが大きな声で笑い出した。

「ぶはっ! 二人とも変な顔! うははは!」

 この人って実はすごい大物なのかもしれない。僕たち三人から向けられる視線をものともせず、霧島さんは楽しそうに笑い続けた。
 トウジとケンスケはしばらく座るのも忘れ、僕はといえばテーブルの下でようやく霧島さんから解放された手を握ったり開いたりしていた。部活のバスケをば りばりやって学校帰りにはビッグマックをぺろっと食べちゃう男勝りな霧島さんの手が、どうしてあんなに柔らかいんだろ。変なの。





 霧島さんと一緒にマクドナルドへ行ってから何日かして、妙な視線が自分の周囲に纏わりついていることに僕は気付いた。
 初めからどことなく違和感を感じていたんだ。でも僕には特に心当たりはなかった。寝癖がついているわけでもなかったし、シャツを後ろ前に着たりもしてい なかった。お風呂もちゃんと入っているから臭うわけでもない。一応、トウジとケンスケにどこかおかしいところはないか訊ねてみたけど、返ってきた答えはい つもと変わりないというものだった。自分でも気付かないうちに人の恨みを買ったり陰口を囁かれるようなことをしてしまったんだろうか。ここにいちゃ駄目な んだろうか、と打たれ弱い僕は早く も傷ついて底なし沼に沈みかかっていた。
 何日目かに一体何が起こっているのか教えてくれたのはケンスケだった。僕とトウジ、ケンスケは弁当を持って屋上へ出ていた。ここ数日のストレスで元気の なかった僕を励ましてくれようとしたのか、トウジが屋上で食べようと言い出したのだ。それとも単に珍しく雨が降っていない日だったからかもしれないけど。
 梅雨の晴れ間で空はからっと青く、照りつける陽射しが眩しくて、風がとても気持ちよ かった。適当なところに腰を下ろして食べ始めると、ケンスケが切り出した。

「お前が言ってた話だけどな、シンジ。どうも何人かの女子の間で噂になってることがあるみたいだ」

「噂?」

 僕は水筒からコップにお茶を注ぎながらケンスケの言葉を繰り返した。

「ああ。お前と霧島が付き合ってるんだと」

「はあっ?」

 思わず手を傾けすぎてお茶が零れた。

「何だよ、それ!」

「こっちだって知るかよ。誰が言い出したんだか知らないけど、とにかく女どもはその手の情報には恐ろしく耳が早いからな。放っとけば一気に広まるぞ」

 勘弁してよ。誰と誰が付き合っただの別れただの話したければ好きにすればいいけど、それにこの僕を巻き込まないでよ。自慢じゃないけどこの十四年間生き てきて、一度だって女の子と付き合ったことなんてないんだ。バレンタインだって母さん以外からは幼稚園のころポストに入ってた差出人不明のチョコしかも らったことはない。告白をされたことさえないというのに、何だってこんな根も葉もないような噂が立つんだ? 僕がどんな悪いことをしたっていうの?

「まあ、普通に考えればこの前マックに行ったのを誰かが見てたんだろうな」

「ケンスケたちもいたじゃない」

「たまたま気付かなかったのか。お前と霧島が窓際だったからな。俺とトウジは外からは見えなかったのかも」

「そんな、でもたったそれだけのことで」

 一緒にマクドナルドに入っただけで付き合っていることにされるだなんて、そんなふざけたことがあってたまるもんか。

「ええやん。いっそほんまに付きおうてみたらどうや」

「ええわけないだろ、トウジのあほ!」

「あ、でも霧島ってたぶんシンジのことが好きなんだと思う」

「せやな。あれは絶対怪しいで。にやにや嬉しそうにしてセンセの手ぇ握ってからに」

「ラッキーじゃないか。霧島は結構人気あるんだぜ。写真部でも被写体にしたいとか言ってる奴もいるくらいなんだ」

「まあ悪い奴やないことは確かやな。女にしては」

「意外とスタイルもいいんだ。知ってたか?」

「うぇっへっへ、相田屋、おぬしもエロよのう」

「いっひっひっひ」

「うるさいうるさい、うるさーい!」

 二人とも他人事だと思って好き勝手言って!
 へらへら笑っている親友二人の態度に僕はぷりぷり怒りながら弁当をかき込んだ。まったくこの二人ときたら! いくら人のいい僕でも怒っちゃうよ!
 でも実際には僕と霧島さんが付き合っているという事実はないのだし、放っておけばそのうち噂は立ち消えになるんだろう。霧島さんの耳にすでに入っている のかどうかは分からないけど、彼女だって否定するはずだ。僕なんかとこんな噂になっちゃ迷惑だもんね。
 だから理由が分かってしまえば、居心地が悪くともそれほど心配するようなことでもなかった。知らないところで失敗したり嫌われたりしたのではなくて本当 によかった。そちらのほうじゃなくて僕は心底安心していた。
 ただし、まだ多少面倒くさい思いはしなければならないようで、今まさにそれは僕たちのほうへ近づいてきていた。

「こんなところにいたのね。ちょっといいかしら」

 ちょうど逆光になる形で僕たち三人の見下ろすようにおさげ髪の女子が立ちふさがった。
 出たよ、委員長。他にも何人か連れ立っているけど。

「どないしたんや、いいんちょ」

「鈴原なんかには用はないわよ。私たちが話しかけてるのは碇くんなの。黙ってて」

「な、何やとう!」

 相変わらずトウジには容赦のない委員長は、いきり立つ彼を冷たい目で見下ろすと腰に手を当てて僕のほうへ視線を移した。どうでもいいけど、これじゃまる で悪役みたいだよ、委員長。

「僕に何か用?」

「ちょっと来てくれる?」

 僕が問いかけると委員長は手招きした。

「ここで話せばいいじゃないか」

「相田にも関係ない話よ。いいからちょっと来てよ、碇くん。すぐ済むから」

 今度は委員長の後ろにいる別の女子が口を挟んだケンスケに向かって言った。僕がトウジとケンスケを窺うと、二人とも面白くなさそうな顔をしてこちらを無 視すると、また弁当 を食べ始めた。そりゃそうだ。 大体女子ってのは自分たちの都合しか考えてないんだよな。やれやれ。
 トウジたちから離れて屋上の入り口あたりまで来ると、委員長たちはやっと話し始めた。

「それで碇くん、どういうつもりなの?」

 いや、僕が訊きたいよ、それは。話を端折りすぎでしょ。わけ分かんないよ。

「ごめん、何のことかな」

「誤魔化す気? 霧島さんとのことよ。本当なの、あれ?」

 やっぱりね。絶対そのことだと思ったよ。

「ああ、それ」

「ああって、やっぱり本当なのね?」

「誰もそんなこと言ってないだろ。人の話を聞く前に結論に飛びつかないでよ。霧島さんとは付き合ってないよ。誰が言い出したんだか知らないけど」

 僕が多少いらいらしながら答えると、女子の一人が、なぁんだ、つまらないという顔をしたのが見えた。それにしても不思議なんだけど、他人の事情がどうし てそんなに気になるんだろうね? 僕なんか自分のことで手一杯なのに。
 でも委員長はまだ納得したわけではないようだった。

「付き合ってないの? でも碇くんと霧島さんが二人でマックにいたのを見たって子がいるわ」

 確かにそれは事実だけど、二人きりじゃない。

「それで、二人で手を繋ぎ合ってずっと見つめ合ってたって」

「ちょっと待って待って」

 僕は慌てて委員長の言葉を遮った。あの日僕たちを目撃したのが誰だか分からないけど、どうも見たままの状況からかなり話が曲解されているような気がす る。ずっと見つめ合っていただって? トウジたちのションベンがそんなに長かったか?

「どうも誤解されてるみたいなんだけど」

「誤解って何よ」

 言い訳できるものならしてみるがいいとばかりに胸を張ってあごを引いた委員長に睨まれて、暑さとは別の理由から額に汗の浮かんだ僕なんだけど、ここで誤 解を解かなくちゃあとあととんでもな いことになりそうな気がしたので、必死に勇気を奮い起こした。まったくお白州にでもいる気分だ。おさげ髪の大岡越前、頼みますよ、ほんとに。

「まず僕と霧島さんは確かにマックに行ったけど、二人じゃなかったよ。トウジとケンスケも一緒に四人で行ったんだから」

「でも席には二人しかいなかったって」

「外からは見えなかったんじゃないの? それともちょうどトウジたちがトイレに行った時だったか」

「ふぅん」

 疑わしそうに委員長は眉をひそめた。よほど僕たちは信用されていないらしい。まったくかよわい男子をこれ以上苛めないでほしいよ。僕なんてシマウマみた いに害がないのに。ほら、草食動物っぽい顔してるでしょ?

「それでも普通何でもないなら手を繋ぎ合ったりしないわよね。本当は前から付き合ってて、鈴原たちもそれを知ってたから隠す必要もなかっただけじゃない の? いいえ、それとも鈴原たちも知らないのかもね。普段は一緒にいても何もないような振りをしてるんだわ。でもあいつらが席を立った隙に我慢できなく なって二人でこっそり手を繋ぎ合って……、そうなんでしょ?」

 それを聞いた僕は呆れて二の句も告げなかった。何なんだよ、その新しいストーリーは。一体いつの間に僕と霧島さんとの間にそんな歴史ができたっていう の? 大体が僕と霧島さんは手を繋いでいたわけじゃない。ただ単に彼女が僕の手で遊んでいただけだ。
 やれやれ、まったく。ため息が出ちゃうよ。

「どうなの、碇くん」

 委員長が焦れた声で促した。

「どうもこうも……、洞木さんの想像力の豊かさにちょっと感動してた」

 僕が皮肉を返したら彼女はかっと赤くなった。まあ悪気があるわけではないのだろうけど、これくらいの復讐は許されると思う。委員長が信じて疑いもせず全 身に纏っている正しさの衣は、時々僕たちには窮屈だ。だからこうして皮肉のひとつも言いたくなる時があるんだ。ごめんね。

「とにかく、いくら訊かれても付き合ってないものは付き合ってないとしか答えられないよ。霧島さんには当たってみたの? きっと同じように答えるはずだ よ。それじゃ、もうこれでいい?」

 僕が委員長の後ろの女子たちの顔を順に見ると、彼女たちは物足りなそうな表情をしつつも、頑なな僕をこれ以上追求する気は殺がれてしまったようだった。 どこまで僕の言うことを信じているのだかは分からないけど、結局事実は事実でしかないわけで、霧島さんとは付き合ってないんだから、もう放っておいて欲し い。一足す一を何度繰り返しても二にしかならないように、何度訊かれたって僕の答えは変わらないんだ。
 この下らないやり取りでどれくらい休憩時間を無駄にしただろうと考えながら委員長たちに背を向けてトウジたちのほうへ戻ろうとすると、僕の背中に委員長 が最後の質問を投げかけてきた。

「どうしてそもそも霧島さんと放課後にマックに行ったりしたの。鈴原たちがいたのはともかく」

 僕は振り返って委員長を見た。僕も訊きたい。どうしてそもそも彼女は僕と霧島さんのことを気にするんだろう。どうもあの態度はただの興味本位とも思えな いんだけど、委員長には何の関係も、影響もないはずじゃ ないか。
 ま、訊かないけどさ、僕は。

「別に。たまたまそういう話になっただけだよ。ハンバーガー食べてお喋りして帰った。ただそれだけ」

 答えるだけ答えて僕は再び委員長たちに背中を向けて歩き出した。やっと終わった、と胸を撫で下ろしたところだった。少し遠ざかった委員長から僕に向け て聞こえよがしな言葉が飛んできた。

「『ただそれだけ』なんだ。碇くんって結構軽いんだね!」

 あのね、忘れないで欲しいんだけど、僕はすごく打たれ弱いんだ。傷つきやすいんだよ。
 だから軽いだなんて言われて、ちょっとショックを受けた僕は思わず足並みが乱れてしまった。それにあんな嫌な言い方をしなくたって。委員長って僕のこと 嫌いなのかなぁ。
 トウジたちに慰めてもらわなきゃ。まああいつらにどこまで期待できるかは分からないけどね。





 委員長の言葉の刃によって胸をえぐられ、そのあと親友二人のおどけた慰めにいらっとしつつも癒されて、その放課後の帰り道でのことだった。いつも途 中まで一緒に帰っているトウジと別れて、僕は一人で道を歩いていた。
 初めは声をかけられたことに気付かなかった。トウジと別れてからはイヤホンをつけて音楽を聴きながら歩いていたからだ。でも、二度目の呼びかけは後ろ頭 への衝撃とともに降ってきた。

「人が呼びかけてるんだから気付きなさいよ、馬鹿!」

 こういう乱暴をする人間は僕の周りには一人しかいない。振り返ると相変わらず偉そうに腰に手を当てて胸を張ったアスカが僕の後ろに立っていた。彼女の右 手には正体不明の手提げ袋が提げられていて、どうやらこれがさっき僕の頭を叩いた凶器であるらしかった。別に痛くはなかったけどさ。

「叩くことないだろ」

「叩かれるまで気付かないなんて危険だわ。いつも車が車道を走っているとは限らないのよ」

 いや、何だよそりゃ。正論なようで自分の無茶を正当化してるだろ。あっ、勝手にイヤホンを取らないでよ! もう、つっこみが追いつかない!

「何聴いてるの? ……ふぅん、こんなのも聴くんだ。あ、分かった、ボーカルが可愛いからでしょ。やーらしいんだ」

「放っといてよ。大体アスカだって、俳優の何とかってのがかっこいいとかどうとか言ってたじゃない。あとコードをあんまり引っ張らないでよ」

 僕が抗議すると、鼻を鳴らしたアスカは勝手に耳に当てていたイヤホンをこちらに投げ返して、胸の前で両手を祈るように組み合わせた。

「加持さんよ。加持リョウジ。あの人は別格よぉ。好きにならないほうがどうかしてるわ。東洋人も悪くないわよねぇ」

 夢見心地で馬鹿みたいな顔を晒しているアスカを眺めているのもむかむかするので、僕はイヤホンのコードを巻き取るとカバンにしまい、彼女に背を向けて とっとと歩き出した。

「あっそ。それじゃあね」

「あっ! こら馬鹿、待ちなさいよ!」

 アスカはすぐに走って追いついてきて、手に持った袋でぼかすか僕の背中を殴った。やれやれ、人のことをサンドバックか何かと勘違いしているんじゃないだ ろうね。

「何よ。拗ねちゃったの? 加持さんとあんたが比較にならないのはどうしようもないでしょ」

「加持リョウジの話はもういいよ」

 大体誰も比較なんてしてないじゃないか。一体アスカは何を言っているんだ。僕はたださっさと家に帰りたいだけなんだ。一人で静かに歩いて、どこかの暴力 おしゃべり女に邪魔されることなくね!

「何よぉ、もう。ぶすっとしちゃってさ」

 アスカは僕の横に並ぶと、脚を前へ勢いよく蹴り出すようにぴょんぴょん跳ねて歩いた。彼女が跳ねるたびに、彼女の持つカバンや彼女の長い髪や、あるいは 肩が僕の身体にぶつかった。こういう時のアスカは決まって相手をして欲しがっているんだ。昔から変わっていない。僕は深い深い海のようなため息を時間をか けて吐き出すと、本当に不本意ながら仕方がないので観念してしぶしぶ言った。

「で、何か用?」

「用なんかないわ。姿を見かけたから声をかけただけ」

 予想してなかったわけじゃないけどね。まったく嬉しくて泣けてくるよ。

「アスカって暇なんだね」

「帰宅部のあんたに言われるとは思わなかったわ」

「僕はチェロをやってる」

「あたしだって生徒会やってるわよ。だからまーったく暇じゃないの。今日はたまたま仕事がなかっただけで、いつもはちゃあんと真面目に活動してるの忙しい の!」

「はいはい、分かった分かった、ごめんでした」

 よくも一息でそれだけ言葉が出てくるものだ。僕は両手を降参の形に持ち上げた。僕はアスカと言い争う気はいつだってないんだ。勝てるわけがないからね。

「何よ、生意気な態度。はーん、あれでしょ。最近あんた、ちょっともててるらしいじゃない。それで天狗になってるんじゃないの? はっ、男子ってこれだか ら単純!」

 一瞬、僕の身体はびくっとした。まさかアスカまでこんなことを言ってくるとは思っていなかったのだ。何なんだよ、一体。今朝の朝刊に僕と霧島さんの 顔写真でも出てたのか?

「一応訊くけど、何の話?」

「何ってそりゃ、あれよ。あんたが……霧島さんと、その、付き合ってるらしいって」

「まさかとは思うけど、信じたわけじゃないんでしょ?」

 たぶん僕はあまり見られた顔をしていなかったと思う。アスカと目が合った一瞬、彼女が怯んだような気がした。

「あったりまえでしょ。信じるわけないじゃん。あんたみたいなのと霧島さんが。まあでも、万が一ってこともあるし。もし本当ならそれはそれでいいけどさ、 あんまり勘違いしないほうがいいって釘刺しといてやろうと……」

「やめろよ!」

 アスカは口を開いたまま固まった。呆気に取られているようだった。大きく見開かれた目蓋の下で青い瞳が湖のように揺れていた。

「……やめろよ」

「……ごめん」

 固まったままの表情でぽつりとアスカは謝った。それを置き去りにして僕が先へ歩き出すと、後ろからまた足音がついてきた。
 僕たちはさきほどまでとは打って変わって一言も喋らず、ただ並んで歩いた。彼女もばつの悪い思いをしているみたいだったけど、この僕だって後悔で押し潰 されて死にそうだった。そりゃ人間なんだから怒りを感じることだってある。でもだからといって、誰かを傷つけたいと考えているわけではないんだ。特にあん な顔をされたらね。もう駄目。
 夕方の少し湿り気を帯びた空気はぬるく僕の肌に纏わりついて、時折通り過ぎる風がそれを柔らかく吹き飛ばしていった。でも僕の内側にこもる熱は、そんな 風ではどこかへ行ってはくれなかった。どうすればもっとうまく振舞えるんだろう。僕には一向に分からず、それが悔しい。意味もなくこぶしに力を 込めて握り、そして緩めた。
 さっきのアスカの顔。泣くのかと思った。ちくしょう。
 結局、僕の家の前まで来る五分足らずの間、僕たちは話らしい話をすることはなかった。アスカの家はここからさらに先に行ったところにある。僕がうちの門 に手をかけて振り返ったら、彼女は立ち止まってこちらをじっと見守っていた。やっぱり彼女が何を考えているかなんて僕には分からない。ただこのままこうし て突っ立っているわけにもいかないから、こちらから切り出すことにした。

「じゃあ」

「うん」

 彼女は頷いて、顔の前に流れた長い髪の毛を耳の後ろへ戻した。

「また」

「うん。また」

 門扉を押して開くと、ぎぃぃーと軋む音がした。

「アスカ、これで最後だよ。何か用があるの?」

 訊ねると彼女は一度左に視線を流し、それからこちらを見て、言った。

「ヒカリが何か言ったでしょ」

「ああ。霧島さんのことをね、訊かれたよ。かなり鼻息が荒かったけどね」

「許してあげてね。あの子はちょっと……えっと、あれよ、義理人情に厚い?」

 アスカは時々日本語がおかしい。日本人歴がまだ四年だから仕方がないといえば仕方がないけど。
 僕は自分の口元がちょっと綻んだのが分かった。

「友達思いってこと?」

「そう! そう……、だからうるさいこともあるかもしれないけど、悪気はないのよ」

「分かってるよ」

「ならよかった。それだけよ。うん、それだけ」

 ようやく言いたいことを言えたという感じにアスカは頷いた。
 やれやれ、と僕は思った。結局最初からこれが目的だったのだ。昼に僕と委員長との間でひと悶着(というほどのものでもないけど)あったことを聞きつけ て、委員長の一番の親友として放っておけなかったのだろう。今日はたまたま生徒会の仕事がなかったというのもきっと嘘なんだ。
 時折吹く風になびく髪を押さえているアスカを見ながら僕は思った。友達思いで優しいのはアスカのほうだ。本人にはこんなこと言わないけどね。代わりに委 員長のことでも言っておこう。

「委員長も友達の霧島さんのことが心配だったんだろうね。本当に僕なんかと、って」

 どこにもおかしなところはなかったと思う。でも僕の言葉を聞いたアスカの顔は見事なまでの呆れ顔になった。

「あんたって……ばか」

 彼女は顔を押さえて俯くと、何だか深刻な感じのため息をひとつ吐き出した。
 どうやら僕はまた失敗したらしかった。問題はどこをどう失敗したのかが分からないということなんだ。

「いいのいいの。分かってたから。察しのいいあんたなんかあんたじゃないわ」

 随分なことを言いながらアスカは疲れ果てたみたいに乾いた笑い声を立てた。僕も一緒になって笑ってみたら、レーザービームみたいな視線で睨まれて、何が おかしいのよと噛みつかれた。何もおかしくないよ。笑ってたのはそっちだろ。何だよもう。僕にどうしろって言うんだよう。

「まあいいわ。それじゃあね。あたしも帰るわ」

 アスカは歩き出すために身体の向きを変えて手を振ってみせた。

「うん。また明日」

 僕が手を振り返すと、彼女は振っていた手のひらをぎゅっと握って僕のほうへ突き出した。

「スィーユートゥモロー、シンジ」

 アスカが歩き去るのを確認してから玄関を開けて家に入ると、仏頂面した母さんがどうしてアスカを家に上げなかったのかと僕を責めた。どうやら玄関の外の 僕とアスカに気付いて待ち構えていた らしい。何を言っているんだか。上げるわけないだろ、理由もないのに。
 つまらないわ、何て気の利かない息子なのかしらとぼやいている母さんを無視して僕は自分の部屋へ向かった。どういうつもりだかは知らないけど、こ れだけは断言する。母さんは男子中学生のセンチメンタリズムなんてこれっぽっちも分かっちゃいないね。





「ねえ、あなた、聞いてよ。この子ったら今日アスカちゃんと一緒に学校から帰ってきたのに家にも上げないでそのまま帰しちゃったのよ」

 母さんが夕食の席で父さんに向かって言うのを、僕はため息とともに聞いていた。どうも母さんはいまだに僕がアスカを家に上げなかったことにこだわってい るらしい。大体これまでだってそんなことはほとんどしたことがないのに、一体どうしたっていうんだろう。また変なドラマでも見たのか。私、女の子が欲し かったわ、とか言い出すんじゃないだろうね。

「シンジ。惣流の娘さんとは仲良くしてやるように言っておいただろう。忘れたのか?」

 父さんは母さんの言葉を受けてそう言うと、福神漬けをぽりぽり噛んだ。今日はカレーなのだ。

「仲良くってったって、それは昔の話でしょ。僕たちもう中学生なんだよ」

「だから何だ。そんな理由でお前は外国から来て心細い思いをしている女の子を見捨てるのか。お前はそれでいいのか?」

「いや、見捨てるのかって。大体父さんは最近のアスカを知らないでしょ。あれのどこが心細い思いをしてるっていうんだよ。もう完全に順応しきってるよ」

 僕の反論を父さんはもりもりカレーを食べながら黙って聞いていた。父さんは身体も大きい分食べ方も豪快なんだ。時々僕は本当にこの人の息子なのかって思 うよ。何しろ僕はクラスでも身体が大きな部類とは決して言えないからね。かといって小さくもないからいいんだけどさ。

「もう、あなたたち。そういう問題じゃないでしょ」

 父さんと自分にサラダを取り分けながら、母さんが口を挟んできた。僕の分はって訊いたら自分で取れだって。ちぇっ。

「問題は、女の子を玄関先から突き返したってことなのよ」

 サラダを皿に盛りながら、僕はまたため息を吐き出した。どうやらまた、事実が捻じ曲げられているような気がする。これだから女って奴は。

「シンジ、言葉だけでも誘ってみるのが礼儀というものだ」

「やだよ。子どもがそんな社交辞令使ってたら変だろ。大体今日だってたまたま帰りに一緒になっただけだし、こんなこといつもはないんだか らいいの」

 これは本当のことだ。確かにアスカが日本に来たころなら何度か互いに行き来していたけれど、今はもうそんなことはない。アスカだってもう僕なんかに頼ら なくても充分一人でやっていけるし、中学二年にもなって男子と女子がそんなことをしているのはちょっとおかしい。何といっても僕たちは付き合っているわけ でもなくて、ただのクラスメイトなんだから。

「いっそお付き合いすればいいじゃないの。せっかくの縁なんだから」

 僕の気を知ってか知らずか、母さんがまた無責任なことを言った。

「見合い結婚じゃないんだよ。人の恋愛を縁で片付けないでよ」

「あら、なあに。それじゃシンジは他に誰か好きな子でもいるの?」

「そんなのいないよ」

「じゃあいいじゃない」

「全然よくない!」

 まったく話が通じないったら! 始末に終えないよ。大体アスカの意思はどうでもいいの?

「その歳になって好きな子もいないのか。だらしないぞ、シンジ」

「うるさいなぁ。僕の勝手でしょ。父さん、口の横にカレーがついてるよ。違う、そっちじゃない。左、そう、そこ」

 ティッシュで口元を拭き取ると、父さんはぼそぼそした声で言った。

「父さんが中学生のころはもう……、いや、まあ俺のことはいいか」

「ゲンドウさん」

 うわ、母さんの『ゲンドウさん』が出た。父さんめ、口を滑らせたな。
 僕は次の事態を予想して、皿に残っているカレーを手早くかき込み始めた。

「初耳だわ、それ。私もあなたの昔のことが聞いてみたいわ。すっごく興味あるの」

「いや、まあ、その、何だ」

「何でしょう?」

「何だったかな……」

 顔を逸らして今にも口笛でも吹き始めそうな父さんのことを、テーブルに両肘を揃えてついてお椀みたいに広げた手のひらの上にあごを乗せた母さんが、じっ と 見ていた。
 まあ、あれだね。負けるな、おやじ。助けてはやれないけど。

「ごちそうさま!」

 ほーんと、ごちそうさまってね。





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