魔法の鏡 

    明日香と眞二の場合 前編
    作者:でらさん














    碇眞二の朝は、喧噪と共に始まる。
    喧噪の主は眞二本人ではなく、隣の惣流家一人娘、惣流明日香その人。


    「碇眞二君、速やかに起きなさい!君は、完全に包囲されている!
    一〇数える間に起きない場合、遺憾ながら突入を開始する!」


    それほど大声でないにもかかわらず、明日香の声は部屋の隅々にまで響き渡る。
    部屋だけではない。ダイニングキッチンで朝食を摂る碇夫妻の頭にも刺激となって伝わるくらい。惣流夫妻
    とは長い付き合いで、明日香を自分の娘のように可愛がっているこの二人でも、この声だけは苦手だ。舞
    台女優にでもなれば、大成しそうではあるが。


    「変わらんな、明日香君も」


    「そうですか?
    微妙に変わってますわよ、あの娘は」


    父の源藤は、味噌汁を啜りながら妻の言葉を心中で咀嚼してみるが、明日香のどこがどう変わったか、まる
    で分からない。外見は確かに美しく成長したものの、内面がどう変化したのかまでは分からない。女にしか
    分からない機微なのだろうかと思う。
    恒例となった明日香の行為がいつの頃から始まったのか、源藤はよく覚えていない。中学に上がった辺りか
    らのような気もするし、もう少し後だったかも・・・
    惣流夫妻とは、明日香と眞二が産まれる前から友達付き合いをしていたせいで、二人の子供達は両家で育
    てたようなものだった。明日香は碇家を自分の家のように出入りし、眞二もまた、惣流家を自分の家と同じ感
    覚で出入りしていた。
    二人の関係が幼馴染みから恋人へステップアップしてもそれは変わらず、いやむしろ、両家の親密さは増し
    ていたかもしれない。子供達の結婚が数年後の現実となることは、ほぼ決定している。そうなれば、両家は
    文字通り血族となるのだから。


    「・・・?」


    源藤は、何の前触れも無しにピタッと止まった明日香の声に怪訝な表情。
    唯は、夫の異変に素早く反応した。


    「気が付きませんでした?最近は、いつもこうですよ。
    ひとしきり騒いだと思ったら急に静かになって、三〇分くらいしないと部屋から出てこないんだから、二人とも」


    言葉の意味を瞬時に理解した源藤は、手にした茶碗を思わず落としそうになった。
    今時の若い連中に綺麗な付き合いをしろと言っても無駄なのは分かっているし、野暮を言うつもりもない。しか
    し親の面前とも言える距離、しかも早朝からなど、流石に一言言いたくなる。
    源藤は、口にしたご飯を茶と一緒に呑み込み、一息ついてから唯に言った。


    「い、いつからなんだ。二人がその・・・
    朝からそんなことをするようになったのは」


    「半年くらい前かしらね」


    「お前な、気付いた時点で注意くらいしたらどうなんだ。
    いくらなんでも、度が過ぎるぞ」


    「半年も気付かない、あなたもあなたです。
    家庭に目を向けてない証拠じゃありません?」


    「う・・
    そ、そうは言ってもだな」


    唯の逆攻勢に、源藤の口は巧く動いてくれない。心当たりは、色々とあるようだ。
    ところが唯は、源藤をそれ以上追いつめない。夫のことは、誰よりも知っている。


    「同じ職場にいるんですから、分かってますよ。
    あなたが不器用だってこともね」


    「君には、かなわんよ」


    妻の笑顔には、いつも助けられる。
    源藤は、今夜にでも眞二に注意を喚起しようと思い直し、食事を再開するのだった。






    西暦二〇〇二年に将来の首都として建設が始められた第三新東京市は、二〇一三年に全ての施工が完了
    した。しかし、政治的思惑や諸事情が重なり、首都移転は無期限延期となっている。
    代わりと言っては何だが国連機関が数多く誘致され、中でも総合科学研究所ネルフは、一際目立つ存在。ネ
    ルフの創設が決まった時点で、日本政府は新首都の目玉として注目。第三新東京市の計画段階から誘致の
    話は進み、着工と同時に誘致が決定。二〇〇三年に早くも施設の建設が始まっていた。
    誘致の経緯は、それだけでも一つのドラマとして成り立つほど複雑で、政府、国連、各大学、外国諸国の思惑
    が入り乱れ、混乱した。
    その混乱は、S2理論提唱者として名高い葛城博士の登場で収束に向かい始め、博士の名の下に事態は収
    拾。その影響からか、ネルフには日本人スタッフがかなりの割合で入所することになった。
    眞二の両親と明日香の両親も、ネルフで働く学者達。いずれも葛城博士に師事した優秀な学者として知られ
    ており、現在は、S2機関の実用化に向けて精力的な研究を続行中・・・
    というのは、表向きの話。現実は、にわかには信じがたい事態が進行している。


    「こんな物が、本当に役に立つのか?
    ミサイルのいい標的ではないのかね?」


    官僚然とした壮年の白人男性は、隣に立つ惣流クラウスに気のない言葉を投げつけた。二人の他には誰もい
    ない広大な空間に、やや高めの声が吸い込まれていく。
    男性より頭半分ほど高い身長とがっしりした体つきのクラウスは、侮蔑にも聞こえるその言葉に、暫し反応を
    見せなかった。
    暫くしてクラウスは、身を包む白衣のポケットから煙草の箱を取り出し、更にそこから一本取り出して口にくわ
    えた。火は付けない。ここは禁煙、規則は承知しているクラウスである。


    「進化し続ける最新鋭のミサイルは、確かに脅威です。
    ですが、これは現在の軍事常識が通じる代物ではありません。資料は、ご覧になったはず。
    事務総長は、ご自分の目を信用なさらないので?」


    「例の、ATフィールドとかいうやつか。
    私には、異星人の襲来の方が現実的に思えるよ」


    事務総長と呼ばれた男、オーギュスト・ヴァレンタインは、目の前にそびえる悪魔のような鋼鉄の塊をあらため
    て見て、自分の常識と葛藤していた。
    それは、大まかにいえば人間の頭部を模している。更に言うなら、古代の甲冑に似ている。
    ただ問題は、その大きさ。頭部本体だけで、高さ一〇メートルほどはありそう。額から突き出た角のような突起
    物を入れれば、二〇メートルはありそうだ。その巨大な物体は今、LCLと呼ばれる特殊な液体に首まで浸かった
    状態。頭の下に在る本体の巨大さが窺い知れる。
    事務総長の持つ常識では、人型を模したこんな巨大な人工物が縦横無尽に動き回るなどあり得ないし、現在の
    人類が創りだしたこととて信じられない。二足歩行ロボットが世に出たのは、そんなに昔のことではない。その上、
    あらゆる物理的干渉を退けるATフィールドなる防護障壁の存在など、この男にとってはSF以上ではない。秘密
    裏に観た稼働試験のデモ映像は、予算獲得のための偽装工作と本気で思ったものだ。核と同等の破壊力を持
    つN2爆弾を直撃させても傷一つ付かない映像を信じろという方が無理だろう。


    「私には、閣下がなされようとしていることも、相当に現実離れしているように思いますが」


    クラウスは、皮肉のつもりで国連のトップに立つ男に言い放った。
    クラウスにしてみれば、この男が秘密裏に進めている計画の方がよほど非現実的。地球上に存在する全国家
    の軍を国連が管理するなど、正気の沙汰ではない。


    「世界中の軍を国連が管理すれば、少なくとも大規模戦争は避けられる。余計な軍事費をかけなくて済むでは
    ないか。貧困対策や環境対策に、より多くの予算を廻せるようになるのだ。私個人の理想を押し進めているわ
    けではない」


    「アメリカと組むのが、最善かつ一番の近道ではなかったのですか?
    なぜ、大した通常戦力も政治力もない日本を引き込んだのです?」


    「アメリカは、国連を通してではなく、アメリカとして世界を統合する道を選ぶだろう。我々は障害物に過ぎんよ。
    それに、日本は昔から国連重視の姿勢で一貫していた。例の事件の後、憲法を改正して国連の軍事的オプ
    ションへ積極的に参加しているし、戦力の増強も著しいではないか。
    日本に駐留するアメリカ軍が問題と言えるかもしれんがな」


    例の事件とは、二〇〇一年に起こった、核によるテロである。
    ロシアで行方不明となった戦術核兵器が闇ルートを転々とした末、とあるテロ組織の手に渡り、その組織が恫
    喝の手段として日本近海の公海上で使用。幸いにも洋上であり、小型の核でもあったために被害の度合いは
    それほどではなかった。使用したテロリストにも、一欠片の情はあったようである。
    が、もし首都圏で躊躇なしに使用されていたら、日本のあらゆる物と人が集中する場所だけに、被害は際限な
    い広がりを見せたと思われる。前世紀末に収束した遷都問題が、再び脚光を浴びた契機であった。
    また、こと軍事に関しては及び腰の姿勢が目立った日本を変えてもいる。それに警戒する声が国内に多いの
    も、また事実ではあるが。


    「とはいえ、さる方面からの助言があったのは、事実だ」


    国連事務総長が口を濁すほどの人物、組織は限られる。クラウスにも、心当たりはある。
    故葛城博士を強力にスポンサードしていた人物、ドイツの富豪、キール・ローレンツ卿が得体の知れない組織
    と繋がっているとの話は、学者仲間の間で暗黙の了解事項だった。ネルフも、その組織の肝いりで設立された
    との噂がある。また、エヴァの素体の基となった生体組織。その出所は不明とされているが、ローレンツ卿から
    提供されたとの説が有力だ。
    どれも噂の範疇を超える物ではなく、真相を知るものはいない。
    しかし、ローレンツ卿が普通の紳士でないことは確かだろう。そして、彼が属するという組織も。


    「助言・・・ですか」


    「そうだ。助言だ」


    自分自身に言い聞かせようとする事務総長に、クラウスは同情も納得もしなかった。
    世界の軍を統合して安定的な平和を確立するという途方もない理想を掲げるこの男は、理想実現のために禁
    断の実を手にしてしまった。
    アダムとイブは禁断の実を口にした結果、知恵を身につけたが、永遠の楽園を追放された。
    ならば、この男はどんな報いを受けるのだろうか。


    (我々も同罪か。積極的に荷担しているのだからな)


    クラウスは、知っていた。自分達が、高尚な理想に迎合して協力しているのでないことに。
    ただ知りたいのだ。E計画の産物、エヴァンゲリオン初号機が計算通りの能力を発揮するかどうかを。S2機関実
    用化を隠れ蓑として建造されたこれが性能を充分に発揮すれば、この男の理想は、ほぼ間違いなく現実のもの
    となる。核もN2も効かず、事実上無限の動力を持ち、計算上は大陸すら消滅させるほどの武器を持つこれは、
    まさに最終兵器。世界中の軍が総力を挙げたとて、殲滅するのは不可能。これが完成の暁には、世界は国連の
    下に統合されるだろう。そして、その後は・・・
    クラウスの思考は、そこから先へ進まなかった。起動試験開始を予告する館内放送が、彼の意識を仕事に戻した
    からだ。今日の実験は、かなり重要なものになる。エヴァの出力を可能な限り上げる最高出力試験も含まれてい
    るのだから。
    理論的には、時空間を揺るがすエネルギーを絞り出すことも可能とされているS2機関。それを動力源とするエヴァ
    のコントロールに穴があってはならないし、万が一暴走したとき、確実かつ速やかに機能を停止させなければなら
    ない。そして、限界性能を知る必要もある。


    「さ、行きましょう、閣下。実験が始まりますので」













    何年ぶりかで父の説教を聞いた眞二は、釈然としないながらも、表向き納得したふりをして父に頭を下げ、自分の
    部屋へと戻った。脱力してベッドに体を投げ出すと、スプリングが淫猥な音で眞二を歓迎する。
    嫌な音だった軋み音が、今は性行為を想起させるようになった。シーツからは、洗濯でも消せない明日香の匂いが
    香ってくる。今朝も、自分を起こしに来た明日香とここで・・・
    声と音は抑えたつもりだが、両親に気付かれてしまった。
    いや、二人とも夢中になっていて気付かなかっただけかもしれない。父の気むずかしい顔を思い出すと、そう思える。
    数年前なら意味のない意地を張って父と喧嘩しただろうけども、今はそれなりの分別を知った人間のつもり。建て前
    と本音を使い分ける術も、ある程度は知っている。
    明日香との関係は長いし、体を合わせることを覚えてからも結構経つ。昨日今日の話ではない。父とて、全てを知っ
    た上で許してくれていると思っていた。


    「でも、やっぱ拙いか」


    落ち着いて考えてみれば、状況的に拙いかもしれない。自分が親になり、年頃になった息子か娘が早朝から行為に
    及んでいたとしたらどうだろうか。


    「・・・怒るよな」


    それが普通だと、眞二は考えに至る。
    そして眞二の思考は、まだ見ぬ自分の子供達へと向かった。


    「僕と明日香の子供か・・
    女の子は明日香似だよな、絶対。僕に似たら、微妙になりそうだもんな。
    名前は、なんて付けようかな。明日香とも相談しなきゃならないし」


    将来の幸せを妄想しつつ、眞二の意識は混濁していった。




    毛布もかけないで寝てしまった眞二は、夜半も過ぎた頃、尿意で目が覚めた。
    眞二は、すっきりしない頭で、寝間着に着替えるのが先かトイレに行くのが先かと数瞬迷ったあと、とにかく尿意を
    解消しようとトイレに。
    そしてトイレで用を済ませた眞二は、洗面所で手を洗って、備え付けのタオルで手を拭きながら、ふと鏡を見る。


    「?」


    言いようのない違和感に襲われたシンジは、鏡の中を見通すように凝視した。
    鏡に映る自分が、どうも自分ではないように感じる。見慣れた顔とは微妙に違う。光の加減かと思い、洗面所の灯
    りを消したり点けたりしたものの、違和感は消えない。
    と、眠っていた頭が働き始めた途端に原因が分かった。鏡の中の自分は、寝間着を着ている。自分は、部屋着の
    ままだ。


    「なんだ、これは」


    <な、なんだよ、これ>


    どこから聞こえてくるのか不明だが、確かに鏡の中の自分が声を発した。
    眞二は、その不思議よりもまず、鏡の中の自分に対する憤りを抑えきれなかった。彼は滑稽なほどに狼狽え、言葉
    もままならない。察するに、今の自分の状況がそっくりそのまま鏡の向こうでも繰り広げられているようだ。向こうの
    自分は、あり得ない現象に遭遇して動揺するだけ。情けないかぎり。
    自分の姿形をしているだけに、余計怒りがこみ上げてくる。


    「もう少し、シャキっとできないのかよ。呆れたやつだな」


    <き、君は、なんでそんなに落ち着いていられるんだ>


    「目の前で自分が狼狽えてるのを見たら、なんか醒めちゃったよ」


    よくよく見れば、向こうの自分は微妙に違う。髪の毛は僅かに短いし、顔も全体的に細め。体重は自分より軽いと
    思われる。決定的な違いは、自信のなさそうな態度、全身から発せられる倦怠感とでも言おうか。言葉遣いも、ど
    こか変。


    「君は、碇眞二だろ?違うと言われても、困るけど」


    <シンジだよ。
    ここは、ミサトさんのマンションで>


    「美里さん?葛城美里先生?
    お前、葛城先生と同棲してるのか?」


    眞二の知る葛城美里は、中学時代の担任教師。軽くウェーブのかかった髪の毛とメリハリの利いたボディ、そして
    モデルのように整ったマスクが男子生徒の人気を集めていた。外見に反した豪放な性格も、人気の一因であった
    ように思う。中学を卒業してからは、面識がない。長年付き合っていた恋人と結婚したと、風の噂に聞いたくらいだ。


    <そんなわけないだろ。
    色々あって、二年も前から三人で暮らしてるんだ>


    「三人て・・
    お前と葛城先生と、もう一人は?」


    <アスカさ。惣流・アスカ・ラングレー。
    君は、知らないのか?>


    「惣流明日香なら知ってる。僕の幼馴染みで、彼女だ」


    <彼女!?>


    向こうの自分は、心底驚いている。明日香と付き合っているのが、余程意外なようだ。
    これが現実であれ幻覚であれ夢であれ、鏡の中の自分にはイライラさせられる。生理的に受け付けないタイプだ。
    自分と同じ顔であることが許せない。眞二は我慢ならなくなり、鏡の中の自分を一瞥。一言付け加えて寝ることに
    した。


    「その性格、なんとかした方がいいぞ。
    ま、幻覚になに言っても仕方ないけどさ」


    鏡は、光を反射するだけ。それ以上でも以下でもない。
    とすれば、これは幻覚に過ぎない。なぜこのような幻覚を見るかは、分からないが。
    超常現象の類を否定する立場を取る眞二は、はっきりと割り切り、まだ動揺を見せている鏡の中の自分を再度
    確認して、灯りを消してから洗面所を後にした。






    翌日 夜半 碇宅・・


    今朝、いつものように眞二を起こしに行った明日香ではあるが、眞二は早くも起きていて、着替えまで終わってい
    た。場の空気を読む術に長けた明日香は様子の変化を敏感に察し、眞二の頬へ軽く唇を付け、源藤と唯に”行っ
    てきます”と、明るく爽やかな挨拶。そして、眞二と共に学校へ向かった。
    その道すがら眞二に事情を聞くと、昨日の朝の一件で源藤に説教されたという。
    そもそも、ある日の朝、いつものように彼を起こしに行ったら、眞二が強引に迫ってきたのがきっかけだった。
    当初明日香は、雰囲気も何もなく、ただ欲望をぶつけ合うだけの行為に気が進まなかった。源藤達がいない時
    はいいが、いるときは声など出せないし、僅かな物音にさえ気を遣う。いくら眞二が好きでも気乗りのしない行為
    で、後始末などもあって時間も気になる。眞二はともかく、明日香には快感も何もない慌ただしいだけの行為だっ
    たのだ。
    だが、その感覚は次第に麻痺していき、明日香は愉しむコツのようなものをいつの間にか覚えていた。
    起こしに行く時間を早めにしたり、替えの下着を用意していったり、そんな工夫までして秘密の行為を愉しむよう
    になっていた。
    関係そのものは、付き合い始めてすぐだったから、かなり長くなる。女の快感がどういうものかも知っている。ちょっ
    とした刺激が欲しくなっていたのかもしれない。あらためて考えてみると、かなり恥ずかしいことをしていたと気付
    くのだが。


    「でも、そのお説教は、全くの無駄だったってわけね」


    「無駄ってことはないだろ?今は、夜じゃないか。
    それに」


    「アタシ達の他には、誰もいない」


    「そういうこと」


    二人は今、同じベッドの上。互いの両親がネルフに泊まりとなったため、誰にも遠慮することなく同衾している。
    親達は定時で帰宅していたのだが、ネルフで何かあったらしく、せっかく用意した夕食も摂らずに慌ただしく家を
    出ていった。その様子から、明日香と眞二はただ事でない事態を予想はしたものの、自分達に何ができるという
    ものでもない。それに、親が不在となれば、自然と二人きりの状況が出来上がる。明日は休日だし、今夜は気兼
    ねなく愉しめると二人の意見は一致。明日香が幾らのタイムラグもなしに碇宅を訪問。熱い滾りを体の内に抱え
    る若い恋人達に、休息の時間はあまりないようだ。
    そして数時間後、欲望をはき出した二人は眠気が迫ってきたことに気付き、風呂で体を綺麗にしてベッドも整え、
    あとは寝るだけとなった。
    と、眞二がリモコンで部屋の灯りを消そうとしたそのとき、明日香が僅かな衣擦れと共にベッドから降りてドアに向
    かった。寝る前にトイレに行っておこうというのだろう。
    エチケットというものを心得ている眞二は、敢えて口にせず、ただリモコンを枕元へ戻してベッドで待つことにした。
    が、眞二は、ふと前夜のことを思い出した。鏡の中の自分と会話した幻覚のことを。
    眞二の心に、ちょっとした悪戯心が首をもたげた。


    「ああ、明日香」


    「なに?」


    「洗面所の鏡なんだけどさ」


    「鏡が、どうかした?」


    「えっと・・・」


    振り向いた明日香の顔を見たシンジは、彼女をからかってみようと思った自分が急に恥ずかしくなった。小学生
    ならともかく、高校生にもなり、結婚も視野に入れた男がくだらない遊びに興じるのは愚かとしか思えない。大体、
    夜の墓地へ一人で放り出されても全く平静さを失わない明日香に、こんな脅し文句が効くはずもない。


    「なによ、気になるわね」


    「ちょ、ちょっと、汚れてるかもしれなくて。
    さっき、手を洗ってたら、くしゃみしちゃってさ」


    「いいわ。汚れてたら、アタシが拭いておくから」


    「悪いね、頼むよ」


    返事の代わりに僅かに綻ばせた明日香の顔は、喩えようもないほど美しい。










    「なんだ、綺麗じゃん」


    どの程度の汚れかと変な期待をしていた明日香は、鏡を見た途端に気が抜けた。
    鏡には、一点の曇りもない・・・
    とまでいかないものの、眞二の言っていたような汚れはない。綺麗好きな唯の管理する家らしく、よく磨かれてい
    る。よく磨いてあるので、映りもいい。ちょっとした顔のシミなども映ってしまう。
    明日香は手を拭いた後、顔の隅、顎の角辺りに僅かなシミを見つけ、顔を鏡に近づけて確認する。白人系が四分
    の三を占める遺伝子のせいか、明日香の肌は白い。白い故に、極小さなシミでも気になる。他の同年代の女の子
    達と違い明日香は化粧にあまり興味はなかったのだが、眞二と関係を持つようになってからは、かなり気を遣うよ
    うになった。眞二の前では、可能な限り長く綺麗でいたいと思うのだ。
    ・・・と、明日香の片方の眉がセンサーのようにピクンと跳ね上がり、反応を示した。


    「なんなのよ、これ」


    シミを指でなぞろうとした明日香が鏡の自分に違和感を感じてマジマジと眺めたところ、一つの決定的な違いを
    見つけた。
    着ている寝間着が違う。
    明日香が着ているのは、寝間着というよりネグリジェと呼ぶもので、眞二と一緒の時でしか着ない。というか、親
    の前では間違っても着ることの出来ない代物。色といいデザインといい、普通の女子高生が着るものではない。
    ところが鏡の中の自分は、無地のパジャマ。薄いピンクが、子供らしさを演出している。普段、家で着ている寝間
    着に似てはいるものの、微妙にデザインが違う。


    「幻覚にしては、出来すぎね。
    どういうこと?」


    <アタシが聞きたいわ。
    アンタ、誰よ>


    いずこともなく聞こえてくる声は、明日香の時間を暫し停滞させた。違う自分を映す鏡。その上、鏡の中の自分が
    喋っている。普通なら超常の現象に戸惑い、恐怖をも抱くだろう。
    しかし、明日香は慌てることもなく冷静に現状を振り返る。


    (鏡は、光を反射するだけ。鏡の世界なんてないし、異世界への扉でもない。
    幻覚に違いないわ。疲れてんのかしら、アタシ)


    幻覚と断じた明日香ではあるが、自分との会話に興味を持った。こんな経験は、滅多にできるものではない。端
    から見れば、鏡に向かって独り言をブツブツと呟く危ない人間だろうとは思う。思うけども、好奇心に負けた。


    「アタシは、惣流明日香。アンタは?」


    <惣流・アスカ・ラングレーよ。
    アンタ、なんでラングレーがないのよ>


    「そんなの知らないわよ。
    アタシは、日本で生まれて日本で育ったから当然でしょ」


    <日本で生まれた?なに、バカ言ってんの。アタシは、アメリカ生まれドイツ育ちよ。
    ひょっとしてアンタ、英語とかドイツ語とか、全くダメなんて言うんじゃないでしょうね>


    「英語は会話程度。ドイツ語なんて、全く知らないわ」


    <アタシと同じ顔なのに、なんて無能なの>


    幻覚の割に、言葉の一つ一つが癇に障る。自分の嫌な面を凝縮して見せつけられている感じ。まだ眞二と付き
    合う前、中学の二年生くらいまでは、確かにこんな性格だった。まさに唯我独尊で、周りの全てを敵に回しても
    自分は生きていけるとの自信に満ちていた。今思うと、恥ずかしい以外の言葉がない。
    けども自分は、碇夫妻と両親の愛、眞二の優しさに救われた。鏡の中からがなり立てる自分は、救われずにそ
    のまま成長した自分なのかもしれない。もし平行宇宙が実在して、そんな世界があったとしたら、その世界の自
    分はどんな人生を送るのだろうか。おそらく、幸の多い人生ではないだろう。くだらない男に引っかかり、転落し
    ていく姿が目に浮かぶ。
    そう思ったら、怒りはたちまち消え失せていった。むしろ、幻覚の自分が哀れにさえ思えてくる。

    鏡に映る自分を、よくよく眺めてみると、見慣れた自分の姿との僅かな違いが目に付いた。
    赤みが抜けつつある金髪は同じだが、頭には、何か変な形をした赤い髪留めが二つ。自分が普段付けている
    リボンではない。デザインは前衛的で、あまりいい趣味とは思えない。自分だったら、まず付けないだろう。
    顔つきは、やや細め。しかも、自分にはない厳しさが見て取れる。体つきも全体的に固い感じがして、鍛えられ
    たアスリートのようだ。胸のふくらみは、明らかに自分より小さい。相手が幻覚と分かっていても、明日香は優越
    する気持ちを抑えることができなかった。


    「幻覚になに言われたって、腹も立たないわ。
    明日は眞二とデートだから、もう寝るわね。サヨナラ、幻覚さん」


    <ちょっと、待ちなさい!>


    「なによ。しつこい幻覚ね」


    <シ、シンジとデートって、どういうことよ>


    「言ったとおりの意味よ。
    彼とデートするのが、そんなにおかしい?」


    <シンジが、彼?>


    眞二と付き合っていると聞いて意外なようだが、不快な様子は見受けられない。さしずめ向こうの自分達は、友
    達以上恋人未満といった感じの関係だろうか。
    なら、これを聞いて彼女はどう思うかと、明日香はダメを押した。


    「それだけじゃないわ。将来の旦那様よ。
    将来って言っても、すぐ先だけど」


    <ウソ・・
    じゃあアンタ、もうシンジと>


    「済ませてるわよ、とっくの昔に。今日も、これから眞二の横でぐっすり眠るの。
    じゃあね」


    幻覚にしては設定がやけに緻密だと思いながら、明日香は洗面所の灯りを消した。お遊びも、ここまで。これ以上
    続けると、本当におかしくなりそうだ。
    そして明日香の去った後、鏡の面が水面のように揺らぎ、暫く続いたそれは、やがて完全に静止。鏡は、本来の
    役目に戻っていた。







    でらさんからパラレルワールドもののお話をいただきました。
    シンジアスカの世界と、眞二明日香の世界ですね。
    本編世界の子たちは学園世界?の子から見ると微妙な性能みたいですね(^^;;

    次回はシンジアスカの側の反応と、むこう側から見た眞二明日香の像でしょうか。

    是非、読後にはでらさんへの感想メールをお願いします。

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