2.空を飛ぶ方法




 まるでかんしゃくを起こしたような大雨だった。夏の大気はいつも不安定で、雷が鳴り始めたと思ったら、あっという間に槍のような雨粒が、街を水没させる 勢いで降り出したのだ。
 朝にはからっとした晴天だったために、傘の備えをしていなかったあたしは、学校からの帰り道でその豪雨に見舞われて、家までの残りの距離を走らなくては な らなかった。
 玄関を開けたときには、水から揚がった魚のようにずぶ濡れだった。シンジが先に帰っているかと思ったのに、誰もいなかったので、仕方なくあたしはぼたぼ たと水滴を落としながら、家に上がった。
 脱衣所で、あたしは濡れて身体に張り付いた制服を脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。同じように濡れた下着も脱ぎ捨てる。身体はタオルで拭いて済まそうと考えて いたのだけど、いざ裸になってみると、汗もかいていることだし、このまま風呂に入ってしまおうという気になった。そもそも、日本は本当に暑いので、雨に降 られなくたって日に何度も入浴したくなるのだ。
 シャワーを浴びてさっぱりすると、浴室から出て、バスタオルで身体を拭いた。いまだに続くすさまじい雨音が、脱衣所にいても聞こえてくる。身体を拭き終 えると、長い髪をタオルに包んで頭に巻きつけ、そのままふと鏡を見た。
 もしシンジがあたしの裸を見たら、美しいと言ってくれるのだろうか?
 鏡の前にまっすぐに立ち、そこに映る自らの身体を眺めながら、あたしは考えた。
 でも、仮に彼がそう言ってくれたとしても、それは欲望が目を曇らせているに過ぎない。
 しょせん彼もあたしも、この地上の汚濁に染まった、みにくく愚かな 人間でしかないのだから。
 鼻の付け根あたりに込み上げる涙の気配を感じて、あたしは目を硬く閉じた。
 ここでぶざまに泣いてしまっては、いよいよあたしは人間になりきってしまう。
 自らの背に愛情の証を取り戻すまでは、せめて顔を上げて誇り高く生きようと決意したにもかかわらず。
 薄汚れていても構わないから、シンジが与えてくれる慰めに溺れたくなる。
 そして、そうなれば、もう二度とあたしはこの背に翼を宿すことができなくなるに違いない。
 ゆっくり深呼吸して、込み上げたものをどうにかやり過ごすと、あたしはまた目蓋を持ち上げた。鏡の中の自分の姿が再び網膜に映し出された刹那、あたしは そこに翼の影をみたような気がした。でも、すぐに気のせいだと悟り、あたしはかぶりを振った。
 いい加減にして、脱衣所から出なくては。
 シンジはまだ帰ってきてないのかしら?
 憂うつな気持ちを追い払いながら、あたしはかごの中のバスタオルを拾おうとした。
 そのとき、突然、性急な足音が近づいてきて、脱衣所のカーテンが一杯に開かれた。
 驚いて振り返ると、つい三十分前までのあたしそっくりのずぶ濡れ姿のシンジがいた。彼は脱衣所に入りかけたところで足を止め、飛び出そうなほど大きく目 を見開いて、全裸のあたしを見ていた。

「きゃあああっ!」

 自分でもびっくりするくらい大きな悲鳴を上げたあたしは、手で胸を隠してその場にしゃがみ込んだ。
 それでも、シンジはまだ唖然とした表情のまま、あたしを見続けていた。

「さっさと出て行きなさいよ、大バカ!」

 あたしの裸に目を奪われて、ぼけっとしていたシンジも、叱責されてようやくわれに返ったらしく、謝りながら後ずさろうとした。

「うあっ、ご、ごめっ……!」

 ところが、後ろへ足を踏み出した途端、濡れた床に足を滑らせて、シンジは後ろ向きに見事にひっくり返った。
 ごつんっ、という鈍い音が響いて、仰向けになったきり、彼は大人しくなった。

「……シンジ?」

 胸を隠してしゃがんだままの姿勢で、あたしはこわごわと呼びかけてみた。しかし、何の応答もない。

「シンジ、大丈夫なの?」

 再度呼びかけながら、首を伸ばしてシンジを観察したけど、彼はぴくりとも動かない。
 慌てて駆け寄ったあたしが確かめると、彼は強く頭を打ったせいで脳震盪を起こしているようだった。あまり動かさないよう気をつけながら、後頭部にそっと 手を あてがうと、すでに大きく腫れ上がりつつある。

「大変! 救急車を呼ばなくちゃ!」

 あたしは自分が全裸のままであることもすっかり忘れ、気絶したシンジを廊下に残して、電話をかけるために走り出した。
 駆けつけたネルフの救急隊員によれば、安静にしていればじきに目を覚ますとのことだったが、念のためということで、病院に運ぶために彼は担架に載せられ た。別に付き添いがいるというほどのこともないのだけど、何となく、あたしはついて行くことを申し出た。救急隊員は快くその申し出を受け入れてくれた。
 病院での検査の結果、やはりただの脳震盪で、こぶができた以外には、特に異常はないだろうという診断だった。
 目を覚ますまでの間、シンジには個室が割り当てられた。といっても、パイロットである彼には、いつでも個室が宛がわれるのだけど。
 いつ目を覚ますか分からないので、あなたは家に帰っていなさい、と諭されたのだけど、あたしはできる限り帰るのを引き伸ばしていた。聞き分けのないあた しに、医師は病室に留まることを許してくれた。しかし、かといってたった一人でやることがあるわけでもなく、死んだように眠るシンジの顔をぼんやりと眺め て時間つぶしをするほかなかった。
 不思議と退屈を感じることはなかった。ベッド脇に椅子を寄せて腰かけたあたしは、ずっとシンジの顔を眺め続けていた。
 一時間ほど経ったころだろうか。眠っていたシンジが表情を歪めて、うめき声をもらした。目が覚めたのかと思って、あたしが身を乗り出して顔を覗きこむ と、シンジは何度かまばたきをしたあと、すぐ近くにあるあたしの顔をぼんやりと見て、名前を呼んだ。

「アスカ」

「なあに」

 返事をすると、シンジは焦点の定まっていない眼差しでこちらを見るともなしに見ながら、小さくささやいた。

「さっきはごめん。でも、きれいだった」

 予想していなかったシンジの言葉にあたしが目を丸くしていると、彼はまた目を閉じて、黙り込んでしまった。

「シンジ? ねえ、また寝ちゃったの?」

 呼びかけても反応がない。でも、そっと肩に触れると、再び目を覚ましたシンジが、今度はずいぶんと間延びした声を上げた。

「うぅーん……いたたっ。あれ、どこだここ?」

 どうやら先ほどよりも意識がはっきりしているらしく、シンジはきょろきょろ周囲を見回してから、かたわらにいるあたしに気付いて言った。

「あ、アスカ。何で僕、ここで寝てるの? というか、ここは一体?」

「ここはネルフの病院よ。寝てたのは、あんたが頭を打って脳震盪を起こしたから」

「頭を打った? そう言われてみると、確かに頭が痛い……」

 シンジは後頭部に手をやりながら、痛そうに顔を歪めた。

「触らないほうがいいわよ。すごく腫れてるから」

「うん。そうみたい。でも、どうして頭を打ったのか、覚えてないんだけど」

「覚えてない? 全然?」

「うん」

 困惑した表情のシンジは嘘を言ってはいない様子だった。頭を打ったせいで、その直前の記憶を一時的に失っているのだろう。となると、最初に目を覚ました ときの言葉は、ほとんど無意識のものだったのだ。
 その後、目を覚ましたシンジの様子を見に看護師が病室へやって来て、それから医師の簡単な診察があった。
 あたしは病室の隅でそれを眺めていた。シンジを診終わると、医師が隅に立っているあたしを見て声をかけてきた。

「シンジくんはもう大丈夫だよ。大事を取って、ここで一晩休んでいってもらうが、きみはもう家に帰りなさい。じきに夜になる」

 本当は帰りたくなかったのだけど、まさかあたしまで病院に泊まりこむことはできない。仕方なく、あたしは頷いた。

「分かりました。でも、帰る前に彼と少し話をさせてほしいの」

「……構わないよ。ただし、あまり長くならないように。話が済んだら、すぐに帰ること。いいね」

 医師と看護師が出て行くと、あたしはベッドに近寄って、シンジに話しかけた。

「何ともなくてよかったわね。で、まだ頭を打つ前のことは思い出せない?」

「いや、何も」

「どこまでなら覚えてる?」

「確か……学校の帰りに雨に降られてずぶ濡れになったんだ。それで、走って帰って……駄目だ、そこから先は思い出せないや。家に帰ったところまでは覚えて るんだけど」

 後頭部のこぶが痛むのか、シンジは顔をしかめながら言った。

「あんたはそのあと、濡れた格好で脱衣所まで走ったのよ。そこで濡れた服を脱ぐつもりだったんでしょうね。で、脱衣所のカーテンを開けた。ちなみに、あん たより三十分ほど前に、やっぱりずぶ濡れになって帰ってきてたあたしは、濡れた服を脱いだあとにシャワーを浴びてたの。あんたが帰ってきたとき、あたしは ちょうどシャワーを浴び終えたところだった。それで……」

 あたしは言葉を切り、肩を竦めてシンジを見た。顔をしかめていた彼は、不意に驚いた表情になって呟いた。

「裸のアスカが立ってた」

「思い出せた? それで、その場から立ち去ろうとしたあんたは、濡れた床に足を滑らせて転んだのよ。すごい音がしたわ。死んだかと思ったくらい」

 驚いた顔のシンジは、こちらをまじまじと見て、恥ずかしそうに赤くなった。

「ご、ごめん。アスカ。僕、わざとじゃなくって……」

「別に……いいのよ、それは。わざとじゃないなら。そんなに嫌じゃなかったし」

「え?」

 あたしの一言のせいで、気まずい空気が二人の間を流れた。
 シンジはあたしの好きな相手だし、彼に裸を見られたこと自体に嫌な気分はしていなかった、というのは事実だ。
 でも、問題はその前にあった。彼がカーテンを開いたとき、あたしはかごの中のバスタオルを取ろうとして、彼に背中を向けていたのだ。一瞬だが、彼はあた しの背中を見たはずだった。翼をもぎ取られた傷痕の残るこの背中を。

「ねえ、シンジ。一つ訊きたいんだけど」

「な、なに?」

 シンジの返事はどもっていた。明らかに、あたしの裸を思い出したことで、彼はうろたえていた。

「あたしの背中に傷はあった?」

「傷?」

「そう、傷よ。二つの、大きくてみにくい傷」

 シンジは何を言っているのか分からないという顔であたしを凝視した。

「なかったよ」

「うそ」

「うそじゃない。本当にそんなもの。そりゃ、僕が見たのは一瞬だったけど……」

 確かにあのとき、あたしはすぐさま彼を振り返ったので、背中を見られたのは一瞬だったはずだ。
 あたしは少し迷ってから、意を決して、着ていたブラウスのボタンを外し始めた。

「わっ、アスカ、ななな、何を」

「もう一回、確かめて」

「ええ?」

「背中を見て確かめて!」

 脱いだブラウスを胸に抱き、背中側にあるブラジャーのホックを外して腕を抜くと、あたしは椅子に座ったままシンジに背中を向けた。

「あの……」

「いいから傷を探して」

 背中を向けていても、シンジがとても戸惑っているのがよく分かった。それでも、彼は一応あたしの言うとおりにしているようだった。少しして、彼は言っ た。

「やっぱりないよ。傷なんてどこにもない」

「もっとよく探して。触ってもいいから」

「で、でも……うう」

 ためらいがちなシンジの指があたしの背に触れた瞬間、あたしはびくりと震えた。もちろん、こんな風に触られたのは初めてのことだ。神経がすべて背中に集 まっているような気がして、あたしはじっとしているために、かなりの努力をしなければならなかった。

「アスカ、その」

「お願い。続けて」

 シンジの指は、あたしの背中をゆっくりとなぞっていった。でも、彼の繊細な指は、どこにも引っ掛かることもなく、なめらなか背中の皮膚をただ滑るだけ だった。
 しばらくして、ため息と共に彼の指は離れていった。
 聞かずとも答えは分かっていた。結局、シンジにもあたしの傷が見つけられなかったのだ。
 シンジならば、と期待していた。
 けれど、しょせんは彼もただの人間に過ぎなかったのだ。このあたしや、他の多くの人々と同じように。

「昔ね、あたしの背中には天使の翼が生えていたの」

「つ、翼?」

 面食らったシンジの声に、あたしは少し微笑んで先を続けた。

「何言ってるんだ、こいつ、って思ったでしょ。でも、笑わないで聞いて。
 昔、あたしのパパとママは、この世の何よりもあたしのことを愛してくれていた わ。二人にとって、あたしは天使だった。二人はこのあたしの背中に、美しい純白の天使の翼を見ていたのよ。それこそが、あたしがこの世の誰より愛されてい るしるしだった。あたしにとって、世界とは、パパとママのことだった。愛とは、パパとママが与えてくれるものだった」

 幼い子どもにとっては、両親こそがすべてなのだ。あたしもそれは例外ではなかった。あのときまでは。

「でも、ある日、ママがいなくなったの。ママを探して泣くあたしに、パパは心配ないと言ったわ。必ず戻ってくるから、と。事実、数日後にママは戻ってき た。でも、その心は壊れてしまっていた」

 病院のベッドで人形を抱くママの姿を思い出し、あたしは目蓋をきつく閉じた。

「ママはあたしを見ても分からなくなっていたわ。そして、そのまま死んだ。自殺したの。パパは……きっとママのことで絶望したのね、新しい女のもとへ走っ た」

 パパの再婚は、ママの葬儀のすぐあとだった。あの悲劇をパパが一刻も早く忘れたがっているのは、明らかだった。

「二人はあれほどまでにあたしを愛してくれていたのに、あっという間にそれが変わってしまった。ママはあたしを見失ったまま死んでしまい、パパはあたしよ りも新しい奥さんを愛するようになった。それはなぜなの?」

 振り返ってシンジの顔を見ると、これまでずっと、本当に長い間ずっとこらえてきた涙が一粒、ほおを流れ落ちた。

「あたしにはすぐに理由が分かった。二人があたしを愛さなくなったのは、あたしが二人の天使ではなくなってしまったからよ。この背中から、大切なしるしを 失ってしまったからよ。そして、気付いたの。もしも、あたしが本物の天使だったなら、きっと二人は今でもあたしのことを愛し続けてくれていたに違 いないって」

 シンジの黒い瞳が、まっすぐにあたしを見ていた。

「あたしは天使になりたい。この背中に美しい翼を持つ天使に。もう一度戻りたい。そうすれば、何もかもが、幸せだったあのころのように元どおりになるか ら」

 微笑みかけると、また新しい涙がこぼれ落ちた。
 あたしにはもう、これまでずっとせき止めていた想いがあふれ出すのを止めることができなかった。

「でも、もう無理。もう駄目なの。あたしはもう天使にはなれない。二度とこの背中に翼が宿ることはない。あたしは天使なんかじゃなくて、ひと りぼっちで、ちっぽけな人間だから」

 伸ばされたシンジの手が、あたしのむき出しの肩に優しく触れた。

「アスカ、泣かないで」

 涙は次から次へとあふれて止まらなかった。本当はずっと前から、こうして思いきり泣きたかったのだ。誰かの手に縋りつきたかったのだ。

「ねえ、アスカ。使徒の分析をしたリツコさんから聞いたんだけどね、使徒って粒子と波、両方の性質を持つ光のような未知の物質でできてるんだって。これ は、キリスト教の天使と一緒なんだ。天使の身体も光からできてるんだって知ってた? だから、僕たちが戦ってるあの怪物を『使徒』って呼ぶんだそうだよ」

 シンジが何を言いたいのか分からなくて、あたしはしゃくり上げながら、彼のことを見つめた。

「僕は、アスカが人間でよかったと思うな。だって、もしもアスカが本当に天使だったら、きっとこんな風に触れることはできなかったから」

 と、あたしの腕をぐっと指で押さえてみせて、シンジは微笑んだ。

「光り輝く天使が相手だと憧れて見上げることしかできない。眩しくて、きっと近づくこともできない。でも、アスカは人間だから。僕の知っているアスカは、 強がりで、怒りっぽくて、でも本当は泣き虫で」

 涙で濡れたあたしのほおを親指の腹でこすり、シンジは言葉を続けた。

「賢くて、可愛くて、でも悩みごとだってある、普通の人間の女の子だよ。だから僕は、こうしてアスカのそばに近づいて、触ることができる。話しかけること も、好きだって思う こともできる」

 シンジに手を引かれて、あたしは再び彼のほうへ向き直った。まだ脱いだブラウスで胸を隠した格好のままだったけど、恥ずかしいという気持ちはすでにどこ かへ行っていた。

「お父さんとお母さんのことは悲しいことだと思うし、たぶん僕が何を言っても、慰めにはならないんだと思う。でも、昔アスカとお父さんとお母さんに起きた ことは、どうしようもなかったんだ。アスカが悪いわけじゃないし、天使の翼をなくしたせいでもない。だから、そんないいわけに逃げたりしちゃ駄目だよ。ア スカは、自分自身に胸を張って生きなけりゃいけないよ」

 あとになって、シンジのこの言葉はあたしへのものであると同時に、彼自身へ向けられたものでもあると知った。過去に苦しんでいるのはあたしだけではな かったのだ。
 当然、このときのあたしはそんなことを知らないのだけど、彼の言葉は、あたしの心の一番深いところへ染み込んでいった。たぶん、それはあたしにとっ て初 めての経験だった。もし、彼があたしにとって特別であるのに理由が必要だとしたら、これ以上のものがあるだろうか?
 あたしが手を伸ばすと、シンジがその手を掴んでくれた。

「あたしのこと、好き?」

「うん。好きだよ」

 確認するまでもなく、あたしはそのことを知っていた。
 でも、受け入れるのが怖かったのだ。受け入れてしまえば最後、あたしは天使の翼を取り戻すこともできず、シンジという慰めなしには、この地上を生きてい くこともできなくなると分かっていたから。
 でも、もういい。もういいのだ。

「あたしも。あたしもシンジが好き」

 あたしは両手でシンジにしがみつき、思うさま泣いた。胸を隠していたブラウスとブラジャーが膝の上に落ちたことも気にならなかった。あたしが泣く間、彼 の優しい手は、傷のない背中をずっと慰め続けてくれていた。
 十年分の涙というにはまだ足りないけれど、それでもようやくあたしが泣き止むと、二人でお互いに照れくさい表情を見合わせて笑った。お互いの気持ちは、 これまでも何となく分かってはいたけど、それを言葉にして確認しあうというのは、また格別な思いがした。

「あの、ちょっといいかな、アスカ」

 しばらくして、赤い顔のシンジがもじもじしながら言った。

「うん。なあに?」

 あたしは鼻をすすり、むくんだ顔に微笑みを浮かべて答えた。

「……そろそろ服をね、着てくれないかな」

 ちらちらと向けられるシンジの視線を辿るまでもなく、あたしは上半身に何も着ていない自分の格好を思い出した。まだあまり大きくない乳房でも、シンジに は充分に刺激的なものらしく、彼は真っ赤な顔でしきりにあたしの胸を見ていた。
 恥ずかしくなったあたしは急いで服を着るために、膝に落ちたブラジャーを拾い上げようとした。
 けれど、ふと考え込んで動きを止めた。

「アスカ。僕も男だから、いつまでもそんな格好でそばにいられるとつらいんだ。ねえ、アスカ、聞いてる?」

 シンジの言葉をあたしはほとんど聞いていなかった。それくらい真剣に悩んでいたのだ。そして、心が決まると、考え込んで俯いていた顔を上げ、まっすぐに シンジを見た。
 あたしは背筋を伸ばし、裸の胸を張って、彼に向かってきっぱりと言った。

「もしシンジがしたいなら、いいわよ。あたしのこと、抱いて」

 シンジはあたしの言葉をすぐには理解できないようだったけど、あたしはまっすぐに座ったまま、彼の脳に情報が到達して理解されるのを待った。
 少しして、顔を逸らした彼は間の抜けた声で言った。

「えっと、その、アスカ。そういう冗談は……」

「あたしは本気よ、シンジ。冗談でこんなこと言わないわ」

「あ、ご、ごめん。でも……」

「前に言ったでしょ。あたしは女で、あんたは男なのよ。あたしは女として、好きな男に抱かれたいの、今、ここで。あたしは心を決めた。シンジはどうした いの?」

 あたしがどれほど本気であるかがやっと伝わったのか、シンジは言葉もなく、ただあたしをまっすぐに見つめた。
 実際には、口で言うほどあたしの覚悟が決まっていたかどうかは分からない。当然これまで男性経験はなかったし、若すぎることも承知している。肉欲に懐疑 的だったこれまでの考えをまだ翻したわけでもなかったので、自分の申し出が本当に正しいことかどうかも分からなかった。
 でも、考えつく限り、これがもっと も人間的な行為だったし、今のあたしには何かそういう、人間になりきるための最後の一歩が必要だった。
 あるいは、シンジと一緒ならこの地上を生きていけ る、その証明が欲しかったのかもしれない。
 シンジがあたしの腕を掴んだとき、言葉にしなくても彼の答えが伝わってきた。
 あたしはシンジが手を引くのに逆らわず、椅子から腰を上げて、ベッドに乗った。あたしを押し倒すシンジの手は、かなり強引で、早急だった。彼らしくな い、とも感じたけど、考えてみれば、これも彼の男としての一面なのかもしれない。
 気を昂らせたシンジは、スカートをまくり上げてあたしのパンツを乱暴な手付きで抜き取ると、抱え上げた脚の付け根を掴んで、あたしの腰を自分のほうへ引 き 寄せた。スカートだけ腰に纏いつかせて、脚を大きく広げたあたしが、こんなとんでもない格好をしなくちゃいけないなんて、と考えているのをよそに、シンジ は入院着のすそをはだけて下着をおろし、大きくなった性器を外に出した。反り返るそれは確かにグロテスクではあるし、これから自分の身体の中に入ってくる のかと 思うと身が竦んだけど、一方で好きな人の一部だと思うと、不思議なことに愛おしくもあった。
 シンジはすぐさま挿入しようとした。でも、処女のあたしは言うまでもなく緊張していたし、前戯もまったくなかったので、あたしのほうでは挿入の準備が まったく整っていなかった。それでも、彼が何度か入り口で馴染ませているうちに、あたしも少し潤んできた。その時点で、彼は充分だと判断したのだろう。と いうより、待ちきれなくなったのだ。シンジの先があたしの中に強引に押し入ってきた。
 すぐに処女膜に突き当たったシンジは、当然ながら、これを無理矢理に突破した。あたしが叫ばなかったのは、看護師たちにこの病室へ踏 み込まれたくないからだけど、それでも涙がどっとあふれてきて、シンジの腕に爪を立ててうめいた。

「シンジ、痛いっ……」

 はやるシンジに向かって、あたしは涙をぼろぼろ零しながら訴えた。いまさらやめろと言うつもりもないけど、おなかの中にノコギリを突っ込まれたみたい に、とに かく痛いのだ。
 すると、一旦動きを止めたシンジが、手を伸ばして、あたしの頭を撫でてくれた。
 なぜか、彼のその行為で、あたしは救われたような気がした。
 それまであたしの中に残っていた躊躇いが、シンジの手の優しい感触に溶けて消えていくのが 分かった。
 この人となら大丈夫。
 あたしは、もう大丈夫。
 頬を包むシンジの手に、あたしは自らの手を重ねた。
 気持ちが伝わったのか、シンジはこちらに微笑みかけてから、繋がった部分に視線を落とし、力を入れて腰を前に押し出した。
 あらかたあたしの中に納まってしまうと、シンジは身体を倒して覆いかぶさってきた。あたしは痛みのためにとめどなく涙を流しながら、彼にしがみついた。 あたしたちは不器用な長いキスを交わしあい、それからシンジが小刻みに腰を動かし始めた。
 あたしは声を押し殺して痛みに耐えた。彼の動きが小刻みなのは、あたしの中が充分に濡れていなくて動くに動けないせいだ。でも、しばらくすると、少し ずつ潤みを増して、シンジの動きもスムーズになり、あたしの痛みも若干和らいだ。もちろん、それは快感のためでなく、自らの身体を傷つけないようにするた めの反応だけ ど、この場合、肝要なのはお互いに少しでも楽になれることだ。
 シンジは行為に夢中になっていた。片手ではあたしの乳房を執拗に触っている。
 耳元で荒い息を吐いている彼の口をつかまえ、あたしは何度も繰り返し口づけをした。慣れないキスはあまり上手くできなかったけど、あたしたちは下手くそ なりに、むさぼるように相手を求めた。
 そのうちに、腰の動きに専念するためか、シンジは胸に触るのをやめ、わきの下から腕を通してあたしをしっかり抱きかかえた。こちらも彼を抱き締め、とに かく 痛いのに耐えて彼の行為を受け入れた。
 気持ちいいとか楽しいとか、たとえ強がりでも言えないけれど、こんな風に必死になって求められるというのは、これま で感じたことのない心地 よい感覚だった。
 この人のためだけに、今あたしは生きている。
 あたしは髪の毛の先まで、その震えが来るような感覚に満たされていた。
 といっても、肉体的につらいことに変わりはないのだけど、幸いシンジが達したのはすぐのことだった。おそらく彼も初体験だからだろう。ひときわ切ない息 を吐いた彼が、腰の動きを止めると、温かいものがじわり とあたしの中へ吐き出されるのを感 じ た。その意 味するところを悟り、あたしはすぐ隣で息を上げているシンジの汗ばんだ顔にほおずりをしながら、ゆっくりとまばたきをした。
 では、これで終わりなのだ。そう思った途端、シンジを離すのが惜しくなり、宙に遊んでいた脚を彼の腰に巻きつけて密着させた。全身でしがみつくあたし に、彼は何度かキスを落としてから、かすれ声でささやいた。

「ありがとう。アスカ」

 思わず小さく噴き出したあたしは彼に訊いた。

「それ、セックスのお礼?」

「いや、何ていうか……」

 すぐ間近であたしと見つめ合ったシンジは、いつになく優しい表情になって、秘密を打ち明けるみたいに、そっと答えた。

「ここにいてくれて、かな」

 あたしはまじまじと彼を見ると、くらくらしてきて、その首筋に顔を埋めてうめいた。

「あんたって、実はすごいプレイボーイ?」

 訊ねると、彼は戸惑いながら、いいわけをした。

「僕、アスカとしかこんなことしないけど」

 それからしばらく、何度も痛みに悲鳴を上げながらくすくす笑い続けるあたしをシンジは怪訝そうに眺めていた。
 好きな人に見られながら着替えるというのは、想像以上に妙な気分がするものだ。シンジは入院着なので、パンツを引っ張り上げるだけでいいが、あたしのほ うはそ うも 行かない。シンジには背中を向けてベッドの上に座ったあたしは、彼に脱がされたパンツを拾って穿き、ブラジャーをきちんと着け、ブラウスを羽織ってボタン を留めた。髪の毛もぼさぼさだけど、鏡も櫛もないので、仕方なく手で適当に直す。
 全部終わると、あたしは熱くなった顔でシンジのほうを振り返った。いまさらだけど、冷静さを取り戻すと恥ずかしくてたまらない。シンジも照れくさそうに きょろきょろと視線をさまよわせている。
 気まずさでベッドの上に視線を落としたあたしは、真っ白なシーツの真ん中あたりに赤い染みがついているのを発見した。

「シンジ、それのいいわけはしといてね」

「それ?」

 きょとんとしたシンジに、あたしはシーツに残った破瓜の跡を指差してみせた。
 たぶん、いいわけのしようもないと思うが、シーツを汚したことは謝らなければならないだろう。

「さて、あたし、もう帰らなくっちゃ」

「そ、そうだね」

 すでにかなりの時間が経過していた。今のところ看護師たちは見逃してくれているが、いつ追い立てに来てもおかしくはない。
 ベッドを降りて二本足で立つと、あたしは思わずその場に崩れ落ちそうになって、慌ててベッドのふちを掴んだ。

「ああ、やだ」

「大丈夫?」

 体勢を崩したあたしへすかさずシンジが手を差し伸べてくれる。それを頼もしく思いつつ、あたしは苦笑いして言った。

「いまさらだけど、こんなに痛いと思ってなかったの。ものすごくズキズキする」

「歩けそう? 帰るの、平気?」

 シンジは自分自身では想像もつかない痛みに、かなりうろたえていた。
 ついさっきまで力強くあたしを抱いていた彼は、一体どこへ行ってしまったのだろう?

「……錯覚なんかじゃないのね」

 この痛みも、この気持ちも。

「へ?」

「ううん、何でも。心配しなくても、歩くくらいはできるわよ」

 そう答えて、あたしはシンジの手を借りてまっすぐ立った。確かに歩くことはできそうだけど、痛みのせいでみっともない格好になりそうだ。こんなときばか りは、女の身体がうらめしくなる。これで本当に世人の言う快感が得られるようになるのかしら、とあたしはぼんやり考えた。いずれにせよ、次からはもっとま ともな 場所で、 きちんと避妊して行わなければならない。今回の行為で妊娠する可能性が小さいことはあらかじめ承知していたけど、冒険をするのは一度きりにす るつもり だった。

「ほら、あんたも横になりなさいよ。本当なら、安静にしてなくちゃいけないんだから」

「う、うん」

「じゃあ、帰るわね。シンジも明日は早く家に帰ってきて。待ってるから」

 まだ心配そうにこちらを見ているシンジをベッドに寝かせると、彼のくちびるに軽くキスをして、あたしは回れ右した。
 病室を出て行こうとするあたしの背中をシンジの視線が追っているのが分かった。できるだけ普通の歩き方をしようと集中していたあたしは、病室の扉のすぐ 手前まで来ると、ふと思いついたことがあって、後ろを振り返った。

「そういえば、シンジ」

「え、何?」

 返事をするシンジの声はひっくり返っていた。あたしが突然振り返ったので、驚いたみたいだ。

「気持ちよかった?」

 ストレートなあたしの質問に、彼は耳まで真っ赤になって口ごもった。
 こういうのがシンジの可愛いところだ。でも、これだと話が進まないので、あたしは彼の返事を待たず、先を続けた。

「あたしは痛いだけで、全然気持ちよくなかったわ」

 その言葉にシンジの顔が凍りついた。赤かったのがあっという間に青く染まっている。
 あたしはちょっとした意地悪が成功したのを見届けると、くすりと笑って、安心させるように優しく付け加えた。

「でも、気持ちは満たされたわ。ありがと」

「そ、そう。よかった」

 それでシンジは少しほっとしたみたいだった。でも、まだ顔は引きつっていた。
 意地悪でごめんね、シンジ。

「ええ、よかったわ。これでよく分かったもの」

 あたしは再び苦労してシンジのそばまで戻ってくると、彼の手を取り、指の一本一本を絡めて、手のひらのしわを合わせるようにしっかりと繋いだ。

「あたしはもう、一人ではこの地上を生きてはいけないということが、よく分かった。でも、あんたとなら、こうやって手を繋いで、二人で生きていける」

「天使じゃなくても?」

 あたしの頭を引き寄せたシンジが、額を合わせて言った。
 すぐ間近に黒い瞳の輝きを見つけて、あたしはそれをとても綺麗だと思った。
 そして、自分でも信じられないくらい深く愛している男の子の言葉に、瞳を潤ませて頷いた。

「そう。もう空は飛べなくて構わない。だから、翼はいらないわ」





















epilogue




 その後のことを少し語ろう。
 使徒を無事に倒し終えたあたしたちは、晴れて『普通の子ども』というのに戻った。といっても、人間が入れ替わるわけでもなし、エヴァと係わりがなくなる 以外には、自分自身では特に変化を感じなかった。
 ミサトは、いつかあたしに漏らした言葉どおり、本当に仕事をやめてしまった。これには周囲は皆驚かされたけど、本人はいたって平然としたものだった。郷 里に帰った彼女は、そこで自治体の職員になって、今でも年に一度か二度、あたしのところへ便りを送ってくる。彼女はもう自分を許すことができたのだろう か? きっとできたに違いない、とあたしは考えている。
 あたしは十六歳まで日本で過ごし、その後、故国ドイツへ帰った。その年にネルフが解体され、これ以上日本に留まっている公的な理由がなくなったからだ。
 ドイツに戻ったあたしは、二十歳まで家族のもとで過ごした。
 久しぶりに再会したパパは、記憶にあるよりもずっと普通の父親で、あれこれ世話を焼かれるのにあたしのほうが戸惑ってしまった。
 愛されなくなったと感じ たのは、あたしの間違いだったのだろうか?
 でも、あたしには過去の記憶に思い悩むひまはなかった。パパと義理のママは、これまで離ればなれになっていた 時間を埋めるために、最大限あたしと共に過ごそうとしていたし、何より、まだ六歳と五歳の妹と弟が、ほとんど初めて出会った姉に構ってもらおうと、まさし く四六時中くっ付いていたからだ。
 長年寄り付かなかった家に帰った途端、あたしは首まで家族の愛情に浸かって、身動きもままならないありさまだった。
 といっても、戸惑いこそすれ、 決してそれが不快だったというのではない。幼い妹弟の遊びに一日中付き合わされてくたくたになるのも、ママから昔ながらの家庭料理やケーキの作り方を教わ るのも、パパと一緒に日曜の午後、庭で ビールを飲んだりするのも。
 二十一歳になって、あたしは一人暮らしを始めた。別に家族に不満があったわけではなくて、大学に通う都合だ。昔から師事していた教授がよその大学に移っ てしまったので、あたしもそちらに移る必要があったのだ。
 言うまでもなく、その間ずっとシンジはあたしの恋人であり続けた。一緒にいられたのは最初の二年間だけで、あたしがドイツに戻ってからは、電話やメール のやり取りしかできなかったけど、それでもあたしの恋人は彼しかいなかったし、逆もまた真なりだ。
 一人暮らしを始めて一年後、あたしは日本へ発った。
 到着した日本では、シンジが待っていた。翼のないあたしはこの足で地面を蹴って、彼の元へ走っていき、その身体に飛びついた。
 ごく現実的な意味で、それ以来あたしたちは片時も離ればなれになっていない。
 一年の同棲生活を経て、二十三歳であたしたちは結婚した。式は日本とドイツの両方で開いた。どちらもこじんまりとした式だったけど、家族や友人から温か い祝福 をもらうことができ、がらにもなくあたしは二度とも皆の前で泣いた。
 そして、さらに一年が経って夫婦生活にも慣れてきた今、あたしは初めての子を妊娠している。女の子か男の子かは、まだ分からない。
 目下のところ、新米パパになる予定のシンジにとって一番の使命は、子どもの名前を決めることのようだ。名前辞典だの姓名判断だの画数がどうだのといった 本を何冊も買 い込んできて、ああでもない、こうでもないと毎晩頭を悩ませている。ドイツ名前だとどうするのかしら、とあたしが思っていると、どうやらこっそり漢字やか なを当てはめているらしいことが判明した。根拠のないことにまで頭を悩ませて、あれこれ考えずにはいられないのは、それだけ 産まれてくる子どものことを楽しみ にしてくれているのだろう。だから、あたしも茶々をいれつつ、彼と一緒にああでもない、こうでもないと考えたりしながら、新米ママになる気分を満喫してい る。
 さて、現状はこんなところだ。
 シンジと出会ったのはすでに十年も前のことになるけど、あのときのあたしには、今の自分がこのようになるなど、想像もつかなかっただろう。
 でも、あたしは今、胸を張ってこう言える。
 色々なことがあったけど、あたしは愛する人とこの地上を共に歩んで生きており、生まれてこのかたこれ以上ないというくらいに幸せだ。










fin.










あとがき

 最後までお付き合い下さり、誠にありがとうございました。

 このお話には性描写が含まれています。
 苦手な方には、大変申し訳ありませんでした。

 性描写といっても、少しも色気のない文章なのですが、そういった方面のことを私に期待しておられる方はいらっしゃらないはずですから、その点は特に問題 ないもの と思います。

 ところで、「一言妄想劇場」にある項目と今回のお話をあえて関連付けるとしたら、「肩甲骨」や「人間」辺りでしょうか。「つばさ」というのも作ればよ かった で す。
 それから、どうでもいいことなのですが、その「一言妄想」の「プール」において、『浮き輪』とするべきところを『浮き袋』と書いてしまっているのが、今 しみじみと不思議でなりません。
 単純なミスといえばそうなのですが、それにしてもなぜに浮き袋。
 書いている最中に魚のことを考えていたのでしょうか。われながら首を捻らざるを得ません。

 というところで、皆様。怪作様。
 このたびもありがとうございました。


 rinker/リンカ