「アスカッ……!」

 僕は走っていた。

 ただ、ただ無心に。

 リツコさんのもとへ。

 いや、違う。

 本当に行きたかったのは、アスカのところだ。

 けど……、僕が今行かなければならなかったのは、リツコさんのところだった。

 ……信じたくない。

 この目で確認するまで、信じたくなかった。

 ……来たんだ。

 第14使徒。

 僕が、シンクロ率400%をはじき出して倒した、あの使徒。

 初号機が暴走・覚醒し、ようやく倒したあの最強の使徒。

 僕がいない間に、僕が、出遅れている間に。

 だから、アスカと綾波が出撃して。

 でも、……やっぱり、勝てなくて。

 零号機は大破。

 弐号機も同様に、大破。

 けど。

 だけど、使徒は倒せた。

 暴走したからだ。

 ……初号機は、僕は、出撃していない。

 初号機が、暴走したんじゃない。

 ……弐号機が……。

 弐号機が……、暴走したんだ。

 弐号機は使徒を撃破し、……捕食し、S2機関を取り込み、……そして、アスカは……。

 アスカは……!

「アスカ!」

 部屋に飛び込んだ僕が、見たもの。

 それは、モニターに映されたもの。

 LCLの中を漂う、弐号機のプラグスーツ。

 見えるものはそれだけ。

 それだけ……だった。





         『非常にまずい事態〜後編』   作・ふゆ





「シンジくん」

 ミサトさんが、僕の側に寄る。

 なにもできずに、ただ呆然としている僕の側に。

 ただ、モニターを見つめることしかできない、僕の側に……。

「……シンジくん、気をしっかり持ってね」

「……」

「助ける方法がないわけじゃないわ。……諦めないで」

「……」

 僕にはもう、答える気力すらなかった。

 ただ、アスカの肉体と魂が溶け込んだであろう、そのLCLの映像を見つめるだけだ。

 つ、と。

 涙が頬を伝う。

 強烈な虚脱感。

 喪失感。

 無力感。

 ……アスカが側にいない。

 手を伸ばしても、届かない。

 それが、これほどまでに悲しくて、怖くて、辛いなんて。

 言葉が出ないくらい、切なくて……!

 だから。

「シンジくん!?」

 だから、走った。

 ミサトさんやリツコさんの、制止の言葉も聞かず。

 ただひたすらに、弐号機ケイジに向かって走った。

 ……行きたかった。

 今はただ、アスカの側に、行きたかった。

「はぁ、はぁッ……!」

 息が苦しい。

 でも、そんなのも、どうでもいい。

 アスカ、アスカが。

 アスカがいないことに比べれば、こんなの、苦しい内に入らないッ……!

「アスカ……!」

 たどり着き、見上げる。

 弐号機を。

 拘束具が外れたせいで、弐号機は全身に包帯のようなものを巻いていた。

 ……見たことがある。

 初号機が暴走した時、その初号機がこんな風になっていた。

 ……やっぱり、そうなんだ。

 アスカは、僕の代わりになったんだ。

 僕の代わりに、暴走して。

 僕の代わりに、エヴァに取り込まれて、こんなことに……!

「アスカァッ!」

 響く、僕の声。

 ……でも、ただ響くだけ。

 それが、さらに僕を悲しくさせた。

「……どうして……!」

 声にならないくらいの、声。

 僕のすべてを覆い包む、どうしようもない、虚無感。

 けど、頭だけははっきりしていて。

 ただ、ただアスカのことだけを、考えていた。

 今は手に届かない、アスカのことを。

 そして、なにもできなかった、不甲斐ない自分の姿も、はっきりと認識していた。

「……ごめん……」

 泣きながら。

 僕は、アスカに向かって、そう言う。

 ……アスカには、この言葉を言ってばかりな気がする。

 謝って、ばかりだ。

「ごめんよ……アスカ」

 けど、それは今までとは違う。

 本当に、今は心から申し訳なくて、たまらなかった。

 だって。

 僕が……、僕がいなかったせいで、アスカは、こんな……!

「ごめんよ……! 僕の、僕のせいで……!」

 ……これが、そうなのか……?

 これが……、これが変えてしまった歴史の反動?

 歴史の、僕に対する制裁なの?

 こんな……ことが……!

「……ちくしょう……、……ちくしょおおおおおぉぉぉッ!」

 殴る。

 弐号機のボディを。

 血が出るくらいに、拳が壊れるくらいに、殴り続ける。

「返せよ! 返せえッ! 僕のアスカを返せよッッ!」

 感情が爆発する。

 冷静になんて、なれるわけがなかった。

 身体も、ここにないような感覚で。

 弐号機を殴る手も、痛くなくて。

 ただ。

 ただ、心だけが、痛くて、ばらばらになりそうで。

「なんでだよッ! なんでなんだよッ! アスカを返せよ、返せえぇッッ!」

 ただ、殴り続けた。

 けど。

 その手を、誰かの手が、止めた。

 白い、手。

 ……綾波……。

 今にも泣き出しそうな、綾波の、顔。

「もうやめて」

 でも。

 僕の理性はそれを理解しても、感情がそれを許さなかった。

「離せ、離せぇッ!」

「碇くん」

「離せよ! アスカが、アスカがッ!」

「そうやって、自分の身体を痛めつけても、なんにもならないわ」

「けど、だけど、アスカがッッ!」

「そのアスカが帰ってくるのを、あなたが信じないでどうするの?」

「ッ……!」

「だから、もうやめて。もっと、辛くなるだけよ」

「……」

 がく、と。

 一気に、身体中の力が抜けた。

 同時に、急速に感覚が戻ってくる。

 ……痛い。

「……手当しなくちゃ、その手。さ、医務室に……」

「いいよ」

 断る。

「どうして」

「ここにいたいんだ」

「……そう」

 少し、悲しげな、声。

「ごめん、綾波」

「どうして謝るの」

「……」

「謝らなければならないのは、私の方」

「……」

「……あなたの大切な人を、守れなかった」

「綾波……」

「気づいたの。私はあなたが大切。そのあなたが大切に想う人は、……私にとっても、大切」

「……」

「だから、ごめんなさい」

「……」

 無言で、僕は首を横に振った。

 そう。

 誰も……、悪くなんか、ない。

「信じて。碇くん」

「?」

「あなたは彼女を大切に想っている。……そして、彼女もあなたを大切に想っている」

「……」

「わかるもの」

「……」

「だから、きっと、帰ってくるわ……」

「うん……」

 ……そう。

 そうだよね。

 アスカなら、きっと、笑って帰ってくるよね。

 きっと、「なにシケた顔してんのよ、バカシンジ」、とか言って……。

『あったりまえじゃない』

 え……?

『バカシンジ』

 ……声……?

 と、その時。

 ドサ、と。

 弐号機のコアから、まるで、産み落とされたかのように。

 アスカが……!

「アスカ!」

 戻って、来てくれた……。



             *



「おはよう、アスカ」

 病室。

 そこで、すーすーと、可愛い寝息をたてて、アスカは寝ている。

 ……あれから二日。

 アスカはまだ、目覚めてはいない。

 けど、脳波・脈拍・血圧等は正常で、今日にでも目覚めるだろうとのことだった。

 ……朝日が差し込む、部屋。

 殺風景なので、花を生ける。

「顔色、良くなってる」

 見ればわかった。

 前より、頬に赤みがある。

 ……よかった、と思う。

 本当に。

 そんな安堵感と同時に、感じる。

 僕は本当に、アスカのことが、好きなんだなって。

 アスカがいないと、ダメなんだなって。

 再確認してしまう。

「ベタ惚れしてるのは、僕の方だね、きっと」

 ……夢でも、見てるのかな。

 そのアスカは時折、ぴく、と眉を動かす。

「早く起きてよ……。……待ってるんだからさ」

 カララ、と窓を開けて、空気を入れ換える。

 いい天気。

 ほら、とってもいい天気、なんだから。

 早く起き……。

 と、アスカの方に、目を向けた時。

 開かれたアスカの目と、僕の目が、合った。

 ……僕は、ゆっくりと、彼女に近づく。

「……おはよう、アスカ」

「……なによ、朝からシケた顔して……。泣いてるの……?」

「嬉しいから……、泣いてるんだよ……」

「……ここ、病院?」

「うん」

「そっか……、アタシ……あの時……」

「まだ寝てていいよ。……ゆっくり、休んでなよ」

「……うん。そうする。……だから」

「?」

「今日は、ずっとここで休んでるから。……シンジも、いて」

「うん……」

 きゅ、と。

 僕は、アスカの手を握って。

 アスカは、落ち着いたような笑みを浮かべて。

 ゆっくりと、目を閉じた……。



             *



 あれから。

「さてと、夕食の準備でも……」

「あ、アタシも手伝う」

「いいよ。一緒に作ろうか」

「うん」

 アスカは、以前にも増して、素直で可愛くなっちゃって。

「おまたせー」

「よし、それじゃアスカ……って! な、なんて格好してるんだよ!」

「なによー、ただえぷろんしてるだけじゃない」

「だ、だって、それ、裸えぷ……!」

「ちゃんと下に着てるわよ。失礼ねー」

「あ」

「すんごい、ミニだけど」

「……」

「シンジってば、やーらしいんだ。なにを考えてたのかなー?」

「し、知らないよ! もうッ」

 それでいて、やっぱり意地悪で。

「あ、アタシ、ジャガイモの皮むきする」

「じ、じゃあ、お願い」

「うん」

 しょり。

 しょりしょりしょり。

 じょり「あ」しょりしょり。

 しょりしょり。

 ぼと「げ」しょりしょり。

 しょり。

 しょりしょりざく「ぐ」しょりしょり。

「……む、難しいわ。やるわね、バロンイモ」

「男爵イモだよ」

「なんだっていいじゃない。それよりシンジー、うまくできないー」

「落ち着いてやればいいよ。慌てないで、ゆっくり」

「ね、お手本見せてよ」

「いいよ」

 しょりしょり。

「わ、さすが、上手いわね」

「もう慣れたからね」

「ふーん。……でさぁ、シンジ」

「なに?」

「どうしてさっきから、一瞬たりともこっちを見ないのよ」

「み、見れないよ。は、恥ずかしくて……」

「えっち」

「ア、アスカこそッ!」

 でも、それがすごく嬉しくて。

 変わらない生活が、また戻ってきてくれた。

 ……そうだよ。

 やっぱり、乗り越えられるんだ。

 歴史を変えることを、怖がっていちゃいけない。

 僕が、しっかり、そうやって認識しないと。

 僕はアスカを、守らなくちゃならないんだ。

 今も、これからも、ずっと。

「よーしできた。アスカ、お皿運んでくれる?」

「いいわよー」

 と、笑顔のアスカ。

 ……いいなぁ、こういうのって。

 穏やかで、ふわふわした、こんな日常。

 ずっと、求めてたような気がする。

 だから。

 この今を、ずっと続けるために。

 僕は、君を守る。

「シンジー、早くご飯食べよー」

「うん、今行くよー」



             *



「バロンイモ、シチューになっちゃった」

「自分で作ったのを食べるって、どう?」

「うん、おいしい」

 と。

 楽しそうに、嬉しそうにシチューを食べる、アスカ。

 そうだよね。

 一緒にご飯を作って、一緒に食べる。

 恋人同士でそれをやると、すごく楽しくて嬉しいよね。

「アスカも料理、うまくなってきたよね」

「あ、なによそれ。アタシだって、料理くらいできるわよ」

「シチューは、簡単に作れるから」

「む。馬鹿にしたわね?」

「はは、ごめんごめん」

 ふん、と鼻を鳴らして。

 アスカはまた、シチューを食べ始める。

「……なんか、急に生意気になったわね」

「そうかな? そう思う?」

「ええ、すっごくね」

「自分ではそんな感じ、全然ないんだけど」

「よく言うわ。……知ってて、やってるくせに」

「はは、そんなことないってば」

「嘘つき。……そんな嘘ばっかりついてると、アタシだって、こういうことするから」

 そう、言いながら。

 アスカは僕に、アスカ自身がむいたと思われる、不格好なジャガイモを差し出した。

「あーん」

「……」

 やれ、と。

 そう言うのですか、アスカさん。

 定番のアレをしろと、そう言ってるのですね?

「ほら、食べなさいよ。アタシが愛情込めてむいた、バロンイモ」

「男爵イモだってば」

「いいから食べるの。ほら、あーん」

「……は、恥ずかしいよ」

「誰も見てやしないわよ。それとも、アタシのイモ、食べれないって?」

「そ、そんなことないけど」

「なら、あーん」

「……あ、あーん」

 ぱく、と。

 差し出されたイモを、思いっきり照れながら、もぐもぐ食べる。

 ……ま、まったく、アスカってば。

 こういう風に、僕を照れさせて楽しむの、なんか、すごく得意になってるし。

 うう、悔しい。

「おいしい?」

「う、うん」

「そう。おいしいのね?」

「……なんだよ、にこにこして」

「だって、それはアタシがむいたジャガイモだもの」

「?」

「アタシがシンジのために、愛情込めてむいた、ジャガイモ」

「……」

「それを今、アタシがあーんして、シンジに食べさせたの」

「……あ、あの」

「アタシの愛情、アタシ自身を、シンジはおいしそうに、食べてくれたの」

「……」

 ……んぐ。

 ア、アア、アスカってば。

 そ、そんな、にやけた顔で見られると、そ、その……。

「照れた?」

「……うぐ」

「ふふん、アタシをからかうと、そーゆーことになるのよ」

「……そ、そんなこと言って、後悔してもしらないよ」

「?」

「ほらアスカ、あーん」

 と、今度は僕が。

 僕が、アスカにジャガイモを差し出す。

 それは、そう、アスカがむいてくれた、ジャガイモを。

「なーに? そんなことくらいじゃ、アタシは照れないわよ?」

 そう言いながら、アスカは事も無げに、それをぱく、と食べる。

 くすくすと、僕をからかうように、微笑みながら。

 ……そうやっていられるのも、今のうちだよ。

 いつまでも、今までの僕のまんまだと思ったら、大間違いだってこと、教えてあげるよ。

 そうさ。

 得意になったの、アスカだけじゃないんだよ。

「アスカ、おいしい?」

「ええ、もちろん」

「……それはそうさ。アスカは、愛情を込めて、ジャガイモをむいてくれたんだろ?」

「? そうよ?」

「そのイモは、アスカの愛情そのもの、アスカ自身なんだ」

「だ、だから、それがどうしたのよ」

「……僕は、そのジャガイモを、愛情込めて料理したんだよ」

「!」

「ゆっくりコトコト……、アスカの愛情を、僕の愛情でね」

「シ、シンジ……」

「おいしかったでしょ? 僕の、アスカへの、愛情」

「……」

 思った通り。

 アスカは真っ赤になって、恥ずかしそうにうつむいてしまった。

 へへ、お返し成功。

「……やっぱり、生意気」

「そうかな?」

「そうよ。……バカシンジ」

「ほら、早く食べないと、冷めちゃうよ? ……せっかくの、僕の料理」

「……バカ」

「あ、そんなこと言うと、ほら」

 と、僕はまた、イモを差し出す。

「あーん、して。アスカ」

「い、意地悪」

「意地悪だもん」

「むー」

 アスカは、すごく不満そうに、真っ赤になりながら、ぷぅと頬をふくらませる。

 やっぱり、そんなとこも可愛かったりするんだよね。

「ほら、アスカ」

「わ、わかったわよ!」

 そう言うと。

 アスカは、一気に僕の差し出したイモを食べて。

 自分のシチューを、これまた一気に食べてしまった。

「ごちそーさまッ」

「はい。お粗末様でした」

「ふん」

 というわけで、今日の勝負は僕の勝ちでした。

 たまにはこうやってお返ししないと、僕も楽しくないしね。

 それに、そうやって照れるアスカも、すごく可愛いから。

 と、その時。

「……フフ」

 アスカが浮かべた、微かな笑み。

 なんで笑ってるんだろう、と思ったけど。

 僕はその笑みの意味を、後で思い知らされることになる……。



             *



「ふぅ」

 お風呂から、上がって。

 アスカのいる、リビングにやってくる。

 アスカは僕が入ってくるのを確認すると、僕にコーヒー牛乳を差し出した。

「はい、シンジ。喉、乾いたでしょ」 

「あ、ありがと、アスカ」

 なんか、感動。

 アスカもこんな風に、自然に気を遣ってくれるようになったんだなぁ。

 ちょっと、感動しつつ。

 腰に手を当て、ごっくんごっくん飲む。

 うん、いい。

 日本人の風呂上がりは、やっぱりこれだよね。

「おいしい?」

「うん、おいしかったよ」

「じゃ、アタシにも飲ませて」

「え? でももう、一気飲みし」

 止まる、僕の言葉。

 いきなり、だった。

 深く、深く。

 いつもより、ずっと深い、キスを。

 アスカは強く求めるように、唇を重ねる。

 ア、アスカってば、突然なにを……!

「……ん……は。……なによ、残ってないじゃない」

「そ、そんなこと言ったって……」

「じゃあいいわ」

「?」

「シンジの唇で、我慢しとく」

 また。

 嬉しそうに、とても嬉しそうに、して。

 アスカは、僕を離さないように、ぎゅッと抱きしめ。

 僕と深くキスをする。

「んふふ」

 と。

 キス、したまま。

 アスカは、楽しそうに笑う。

 ……でも、そんなキスは、すぐに終わって。

 けど、終わらなくて。

 終わったのは、唇へのキス。

 終わらなかったのは、キス。

 そう、唇と唇のキスが、変わっていって。

 アスカは、頬へとキスを移して。

 やがて、それはどんどん下へと向かって。

 僕の首筋に、そっと唇を寄せるまで下がっていった。

 ……ま、まさか。

「ちゃんと、身体の隅々まで洗ってきた……?」

「う、うん」

「ま、そうしてなくても、しちゃうけど」

「な、なにを?」

「わかってるんでしょ……? ふふん、覚悟しなさい……」

「あ……」

「アタシに、あれだけ恥ずかしい思いをさせた、お返しよ」

 ちゅ

 ……ッ!

 アスカが、僕の首筋にキスをしてくる。

 キ、キスマーク、つけようとしてるんだ……。

 僕の首筋に感じる、柔らかくて、暖かい、アスカの唇。

 僕の思考を、……とろけさせていって。

 けど、そのキスは、吸い付くようなものとは、違って。

 僕の首筋を、慈しむように。

 優しく、優しく……。

 キスマークをつけたいであろう、その一点に。

 その、一点だけに。

 やっぱり、とろけるような、優しすぎるほどの、甘いキスをしてくれる。

 まるで、アスカはそこが、僕の唇であるかのように。

 ゆっくりと、自分の唇で、愛してくれている。

 ……頭が、ぼーッとしてくる。

 だって、こんなキス、されたことない。

 唇同士のキスなら、そ、その、何回かあるから、ある程度は……慣れたんだけど。

 でも、こんなのって、ズルいよ。

 全然、抵抗……できない。

 したく、ない。

 くそぅ。

 これがお返し、だね?

 さっきの、シチューの。

 ……気づくと、いつの間にか、僕は床に仰向けに倒れ込んでいて。

 アスカはの首に抱きついたまま、僕に覆い被さるように、首筋に甘いキスをしていた。

「ア、アスカ……!」

「だぁーめ……。……まだ、やめたげない」

 言葉の句切り、一つ一つに。

 まるで、ハートマークでもついていそうな、甘ったるいアスカの声。

 そんな声を、囁いてくる。

「……恥ずかしい? シンジ」

「う、うん……」

「……でも、まだダメ……よ」

 やめてくれない。

 ……僕はもう、なんか、動けなくて。

 アスカのキスマーク付けを、ただただ、受け入れるだけだった。

「……これくらいじゃ、やっぱりまだ、つかないか……」

「え……?」

「これくらいが、いいかな?」

 ちゅ、と。

 急に、アスカが、今までより強く、僕の首筋にキスをする。

 そして、全然、ほんの少しも、離れてくれない。

「ア、アスカッ……?」

「……」

 無言。

 アスカはなにも言わず、ただ無言で、僕の首筋にキスをしてくれている。

 さっきよりも、さらに甘い感覚が、首筋に感じられて。

 それが、全身に広がっていく。

「だ、だめだよ、アスカ」

「……」

「アスカって、ば……!」

「……」

 見える、アスカの顔。

 頬が赤くなっていて、目は閉じられて。

 ……まるで、まるで、陶酔してるかのような……。

「……フフ」

 ふいに。

 そう笑って、嬉しそうに、アスカは僕の首筋から、唇を離した。

「シンジ、……はっきり、つけてあげたよ」

 アスカの、言うとおりに。

 僕の首筋には、はっきりと、アスカのキスマークがつけられていた。

 あーあ、……はっきりわかるよ、これ。

「まいったな……、こんなはっきり」

「アタシをからかった罰よ……。明日はずっと、そのままでいなさい」

「や、やだよ」

「クラスのみんななら、大丈夫よ。……絆創膏かなにかで、隠しとけば」

 ……そ、そんなの、ダメに決まってるじゃないか。

「すぐ、ばれちゃうって」

「うまく、ごまかせばいいわよ」

「で、できるかもしれないけどさ」

「ならいいじゃなーい」

「ク、クラスのみんなはよくても、ほら、明日はハーモニクスのテストがあるじゃないか」

「……ハーモニクス? なによそれ」

 ……へ?

「な、なによそれ……って。ハーモニクスはハーモニクスだろ?」

「? ? ?」

「忘れたの? 明日は学校終わったら、ネルフに行かないと。……まずいよ、ネルフの人たちにばれたら」

「ネルフ……!? なんでネルフがあるのよッ!」 

 あれ?

「そ、そりゃあるさ。ネルフは、最初っからあるじゃないか」

「……!」

「……アスカ、どうかしたの? なにか変だよ?」

 おかしい。

 そりゃあもう、あからさまに。

 僕の言葉一つ一つに、なんか妙に反応してるし。

 ……待てよ。

 な、なんだろう。

 なにか、嫌な予感がするぞ。

「シンジ」

「な、なに?」

「アタシ、入院してたわよね。……なんで、入院してたの?」

「そ、それは、使徒と戦って、過剰シンクロでLCLに溶け込んで……」

「……使徒?」

「う、うん。第十四使徒」

「……!」

 途端、アスカの顔が真っ青になった。

 ……待って、待ってよ。

 なんかこの展開、似ているというか、覚えがあるぞ。

「ア、アスカ、ちょっと、問題出していい?」

「な、なによ、いきなり」

「第一問。……『エヴァ量産機』、全部で何体?」

「? 九体よ」

 ……やっぱり。

 過去のアスカが、こんなこと、知ってるはずがない。

「第二問。……僕が、お風呂場で頭を打ち付けたのは、どうして?」

「そ、それは……その、ア、アタシが、一緒に入ろうとして……」

 恥ずかしそうに、答えるアスカ。

 間違いない。

 ここまでわかるってことは、やっぱり、そうなんだ。

 今、僕の目の前にいるアスカは……。

「……アスカ、落ち着いて聞いてね。ここは……、サードインパクト後の世界じゃないよ」

「? ど、どういうこと? サードインパクト後の世界じゃない? え?」

 なんだか、慌てて、混乱している、アスカ。

 でも、すぐ、なにかに気づいたのか。

 彼女は動きを止め、僕の顔をじっと見つめる。

「ま、まさか……!」

「タイムスリップ、してきたんだね。……僕みたいに」

 微笑む、僕。

 そう。

 今、目の前にいるアスカ。

 それは、僕とまったく同じ未来・時代から来た、僕が良く知っている、アスカ。

「僕みたいに……、ね。……なるほど、合点がいったわ。そういうことだったのね」

 と。

 そう言って、アスカは、諦めたように嘆息する。

「タイムスリップして、過去と未来のシンジが、入れ替わった形になったんだ」

「うん、そうみたいだね」

「……シンジがお風呂で頭打ち付けた次の日……、びっくりしたんだから」

「?」

「おはようのキスしようとしたら、いきなりシンジ、『僕とアスカって、恋人なの?』とか言うんですもの」

「あはは……」

「……シンジがそう言うもんだから、アタシ、シンジが記憶喪失になったんだって、思ってたんだけど」

「さすがのアスカも、タイムスリップとは考えなかったんだね」

「変に記憶が抜けてたから、おかしいと思ってたんだけど」

「僕も最初は信じられなかったけど、エヴァとネルフがあったから……」

「やっぱり、ほんとなんだ?」

「うん」

 僕だって、この目で見るまでは半信半疑だった。

 けど、確認しちゃうと、そうも言ってられない。

 そういう風に解釈するしか、なくなっちゃうんだよね。

「……実はねシンジ、アタシも、お風呂場で頭を打ち付けたの」

「え?」

「そしたら、あの病院のベッドの上だったのよ。……もしかしたら、それが、タイムスリップの方法かも」

 やっぱり、そうなんだろうか?

 ……ほんと、変な話だよなぁ。

 頭を打ち付けて、タイムスリップっていうのも、そうなんだけど。

 なんでまた、僕だけじゃなくて、アスカまでこの時代に来たんだろう。

 それも、今の僕がいる、この時間に。

「はぁ、憂鬱ね。今度はこっちの時代での生活かぁ」

「心配することないよ。使徒との戦いは大変だけど、そんなに……」

「使徒……」

 ふい、に。

 アスカの顔から、笑みが消えた。

「……ねえ、シンジ」

「ん?」

「……さっき、さ。第十四使徒って、言ったわよね?」

「あ、ああ。アスカの弐号機が暴走して、捕食してS2機関を取り込んで……」

「そっか……、初号機がやることを、アタシがやっちゃったんだ」

「そういうことだね」

「……で、次の使徒は?」

「もちろん、まだ、来てないけど」

「……あのアタシの心を汚した、あの使徒……。来るのね、また……」

「あ……」

 そうだ。

 すっかり忘れていたけど、次の使徒は、アスカにとっても僕にとっても、最悪の使徒だ。

 アスカの心を汚した、あの……。

 だから、だ。

 アスカの顔から、笑みが消えたのは……。

「アスカ……!」

 知らない、うちに。

 ぎゅっ、と。

 僕は強く、アスカを抱きしめていた。

 ……守らなくちゃ。

 余計に、そう思う。

 あんな思い、二度も、そう二度も、アスカにしてほしくないから。

「……大丈夫だよ。アスカは、もう絶対に傷つけさせない」

「……」

「その使徒だって、僕が……」

「食いなさい」

「うん、絶対に食い……」

 ……。

 ……。

 ……。

「……はい?」

 あの。

 今、なんておっしゃいました?

「ア、アスカ?」

「アンタ……、あの使徒、『とりあえず暴走して食いなさい』」

「……」

「……」

「……」

「……なんですって?」

「食うの。そしてS2機関を取り込みなさい」

「あ、あの」

「そしたらほら……、アタシたちの乗るエヴァは、無敵ってことじゃない」

 突然。

 くすくすくすくす、と。

 不気味なほどの、微笑を浮かべるアスカ。

 お、悪寒が走る。

 なんだろう、嫌だよ、怖いよ。

「二人して無敵になったら、量産機を片っ端から、支部ごと潰すの」

 だらだら、と。

 僕の全身に、脂汗が。

 アアアアアアアアスカさん?

「その後は、襲い来る使徒を、やっぱり片っ端から撃破して」

「カ、カヲルくんも?」

「地下のリリスも殲滅して」

 聞いてないし。

「そうすれば、サードインパクトも起こらなくて、天下泰平よ」

「ちょ、ちょっとアスカ」

「やがてネルフは、シンジとアタシの管轄下に入って、ゼーレ狩りを始めるのよ」

「あ、あのー……」

「歪んだ大人たちを、アタシたちが成敗するの……」

 あ、あの。

「そうよ……、そのために、アタシたちはこの時代に呼ばれたのよ。……ね、シンジ?」

 ま、まずい。

 ……ひ、非常にまずい事態です。

 ア、アスカさんが、アスカさんが、壊れちゃいました。

 だめだ、もう目もすわってれば、意識も飛んじゃってるみたいだ。

 本気だ。

 本気で、僕に使徒を食わせる気だ。

 それで、本気で量産機を、出撃前に殲滅して。

 本気で、ゼーレとか、潰す気でいる。

 あああああああ、アスカ、お願いだから落ち着いて。

「アタシとシンジのらぶパワーで、世界は救われるのよ」

「す、救うったって、ほんとにそんなことで……」

「だから、そのためにはとりあえず、シンジが使徒を食わなくちゃいけないの」

「だ、だからね、使徒を食うったって、そんな……!」

「大丈夫。心配しないで、シンジ」

「?」

 その時。

 アスカはすっごいいい笑顔で、ぐッと親指を立てて。

「ママは見てるわ」

「……」

 ……。

 ……あの。

 こういった時、僕はなんて、コメントすればいいんでしょうか?

「だから大丈夫! 食ってきなさい!」

「な、なに言ってんだよッ。だいたい、暴走するったって、どうやって……」

「死にかければいいんじゃない?」

「……」

「ね?」

 ……。

 ……拝啓。

 母さん。

 初号機の中は、快適ですか?

 そうですか。

 さておき、母さん。

 僕は、そろそろマヂで死ぬかもしれません。

 ああ。

 ああ、母さん。

 助けて。

 助けて下さい。

 いや、もう母さんでなくとも。

 父さんでもミサトさんでもペンペンでも誰でもいいです。

「だから、大丈夫だってばッ! ママは見てるから!」

 ……そんな、無邪気なアスカの笑顔。

 悪意が、あるんだかないんだか、その言葉も。

 妙に心に残ります。

「さあシンジ、素晴らしき未来へ向かって、作戦開始よッ!」

「しないでいいよー……」

 そして。

 僕の、僕自身の非常にまずい事態は。

 まだまだ、続くみたいです……(大泣)。








 その頃。

 とあるマンションの一室。

「……そう。私もその手を使えばいいのね」

 と。

 盗聴器片手に、野望に燃える女の子が一人。

「『……碇くん、実は私、あなたと恋人でいた未来から来たの』」

 ぼそ、と呟く。

 そして、「よし」とばかりに、拳を握る。

「やっぱり、セカンドには、渡せないもの。……だから、奪うわ」 

 妖しく光る、その赤い瞳。

「あとは、私も……食えばいいのね」

 わきわきする手。

「使徒を食えば、私も無敵……。……そして、その後は、碇くんを食べる……。くすくすくすくすくす……」

 ……不気味な笑い声。

 それは、静かに静かに、マンションに響いたそうな。








 完?




 あとがき


 どうもー。
 おつき合いいただいて、ありがとうございますー。
 ふゆですー。

 ああ、なんかすごい終わり方を(汗)。
 というか、終わってないというか。
 なんにしろ、とにかくすごいお話でした。
 もうなんか、パラドックスやらなんやら、メチャクチャです。
 もうなんでもありです。
 その辺のツッコミは勘弁して下さい(笑)。

 最後なんか、珍しくギャグっぽくなっちゃって。
 でも、楽しかったですよ、書いてて。
 もし気が向いたら、このハチャメチャ逆行モノ、続きを書くかもしれません。
 ……期待は、しないでおいて下さい。
 はい。

 とりあえず、今回はどうもありがとうです。
 それではまた、お会いしましょう。

 ふゆでしたー。



ふゆさんから『非常にまずい事態』後編、最終話いただきました。

いやーらぶらぶあっちっちで最後まで逝く(誤字)かと思ったら‥‥
ふゆさん、とんでもないオチをつけてくれました(笑)

シンジ君はもう、これから逝くところまで逝く(誤字に非ず)しかないですね(爆)

レイさんも早速壊れているし、あと壊れるならマナさんとマユミさんでしょうか(笑)

大変おもしろおかしいお話でした。ぜひ、ふゆさんに感想メールを送りましょう!