ベリー・ショート・ストーリーズV


プロポーズ


rinker





「ところでさ、あんたのこと好きなんだけど」

 それは唐突な出来事だった。葛城ミサトにとっては数日振りの自宅での夕食の席でのことだ。一緒に暮らしている碇シンジが作ってくれた煮込みハンバーグに 舌鼓を打ちつつ大好きなビールを楽しんでいたところ、もう一人の家族である惣流・アスカ・ラングレーが件の台詞を吐いた。それがあまりに出し抜けだったも のだから、ミサトはしばらくその意味するところが分からなかった。

「えっと……、誰に言ったのかしら、アスカ?」

「シンジに決まってるでしょ。で、どうなの?」

 どうって何が?
 ミサトの頭にハテナマークが一杯浮かび上がる。
 アスカが? シンジくんを? 好きだ? それでどうかだって?

「うん。僕も好きだよ」

 アスカがそうであるように、問われたシンジもまた何でもないことみたいにひどく落ち着き払って答えた。
 ここはどこ? わたしは誰?
 ミサトが異次元へ意識を漂流させているのを余所にシンジとアスカは淡々と会話を続け、その間にも二人の食事の手は休められることはなかった。

「確かなの? 心変わりされたら、あたしはたぶん許せないわ」

「大丈夫だよ。アスカだけって約束する」

「ふぅん? ま、いいわ。信じてあげる」

「それはどうも。そういうアスカこそ大丈夫なの?」

「誰に訊いてるのよ。決まってるでしょ」

「ならいいんだよ」

 テーブルを挟んで向かい合っているシンジとアスカの応酬は、完全にミサトを混乱させていた。一体わたしは何を見聞きしているのだろう? 彼女は缶ビール を一気にあおった。シンジもアスカも喧嘩するほど仲がいいを地で行くとはいえ、当人たちにその自覚は薄く、互いに意識しあって反発してばかりだったはず だ。何といってもつい今朝方にも学校へ行く前に下らない言い争いをしていたのをミサト自身目撃している。それなのに、一体全体どうしてしまったのだろう。 日が暮れるまでの間に二人揃って悟りでも開いたのか? 自らの気持ちに完璧に気づいた結果いがみ合うのなんて馬鹿らしいという合意に達したのか?
 席を立ったミサトは空になった缶を流しに置き、冷蔵庫から新しいビールを取り出してプルタブを開けた。よく冷えたビールで一刻も早く頭を冷やさなくては いけない。彼女は小さな缶に縋りつくようにして琥珀色の液体を胃の中に流し込んだ。

「これでお互いの気持ちは確認できたわけね。じゃ、これからどうしよっか」

「そうだね。ちょっと早いけど結婚でもする?」

 ぶべっ、とミサトはせっかくのビールを噴き出した。しかし、シンジとアスカはいたって平然としている。シンジが手渡してくれた布巾で濡れた顔やテーブル を拭いてから、ミサトは冷静に事態を把握するためビールを飲み干し、また一缶取りに行った。

「いいんじゃないの。早くて悪いってことはないわ。ぐずぐずして機会を逃すような女だっているっていうし」

 何だか妙に耳に痛い言葉を聞いた気がすると思いつつ、ミサトはハンバーグをフォークでひと口に切り取って食べた。思わずほろりとする味わいだ。

「それにどうせこの先離れ離れになるつもりもないからね」

「そうそう。ま、本当はもっと色々楽しみたかったっていうのもあるけど、一番楽しめる奴に最初でいきなり当たっちゃったんだもの。仕方がないわよね」

「仕方がなく僕の相手をしてるってこと?」

「馬鹿ね、言葉の綾よ。ふふん、嫉妬してるんだ」

「からかうなよ。それに嫉妬する必要なんてないね」

「あら、どうして?」

「アスカはこの先僕以外には誰も目に入らなくなるんだから」

「もう、真顔で恥ずかしいこと言わないで欲しいわね。今だってあんた以外は見えてないわよ」

 気がつけば流しには大量の空き缶が積み上がり、ミサトは前後左右に大きく身体を揺らしながら、正体の分からない笑い声を上げ続けていた。彼女は楽しくて 仕方がなかった。わけは分からないが、とにかく愉快な気持ちがとまらなかった。

「ああ、シンちゃん。アスカ。愛してるわ。二人とも愛してるわ」

 熱烈な愛の告白をしながらビールをあおるが、揺れ動き続ける身体では狙いが定まらず、琥珀色の液体はほとんど彼女の口には入らずぼたぼたと零れ落ちてい た。

「おめでとう。本当におめでとう。二人が結婚するだなんて。あたしのシンちゃんとアスカが。結婚……ああ、何てこと!」

「ほらほら、ミサトさん。ビールが零れてますよ」

「いいのいいの。ビールなんていくらでもあるんだから。そんなことより結婚でしょ?」

「ちょっとミサト。まっすぐ座らないと椅子から落ちるわよ。大体飲み過ぎでしょ、さっきから」

「もうっ。うるさいなぁー、アスカは。落ちたりなんかしませんよーっだ。べろべろべーっ。ああ、結婚かぁ。いいなぁ。あのシンちゃんとアスカが……二人と もいつの間にか大人になったのねぇ」

「そうよ。気づいてなかったでしょ。あんたちっとも家に帰ってこないものね」

 アスカの言葉はなぜか皮肉げだったが、ミサトの霞んだ頭ではそれがどういうことかよく分からなかった。

「そうそう、わたしが家に帰らない間に……そっか。さてはアスカ、シンちゃんのこと食っちゃったなぁー? やっるぅー!」

 ミサトは握りこぶしに親指を立てて腕を突き出そうとしたが、何しろ身体の自由が利かないので勢い余ってテーブルに滑り込んでしまった。

「ばっ、だっ、誰がそんな……!」

 真っ赤になったアスカが叫ぼうとしたが、シンジは慌てて彼女の口を塞ぎ、それから食器を押し退けてテーブルに突っ伏したミサトを優しく支え起こした。そ れを見てアスカはむくれた顔をしたが、ひとまず叫ぶのはやめたようだった。

「大丈夫、ミサトさん? 怪我はしてない?」

 ミサトはしばらく頭をぐらぐら揺らしていたが、やがて揺れが収まると、自分を支えるシンジのことを焦点の定まらない目で一生懸命に見つめて言った。

「だいじょび、だいじょび。そっか。シンちゃんはもう大人なのね。嬉しいなぁ」

 シンジに支えられながらミサトはまたビールをごびごびとあおってから、おもむろに両手を上に突きあげた。

「ばんざーい! シンちゃんとアスカ、ばんざーい! 結婚おめでとー! いぇーい!」

 手に握られた缶から噴き出したビールが降り注ぐ中、ミサトはひたすら万歳を繰り返し、いつしかその頬は本物の涙で濡れていた。彼女はかたわらのシンジを 抱き寄せると、しつこく彼に頬ずりしながら言った。

「ねえ、シンちゃん。キスしよっか。ほんと言うとさぁ、わたし、シンちゃんのこと、ちょっといいなぁって思ってたんだ、へへへ」

「はぁっ!?」

 ミサトの思わぬ言葉にアスカは椅子を弾き飛ばして立ち上がった。けれど、ミサトに頬ずりされまくっているシンジが無言の眼差しでそれを制した。アスカの こめかみにはぶっとい青筋が浮かび上がっていたが、彼女は爪先が白くなるほどテーブルのふちを握り締め、ぎりぎりと歯軋りの音を響かせながらゆっくりと 腰を下ろそうとし、先ほど自分が椅子を弾き飛ばしたことに気づいて、ぐるぐるとうなり声を上げながら倒れた椅子を起こして座った。

「だからぁキスしようよ。ていうかさせて。します。しますので。はぁはぁ」

「ちょ、だ、駄目だよミサトさん」

 必死になって逃れようとするシンジに対してミサトはうねうねと蛇のような動きで迫り続ける。

「うぅーん、シンちゃんのお肌すべすべするぅー」

「ミサトさん、お、お酒くさい」

「うへへ、シンちゃんはぁー、いい匂いがしますよぉーう」

「いい加減にしなさいよ、この変態年増!」

 ついに辛抱しきれなくなったアスカが怒りに真っ赤になった顔でミサトに掴みかかった。

「んにゃ?」

「シンジから離れなさいよ、酔っ払い!」

「何よぉーう。アスカもキスして欲しいの?」

「いらないわよ!」

「じゃシンちゃんにするっ」

「駄目!」

「いいじゃんかよぅ、キスくらい。二人のこと、こんなにこんなに好きなのに。アスカならお姉ちゃんって呼んでもいいよ?」

「あーもー! この酔っ払いはもー!」

「あ、分かった。それじゃ二人にするから」

「何が『あ、分かった』よ! 駄目ったら駄目!」

「べーっだ。シンちゃんの奥たんは恥ずかしがり屋たんでちゅねー。気っ持ちいいのになー。わたし、キスってだーい好き。だからさせて。二人ともちゅー ちゅーさせ て」

 ミサトとシンジとアスカの三人でああでもないこうでもないと揉み合っているうちに、とうとう力尽きたミサトはうとうととし始めた。

「ほら、ミサト。しっかりしなさいよ。こんなところで寝るつもり?」

「ふぅぅーん……、二人とも大好きよ……」

 むにゃむにゃと不明瞭な言葉を漏らすミサトを見て、アスカは大袈裟なため息を吐いて「このバカミサト」と呟いた。その様子にシンジはくすりと笑った。

「今笑ったでしょ、シンジ」

「いや、別に? それよりミサトさんを運ばなくちゃ。アスカも手伝って」

 二人は脱力したミサトの身体を両脇から支えて立ち上がらせ、彼女の部屋へ連れて行くことにした。女性とはいえ身長も体重も三人のうちでは一番だし、何し ろ自力では歩くどころかまっすぐ立てもしない状態なので、ダイニングからミサトの部屋までの短い距離を進むのに大変な労力が必要だった。やっと彼女の部屋 の襖を飽けた時には、アスカなどほとんど息を切らしていた。

「ちょっとシンジ、しばらくミサトのこと頼むわよ。あたしが寝られるように片付けるから」

 ミサトの部屋は散らかり放題で敷きっ放しの布団の上にまで物が散乱していた。アスカは悪態をつきながら部屋の中へ突進し、不意に振り返ってシンジに言っ た。

「一人でミサトを支えるからって、変なとこ触っちゃ駄目だからね。こんなでも一応女なんだから。いくら酔い潰れてたってそんなことしたら許さないわよ」

 シンジはぎょっとした顔になってぶるぶると首を横に振った。

「そんなことしないよ!」

「さっきは抱きつかれてでれでれしてたくせに。まあいいわ。とにかく待ってなさいよ。ったく、汚いったらありゃしないわね、ミサトの部屋は」

 アスカが部屋を片付けている間、シンジはじっとミサトを支え続けていた。酔い潰れたミサトはすやすやと寝息を立てて眠り込んでいた。変なところを触るな と言われた手前、シンジは生真面目な顔で身じろぎ一つしないよう頑張っていた。アスカからそんな不埒な真似をする輩だと思われているのは心 外だったが、実際のところは彼女の発言はシンジよりミサトを気づかったもののように思えた。

「いいわよ。こっち連れて来て」

 片付け終わったアスカがシンジに声をかけたが、シンジは困った顔をしてかぶりを振った。

「一人じゃ無理だよ。ミサトさん、完全に眠っちゃってるんだ」

「仕方がないわね。大体どうしてこんなになるまで止めなかったのよ。べろべろに酔い潰れて眠っちゃうなんて予定外もいいとこだわ」

 再び二人は両脇からミサトを支え、布団の上に横たわらせた。

「仕方がないだろ。アスカとの会話で頭が一杯だったんだ。ミサトさんがあんなに飲んでるなんて気づかなかったんだよ」

「やれやれだわ。お姉ちゃんならお姉ちゃんらしくしろってのよ」

 肩を竦めたアスカは呆れ声で言ったが、それは決して険悪な感じではなかった。

「さてと、どうしようかしら。シンジ、絶対に目を開かないって約束できる?」

 何のことか分からずシンジが首を傾げると、アスカはミサトのTシャツの裾を引っ張った。そこは零れたビールでびっしょりになっていた。

「この恰好のまま寝かせられないわ。かといってあたし一人じゃこいつを着替えさせるのは骨だしね。裸のまま放っておくわけにも行かないし。だから、手伝い なさい」

「で、でも駄目だよ、そんなの」

「目を閉じてりゃいいの。どこを支えればいいのかはあたしが教えるから。そうすれば変なものを見る心配も触る心配もないわ。ほら、どこにも問題はないわよ ね?」

「変なものって……」

「バカシンジ、いいから言うことを聞きなさいよ。後ろからミサトの上半身を起こして、両腕を上げさせて。目は硬く閉じるのよ。いいわね?」

「わ、分かったよ」

 おっかなびっくりという様子でシンジはアスカの言うとおりにした。その目は硬く硬く閉じられていたが、ミサトのTシャツをまくり上げる際にアスカはもう 一度念を押した。

「これから服を脱がすわ。約束を破ったら死刑だから」

「分かりました」

 シンジは神妙に答えた。それを確認し、アスカはミサトの服を脱がせた。豊かな胸の下にある皮膚の色が違う大きな傷痕が妙に目に痛かった。新しいタンク トップを着せてショートパンツも穿き替えさせると、アスカはやっとシンジに目を開くことを許した。

「それじゃ、ちゃんとまっすぐに寝かせよう」

「あんたはそっち持って。それにしても、これだけしても目を覚まさないなんて呆れを通り越して感心するわね」

「はは。いいじゃない。疲れてるんだもの、ミサトさん」

 ミサトの体勢を整えてやりながら、いつになく優しい表情でシンジは言った。

「へーえ。お優しいことで」

「何だよ、その言い方」

「べっつに。ミサトが忙しいのは事実よ。そのせいでちっとも家に帰って来やしないんだから。年頃のあたしたちを残してるのによ。あたしたちがどうなったっ て構わないってのかしら」

「だから今日みたいなことを考え付いたんでしょ」

「ふん。ああでもしたらミサトもあたしたちに注意を払わなくちゃいけなくなると思ったのよ。でも、大失敗。こいつ、絶対明日になったら今夜の記憶が飛んで るわよ」

 二人の子どもたちのやり取りも知らず、ミサトは小さなイビキをかいてぐっすり眠り込んでいた。シンジとアスカはそんな保護者を挟んで左右に座っていた。
 ミサトが仕事が忙しいためにあまり家に帰れずシンジたちを放ったらかしにしていたのは事実だ。もちろん、決して彼女が二人をないがしろにしていたという わけではなく、やむにやまれぬ事情があるためだ。しかし、それをアスカがこんなに気にしていたということはいささかシンジを驚かせた。保護者の気を引くた めに彼女がこの突拍子もない提案をしてきた時には耳を疑ったほどだ。そんなアスカのことがいじらしくて可愛く感じられることにはもっと驚いた。

「また明日試してみる?」

「んー、どうしようかしらね。明日のミサト次第かしら。どこまで記憶があるか分からないし」

 と言って、アスカはごく何気ない仕草でミサトの乱れた髪を整えた。その様子を見たシンジは、当初の目論見とは違う方向に事が進んでしまったがこれはこれ でよかったかもしれない、と思った。アスカのミサトに対する思いがけない優しさはシンジの心を温かくさせた。

「そっか。分かった。それじゃ僕、テーブルの上と台所を片付けなくちゃ」

 微笑んだ彼はそう言いながら立ち上がりかけた。
 しかし、それを生真面目な表情のアスカが制止した。

「ああ、待って」

 ミサトの身体のすぐ脇に片手を突いて身を乗り出したアスカは、もう片方の腕でシンジの首の後ろを掴んで引き寄せると、出し抜けにキスをした。

「んむっ?」

 突然のことに目を白黒させているシンジにはお構いなしにアスカは納得の行くまで彼の唇を吸い続け、ようやく彼を解放してからけろりとして言った。

「いたた。歯をぶつけちゃったわ。唇を切ったりしてない、シンジ?」

「う、うん。それは大丈夫だけど……、今のは何?」

 シンジがよくよく観察すると、淡々としているかに思えたアスカは実際には顔を真っ赤に染めており、瞳は潤んできらきら光っていた。

「キスよ。知らないの?」

「そ、そうじゃなくて」

「もうっ。相変わらず察しが悪いんだから。好きだからしたに決まってるでしょ」

「好きって……アスカが? 僕を?」

 びっくり仰天してシンジは思わず大声を上げてしまった。慌ててアスカが唇の前に人差し指を立てて「しーっ」とたしなめる。幸いなことに深酒で熟睡してい るミサトはまったく気づく気配もなかった。

「ごめん。でも、そんなまさか」

「まったく気づいてなかったわけじゃないんでしょ?」

「それは……でも本当に? だって僕なんか……」

「やれやれ。鈍いのもここまで来ると犯罪だわ。大体好きでもないなら、いくら演技でだってミサトの前であんな会話するわけないでしょ。まあでも、いずれに せよこれではっきり分かってもらえたと思うから、これ以上ごちゃごちゃ言うのはやめてよね」

 膝立ちになったアスカは腰に手を当ててシンジを見下ろし、きっぱりとした口調で言った。そして、まだショックの抜け切らないシンジに向かってちょっとは にかんだ表情になって付け加えた。

「ミサトの前で喋ったこと、演技ではあったけど嘘だったわけじゃないの。あんたのプロポーズだって本気にしてもいいのよ」

 プロポーズと言われて、確かに自分はそれを意味する言葉を口にしたはずだ、とシンジは思い出した。
 でも、あれはアスカがそう言うようにあらかじめ決めたんじゃないか。
 シンジは事実の微妙なすり替えが行われているような気がしたが、彼自身アスカに好意を抱いていることは紛れもない事実だったので、彼女のずるについては 指摘しないことにした。実際のところ、アスカを恋人にするのに異存などまったくない。結婚となるとまた話は別だが、いずれにせよ彼らはまだ十四歳なので、 結婚といっても口で言っているだけだろうとシンジは高を括った。それはもっと大人になってから考えればいい。

「本当に本気なの、アスカ?」

「それはあんた次第よ。ね、シンジ。あたしのことが好き?」

 アスカは期待を込めた表情でシンジの答えを待ったが、彼は答える代わりに先ほどのアスカのようにゆっくりと身を乗り出してきた。

「ちょ、ちょっと……」

 シンジが腕を掴まれたアスカは身を硬くした。彼の顔はだんだんと近づいてきていた。

「アスカも少し前に出て。届かないよ」

 シンジはほとんど囁いて言った。彼らの間には熟睡するミサトが横たわっている。先ほど自分からした時には大胆だったのが嘘のように今のアスカはためらっ ていた。 
 ところが、シンジの次の一言が彼女のためらいを吹き飛ばした。

「結婚するには誓いの口付けがいるんでしょ」

 アスカは照れながらもにっこり笑うと、手を突いて身体を前に乗り出してシンジとの距離を縮めた。

「ねえ、キスする前にちゃんと言って」

 もう少しで唇が触れ合うというところでアスカは立ち止まって言った。シンジは目をぱちくりさせたが、すぐに諒解した表情になり、彼女と唇を重ね合わせる 瞬間に小さな声でささやいた。

「僕も好きだよ」

 そして、二人の唇はぴったりと密着し合った。二度目のキスはとても長くて真剣なものだった。シンジもアスカも目を閉じて、片腕をミサトの布団の上に突い て身体を支え、もう片方の手はしっかりと握り合っていた。小さなイビキをかいて眠っているミサトの身体越しにキスしていることがシンジは少し気になった が、すっかり熱中していたアスカは早々にキスを切り上げて彼と離れるつもりはまったくなかった。それでも不安定な姿勢でキスを続けるのは大変なことで、限 界まで我慢して耐え切れなくなるとようやく彼らは顔を離した。

「ねえ、それだけなの?」

 離れるなりアスカが言った言葉にシンジは目を丸くした。まさかあれだけしつこくキスをしておいて物足りなかったのか? しかし、ちょっとむくれた顔をし ているアスカを見ているうちに、彼女が不満に思っているのはどうやらキスのことではなくてその前のシンジの告白のことだと彼は気づいた。

「だって、それ以上何があるっていうのさ」

 あっという間に険悪な表情になったアスカを見て、すぐにシンジは自分の失言を悟った。

「いや、つまりアスカのことが好きだっていうのは本当だよ。ミサトさんの前で話したことだって全部そうだよ」

「へえ。あれ、全部あたしが考えた台詞だったはずだけど」

「うん。だからその、僕も演技だけだったわけじゃないんだ。本当にアスカとこうなれたらいいなって……」

 シンジの言い訳は苦し紛れだったが、嘘ではなかった。ミサトの前で話したことがすべて本当になるならこんな嬉しいことはない。たったの十四歳で人生の大 事な部分が決定してしまうことには少し残念に思わないでもなかったが、アスカへの好意は本物だったし、早すぎる決定の弊害を補って余りあるほど彼女は可愛 かった。厄介な女の子であることは確かだったが、彼女の愛すべきところをシンジはたくさん知っていた。

「ふぅん。ま、いいわ。別に怒ってるんじゃないのよ。シンジもあたしのことを好きって言ってくれて嬉しい」

 アスカが不機嫌を引っ込めたので、シンジは思わず安堵のため息を吐きそうになった。それを誤魔化すため、彼は急にはきはきした口調で言って立ち上がっ た。

「さ、夕飯の片づけをしなくちゃ。僕、行くよ」

 先ほど自分から仕掛けた口づけが急に恥ずかしくなったというのもある。シンジは開け放った襖から足早に廊下へ出ようとした。でも、すぐに追いかけてきた アスカが彼の腕を持ち上げてその下にするりと入り込んだ。

「アスカ?」

「ねえ、シンジ。あたし、ミサトの前であんたが何て言ってくれたのか、もう忘れちゃったわ。だから、もう一度聞かせてもらえる?」

「片づけをしなくちゃいけないんだよ」

 シンジが言うと、アスカはにっこりと笑った。

「分かってるわ。だから、手伝ってあげる。その間に一つ一つ聞かせてちょうだいね。これはすごく大事なことなのよ」

 やっぱり早まったかもしれない、とシンジは思った。ミサトの気を引くという目的ででっち上げた会話をアスカが最初から最後まで文字どおりに本気にしてい て、それ をシンジにまできっちり守らせるつもりなのは、どう考えても明らかだった。このままでは明日にも指輪が欲しいとか言い出すかもしれない。
 しかし、しがみつくアスカの嬉しそうな顔を見ていると、そんな悩みはどうでもいいことのように思えてきた。アスカの投げた網に引っ掛かってがんじがらめ にされたのだとしても、結局は収まるところに収まって幸せになれるなら、もう構わないじゃないか。
 一旦心を決めてしまえば悪くない気分だった。シンジはアスカの肩に回した腕でしっかりと彼女を抱き寄せた。彼女の身体はとても温かく柔らかくて、いい匂 いがした。ミサトに抱きつ かれた時は酒くさくて息が詰まりそうだったが、本当は女の子はこんないい匂いがするという事実に彼はちょっとどぎまぎしていた。

「分かったよ、アスカ」

「んふ。大好きよ、シンジ」

 アスカは満足そうに言ってシンジの腰に両腕を回してしがみついた。今は背丈がほとんど変わらないので若干苦しい姿勢だが、じきに釣り合いが取れるように なるだろう、とアスカは肩に回されたシンジの腕の重みを意識しながら考えた。
 それまでの間、一歩一歩をこうして一緒に歩んで行くのだ。やがて腰の曲がった老人になりこの世を去るその瞬間まで、こうして二人で寄り添って行けるの だ。
 アスカは少し振り返ってミサトの部屋に視線を送った。自分たちがこうして幸せになれる、ということを今は酔い潰れて眠っているミサトにも 知ってもらいたかった。彼女自身にだって同じ幸せを得る権利はあるのだと思い出して欲しかった。しかし、いずれにせよそれは明日以降の話となる。
 再びアスカは視線をシンジに向けた。すると、彼もアスカのことを見ていた。彼らははにかみを含んだ微笑みを交し合い、くすくすと声に出して笑い出した。 ダイニングへ向かう短い距離を二人は互いに支えあいながらゆっくりと進んでいった。

「ところで僕にしがみついたままでどうやって手伝うつもりなの」

「えっと、応援じゃ駄目?」










fin.



リンカさまから"ベリーショートストーリー"をいただきました。
場面は一つで一夜の出来事、今回は本当に(物語上は)短い時間の間のことでしたね。
もっとも被害を受けたミサトさんにはそれどころじゃなかったようですが(笑

素敵なお話を書いてくださったリンカさんに是非感想メールをお願いします。

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