ベリー・ショート・ストーリーズT
カーゴカルト、あるいは希望
革命の最初の体現者が現れたのはサードインパクト震源地にほど近い小村だった。一人の住人の突然の変化を前に、村人
たちはただ戸惑うほかなかった。さしたる時を置かず体現者は二人、三人と増えていき、村人たちが恐れおののくうちに外の世界にも『感染』が広がっているこ
とが明るみになった。やがては世界中で同様の事件が起こり始めた。
革命の体現者は涅槃者とも呼ばれた。彼らは一様に物静かで満ち足りていた。食物を必要としなくなり、数日に一度水を飲むだけで事足りた。およそ生物であ
ることに伴うあらゆる苦悩や苦痛から解放されたと見えるその姿はさながら解脱した聖者のようでもあり、そのためにいつしか生きながら涅槃(ねはん)に至っ
た者と呼ば
れるようになった。
革命とは、彼ら自身の言による。彼らの変化は革命の始まりなのだと。だが、その意味するところを解する人間は誰一人としていなかった。
多くの場合、彼らは外見的な変化には乏しかったが、その佇まいを一目見ただけで健常な人間と涅槃者との区別はついた。まれに尋常でない姿に肉体が造り替
えられ
る者もいたが、その性質は他の涅槃者と変わるところはなかった。
しばらくし、調査によって彼らはすでに人間とは異なる生物種となっていることが判明した。彼らの遺伝子は完全に書き換えられ、姿こそ大きく変わらないも
のの、
この地球上のどの生物とも似ても似つかぬものとなっていた。革命は涅槃病とも呼ばれ、疫病のように伝染すると確たる証拠もなしに考えられ、人々を恐怖させ
た。
革命初期のことだが、涅槃者の身体を調査した医師がある不思議なものを発見した。それは赤く透き通った小さなガラス片のようなもので、彼らは皆身体のど
こかにそれを持っており、彼らの生命にとって欠くことのできないものだと思われた。なぜなら、医師がガラス片を取り除くと、その涅槃者がほどなくし
て死亡したからだ。死骸は急速に朽ち、砂のように崩れてしまったという。
こ
の事実が謎の疫病の根絶に繋がる重要な手がかりであると医師たちは考えたが、日を置かずして調査の行われた研究所はおびただしい涅槃者の群れに覆い尽くさ
れ、人々はすべて消えた。混乱の中逃げ延びたわずかな人間たちの中に摘出されたガラス片がその後どうなったのかを知る者はいなかったが、涅槃者たちの目的
は同胞の身体から取り除かれたそれを取り戻すことだと信じられ、以降涅槃者へうかつに手を出そうとする者は減った。
涅槃者はおよそ敵意や暴力というものを解しなかったが、同胞の死だけはたとえ離れた場所にあってもどういうわけか察知できるようだった。そして、その
場合彼らはどこからか群れ集い、大挙して押し寄せ、街も人々の姿も目に映らぬかのようにすべてを飲み込んだ。その様子はまるで同胞の死骸を守ろうとしてい
るかのようにも
見えた。
彼らは増え続けていた。革命の原因は杳として知れなかったが、憶測が憶測を呼び、全世界は恐慌の只中にあった。涅槃者となる者に共通した特徴のようなも
のはな
かった。老若男女、あらゆる人種、あらゆる居住地域。金持ちと貧乏人、あるいは健常者と傷病者。はたまた善人と悪人。一切の区別なく、いかなる種類の人間
からも涅槃者は現れた。感染を恐れた人々は蜘蛛の子を散らすように涅槃者たちから逃げ惑った。多くの街が捨てられ、政治や経済は瞬く間にその機能を失って
いった。明日にも我が身が涅槃病に罹患して人間でないものへ変わってしまうかもしれないという恐怖と戦い続けながら人々は生きなければならず、それに耐え
られないものは殺し合いを始めた。だが、恐慌の原因である涅槃者たちは一切に煩わされることなく、まるで植物のようにひっそりと息をして佇むばかりで、そ
んな彼らがただただ増え続けるのを、人々はも
はや止めることも叶わずにいた。
わずか二年で世界人口の七割以上が涅槃者へと姿を変えた。さらにおよそ一割が互いに殺し合い、生き残った人類はわずかに革命前の二割足らずだった。文明
は急速に退行しつつあり、生き延びた人々は転々と集落を作り、怯えながら暮らしていた。
そして、二年を過ぎたころから硬い殻のような球体に自らの身を包む涅槃者が現れるようになった。それはまるで昆虫のさなぎのようであり、鳥の卵のようで
もあっ
た。涅槃者自身の身体を納めてまだ充分に容量に余裕がある球体の殻は非常に硬く、傷つけることは困難だった。どうすることもできず人々が不安に包まれなが
ら観
察を始めておよそひと月後、外観から受ける印象が決して間違っていなかったことが証明された。羽化した時、涅槃者は二人に増えていた。彼らはまるでウイル
スの
ように自己増殖を始めたのだ。
当初はもとの人間とさほど外見的に異ならなかった涅槃者たちは、自己増殖するようになって決定的に何かが変わってしまったようだった。彼らは皆異様に白
く硬い皮膚を持ち、何かに呼び寄せられるように一箇所へ向けて移動を始めた。彼らが集まっていたのはサードインパクト震源地となった日本の第3新東京市
だ。そこで彼らはその硬い皮膚に覆われた肉体を変化させ、互いに溶け混じり合い、自らを一つの巨大な生物の一部とした。
フォン・ノイマン的複製によって数
を増やした何千億あるいは何兆という涅槃者が材料となり、第3新東京市を中心とした巨大なドーム状の生きた建造物が誕生した。ドー
ムはわずか三ヶ月で日本列島をすっぽり覆い、さらに拡大を加速させていた。太陽の光に白く輝く涅槃者の集合体がこの星を飲み込もうとしていることは、誰の
目
にも明らかだった。
僕がそこを目指すと決めたころには自らの種の絶滅を疑う者は誰一人いなかった。時間だけが残された唯一の問題だった。
そして、その問題に頭を悩ませていられる日々は、もういくらもなかった。
「ガソリンを充分用意してやれなくてすまない」
バスチアンが表情を曇らせて言った。しかし、ガソリンは貴重品だ。ポリタンクに二つ分でも充分すぎるほどだった。彼はきっとこのために相当な無理をして
くれたに違いない。
「いいんだ。車の運転を教えてくれて助かった。ドロテアに遊んでやることができなくなってすまないと伝えておいて」
「なあ。本当に行くのか」
引き止めようというバスチアンの気持ちが強く感じられる口調だった。しかし、僕の意思は誰にも変えられないのだ。僕自身にさえ、もう。
「私物を処分する暇がなかったんだ。写真と本は焼いて。チェロはきみにあげる。寝台のマットレスを剥いだら小箱が隠してあるから、中に入っている十字架の
ペンダントをドロテアにやってくれ」
「もう会えないのか?」
「うん。もう行くよ。お別れだ、バスチアン。秘密を守ってくれてありがとう」
この旅で何より重要なのは移動手段を失わないことだ。時間は限られている。しかも移動している最中にも刻一刻と涅槃者たちはドームを拡大しているのだ。
ドイツ北部にある生き延びた人間たちの集落を発ち、遺棄された街を辿ってガソリンや必要なものを補充し、時に車を乗り換えながら、地図を頼りにひたすら
進んだ。何度か人間の集落のそばを通ったが、面倒に巻き込まれるのを避けるために彼らとは接触せず素通りした。横目に見る人間たちは泥と垢に薄汚れてい
て、絶えず怯えているようだった。いまだに涅槃病がウイルスか何かで感染するものと信じ恐れているのか、僻地に暮らす者の多くがガスマスクを装着し、それ
がなければただの
ぼ
ろ切れを顔に巻きつけていた。ほんの三年前までの栄華などもはや影も形もない。どうすることもできず滅びの時を待つだけの無力で哀れな生き物でしかなかっ
た。
そして、人間たちの群れ以上に白い巡礼者の列に幾度となく遭遇した。それは集合体への合流を目指し、列を成してひたすらに歩みを進める涅槃者たちの姿
だった。自らの内に響
く呼び
声に導かれている彼らの前に一切の障害は意味を持たなかった。涅槃者たちの表情に浮かぶある種の忘我は白面の聖者を思わせたが、人々は白い聖者の行進を目
にすると自ら道を開け逃げ出した。
涅槃者たちの列の脇にはしばしば空の抜け殻や、あるいはまだ羽化していない繭が残されていた。羽化すると同時にただ一つの目的、方向を目指して進む様子
は
すでに人間とはあまりにかけ離れ、機械のようですらあった。彼らはいまだ増殖を続けていた。
白いドームの縁にやって来た時には出発からおよそ半年が過ぎていた。地理的にはおそらくモンゴルか中国奥地だろうが、すでに国家は瓦解し人間は残らず逃
げたか涅槃者となったあとだ。ここには草原と砂漠、天を貫く山々だけがあり、それを飲み込もうと涅槃者たちの白い身体が津波のように迫ってきていた。
実際に近づいてみると、ドームの巨大さは際立っていた。地平の端から端まで真っ白な巨大な壁が緩やかな傾斜を描きながら聳え立っている。
壁のほとりに粗末なテントが張られており、打ち捨てられたものと思えば中には一人の涅槃者がいた。普通の人間とさして変わらない彼の姿が、涅槃者として
は旧世代であることを
物語っていた。
「ここで待っている」
彼は物静かな声で言った。
「あの壁に飲み込まれるのを?」
「飲み込まれるのを」
ドームは日々大きくなっている。テントがこの涅槃者の身体ごと壁に押し潰されるのがそう遠くない日に実現することは間違いない。
「訊ねたいことがある。赤茶の髪に青い瞳の原種の少女を探している。知らないか?」
涅槃者は何も答えず、自らを同胞たちが飲み込んでくれる日をただ静かに待っているばかりだった。
「もう一つ訊く。母はどこにいるのか?」
二つ目の質問には涅槃者は反応し、ゆっくりと持ち上げられた指先がまっすぐにドームの中心を指し示した。
「ありがとう。ところで原種だったころの名前を憶えているか?」
やはり彼は何も答えなかった。
踵を返してテントを出る間際、振り向いてもう一言だけ言葉を掛けた。
「あなたは僕の古い知り合いにそっくりだ。さようなら」
聳える壁によじ登るのは困難な作業といえた。よじ登った先からもさらに数千キロの道のりを歩かなければならなかった。頭上では何度も太陽が昇っては沈
み、月
が満ち欠けを繰り返した。空と、地面としているドームの天蓋の白さだけがどこまでも視界を覆い尽くしていた。
やがてドームの天蓋に開いた空洞を発見し、そこから内部に侵入した。
あのテント住まいの涅槃者はとうに飲み込まれてしまっただろう。
時間の感覚はすでになかった。
侵入してきた異物を排除しようとする防衛機構に邪魔されながら、ひたすら中央を目指して迷宮のように入り組んだドーム内部を進んだ。喉の渇きはところど
ころに生じた結露や雨水が溜まったものと思われる水溜りを見
つけて癒したが、それが見つけられない時には血管の通う部位を選んで内壁を破壊し、涅槃者の体液を啜った。その行為はドームの防衛機構を刺激し、奥深くへ
進むほど危険は増し、道のりは困難を極めた。
永遠に続くかに思えた道のりを越えて中枢部に辿り着いた時には、代償として左腕と左目を失っていた。もはやど
れほど時間が過ぎ、どこまでドームが拡大されたか予想もつかず、外
界に
人間が生き残っているかすら分からなかったが、自らの目的を達成することだけが頭に残っていた。
中枢部はおおよそ直径二百メートル、高さが百メートルほどの半球状の空洞だった。壁面に露出した発光体が投げかける淡い光を頼りに進むと、奥の壁際に赤
い液体で満たされた水溜りがあり、そこに腹部の中ほどから
下を埋めている巨大な人間のようなものが磔にされていた。脚を含めれば五十メートル以上にもなる真っ白な巨人は侵入者の気配を感じて目を覚まし、血の凝っ
たような巨大な瞳でこちらを静かに見た。
「待っていたわ。碇くん」
巨人の呼ぶ声が空洞に反響して空気を震わせた。
「会いたかったよ。綾波」
名を呼んで答えると、彼女はその巨大な口元を微笑みの形に象った。
「綾波。アスカを返してくれ」
僕が言うと、綾波は身を乗り出して僕の頭上に覆い被さってきた。磔られた彼女の両腕がべりべりと剥がれて、壁が大量の血を流した。
「アスカを返してくれ」
「もういないわ。あの人はとうに私たちの一部になった」
綾波はそう言ってくすくすと笑った。
でも、僕は彼女の顔を見上げて静かに言った。
「僕にそんな嘘が通じないことは分かってるんだろ、綾波。アスカはどこにいるんだ?」
「……そんなことよりも、早く私たちと一つになりましょう。そのためにあなたはここに来たんだもの」
「どうあっても教える気はないんだね」
「いまさらあの人を探しても、それこそ意味のないことだわ。碇くん。私、ずっとあなたを待ってたの。ずっと……待っていたのよ」
綾波が白い巨体を波打たせると、水溜りの中から無数の蔓のようなものが伸び、寄り集まって普通の人間の大きさをした綾波の姿を形作った。背中から伸びる
蔓で本体と繋がった彼女が僕の目の前に立ち、ゆっくりと手招きした。
「さあ。来て、碇くん。私を自由にしていいわ。だから、あの人のことは忘れて、ここで私と繋がりましょう」
記憶にあるとおりの少女の姿となった綾波が、赤く透き通る水に濡れた裸身をさらしてこちらをじっと見ていた。僕は彼女の前に一歩
踏み出し、彼女の額に向けた拳銃の引き
金を引いた。ぱん、という乾いた音とともに飛び出した弾丸に至近距離から貫かれた彼女の頭が血肉を撒き散らして砕けた。力を失った彼女の身体がどさりと音
を立てて倒れるのを、僕は無言で見守っていた。
「どうして?」
頭上の綾波が真っ白な顔を悲しげに歪めて言ったが、僕が返事をするより先に巨体がぐらりと傾ぎ、彼女は意識を失ってしまった。
本体が意識を失うのと同時に足元に倒れた小さな綾波の身体が身じろぎした。僕が見ていると、彼女は破壊された頭部を再生させながらゆっくりと立ち上がっ
た。
「あ、あ、あ、ああ……久しぶりだ、シンジくん」
丸い乳房を持つ少女の身体が変化し、男性のシンボルを持つ少年のそれに変わった。彼はまっすぐに立つと、完全に再生された顔に懐かしい笑顔を浮かべて
言った。
「僕も会えて嬉しい。カヲルくん」
かつての友人の姿をした何かに、僕は答えた。
「彼女に代わって謝るよ。もう完全に狂ってしまって、綾波レイとしての自我はほとんど残ってないんだ。唯一、きみに対する執着は憶えているらしい
が」
「どうしてこんなことに?」
「僕にもよく分からない。残留思念だけ取り付いている僕には大した力は残されていないから。彼女はこの星をすべて覆い尽くして、新しい月を作るつもり
だ。憶えているかな、第3新東京市の地下にあったものを。場所もちょうど同じだから、きっとここへ来るまでに懐かしい場所をたくさん目にしてきたことだと
思う」
「ここより何層も上で昔住んでいた部屋らしき場所を見つけたよ。なかば壁と融合していた」
僕が言うと、彼は静かにかぶりを振った。
「それらすべてを取り込んだ月を方舟としてリリスは宙へ旅立とうとしている。そして、新たな世界に見つけて降り立ち、また一から始めるつもりなんだよ。種
を蒔くものと
しての本能に彼女は支配されている」
渚カヲルの悲しそうな顔を僕は残された右目で見つめた。
「たくさん、傷ついたね」
僕のなくなった左腕の付け根を見て、彼は言った。
「カヲルくんほどじゃない」
自分の冗談がおかしくて、僕は久しぶりに笑うことを思い出した。彼は過去に僕によって殺され、身体をなくした。今目の前に立っているのは、彼の残留思念
が一時だけ綾波
の制御を奪って作り出した偽物の人形だ。彼に比べれば片目片腕をなくした程度はかすり傷といっていい。
「瞳も、とても綺麗だったのに」
「いいんだ。まだ生きてるから。それよりもカヲルくん、アスカの居場所を教えて欲しいんだ」
「……忘れないで欲しい。僕とリリスは、今でもきみの希望だよ」
傷ついた僕の姿を見て悲しげな表情をしていた彼は、もう一度あの懐かしい微笑みを浮かべて言った。
「きみの探している人は――」
しかし、言葉はそこで途切れた。彼の顔中の穴から大量の血がどろりと零れ落ち、首が捻じ曲がって真後ろを向いた。綾波の巨大な手に捕まえられ、彼女と繋
がっている背中の蔓を切り離された彼の身体
は二つ
に引き千切られて、ごみのように無造作に左右に投げ捨てられた。
「あなたが欲しいの、碇くん」
「綾波!」
拳銃の弾は二発で切れた。放たれた銃弾は綾波の白い身体に二つの小さな穴をうがったが、彼女はまったく気にしなかった。
振り下ろされた丸太のような腕が襲い掛かってくるのを横に転がってかろうじて避けたが、すぐに無数の触手に捕えられて高く持ち上げられた。振りほどこう
とし
ても、彼女の拘束は鉄のように頑丈でびくともしなかった。
「さあ、来て。溶け合って永遠に一つになるのよ」
綾波が大きく仰け反ると、乳房の間からへその上まで縦に亀裂が走った。僕を絡め取った触手がゆっくりと亀裂の前まで僕を運んだ。
「きっと気持ちいいわ」
恍惚とした彼女の言葉とともに亀裂がわずかに口を開き、白い肌の間に赤々とした肉が覗いた。そして、綾波は乱暴ともいえる所作で僕の身体を亀裂の隙間に
差し入れ、そのまま奥へ押し
込んだ。
「はっ……、ああああぁ……」
長く息を吐き出すような巨人の声が、彼女の体内で轟音のように響いた。無理矢理に身体を奥に押しやる触手と肉壁のぜん動によって、狭苦しい通路の突き当
りを目指して僕は進まされた。
そこは暖かい光に満たされていた。細く狭い道の一番奥に待っていたのは安らかな表情で眠りについている綾波レイだった。今度こそ正真正銘の僕が知る彼女
だ。
綾波はへその辺りで緩く手を組み合わせており、手で覆い隠された下からは光が溢れていた。僕が右手で触れると、それが呼び水になったかのように彼女は
ゆっくりと両手を開いた。守られていたものは、握りこぶし大ほどの大きさの濃い赤色に光り輝く球体だった。球体は集合体の一部となった涅槃者たちの持って
いたかけらが凝集して一つに結晶したもので、これこそが綾波も含めた巨大な集合体全体の核となっている。
光り輝く球体を抱きながらこちらに向かって身体を開いている少女を、僕はじっと見つめていた。僕が知る誰よりも美しく強い人。
球体へ手を差し伸べ触れると、吸い込まれるような感覚とともに手首まで球体の表面に沈んだ。
「綾波。もういいんだよ。こんなところで一人大変だったろ。本当にお疲れさま」
このまま一つに溶け合ってしまいたいという強烈な衝動を振り払い、取り込まれようとしている手を引き戻してしっかりと球体を掴んだ。綾波の腹部に癒着し
ている球体を強く引っ張ると、球体と彼女とを直接繋いでいた細い血管状の組織が千切れ、彼女の腹部から離れた。
「これまでありがとう。あとのことは心配しなくていいからね。さあ、ゆっくりお休み」
目を閉じて深い眠りについている綾波は答えず、代わりに僕の身体を今も拘束している触手がきつく締まり、後ろに強く引っ張られた。恐ろしい悲鳴が振動と
ともに外から伝わってきて、一度は巨人の中に押し込まれた僕の身体は力任せに抜き出され、そのまま大きく放り投げられた。
受身を取る余裕もなく背中から地面に強く叩きつけられた僕の右目に、痛ましい悲鳴を上げて大きく仰け反り、頭上へ向かってまばゆい閃光を放つ白い巨人の
姿が映っ
ていた。
光り輝くエネルギーの波はここから数千メートルはある集合体の最上層まで一直線に突き抜け、はるか上空へ消えた。
ばらばらと降り注ぐ集合体の肉片やその他のものに押し潰されなかったのは幸運といっていい。だが、立ちあがろうとして自分の右足の膝から下が見当たらな
いことに僕は気づいた。どうやら無理矢理巨人の体内から引っ張り出された際にねじ切られたらしい。右腕と左足だけで前に進むのは難儀だったが、倒れた巨人
のそ
ばに横たわる人影のところまで僕は這っていった。
腹部が異様に肥大化した綾波がそこに横たわっていた。彼女は傷つき、死に掛けていた。僕がそばへ近寄ると、彼女は赤い瞳だけ動かしてこちらに向けた。
「綾波」
「碇くん」
綾波の眼差しは何かを語りかけようとしていたが、僕の名を呼んだあとに続く言葉はなく、彼女はそのまま僕から視線を逸らして頭上に開いた大穴のはるか数
千メートル先に広がっているはずの空を見上げた。
僕はそんな彼女の姿をじっと見ていた。
「今夜は月が……とても綺麗ね」
それだけを言い残し、綾波の身体は砂のように呆気なくさらさら崩れていった。
あとには一つの胞衣(えな)が残された。綾波が腹に抱えていた大きな胞衣は手のひらを置くと熱を持ち、かすかに胎動しているのが分かった。中には身体を
丸めた何かがいた。
「シンジくん……」
かすかな声が聴こえて来た方向へ視線を送ると、近くまで両腕で這いずって来たと思しき下半身のない渚カヲルが折れて傾いた首をこちらへ向けていた。
「願い……、きみの願いを……」
「ありがとう。カヲルくん」
崩れかけた顔でどうやら彼は笑ったようだった。細かな粒子となって親友が散ってゆくのを見送った僕は、再び残された胞衣を見下ろした。
右足がなくなって踏ん張りが利かず、右手と歯だけを頼りに丈夫な胞衣を破る作業には永遠の時が必要にも思われた。だが、胞衣を開き終った時、僕はこれま
での道程がついに報われたことを知った。
胞衣に包まれ守られていたのはアスカだった。
涅槃者ではなく人間のままのアスカが、今僕の目の前で身体を丸め、横向きに横たわっていた。覆うもののない乳房がかすかに上下し、頬に差すわずかな赤みが
彼女がちゃんと生きてい
ることを知らせていた。
時間はもうない。傷の痛みと疲労は僕を押し潰そうとしていた。いくら生命力が強く痛みに耐えられる身体とはいえ、限界はすぐそこまで迫っている。旅を始
めてもうどれほど時間が経過したのか定かでなく、外界にまだ人間が生き残っているかどうかも分からない。だが、ついに目的を果たす時が来たのだ。かろうじ
て僕は
間に合うことができた。
すでにぼろ切れ同然となっていたシャツを脱いでゆっくり息を吸い込むと、僕の左胸に仄かに赤い染みが浮かんだ。僕は腰のベルトの裏側に隠していた刃先の
曲がった小さなナイフを取り出し、躊躇わずに染みの浮かんだ場所を抉った。中から取り出した小さな赤いガラス片を口に含み、次にポケットから赤く輝く球体
を取
り出した。巨人の身体から放り出される前に綾波から取り上げた球体だ。そのなめらかな表面に、自分の身体から摘出したガラス片を唇と舌を使って乗せた。す
ると、すぐにガラス片は球体の表面から中に溶け込んで同化した。
ガラス片を吸収した球体を、横向きに丸くなったアスカの胸元で折り畳まれた腕の間に置き、僕は言った。
「さあ、アスカ。今度はきみの番だよ。きみが願いを叶えるんだ」
アスカの横顔は安らかであどけない表情をしていた。今は眠っているかもしれないが、僕の言葉はきっと彼女の心に届くだろう。
彼女の横顔を眺めながら、僕は安堵を感じていた。心からほっとしてゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。
「……疲れた」
誰にともなく呟いた時、唇にざらついた感触があった。続いてぱらぱらと何かが口元から零れ落ちた。確認するために下へ向けた視界に、指先のほうから細か
な砂となって崩れていく自分の右手の様子が映った。
ああ、そうだ。こうなることは分かっていた。
赤いガラス片を失った涅槃者は生きてはいけない。
完全に視力が失われてしまう前にアスカの顔を焼きつけておこうと右目を凝らしたけれど、印象に残ったのは彼女の長い髪の毛の鮮やかな色彩だけだった。
すぐにとばりは落ち、訪れた完全な暗闇の中で、最後に僕は考えていた。
サードインパクト後に起きた異変から逃げ暮らす中で僕は涅槃者に覚醒した。しかし、僕には人間だった頃の自我が残されていた。綾波の呼び声を内側から聞
きながら、行方知れずだったアスカを探す決心を固め、バスチアンたちとの生活を捨てて旅に出た。皮肉なことに涅槃者の強靭な生命力は旅の助けとなった。人
間のま
までは過酷な旅のさなかに野垂れ死んでいたかもしれないし、仮に集合体まで行き着いたとしても突破が不可能だったのは間違いない。自他の区別がない涅槃者
たち
の集合意識に触れる時、不思議なことにいつもアスカの影がそこにあった。集合体の母である綾波がすべて知っているはずだという推測はやがて確信に変わり、
僕を集合体の中心に眠る彼女の元へ駆り立てた。そして今、僕の旅は終わりを告げ、僕が間違っていなかったことは証明された。すでに人類の大半、あるいはす
べては死に、僕もまた砂となって消えてゆくけれど、アスカの願いによって世界は続いていくだろう。だから、これでいい。僕は満足だ。満足だ。
アスカはいつ目を覚ますのだろう。もう僕には時間が残されていない。アスカ。きみの姿を見る目はなく、きみに触れる手もなくなった。匂いもすでに分から
ない。声も出ない。この暗闇の中でわずかな音さえももう聞こえない。アスカ。まだきみは目覚めない。僕の身体はどこまで崩れてしまったのだろう。感覚がな
いのにどうしてか寒くてたまらない。恐怖はない。でも寒くてたまらないんだ。
せめて、アスカ。できることならもういちどきみのこえがき
◆
◆
◆
◆
◆
草原を渡る風が優しくあたしの頬を撫でていく。草花がさわさわと穏やかな音楽を奏でる。ゆっくりと歩くあたしの視界に背の高い草の間からちょこまかと見
え隠れする小さな頭が見えている。どうやら草原に咲く花に寄ってきた蝶を追いかけているらしい。幼子はこちらに向かって回れ右すると、短い腕を風車のよう
に振って甲高い声を上げた。
「ママー!」
微笑んで手を振り返すと、それだけで彼は満足してまた蝶を追いかけ回す。バスケットを手に提げたあたしは、気紛れに動き回る幼子を見失わないようゆっく
りと追いかける。あたしの着ている簡素な麻のワンピースの裾が時折風を含んで膨らむ。
「ねえ、ママ。あのね、あのね、せっかくちょうちょつかまえたのに、にげられちゃった」
あたしの脚にしがみついた幼子がこちらを見上げて拗ねたように訴えた。
「まあ。残念ね」
「ママにみせてあげようとおもったのに」
「ありがとう、テオ。ママに見せてくれたあとはどうするつもりだったの?」
「ビンにつめてね、ぼくがかうの。それで、いっしょにおうたをうたったりおふろにはいったりするんだよ」
幼子の無邪気な空想にあたしは微笑みを浮かべた。
「そうすれば楽しいかもしれないわね。でも、ちょうちょさんだってきっとおうちに帰ってお父さんやお母さんと一緒にいたいと思うわ。だから、捕まえてビン
に閉じ込めるのはやめにしましょ?」
「ちょうちょ、いやがる?」
「そうね。でも、眺めてるだけならちょうちょさんだって何も言わないんじゃないかしら。明日からはそうなさい。ほら、ちょうちょさんもおうちに帰っていく
わ」
「どこ?」
「そこよ」
「もうあえないの?」
「また明日会えるわ、きっと。さ、あたしたちも行くわよ。町の市場に寄ってからうちに帰りましょ」
息子のテオと一緒にピクニックをしていた町外れの草原から町の中心部にある市場まで三十分ほど歩く。市場に着くまでには何人もの町の住人に声を掛けられ
た。あたしへの用事が半分。それからあたしの夫への用事が半分だ。
「やあ、アスカさん。こんにちは。テオと一緒にお出かけ?」
「ハイ、バスチアン。そういうあなたも腕に可愛いのぶら下げてるじゃない」
もう何人目になるか分からない呼びかけにあたしは腕を振って答えた。夫の親友であるバスチアンの腕に、精一杯お洒落をした年下の女の子がぶら下がるよう
にくっついている。あ
たしは彼女へも挨拶をした。
「こんにちは、ドロテア。今日はバスチアンとデートかしら?」
ドロテアはちょっとむくれたような表情を作って答えた。
「仕方なくよ。本当は違う相手がよかったんだけど、その人の奥さんに遠慮しろってバスチアンが言うから」
歳の離れた兄にしがみついたまま小生意気にあごを尖らせたドロテアは、挑戦的な瞳でこちらを見た。『その人の奥さん』であるあたしは、悪いと思い
ながらもくすくす笑いが止まらなかった。まったくドロテアときたら、かつての誰かさんそっくりなのだ。
今年十四歳か十五歳になるドロテアの胸元には十字架のペンダントがいつも提げられている。それを見るとあたしはいつも目を細めて見入ってしまうのだけ
ど、どうやらドロテアは自分の宝物をあたしが欲しがっていると疑っているらしく、毛を逆立ててあたしを威嚇してくる。本当は単に彼女のペンダントを見て懐
かしく思っているだけなんだけど、詳しい事情を知らない彼女にとって、あたしは大好きな人をたぶらかしただけでなく宝物まで狙ってくるとんでもない悪女な
のだ。
本当、誰かさんそっくりだわ。
「ご苦労さまね、バスチアン。ま、女の子をエスコートするのは男の役目よ。せいぜい頑張って」
「たまには妹以外も相手にしたいんだがね。今度遊びに行くよ。きみの旦那に伝えておいてくれ」
「分かった。それじゃ、テオ。バスチアンとドロテアにばいばいしましょ」
「ばいばい」
石ころで足元の地面に絵を描いて一人遊びしていたテオの手を引いて立たせ、あたしは血の繋がらない兄妹を見送った。
市場で配給券を食品と雑貨に交換して帰宅すると、家の中は静まり返っていた。夫がいるはずなのだが、まさかと思いつつ呼びかけをしながら寝室のドアを開
け
て覗き込むと、ベッドの上に膨らんだ毛布のかたまりがあった。
「あなた? 寝てるの、シンジ?」
毛布を剥いだら、無精ひげを生やしたシンジの顔が出てきた。夜通し仕事で今朝になって帰ってきてベッドに倒れこむなり泥のように眠ってしまったので、う
るさくしたら気の毒だと思って朝からテオと二人で出かけたのだけど、昼になって帰ってきてみてもまだ寝ているのにはさすがに少し呆れた。けれど、熟睡した
その表
情を見ていると起こすのが躊躇われてしまうのは、あたしが彼に参っている証拠なのだろうか。
「ばぁーかシンジ。こんないい奥さんを放ったらかしにするなんて生意気よ」
昨日から剃っていないひげでざらざらした頬を引っ張ってみるけど、彼はまったくそれに気づいた様子もなく、安らかな寝息を立て続けている。
あたしはベッドの脇に腰掛け、キャビネットに立てかけられたいくつもの写真立てのうちの一つに視線をやった。そこには周囲が焼け焦げた古い写真が納めら
れていて、十四歳
のころのあたしとシンジ、そして綾波レイの姿が映し出されていた。写真の中であたしはシンジの首に腕を回してお転婆な笑顔をカメラマンに振りまいており、
一方で無理矢理首を絞められる格好となったシンジは迷惑そうに片目を閉じてあたしのことを見ている。そして、綾波レイは一歩後ろから我関せずとばかり涼し
げな表情をしてそっぽを向いている。現在の家族や友人たちと映した写真が並ぶ中で、これだけがサードインパクト以前のあたしたちの姿を残したものだ。
この写真は確か当時のシンジの友人が撮影したものだったように思う。涅槃病から逃れ暮らす中でシンジが持ち歩いていた数少ない私物の一つで、のちにバス
チアン
に焼却するよう言付けて彼は旅立った。バスチアンは兄弟同然のシンジの意思に従いドラム缶に残されたシンジの私物を入れて火をつけた。でも、火に炙られて
縮んでいくこの一葉が目に留まり、バスチアンはとっさに火の中に手を突っ込んで拾い上げたのだという。多少焦げて変色したが、どうにか写真は無事だった。
その
後彼はこの写真をチェロとともにシンジの形見として持ち続けることになる。
数年後、バスチアンはもう二度と会えないものと思っていたシンジと再会を果たす。過酷な旅の内容も涅槃者から人間へと戻っていた理由も問い質すことはせ
ず、五体無事な姿で帰ってきたシンジをただ抱き締めて彼は泣いた。そして、シンジの隣に立つあたしの姿を見た時、彼は友の意に反してこの
写真を大切に持ち続けてきたことが間違ってはいなかったのを確信したに違いない。
あたしの願いは、シンジを甦らせることだった。それは彼の意に反していたことかもしれない。彼は己に課した役目を果たし死にゆく運命を受容していた。九
割近く
が失われて滅亡の危機に瀕していた人類にとって、最善の願いは他にたくさんあるということも彼は充分に承知していた。そして、その希望をあたしに託し、
逝ったのだ。綾波レイと渚カヲルがシンジに希望を託して逝ったように。
けれど、あたしは彼の希望となることはできなかった。生き残ったすべての人々の未来に、その幸せに思いを馳せなかったわけではない。それがどれほど重要
なこ
とか、理解できなかったわけでもない。でも同時にあたしは、たった一人の男のことを考えずにはいられなかった。
あたしは聖母ではない。天使でもない。あたしはただの人間で、汚いところや醜いところをたくさん抱えているただの女でしかない。
でも、それがどうしたと
いうのだろう。天使のような羽なんていらない。美しさにも清らかさにも用はない。あたしには大空のようにどこまでも広がる愛など持ち合わせがない。この世
のすべての人々を愛することなんて到底できない。
あたしに分かったのは、この胸の中のたった一つの好きという気持ちだけ。シンジを好きだという気持ちだけ。確かにあたしはただの人間で、美しい天使のよ
うに大空を飛ぶこ
ともできず、清らかな聖母のように万人を愛し慈しむこともできない。あたしにできるのは、この地上の広さをたった一つの想いだけで埋め尽くすことだけ。
たった一人の男を愛することだけ。
身勝手とか傲慢だとか、そんなものは知らない。すべてを懸けてあたしを探し出し救ってくれた男を愛することが罪だというのなら、あたしは顔を上げてその
罪を背負おう。
「マーマ? パパがいないよ。パパどこー?」
テオが寝室の外で声を上げてあたしを呼んでいた。あたしは愛する夫の寝顔から視線を外し、息子に答えた。
「ここよ、テオ。ママたちのお部屋よ」
すぐに部屋に入ってきて膝元まで駆け寄ってきたテオにあたしは言った。
「パパはまだおねむみたい。だから静かにしてましょうね」
「きょうのパパ、おねぼうさんだね?」
「ふふっ。そうね」
朝方まで仕事をして疲れ切っているシンジからしてみれば、お寝坊さんなどと呼ばれるのは不本意だろうが、幼いテオにそれを察しろというのは無理な話だ。
昨晩からシンジは復興議会の議事に参加していた。復興議会とはあたしたちが暮らすこの町だけではなく近隣の集落の住人も合わせ、復興へ向けての色々な取
り決めをしたり活動を行ったりする組織で、シンジが発起人の一人だ。そのため議事にはどうしても参加しなくては格好がつかないという彼の立場は理解して
やらなくてはならない。時折忙しさに耐えかねて逃亡するという困った癖がある若いリーダーだけど、人々の信頼もある程度は勝ち得ているようだ。妻であるあ
たしのほうも文明生活を維持するためのあらゆる技術者が常に足りないという現状をどうにかしようと方々で仕事をしている。だから、あたしたち夫婦が町を歩
けば誰からも声を掛けられるというわけだ。
確かに直接的な危機は去ったとはいえ、人類の未来は前途多難どころの話ではない。ひょっとすると、結局は遠からず滅びてしまう運命かもしれない。しかし
それ
でも、今の生活が決して悪くないというのは、このあたしがこんなことを言うのはおこがましいということは重々承知しながらも、偽らない正直な気持ちだ。人
間、生きてさえいればささやかな幸せを見つけることはできるということだろうか。
「さ、パパの邪魔にならないよう向こうに……、って、テオ?」
あたしの言葉が終わらないうちにテオは短い手足を使ってベッドによじ登ると、シンジの懐に入り込んでさっさと丸くなってしまった。
「ぼくもパパとねんねする」
「ねんねって言ったって、お昼はどうするのよ。お腹空いてるでしょ?」
「空いて……ないもん」
町の市場で散々あれが食べたいこれが食べたいと駄々を捏ねたとは思えない発言をして、テオはシンジの身体にぴったりと取り付いた。もちろん、空腹じゃな
いわけはないのだけど、昨日からちっとも父親が構ってくれないので拗ねたいのだろう。せっかく今日のお昼はテオの好きなパンケーキを作る予定で、しかも欲
しいというからデザートに葡萄まで手に入れてやったのに、この仕様もないパパっ子め、とあたしは文句の一つも言ってやりたかったが、息子の寂しがっている
気持ちを考えると口を
噤むしかなかった。大体、寂しいのはこの子一人だけじゃないのだ。
「仕方がないわね。一時間だけよ、テオ」
「ママもおねんね?」
「テオがベッドから落っこちないか見ててあげるだけよ」
息子に向かって意地を張ってどうするのかと指摘する第三者がこの場にいないのは幸いだ。あたしは麻のワンピースの裾を脚の間に巻き込み、シンジの腕を枕
にぴった
り寄り添って毛布を被った。反対隣ではテオが猿の赤ん坊みたいにしがみついている。
「パパ、あったかいね」
「そうね」
「パパのおなか、おふねみたい」
呼吸で上下するシンジのお腹の上に手を置き、テオがおかしそうにくすくす笑って言った。
「それじゃあテオ船長。目が覚めたらキッチン島を探検して、ごちそうにパンケーキを焼いて食べましょうね」
「ぼくのかおよりおっきくやいてくれる?」
シンジの身体越しにテオがきらきらと期待に輝いた瞳を見せた。あたしはくすくす笑ってその無邪気な質問に答えた。
「パパのお腹よりもおっきくよ」
あたしの言葉にテオは頬を真っ赤にして喜んだ。お船みたいと息子が言うシンジのお腹の上であたしたちは手を繋ぎ、ぐっすり眠る彼の安らかな寝息を子守唄
にゆっくりと
目蓋を閉じた。
never ending
SF(少し不思議)スピリッツをお忘れなく、L&G。
最後までお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。
本当にわけの分からないお話に付き合って頂いてしまい恐縮です。
ついて来られた方はかなりの猛者とお見受け致します。
念のため申し上げますと、これはサードインパクトのあとのお話です。AEOEというやつです。
エピローグが想定よりもちょっと長くなりましたが、ほぼ当初思い描いたとおりに書き上げることができました。思いどおりになるということはいいことで
す。加えてお楽しみ頂けるような出来ならばもっといいのですが、そこのところは果たしていかがでしょう。
綾波レイのことはすごく面白いと思うのですが、アスカとの兼ね合いで扱いが難しいのが困るところです。渚カヲルも愛ゆえに首ちょんぱよりひどいことをし
てすみません。
愛って必殺の言い訳ワードな気がします。愛しているからといってすべてが許されるわけではないんですよね。レイにしろアスカにしろ。
とか考えながら書いていたわけでは別にありませんけど。
バスチアンはシンジと同い年か少し年上くらいでしょうか。なおバスチアンが守っていた秘密
とはシンジが涅槃者であることです。
ドロテアという名前は感じからして英語にするとドロシーでしょうか。彼女は三つか四つの時にバスチアンに拾われました。彼らはそのあとにシンジと出会い
ます。
十字架のペンダントは元はミサトのものです。
テントの涅槃者はネルフにいた誰かでしょう。
目が潰れたり腕が取れたり脚が取れたりと大変な目に遭っているシンジですが、涅槃者は生命力が強いのですぐには死にません。人間は怪我などに非常に弱い
動物だそうです。虫や魚などの旺盛な生命力を目にする経験は誰でもあると思いますが、動物が怪我に強いのは死の恐怖がないからだともいいます。涅槃者も身
体的強靭さだけでなく、死への恐怖がないことも強さの一因かもしれません。
数年がかりになるシンジのダンジョンクエストもさっくり飛ばしました。彼は涅槃者だったのでたまに水分を摂るだけで生き延びることができた、というのを
そっけない文章の中で実はそこはかとなく仄めかしていました。
ところで涅槃者というのはようするに使徒の一種です。でも、他の使徒と違って個々のままでは不完全なのでガラス片しか持ってない、ということになりま
す。エヴァ世界では人間も使徒の一種ですが、人間とは違って不完全状態から完全になるために一つになろうとしています。元は人間なので、還るのはアダム
じゃなくてリリス(綾波レイ)になります。
などと意外にちゃんと考えたりもしているのですが、盛り込むと大変なことになってたぶん投げ出すことになるのでやめました。そのための「ベリーショー
ト」なので
す。それにしても漠然と頭で考えていたことを文章にすると面倒ですね。曖昧バンザイ。
ラストは力任せにLASでねじ伏せてしまいました。
というかまたテオで落としました。しばらくシンジアスカの息子はテオで行きます。私が好きなので。彼はパパっ子です。
配給券という言葉が出てくるのは、通貨の交換価値に保証を与える国家がなくなってしまったため、シンジたちが独自に配給システムを採用していることを表
しています。政府も税も存在しないので市場経済が成り立たないのです。町の外には耕作地が広がっています。少し離れた場所には風力発電施設があるので、町
には電気が通っています。
アスカは何でも技術屋兼教師です。そういう人間が集まって旧時代のインフラをどうにか維持しようと頑張っています。あるいは暮らしやすいよう新しい工夫
を考えたりもします。次世代を担う子どもの教育もします。頑張って下さい。
シンジのほうはお話にあったとおりで。左目も左腕も右足もちゃんとあります。演出上の都合で痛い目に遭わせてすみません。ちなみにパパのお腹はお船で
す。どんぶらこ。
こんなにたくさんあとがきを書くならもっと分かりやすいお話にしろというお叱りが聞こえてきそうなので、この辺りに致しましょう。
それでは改めて、掲載して下さった怪作さま、お読み下さった皆さまにお礼申し上げます。ありがとうございました。
rinker
リンカさまから"ベリーショートストーリーズ"の第一編をいただきました。
これが「凄く短い」話なんでしょうか。理屈はともかく描写はけっこう書きこまれているんじゃないかと思ったのです!
死んでしまっておしまいかと思ったら、アスカに呼び戻してもらえて良かったのですね。
素敵なお話でした。みなさまも是非リンカさんに読後の感想メールをどうぞ。