質の悪い冗談と思いたかったミサトだが、それは十数分後に現実となった。
とはいえ、意識的にそうしたのかどうかは別にして、ミサトと同乗者のシンジは、命を長ら
えている。
つまりは、”避けた”ということだろう。
その代償は大きかったが。
ミサトには、ネルフという組織が分からなくなってきた。
碇シンジを迎えに行ったあの日、ネルフへの帰途の最中、自分とシンジは、使徒を狙った
N2爆弾の爆風に車ごと吹き飛ばされている。
奇跡的に二人とも怪我はなく、ネルフへは無事に着いた。
が、愛車は大破。やっと探し当てた希少車なので、とりあえず修理には出したが、業者に
よると完全に直るかどうかは分からないとのこと。見積もりも、相当な額だ。
ネルフは、公用車に困っているわけではない。特務機関という組織的性格から、普通の
役所以上に数を揃えてある。数だけではなく、性能もそれなりの車ばかり。公務にプライ
ベート車両を使う必要などないのだ。
あの日も、ミサトは当然、公用車で出るつもりだった。
そのミサトに、司令のゲンドウは意味不明な命令を下した。
『公用車の使用は認めない』
それで、この有様。どこに怒りを持っていけばいいのか分からない。
総務にねじ込んで修理費は出させるつもりだが、大切な愛車を壊してしまったのだ。憤懣
やるかたない。
不満なのは、それだけではない。
招集されたシンジは、戦闘に関してずぶの素人、いや、それ以下。普通の中学生でしか
ない。
そんな彼を、地元の中学に通わせながら訓練を施すという悠長なことを平気で行う。現場
を預かる立場から言わせて貰えば、学校に通わせるより訓練に集中させて欲しい。素人を
使えるようにするまで、どれほどの時間と手間がかかるのか、上は分かっていない。危機
感という物がまるで感じられない。初陣の勝利は、初号機の暴走に助けられただけなのに。
エヴァ零号機を駆るファーストチルドレン、綾波レイの扱いも微妙だ。
ゲンドウが引き連れて歩いていることが多いことからして、何らかの特別な立場に在ると
は思うのだが、その割には廃棄寸前のマンションに独り暮らし。私生活は放任に近く、公
的にネルフが世話をしている様子はなかった。実態を知ったミサトが驚き、自分の権限で
女子寮へ転居させた。ついでに、ガード兼任のハウスキーパーも付けている。
一方、ドイツ支部で一〇年前から養成されているセカンドチルドレンと乗機の弐号機を早
急に招集しようとの動きもなかった。シンジと違い、長年の訓練で、もはや職業軍人ともい
える彼女をすぐに招聘しない理由はないのに。
彼女が最初からいたら、これまでの戦闘は楽に推移したはず。損害とて、少なく済んだろう。
その彼女も暫くして招集が決定し、異動の日程も発表され、洋上輸送で、今日やっとご到
着。国連軍太平洋艦隊の紐付きではあるが。
エヴァには専用の輸送機があり、その気になれば一日で事は足りる。こんなご大層な護衛
も時間も必要ない。やることなすこと、どこかずれている。本当に人類の危機かと疑いたく
なるくらいだ。
「疑問を持つな、葛城。
世の中ってのは、こういうもんだ。
全てが、常識や効率で動くわけじゃない。不条理も必要なんだよ、世の中にはな」
太平洋艦隊旗艦、オーバー・ザ・レインボーの艦上で、ミサトの旧い馴染み、加持リョウジは
言った。
どこまでも蒼い空と潮風が、ここが軍艦であることを暫し忘れさせてくれる。
彼はセカンドチルドレンの保護者代理として同道しており、ミサトと数年ぶりの再会を果たし
ている。
加持としては、まだミサトへの思い募る身であるからして、色々と期待していた。昔の恋人関
係に戻るきっかけでも掴めないかと思っていたのだ。
しかし、公務を終えて二人きりになった途端、ミサトは愚痴の連発。そんな期待は雲散霧消
した。
これはこれで、悪くない雰囲気だが。
「物事には、程度ってものがあるわ」
「考えてもみろ。
今、俺達は、一四才の子供に頼らざるを得ない異常な状況の中にいるんだ。
エヴァ、使徒、MAGI、S2機関、ゼーレ、人類補完計画。
どれ一つ取ってもまともじゃない。多少の不条理なんて、可愛いもんさ」
「多少ね・・・
まあ、何が起こっても驚かないようにはなったのは確かだけど。
今ここで使徒が現れたって、驚かないわよ、私」
と、その時、ミサトの言葉に反応するかのように、何か巨大な物同士が衝突したような激突音
と僅かな衝撃が体に伝わってくる。
そして、響き渡る警報と急を告げる艦内放送が非常事態の勃発を示していた。
ほぼ間違いなく、使徒の来襲だろう。ここで来るということは、水棲型かもしれない。
セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーは今、弐号機が格納されている輸送艦にシンジ
と一緒のはず。彼に自慢の弐号機を見せたいとか言っていたし。
舞台も役者も、全て揃っている。これで二人が弐号機に同乗して使徒を殲滅したとしたら、出
来すぎ。
それとも、これもまた、大人の事情というやつだろうか。
これから戦闘が始まるというのに、ミサトは、自分でも困るほど落ち着いていた。
「全く、律儀だこと。
で、あんたは、どうするわけ?」
「とんずらさ。
世を達観した凄腕スパイは、レアアイテムを持って颯爽と去るんだよ。
粋な演出だろ?」
「誰の演出よ。
敵前逃亡が粋?どうかしてるわね、この世界の演出家は」
「そう言うなよ。俺も役者の一人に過ぎん。
じゃ、俺は行くぜ」
走り去る加持を見送ったミサトは、薄ぼんやりと見えてきた世界の構図に、げんなりする。
ここは、異常な世界。セカンドインパクト前の普通の生活が懐かしい。
あの頃、自分は普通の中学生で、戦争も軍隊も別世界の存在だった。それが今は、当事者
の一人。人の命を預かる身でもある。
「考えても仕方ないか。
仕事しよ、仕事」
ミサトは、疑問をとりあえず棚に上げ、仕事に傾注することにした。
適当にやっても死なない気はするが、演出家が気まぐれを起こさないとも限らない。
それに、必死に戦う周りの兵士達にも悪いと思う。なんだかんだ言ったところで、これは戦争
なのだから。
打ち続く不条理と、それに抵抗するミサト。
これまでの展開を簡単に説明すると、こうなる。
第三新東京市目指して侵攻してくる使徒の撃退、殲滅は、概ね順調。細かいことを別にすれ
ば問題はない。
逆に言えば、細かい問題は尽きないということ。特に作戦上の細々とした問題は、数多い。
私生活にも、それはある。
ある作戦上の都合で同居することになったアスカは、作戦終了後もズルズルと同居を続け、
今では退去のたの字もない。シンジとは同輩となるが、思春期の男女が家族でもないのに
広くもない家屋に同居するなど、問題がある。事実、ミサトは総務へ幾度もアスカの部屋の
手配を督促したけども、なしのつぶて。その内、ミサトが根負けして諦めてしまった。
シンジとの同居は、単純に仕事上の都合だった。人付き合いの苦手なシンジと手っ取り早く
馴染むためにと思ってのこと。ずぼらな女を演じるため、敢えて部屋を散らかしたりもしてい
る。その努力の甲斐あってか、シンジとのコミュニケーションは順調に発展していた。
そして、そろそろ頃合いと、シンジをネルフの寮へ移す算段をしていたとき、アスカが転がり
込んでいる。思春期の二人が織りなす恋愛模様を傍で視るのは愉しいものだが、ミサトは本
来、独り暮らしを好む人間。三人での生活は、何かと疲れる。
それに最近、アスカとシンジの様子がおかしい。一線を越えた可能性がある。推測通りなら、
危惧していた事態というわけだ。両者共に薬学的な対策は講じられているが、一〇〇%安全
というわけではない。もし、何かの間違いでアスカが妊娠してシンクロ不可能になった場合・・・
まさに大人の事情で、ミサトは存在を消されるだろう。
トップのゲンドウは時たま無茶な命令を出したりするが、シンジが言うことを聞かなかったり、
タイミングよくエヴァが暴走したりして、有耶無耶になることが多い。つい先日の戦闘でも、精
神攻撃を受ける弐号機を助けるため、シンジはゲンドウの制止を振り切って出撃。弐号機と
アスカを救っている。
それでも、シンジに対する処分はない。それどころか、ゲンドウの機嫌が目に見えていい。息
子の成長に目を細める父親といった風情。最近はアスカとも会話するそうだし、普通の家族
というものに目覚めたようだ。
「と、いうわけで、単刀直入に聞くわ。
シンジ君とは、どうなってるの?アスカ」
ミサトは、リビングでくつろぐアスカを前に、思い切って言った。
日曜日の今日、シンジは一人だけネルフに呼ばれていて、自分は非番。アスカと二人きりに
なる数少ない機会を利用し、事の真相を確認しておこうと思ったのだ。
使徒戦は、もうすぐ終わると副司令の冬月から聞いている。
最後の最後で失敗しないためにも、使徒戦責任者として、不確定要素はなるべく排除してお
きたいミサトであった。
そんなミサトの気持ちを知ってか知らずか、アスカは、昨晩の余韻を引きずるかのような気怠
い返事。
丸みを帯びた体つきの変化からも、彼女に何があったか分かる。
「どうって?」
「ベッドインしたかどうかってこと。
今更、倫理とかは問わないから安心して」
「ミサトが思ってる通りよ。
それが、どうかした?」
「・・・・」
顔を赤くするではなく、どもることもなく、普通に答えるアスカにミサトは、暫し声を失った。
まだ子供らしさを残してくれていると思ったのだが、甘かったようだ。
でも、言うべき事は言わないと。
「言いにくいんだけど、暫く控えてもらえないかしら」
「暫くって、どのくらい?」
「使徒戦が終わるまでよ。
リツコによると、あと二体らしいから、そんなに長くならないと思うけど」
「アタシ達、若いのよ。
たとえ短期間でも、我慢できると思うの?」
「それでも、我慢してもらうわよ。人類の危機を凌ぐために。
凌ぎきったら、好きなだけしていいから」
「そこまで言うなら、努力するわ。
あくまで、努力だけど」
「た、頼むわ」
高をくくったようなアスカの表情から努力すら怪しいのは確実だったが、ここで無理強いし
て精神に負担をかけるのは尚更拙い。エヴァのコントロールは、精神状態が大きく作用す
る。よって、音便に頼むしかない。
シンジの説得は、加持に頼んではいる。
が、あまり期待はしていない。
加持は、戦闘中にスイカ畑で水まきをしていて、友軍の戦自から猛烈な抗議を受けたこと
もある男だ。ミサトが平謝りして事は収まったが、加持曰く、
『俺だって、いつ流れ弾が飛んでくるかと、ビクビクもんだっんだぜ。
戦自の兵達には白い目で視られるし、司令の命令でなきゃ、あんなことするもんか』
とのこと。
どうやら、大人の事情らしい。
その事情をシンジが知っているならともかく、恐らく知るまい。そのシンジが、加持の言うこ
とを素直に聞くとは思えない。近頃のシンジは、アスカの影響からか自己主張も強いし。
ミサトは、まだ名も知らぬ使徒に土下座したいくらいだ。
”早く来てください”・・・と。
使徒戦は、あっさり終わってしまった。
人型を模した最後の使徒は自らの意思で何処へと消え、使徒戦は、その時点で終わりを
告げた。
それから数日後、ネルフ本部は人類補完計画の廃棄を主張して上位組織の委員会へ反
旗を翻した。
結局は人間同士の戦いかと、ネルフ職員達も覚悟を決めていたその時、事態は急変。ネ
ルフ本部への直接侵攻のため、委員会が国連へ上げたネルフ糾弾決議が反対多数で否
決されてしまったのだ。いかに委員会でも、国連決議なしに命令を下すことは出来ない。
委員会が傀儡として使っていた国連は、秘密裏に動いたネルフ本部の多数派工作に籠絡
されていたのである。
手足を封じられた委員会は量産型エヴァを使った直接攻撃も検討したが、S2機関を始めと
する新装備に身を固めた零号機、初号機、弐号機に勝利する見込みがないと判断。自ら敗
北を認め、ネルフ本部の軍門に下って、政治闘争は終わった。ネルフ本部の完全勝利である。
「死者もほとんどない、完璧で理想的な勝利ね」
「不断不屈の精神で困難に挑んだ、職員全員の努力の賜さ。
俺も、そこそこ働いたんだぜ」
ジオフロント全体を展望できるラウンジで、ミサトと加持は感慨に耽っている。意外なほどソ
フトランディングした現状は、夢のようだ。
一歩間違えれば、ここが血の海に沈んだ可能性もある。そう考えると、感慨もひとしお。
「でもそれだけじゃ、説明つかない気がするわ。
やっぱり、大人の事情ってやつじゃないの?
誰かがどこかで全てコントロールしてて、必死で生きるあたし達眺めて笑ってるんだわ。
仏陀の掌で足掻く孫悟空ってところね」
「それならそれでいいじゃない。
アタシ達には、好都合だったわ」
不意の声にミサトが体ごと後ろを向くと、レモンイエローのワンピースを着たアスカ。そして、
短パンにシャツのシンジが、揃って立っていた。
一年前より、二人とも確実に成長している。女のボディに成長しすぎたアスカは、ワンピース
のサイズを直すのに苦労したようだが。
特に胸の辺りが窮屈そう。
「アスカ・・・
シンジ君も」
「僕も、そう思います。
不幸のどん底に堕とされるくらいなら、コントロールされた幸せの方がいいですよ」
「シンジ君の言う通りだぜ、ミサト。
深く考えるな。考えるだけ、無駄だ」
「じゃ、ミサト。
アタシ達は、これから好きにさせてもらうから」
「好きにって・・・
あんた達、何を」
「やだ、ミサト。約束忘れたの?
使徒戦が終わったら、好きなだけしていいって言ったじゃない」
「いや、あれは、言葉の綾って言うか」
「約束は約束でしょ。
大人の事情なんて言い訳、聞かないわよ」
アスカはミサトの言い分など聞かず、正論で圧してくる。
ミサトとしては、あれを約束として認識していない。ただの、よくある大袈裟な表現の一つ。
あれを本気にする人間がいるはずはない、普通は。
だが、普通でない人間がここにいた。まさに天才というか、お馬鹿というか・・・
とにかく、呆れるしかない。
「とりあえず、三日は帰って来ないで。
分かったわね?」
唖然としたまま頷いたミサトは、不条理は形を変えて続いていると実感し、手を繋いで愉し
そうに歩き去る若いバカップルの背を見送るのだった。
でらさんから短編「大人の事情」をいただきました。
確かにツッコミどころがいろいろあるかもしれないですねえ。本編の展開には
ゲンドウはアニメ監督か何かかと思ってしまいそうなくらいの。(笑
なかなか興味深くて鋭どくって楽しい話でした。
ぜひでらさんに感想メールを出して、読後の気持ちを伝えることにしましょう。