岐れ道 アスカ編

    作者:でらさん















    西暦二〇六二年 第三新東京市 赤木クリニック 特別病棟・・


    高級ホテルの一室を思わせる豪奢な部屋で独りベッドに伏す惣流アスカ(六一歳)は、自分の命が残り僅
    かであることを自覚していた。
    入院以来、この国はおろか世界にも名を知られる高名な医師がアスカの担当となってはいるが、彼は多く
    を語らず、また周囲の気遣いも尋常なものではない。
    懸命の治療にもかかわらず、目に見えて衰えゆく体。
    入院前、四〇代にも見られた面影は、すでにない。豊かだったブロンドは頭皮が透けて見えるまで抜け落ち、
    歳に似合わない色気すら感じられた顔には、目も当てられぬ深い皺が刻まれている。まるで、八〇過ぎの
    老婆のよう。
    物心付いてからこのかた容姿には自信を持っていたアスカも、今では鏡を見る気すら起きない。
    突然の体の不調から、旧い知り合いが経営するこの病院を訪れて、まだ一ヶ月。体調は良くなるどころか、
    悪化の一途。しかも、日ごとに悪くなっていく。


    「今日は、誰も来ないか」


    か細い声で呟くも、彼女に応える人間は、この部屋に一人としていない。
    一〇畳ほどもある広い室内には、見舞いの贈り物が所狭しと積み上げられていて、見舞客の多さを物語る。
    しかし、そのほとんどは、アスカが経営する会社か取引先の関係者の物。他には、数人の友人のみ。親類
    関係は、一つもない。
    アスカには、近い親類がいない。天涯孤独の身同士で結婚した両親は二〇年も前に事故で死亡し、アスカ
    には兄妹もいない。両親の血縁を調べれば遠縁くらい見つかるかもしれないが、今のアスカにそんな時間は
    ない。第一、無意味だ。


    「遺言状を書いたから、アタシは用済みというわけね」


    昨日アスカは、顧問弁護士立ち会いの下で遺言状をしたためている。
    アスカが学生時代に設立した生化学会社。それは今、大企業と呼ばれるまでの規模に発展し、オーナー社長
    であるアスカは資産家で世に知られている。そのため、アスカが突然入院したときは、かなりの騒ぎとなった。
    会社は後継を巡ってゴタゴタし、アスカの周囲は巨額の資産をどうするかでもめていた。これといった親類の
    いないアスカが誰に遺産を相続させるかで、会社の経営体制も変わってくる。アスカの関係者ほとんどが、
    金と権力に取り憑かれたように醜い争いを繰り広げていた。アスカ自身を心配していたのは、中学以来の
    友人、二人だけといえる。


    「なんで、こんな人間になったのかしら、アタシは・・・」


    半世紀も昔、中学生の頃、自分の未来は明るく輝き、希望に満ちていた。
    年頃になれば、何もかも兼ね備えた完璧な男性と巡り逢い、ドラマのような恋をして結婚し、理想的な家庭を築
    いて幸せに暮らす・・・
    そうなるはずだと、アスカは確信していた。
    独系アメリカ人の父と日独ハーフの母との間に産まれ、誰からも褒めそやされる容姿。そして、活発な性格と
    優秀な成績をもアスカは手にしていた。
    こんな完璧な女を放っておく男など、いるはずもない。絵に描いたような完璧な男性との出会いが自分の未来に
    待っている。
    当時のアスカは、そのような過剰なまでの自信に満ちていた。
    事実、彼女は、年上年下を問わない人気者で、交際の申し込みは引きも切らない状態。自信を持つなと言う
    方が無理であったろう。
    そんな彼女にも、失恋の経験がある。
    相手は、彼女が通っていた第壱中の若い男性教諭、加持リョウジ。
    だが所詮は憧れの域を出ず、あれこれ嫌なところが目に付くようになり、その想いは一過性の病気の如く消え
    去っていった。以来、恋という恋をアスカは経験していない。高校時代、大学時代と、誘ってくる男は星の数ほ
    どいたけども、理想には程遠いとアスカは全て拒絶。会社を設立してからは仕事に精力を傾けたこともあり、
    そんな余裕すらなかった。


    「子供を産むどころか男も知らずに死ぬなんて、我ながら情けないわ」


    同年代の友人達や知り合いは次々と結婚し、子を産み、育て、今では孫のいる友人も多い。
    これまでは虚勢を張り、そのような生き方を否定していた。
    夫や子供など、自分の人生にとって邪魔なだけだと。
    しかし死を間近にした今になると、見栄も虚勢も愚かしいだけ。彼女達が羨ましいと、はっきり言える。


    「あの人にも、もう孫がいるのかしら・・」


    アスカは、思考すら鈍ってくる頭に意識を集中させ、中学時代に離れ離れとなった幼馴染みの顔を思い出す。
    名は、碇シンジ。
    隣家の一人息子で、歳も同じ。幼い頃から一緒に遊び、中学まで共に学んだ。中学に進学するまでは、自分は
    彼と結婚するのだと思っていたほど親しかった。
    ところが、アスカが加持に対する想いを口にするようになった頃から関係がギクシャクしだして、その内にほとん
    ど口も訊かなくなってしまった。
    そして三年に進級する少し前、彼は親の急な転勤で第二新東京市へと引っ越していき、音信は途絶。一〇年ほ
    ど後に、遠い親戚の女性と結婚したと風の噂に聞いたのが最後。一度も会っていない。


    「あの人と結婚してたら、アタシの人生も違ってたかな」


    今思えば、自分が本当に好きだったのは加持ではなく、シンジだった。
    心優しい彼は、いつでも自分の傍にいた。
    傍にいすぎて、それが当たり前になり、自分の気持ちすら分からなくなっていた。
    自分は、完璧な男性を求めるあまり、求愛を拒み続けたのではない。ただ、シンジの面影を求めていただけ・・
    その事実に気付いたのは、つい最近。落ち着いて過去を振り返ってみて、初めて気付いた。
    シンジが引っ越していったあの日。
    呼び止めて少しだけでも話をしていれば、音信が途絶えることはなかったかもしれない。うまくすれば、シンジを
    自分の家へ下宿させて第三新東京市に残すことが可能だったかも・・
    いや、両親と碇夫妻の付き合いを考えれば、それで話はまとまったはずだ。
    だが当時の自分は、シンジより友人達とのショッピングを優先した。
    老いたアスカの心に、後悔の念が沸々と沸き上がってくる。


    「ふふ、何を今更」


    そうだ。
    この期に及んで何を言おうと嘆こうと、時間は戻らない。
    死ぬ間際に半世紀も前の想いを再確認したからと言って、何も変わらない。変えられない。


    「そうよ。
    何も、何も変わらないのに・・
    シ・ン・・・ジ」


    両親の死でも流れなかった涙が、皺枯れたアスカの頬を伝って毛布を濡らす。
    そして暫く泣いたアスカは泣き疲れたように眠りにつき、二度と目を覚ますことはなかった。











    西暦二〇一六年 三月末 第三新東京市・・


    「・・・?」


    いつものようにいつもの時間に目を覚ましたアスカは、頬と目に違和感を感じた。
    頬に手をやったアスカは、それが涙だと理解し、首を捻る。


    「変な夢でも見たのかしら・・
    全然、覚えてないけど」


    起きがけではっきりしない頭では、何を考えても無駄。そう判断したアスカは、とにかく洗面所へ向かうことにした。
    嫌な夢でも見たのだろうが、涙を流すほどの嫌な夢なら思い出さない方がいいに決まっている。
    朝食を終えた頃にアスカの考えはそのように固まり、涙のことはなるべく考えないようにしていた。
    今日は、友人の洞木ヒカリと霧島マナを引き連れてのショッピング。前から楽しみにしていて、小遣いも節約して
    貯め込んでいるくらい。
    ヒカリは、付き合い始めたばかりの同級生、鈴原トウジとデートでもしたかったようであるが、春休みはまだあるし、
    デートなどいつでもできると強引に決めてしまったのだ。


    「今日は、ティーン向けの特売日なのよ。
    前から狙ってたワンピース。手に入れるチャンスを失うわけにはいかないわ」


    アスカは、とあるショッピングセンターのショーケースに飾られたそのワンピースがお気に入りだった。
    ただ値が張り、中学生にはとても手が出ない金額。それが今日は、ティーン向けの衣類を在庫処分するとかで全品
    半額以下の特売価格。物によっては、八割から九割引となるらしい。こんなチャンス、そうはない。


    「さ〜て、行きますか。
    ・・・ん?」


    と、一通りの準備を終えて玄関を出たアスカが目にしたのは、隣家の前の道路に止まった、テレビでよく見る引っ越し
    専門の運送会社のトラック。揃いの制服を着た人間数人と隣家の家人が、忙しそうに動き回っている。
    家人は、アスカのよく知る人物達。碇ゲンドウと妻のユイ。そして、息子のシンジ。
    引っ越しのようだが、アスカは聞いていない。アスカの両親とゲンドウ夫妻は仲が良く、引っ越しなら事前に話があ
    るはず。よほど急な事情と思われる。


    (挨拶くらい、しといた方がいいかな・・
    でも、時間ないな)


    アスカは、左腕に嵌めた腕時計で時間を確認。すぐに出れば、ショッピングセンターの開店時間前に着き、余裕で
    買い物ができそう。ヒカリやマナとも、そのように約束した。
    だが声をかけて挨拶すると話し好きのユイにつかまり、長引きそうだ。最近はシンジと縁遠くなってしまったし、話を
    するのも、なんか気まずい。
    そして、考えていても仕方ないとアスカが碇宅から遠ざかろうとしたとき・・・


    「あ・・」


    何かがアスカを押しとどめた。
    何かは、アスカにも分からない。
    そしてアスカの目は、取り憑かれたように働くシンジへ向く。
    次に、左腕に嵌めた腕時計を、アスカは目の前に掲げた。
    それは、一二歳の誕生日プレゼントとしてシンジから贈られた物。今となっては玩具みたいな代物で、バンドのサイ
    ズも調整の限界にきているが、アスカはずっとこれを使っている。


    『大人になったら、もっといい時計を贈るよ』


    あの時、シンジは恥ずかしそうに言った。
    そのシンジの頬に、アスカはお礼のキス。
    キスした方もされた方も、顔を真っ赤にして・・

    臆面もなく、シンジに好きだと言っていた自分。
    彼と結婚すると疑わなかった自分。
    シンジはいつも照れるばかりで、はっきりしなかったけど、アスカが苛められたときには、相手がどんな大人数でも
    一人で立ち向かっていった。
    そんな彼が、アスカは好きだった。


    (アタシはバカだ。
    浮ついて、調子に乗って、一番大切な人を忘れてたなんて)


    小学校では、日本人離れしたその容姿のせいで苛められることが多かったアスカも、中学に進学してからは、周り
    の態度がガラリと変わった。
    何かと突っかかってきていた男子達はアスカの機嫌を取るようになり、敵視の視線を向けていた女子達は、媚びる
    ような態度すら見せる。
    予想外の展開に当初は戸惑ったアスカは、慣れると共にそれを受け容れて当然視するようになり、自信を深めて
    いった。
    それと相反するように、シンジの存在は薄くなっていく。
    常に一緒だった登下校は別々になり、電話やメールのやり取りも次第に減っていき、半年もすると完全に途絶えた。
    関係の冷却化を決定づけたのは、アスカが加持への想いをシンジに告げたとき。それ以降は、顔を合わせても挨拶
    すらしない仲にまで関係は薄れていた。
    加持への想いが消えた後も状況は変わらず、アスカはシンジを単なる幼馴染みとして、意識の外に置いていた。
    そのような自分でも、全ての責があるとは言わない。シンジは、自分を繋ぎ止める努力もしなかったのだから。
    でも、関係を元に戻せるのは今しかない。このチャンスを逃したら、自分は一生後悔する。そう思える。


    「シンジ!」


    久しぶりに彼の名を発した後、アスカの体は、彼に向かって激しく動き出していた。













    「・・・ここは?」


    何かに体を揺すられて目を覚ましたアスカは、一瞬、自分の置かれた状況を理解できかねる様子だった。
    五歳くらいの見知らぬ幼子が、自分を見上げている。
    薄茶色の髪の毛を、肩より少し長目に伸ばした女の子。髪の毛にクセはなく、瞳も完全な黒でなくて、薄茶色。
    肌は白くて、顔つきも、どことなく自分に似ている。
    自分はといえば、どこかの家のサンルームでロッキングチェアに腰掛け、編み棒を手にして何かを編んでいる
    最中。外を見れば、木々の葉は枯れ、空気も冷たそうだ。季節は冬。しかも日は陰り、空は薄赤く染まっている。


    「どうしたの?ママ」


    ママ?
    自分は、子供を産んだ覚えなど・・
    アスカの思考は、ここで一時の中断を余儀なくされる。
    別の記憶が奔流のようにアスカの頭へ流れ込み、覆い尽くしたからだ。

    そう・・
    この子は、ミライ。
    自分とシンジの子。
    高校在学中に身籠もり、卒業間際に産んだ、生まれながらのトラブルメーカー。
    そして、すでに父親べったりのファザコン娘・・・愛しい娘。
    自分は今日、家族三人の揃いのマフラーを編んでいる最中、うたた寝してしまったのだ。どうも、変な夢のおか
    げで記憶が混乱している。
    老いて過去を悔い、涙を流して死んだ後に中学時代へ戻って人生をやり直すなど、ドラマでもそうはない。
    学生時代に読んだ中国の古典に、似たような話があったと思うが。


    「パパ、おしごと早くおわったから、これからかえるって。
    ごはんの用意しないの?ママ」


    「あら、大変。つい、うとうとしちゃったわ。急がなきゃ。
    ミライは、何が食べたい?」


    「パパとおなじのがいい!」


    「それはダメよ」


    「なんで?」


    「大人と子供は、別なの。
    イカの塩辛なんて、ミライには、まだ早いのよ」


    愛しい我が子と交わすたわいのない会話が、アスカの頭から忌まわしい幻影を瞬く間に消し去っていく。
    仕事一途で結婚もせずに年老いた自分が、死の淵で過去を思いながら涙を流すなど、現実であるはずがない。
    事実、自分は今、愛する夫と娘に囲まれて幸せに暮らしている。
    名声などなく、莫大な富とも無縁の生活。
    だが、自分は幸せだ。


    「ただいま〜」


    「あっ!パパだ!
    おかえり、パパ〜!」


    「こら、ミライ!ママが先よ!」


    玄関へ駆けてゆく娘を追い、アスカも編み棒を放り出して玄関へ向かう。
    結婚してから、アスカは夫の出迎えを欠かしたことはない。


    「おいおい、どうしたんだよ、今日は」


    玄関でいきなり妻に飛びつかれたシンジは、普段より激しい愛情表現に戸惑い気味。
    普段は優しく抱きしめてくれるのだが、今日は体がドアにぶつかるほどの勢いで飛びつかれた。足には、娘の
    ミライがアスカを真似るようにじゃれついている。


    「いつものことじゃない。
    それより、随分早かったのね。ミライに電話してから、いくらも経ってないんじゃないの?」


    「びっくりさせようと思ってね。家の前で電話したんだ。
    だけど、僕の方がびっくりしたよ」


    「この程度で驚くなんて、愛が醒めたのかしら?」


    「まさか。
    僕を疑うのかい?」


    「なら、証拠を見せて」


    「おやすい御用さ」


    シンジは靴も脱がぬままアスカを抱き寄せ、優しくキス。
    目の前で両親のキスシーンを見上げるミライはというと・・


    「ママ、ずる〜い。
    ミライにも、ちゅ〜して、パパ!」


    アスカに対する嫉妬しか頭にないようだ。

    何気ない決断が人生を左右することもある。
    富と名声を手に入れたものの、孤独の内に人生を終えたアスカ。
    そして、シンジと心を通わせて結婚し、家族愛に幸せを見出したアスカ。
    どちらが本当の現実なのか・・・
    それは、誰にも分からない。
    ただアスカにとって、今この瞬間が信じられる現実であることは、確かだろう。




    でらさんから短篇作品をいただきました。

    時は戻らないもの…果たしてシンジとの生活は、真実だったのでしょうか。

    シンジのいない生活の虚しさを、一瞬だけ垣間見たということかもしれませんね。

    やはりアスカにはシンジが一番だと思います。

    素敵なお話でした。是非読み終えた後にはでらさんへの感想メールをお願いします。

    寄贈インデックスにもどる

    烏賊のホウムにもどる