「最低ね!」
 ここで張り手のひとつもあれば、彼女を吹っ切ることができたかなと相田ケンスケは思った。が、彼を罵倒した霧島マナは涙を浮かべるばかりだった。
 『触れたくないほど、泣くほど嫌われていたのかな』
 確かに最低のタイミングで告白をしたと思う。中学卒業式の日につき合ってくれなんて言うのは男として恥ずべきことかも知れない。とはいえ、ケンスケがマナに気持ちをうち明けるのに最低でないタイミングなどこれまでに皆無だった。霧島マナは、碇シンジに盲目とも言えるほどに恋していた。しかし、サードインパクトによって更に絆を強固にした惣流アスカ・ラングレーとシンジの関係に割り込める余地などあるはずもない。言うなれば、霧島マナは常に失恋常態だったのである。

 シンジとアスカに肉体的な関係ができたという噂がながれても、マナのシンジへのアプローチになんの変化もおこらなかった時にケンスケは彼女の総てを諦めたつもりだった。それでも、このまま別の高校に進学ということならば、この気持ちを伝えずにはいられなかったのである。

 当然、ふられることは考えていた。
 意外にその想像ほどに暗い気持ちにはならなかった。
 「最低だね」
 それでも、ケンスケは後悔していなかった。たとえ自慰行為だと言われようとも、このことが霧島を傷つけるとは思えなかったからである。そして自分だって、きっと傷ついてはいない。

 最低 -after the third inpact3-

written by hikaru

 霧島に最低だと言われた本当の理由は、その日のうちに判った。
 “惣流アスカ・ラングレーがドイツに帰る”
 彼女がドイツに帰らなくてはならない外的な要因などあるはずがない。仮にあったところで、アスカ自身がそれを意に介するわけもない。だから、彼女が望んでそうしたのは明白であり、同時に二人が別れたことを意味した。
 連鎖的におこりうること。
 それは、マナが完全に失恋をしたということである。
 アスカがこういうかたちでいなくなったならば、そのポストを埋めるのが自分だと思えないのが霧島マナである。自分がそのポストに収まることが容易であれば、彼女はシンジに恋などしない。収まった時に、彼女の心はシンジから離れていってしまうということである。

 「知らなかったとはいえ。俺って最低だ」
 「なんや?」
 卒業証書の筒で肩を叩きながら、思わず口に発したのをトウジが受けた。さすがに今日はジャージを着てはいない。
 「惣流さ。ドイツに帰るって、なんだって思ってさ」
 「シンジのアホめが止めへんのや。わしらでどうこうってモンでも……」
 「ま、卒業なら、いろいろ終わることもあらぁな」
 「そうかも知れへんな」
 シンジとアスカがどうなるのか想像できないことはない。ケンスケに言わせればアスカのドイツ帰国など狂言である。とはいえ、自分が永遠に霧島に近づけない起因が二人だと思えば穏やかでいられるはずもなかった。しかし、ものには巡り合わせというものがあると解るから、縁がなかったのだと諦めるしかないと思う。自分の中の恋も終わったのだ。
 「これだから美人ってのはさ!」
 ケンスケは、腹の底から叫んだ。

 霧島マナは、自己嫌悪に陥っていた。
 相田ケンスケに対して、あまりに女らしくない態度をとってしまったと思う。
 彼は毫も悪くない。自分は八つ当たりをしたのだ。
 とはいえ、マナにとってケンスケの告白は突然すぎた。
 映画ではないのだから予告編などあるわけがないが、彼女の立場で言わせてもらえば、それらしい仕草を見せてくれても良かったと思う。ただ、今になって思えば自分が碇シンジに夢中になりすぎていたから見えなかったのだろうかとも推測はする。まったく、この二年間、いったい何をやってきたのだろう。
 「突然だったよね」
 「冗談じゃないわ。対処がおろそかになっちゃうのよ」
 帰宅時、ヒカリに話しかけられたマナはちぐはぐな返事をした。
 「対処も何もないでしょう。アスカは、碇君にも相談してなかったっていうじゃないの」
 「あ? うん」
 ケンスケの告白のことかと思ってマナは憤慨したようにしてみせた。が、ヒカリの言ったのはアスカのドイツ行きの件だった。
 「碇君、どうするんだろ」
 マナは、ヒカリの言葉に返事ができなかった。
 アスカがいなくなったことで、自分にチャンスがめぐってきたと考えられないのがマナである。むしろ、永遠に彼に振り向いてもらえなくなったと解るのである。あの生意気なブロンド女に碇君をドイツに連れていかれたようなものだ。そして、そんなかたわらで、先ほど自分に告白してくれた男のことを考えている自分がイヤになった。まるで、“右がダメだから左にした”ようで自分が汚らしく思えた。
 「難しくなんかないわ。忘れちゃえばいいのよ」
 シンジにとってそれが難しいと解っていながら、こんな軽口も叩いてみる。というより、切望に近かった。シンジになら“右がダメになったから左にする”が許せると思えた。その左が自分であればいい。ただ、“右を切望しつつ左に近づく”のであれば、それはごめん被りたいと思った。
 「遠いから」
 ヒカリは、曖昧な相づちを打つ。
 ヒカリとトウジは、進展がないように見えるが、しっかりと見えない絆で繋がっているからいいのだ。何もないことが絆の証のような関係だから他人の恋愛を手助けする気概があるという素振りだけができるのだ。
 マナは、自分が今ひどくイヤな考え方をしていることに気付いて更に愕然とした。
 「最低だわ」
 シンジとケンスケを同時に考えている自分、ヒカリたちを妬んでいる自分を口の中で罵倒していた。

 ケンスケは、美大付属高校に進学した。第壱中進学組のおおかたが普通高校に進学する傍らで異色だった。他には、委員長こと洞木ヒカリが看護婦の免許を取るために普通科を避けたくらいで、ほとんどの同期はそのまま第壱高等学校への進学だった。

 碇シンジは、綾波家に養子に入ってレイの兄となった。
 冬月と同居していたレイを、シンジと一緒に住まわせることにしたのである。
 シンジは、唯一の身内を手に入れることになったが、それが彼の生活をレイ一色にすることは誰の目にもあきらかで、事実そうなった。そしてその生活は、大学生活でも就職後もしばらく続くことになる。

 付属高校からそのまま美大に進学したケンスケは、その卒業後にカメラマンの事務所に就職した。無論、カメラマンとしてである。大学での専攻はビデオ画像だったが、事務所ではフォトグラフィ向きの感性だと言われてそちらの仕事がめっぽう多かった。
 雑誌などにアイドルタレントの撮影をすることも多く、それで生活費を稼いでいる自分が中学生の頃に戻ったようだと思っていた。
 大学時代につき合っていた恋人とは別れてしまっていた。仕事の忙しさにかまけてまめに逢うことをしなかったからである。とはいえ、暇だといわれる高校生、大学生の時も一人の恋人と長くつき合えたためしなど無い。長くても三ヶ月ほどのものだった。自分の方からアプローチをかけることもありはしたが、基本的にさめていたのだろうと思う。
 『べつに、霧島のことを考えていた訳じゃないんだろうけどさ』
 自分の煮え切らない態度に愛想を尽かされるのには慣れていた。
 そして、いずれは忘れていくだろうと思っていた霧島のことを未だに忘れずにいることに戸惑ってもいた。

 マナは、シンジのことを忘れようとするかのように、高校では幾つもの恋をした。彼女にとって不幸だったのは、高校三年間、シンジ、レイの綾波兄妹とクラスが一緒だったことである。忘れたい男が三年間目の前にいて、ことがあれば話しかけてくるのだからたまったものではない。中学生のあいだずっと感じていた苛立ちを、高校でも繰り返すことにしかならなかった。だから、大学に進学したときには、既に恋をすることにも疲れのようなものを感じていた。モーションをかけてくる輩はいるにはいるが、まるで歯牙にもかけなかった。
 “不沈空母霧島”というあだ名が一部で囁かれもしていた。
 大学卒業後は人類進化研究所に勤めることとになった。前身がネルフの、現在は日本政府厚生省下の国家機関である。
 伊吹マヤの指揮下で、MAGIに代わる次世代コンピュータの研究をしていた。コンピュータ関係に興味が無かったわけではないが、一番したいことではなかった。芸能界とかテレビタレントとかいった仕事にこそ興味があったが、自分には才能がないと勝手に決めて挑戦してもいなかった。
 今、彼女は、頭金を貯めてちょっといいマンションを買おうかと考えている。仕事をすることの励みになるようなことでもなかったら、自分はどんどん腐っていってしまうと思った。中学生の時のように必死になって何かを追いかけていられれば、何かが始まるかも知れないとも思っていた。
 『恋が活力と美貌を……か、』
 自分を恋愛べたにした二人の少年の名前をふと思い出す。
 必死で追いかけていた碇シンジ、そして、その自分をずっと見つめてくれいていたという相田ケンスケ。
 相田ケンスケの存在が、思いのほか自分の中で大きかったことに驚いていた。

 「相田君、頼みたいんことがあるんだが」
 明後日の撮影のミーティングが終わり、退出の際にケンスケはデザイナーから声をかけられた。
 ここには出席していない新人モデル、越智ヒロコに今夜あっておけというのである。
 「なんです?」
 その話によると、越智ヒロコはオブザーバーでこの打ち合わせには出席したかったというのである。スケジュールの調整がつかなかったためにここには来られなかったが、カメラ担当とは話をしたいということだった。
 そうであれば、ケンスケも納得できた。撮影の後のことの方が多いが、べつに珍しいことではない。とくに売り出しはじめのモデルであれば、意気込みを示すためにおおよそ仕事以外にも接触をしてくるものだ。仕事の話をするばかりではなく、他愛のないことを話したりもするのである。目的は、後のための勉強であったり、暗に人脈づくりだったりもする。
 ただ、ケンスケが不思議に思ったのは、カメラマンである自分に接触してきたということにである。プロデューサー陣とはとっくに顔合わせはしているから直前の今になってということになるだろうから、末端の自分の辺りにまで来るとうのは解らないでもない。が、何で自分なのだ。それも訊こうと思ったが、あずかり知らんと言われそうなのでやめておいた。
 不審点があるにしてもむげに断るわけにもいかず、ケンスケは待ち合わせ場所を示したメモを受け取った。
 「可愛い娘の相手なら、願ってもないことです」
 と、それらしいことを言ってみておく。

 「先輩の裏切り者〜」
 マナは、白衣から着替えながら拗ねてみせた。
 その前で伊吹マヤは平身低頭していた。
 「ごめんマナちゃん。今日、外せない用事ができちゃったのよ」
 今日、二人は帰宅がてらショッピングをする約束をしていたのだ。
 「青葉先輩でしょ。今日、早退してたみたいだし」
 伊吹マヤと青葉シゲルは、サードインパクト後につき合うようになっていたらしい。二人とも頑なに否定しているのだが、これで確定的になったと思った。噂でしかないが、先にモーションをかけたのはマヤの方らしいというのは驚きである。自分よりもずっとマヤとのつきあいの長い日向マコトや綾波レイですら、意外だと言うのだからよほどのことだ。レイにいたっては、一生結婚なんてしないと思っていたと言うくらいだから、彼女が男性を近づけない様はよっぽど露骨だったのだろう。尤も、マナがここに勤めだしてからのマヤは男性を避けている風ではない。むしろ、積極的だ。
 シゲルが早退したというのは、今日、彼が率いるロックバンドのライブコンサートが行われるということであろう。マヤは、今朝の今朝までそれを忘れていたのだ。シゲルから早退する際にチケットを渡されて気付いたに違いないのだ。
 「ロックなんて、きょうびはやらないからどうでもいいんだけど。旧ネルフ組で聴きにいく人がいないんじゃ可哀想じゃないの」
 「女同士の愛情なんて、男の前でははかないんですね。いいんです私、先輩が幸せなら。でも、私いつまでも待っていますから」
 マナは、ふざけてマヤの胸に飛び込んだ。
 「ちょっ。安部君がいるんじゃないの?」
 マヤは、本気で狼狽した。
 安部君とは、マナの同期の安部フミトのことである。彼の方からは何度かデートの誘いがあるから、何度かドライブなんかに行ったことはある。が、それだけだ。身体がめあてだというのであれば一緒に寝ることも考えはしたが、彼は本気で恋愛をしたいらしいから今のマナには重荷とも言える存在であった。

 更衣室でマヤと別れると、外でその安部フミトが待っていた。
 スポーツ青年の、いわゆるさわやか系というやつである。テレビコマーシャルみたいに歯が輝いていた。
 「霧島さん、飲みに行こうよ」
 マナは、帰って何をするわけでもないから、つき合うことにした。

 ケンスケは、着慣れないスーツを着て、待ち合わせ場所に来ていた。着ていかなくちゃならんと同僚に押しつけられたときはどうでもいいと思っていたのだが、彼女の事務所が自分の事務所のお客でもあると聞いたので仕方なしといったところだ。
 その店は、以前シンジと飲みに来たことのあるバーだった。
 ドアをくぐると、アンダーめの照明の店内は既に混みはじめていた。
 「こっちです!」
 すぐに彼女の方で気付いてくれた。テーブルの方で細い手を挙げた越智ヒロコは写真よりも痩せて見えた。
 「待たせちゃって。明後日のこともあってね」
 ケンスケは、向かいの席に着きながらソルティードックをオーダーした。
 「明後日の撮影。お願いします」
 ヒロコの肩まであるたぷっりとした髪の毛はたぶんブリーチを施しているのだろう。二十歳だというのに妙に大人びているのは、こういった業界の人間ならではで、決して珍しいことではない。鳶色の瞳に凝視されて、年甲斐もなくケンスケは狼狽してしまった。
 「今日はなに? 写真集ってわけじゃないし、衣装は決まってるよね。あとは、スタイリストさんに任せとけばいいよ。経験が少ないからって、緊張するのは分かるけど」
 カメラ写りのする動きやポーズなどは今からレクチャーする必要はない。本番で指示した方がいいし、今から机上で語ったら半端な時間ではすまされないと思う。そのあたりを曖昧にしてモデルに話さない方がいいとするカメラマンもいたりはするが、一枚の写真がカメラマン一人のものではなく共同作業の末にでてくるものなのだから、知っていてじゃまになるものなど無いというのがケンスケの持論だ。
 「そうじゃないですよ。私が、相田さんのファンなんです。だから会いたいって、叔父に言ったらセッティングしてくれたんですよ。この仕事のデザイナー、私の身内なんです」
 「ファンだなんて言ってもらえて嬉しいけど、僕の名前で出回ってるモンなんて無いはずだよ」
 「以前、先輩の撮影に付き添ったとき、相田さんを見たんです。私話しかけなかったから知らないかも知れないけど」
 覚えているはずもなかった。ケンスケが今まで撮影してきたモデルだけだってゴマンといる。格段タイプの娘だっていうのであれば記憶の片隅にでもありもするだろうが、その記憶だって曖昧なものだ。撮影の対象でなかったのなら覚えていなくて当前である。ヒロコは、完全に今までのモデルの中に埋没している存在だった。
 ケンスケが覚えていないと分かっても彼女は肩を落としてふうでもなかった。分かりきっていたことでもあるだろうし、若い割には夢見がちでもないのだろう。
 「異性が仕事してる姿ってさ、格好良く見えるからね?」
 「一番最初の夢は、やっぱり写真集なんです。いつになるのか分からないけど、相田さんに撮ってもらえたらって思うんです」
 現実的だというのは訂正しなくちゃいけないかなと思いつつ、光栄だと言ってから席を立った。
 「ごめん、ちょっとお手洗い……」
 ケンスケは、面倒なことになったかなと思った。好意を寄せてもらっていれば悪い気はしないが、仕事に差し支える可能性がでてくる。自分の対応いかんでは臍を曲げかねないだろう。公私混同とまでは言わないが、身内を使ってアポイントを取ってくるのであれば可成りしたたかであるし、自己中心的な性格の可能性もある。
 『このまま逃げたら、しゃれにならんだろうな』
 シンジとトウジを喚んで、無理矢理引っ張っていってもらえば、うまく逃げられるかなとか思案をめぐらす。今の仕事に愛着があるから解雇されるのだけは避けたかった。モデルを怒らせてしまったのでは、この業界にいられなくなる可能性だってある。

 ビールジョッキを口元に運んだマナは、自分の横を通り過ぎたのが相田ケンスケだということに息が詰まりそうになった。
 思わず顔を逸らす。
 背中合わせのソファーにケンスケが坐っているのには可成り驚いた。
 向かいのソファーに坐っているフミトがマナの挙動を妙に思ったのか、首を傾げた。
 「ごめん。何でもないのよ」
 マナは、ゆっくりのもうと思っていたジョッキを一気に飲み干してしまった。
 「大丈夫かい」
 「咽喉が渇いてて。私が強いの、知ってるでしょ」
 マナは、追加を頼んだ。
 まさか相田ケンスケがこんな近くにいるとは思わなかった。尤も、卒業してその後この街から出ていった者はむしろ少ないのだから当然といえば当然だ。遷都のことは政府のアナウンスにありはする。が、第弐新東京市が首都とはいえ、経済の中心地は第参新東京市に移動しつつあるのだから、都会化が進むこの街から人が出ていくことは少ないのである。日本でも五本の指にはいる巨大都市であれば、人口とて尋常ではない。巡り会いの確率など可成り低いはずなのだから、申し合わせもなくこうして近くにいるのであれば、それは並々ならぬ縁であろう。
 マナの中で中学の卒業式の日のことが思い起こされた。
 むげに跳ね返してしまった告白。あの時のケンスケの顔が思い返されてマナは暗い気持ちになった。
 物事はなるようにしかならない。あの時の自分の気持ちは碇シンジに向いていたのだからああ対処するしかなかった。自分が悪いわけでもないが、彼が悪いわけでもない。
 とはいえ、追いかけても手に入らないと知っていて、それを必死で追い求めていたのは間違いのないことだ。それでもケンスケにああ接することをしてしまったのならば、自分はひどい女なのではないか。ケンスケは、いつだって自分を見てくれていたのだとあの告白で解った。そうであれば、受けいれることはできなくても他に言いようが、対処のしようがあったのではないか。
 卒業式の晩に考えていたことが甦ってきた。
 『最低なのは私だ』
 「霧島さん?」
 難しい顔をしているマナをフミトが覗き込む。
 「なんでも、ない」
 マナは、二つ目のジョッキを一気に飲み干してしまいそうになるのをこらえた。

 ケンスケが席に戻れば、その相手との会話が気になる。ケンスケが席を離れているあいだに何気なく確認したのだが、ずいぶん若くて可愛い娘である。まるでアイドルタレントのようなと思った。ケンスケがどういった経緯であの娘と知り合ったのかは解らないが、なんだか理不尽な怒りが込み上げてくる。
 『私のこと好きだって言ったくせに』
 あの時にケンスケの気持ちを拒んだ自分には、嫉妬をする権利など無い。まして七年も前の話である。しかし、解っていたって理屈ではない。混みかげてくる気持ちはそのものの否定をしたってむなしいばかりだ。
 『あんたはシンジじゃないんだから、ひょいひょいって乗り換えちゃいけないのよ。だいたいあたしにだって恋人はいないのに、何であんたにいるのよ!』
 一度タガが外れてしまえば次から次へと理不尽な想念が溢れだしてくる。フミトが制止しているにもかかわらず、ビールを飲むペースはどんどん上がってきていた。
 程なく、酩酊の常態も尋常ではなくなった。ほんのり紅くなっているなどという生易しいものではない。頸から上が真っ赤になって、目がすわり、頭は、メトロノームのように一定のリズムで揺れている。何か少しでも食べ物を口にしておけば良かったのだが、飲み始めにつまみなどを注文する前にケンスケの存在に気付いてしまったために一気にビールだけになってしまった。彼女の胃袋の中身は、ビールだけである。
 「あんたねぇ。もちょっと押しが強くたっていいんじゃないの。週に一から二回食事に誘うくらいで、たま〜にドライブに誘うくらいでなんで私を落とそうってのよ。もっとまめになんなさいよ」
 「霧島さん?」
 「抱かせろ〜! って、こう、もう、さ。恋愛しよってんなら、強引さも必要だってのよ」
 その声があまりに大きくて、ケンスケもマナの存在に気付いた。
 マナも既に隠れているつもりはなくなったらしく、勢いよく席を立ってケンスケとヒロコのテーブルをバンと叩いた。
 「霧島ぁ?」
 ケンスケも、マナの存在には驚いた。
 この七年間、けっきょく忘れることのなかった女性だ。それがよもやこんな近くにいるとは思いもよらない。その霧島が、泥酔状態で、すわった目で自分とヒロコを見比べるようにしていれば鼓動が早くもなろうというものだ。
 「あらケンスケ、可愛い娘つれてんじゃないのよ。隅に置けないわねぇ」
 「霧島、酔ってるな。久しぶりに会ったってのに、ずいぶんなモンだな」
 ケンスケは、努めて冷静を装った。憤慨してみせてはいるが、照れているのには違いない。
 「なんなんです。失礼じゃないですか!」
 逆にヒロコは怒りをあらわにした。大事なデートを邪魔されれば、穏やかでいられるはずもない。ましてや、二人が知り合いらしいと判ればなおさらである。
 「めくじらたてないの。可愛い顔が台無しよ」
 マナはだらしなく笑ってみせてから、今度はケンスケに絡みついた。
 「酒臭いって!」
 ケンスケはマナを引き離そうとするが、思いのほか力強い。なんで酔っぱらった人間というのはこうも扱いにくいんだろうかと思う。
 半ば悲鳴を上げながら、ヒロコもケンスケとマナを引き剥がそうとする。
 と、
 「いいじゃないの。あんた、どうせいつもはケンスケのこと独り占めしてるんだから、今日くらい貸しなさいよ」
 小学生レベルである。
 ケンスケは、「勘弁してくれ」と声を上げた。こうすれば、こういった不埒な客がいれば、そろそろウェイターが動き出してくれるだろうとふんでいた。
 「つれが迷惑をかけてしまってすみません」
 と、フミトが現れた。
 霧島は、この男と飲みに来たのかと解る。確かに、どことなくシンジに似ているような気がして不機嫌になりそうだった。
 「どうにかしてくれ。ペースを考えてやれよっ!」
 ケンスケがマナの肩越しに睨みつけると、フミトは恐縮して再び謝った。そして、
 「霧島さん。ダメだよ」
 マナは、同僚の声で我に返ったようにケンスケからゆるゆると離れた。
 ウェイターがこちらに来るすんでのところだった。フミトはウェイターにも謝りつつ会計を済ませることにしたようだった。さすがに、この期に及んで席に着かせようとするほどの度胸はないようである。
 『なにがあったんだ』
 ああいう酒の飲み方をするのは霧島には似合わないと思う。とはいえ、会うことのなかったこの七年間で変わることもあるのだろうと思う。自分だって、気づきはしないがどこかが変わっているに違いあるまい。
 「知り合いの方です?」
 「ああ、久しぶりにあったよ。中学生の時の同級生なんだ」
 ケンスケは、迷惑そうな顔をしておいた。

 『酔ってたって言っても』
 夜気に晒されて酔いの醒めたマナは、自己嫌悪に陥っていた。
 今さら相田ケンスケがなんだというんだと思う。あの男が誰とつき合っていたって関係ないじゃないか。取り乱しようがあまりに少女じみていて、恥ずかしくなってきた。
 「さっきの人、知り合い?」
 「ええ、中学の時の同級生なの。しばらく会ってなかったけど。……格好悪いところを見られちゃったなぁ」
 お喋りになりかかっている自分に気付いてまた自己嫌悪する。
 なにを言い訳しようとしているんだろう。相田ケンスケとは、シンジの親友だという認識しかなかったはずだ。毎日一緒の教室にいた時には、それ以上の接点があったわけではない。なにもフミトに言い訳をする必要などない。いや、それ以前にフミトに言い訳をする必要すらない。
 『なんか、私ってずるいなぁ』
 アスカやシンジが今の自分を知れば、きっと軽蔑するに違いない。アスカはシンジや他の男に対してまっすぐだからドイツに帰ってしまえたわけだし、シンジも、アスカや他の女に対してまっすぐだから未だに恋人も作っていないのだと解る。それに引き替えて、今の自分はなんだろう。手を握ることすら許していない男ばかりを周りに引き集めているばかりじゃないか。
 「霧島さん?」
 「ごめんね。迷惑かけちゃって」
 マナは、ぺろっと舌を出してから謝った。
 「かまわないんだけど。大丈夫?」
 無理もない。こんなに酔ったところを見せるのは初めてだ。
 「じゃあ。大丈夫よ、一人でも帰れるから」
 マナは、掌をあげた。
 フミトは心配しているようだが、“一人でも帰れる”と言われれば引き下がるしかないと考えたのだろう。歯切れの悪い挨拶をし、そしてなかなか背中を向けなかった。
 「いい男だって、解ってるんだよ」
 マナは、もう一度フミトに手を振った。

 ケンスケは浴びるほどに飲みたい衝動にかられていたが、今日の相方がシンジやトウジではないので諦めていた。尤も、そのどちらかが相手であってもケンスケの方がお世話になるようなことはない。いつだって自分は損な役回りなんだと愚痴たい気分になった。
 「相田さん?」
 「ああ、騒いでしまってごめん。しらけちゃったかな」
 まだ話をしたがっているようだったが、こんな心理状態でいつづけたらヒロコになにを言いだすか自分でも解らないと思えて席を立とうと思った。
 刹那、
 「マスターお祝いに一杯おごってよ!」
 聞き覚えのある声が店に飛び込んできた。
 赤みのかかったブロンド。
 サファイア・アイズ。
 「惣流アスカラングレー」
 ケンスケは、思わずその名前を口に発していた。
 その声が思いのほか大きかったらしく、アスカもケンスケに気付いた。
 「相田ぁ。久しぶり。元気にしてた?」
 「あ、ああ」
 七年たって、体つきが更に大人らしくなった以外はなにも変わっていないように思えた。
 「どちらさまです?」
 ヒロコは、たてつづけの闖入者にいらだっているようだった。ケンスケは、また中学の時の同級生だと答える。この一時間あまりの間にしばらく会ってない中学の時の知り合いと出会うことになるとはまったく奇特な話だ。
 「いつ帰ってきたんだよ。シンジには会ったのか?」
 「一ヶ月前にね」
 アスカは、職場の人間と一緒に来ているから二時間後に連絡をくれとメモを渡して奥に行ってしまった。
 嵐のようだ。
 本当に変わっていない。
 一ヶ月シンジと連絡をとっていないから、アスカが日本に来たことを知らなくて当然だ。
 ということは、この街にはしばらく住み続けているということである。アスカが日本に来なくてはならない事情は他にもあるかも知れないが、居続けなくてはならない理由はシンジしかありえない。それは、知っている者にとっては一種の不文律である。
 霧島があんなになるまで飲むのは、アスカの所為かも知れないと思った。
 「相田さん、随分ともてるんですね。綺麗な人、まるでモデルみたい」
 そういって、ヒロコが一気にグラスを空けた。
 そんなに小さな身体でそんな飲み方をしたら壊れてしまいそうだと思い、ケンスケは製する。
 「体に悪いよ」
 「相田さんがもてるんですよ。パツキンが好みなんてひと昔前のオヤジみたい!」
 おかわりを頼んだヒロコは、先ほどのマナよろしく絡み酒になってきていた。
 彼女のペースを把握できなかった自分も人のことは言えないと苦笑しながら、
 「今の人は違うよ。俺の親友の恋人なんだから」
 憶測だけでモノを言うのは大嫌いだが、少なくとも嘘は言っていないという確信だけはあった。最後まで聞けなかったが、あの笑顔の惣流がシンジと会っていないわけがない。そして、口ではどう言おうともシンジがアスカを受けいれないわけがない。二人が幸せでないわけがないのだ。
 「じゃあ、最初の酔っぱらいはなんなんですか」
 「ま、憧れていたのは否定しないけど。玉砕したんだよ。七年も前にね」
 あの時の泣きそうだった霧島の顔を思い出した。
 「かわいそ〜。私が慰めてあげますね」
 ヒロコは、泣き出しながらケンスケの隣に坐って抱きついてきた。
 『絡み上戸の次は泣き上戸かよ』
 レストランとかアルコールっけのない店での待ち合わせにしてほしかったと今になって思う。酒は好きだが、酒に飲まれた輩は苦手だ。それに、ここにこなければ惣流に会ってやきもきする必要もなかったし、なにより霧島に会わずにすんだのではないか。
 「ね、ヒロコちゃん。もう出ようか。送るからさ」
 「まだ早いですよぉ」
 ヒロコは食い下がってきたが、これ以上彼女が乱れてしまったらどういったことになるか解ったものじゃない。今はまだ有名人というほどではないのだが、有名になったときこそ恐ろしいということだ。“下積み時代にこんなことが!”“恋人発覚!?”などという活字が週刊誌の紙面を飾っている様が想像できてしまう。
 「明後日もあるけど、明日もお仕事あるんじゃないの。明後日またつき合ってあげるからさ」
 「本当ですね。上手にできたらご褒美におごってくださいよ」
 ヒロコの絡み具合も極限にまで達する。“酔っぱらいは否定しない方がいい。逆らわない方がいい”というセオリーがあるが、ケンスケもそれに倣った。

 二時間後に、約束どおりにアスカの携帯電話に連絡を入れた。
 指定された喫茶店に行くと、既に彼女は待っていた。酔い覚ましとばかりにソーダを飲んでいる。
 「シンジからは聞いてたけど、プロのカメラマンって大変そうね。さっきも、接待かなんかだったんでしょ」
 「俺があんな可愛い娘とデートって柄でもないって?」
 「まさか。迷惑そうにしてなけりゃ、デートだって思うけど」
 ケンスケは、アスカの洞察力にあらためて舌を巻きつつも苦笑した。注文したココアが来たのでそれを口に運びつつ、改めてアスカの美しさに関心すらしていた。仕事柄、様々なモデルを見てきているが、ことあるごとに惣流と比べていた。『性格は写真には写らんからなぁ』とアスカの方が一ランクも二ランクも上だと思っていたが、それも懐古想念の間違いではなかったようだ。
 「で、シンジとはうまくやってるんだ?」
 「よくもわかったわね。シンジとつき合ってるって」
 とは言いつつも、さして驚いているふうでもなかった。お互いの言葉のやりとりが、半ば決まり事のようになっているということだ。
 「七年前にドイツに帰っちまったお前が日本に居続ければ、シンジとよりを戻したって思えるじゃないか。尤も、こっちはお前たちが切れたなんて思ってなかったけど」
 アスカがドイツに帰ることを、洞木ヒカリも鈴原トウジも綾波レイも渚カヲルも無論、霧島マナもとめたが、ケンスケだけはしなかった。シンジと惣流が物理的な距離を置くことが二人にとってたいしたことではないと当事者の二人いじょうに解っていた。倦怠期を満喫するためのパフォーマンスにすぎない。ガス抜きだとしか思えなかったのだ。ケンスケの予想より二年余分にかかったが、帰ってきた。
 「まぁね。今にして思えば、そうだったのかも」
 「で?」
 「なに?」
 「用事があって、俺を喚んだんじゃないの?」
 「あ。」
 漫才みたいなやりとりに失笑しつつ「結婚することにでもなったのか」と軽口を叩いた。半ば冗談のつもりだったが、
 「そう。再来月ね。で、あんたに予定をあけてほしかったし、マナの住所、知ってるかなって」
 「!」
 アスカの言葉を聞きながら、これで、霧島は永遠に自分のものにはならなくなったと思った。だからといって、シンジと惣流の結婚に異論を唱えられる権利はない。その権利を持っている者がいるとすれば、それは霧島だけだ。霧島を手に入れるために結婚をしないでくれなどと言っていいわけがない。
 「相田?」
 「いや。喜んで披露宴の方には出席させてもらうが、霧島の方は解らないよ」
 知っていても教えたくはなかった。霧島に二人の結婚のことを知られたくはなかった。今日ぐうぜん再会した、それも住所すら知らない女になんでこうも執着できるのか自分でも解らない。とはいえ、なるようにしかならないし自分がどうしたところでいずれ霧島にこのことは届くだろうとも思えた。
 「ヒカリもカヲルの奴も知らないって言うのよ。連絡とれるといいんだけど」
 アスカは本当に困った顔をした。

 アスカと別れて、タクシーを待ちつつケンスケは舌打ちをした。
 霧島にもう一度会いたいが、会えばこのことを話さねばなるまい。その時の彼女の心情を想像できればそれはしたくない。彼女のためではなく、それ以上に自分のために。
 「最低だ」
 ケンスケは、口の中で強く言った。

 「ブラッディーマリーを頼むよ」
 ケンスケは、カウンターで注文をしながら自分がどうしようもなく未練他らしい人間だと思い知らされた。
 『ここに通ってれば、霧島にまた会えるなんてさ』
 そんな保証はどこにもない。むしろ、昨日のようなことがあれば、彼女は二度とここにないということだって考えられた。とはいえ、今の彼女との繋がりはここしかないわけで、そう思ってしまえることで自分の諦めの悪さに自嘲するのだ。
 が、思惑どおりというか思惑と外れてというべきか、霧島マナは現れた。
 「霧島」
 隣の席に着いたのが霧島マナと解って、ケンスケは内心あわてた。
 「昨日のこと、謝らなきゃって思ってさ」
 「あ、ああ」
 「昨日の娘は、お仕事の部下か何か」
 「あ、いや。俺、今カメラマンでさ。今度、明日の仕事のモデルさんなんだよ」
 「あ、そう」
 会話なんか続くわけがない。
 それはマナの側からだって同じである。たぶん、ここに来たことを後悔しているのではなかろうか。
 「シンジが結婚することになったって聞いたか?」
 「あ。アスカ、帰ってきたんだ」
 「昨日、霧島が引き上げたのとすれ違いにさ、惣流がここに来たんだよ」
 「あの二人なら、ね」
 シンジの結婚相手は惣流である。そういった認識は、あの時の近場にいた連中であれば誰一人として疑う者がいない。もう、苦笑する気すら失せてしまうほどのことだ。
 ただ、あの二人が結婚する話など霧島の前でしたくはなかった。とはいえ、隠し通せる自身があったわけでもないから言うしかない。霧島が悲しむ顔などは見たくない。彼女の為じゃない。霧島が、シンジのために悲しむのがいやなのだ。尤も、霧島とシンジは四年も顔を合わせていない。その間にさめてしまうことも考えられはするのだが、何故かそうでないと解る。霧島の気持ちは、今だってシンジのところにある。
 「大丈夫か」
 「なんで? まだ、二口くらいしか飲んでないよ」
 マナは、ケンスケの言わんとすることが解っていたが、とぼけてみせる。未だにシンジへの気持ちを振り切れていないということが恥ずかしいと思いはしない。ただ、相田ケンスケだからそうしなくてはいけないと思うのだ。彼は、好きだと言ってくれた人だ。今はともかく、大事に思ってくれていた人だ。心配はかけたくないと思う。
 「再来月だそうだ。シンジん家の電話番号教えとくから、明日にでも連絡するといいよ。二人とも、霧島には出席してほしそうだったから」
 「うん。そうする」
 「霧島は、今なにやってんだ」
 「人類進化研究所で、コンピュータの研究をしてるわ」
 「そりゃあまた難しいことを。学者先生ですな」
 「実質、旧ネルフの連中におさえられちゃってるわよ。政府機関っていったって、仲悪いって話だし。私は、直属の上司がいい人だからまだいいんだけど」
 ケンスケの心遣いが嬉しかった。それだけに、今の彼の気持ちはともかく近くにいてはいけないのだと思う。いつか、彼を傷つけることになるはずだ。

 ケンスケの飲むペースが速いから心配になってきていた。明日も仕事があるっていうんならほどほどにしておかないといけないのではないか。と思ったがその時には既に遅かった。完全に酔いつぶれ、突っ伏してしまった。
 どれだけ揺さぶっても起きないので、「タクシー喚んでもらえますか?」と、ウェイターに頼むとケンスケに肩を貸して、店から出た。よほどシンジとアスカの結婚がショックだったのだろうかと思う。それとも、職場の方で何かイヤなことでもあったのだろうか。
 あの二人の結婚を知って落ち込むはずだった自分が思いのほか落ち込まなかったことに驚いていた。ケンスケの酒を飲むペースのことが心配になってしまって、それどころでもなかったのだろうと思う。
 タクシーが来た。
 「ケンスケ。あんたん家ってどこよ。送ってってあげるからさ!」
 声を張り上げるが、マナの肩でデレンとしてしまってケンスケは目覚めそうになかった。うーうーと唸って、苦しそうである。急性アルコール中毒ではないだろうなと心配にもなった。
 「ほら。どこに行けばいいのよ」
 ケンスケを後部座席に押し込んで自分もその横に坐る。
 「……」
 「どこだって?」
 ケンスケの口元が動いたようだったから、住所を言っているのだろうと思って耳を近づける。
 「……霧島。なんで……俺じゃダメなんだ……」
 「ケンスケ」
 ケンスケの呟きは、マナには意外なものだった。彼が、こんなになるまで飲みたかった理由が解った。
 「お客さん?」 
 「深志に行ってもらえます?」

 いい匂いがすると思った。
 頭が痛いのは夕べ飲みすぎた所為だろう。
 今日の撮影は昼からだから九時にスタジオに着けばいいが、今は何時だと思って時計を探す。
 そのだんになって、どうもいつもと様子が違うと解った。
 『?』
 布団からいい匂いがするが、これは女の体臭じゃないのだろうか?
 それに、食べ物のいい香りもする。
 これは、
 「みそ汁か?」
 ケンスケは、あわてて起きた。
 女の匂いはともかく、みそ汁の匂いがするわけはない。ケンスケは、この部屋で自炊をしたためしなど無いのだ。
 「あ。おはよう。いつ起こしたらいいのか解らなかったんだけど……」
 「霧島」
 ケンスケが眠っていたのはベッドだ。ワンルーム十二畳ほどのアパートだから、台所で朝食の用意をしている霧島のエプロンが見えた。
 「ここ、深志なんだけど。この辺りバスしかないわよ?」
 「あ、うん」
 こちらは、事態が飲み込めないで半ばパニックになっているのに、霧島はまるで総てを意に介さない仕草で話しかけてきた。だから、きっと落ち着いていればいいのだろうと、妙な安心の仕方をしていた。
 「あ、ゆうべ大変だったのよ。すっごい酔っぱらっちゃって。ケンスケん家わからなかったからつれて来ちゃったけど?」
 「すまない。世話になった」
 ケンスケは、まだ重い頭を無理矢理持ち上げて立ち上がる。と、マナが気をきかせて水を持ってきた。二日酔いに効くといって、錠剤も手渡す。
 カッターの胸元のボタンは二つほど外されていたが、昨日の晩のままのなりだった。
 「今日、撮影だって言ってたわよね。どこで、何時からだって?」
 「九時に浅間のスタジオに入りたいんだけど、ここからどれくらいかかるかな」
 「荷物は取りに戻らなくてもいいんだっけ。部屋」
 「下着は、コンビニで買ってくるよ。シャワーだけ貸してくれないかな」
 「バスのつなぎが良ければ三十分くらいね。まだ余裕あるじゃない。シャワーは、いつでも使えるわよ」

 ケンスケは、カッターのボタンを留め直すととりあえず下着を買いに行くことにした。
 ついでにマヨネーズを買ってきてくれるように言われた。
 外に出たケンスケは、夕べからのことを整理しようと思った。
 シンジと惣流の結婚の話をしたあたりから、飲むペースがあがったのだ。そしてそのあたりから記憶が薄れているのではないだろうか。霧島とのまがもたないから、それを誤魔化すために飲まずにはいられなかった、という最低の飲み方をしたのだということまでは思い出せた。
 霧島がいうには、それからタクシーで送ってもらうはずが完全に正体をなくしてしまったために彼女のアパートに泊めてもらうことになったということだ。好きになった女に再会して、さっそく格好悪いところを見られるというのは自分らしいと思う。こういったところをトウジのように格好良く決められないから自分はいつまでたっても三枚目なのだ。
 こんな自分を介抱してくれたばかりか、自分の部屋に泊めてくれた霧島に感謝せずにはいられない。まして、一度ふった男だ。そこが彼女の優しさであるし、自分が惚れて未だに忘れられないところなんだろうとは解る。
 『ふられた女に甘えられるんなら』
 自分を笑ってもみる。
 こうやって泊めてくれたのであれば、みゃくがあるのではないかと考えられるほど若くもない。そう考えられれば幸せなんだろうとは思うが、既に霧島のリアクションに対しては冷めきっているところもあった。
 「どうして俺じゃダメなんだ」
 裏腹に、ケンスケは口の中でそう言っていた。

 買い物を済めせて帰ると、マナは朝食の準備を整えて待っていた。
 「霧島」
 「さ、そろそろ急がないと時間なくなっちゃうよ」
 こういった何気ない優しさが、男にいらぬ期待をもたせるのだ。嫌悪感を抱かせない不思議な苛立ちに、ケンスケは返事ができないでいた。
 「あ、うまい」
 みそ汁を飲んでケンスケの第一声である。
 「失礼ね。いかにも意外って言いよう」
 「だって、苦手だって言ってたから」
 「七年も前の話を持ち出してなに言ってんだか。とは言っても、真剣に作り出したのはここ二〜三年なんだけどね」
 マナは、そういってぺろりと舌を出した。
 「霧島は、何時に出掛けりゃいいんだ?」
 「あ、今日は有給もらっちゃった。急だったから先輩には怒られたけど」
 「俺の所為だったら、」
 「そうじゃないよ。とは言っても、ケンスケの仕事場を覗きたいからっていうことなんだけど。ダメ?」
 マナは、掌をあわせた。
 ケンスケとしては、一食一泊の恩義があれば断りにくいことは確かである。とはいえ、断る必要もない。自分の関係者か身内だとでも言えば、一人くらいは入れることもできる。
 一見華やかな世界だし、芸能人がいるともなれば興味もわくんだろうなと思った。これを見越して泊めてくれたのだろうと思えば納得のいくこともあった。
 目が冴えてくるのに比例してケンスケの思考はどんどん冷めていっていた。

 九時にスタジオ入りをしなくてはならないのは、夕べにやり残してしまったセッティングをやらなくてはならないわけで、撮影そのものは正午からだった。
 「相田さん、おはようございます。よろしくお願いします」
 三十分前、越智ヒロコがスタジオ入りをした。
 「よろしく。がんばってね」

 ケンスケとヒロコの簡単なやりとりを、マナはスタッフの邪魔にならないようにスタジオの隅で見ていた。
 やっぱり、芸能業界にいるような娘だから可愛いなと思う。自分が、サーキットの設計図の線を一本引っ張るあいだに、あの娘は美貌のことを考えているのだから当然なんだとも思う。そして、女としては不公平だと思えた。

 一度スタジオから退いたヒロコが次に現れたときは、白いワンピースの水着を纏っていた。
 『うわ。着やせするタイプなんだ』
 マナは、思わず息をのんだ。
 自分よりも年下にも関わらず、カップは二つくらいは上だろうと思えた。そのくせ、ウエストは同じくらいなのではないか。そして、なんと言ったって歩き方が違うとわかる。
 「照明の最終チェック! ブルースクリーンのCG合成だからって腐るなよ!」
 ケンスケは、スタッフ一同を叱咤した。どうやら、ディレクターでもあるようだ。
 撮影が開始された。
 砂浜とモデルの表側に回ってくるものはセットが用意されているが、背景はブルースクリーンである。あとで、このスクリーンの部分に南国の海岸の風景をはめ込んで一枚の作品となるようであった。実際にロケーションを組むよりは数段安価ですますことのできる方法であるし、逆にリアルであるという。
 メイク担当が霧吹きで海水を演出する。
 南国の貸与宇佐ながらの照明が、モデルの越智ヒロコに浴びせられた。
 ケンスケは、一眼レフカメラのファインダー越しに越智ヒロコを見つめてゆく。
 静かな空間に、ケンスケの指示とシャッター音だけが響く。
 現場の雰囲気になれないマナには息の詰まるような雰囲気だった。
 そんな仲でも、ヒロコの表情にぎこちなさはない。
 “女は化ける”
 自分もその女ではあるが、マナはヒロコの挙動のひとつひとつに舌を巻いていた。


 見慣れない撮影現場の雰囲気にのまれるばかりだったマナだが、二時間後に挟まった休憩時間にヒロコが自分と同じ女なのだということに気付いてしまった。
 「酔っぱらいさん。相田さんの迷惑になるって気付けないでこんなところまで来たんだ?」
 「なっ」
 越智ヒロコがマナなに話しかけてきた。
 挑発的だ。
 「相田さんは優しいから許してくれたんだろうけど、部外者って困るんじゃない」
 マナに耳打ちをする。
 一昨日の晩にうすうす気付いたことではあるが、この娘はケンスケに好意を抱いているんだと解った。その思い人が見知らぬ女を引き連れてくれば、女として敵視するのは当然のことである。
 年上の異性に憧れるのは少なからず誰にだってあること、とかそういったレベルのことなのかどうかわかりはしないが、好きにすればいいと思う。自分は、七年も前にケンスケをふっているのだ。今さら争奪戦に参加する権利を持ってはいない。
 「そうね。次回からは来ないわよ」
 マナは憮然と言って、腕組みをしつつ壁にもたれた。
 カメラワークの打ち合わせをしているらしいケンスケの背中を見つめた。

 撮影は再開され、ヒロコはパーカーを羽織っての登場である。水着は黒のビキニタイプになっていた。さしてきわどいデザインのものではないが、自分だったら着る勇気がないと思う。
 ケンスケは、手早く、しかし丁寧にシャッターを切ってゆく。
 ファインダーを覗くその眼差しは、中学生の時に初めて出会ったときのものと同じだと思えた。アスカや綾波レイの写真を生徒たちに売って小遣い稼ぎをしていたケンスケ。どれだけ頼まれても、自分の写真だけは販売対象にしないどころか撮影しなかったという。「霧島を、誰にも渡したくなかったんだ!」なんて、言っていた。
 「相田、ケンスケ……」
 その時と同じ眼差しであのモデルを見つめている?
 私を好きだと言ってくれたときと同じ眼差しで他の女を見ている!
 この撮影は、それどころか、ケンスケがこの仕事をはじめてから私は彼の中で蔑ろにされてきたのではないか。それは、女として由々しいことだ。
 理不尽な憤りだと解っていても、それを抑えることなどできなかった。

 ケンスケは、久しぶりに満足のいく仕事ができそうな気がしていた。スタッフとのミーティングがしっかりできていたこともある。モデルのヒロコが、予想以上に演技がうまいということもあるだろう。が、きっとそれ以上に霧島が見ているからではなかろうかと思いはじめていた。
 「次、もう一度立ち上がってくれるかな。砂は払わないで……」
 ケンスケの指示どおりにファインダーの中でヒロコが立ち上がった刹那、予想外のことが起こった。
 立ち上がったばかりのヒロコを、マナが押しのけたのだ。
 「!」
 「?」
 バランスを崩してしりもちをつくヒロコ。
 マナはそれを見おろして、
 「あんたみたいじゃ、ケンが困るのよ!」
 「霧島」
 「どういうつもりで!」
 ヒロコは、マナにくってかかった。
 総てのスタッフが、未だかつて無くそして予期せぬ事態に対処しきれず呆然としている。
 その中、
 「二人ともやめるんだ!」
 ケンスケが声を張り上げる。
 しかし、二人の掴みあいのケンカは収まらなかった。
 「相田さん。この女、どうにかしてください!」
 「ケンは、本当は私の写真を撮りたいのよね」
 予想できなかったこととはいえ、ケンスケは、霧島をここに連れてきたことを後悔した。自分にいい刺激を与えるためとはいえ、他のスタッフに迷惑をかけることになってしまったのだ。
 ケンスケはいがみ合う二人にツカツカと歩み寄り、
 マナにびんたをした。
 「ケンスケ」
 マナは大きな目を見開き、まるで信じられないモノにでも接するようにケンスケを見た。
 「迷惑をかけないって約束はしてないけど、部外者ってことならわかるだろ!」
 「大事な仕事場なのに、邪魔しないでよ」
 ヒロコは、ケンスケにしがみ付くように腕を組んだ。敵意をむき出しで睨みつけてくる。
 マナは、涙が込み上げてきそうになって振り返った。
 「なにさ。……最低!」
 マナは、小学生のようにヒステリックになって駆けだしていってしまった。
 ケンスケは、スタイリストに掌を会わせ無言で懇願した。
 ショートカットの女性スタイリストは、ケンスケの言わんことを察したらしく含み笑いをした後にマナを追いかけていってくれた。
 「失礼しちゃうわ」
 ヒロコは、憤慨しているというよりも勝ち誇ったように言った。
 「君もそうだ」
 「え?」
 「メイクが崩れるってわかりきっているようなこと、何でできるんだ」
 「あ。すみません」
 ケンスケも怒り心頭である。
 ヒロコもしゅんとしてしまった。

 ケンスケは、メイクスタッフに着衣のメーキングも頼む。自分が行かせてしまったスタイリストの代わりだ。
 そして、撮影を再開した。
 『自分の欲求だけでスタッフを動かせるなら、カメラマン失格だ』
 それでもケンスケは、霧島のところへスタイリストに行ってもらったことに後悔はしていなかった。
 だから、
 「最低だな」
 ケンスケは舌打ちをしていた。

 マナは、さっきまで撮影をしていたスタジオに一人だけ戻ってきていた。
 わずかな、撮影とは無関係な照明が生きているだけで、薄暗かった。
 マナの闖入いがいは大したトラブルもなく片付いたようである。今、この建物の一室でささやかな打ち上げをしているらしかった。
 あんなことをしなければその輪の中にいられたのだろうが、今となってはさすがにその席にいられるほどマナの度胸はすわっていなかった。
 マナにだってケンスケが困ることくらい解っていた。それでも、ああせずにはいられなかった。ああしなければ、自分は女として失格だとすら思えた。いや、今だって思っている。後悔は、ない。

 「お嬢さん。フィルム一本、三十六枚撮りを残しておいたんだ。モデルになってくれないでしょうか」
 「ケンスケ」
 「このスタジオ、うちの会社のだから使用期限ってないんだよ。ゆっくりできるからさ。明日は、休日だろ?」
 マナは、ケンスケの声を聞いてまた泣きたくなってしまった。
 必死でこらえながら振り返る。
 「だって、私あんな可愛い服来てないのに」
 「その分、中身が可愛いだろ?」
 「モデル料は、口座に振り込めないものかも知れないわよ」
 「中学生の時、霧島を撮らなかったことを後悔してたんだ。もっと、俺の女だって言えばよかったって」
 「調子いいんだから」
 ケンスケは、マナの掌をとるとブルースクリーンの前にまで導いた。マナの笑顔を見て、これ以上のメイクは不必要だと思った。
 「ブルースクリーンのCGだからってへこむなよっ!」
 高らかに叫んで、ケンスケはシャッターを切った。
 マナは、今までで一番素敵な笑顔をしようと思った。

 「マナ、起きな」
 「?ん」
 朝日が窓から差し込みはじめた早朝。
 ケンスケに揺り起こされ、マナが目覚めると直後にシャッターが切られた。
 「っしゃ!」
 「あ、寝起き撮るなんて!」
 マナは布団を頭までかぶった。

 四年後、二人はマンションを購入していた。二人で生活するのにも充分すぎる広さを持ったものだった。
 マナは、人類進化研究所をやめて、モデルの仕事を細々と続けている。とはいえ、それで生活できるほどのものではない。単純にケンスケに近い業界にいたかったからだということである。離れていた七年間のブランクを取り戻したいというのが本音だった。

 「引越祝いに撮ったっていいじゃないか」
 「寝起き撮るなんて信じられない」
 「本当の霧島を撮りたいんじゃないか」
 マナは、布団から目だけを出して伺うようにする。
 「本当の?」
 「四年前に一度撮ったきりじゃないか。誰かにメイクされて、スタイル決められて。そんなの、プロになら誰だって撮れるんだからさ」
 絆されるように、マナはベッドの上で膝を抱えた。ケンスケは新しくおろした真っ白なシーツを投げつけると頭からかぶって身体を覆うように言った。最初はそのつもりだった。が、薄暗い中で見るのとはわけが違って、白磁のような肌を明るいところで見たら照れてしまって、仕方なかったのだ。
 「こう?」
 ファインダーを覗き、伺うような目つきのマナにさらなる指示をくだす。
 「もっと顔を見られるようにさ。でももっとシーツをおろさないと霧島の大事なところが見えちゃうよ」
 「さ、さいて〜」
 マナは一瞬顔を紅くした後、大きく相好を崩した。



 あとがき

 たぶん、霧島マナと相田ケンスケで書いた人は少ないでしょう。いくらかのWeb Pageを確認させていもらいましたが、なかったような気がします。エヴァンゲリオンはたぶんネット上でいちばん二次創作が多いので全部確認しきれないんですよぅ。
 まあ珍しいキャラクターを使ったからと言って自慢にはなりませんけど。
 二次創作の魅力は、自分で生み出すことのできないキャラクターを演出できることにあるのですけども、マナはともかくケンスケはオリジナルキャラクターになったしまったような気がしてちょっと反省ですね。かねてから、二次創作は脇役を主役にした方が描きやすいと思っていたのですが、エヴァンゲリオンは例外でしたね。アスカやシンジを使った方が書きやすいです。
 マナやケンスケの性分から考えると、ラブラブというわけにはいきませんでしたが、いかがだったでしょうか?


 hikaruさんより投稿作品をいただきました〜。

 これは‥‥マナとケンスケの心の旅路なのですか。
 うむ‥‥異色の作品ですね。

 いえ、組み合わせのことではなく、ケンスケが、変態でないケンスケがきちんと動機と内面をもって描写されているという点が素晴らしいと思うのですよ。

 私は実はこういうケンスケが好みで‥‥オリジナルになったとおっしゃいますが、これはhikaruさんの洞察力がケンスケの隠された姿、本編から導き出される可能性を描いたのだと思えてなりません〜♪

 素晴らしい作品でありました。みなさんもhikaruさんに感想メールをじゃんじゃんお願いします〜。

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