『happiness2』-不公平-
written by hikaru
日曜日の朝、
アスカは、いつものように夫のシンジよりも早く目覚めた。
隣で寝息を立てているシンジは、丸くうずくまるようにしていた。
眠っていると、どんどん小さくなっていくタイプで、大の字にどんどん大きくなっていくアスカとはまるで正反対だった。
『倦怠期ってわけではないって判るんだけどな』
最近、シンジの寝顔になんだか釈然としないモノを感じていた。
結婚したばかりのころのような幸福感がどこか薄いような気がする。というよりも、自分は本当の幸せを享受していないのではないかと漠然と思っていた。高校生教師の夫の給料は決して多い方ではないが、お金に困っているわけでもなかった。一姫二太郎で、子供は二人いる。そして強く優しい夫。
自分が不幸であるはずなどないのに、この不安のようなものは何だろうと思う。
今の自分の環境を不幸であると言ってしまったら、誰もがわがままだとか欲張りだと言うであろう。だがそうではない。この状態であるからこそ受け止めることのできるはずの幸せがないと心のどこかが渇望している。受けられて当然の幸せを受け止めていないのだと、本能的に察知していた。ただその正体が解らず、アスカはひとり首を傾げたが、日曜日でも朝食の準備は必要だとベッドから降りた。
*
今日は、トウジやケンスケ、カヲルとの約束があるが、シンジはゆっくりと起きてきた。今日唯一の用事が正午ころからだからゆっくりできるのだ。とはいえ、まだ朝の八時になったばかりである。
テーブルにつき、今日も美しい妻、アスカの作ってくれたみそ汁を一口飲む。いつもの彼女ならゆっくり起きてきたことに不満をならすが、今日はそれもない。そういえば、起こしにもこなかったなと思っていると、アスカは向かい合う席に着き、頬杖をついた。
二児の母である。
長女は六歳、
長男は三歳、
彼女自身は二十九歳。
まだシワの現れる年齢ではないが、それでも、シミのもひとつもできてきてもよさそうなものなのにそれがない。二人も子供を産めば体形だって少しくらいは崩れても不思議ではないが、結婚した頃よりもグラマーなイメージにこそなったが、崩れたというわけではなかった。
アスカは、サファイアカラーの瞳でじっと見つめてくる。
『結婚して六年なのに』
未だにアスカを見ていると動悸が激しくなってしまう自分に失笑しかけてしまう。彼女の方はというと、自分に対してそうでもなさそうだから、なんだか不公平なような気がした。
向かいの席のアスカがなにか言いたげだったので、シンジは小首を傾げて催促した。アスカは、シンジが朝食で一段落つけるのを待っていてくれたのである。
アスカは頬杖をとくと、背筋をまっすぐに伸ばした。
「今までってね、なんだか不公平だって思うのよ」
ああ、思ったよりも遅かったが、そろそろ言い出す頃だったのだとシンジは思った。アスカは、家庭ではなく社会で仕事をしたいのだと思う。それもいいかなと思う。下の子は三歳になったのだ。まだまだ手は掛かるとはいえ、自分でも世話はできるのではないかなと思った。教師の仕事に未練がないといえばそれはウソになるが、アスカとて、ドイツの商社ではやり手の営業マンだったらしいのだ。社会で仕事をすることが恋しいのだろう。今年度いっぱいは担任を持っているから仕事をやめられないが、来年度から家庭に入ろうかなと思う。ひょっとしたら、公務員の自分よりも高給取りになって経済的に余裕ができてくるかも知れないとも思った。
「何やるか、母さんのなかで決まってるの?」
シンジは、お茶を飲み始めた。
「え?」
アスカのほうこそ疑問の眼差しを向けてきた。どうやら、彼女の言いたい“不公平”は仕事のことではないらしい。だったらいったい何が不公平で不満なのかシンジには思い当たるふしがなかった。
「外で仕事したいって言うのかと思ってたけど?」
「私が家事担当でなんで不公平なのよ。そんな事じゃなくって、」
「?」
アスカは、いっしゅん言いよどむも、
「あなたって、私に“愛してる”って言ってくれたことある?」
一気に言い切った。
「!」
シンジはお茶を吹き出すのをかろうじて堪えたが、激しく咳き込んでしまった。
そういえば、そういった言葉は一度も言ったことがないような気がしてきた。
オーバーザレインボゥで初めて出会った時にそんなことを言うはずこそないが、サードインパクト後も、いちど別れてから再会をした時も、あまつさえプロポーズをした時にもそんなことを言ったことはなかったような気がする。私生活で彼女からそう言われても、「僕も」とか「同じく」とか結婚をする前も後もそんな色気のない返事をしていたことに改めて気付かされた。
どうやら、彼女は気になっていたようだ。
アスカは顔を真っ赤にしてはいたが、くちもとを拭くようにタオルをさしだす。
「ね。いっつも私から一方的に言うばっかじゃ不公平でしょ。今日は、あなたから言ってよ」
恋する少女よろしく瞳をきらきら輝かせ、それからこぼれんばかりに微笑んだ。さあいつでもきなさいとばかりに待ちかまえているようである。こんなことを言える自分自身が恥ずかしいらしく、一気にまくし立てているというふうでもある。
しかし、冗談ではない。シンジの方にはそんな覚悟はなかった。そういった言葉はその場の雰囲気で勢いに任せて言うモノだ。さあ言って、といわれて言えるモノではない。結婚して六年。今更、どの面さげてそう言えばいいものか解らなかった。だいたいアスカだっていけないのだと思う。自分だって、昔は自分から言おうとしたことは何度もあったのだ。でも、その度に彼女に先手を打たれてしまうのである。だからどうしたって「僕もだよ」としか言えなかったのだ。
とはいえ、その場の雰囲気で勢いに任せて一度も言えなかった男が何を言ってもむなしい言い訳でしかないだろう。
「お母さん。今更ねぇ」
「愛美は友達のところに遊びに行ったし、隆はまだ眠ってるし。ね。だから」
今日にかぎってアスカがおこしに来なかったのは娘が遊びに出掛けるのを待っていたということだろう。したたかというか、計画的というか……。それでも、子供の前でいちゃつくのにそろそろ抵抗を感じるようにはなってきているということか。
「ほら、今日はレイのところでバーベキューするんなら、急がなくていいの?」
「あなた!」
シンジはタオルを背もたれにかけてから、すごすごと自室に引き上げようとした。
アスカがこの世の終わりのような悲鳴をあげるが、シンジは無視を決め込んだ。*
今日、休日を利用して、シンジは旧友のケンスケとトウジ、カヲルを自宅に喚んでスキヤキパーティーをしていた。アスカもそれに参加させろと主張したが「女は邪魔」のひとことで却下されてしまった。それではという対抗意識で、その妻たちも集まってバーベキューということになったのである。
「ひどいと思わない?」
「なにが?」
旧友のヒカリに同意を求めたのに、逆に訊きかえされてアスカは言葉を失いかけた。
鈴原トウジと結婚して、現在一児の母になった彼女は、アスカの旧友の中で一番の“お母さん”であった。
出産後はいちじ看護婦をやめていたが、子供にてがからなくなってきた今年から復帰している。
「だって、何かお金のかかるモノをくれって言ってるわけじゃないんだから、それくらい言ってくれてもいいって思わない?」
「ハイハイ。準備しなくちゃいけないじゃないの。言い出しっぺはアスカなんだから、ちゃんとしてよね」
アスカは、ヒカリから納得のいくリアクションが引き出せなかったのでふくれっ面をした。
ヒカリとしては、アスカの惚気話を聞くことに飽きていた。結婚する前だって何度となく聞かされているが、結婚してからまで聞かされるはめになるとは思ってもみなかったのである。言葉を選ばなければ、うんざりしているのである。「義姉さん手伝ってよ。ヒカリさんにお願いした準備をじゃましないで」
庭でバーベキュー用のコンロを引き出そうとしながら、レイがアスカを喚んだ。
「ねえ聞いてよ、レイ。あの人ったらひどいのよ」
アスカは、庭に飛び出しながらレイに泣きついてみせた。
養子縁組でシンジを兄として迎えたレイは、その同居生活の中で、表所や挙動に抑揚があらわれるようになっていた。その後、渚カヲルと結婚してさらにそれが加速していた。当然、アスカのことは義姉さんと呼ぶ。彼女もまた一児の母親となっていた。出産を終えてもマタニティードレスを着ている。よほどその姿が気に入っているに違いなかった。
レイもまた、義姉のこれにはうんざりしていた。レイとカヲルの結婚の方が若干遅かったのだが、そのタイムラグの間は当然同居していた。その間にどれだけ惚気られたことか。問題は、義姉自身に惚気ているという自覚がないということなのである。その自覚さえあれば注意をすることもできるのだが、自覚がないのだからしようがない。
「義姉さん。後で聞いてあげるから」
レイは、それでもこのバーベキューを楽しみにしていたのだ。何も言い出しっぺのアスカに邪魔されることはない。適当に受け流そうとする。
アスカは、レイの態度が不満だったが、取り合ってくれそうになかったのでこの場は素直に準備をしようとした。
アスカはここでも無視を決めつけられて不満であったが、確かにバーベキューの用意はしなくてはなるまいと愚痴を言うのは後回しにすることにした。「遅くなってゴメ〜ン。お肉値切るのに時間かかっちゃって」
マナが現れた。
相田ケンスケ夫人にして、現在妊娠八ヶ月である。
身重の体をよいしょよいしょと現れた。
「あ、マナァ!」
あらたに愚痴を聞いてくれそうな相手が現れたので、アスカはレイと二人で抱えていたコンロをから離れた。レイは、バランスを崩してもんどりうつ。アスカの背中に抗議するが、聞いていないようだった。
マナは、アスカの声を聞いてイヤな予感がした。このパターンは毎度の事なのである。
マナもまた、無視を決め込んでこの場を仕切ってくれているであろうヒカリのところに向かった方がよさそうだと直感していた。どのみち食材の下準備をしているのは台所のヒカリであろう。
が、あっけなく捕まってしまう。身重では、思うように逃げられない。
「アスカ、またシンちゃんがどうかしたの?」
どうせまた、第三者から見ればどうでもいいようなことで腹を立てているに違いない。愚痴を言いたくてしようがないというのは、一般語に訳せば“惚気たい”に違いないのである。
「あの人ったら、ひどいのよ。そりゃあ、結婚して今まで気づかなかった私だって間抜けなんだけど、それとこれとは話が別だって、あんたも思うわよね」
ヒカリのところに手伝いにいかなくちゃと言いって何とか難を逃れたが、結局一部を聞かされることとなる。
『何だ。やっぱり惚気てるだけじゃないの』
マナは、その言葉を難なく飲み込んだ。それを言ったところでアスカが今後変わってくれるとはもう思えなかったし、言えば言ったで口げんかになるだろうと解るのだ。
こうなるといつも思うのだが、シンジはアスカの気をひこうとして意地悪をしているのではないだろうかと思えてしかたがない。小学生の“好きな娘にいたずらをする”とまったく同義である。
『昔、憧れていたからとはいえ』
そんな小学生の恋愛沙汰につき合わされてたまるものか、と、マナもまた適当に受け流しておくことにした。
マナにすら取り付きようがなくては、アスカとしてはレイの手伝いに戻るしかない。しぶしぶと引き下がった。*
綾波邸では、既に面々が顔を揃え、四人ともテーブルについていた。
「たまにはかみさんのことを忘れて男どうしで鍋を囲むのもいいモンやなぁ」
「トウジの場合は、いつだって奥さんいないじゃないか。今だって、営業先から直行してきたんだろ。格好見ればわかるよ」
背広を脱いだトウジの横でケンスケが混ぜっ返した。
「なんやとぅ。自分こそ、二週間くらい家に帰っとらんかったらしいやないか。べっぴんのかみさん泣くで」
「まあまあ、お酒が入る前からそんなにならなくったって。いいの用意できてるけどね」
シンジは二人の調停に酒を持ち出した。
「日本酒。“桜吹雪”だね。久しくカンヅメ状態で飲んでなかったよ。今日に間に合わせたかったからね」
カヲルは一升瓶を見て目を輝かせた。とはいえ、憔悴しきっていて、一口でも飲んだら眠ってしまいそうな雰囲気であった。
「それぞれで会うことはあるけど、こうやって一同に集まるのは本当にひさしぶりだなあ」
ケンスケの感慨に、
「ケンスケが結婚式すればそん時にでも集まったんだろうけど」
シンジが皮肉でかえした。霧島マナとつき合っていたことはここの誰もが知っていたが、知らないあいだに入籍していたことをねに持っているのである。
「だから、電話でだけどそのことなら謝ったじゃないか。タイミングを逸しちゃってさ。ゆるしてくれよ」こんな感じで緊急報告が進んでゆく。
ケンスケは、今度、写真展をやることになった。
トウジの会社は、この春、ゲームの新筐体の販売を開始するらしい。
カヲルは、小説の仕事が完全に軌道に乗り、望みの在宅勤務を成功させている。
シンジは、今年初めて三年生の担任を任されて奮闘していた。「でも、一番かみさんを大事にしてないのはシンジやろうなぁ」
話の流れで、お互いの配偶者の話になってきた。トウジは、シンジが一番恐妻家で、そのくせ一番蔑ろにしていると指摘したのである。
「なに言ってんだよ。そりゃあ、在宅勤務を実現したカヲル君にはかなわないけど、トウジだって、不定期にしか休暇がないって聞いてるし、ケンスケだって、何週間も家を空けたりしてるんじゃないか」
シンジとしてはそれが納得できるわけがなかった。特に“恐妻家”と言われたことには大いに気分を害したようだった。
「それは問題じゃないね。問題は、いかに自分の伴侶を納得させるかってことさ」
ケンスケは、わざわざインテリっぽい仕草で眼鏡のすわりをなおした。
「そういうことなら、シンジ君は不利だねぇ」
カヲルも、納得したとばかりに掌を叩いた。
ようは、その状況をそれぞれの妻が納得しているかいなかということだというのである。たしかに、あのアスカを納得させるようなことは容易ではなさそうだ。どうやったって、次から次へと要求があがっていきそうである。
「なんなのさ。僕は、いたって普通に亭主をやってるよ」
「だから、普通にやってて納得するようなかみさんに見えないやないかい」
トウジは、シンジの言い分は見当違いだと顔の前で掌を振ってみせた。
シンジは、まだ納得していないような表情であったが、何を言ったって論破できないだろうと判断したのか全員に席に着くように言った。このまま晒し者にされるよりも早くスキヤキパーティーを始めた方がよさそうだということだ。
シンジを一番攻撃していたトウジはいの一番に席について、さっさと箸を持った。
ゲンキンなものである。少し酒が入ってきたところで、まるでシンジが意を決したように話を切りだした。
「せっかくだしさ、ゲームしようよ。妻帯者らしい罰ゲームも思いついたんだ」*
一方、渚邸の庭ではバーベキューは始まっていた。
コンロを囲い、テーブルを脇に据えての立食パーティーである。「レイはいいわよね。いっつもダンナと一緒にいられるから。子供を幼稚園に連れて行っちゃえば二人っきりだもんね」
アスカは、牛肉をひとつ飲み下してからレイを羨ましがった。舞台演出の仕事で日本全国を飛び回っていたカヲルは、結婚を期に在宅勤務に切り替える為に必死になって小説家の仕事を手に入れたのである。それまでにも、雑誌にコラムをだすようなことはやっていたが、その道のりはなかなか大変なようだった。現在は、今日のようにお互いに別の用事でもなければ年中一緒にいられる環境である。アスカは、昼間のシンジの顔を一週間に二度しか見られないのが淋しかった。
「そうでもないわよ。子供ができちゃうと、男って父親になって子煩悩になって、女のことなんかかまってくれなくなるんだから。義姉さんのところなんか、まだ恋人同士みたいで逆にうらやましいわ」
「そうよ。私がお願いしても、あの人なんか休みをとってくれたことなんてないのに、今日の用事には、半日でも休みをつくったのよ。男なんて、そんなモンよ。スキヤキなんてたいして珍しくもないのに」
ヒカリも口をとがらせた。ゲーム会社を興したトウジは、今でも忙しい状態である。とれる休みも定期的ではなく、一緒に遊びに行く計画をたてられたためしなどほとんどない。そんな中でも、息子へのフォローはしっかりしているのか、彼は「お父さんが一番好き」なのである。妻としても母親としても少し得心がいかなかった。
「子供が生まれてなくたってそうよ。っていうか、結婚する前からそうだもん。鉄砲玉っていうの? 二週間帰らないなんてちょくちょくあったんだから。それが、妊娠したとたん家に居着くようになっちゃってさ」
マナまでが愚痴を言いはじめた。風景写真家のケンスケは、撮影旅行で家を空けることがしばしばだった。同棲生活を始めて直後からそんなものである。撮影旅行にこそ連れて行ってもらったこともあるが、それ以外にたいした思い出があるわけでもなかった。
ようは、三人が三人とも、夫婦ということではアスカが一番幸せなのだと言いたいのである。
同情してくれるものと思っていたアスカは、まるで出端をくじかれるかたちとなってしまった。
もちろん、三人とも自分が不幸だなんて思ってはいない。ただ、このアスカの毎度のふるまいに対応することに慣れてきているだけだ。それに、少なくともアスカは決して不幸ではない。
「うちのお父さんは、子供を普通に大事にするだけでいいの。私がそのぶん大事にするんだから。子供だってそうよ。お父さんのことは私が一番大事にするんだから」
アスカの独占欲は、今も昔も変わらない。子供も、夫も自分だけもの。他の誰にもないがしろにされるのは許さないし、他の誰にも自分以上に大事にしてはいけないのだ。
「ちょっと聞かれました奥さん。綾波さんところの奥さんってなんて強欲なのかしら。信じられます〜?」
レイが、隣のマナを催促するように肘でつついた。
「えぇもう聞きましたとも、渚さんの奥さん。こんなふしだらな人が知り合いにいたなんて恥ずかしくってもう表を歩けませんわ」
「私も薄々は感じてたんですけど、まさかここまでとはねぇ」
ヒカリまでが口調をあわせる。
冗談ではない。愛していると言ってもらいたいことがそんなにいけないことなのか。アスカには納得がいかない。だって、夫婦なのだ。それがあって何がいけないのか。それに、プロポーズはシンジの方からしてもらったのだ。そうであれば、
「だいいち、お父さんが私に惚れて結婚したんだから、惚れた弱みってのもあるって思うでしょ」
「!?」
「!」
「?」
「何なのよぅ」
三人は顔を見合わせ、もう一度アスカを見て、再び顔を見合わせた。
吹き出してしまいそうになるのをこらえているのだろう。それがわかって、アスカは不満そうに頬をふくらませた。
プロポーズしてきたのはシンジの方だというのは本当である。「一緒に生活してほしいんだ」という素敵な言葉だったのだ。それで、なんで笑うのか。
「アスカ忘れたの? 中学二年生の時、初めての席替えの時の事よ……」
マナは、その時のことを明瞭に思い出したらしく、それっきり笑いだしてしまって言葉が続かない様子だ。
「兄さんの隣に、たしか、木下さんが来たってはなしよね?」
「アスカは、碇君から遠く離れることになって……」
レイもヒカリもそれっきり何も言えなくなった。
ヒカリもレイも、中学二年生の時はアスカやシンジとはクラスが違ったから噂に聞いただけである。しかし、その時の状況は目に浮かぶようなのである。
この時アスカは、シンジの隣となる机にしがみ付いて泣きわめいたのである。「シンジの隣でなきゃイヤだ!」シンジの隣に他の女が来ることなど彼女には許せないことだった。全くとりつくシマなどない。クラス中は目を丸くするばかりだった。木下さんは、担任の了解を得るという段取りはちゃんとふんでアスカに席を譲ることになる。この事件が、アスカはシンジの隣でなくてはならないという不文律を作り上げてしまった。以後、都合二回の席替えもポジションが変わることなく二年生のあいだじゅうアスカは何の疑いもなくシンジの隣に居続けることになる。これをして、なんで“シンジの方に惚れた弱み”があるのか。弱みあるとすれば、それこそアスカの方にこそである。そのことは、これまでのことでイヤというほど感じてきたはずなのに。それでも“夫に弱みがある”と、昂然と言えるからおかしいのである。
「そんなこと知らないわよっ!」
アスカも、忘れていたことだったが俄かに思い出したらしい。しかし、記憶にないと突っ張った。「でもさぁ。言ってくれないんなら、シンちゃんって浮気してるんじゃないの」
ようやく笑いが収まって、マナはトウモロコシをかじってから爆弾発言をした。
「そんなこと言って、もう騙されないんだから!」
アスカは、マナの挑発には乗らないぞという態度をした。
以前アスカは、シンジが浮気をしたのではないかと勘違いをしてひと騒動をおこしたことがある。その時に真っ先に誤解を解くことができたのがマナなのだが、いたずら心がでてそれをしなかったのだ。アスカは、まだそのことをネに持っていた。
とはいえ、三年も前のこの事件を覚えているというだけでも充分に惚気である。
「兄さんがそういうこと言えないのなんて、結婚前どころか、出会った時にだってわかってたでしょう」
「それでも、いつか言ってくれるって思うじゃないのさ」
アスカの意見はもっともである。それに、これまで一度も言ってくれたことがないとすれば、アスカには拷問のようであったのかも知れない。
「男に言うこときかせようっていうんなら、お口でしてあげればいいのよ。結構疲れちゃうし、何度も使える手じゃないけどさ」
再びのマナの爆弾発言に、ヒカリもレイも顔を真っ赤にし、硬直しかけた。
その中で、アスカだけがきょとんとしていた。
「くち?」
アスカは、箸の代わりに人差し指をくわえた。マナの言いたいことの意味が伝わっていなかったようだが、はからずもそれを模している。
「何よ。アスカってしたことないの。旦那さんのあれをさ、お口で気持ちよくしてあげるんだって」
「それって、フェ、」
と言ったきり、アスカは真っ赤になってしゃがんでしまった。
なんで、結婚して何年もするのに、こんなヴァージンのような反応のができるのだろう。ヒカリは、不思議になるのと同時にアスカのことを羨ましくさえ思えた。彼女のことを古くから知らなかったら、絶対にカマトトぶっているとしか思えないような反応である。
アスカは、自分で言いかけたとたん、自分が夫にそれをしているヴィジュアルが脳裏をかすめ、一瞬、思考が停止してしまった。その口振りからすれば、マナは経験者のようである。あれは成人雑誌やビデオの世界だけのことだと思っていた。よもやそれが、一般の夫婦で行われているとは思いもよらなかったのである。今度、機会があったらチャレンジしてみようとも思ったが、夫に軽蔑されないだろうかとそんな心配までしていた。
「だいたいさ、夜の生活で主導権とってるくせに、なんでそれくらいの言うことをきかせられないのかわかんないのよね」
三度マナの爆弾発言だが、今度は見当違いのようだった。
「……」
アスカは、さらに押し黙ってしまった。
「それは、見当違いなのよ……」
はからずも綾波夫妻の夜の生活を知ってしまっていたヒカリが、おそるおそる手を挙げるように進言した。これは、アスカとシンジを古くから知っている者にこそ意外なのだが、夜の生活の主導権は現在シンジにある。つきあいはじめた頃は、想像どおりアスカが主導権を持っていた。経緯はいろいろあったが、形勢が逆転したのは結婚してからである。このことは、レイですら知らなかったことである。
「意外だなぁ。まぁ、昼と夜で夫婦の力関係がひっくり返るのは珍しくはないかなぁ。ね、ヒカリ」
「何よそれぇ」
マナは、からかいの矛先を今度はヒカリに向けた。
ヒカリは、さらに顔を真っ赤にした。
「人のことばっかでさ。マナこそどうなのよ。妊娠しちゃってできないからって、欲求が溜まってんじゃないの?」
レイが、マナを攻撃する。
とりあえず平静を保っていたマナが、今度は赤面する番だった。
「あ〜。妊娠してるのに、安定期だってんで励んでんでショ! 妊婦相手にするのって、男の人って大変らしいのに」
「レイこそ、なんでそんなこと知ってんのよ」女は三人よれば姦しい。
それが四人もいるのだからうるさくってあたりまえであった。*
バーベキューのネタもなくなり、それぞれがたいして強くもないのに缶ビールを二本ずつも空けた頃であった。
アルコールの所為で、開放的になってしまっているのか、服が汚れることも気にしないで、四人とも芝生の上に寝転がっていた。
と、その時、
アスカの胸のポケットの携帯電話が鳴った。
誰から来たのか確認すると、夫からである。
「うるさいろ。ひとのことをつまともおもってないくせに、でんわなんかしてるるな!」
アスカのろれつが回ってない。
そして、着信拒否をした。さらに庭の隅の方に投げてしまった。
「あ〜あ。しんちゃんかわいそうに。あすかにじゅうだいなようじがあったかもよ」
マナも同じくろれつはさっぱりだ。
おなかのこともあり、寝転がっていた方が楽なのか、そんなことを言う割りにはアスカの方を見てもいなかった。
「ダメよアスカ。旦那さんなら、なおさらちゃんとしなくちゃ」
ヒカリは、それでもちゃんとしていた。この中で一番アルコールに強いということもあるが、元来のきまじめさであろう。携帯電話を拾ってくると、アスカの頭を軽くこづいてから掌に無理矢理握らせた。もう、まるで母娘の関係のようである。
「いたいわねぇ。いいのよ。そうだ。ね、マナ、これからずっとわかいことうわきしにいこう」
「ひゃひゃ、にんぷにうわきをすすめるかい。ふつー」
アスカは、ヒカリを無視するようにマナにとんでもない提案をする。マナも、半ば以上意味がわかってないかも知れない。ゆっくりと立ち上がると、アスカの手を引っ張った。本当に逆ナンパでもされに行くつもりなのだろうか。
再び、シンジからの携帯電話が鳴る。
「うるさいろ。これから、うわいしに……」
アスカは、スイッチを押して携帯電話に回らないろれつのまま叫びつけた。
“あ、母さん? 僕だよ”
シンジは、アスカの言葉をまるで無視するように話し始めた。
「わたしは、えみやたかしのおかあさんだけど、しんじのツマをするのはやめるんだから」
アスカは、怒り爆発とばかりに叫んだ。
“そんな悲しいこと言わないでよ。愛してるんだから”
「!」
アスカは自分の耳を疑った。酔いは一気に醒めていた。そして、いっしゅん身震いしてからもう一度言えと携帯電話に叫んだ。
“愛してるよ”
「おと、シンジ……」
“愛してるよ”
携帯電話から、アスカの待ち望んだ言葉が何度も何度も、まるで呪文のように聞こえてくる。アスカは、なんだか泣きたくなってきた。愛していると口で伝えることが一番幸せだというのは解っていたが、やっぱりこうやって伝えてもらうことも幸せだと思った。
アスカは、こぼれる涙も気にならなかった。もうこのあふれ出す感情を口にせずにはいられなかった。
「わたしも、わたしも貴方のこと愛してるわ!」
世界中の人間に宣言するようにアスカは叫んだ。*
「自分で提案した罰ゲームをやるなんてさ」
シンジは、苦笑するふりをした。アスカの“愛してる”の連呼の所為で携帯電話の電源が切れずにいたからだ。
「せやから、シンジんところの場合は罰にならんてゆうたんや。こんなの、うちが一番不利にきまっとるやないかい。不公平や!」
トウジが、顔に掌を当てて嘆いた。
麻雀で一番負けた者には、シンジの提案した妻帯者らしい罰ゲームがあった。
電話で妻に“愛してる”としか言えないのだ。その上で、相手にも同じことを言わせないといけないというものだった。
「確かに、この場合シンジ君ところが一番有利だねぇ」
カヲルが、掌を叩く。
「なに言ってんだか。俺たちも麻雀もダシにされたっていうか惚気られたって事じゃないか。な、シンジ?」
ケンスケはシンジの肩に肘をかけた。
「なんやとう。そういうことか、シンジ!」
トウジは、シンジにヘッドロックをかけると、拳で頭をぐりぐりとやった。
「万年カップルの倦怠期解消に、男の友情を利用するかね。フツー」
ケンスケは、肩をすくめてみせた。
周りの人間は逆だというかも知れないが、惚れた弱みは自分にあるとシンジは思う。今でも思い出す、中学生の時の席替えの時、どんなにアスカに感謝しただろう。本当は自分がそれをしたかったのだ。
シンジは、トウジのヘッドロックから脱出すると、もう一度受話器に向かって叫んだ。
「アスカ。愛してるよ」
あとがき
お騒がせシンジ君ということで……。
この、万年恋人気分の夫婦にも困ったモノです。
「やってられないわ!」
と悪態をつきたくもなりますが、たぶん二人が夫婦になったらこんなふうだろうなと私の想像力を駆使して書きました。
まぁ、似たもの夫婦っていうことで。
hikaruさんかららぶらぶなアスシン夫婦モノの新作をいただきました。
なんつうか‥‥真面目につきあっているのが嫌になるくらい熱いですな(笑)
幸せな二人はとても良いのですなぜなら辛いことがあったから綺麗な世界を見せてあげたいというものではないですかまた(以下略)
なかなか良いお話でありました。読後ぜひhikaruさんに感想メールをお願いします。