空を飛ぶ方法


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1.天使の翼




 あたしの背中には、今も、翼の名残がある。
 かつて、あたしは、天使だった。
 けれど、翼をもがれ、人間になった。
 それ以来、あたしは、空を飛ぶ方法を見つけることができないでいる。





 浴室から出て、何も身に着けていない背中を脱衣所の鏡に向けたあたしは、めいっぱい首をひねって、そこに映るものをにらんだ。
 どれほど目を凝らしても、白くなめらかな背中の皮膚に、翼の名残を見つけることはできない。
 でも、あたしは知っている。この背中には、確かにかつて、天使の翼が宿っていたのだ。
 傷ひとつない綺麗な背中の上に、ぎざぎざした傷痕を探す努力をしばらく続けたあと、あたしはため息を吐き出して、顔の向きを元に戻した。ずっと無理な方 向へむけていたせいで痛む首をひねると、ごきっと品のない音がする。
 あたしは洗面台に両手を突き、今度は正面から自分の上半身を眺めた。
 ふわふわしていて、長く柔らかな赤い髪。
 東西の人種が混ざり合った顔。
 筋肉の引き締まった細い腕。
 張りのある丸い乳房。
 華奢なカーヴにくびれた腰。
 人によってはおそらく、この惣流・アスカ・ラングレーという少女を美しいというのだろう。現に通っている中学校には、あたしの容貌をほめる同年代の男の 子たちが大勢いるし、女の子たちか ら も羨望と嫉妬がないまぜになった視線を向けられることがある。
 でも、あたしは、自らの姿を美しいと思うことができない。その背中から、美しい翼を奪われてしまったがために。
 脱衣所から出て、リビングを通り抜けるとき、同居人の碇シンジから声をかけられた。

「あっ、アスカ、お風呂あがったんだ」

 今夜はあたしが一番に風呂に入っていた。いつにもまして長風呂だったあたしをシンジはずっと待っていたのだろう。
 シンジはあたしと同じく決戦兵器のパイロットをしている。一見ごく普通の少年だが、十年の訓練でその地位を手に入れたあたしと違い、彼は生まれ持った才 能からここにいる。彼自身でさえ、そのことに無自覚なようだけど。

「自分の裸に見惚れてたんじゃないのぉ? 脱衣所でずいぶん時間をかけてたみたいだから」

 シンジと一緒にいた、もう一人の同居人である葛城ミサトが、こちらに顔を向けて、からかうような口調で付け加えた。ミサトはあたしとシンジより十五歳も 年上のくせに、常日頃から、ずいぶんと大人げない言動をする。歳若いあたしたちに何とか調子を合わせようと無理をしているのか知らないが、こちらからす れば不愉快なだけだ。

「あいにく、あたしはミサトみたいなこれ見よがしなものを胸にぶら下げてないの」

 あたしはせいぜい皮肉げに聞こえるよう吐き捨てたが、あつかましいことに、ミサトはくちびるを大きく左右に引き伸ばすと、タンクトップの薄い生地に包ま れた自分の大きな胸を 両手で持ち上げて、言い返してき た。

「そうなのよねぇ。肩が凝っちゃって、いつも大変なのよぉ。身軽な人がうらやましいわぁ」

 頭がからっぽなバカ女みたいな口調のミサトが、二つの大きな脂肪のかたまりを弾ませている光景に、かたわらのシンジは目を奪われて、顔を真っ赤に染めて いた。ミサトだって、それに気付いていないはずはないので、わざとやっているに違いない。

「ふんっ。バッカみたい!」

 あたしは顔を背けると、足取りも荒く、その場から立ち去った。





 思春期の女の子にありがちな、夢見がちな空想だと思われるかもしれない。
 かつて、自分が天使だったと信じているだなんて。
 でも、空想などではなく、もう十年以上も昔、確かにあたしは清らかで美しい何かだった。
 両親の愛を、世界中の祝福を一身に受ける存在だった。
 あたしは、天使だった。
 それなのに、突然、何の説明もなく、背に生やした翼をもがれ、あたしは地に堕とされた。みにくく汚れた、取るに足らない少女の身に貶められたのだ。
 愛情がただの少女を見限るのは早かった。
 仕方がない。愛とは常に優れた特質を有する者のもとへ降り注ぐものだから。
 何ら見るべきところのない少女には、愛される価値がない。
 誰からも愛されることはないのだ。
 地上に堕ちたその日から、取るに足らない人間としてのあたしの人生は始まった。泥まみれになり、歯を食い縛りながら、あたしはかつて棲んでいた場所への 帰還を目指した。けれど、努力すれば努力するほど、天上の楽園は遠ざかっていくようだった。まるで汚れたあたしを嘲笑うかのように。
 果てしない徒労の虚しさに襲われるたび、背中が疼いた。翼をもがれた痕が痛み、あたしを苦しめた。
 いつもあたしは、衣服を脱いで、指で探り、鏡に映して目を凝らして苦しみの元を探した。だけど、なめらかな背中にその傷を見つけられたことは、一度もな かった。





 下駄箱のふたを開くと、無理矢理つめこまれた封筒の束が、ばさばさと雪崩を打って足下に落ちた。

「わあ、今日も大漁ね、アスカ」

 日本の中学校で友達になった洞木ヒカリが、横からそれを見て、大して感動した風でもなく言った。毎日のことなので、もはや慣れ切ってしまっているのだ。 あるいは、男子たちからもてはやされるあたしを内心では不快に思っているのかもしれない。大抵、女というのは、自分の隣に注目を集める同性がいることに我 慢ならないものだ。

「別にありがたくもないわ」

 答えるでもなしに呟いて、あたしは上履きと一緒に残っていた封筒を取り出し、ふと視線を感じてそちらに顔を向けた。すると、あたしが予想したとおりに、 シンジがあたしを、というよりあたしの足下に散らばるたくさんの封筒を見つめていた。

「ちょっとシンジ、これ、処分しといてよ」

 声をかけると、シンジは面食らった表情になって、あたしの顔を凝視した。

「なんで僕が」

「頼んだわよ」

 シンジの抗議を黙殺して封筒を押し付け、上履きに履き替えたあたしは、ヒカリを伴ってその場から教室へ向かった。階段を上る途中で、ヒカリが心配げな声 であたしに言っ た。

「いいの? 碇くんにあんなこと言って」

「いいのよ。あれがあいつの役目なんだから」

 あたしはうそぶいたが、かさに懸かって高圧的に振舞う自分の理不尽さを自覚していないわけではなかった。ただ、こういう態度を取っていなければ、自分が 本当は取るに足らない人間だということをシンジに見透かされそうで不安なのだ。

「一緒に住んでるのに、それはあまりにひどいんじゃないの?」

 ヒカリの言葉は正しい。しかし、正しいからといって、すべて認められるわけではない。
 まさに、彼女が言っていることこそが問題だった。
 シンジとあたしは、同い年の、対等な立場の者として、一緒に暮らしている。そんな彼から、実はあたしが誰からも愛されない、みにくく哀れな少女なのだ、 と見下されることには、とてもではないが耐えられない。
 シンジだからこそ、あたしの本当の姿を知られたくない。
 あたしに憧れる学校の男子たちには無理でも、シンジならば、たやすくあたしの背中に残る傷痕を見つけることができる。あたし自身にさえ、この地上と交わ りすぎてしまったがために、見分けることができなくなった傷痕は、彼の前ではいっそ鮮やかにその姿を現すはずだ。
 本性を暴かれたあたしに向かって、彼は何と言うだろうか。

「これで、いいのよ」





 放課後、クラス委員であるヒカリの仕事を手伝ったあと、職員室の前で彼女と別れて、カバンを取りに教室へ戻ってくると、開けようとした扉の隙間から、話 し声が聞こえてきた。

「シンジは何で大人しくあいつの言うなりになるねん」

 シンジに話しかけているのは、彼の友人の一人、鈴原トウジだ。『あいつ』というのは、あたしのことに違いない。自分がその高慢な態度のせいで、周囲の人 間から陰口を 叩かれていることは知っていたけど、その現場に出くわすのはあまりあることではない。
 あたしは扉に手をかけたまま、教室へ入るに入れず、かといってこのまま立ち去ることもできなくて、その場に立ちつくしてしまった。

「言うなりになんかなってないよ」

 苦笑しながらも、シンジは友人の言葉を否定した。けれど、また別の友人相田ケンスケの声がすぐさま反論した。

「悪いけど、シンジ。説得力が全然ないよ。今朝だってさ」

「せやせや。わしはその場におらんかったけど、もしおったら黙ってなかったで。何様のつもりやねん、惣流の奴」

 どうやら、シンジの友人二人は、今朝の下駄箱でのできごとを問題にしているらしかった。
 二人の憤りはしごく真っ当なものだ。実際、このあたしが言うのもおかしな話だが、シンジは人の言うことを聞きすぎる。プライドがないのか、自分の意思と いうものがないのか、と疑わしく思うほどだ。
 あたしは彼をまるで家来のように扱おうとするが、本来、彼はあたしと対等な立場なのだ。いっそあたしの言葉に怒り、この頬を張り飛ばすくらいのことをし てくれたら、かえって彼を見直すかもしれない。もちろん、あたしも殴り返したあとで、だけど。

「別にあれくらい、大したことじゃないよ」

「あほ。そういう態度があいつをつけ上がらせるんやないかい」

「それにあのあと、ラブレターを捨てられた三年生に呼び出されたろ。逆恨みもいいとこだけど、こんなことが続くと、そのうち怪我することになるぞ」

 あたしはその言葉を聞いて驚くと共に、ひどく複雑な気分になった。まったくの初耳だったのだ。あたしのわがままの裏で、シンジがそんな目にあっているな んて。 それどころか、想像したことすらなかった。

「お前は『左の頬も差し出す』奴やからなぁ。でもな、お前のは博愛主義とちゃうで。やる気がないだけや。戦う気がないだけや」

「まあ、お前もシンジを殴ったもんな」

「う、うるさいわ。せやけどな、あとからシンジが殴り返してくれたやろ。あれがあったからこそ、わしらはほんまの友達になれたんとちゃうか」

「うわ、真顔で何恥ずかしいこと言ってるんだ、こいつ」

「やかましっ。ま、まあ、とにかくやな、惣流の奴にも、シンジのほんまの気持ちをぶつけたほうがえんとちゃうかなと、わし思うねん。一つ屋根の下で暮らし と るのに、言いたいことも言われへんなんて、窮屈やないか」

「トウジの言うことにも一理あるかもな。お前も言ってたじゃないか、惣流をアイドル扱いする奴らと自分は違うって。まあ、いくら見た目がよくても、中身が あれだから、本音をぶつけるのもなかなか大変かもしれないけどね」

「わはは。わしやったら勘弁やけどなー、惣流みたいな根性悪」

 ぶっ殺されたいのかしら、鈴原の奴。
 初対面から気に入らないと感じていたけど、それはどうやらお互い様のようだった。このガサツな男の『優しいところが好き』などとのたまうヒカリの心がよ く理解できない。しょせん、恋なんてものは脳内を巡る電気信号と化学反応の引き起こすトリックに過ぎないということを考えれば、理解しがたいヒカリの感情 も仕方のないことなのかもしれないけれど。
 それにしても、あたしはシンジの友人たちからずいぶん低く見積もられているらしかった。とはいえ、猫を被る間もなかった彼らとの出会いを考えてみれば、 それも無理はない。あのときのあたしは、我ながらひどい女の子だった。
 結局、シンジもまた、あたしを疎ましく思っているのだろう。
 一緒に暮らしているので、シンジがあたしという女の子の表面上の見かけにいまさら惑わされる ようなこ とはないし、あたしの彼に対する態度はお世辞にも褒められたものではない。
 それに、何といっても、あたしは愛される価値のない人間なのだから。

「トウジやケンスケが言うほどアスカはひどい女の子じゃないよ」

 教室内のやり取りに、あたしが寂しい気持ちになっていると、物静かだけどきっぱりとした声があたしを庇ってくれるのが聞こえてきた。シンジの声だ。あた しははっとして俯いていた顔を上げた。

「とてもそうは思われへんけどな」

「本当だって。あれで結構いいところがあるんだよ」

「ま、シンジは一緒に暮らしてるわけだしな。シンジしか知らないことがあったとしても、おかしくはない。案外、家じゃ仲がいいとか?」

「い、いや、そういうのでもないんだけど……」

 シンジは少し苦笑気味に答えていた。確かに普段のあたしたちは、仲がいいとも悪いともいえない、微妙な距離感だ。
 でも、だったら、シンジは何を根拠に、結構いいところがあるなどと言うのだろう?

「見てくれだけはあのとおりやからな。色々とうらやましい目にあっとるんとちゃうか」

「なるほど。それは非常に興味深いな。ミサトさんの話と合わせて詳しく報告したまえ、碇上等兵」

「うほっ、わしもミサトはんのことならぜひとも知りたいわ」

「ちょ、ちょっと、二人とも……」

「くっそー、うらやましいのー。なあ、ミサトはんはどんなパンツ穿いとるんや。洗濯もんが干してあるのをいつでも見られるやろ。ヒラヒラか? スケスケ か?  そ、そ、それとも……」

 まったく、男ってのはスケベなことしか考えられないのかしら!
 下世話な会話を始めようとしているバカどもにむかっ腹が立ったあたしは、教室の扉に手をかけ、勢いよく開け放った。
 いずれにしても、立ち聞きなどという卑しい行為は本意でなかったし、教室にカバンを残している以上、それを取りに入らないわけにはいかなかったのだか ら、三人の会話が変な方向に逸れたのは好都合だったともいえる。
 いやらしいことをしゃべりかけていた鈴原は、あたしを見ると気まずそうな顔で黙り込んだ。

「あら、三バカが揃って何してるのかしら」

 あたしは細めた目で高慢に彼らを睨みつけ、わざとらしく言うと、ゆっくりとした足取りで自分の席へ向かった。その間、シンジたち三人は息を詰めて、こち らを窺っていた。
 カバンを取って、教室を出て行く前に扉に手をかけて立ち止まると、あたしは少し考えてから振り返った。

「シンジ、今日の夕飯は何を食べたい?」

 この日はあたしが夕食当番なのだ。といっても、あたしがシンジのリクエストを聞いてご飯を作ったことなど一度もない。にもかかわらず、芝居っけをだして こんなことを言ったのは、主にシンジの友人二人を混乱させるためだった。あたしとシンジの同居生活についてあれこれ想像を巡らせたいのなら、その材料を与 えてやろうというのだ。
 目論見どおり、鈴原と相田はあたしの言葉に大いに衝撃を受けたようだ。常日頃シンジを虐げているあたしが料理を作るなど、思いも寄らなかったのだろう。 実際、あたしは料理など滅多にしないし、あたしが学校に持ってくる昼食の弁当もシンジが作っているということは、クラスメートたちには周知の事実だ。
 あたしが話しかけたシンジはといえば、友人たちに負けず劣らず、あたしの態度に面食らった表情で、口ごもってこちらを見ていた。まったく、こ れじゃ本音をぶつけるなんてとても無 理よね。

「ハンバーグはどう?」

 助け舟を出してやると、シンジは人形みたいにかくかくと頷いた。横にいる二人は、気持ち悪いものでも見るかのような顔で、あたしとシンジのやり取りを眺 めている。

「それじゃ、スーパーの買い物に付き合ってよ」

「え、あ、うん」

 たぶん、混乱してあまり頭が働いていないのだろうが、返事をしたシンジはカバンを手に取って、こちらに向かって歩き出そうとした。ところが、それを止め たのが、鈴原の声だった。

「ちょ、ちょー待てや。シンジはわしらと一緒に帰るんや」

「ふん。どうせゲームセンターでしょ」

「お前には関係ないやろ。買い物くらい一人で行けや。わしらのほうが先約なんやからな」

「はっ、バカ言ってんじゃないわよ。とにかく、あたしたちの家の事情に口出ししないでくれる? ほら、シンジ、行くわよ。あたし一人に重たい荷物を持たせ たい の?」

「あたしたちの家……」

 相田があたしの言葉をぽつりと繰り返した。

「こんな女の言うことなんか聞くことあらへんで、シンジ」

「来ないなら、晩ご飯抜きだからね」

 あたしたちの視線が一斉にシンジに集中した。注目を浴びている当の本人は、困りきった表情で、あたしと友人たちを順繰りに見回したあと、申し訳なさそう に鈴原と相田に謝った。

「ごめん、トウジ、ケンスケ。ゲーセンはまた今度行くよ」

「シ、シンジ、お前、そりゃないやろ」

 鈴原は見るからに情けない顔でシンジに抗議しようとしたけど、相田がそれを遮った。

「仕方がないよ、トウジ。シンジだってメシ抜きは嫌だろう」

「せやけどやな、せっかくネルフも休みやっちゅうのに」

「今度埋め合わせするよ。だから、今日は許して」

「いいぜ。じゃあ、次の訓練がない日にな」

 シンジが頼むと、相田がいやに聞き分けよく承諾した。
 でも、納得行かないらしい鈴原は、頭をかきむしると、そんな相田に食ってかかった。

「おい、ケンスケ。お前、おかしいんちゃうか。何でわしらがこいつの言うこと聞かなあかんねや」

 と、あたしを指差して鈴原は叫んだが、相田は慌てるでもなく、肩を竦めて答えた。

「別に俺は惣流の言うことなんか聞いてない。ただ、一緒に暮らしてるシンジと惣流の生活を尊重してるだけだよ。二人の都合ってものをさ。遊ぶのはいつでも できるじゃないか」

 鈴原はしばらく悔しそうな顔をしていたけど、やがて諦めたのか大きなため息を吐き出して、むっつりと頬杖をついた。

「結論は出たかしら。じゃあ、シンジ、早くなさいよ」

 手のかかる弟に呼びかける姉みたいに優しくあたしは言った。

「あ、うん。じゃあね、二人とも」

 あたしに駆け寄ってきながら、シンジはあとに残した友人たちを振り返って言った。

「ああ、また明日な」

 相田は愛想よく返事を寄越したが、答える気力もないらしい鈴原は、相変わらずむっつりした表情のまま、手だけ振り返した。
 廊下へ出て、並んで歩き出すと、あたしは先ほどと打って変わって、辛辣な口調でシンジに話しかけた。

「あの二人との付き合いを考え直したらどうなの? バカ話をしてるのが廊下まで聞こえてたわよ」

「き、聞いてたの?」

 シンジはばつが悪そうにどもった。

「たまたま聞こえたのよ。ちょうど教室へ戻ってきたとき、あんたたちが話してたの。言うまでもないと思うけど、あたしの下着をネタにあいつらと盛り上がっ たりしたら、ただ じゃおかないわよ」

 シンジは当然、あたしがどんな下着を使っているか、知っている。あまり彼の目に付かないように気を遣ってはいるが、一緒に住んでいるのだから、完全に隠 すことはできない。その点は、一緒に暮らすことを決めた段階で、ある程度仕方がないと受け入れていた。
 でも、あんな下品なバカどもの話の種にされるという のは、まったく別の問題だ。そんなことは絶対に我慢ならない。

「本当に、男ってのはスケベなことしか頭にないのね」

「ご、ごめん」

 シンジは少し顔を赤く染め、申し訳なさそうに謝った。
 結局のところ、シンジも男なので、あたしの下着を見ていやらしい気持ちになることもあるかもしれない。
 それを許せない、とまで言う気はあたしにはない。 ただ、一緒に暮らしているからこそ知りえたような私的な秘密を軽々しく扱わないで欲しい、と願っているに過ぎない。
 つまり、シンジがこっそりあたしの下着 に興奮しているだけなら構わないけど、それを猥談のネタにされるのは、彼にとってあたしがいかに軽い存在であるかを思い知らされ、ひどい侮辱を受けたよう に感 じてしまうのだ。

「ま、いいわ。どっちにしても、あたしが女で、あんたが男なのは変えようのない事実だわ。だから、せめてお互いに節度を守ることにしましょ」

「そうだね」

 こんな心配をしなければならないのも、あたしが汚れた人間であるせいなのだろうか。欲望を抜きにして、あたしたちが係わり合うことは許されないのだろう か。

「ところで、シンジもあたしの下着にどきどきしたりするの?」

 ごく素朴な好奇心からあたしが訊くと、ますます真っ赤な顔になったシンジは、目を伏せて、ひどく恥ずかしそうに答えた。

「……僕も、男だから」

 その反応を少し可愛らしいと思ってしまったのは、もちろん、電気信号による錯覚に違いない。





 何となくだけど、それからというもの、シンジを目で追う機会が増えた。
 特別何かがあったというわけではない。
 気がつくと、そういうことになっていた、と言うほかない。まるであたしの眼球と彼の身体がひもか何かで繋がれて、あちらこちらに引っ張りまわされている ような感覚だ。
 とはいえ、それが不快というのでもない。不可解ではあるけれど。
 当然のことながら、その視線にシンジが気付かないわけにはいかなかった。学校やネルフはもちろん、狭い家の中でなら、なおさらのことだ。
 常に身体のどこかを指先で突かれているように、シンジは落ち着かない気分がしたに違いない。
 しばらくは彼は居心地の悪そうな顔をしていた。でも、じきに彼のほうでもあたしを意識するようになっていった。つまり、あたしと同じように、彼もまた、 あたしを目で追うようになったのだ。
 奇妙なことが起きつつあった。
 と、誤魔化すのはやめにしよう。
 つまるところは、あたしたちはお互いを痛いくらいに意識し合っているのだった。
 まるで、むき出しの内臓を外にさらしているかのように、あたしたちの感覚は鋭敏になった。背を向けていてさえ、相手の視線が自らの身体を這う跡をなめく じの 通り道のようにはっきりと辿ることができた。
 この感覚を少しも楽しんでいない、といえば嘘になる。
 あたしにとっては、こんな気持ちになるのは初めての経験だし、うきうきと心が躍るような気さえした。時に胸が締め付けられるような切ない感覚に襲われる ことすら、心地いいと感じるほどだ。
 恋とはこういうものか、という新鮮な驚きがそこにあった。
 間違いなく、あたしはシンジに恋をしていた。
 逃げ回るのをやめて、その気持ちに相対してみると、不思議とすんなり認めることができた。何もかもが、この状況を作るための準備をずっと以前から整え て、あたしを待ち構えていたかのようにも感じられた。
 人間関係の経験値がおそらくあたし以下と思われるシンジも、似たような心境に違いない、とあたしは考えていた。そんなものはお前の勝手な妄想に過ぎな い、という自らの冷めた部分からの警告も無視して、交わされる視線の裏で共有される秘密の想いに、身の程も知らず、あたしは酔いしれていた。

「最近、調子がよさそうね」

 ミサトが話しかけてきたのは、ネルフ本部のパイロット専用女子更衣室でのことだ。一人だけ課せられた実験が終わったあとで、見学していたミサトが更衣室 までついてきたのだ。

「気にかけてくれてどーも」

 鉄くさい補助溶液をシャワーで洗い流しながら、あたしは背中越しにミサトへ返事をした。

「別にエヴァのことだけを言ってるんじゃないのよ。もちろん、それもあるけど、何ていうかこう、明るくなったっていうのかな。うん、アスカ、最近いい表情 するようになったわ」

 ミサトの言うことは、自分でも自覚のあることだった。
 最近、呼吸をするのが楽になったような気がする。表情を無理に作らなければならない機会が減って、顔の筋肉も疲れなくなった。
 その理由は、もちろん分かりきっている。

「ひょっとして、誰かさんのおかげとか?」

 勘のいいミサトが、そう言って笑いかけてきた。ある意味では、同じ家に暮らしているのだから、気付いて当たり前のかもしれないけど。
 あたしは否定も肯定もせず、ただはぐらかすことにした。

「じゃあ、その誰かさんにミサトも感謝しなくちゃね。エース健在で、使徒との戦いにも希望が見えるでしょ」

「あはは、まあそりゃあね。使徒相手ではあんたたちに頑張ってもらうしかないんだし。その点じゃ大いに助かってるわよ」

 シャワーを浴び終えたあたしは、水分を拭き取った身体にバスタオルを巻き、ブースから出た。ミサトは長椅子の一つに腰かけて、こちらを見ている。あたし は彼女の視線を意識しながら、自分のロッカーへ近づき、扉を開けた。

「ねえ、アスカ。こんなことが早く終わるといいわね」

「こんなことって?」

 意識的にミサトへ背中を見せないよう立ち、バスタオルを外して下着をつけながら、あたしは訊き返した。

「エヴァとか、使徒とか、そういうことよ。全部終わってしまえば、アスカも普通の女の子になれるんだもの」

「普通なんて想像つかないわね。あたしはあたしよ。変わったりしないわ」

「……まあ、そうかもね。全部終わったら、わたしは今の仕事、やめちゃうかもなぁ」

 特に表情をかえるでもなく、淡々とミサトは言った。

「そんなこと言って、今の仕事以外であんたにできることがあるわけ?」

「あはは、痛いとこ突かれちゃったわね。まあでも、何とかなるんじゃないの? とりあえず、そのときにはもう、世界の滅亡は気にしなくていいんだし」

「いい加減なもんね」

 中学校の制服に着替え終えたあたしは、ぽつりと呟いた。
 ミサトは今のあたしたちと同じ年齢のころ、不仲だった父親を亡くしている。
 父親の死の原因は使徒だ。十五年前、南極で発見された使徒の調査隊をミサトの父親が率いていたそうだ。その後使徒はセカンドインパクトを起こして世界を ひっくり返したが、南極調査隊はこの使徒を封じ込めるのと引き換えに全員死んだ。
 唯一、父親に同行していたミサトを除いて。
 ミサトにとって、使徒との戦いは復讐のつもりなのだろう。
 父親を殺した使徒への復讐。
 でも、実は違う。
 ミサトが本当に復讐したい相手は、彼女自身だ。
 父親が死んでしまう最期の瞬間まで、結局心を通い合わせることができなかった自分自身をミサトは責めている。仲直りする機会を永遠に手放してしまった自 分自身を憎んでいる。
 でも、その罪の意識と向き合うことができないから、責任を使徒に転嫁しているのだ。
 三十歳になろうかという大人がこうしてじたばたしているを見ていると、あたしも自らに問わずにはいられなくなる。
 では、あたしはどうなの?
 あたしの翼は、なぜ奪われたの?
 愛情を失ったのは、本当にそのせいなの?
 考えると、背の傷痕がうずく。決して見えない、でも確かにそこにある傷痕が。
 かつて、この背に美しい翼が宿っていたころ、パパとママはあたしへ溢れんばかりの愛情を注いでくれた。でも、突如として、二人の態度は変わった。あれほ ど愛していたあたしのことをパパもママも見失ってしまったようだった。
 あたしは愛される何かではなくなってしまったのだ、と幼いあたしのもとへ残酷な認識が舞い降りてきた。
 あたしはとても大切なものを失ってしまった。だか ら、それを取り戻さなくてはならない。取り戻しさえすれば、誰からも見向きもされないあたしは、再び愛情に包まれて空を飛ぶことができる。
 それまでは、この地上を孤独のまま生きなければならないのだ。





 シンジとの微妙な関係はその後も続いている。
 そのことは確かに、あたしを心地よい気分にさせ、傷ついた心を慰めてくれもする。
 けれど、ふとした瞬間、われに返ることがあるのだ。
 たとえば、青空のはるか遠くに目を奪われたとき。たとえば、小さな子とその親の家族連れが幸せそうにしている姿を見たとき。たとえば、鏡に映る自らのな めらかで傷一つない背 に、美しい翼の幻影を見たときに。
 この背の翼を失ったときから、愛情はあたしを素通りするようになった。
 元の自分に戻れるよう限りなく努力してきたが、いまだにあたしという人間は、十年前と少しも変わっていない。
 そんなあたしが、どうして恋などできるだろう。
 たとえ錯覚でも、恋は心の慰めとなる。
 けれど、そもそもあたしは恋する資格すら持たないのだ。
 それを考えると、泣きたくなる。
 この十年で初めて、パパとママを想う以外を理由にして、涙が流れそうになる。
 もう決して流さないと誓ったはずの涙が。